歴史を理解することは、人間を理解すること。ヒストリー(歴史)とストーリー(物語)は、もとは同じ言葉でした。中国の伝統的な「紀伝体」の歴史書も、個々人の伝記を中心とした文学作品でした。
本講座では、日本にも大きな影響を残した中国史上の人物をとりあげ、運や縁といった個人の一回性の生きざまと、社会学的な法則や理論など普遍的な見地の両面から、人生を紹介します。豊富な図像を使い、予備知識のないかたにもわかりやすく解説します。(講師・記)
昭襄王 秦を最強国とした始皇帝の曾祖父 前325-前251
昭襄王とは
昭襄王(B.C.325〜B.C.251)は戦国時代の秦の王で、昭王とも呼ばれ、秦の始皇帝の曽祖父に当たります。 昭襄王から下に系図をたどれば、昭襄王→孝文王→荘襄王(始皇帝の父・子楚)→秦王政・のちの始皇帝(B.C.259〜B.C.210)となります。
昭襄王は積極的な領土拡大策を採り、白起将軍が東の諸国や南の楚などを次々に打ち破り、昭襄王の期待に見事に応えました。 また昭襄王の母の弟で宰相の魏冄(ぎぜん)が権力を拡大するのを押さえるために笵雎(はんしょ)を重んじ、彼が有能であることがわかると魏冄を追放しました。 やがて白起は笵雎と反目、昭襄王の出陣命令も拒むようになると、王は白起に自害を命じ、この常勝将軍を自刎に追いやりました。 昭襄王の領土拡大策は後の始皇帝による天下統一のお膳立てとなりました。
韓信 漢の天才軍略家の屈辱と栄光の人生 前231-前196
かん‐しん【韓信】
中国、前漢の武将。淮陰(わいいん)の人。 張良、蕭何とともに漢の三傑といわれる。高祖に従い、蕭何の推薦で大将となり、趙・魏・燕・斉を滅ぼし、項羽を攻撃して大功をあげる。漢の統一後、斉王から楚王になったが、淮陰侯に左遷され、呂后(りょこう)によって殺された。前一九六年没。
韓信 (かんしん) Hán Xìn 生没年:?-前196
中国,漢の高祖劉邦の功臣。淮陰(わいいん)(江蘇省淮陰市南)の人。 無名のころは,家が貧しくて寄食暮しをしていたが常に大剣を帯び,それを臆病者と侮辱されてもよく耐えて若者の股の下をくぐった逸話がある。 秦末の反乱がおこると楚の項羽に従ったが重用されず,去って高祖に従い,蕭何(しようか)の推挙で大将に任命された。 楚・漢の戦いでは,漢の別動隊として趙から燕,斉の地を平定して斉王に封ぜられ,楚・漢と並んで天下を三分する優位に立ったが,高祖に対する忠誠をまもり,項羽を追いつめて漢を勝利に導いた。 しかし高祖は天下を平定すると,彼に協力した異姓の諸王の存在に強い不安を抱いた。 中でもおそれたのは韓信の実力であった。そのため韓信はまず斉王から楚王にうつされ,翌年(前201)には謀反の疑いで捕らえられたのち淮陰侯に格下げされ,ついには呂后に謀られて殺され,三族ことごとく滅ぼされた。 高祖に捕らえられて〈狡兎(こうと)死して良狗(りようく)烹(に)らる〉といったのは有名な故事である。
執筆者:永田 英正
韓信 かんしん (?―前196)
