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中国歴史人物列伝 12
最新の更新2026年1月6日 最初の公開2026年1月6日
- 昭襄王 秦を最強国とした始皇帝の曾祖父 前325-前251
- 韓信 漢の天才軍略家の屈辱と栄光の人生 前231-前196
- 王莽 儒教を利用し漢王朝を簒奪した外戚 前45-後23
- 李自成 明を滅ぼした逆賊か農民の英雄か 1606-1645
- 雍正帝 清王朝を支えた謹厳実直な改革者 1678-1735
- 李光耀 シンガポールを建国した華人四世 1923-2015
- 参考 今までとりあげた人物 実施順 時代順
以下、https://www.asahiculture.com/asahiculture/asp-webapp/web/WWebKozaShosaiNyuryoku.do?kozaId=8546414 より引用。
歴史を理解することは、人間を理解すること。ヒストリー(歴史)とストーリー(物語)は、もとは同じ言葉でした。中国の伝統的な「紀伝体」の歴史書も、個々人の伝記を中心とした文学作品でした。
本講座では、日本にも大きな影響を残した中国史上の人物をとりあげ、運や縁といった個人の一回性の生きざまと、社会学的な法則や理論など普遍的な見地の両面から、人生を紹介します。豊富な図像を使い、予備知識のないかたにもわかりやすく解説します。(講師・記)
昭襄王 秦を最強国とした始皇帝の曾祖父 前325-前251
YouTube https://www.youtube.com/playlist?list=PL6QLFvIY3e-mLZrmJ7jEeEvYGqWVwUu-P
○ポイント、キーワード
- 後発優位 latecomer advantage
「先発優位」pioneering advantage の対概念で、「後発性の利益」「後発者優位」とも言う。
春秋時代の「早すぎた大国」晋は、戦国時代に分裂した(晋の分裂により戦国時代が始まった)。
春秋時代には西の辺境の小国であった秦は、後発優位を生かして、戦国時代の最強国になった。
- 開発独裁 developmental dictatorship
秦は中央集権・君主独裁の「法家思想」を採用し、富国強兵を推進した。
- 地政学的周縁性 geopolitical peripherality
国家が大陸の中心地域ではなく周縁・辺境に位置すると、軍事的には多方面から同時に圧迫を受けにくいので有利になる、という地政学上の条件のこと。
中心国は、四方を敵国に囲まれやすく、多正面同時作戦をしいられるなど、不利である。
周縁国は、自国の軍事力を中心国相手に集中できるので、有利である。
- 故事成語の宝庫
中国の戦国時代は昭襄王の時代が、日本の戦国時代は織田信長の時代が、最も「戦国」らしかった。
昭襄王と関係のある故事成語は多い。
「鶏鳴狗盗」「狡兎三窟」「遠交近攻」「完璧帰趙」「功高震主」など。
○辞書的な説明
- 以下「昭襄王(昭王)【秦を大国にし統一への礎を築いた王・地図・年表】」( http://chugokugo-script.net/rekishi/shoujouou.html 2026年1月6日閲覧) より引用
昭襄王とは
昭襄王(B.C.325〜B.C.251)は戦国時代の秦の王で、昭王とも呼ばれ、秦の始皇帝の曽祖父に当たります。
昭襄王から下に系図をたどれば、昭襄王→孝文王→荘襄王(始皇帝の父・子楚)→秦王政・のちの始皇帝(B.C.259〜B.C.210)となります。
昭襄王は積極的な領土拡大策を採り、白起将軍が東の諸国や南の楚などを次々に打ち破り、昭襄王の期待に見事に応えました。
また昭襄王の母の弟で宰相の魏冄(ぎぜん)が権力を拡大するのを押さえるために笵雎(はんしょ)を重んじ、彼が有能であることがわかると魏冄を追放しました。
やがて白起は笵雎と反目、昭襄王の出陣命令も拒むようになると、王は白起に自害を命じ、この常勝将軍を自刎に追いやりました。
昭襄王の領土拡大策は後の始皇帝による天下統一のお膳立てとなりました。
○略年表
同時代人
- 秦の歴史
秦の歴代君主は「君」時代、「公」時代、「王」時代、「皇帝」時代に分けられる。
君:非子(在位前900-前858)から荘公(前821-前778)まで
公:襄公(前777-前766)から孝公(前361-前338)まで
王:恵文王(前337-前311)から秦王政(前246-前221。始皇帝)まで
皇帝:始皇帝(前221-前210)、二世皇帝(前209-前207)、子嬰(前207、三世皇帝?)まで
昭襄王は「王」時代の明君で、一時期「帝」号を名乗り、曾孫の始皇帝のお手本となった。
cf.asahi20240702.html#01
- 誕生と即位前(前325年―前307年)
前325年:秦恵文王の子として誕生。姓は嬴、名は稷。異母兄に秦悼武王(秦武王)がいる。
前310年代:公子稷は燕国に滞在(事実上の人質的立場)。
- 即位と政争(前307年―前305年)
前307年:
秦武王が洛陽で「周の九鼎」を持ち上げようとして脛骨を折り、急死。
嫡子がいなかったため、王位継承争いが勃発。
趙武霊王と秦の重臣魏冉らの策により、
公子稷は燕 → 趙 → 秦へ迎えられ、即位。