中国、漢の高祖劉邦(りゅうほう)の功臣。軍略にたけた武将。淮陰(わいいん)(江蘇(こうそ)省)の貧家に生まれ、母親の葬儀も出せなかった。 ある日城下で釣りをしていたとき、近くで洗い物をしていた老女が彼の飢えを見かねて食を与え、そのまま寄食すること数十日。いつの日かこの恩に報いるといったところ、自分で食えずにいて何が報恩だと叱(しか)り飛ばされた。 また、町なかでばかにされながらも一時の恥を忍んで無頼者の股(また)の下をくぐったという。 これらの若いころの逸話は、いずれも彼の大志あるをうかがわせるものである。 秦(しん)末の乱に際し、初め項羽(こうう)陣営に属したが、不遇を不満として劉邦に仕えようとした。その際危うく斬(き)られそうになったが、重臣夏侯嬰(かこうえい)にみいだされて救われ、 さらに丞相(じょうしょう)蕭何(しょうか)の推薦でやがて大将となり、項羽討滅の策を次々と献じ、劉邦をして、もっと早くこの男を幕下に入れたかったといわしめた。 紀元前206年、項羽の都彭城(ほうじょう)を襲った劉邦が危機に陥るやそれを救い、ついで趙(ちょう)、斉(せい)の地を攻略して黄河下流一帯を確保し、漢を優勢たらしめ、斉王に封ぜられた。 漢の天下統一が達成されると、異姓の諸王を廃除しようとする劉邦の政策にあい、また、陛下はせいぜい10万の兵の将だが、自分は多々ますます弁ず(多ければ多いほどよい)と豪語した有能さが災いし、しだいに悲劇的な晩年になってゆく。 楚(そ)王に移され、次には反逆の疑いで淮陰侯に落とされ、前196年、呂后(りょこう)の謀計にかかって捕らわれ、一族もろとも滅ぼされた。
[春日井明]
漂母は洗濯婆(ばば)のことで、韓信が漂浪時代に食を乞こうたという、支那の故事から引用している。 しかし蕪村一流の技法によって、これを全く自己流の表現に用いている。即ち蕪村は、ここで裏長屋の女房を指しているのである。 それを故意に漂母と言ったのは、一つはユーモラスのためであるが、一つは暗にその長屋住いで、蕪村が平常世話になってる、隣家の女房を意味するのだろう。
侘しい路地裏の長屋住い。家々の軒先には、台所のガラクタ道具が並べてある。そこへ霰(あられ)が降って来たので、隣家の鍋にガラガラ鳴って当るのである。
この素裸なクーリーの体格を眺めたとき、余はふと漢楚軍談を思い出した。 昔韓信に股を潜(くぐ)らした豪傑はきっとこんな連中に違いない。
むかし淮陰の少年が韓信を侮り韓信をして袴下(こか)を匍伏(ほふく)せしめたことがある。 市(まち)の人は皆韓信の怯懦(きょうだ)にして負けたことを笑い、少年は勝ったと思って必ず得々としたであろう。 しかし今日は当時勝ったという少年の名を知れる者がはたしてあるか。しかして韓信の名を知らぬ者が果たしてあるか。負けて勝かつ智恵の力の強さにはたれも感心するぞ韓信
王莽 儒教を利用し漢王朝を簒奪した外戚
元帝は、宣帝の皇太子であった。母は共哀許皇后である。宣帝は身分の低いころ、民間で生まれた。 孝元皇帝は二歳のときに、宣帝が即位し、八歳で皇太子に立てられた。成長すると、性格は温和で仁慈に富み、儒学を好んだ。 彼は、宣帝が用いる人材に法律実務を重んじる官吏が多く、刑罰や法令によって臣下を厳しく取り締まり、 大臣の楊ツや盍寛饒らが、風刺的な言葉を用いたという理由で罪に問われ処刑されたのを見て、 あるとき宴席に仕えていた際、落ち着いた様子で次のように進言した。 「陛下は刑罰を用いることがあまりに厳しすぎます。 儒学者を登用なさるべきです。」 宣帝は顔色を変えて言った。 「漢王朝にはもともと独自の制度がある。 もとより王道と覇道を織り交ぜて政治を行っているのだ。 どうしてただ徳による教化だけに頼って、周王朝の政治をそのまま用いねばならぬのか。 しかも俗儒どもは時勢を理解せず、古いものを尊び今を否定する。 そのため人々を名目と実際の区別に迷わせ、何を守るべきか分からなくさせる。 どうして重い任務を任せるに足りようか。」 そしてため息をついて言った。 「わが家(漢王朝)を乱す者は、太子であろう。」
おう‐もうワウマウ【王莽】
中国、前漢末期の政治家。新の建設者。字(あざな)は巨君。哀帝没後、平帝をたて実権を掌握。のち、平帝を毒殺し、幼帝嬰を擁立。その摂政となり、やがて自ら帝位を得る。周代初期の古制の復元をめざしたが失敗。漢の劉秀(後漢の光武帝)に攻められ殺された。在位一五年。(前四五‐後二三)
王莽 おうもう (前45―後23)
中国、新(しん)朝の創建者(在位9〜23)。字(あざな)は巨君。中国史上、禅譲革命の方式を最初に現実化し、前漢から政権を奪い新を樹立し、 『周礼(しゅらい)』にみえる古文派の儒教に基づく理想社会を具現しようとしたことで知られる。 前漢第11代皇帝元帝の王皇后(元后)の弟の曼(まん)の次子。 元后の生んだ子が成帝(在位前33〜前7)として即位すると、王氏一族は外戚(がいせき)として台頭し、元后の弟7人がすべて列侯に封ぜられ、大司馬の職を順次占め、国家の軍事権を握った。 王莽は父が早死にしたため、王氏一族のなかで1人不遇であったが、やがて王氏内部の権力抗争に勝ち、成帝の末年、自らも大司馬となった。 紀元前7年、哀帝が即位すると一時下野したが、継子なく哀帝が急死するや、元后と王莽はクーデターまがいの手段で一挙に実権を握り、元帝の孫で9歳の平帝を擁立し、 王莽が国政を総覧することになった。この平帝を紀元後5年に毒殺し、自ら摂皇帝となり、以後王莽の王朝纂奪(さんだつ)の意図は本格化した。 当時、支配的な時代思潮であった、天意は瑞祥(ずいしょう)、災異、符命(ふめい)(神秘的な形態を伴って人間に示される天命)によって人間界に示されるとする讖緯(しんい)説を作為的に利用し、 ついに後9年自ら天子の位についた。
即位後王莽は、官制の改革、官名・地名の改変、土地制度の改変、貨幣制度の改革、商工業の統制など復古的な色彩を伴う諸政策を実施した 。これらは、強大化してきた在地の豪族層の大土地所有を制限し、一般の自営農民の土地亡失に伴う貧民化、流民化を防止するなど、前漢末に顕在化してきた大きな社会問題に対応しようとしたものであった。 しかし、かえって社会の混乱を増大させ、失敗に帰するものが多かった。 さらに対匈奴(きょうど)政策の失敗もあり、山東に発した農民反乱(赤眉(せきび)の乱など)と、 これに続く南陽の劉(りゅう)氏を代表とする豪族反乱によって、 23年、長安城内の未央宮(びおうきゅう)で、更始(こうし)帝軍によって刺殺された。 王莽の治世15年間は、時代錯誤の復古的社会主義政策などによって、 後世の評価はよくないが、天子七廟(びょう)制などの国家の祭祀(さいし)儀礼をはじめ、儒教理念を基本とする中国の王朝国家の理想的国家像、理想的君主像を明示したのは、 中国史上注目されるべきものである。
[春日井明]
外戚 (がいせき)
中国で皇后または皇太后の一族をいう。ことにその父や兄は,娘または妹にあたる皇后や皇太后を介して国政に容喙(ようかい)し,絶大な権勢をふるうとともに,一族郎党がその権勢を背景にして横暴をはたらくことが多い。皇帝が幼少で,皇太后が摂政になったとき,あるいは皇帝が暗愚で,皇后の力が強いとき,そのような現象がおこりやすい。漢の高祖劉邦の死後,呂(りよ)太后が若年の恵帝をさしおいて国政を動かし,呂氏一族とともに天下を奪いとろうとしたことや,唐の高宗の皇后則天武后がついに唐の国家を奪って国号を周と改めたことなどは,外戚による奪というよりも,むしろ皇后ないし皇太后自身による政変というべきだが,もとより外戚による奪の例も存在する。