秦昭襄王として即位(諡号「昭襄王」)。
即位当初は幼少のため、母の宣太后が摂政。
前306年:
武王旧臣の樗里疾・甘茂・向寿・公孫奭らが政務を補佐。
楚が韓を攻め、秦は甘茂の進言により韓を救援。
甘茂、政争を恐れて斉へ亡命(のち魏で死去)。
前305年:
公子壮(庶長壮)が反乱(庶長壮の乱・季君の乱)。
反乱は鎮圧され、悼武王后は魏へ追放。
この事件を機に、魏冉(魏冄)が実権を掌握。
楚懐王、秦を恐れて同盟を求め、
黄棘で秦楚同盟成立、楚は上庸を割譲。
- 親政開始と初期の対外戦争(前304年―前298年)
前304年:
昭襄王、冠礼を行い親政開始(満21歳)。
楚王と黄棘で会盟。
前303年:
魏を攻め、蒲阪・晋陽・封陵を獲得。
前302年:
魏襄王が秦に朝見、領土返還。
前301年:
蜀侯公子ツが反乱。司馬錯が鎮圧。
孟嘗君田文を重用しようとし、弟を斉へ人質に送る。
前300年:
公子ツの子・綰を蜀侯に立て、蜀地安定。
庶長奐が楚を攻め、新城を奪取。
前299年:
楚懐王が武関で秦と会盟しようとするが、
秦により拘束・幽閉される。
楚は新市などを失う。
前298年:
公子ツが冤罪であったことが判明、昭襄王は後悔。
孟嘗君、秦の宰相となるが、疑われて幽閉。
- 合従連衡と「鶏鳴狗盗」(前297年―前286年)
前297年:
孟嘗君、食客の策で脱出(鶏鳴狗盗)。
前296年:
孟嘗君、斉宰相として韓・魏と連合し秦を攻撃。
秦軍、函谷関で敗北。
前288年:
昭襄王、自らを「西帝」と称す。
斉王を「東帝」と尊称するが、六国合従で失敗。
前287年―前286年:
魏を攻め、新垣・曲陽・安邑を獲得。
- 白起の時代と対楚・対趙戦争(前285年―前273年)
前285年:
秦・楚が宛で会盟。
秦・趙が中陽で会盟。
蒙武、斉を攻め九城を奪取。
前284年:
燕・趙・秦・韓・魏の五国連合、斉を大破。
前283年:
藺相如、和氏の璧を守って帰国(完璧帰趙)。
前280年:
白起、趙を攻め代郡を奪取。
司馬錯、楚を攻め黔中を奪取。
前279年:
白起、鄢・ケ・西陵を攻略。
楚都郢を圧迫。
前278年:
白起、楚の都・郢を陥落。
楚、陳へ遷都。
- 范雎登用と権力構造の転換(前270年―前266年)
前270年:
趙奢、閼与で秦軍を撃退。
范雎、秦に登用される。
前266年:
范雎を丞相(応侯)に任命。
宣太后を退け、魏冉ら外戚勢力を一掃。
昭襄王、名実ともに専制君主となる。
- 長平の戦い(前260年)
前260年:
白起、趙軍を長平で大破。
趙括戦死、降兵20余万人を坑殺。
秦、決定的優位を得るが、
昭襄王は范雎の意見を採り進軍を停止。
- 白起の最期(前259年―前257年)
前259年:
韓・趙が和睦のため割地。
平原君趙勝、秦で拘束される事件。嬴政(後の始皇帝)が趙の首都・邯鄲で誕生。
前258年:
邯鄲攻囲失敗。
魏・楚が趙を救援。
前257年:
昭襄王、白起を再任するも、白起は出陣を拒否。
范雎の讒言もあり、白起に自刎を命じる。
秦軍敗北。
嬴異人(後の荘襄王。始皇帝の父親)、趙から脱出。
- 周王朝の滅亡(前256年―前255年)
前256年:
秦、周を攻め、赧王を捕縛。
東周滅亡(建国791年)。
前255年:
西周文公を流放。
西周滅亡。秦、名実ともに天下の宗主となる。
- 晩年と死(前254年―前251年)
前254年:
魏が秦に屈服し属国化。
韓王、秦に朝見。
前251年:
秦昭襄王、死去(在位56年、75歳)。
○その他
- 昭襄王の「昭襄」は諡号(しごう)である。単に「秦の昭王」とも呼ぶ。
「昭」は「徳も功もあきらか」、「襄」は「国土をきりひらき徳もある」の意で、2つとも明君に追贈される諡号である。
学者の平㔟隆郎氏によると、美諡「文・武・成(もしくは宣・襄)」の法則があるという。
戦国秦では、恵文王→悼武王→昭襄王
戦国趙では、武霊王→恵文王→孝成王
- 昭襄王の母親・宣太后もたいへんな女傑で、波乱の生涯を送った。
2015年の中国のテレビドラマ『ミーユエ 王朝を照らす月』(中国語原題『羋月传』)の主人公でもある。
- 『戦国策』秦策でも、秦の昭襄王の時代の記述は多い。
cf.https://dl.ndl.go.jp/pid/1118557/1/66 国立国会図書館デジタルコレクション
[一番上]
韓信 漢の天才軍略家の屈辱と栄光の人生 前231-前196
YouTube https://www.youtube.com/playlist?list=PL6QLFvIY3e-mylzPBCJNLhCt3ZtjoWpu4
○ポイント、キーワード
- 三傑 さんけつ
三人の傑物のこと。漢王朝の建国に貢献した蕭何・張良・韓信の「漢の三傑」が有名。
日本史では、織田信長・豊臣秀吉・徳川家康は三英傑。西郷隆盛・大久保利通・木戸孝允は維新の三傑。
- 独学者 どくがくしゃ
韓信は貧民で世襲の軍人でもなかったため、軍事の正規教育は受けていないが、独学で実力を身につけた。
- トゥーロン攻囲戦(1793年)
二十代前半の無名の砲兵大尉だったナポレオンは、天才的な頭脳でトゥーロンの攻略に成功し、一気に砲兵隊司令官(准将)となり国際的な注目を浴びた。
韓信のデビュー戦も、トゥーロンにおけるナポレオンに似ていた。