前漢元帝の皇后王氏の一族であった王莽(おうもう)が,漢を奪って新という国を建てた例や,北周宣帝の皇后の父楊堅が,北周を滅ぼして隋王朝を建て,隋の文帝と称されることになった例などがそれである。外戚によって国が滅ぼされる事態にまでは至らなくても,外戚が国政を乱す例は多く,たとえば後漢では,4代目の天子の和帝以後幼弱な皇帝が多かったので,皇太后が次々に摂政になり,そのたびに竇(とう)氏・ケ氏・梁氏などの外戚が国政を掌握した。しかし,皇帝は成長するにつれて,これら外戚の専横に反発し,側近の宦官(かんがん)を結集して外戚を打倒したため,今度は宦官の勢力が強くなり,後漢の宮廷は外戚と宦官の闘争の場になっていった。このような政治的混乱が後漢帝国滅亡の一因にもなったのである。また西晋では,武帝の死後,その皇后楊氏の一族と,武帝のあとをついだ恵帝の皇后賈(か)氏の一族とが覇を争い,賈氏一党が楊氏一党を誅滅して横暴をきわめることになった。賈后および賈氏一党の横暴が八王の乱を誘発する原因になり,それがやがて異民族の華北席巻を許し,西晋王朝の滅亡と漢文明の危機を招来する結果となったのである。
執筆者:川勝 義雄
禅譲放伐 (ぜんじょうほうばつ)
shàn ràng fàng fá
王朝交代の形式をいう儒教の用語。古代中国では,君主は生前に臣下の中の最も徳の高い者を後継者として指名し,平和裏に位をゆずる禅譲がとられた。 尭(ぎよう)がその子丹朱をおいて舜(しゆん)に位をゆずったのがその始まりである。 しかし,世襲制をとった夏王朝は桀(けつ)王になるとその徳がまったく衰え,殷(いん)の湯王に放逐された。 その殷王朝も紂(ちゆう)が周の武王に誅伐されて滅んだ。これが放伐の始まりである。 この理想的形態の禅譲も現実的方法としての放伐も,孟子が放伐を殷周聖王の事跡として是認して以来,ともに儒家の認めるところとなった。 しかし漢代以降,みずから皇帝となって新を開いた王莽(おうもう)が形式だけは禅譲をとったのをはじめ, 魏の文帝以下,魏晋南北朝時代には,この形式だけの禅譲が盛んに行われた。宋以後は異民族の征服王朝と漢民族の王朝との武力による闘いであったため,禅譲はすたれて放伐がもっぱらとなった。
執筆者:串田 久治
祇園精舍の鐘の声、諸行無常の響きあり。娑羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす。驕れる人も久しからず、ただ春の夜の夢のごとし。猛き者もつひにはほろびぬ、ひとへに風の前の塵に同じ。以下、桑原隲蔵「支那人の文弱と保守」https://www.aozora.gr.jp/cards/000372/files/2587_14874.html より引用。 引用開始
遠く異朝をとぶらへば、秦の趙高、漢の王莽、梁の朱异、唐の祿山、 これらは皆舊主先皇の政にもしたがはず、樂しみをきはめ、諌めをも思ひ入れず、天下の亂れん事を悟らずして、民間の愁ふるところを知らざつしかば、久しからずして、亡じにし者どもなり。
古人や先例に託すれば、支那人は容易に得心するから、この弱點を利用して、惡事をなし遂げる者が支那に多い。 西漢の末に出た王莽といふ大惡人は、漢の天下を簒奪する爲に、萬事昔の周公といふ聖人の言行を模倣する。周公は一飯に三たび哺を吐き、一沐に三たび髮を握つて、天下の士を待つたといふから、王莽も恭謙天下の士に下つた。當時の人は何れも王莽を周公の再來と信じ、四十八萬七千五百七十二人の多數の人士が上書して、王莽に特別の恩賞と待遇を加へんことを出願して居る。かくて王莽は天下の人望の己に歸するのを待つて、時の天子の平帝を毒害した。昔武王が病氣の時、周公が武王の延命を天に祷つたことが、『書經』に載せてあるので、王莽は早速その眞似をやり、自分の毒害した平帝の爲め、身を以て之に代らんことを天に祷るなどの狂言をやつて居る。『春秋』は魯の哀公の十四年を以て終つて居るから、漢も哀帝の即位後十四年目に終るべき筈など言ひ振らして、遂に樂々と漢の天下を簒ひ、代つて天子の位に即いた。王莽は引レ經文レ奸とて、一言一行經書や聖人に託して、大惡をなし遂げたのである。〔王莽はその死後に於てこそ、逆臣元凶として指彈※(「にんべん+繆のつくり」、第4水準2-1-85)辱されたけれど、その生前に引レ經文レ奸頃には、聖人君子として崇拜されたのである。唐の白樂天の、 周公恐懼流言日。王莽謙恭下レ士時。若使二當年身便死一。至レ今眞僞有レ誰知。 といふ詩は、この間の事實を詠じたものである。〕引用終了。近代以降は、王莽を儒教の国教化の完成者として再評価する意見もある。
李自成 明を滅ぼした逆賊か農民の英雄か
16世紀から19世紀まで、北半球は長く続く厳しい寒さに見舞われた。この期間は「小氷期」と呼ばれているが、その原因は何だったのだろうか。また、どのような影響があり、人々は寒さにどう適応したのか。
(中略)
農作物の不作が続くことによる恐れと不安から、ヨーロッパでは魔女裁判やユダヤ人への迫害が急増した。
さらに中国でも、食料不足によって農民の反乱が増えたことが明王朝崩壊の一因になったという見方がある。グリーンランドでスカンディナビア人の植民地が消滅したのも、気温低下に伴って海と陸の両方で氷が増加したためだろうと推測されている。
り‐じせい【李自成】
中国明末、農民反乱の指導者。駅卒から身を起こして反乱軍の首領となり、新順王と称した。一六四四年西安を占領、大順国をたてた。同年北京を包囲、明を滅ぼしたが、満州軍に敗れ湖北で殺害された。(一六〇六‐四五)
李自成 (りじせい) Lǐ Zì chéng 生没年:1606-45
中国,明末の農民反乱指導者。陝西省米脂の貧農出身。 若いころは牧童などをしたが,のち駅卒となった。しかし駅站の廃止によって失業した彼はついで兵隊となった。 おりしも1628年(崇禎1)ころ陝西地方には干ばつによる大飢饉が起こり,各地で飢餓農民の暴動が発生していた。 彼は食糧の欠配などのため不満をたかめていた兵隊を率いて反乱に加わった。 初期の反乱指導者は王嘉胤(おうかいん)であったが,彼が明軍に討たれたあと,高迎祥が反乱軍を率い,李自成はその下で隊長となり闖将(ちんしよう)と呼ばれた。 各地を転戦するうち,36年高迎祥が戦死すると,彼は闖王と称し一方の首領となったが,このころ反乱勢力は後退し,他の首領も多く明軍に下った。 しかし40年華北を襲った飢饉をついて河南に進出した彼の勢力は再び強大となり,李巌(りがん),牛金星らの読書人層の参加をえると彼らの建言を採用し,新しい政策をかかげた。 〈貴賤にかかわらず田を均しくし,三年間税を免じる〉といった経済政策,また〈殺人せず,愛財せず,姦淫せず,略奪せず〉といった厳しい軍律をとなえて民衆の支持をえたのである。