○辞書的な説明
- 『精選版 日本国語大辞典 』より引用
かん‐しん【韓信】
中国、前漢の武将。淮陰(わいいん)の人。
張良、蕭何とともに漢の三傑といわれる。高祖に従い、蕭何の推薦で大将となり、趙・魏・燕・斉を滅ぼし、項羽を攻撃して大功をあげる。漢の統一後、斉王から楚王になったが、淮陰侯に左遷され、呂后(りょこう)によって殺された。前一九六年没。
- 『改訂新版 世界大百科事典 』より引用
韓信 (かんしん)
Hán Xìn
生没年:?-前196
中国,漢の高祖劉邦の功臣。淮陰(わいいん)(江蘇省淮陰市南)の人。
無名のころは,家が貧しくて寄食暮しをしていたが常に大剣を帯び,それを臆病者と侮辱されてもよく耐えて若者の股の下をくぐった逸話がある。
秦末の反乱がおこると楚の項羽に従ったが重用されず,去って高祖に従い,蕭何(しようか)の推挙で大将に任命された。
楚・漢の戦いでは,漢の別動隊として趙から燕,斉の地を平定して斉王に封ぜられ,楚・漢と並んで天下を三分する優位に立ったが,高祖に対する忠誠をまもり,項羽を追いつめて漢を勝利に導いた。
しかし高祖は天下を平定すると,彼に協力した異姓の諸王の存在に強い不安を抱いた。
中でもおそれたのは韓信の実力であった。そのため韓信はまず斉王から楚王にうつされ,翌年(前201)には謀反の疑いで捕らえられたのち淮陰侯に格下げされ,ついには呂后に謀られて殺され,三族ことごとく滅ぼされた。
高祖に捕らえられて〈狡兎(こうと)死して良狗(りようく)烹(に)らる〉といったのは有名な故事である。
執筆者:永田 英正
- 『日本大百科全書(ニッポニカ) 』より引用
韓信
かんしん
(?―前196)
中国、漢の高祖劉邦(りゅうほう)の功臣。軍略にたけた武将。淮陰(わいいん)(江蘇(こうそ)省)の貧家に生まれ、母親の葬儀も出せなかった。
ある日城下で釣りをしていたとき、近くで洗い物をしていた老女が彼の飢えを見かねて食を与え、そのまま寄食すること数十日。いつの日かこの恩に報いるといったところ、自分で食えずにいて何が報恩だと叱(しか)り飛ばされた。
また、町なかでばかにされながらも一時の恥を忍んで無頼者の股(また)の下をくぐったという。
これらの若いころの逸話は、いずれも彼の大志あるをうかがわせるものである。
秦(しん)末の乱に際し、初め項羽(こうう)陣営に属したが、不遇を不満として劉邦に仕えようとした。その際危うく斬(き)られそうになったが、重臣夏侯嬰(かこうえい)にみいだされて救われ、
さらに丞相(じょうしょう)蕭何(しょうか)の推薦でやがて大将となり、項羽討滅の策を次々と献じ、劉邦をして、もっと早くこの男を幕下に入れたかったといわしめた。
紀元前206年、項羽の都彭城(ほうじょう)を襲った劉邦が危機に陥るやそれを救い、ついで趙(ちょう)、斉(せい)の地を攻略して黄河下流一帯を確保し、漢を優勢たらしめ、斉王に封ぜられた。
漢の天下統一が達成されると、異姓の諸王を廃除しようとする劉邦の政策にあい、また、陛下はせいぜい10万の兵の将だが、自分は多々ますます弁ず(多ければ多いほどよい)と豪語した有能さが災いし、しだいに悲劇的な晩年になってゆく。
楚(そ)王に移され、次には反逆の疑いで淮陰侯に落とされ、前196年、呂后(りょこう)の謀計にかかって捕らわれ、一族もろとも滅ぼされた。
[春日井明]
○韓信の同時代人
○略年表
- 紀元前230年頃
・楚の淮陰(現在の江蘇省淮安市)に生まれる。
・貧しい家に育ち、若いころは食にも困る生活を送る。
・漂母に食を恵まれ、屠殺場の少年に辱めを受けて股下をくぐる話が有名。
- 前221年、秦王政が皇帝に即位(始皇帝)
- 前210年、始皇帝が死去。
- 前209年頃
・陳勝・呉広の乱以後、楚漢戦争の動乱が始まる。
・項梁に従軍し、のち項羽に仕えるが、重用されない。
- 前206年
・劉邦が漢王として蜀・漢中に入る。
・韓信は楚を離れて漢に投じる。
・罪により処刑寸前となるが、滕公(夏侯嬰)に才能を見抜かれ助命される。
・蕭何に強く推挙され、大将軍に任命される。
- 前205年
・魏を攻め、魏王豹を捕らえる。
・代を破り、趙を攻撃。
・井陘の戦いで背水の陣を用い、趙軍を大破。趙王歇を捕虜とする。
- 前204年
・燕を威圧し服属させる。
・ついで斉を攻撃。
・濰水の戦いで楚の名将・龍且を破り、斉を平定する。
・斉王に封ぜられる。
- 前203年
・項羽配下の武渉・蒯通から「三分天下」の策を勧められるが、劉邦への忠義を選び拒否する。
- 前202年
・劉邦とともに垓下の戦いに参加し、項羽を滅ぼす。
・漢王朝成立。
・斉王から楚王に転封され、都を下邳に置く。
- 前201年
・楚王の地位にあるが、劉邦に警戒される。
・鐘離眛をかくまったことが問題となり、雲夢での会見に呼び出される。
・捕らえられ、楚王を廃されて「淮陰侯」に降格。
- 前200年〜197年頃
・長安で事実上の軟禁状態となる。
・不遇の中で不満を深める。
- 前197年
・陳豨の反乱に呼応する形で、呂后・蕭何の策略により宮中へ誘い出される。
・長楽宮の鐘室で処刑される。
・三族が滅ぼされる。
・死に際し「蒯通の策を用いなかったことを悔やむ」と語る。
○その他
- 韓信にまつわる故事成語として、