やがて41年には洛陽を占領して明の皇族福王を殺したのをはじめ,つぎつぎに大都市をも攻略し,43年には襄陽(湖北省)で新順王を称えた。 44年には西安を占領し,ここを都として大順国を建て,年号を永昌と定め,官僚制度を設けて国の体制をつくった。 そして軍隊を整えると東征軍を起こし,3月太原,大同をへて明の国都北京を攻撃した。 このとき明軍の主力は満州族との戦いで山海関にあったので,北京はたちまち陥落し,崇禎帝は自殺した。 李自成はここで官制を改め新国家の体制を建てようとしていたが,山海関にいた明将呉三桂は満州軍に投降し,その援助のもとに李自成を打ち破った。 李自成は北京をすて西安に逃れたが,のち45年(順治2)通城(湖北省)の山中で地主武装軍に殺された。 しかし彼の部下はその後も各地でゲリラ戦を展開して清軍に反抗,また明軍と結んで反清闘争を行ったものも多かった。
→張献忠
執筆者:谷口 規矩雄
「九門口長城」は明の洪武14年(1381年)から建設が始まった。もともとここは北京に通じる交通の要衝であり、水の中に平らな巨石が敷き詰められていたので「一片石」と呼ばれていた。この石の上に建てられた「水上長城」は「京東首関」と呼ばれた。
なぜこの長城だけが唯一、水上に建てられたのか。それはここの川が浅く、騎馬の軍勢が容易に侵入できるため、これを防ぎ、都を防衛する必要があったためだと言われている。 「九門口長城」には実は「秘密のトンネル」が掘られ、現在も残っている。長城の内側にある練兵場から関所を通らずに長城の外側にある山の中に出られる全長1027メートルのトンネルである。トンネル内には大小29の洞があり、食糧庫、弾薬庫、兵器庫、井戸などがあり、2000人以上の兵士が密かに暮らすことができる。
明末、李自成に率いられた農民武装蜂起が起こった。北京が陥落し、崇禎帝は自殺して明王朝は滅亡した。このとき、北方の清軍と対峙し、山海関一帯を守っていた明の総兵、呉三桂は、いったんは李自成軍に降ったが、李軍の将の劉宗敏が愛妾を強奪したことに激怒して反乱を決意、清軍をトンネルに引き入れたという。清軍はトンネルを通って突如、李自成軍の後方に出現し、これを挟み撃ちにした。このため李自成軍は大敗し、清軍は一挙に北京に進攻し、占領した。これが「一片石の大戦」である。「九門口長城」をめぐる戦いは、明王朝の滅亡につながった。
雍正帝 清王朝を支えた謹厳実直な改革者 1678-1735
ようせい‐てい【雍正帝】
[1678〜1735]中国、清の第5代皇帝。在位1722〜1735。諱(いみな)は胤(いんしん、廟号(びょうごう)は世宗。 康熙帝の第4子。綱紀の粛正、官制の改革、税制の安定を図り、皇帝独裁権を強化。軍機処を創設。対外的には青海・チベットを平定。
雍正帝 ようせいてい (1678―1735)
中国、清(しん)朝第5代皇帝(在位1722〜35)。康煕(こうき)帝の第4子。名は胤(允)(いんしん)、廟号(びょうごう)は世宗、年号により雍正帝とよぶ。 治世わずかに13年であったが、康煕帝60年の放漫政治の後を受け、官僚の綱紀を引き締めて皇帝独裁権を強化し、財政を改革し、清朝支配権を確立して、次の乾隆(けんりゅう)帝60年の治世に引き継いだその事業の歴史的意義は、高く評価されている。 即位後、帝は、後継者を秘密裏に指名する太子密建(たいしみっけん)法を定め、皇太子をめぐる皇子間の争いを封じた。 内政ではまず第一に、地方官が皇帝に直接意見を奏上する奏摺(そうしょう)制度、すなわち官僚の密告制度ともいうべきやり方を奨励し、官僚の党争、腐敗を厳しく取り締まったが、反面、官僚に対する勤務手当ともいうべき養廉銀(ようれんぎん)の制度も新設した。 