- 股下之辱(こかのじょく)
大志のために一時の屈辱に耐える
- 一飯千金(いっぱんせんきん)
1回の食事をもらった小さな恩も決して忘れず厚く報いる
- 国士無双(こくしむそう)
ならぶものがないほど優れた国士。韓信を評した蕭何の言葉。後に麻雀の用語の和名
- 背水之陣(はいすいのじん)
わざと自分を死地に追い込むことで意外な力を発揮する
- 明修棧道、暗渡陳倉(めいしゅうさんどう、あんとちんそう)
正面で棧道を修理すると見せかけて(陽動作戦)別働隊が陳倉を奇襲するという戦術
- 狡兎死して走狗烹られ、飛鳥尽きて良弓蔵めらる
功臣は用済みになると排除される
- 多多益善(たたますますよし)
数量や規模は多いほどよい。多々益々弁ず、とも。
- 功高震主(こうこうしんしゅ)
臣下の功績が大きすぎると君主を脅かす存在となって警戒される
- 成也蕭何、敗也蕭何(なるもまたしょうか、やぶるもなたしょうか)
韓信は蕭何の推挙で出世したが最期は蕭何によって敗北した。成功も失脚も同一人物によるという例
- 中原逐鹿(ちゅうげんちくろく)
「中原に鹿を追う」(ちゅうげんにしかをおう)とも。天下の中央で、群雄が支配権(鹿はその比喩)をめぐって熾烈な争いをくりひろげる。
などがある。
- 俳人の与謝蕪村は、韓信の故事をふまえて
玉霰(たまあられ) 漂母(ひょうぼ)が鍋を 乱れうつ
という冬の俳句を詠んだ。以下、萩原朔太郎「郷愁の詩人 与謝蕪村」(https://www.aozora.gr.jp/cards/000067/files/47566_44414.html)より引用。
漂母は洗濯婆(ばば)のことで、韓信が漂浪時代に食を乞こうたという、支那の故事から引用している。
しかし蕪村一流の技法によって、これを全く自己流の表現に用いている。即ち蕪村は、ここで裏長屋の女房を指しているのである。
それを故意に漂母と言ったのは、一つはユーモラスのためであるが、一つは暗にその長屋住いで、蕪村が平常世話になってる、隣家の女房を意味するのだろう。
侘しい路地裏の長屋住い。家々の軒先には、台所のガラクタ道具が並べてある。そこへ霰(あられ)が降って来たので、隣家の鍋にガラガラ鳴って当るのである。
- 夏目漱石「満韓ところどころ」https://www.aozora.gr.jp/cards/000148/files/781_14965.html より引用。
この素裸なクーリーの体格を眺めたとき、余はふと漢楚軍談を思い出した。
昔韓信に股を潜(くぐ)らした豪傑はきっとこんな連中に違いない。
- 新渡戸稲造『自警録』https://www.aozora.gr.jp/cards/000718/files/43675_39655.html より引用。
むかし淮陰の少年が韓信を侮り韓信をして袴下(こか)を匍伏(ほふく)せしめたことがある。
市(まち)の人は皆韓信の怯懦(きょうだ)にして負けたことを笑い、少年は勝ったと思って必ず得々としたであろう。
しかし今日は当時勝ったという少年の名を知れる者がはたしてあるか。しかして韓信の名を知らぬ者が果たしてあるか。
負けて勝かつ智恵の力の強さにはたれも感心するぞ韓信
- 司馬遷『史記』巻92・淮陰侯列伝第三十二より
参考 https://ja.wikisource.org/wiki/史記/卷092
韓信は淮陰の出身である。若いころは身分の低い平民で、たいへん貧しく、役人になることもできず、商売をして生計を立てる力もなかった。いつも人の家に行って食事をもらって暮らしていたため、多くの人に嫌がられていた。
あるとき、南昌という村の亭長の家に何度も通い、何か月もごちそうになっていたが、亭長の妻がそれを嫌がるようになった。そこである朝、わざと早くごはんを作って片づけてしまった。韓信が行ったときには、すでに食べ物は用意されていなかったのである。韓信はその気持ちを察して怒り、ついに二度とそこへ行かなくなった。
韓信は城の下で釣りをしていた。川で洗濯をしているおばさんたちの中に、韓信が空腹であるのを見て、食べ物を与えてくれる人がいた。そのおばさんは、何十日ものあいだ、毎日韓信に食事を与え続けた。韓信はたいへん喜び、「必ずいつか、手厚くお礼をする」と言った。するとおばさんは怒って言った。
「一人前の男が、自分で食べていけないのは情けないことである。私はかわいそうだと思って食べ物をあげただけで、見返りを求めているのではない。」
(韓信のまたくぐり)また、淮陰の肉屋の若者たちの中に、韓信を侮辱する者がいた。
「おまえは体が大きく、刀や剣を持っているが、心は臆病である。」
人々はさらに言った。
「本当に勇気があるなら、俺を刺してみよ。刺せないなら、俺の股の下をくぐれ。」
韓信はしばらく相手を見つめたのち、黙ってその若者の股の下をくぐり、地面にはいつくばった。町の人々は皆、韓信を笑い、臆病者であると思った。
その後、項梁が軍を率いて淮水を渡ると、韓信は剣を持ってこれに従ったが、下級の兵士にすぎず、名は知られなかった。
項梁が敗れると、今度は項羽に仕え、郎中という役についた。何度も作戦を献じたが、項羽は用いなかった。
漢王(劉邦。のちの前漢の初代皇帝・高祖)が蜀に入ると、韓信は楚を離れて漢に帰順した。しかし、ここでもしばらく評価されず、下級役人として働いていた。
あるとき法律に触れて死刑になることが決まり、同じ罪の十三人はすでに斬られていた。次が韓信の番となったとき、顔を上げると、ちょうど滕公が通りかかった。韓信は叫んだ。
「王は天下を取るつもりはないのか。なぜ勇敢な男を斬るのか。」
滕公はその言葉に驚き、また韓信の堂々とした姿を見て、ただ者ではないと感じ、斬るのをやめさせた。話をしてみると大いに感心し、そのことを漢王に伝えた。
漢王は韓信を治粟都尉という役職に任命したが、この時点では、まだその真の才能を十分に理解してはいなかったのである。
韓信はしばしば蕭何と語り合い、蕭何はその才を並外れたものとして不思議に思い、高く評価していた。
南鄭に着いたころ、道中で逃げ出す将軍が数十人も出た。韓信は「蕭何もすでに何度も自分を推挙してくれているのに、王は用いてくれない。ならばここにいても仕方がない」と考え、ついに逃亡した。
蕭何は韓信が逃げたと聞くと、王に報告する暇もなく、自ら馬に乗って追いかけた。人々は漢王に
「丞相の蕭何が逃げました」
と告げたので、漢王は左右の腕を失ったかのように激しく怒った。
一、二日して蕭何が戻って来て謁見すると、漢王は怒りと喜びの入り混じった表情で叱って言った。
「おまえは逃げたのか。なぜだ。」
蕭何は答えた。「私は逃げたのではありません。逃げた者を追って行ったのです。」
漢王が言った。「では、誰を追って行ったのだ。」
「韓信です。」
すると漢王はまた叱った。「逃げた将は十人以上もいるのに、おまえは誰も追わず、韓信だけを追った。ごまかしではないか。」
蕭何は言った。「他の将は代わりがききます。しかし韓信のような人物は、国士無双(国に二人といない逸材)です。
王が漢中だけを治めて終わるおつもりなら、韓信は必要ありません。
しかし天下を争うおつもりなら、韓信なくしては、ともに大事を計る者はいません。
あとは、王がどの道を選ばれるかだけです。」
漢王は言った。「私も東へ出たいのだ。どうしてこんな所に長くくすぶっていられようか。」
蕭何は言った。「王が本気で東へ出られるなら、韓信を用いることです。用いれば韓信は留まりますが、用いなければ、必ず去ってしまいます。」
漢王は言った。「では将軍にしよう。」
「将軍では、韓信は留まりません。」
「では大将軍にする。」
「それはまことに結構です。」
そこで漢王は韓信を呼んで任命しようとしたが、蕭何は言った。
「王はもともと態度がぞんざいで礼を欠くところがあります。大将軍を任ずるのに、子どもを呼ぶような調子では、韓信が去った理由と同じになってしまいます。
必ず良き日を選び、身を清め、祭壇を設け、正式な礼を尽くして任命すべきです。」
漢王はこれを許した。将軍たちは皆よろこび、それぞれが「自分が大将軍になるのだ」と思っていた。
ところが任命の場で大将軍となったのは韓信であり、全軍が驚いたのである。
任命の儀礼が終わり、漢王が席につくと、言った。
「丞相はたびたび将軍を推挙してきたが、将軍はどのような策で私を導いてくれるのか。」
韓信は礼を述べてから、逆に漢王に問うた。
「いま東へ向かって天下の覇権を争う相手は、項王(項羽)ではありませんか。」
漢王は言った。「その通りだ。」
韓信は言った。「王ご自身でお考えになって、勇気や強さ、仁徳において、項王と比べていかがでしょうか。」
漢王はしばらく黙っていたが、やがて言った。「及ばない。」
韓信は再拝して言った。「私もまた、大王は項王に及ばないと思います。しかし私はかつて項王に仕えたことがありますので、その人物について申し上げます。
項王は一喝すれば千人をひるませるほどの威勢はありますが、賢い将を任用することができません。これはただの一匹の男の勇気にすぎません。
また、項王は人に会えば恭しくやさしく、病人を見れば涙を流して食事を分け与えるほど情が深いのですが、功績ある者に爵位を与える段になると、印綬がすり切れるほど惜しんで、どうしても与えようとしません。これは婦人の仁にすぎません。
項王は天下を制して諸侯を従えながら、関中に都せず彭城に都を置き、また義帝との約束に背き、身内やえこひいきを王にしたため、諸侯は不満を抱きました。
さらに義帝を江南に追いやったことを見て、諸侯もまたそれぞれ自分の主君を追い出して、勝手に良い土地に王となりました。
項王の通った所は破壊し尽くされ、天下には怨みが満ち、民は心から従わず、ただ力におびえているだけです。
名は覇者でも、実はすでに天下の心を失っています。だから強そうに見えても、実は弱いのです。
いま大王がその逆を行えばよいのです。
天下の勇者を用いれば、討てない敵はありません。
天下の城邑をもって功臣を封じれば、服さぬ者はありません。
義の軍を掲げ、故郷へ帰りたい人々を集めれば、散じない軍はありません。
また、三秦の王たちはもとは秦の将で、数年にわたって秦の若者を率い、殺した者は数え切れません。
そのうえ民をだまして諸侯に降伏させ、新安では項王が秦の降兵二十余万をだまして生き埋めにしました。
逃れたのは邯・欣・翳の三人だけでした。秦の父兄はこの三人を骨の髄まで恨んでいます。
今、楚はこの三人を威勢をもって王にしていますが、秦の民は誰一人として彼らを愛していません。
これに対して大王は、武関から入るとき、草一本傷つけず、秦の苛酷な法を廃し、法は三条だけと約しました(法は三章のみ)。