第二に、康煕末年より始められた税制上の一大改革である地丁銀の制度を全国的に施行した。 第三に、改土帰流(かいどきりゅう)を行った。これは、辺境地域に住む少数民族の土司・土官制を、中央派遣の地方官統治に改める改革であった。 第四に、山西の楽戸(がくこ)、浙江(せっこう)の惰民(だみん)、広東(カントン)の蛋民(たんみん)、安徽(あんき)の世僕(せいぼく)など賤民(せんみん)の解放を行い、第五に、文字の獄により、根強く残る反満思想を厳しく弾圧した。
対外関係では、まずロプサン・テンジンを討伐して青海を属領とし、チベットには駐蔵大臣を置いて保護領とした。 次にジュンガルでは、ガルダン・ツェレンの侵入をモンゴルのツェレンがよく防いだので、トシェト部を割いてサインノヤン部を新設し、ツェレンをハン(汗)に封じた。 このとき中央に軍機処(ぐんきしょ)を設けたが、以後、民政も含めて軍機処が内閣にかわる政治の最高機関となった。 またロシアとキャフタ条約を結んで、シベリアの国境を定め、貿易を開いた。さらに、康煕帝が優遇した西洋人宣教師の取締りを強化し、宮廷に仕える一部の者を除いてマカオに追放した。
[北村敬直]
『宮崎市定著「雍正帝――中国の独裁君主」(『アジア史論考 下巻』所収・1976・朝日新聞社)』
軍機処(ぐんきしょ)
清代の軍事行政上の最高機関。雍正(ようせい)年間(1723〜35年)に軍機の処理を目的として臨時に設置され,ついで正式の機関となった。 清初は議政王大臣や内閣が行政上の重要機関であったが,軍機処がこれに代わり,軍事・行政両面の実質的な最高機関として重要視されるようになった。 数名の軍機大臣が任命され皇帝のもとで枢機に参与したが,清末の1911年に廃止された。
文字の獄 (もんじのごく)
中国の筆禍事件,おもに清代のそれを指していう。 異民族の王朝であった清朝は,漢民族に対する支配を確立するために,入関当初から強圧的な姿勢で臨んだ。 とくに民族意識の強い知識人に対してはそうであって,このためしばしば筆禍事件が起こった。 1663年(康煕2)の〈明史の獄〉は,浙江の荘廷?(そうていろう)が朱国禎の家から入手して刊行した《明史》のなかに清朝に対する誹謗があったことを理由に,荘廷?の死体を暴き,家族を死刑に,さらに出版に関与したものをも含め,70余名を死刑にするという厳罰に処したものである。 さらに1711年には〈南山集事件〉が起こった。 戴名世(1653-1713)の著した《南山集》の中に,明の亡命政権の清朝に対する抵抗を正当化した部分のあったことを理由に,戴名世の一族を死刑に,その他の関係者を流刑にして黒竜江省に送った。 これによって罪に処せられたものは数百人の多数にのぼったという。 雍正年間(1723-35)に入ると,科挙の試験官査嗣庭の出題に,〈維民所止〉とあったのを,雍正の文字の頭を刎(は)ねたものとして,不敬罪に処して獄死せしめ,あるいは反逆を企図した曾静が,呂留良の思想的影響を受けていたことが判明すると,呂留良の子等を死刑にするなど厳罰をもって臨んだ。 しかし,転向した曾静に対しては,むしろ寛容を示し,その訊問の記録を《大義覚迷録》として頒布して,清朝支配の正当性を理論的に主張するなど,その思想支配はいっそう巧妙なものとなった。