秦の民で、大王を秦の王として迎えたいと思わぬ者はいません。
諸侯との約定でも、関中の王となるのは本来大王であると、関中の民は皆知っています。
大王が職分を失って漢中に入られたとき、秦の民は皆恨みました。
いま大王が軍を挙げて東へ向かわれれば、三秦は布告一つで平定できます。」
これを聞いて漢王は大いに喜び、
「私は韓信を得るのが遅すぎた」
と語った。こうして全面的に韓信の計略を採用し、諸将の配置と攻撃の方針をすべて韓信に任せたのである。
八月、漢王は兵を挙げて東へ進み、陳倉を出て三秦の地を平定した。
漢二年、関中を出て魏と河南を攻略し、韓王・殷王はいずれも降伏した。さらに斉・趙と連合して楚を攻めた。四月、彭城に至ったが、漢軍は大敗して散り散りになって退いた。
韓信はふたたび兵を集めて漢王と滎陽で合流し、再び楚軍を京・索の間で破った。そのため楚の兵は西へ進むことができなくなった。
漢軍が彭城で敗れて退いたあと、塞王の欣と翟王の翳は漢から離反して楚に降り、斉・趙もまた漢に背いて楚と和した。六月、魏王豹は「親の病を見舞う」と言って帰国すると、ただちに黄河の関を閉ざして漢に背き、楚と同盟した。
漢王は酈生を使って説得させたが、魏王は降らなかった。そこで八月、韓信を左丞相に任じて魏を討たせた。
魏王豹は蒲阪に大軍を集め、臨晋を固く守った。韓信はわざと疑兵を張り、船を並べて臨晋から渡河するように見せかけた。その一方で伏兵を夏陽から出し、木の甕や壺を浮きにして兵を渡らせ、安邑を急襲した。
魏王豹は驚いて軍を率いて迎え撃ったが、韓信はこれを捕らえ、魏を平定して河東郡とした。
漢王は張耳を韓信とともに派遣し、兵を率いて東へ進ませ、北に向かって趙と代を討たせた。九月、代軍を破り、夏説を閼与で捕らえた。
韓信が魏を平定し代を破るたびに、漢王は使者を出してその精鋭兵を滎陽へ送らせ、楚軍に備えさせた。
韓信と張耳は数万の兵を率い、東へ進んで井陘から趙を攻めようとした。
趙王と成安君の陳餘はこれを聞き、兵を井陘口に集め、二十万と号した。
広武君の李左車は陳餘に進言して言った。
「韓信は西河を渡って魏王を捕らえ、代を破り、勢いに乗って遠く国を離れて戦いに来ています。その鋭さは当たりがたいものです。
千里も離れて兵糧を運べば兵は飢え、道で薪を集めて炊くような状態で、満足に食べられません。
井陘の道は険しく、車も並べず、騎兵も隊列を組めません。数百里も進めば、兵糧は必ず後方に残ります。
三万の奇兵をお貸しください。私は別路からその輜重を断ちます。将軍は塁を高く築いて守りを固め、決して戦わずにいればよい。
敵は進めず退けず、十日とたたずに韓信と張耳の首を取ることができます。」
しかし陳餘は儒者で、「義の軍は詐術を用いない」と言い、
「兵法には『十倍なら包囲し、二倍なら戦え』とある。韓信の兵は数万と称しているが実際は数千にすぎない。遠くから来て疲れ切っている。ここで避けて戦わなければ、諸侯に臆病だと見られる」
として、この策を用いなかった。
韓信は密かに探らせ、趙が李左車の策を用いなかったことを知ると大いに喜び、進軍を決意した。
井陘口から三十里手前で宿営し、夜半に命令を出して、軽騎二千人を選び、赤い旗を持たせて別道から趙軍の背後に向かわせ、
「趙軍がわれわれを追って陣を空けたら、ただちに趙の旗を抜き、漢の赤旗を立てよ」
と命じた。さらに副将に命じて
「今日は趙を破って会食するぞ」
と言わせたが、諸将は信じなかった。
韓信は一万人を先に出し、川を背にして陣を敷かせた(背水の陣)。趙軍はこれを見て大笑いした。
夜明けに韓信は大将軍の旗鼓を立て、正面から進軍した。趙軍は陣を出て激戦となった。
しばらくして韓信と張耳はわざと旗や太鼓を捨てて退却した。背水の陣の兵がこれを迎え入れ、死力を尽くして戦った。
趙軍は漢軍の旗や太鼓を奪おうとして陣を空け、追撃に夢中になった。その隙に、韓信が差し向けておいた二千騎が趙の陣に突入し、趙の旗を抜いてすべて漢の赤旗に立て替えた。
趙軍は戦いに勝てず、陣に戻ろうとすると、そこには漢の赤旗ばかりが立っていた。
「すでに王も将も捕らえられたのだ」と思い込んで大混乱に陥り、逃げ出した。将が斬って制止しようとしても、止めることはできなかった。
こうして漢軍は前後から挟み撃ちにし、趙軍を大破した。
成安君陳餘は泜水のほとりで斬られ、趙王歇は捕らえられたのである。
韓信は軍中に命じて、「広武君(李左車)を殺してはならない。生け捕りにした者には黄金千金を与える」と告げた。
すると、広武君を縛って陣営に連れて来た者があった。韓信はすぐにその縄を解き、自分は東向きに座り、広武君を西向きに座らせ、師として礼をもって遇した。
諸将は首級や捕虜を献上し終えてから、韓信に尋ねた。
「兵法では、右は山陵、前は左に水沢を取ると申します。ところが将軍は、われわれに川を背にして陣を敷かせ、『趙を破って会食する』と言われました。正直、納得できませんでした。しかし、ついに勝利しました。これはいったいどのような術なのですか。」
韓信は言った。
「これは兵法の中にある。ただ、諸君がよく考えなかっただけである。
兵法に『死地に陥れてこそ生き、亡地に置いてこそ存する』とあるではないか。