乾隆年間(1736-95)に入っても徐述夔(じよじゆつき)事件など文字の獄は続いたが,その一方では《四庫全書》の編纂という一大文化事業を起こし,各地から上呈させた文献の思想調査を行って,禁書のリストを公表した。この思想調査に合格したものが《四庫全書》におさめられたのである。このような清朝の思想弾圧の結果,知識人たちは現実逃避の傾向を深め,反清的言辞をあえて言おうとしなくなった。〈乾嘉(乾隆・嘉慶)の学〉と称せられる清朝考証学は,この恐怖時代の産物として生まれたものであった。
執筆者:小野 和子
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康熙帝は漢民族王朝の制度を参考に「皇后―皇貴妃―妃―嬪―貴人―庶妃」と呼称を統一したが、なお混沌が残った。 後宮の序列が確立するのは雍正帝の時代で、皇后(原則一人)を頂点に、
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「雍正奪位」(ようせいだつい) 歴史の謎の1つ。 「康煕帝は本当は別の皇子を後継にするつもりだったのに、胤モェ陰謀で帝位を奪った」という噂のこと。 康煕帝は廃太子の失敗から死ぬまで皇太子を立てず、遺詔で後継を示した。重臣ロンコドが発表した遺詔には 「伝位于四子」とあり、四子への継承を意味したが、民間では「伝位十四子」を「于」に改竄したという説が語られた。 雍正帝が即位後ロンコドを重用しつつ、のちに処刑したことも噂を強めた。 また雍正帝の母が即位を喜ばなかったという話や、康煕帝が雍正帝本人ではなく孫の弘暦(後の乾隆帝)を溺愛したために胤モ選んだという説もあるが、いずれも決定的証拠はない。 太子密建(秘密立儲) 順治帝は皇太子を立てずに若死にして国政を混乱させ、康熙帝は皇太子を立てて失敗した。雍正帝は両者の反省から、新制度「太子密建(秘密立儲)」を作った。 皇帝は皇子の能力を見て後継者を決めるが、誰にも明かさない。名前を書いた紙を箱に入れ、乾清宮「正大光明」の扁額の裏に置く。皇帝が死ねば、大臣立ち会いで箱を開け、衆人の前で次の皇帝の名を公表する。 遺詔改竄の噂を防ぎ、派閥争いを減らすのが狙いだった。よく考えられた制度だが、実際にはあまりうまく機能しなかった。 雍正帝のあと太子密建の制度により即位した皇帝は、第6代乾隆帝、第8代道光帝、第9代咸豊帝の3人だけである。 第7代嘉慶帝は乾隆帝の生前譲位により即位。第10代同治帝(西太妃の息子)は咸豊帝の唯一の息子で無競争。第11代光緒帝と、第12代宣統帝こと溥儀は西太后の指名により即位。 奏摺(そうしょう)制度 奏摺は、文官や武官が直接、皇帝に提出する「親展」の小型の折りたたみ文書で「皇帝本人だけが読む」「秘密報告が可能」「皇帝が朱筆で直接返答する」という特徴を持っていた。 康熙帝は晩年から、非公式のやりかたとして、信任する一部の部下からの秘密報告(奏摺)を時折受け取った。 雍正帝はこれを制度化し、全国の官僚に提出を許可し、内容を政治・軍事・社会問題まで拡大し、皇帝自身が朱筆で直接指示を回答する、という制度とした。 本来は、奏摺は、官僚が通常の手続きで提出する「奏本」の補助的な手段であったが、雍正帝はこれを主流として皇帝独裁を完成した。 雍正帝の「朱批奏摺」は現在約3万件以上残っている。彼は毎日平均50〜100通程度、多い日には200通前後の奏摺に目を通して「朱批」を加えたため、平均睡眠時間が短く、寿命を縮めたと言われる。 |
| 雍正帝は子女は14人いたが多くが夭折した。即位後に紫禁城で生まれた皇子は2人だけだった。 |
李光耀 シンガポールを建国した華人四世 1923-2015