しかも私は、平素から十分に訓練された精鋭を持っていたわけではない。これはいわば『市井の民を駆り集めて戦わせた』のである。だからこそ、死地に置いて各自が必死に戦うほかないようにしたのだ。
もし生き延びる道を与えたなら、皆逃げ出して、どうして使い物になろうか。」
諸将は皆、感服して言った。
「見事です。とても我々の及ぶところではありません。」
そこで韓信は広武君に問うた。
「これから北に燕を攻め、東に斉を討とうと思うが、どうすれば成功できようか。」
広武君は辞退して言った。
「敗れた軍の将は勇を語れず、滅びた国の臣は存亡を論じる資格がありません。私は敗軍の虜です。どうして大事を論じられましょう。」
韓信は言った。
「百里奚は虞にあっては国を救えず、秦にあっては秦を覇者とした。それは虞で愚かで秦で賢かったからではない。用いられるか否か、聞き入れられるか否かの違いである。
もし成安君があなたの策を用いていたなら、私こそ捕虜になっていたであろう。あなたが用いられなかったからこそ、私が今ここにあるのだ。どうか遠慮なく教えてほしい。」
広武君は言った。
「智者も千の思慮に一つの過ちがあり、愚者も千の思慮に一つの得があります。『狂夫の言でも、聖人は選んで用いる』というのはこのことです。
将軍はすでに大いなる武名を得ました。西河を渡って魏王を捕らえ、代を破り、井陘で趙の二十万を破り、名は天下に響いています。これは将軍の長所です。
しかし、兵は疲れ切っています。いまこの疲れた兵で、堅城をもつ燕を攻めれば、戦いが長引き、兵糧が尽き、かえって不利になります。燕と斉が持ちこたえれば、劉邦と項羽の勝敗も決まりません。これは将軍の短所です。
ゆえに、兵を用いる者は、短をもって長を攻めず、長をもって短を攻めるのです。」
韓信が言った。「では、どうすればよいのか。」
広武君は答えた。「いまは兵を休ませ、趙を鎮め、百里四方で酒肉を与えて士卒をねぎらい、まず燕へ向かう姿勢を示し、弁舌に優れた使者を送り、将軍の威勢を示せば、燕は必ず従います。
燕が従えば、その噂は東へ伝わり、斉もまた風になびくように服従するでしょう。
これが『まず声を立て、後に実を取る』という兵法です。」
韓信は言った。「見事である。」
その策に従って使者を燕に遣わすと、燕はたちまち降伏した。さらに漢王に報告し、張耳を趙王に立てて国を鎮めさせたいと請い、許された。
その後、楚はたびたび奇兵を渡河させて趙を攻めたので、趙王張耳と韓信は往復してこれを救い、趙の諸城を平定して漢に兵を送った。
一方、楚は滎陽で漢王を包囲していた。漢王は一度脱出して宛・葉に行き、黥布を得て成皋に入ったが、楚は再びこれを包囲した。
六月、漢王は成皋を出て東に渡河し、滕公とともに張耳軍のある修武に入った。宿舎に泊まると、翌朝「漢の使者」を名乗って趙軍の陣に入り、張耳と韓信がまだ起きぬうちに印符を奪い、諸将を指揮して配置を入れ替えた。
二人が起きてみると漢王が来ており、驚いた。
漢王は二人の軍を掌握し、張耳には趙の守備を命じ、韓信を相国に任じ、趙兵を率いて斉を討たせた。
韓信が東へ進むと、漢王の使者である酈食其がすでに斉を説得して降伏させたと聞き、進軍を止めようとした。
しかし弁士の蒯通は言った。
「将軍は斉を討てとの詔を受けています。止めよとの詔はありません。どうして止まれましょうか。
しかも、酈生は舌三寸で斉七十余城を降しました。将軍は数万の兵を率い、数年戦ってようやく趙を平定しました。それでは一介の儒者に劣る功績ではありませんか。」
韓信はこれを是とし、進軍した。
斉はすでに警戒を解き、酒宴にふけっていたため、韓信はこれを奇襲し、臨菑を平定した。
斉王田広は酈生が裏切ったと思い、これを釜ゆでにし、高密に逃れて楚に救援を求めた。
楚は龍且に二十万を率いさせて救援に向かわせた。
龍且は「韓信はたやすく破れる」として迎え撃ち、濰水を挟んで布陣した。
韓信は夜のうちに砂を詰めた袋を大量に作って川をせき止め、半ばまで渡って戦い、わざと敗走した。
龍且は喜んで追撃し、川を渡ったところで堰を切らせたため、水が一気に流れ込み、楚軍は分断された。
韓信はその隙に攻めかかり、龍且を斬り、楚軍を大破した。
斉王田広は逃亡し、韓信は北へ追撃して楚兵をすべて捕らえた。
斉を平定した後、韓信は
「斉は変節の多い国であり、王を置かなければ安定しません。仮王にしてください」
と漢王に請うた。
このとき漢王は滎陽で包囲され苦境にあり、怒って言った。
「私はここで苦しんでいるのに、おまえは王になろうというのか!」
張良と陳平がそっと耳打ちして、
「いま韓信を抑えることはできません。むしろ王に立てて味方に留めるべきです」
と進言した。漢王は悟って言い直した。
「大丈夫たるものは、諸侯を平定して真の王となるべきだ。仮など不要だ。」
こうして張良を遣わして韓信を斉王に立て、その兵で楚を討たせた。
楚王項羽は韓信を引き入れようと、武渉を派遣して説得させた。
「漢王は信用できず、いずれあなたを滅ぼす。いまこそ楚と連携し、天下を三分すべきだ。」
これに対し韓信は言った。
「私は楚では用いられず、漢王は私を信じ、礼をもって遇してくれた。
深く信じてくれた人を裏切るのは不祥である。たとえ死んでも変わることはできない。
どうか項王にその旨を伝えてほしい。」
と答えたのである。
武渉が去ったのち、斉の人である蒯通は、天下の権が韓信に帰していることを知り、奇策をもってこれを動かそうとし、相人(人相見)の術をもって韓信を説こうとして言った。
「僕はかつて相人の術を学んだことがある。」
韓信が言った。「先生の相人とはどのようなものか。」
蒯通は答えた。「貴賤は骨法にあり、憂喜は容色にあり、成敗は決断にあり、これらを参照すれば、万に一つも誤らぬ。」
韓信が言った。「よろしい。では先生は、私をどのように相するか。」
蒯通は言った。「少しお時間をいただきたい。」
信は言った。「左右の者は下がれ。」
蒯通は言った。「あなたの顔を相すれば、侯に封ぜられるまでであり、しかも危うく安からず。君の背を相すれば、富貴は言葉では言い尽くせぬほどである。」
韓信が言った。「それはどういう意味であるか。」
蒯通は言った。
「天下が乱れ始めたとき、俊傑・英雄・豪傑が号を建て一声をあげると、天下の士は雲のごとく集まり霧のように集結し、魚の鱗のようにひしめき合い、火が走り風が起こるがごとくであった。この時は、ただ秦を滅ぼすことのみが憂いであった。
今や楚と漢とが争い、罪なき天下の人々は肝胆を塗り、父子は中野に骸骨をさらし、その数は数え切れぬ。楚は彭城に起こり、転戦して北を逐い、滎陽に至るまで勢いに乗じて席巻し、威は天下を震わせた。しかし兵は京・索の間に困し、西山に迫られて進めず、すでに三年が過ぎている。
一方、漢王は数十万の軍を率い、鞏・洛を守り、山河の険に拠って日に数度戦うも、寸功もなく、敗走して救えず、滎陽に敗れ、成皋を傷つけ、ついに宛・葉の間へと逃れた。これは知も勇もともに尽きた姿である。
鋭気は険塞で挫かれ、糧食は内府に尽き、百姓は疲弊し怨みを抱き、寄る辺なき状態である。臣がこれを推し量るに、天下の賢聖でなければ、この禍を鎮めることはできぬ。今、両主の命運は、すべて足下の手中にある。足下が漢に与すれば漢が勝ち、楚に与すれば楚が勝つのである。
臣は腹を割き、肝胆を尽くして愚計を申し上げたいが、足下が用いられぬのを恐れる。誠に臣の計をお聞き入れになるならば、両者を利してともに存続させ、天下を三分し、鼎の三足のごとく並び立たせるのが最善である。そうなれば、いずれも軽々しく動くことはできぬ。
足下は賢聖であり、甲兵の衆を有し、強大な斉を拠点とし、燕・趙を従え、虚を突いて背後を制し、民の望みに従い、西に向かって百姓のために命を請えば、天下は風のごとく走り、響きのごとく応ずるであろう。誰が従わぬ者があろうか。
国が大にして弱を抑え、諸侯を立て、諸侯が立てば、天下は服して徳を斉に帰する。斉の旧地である膠・泗の地を保ち、徳をもって諸侯を懐柔し、深く拱手して謙譲すれば、天下の君王は競って斉に朝するであろう。
聞くところによれば、『天が与えたものを取らねば、かえって咎を受け、時が至って行動せねば、かえって禍を受ける』という。どうか足下、よくお考えなされよ。」
韓信は言った。
「漢王は私を厚遇してくれた。車に乗せ、衣を与え、食を与えてくれた。私は聞いている。人の車に乗る者はその患いを担い、人の衣を着る者はその憂いを懐き、人の食を食べる者はそのために死すべきであると。どうして利益のために義を背くことができようか。」
蒯通は言った。
「足下は漢王を善とし、万世の業を立てようとするが、臣はそれを誤りと考える。
かつて常山王と成安君は布衣のとき、刎頸の交わりを結んだが、後に張黶・陳澤の事で争い、互いに怨んだ。常山王は項王を背き、項嬰の首を奉じて漢に帰り、漢王は兵を借りて東下し、成安君を泜水の南で殺し、首と胴は異なる所に置かれ、天下の笑い者となった。
この二人は天下第一の親交であったのに、ついに互いに捕らえ合った。これは欲が多く、人心が測り難いからである。今、足下が忠信をもって漢王に仕えようとしても、二君の交わりほどにも固くはなれぬ。しかも事は張黶・陳澤よりはるかに大きい。
また、大夫種・范蠡は越を存亡の境から救い、句践を覇者とし、功成り名を遂げながら身を全うしなかった。獣が尽きれば猟犬は煮られるのである。
足下は主を震わせるほどの威を帯び、天下を覆う功を挟んでいる。楚に帰れば楚は信ぜず、漢に帰れば漢は恐れる。足下はこの身をどこに安んじるおつもりか。臣は足下の身を危ういと考える。」
韓信は言った。
「先生、しばらくお休み願いたい。私はよく考えてみる。」
数日後、蒯通はまた説いた。
「時を聞くのは事の兆しであり、計を立てるのは事の機である。聞くべきを聞き損じ、計るべきを失してなお久しく安んずる者は少ない。決断できぬことは万事の禍である。功は成し難く、敗れやすく、時は得難く、失いやすい。時は再び来ない。」
しかし韓信はなおも迷い、漢を背くに忍びず、また自ら功が多いから漢も斉を奪うことはあるまいと思い、ついに蒯通の説を退けた。蒯通は狂を装い、巫となった。
のち、漢王が固陵で苦境に陥ると、張良の計により斉王信を召し、垓下に会して項羽を討った。漢五年正月、韓信は斉王から楚王に移され、都を下邳とした。
信が国に至ると、かつて自分に食を与えた漂母を召して千金を賜り、また郷里南昌亭の亭長には百銭を賜って言った。
「そなたは小人である。徳をなして終えなかったからである。」
また、かつて自分に跨下の辱めを与えた少年を召し出して楚の中尉とした。諸将相に告げて言った。
「これは壮士である。辱めを受けた時、殺そうと思えば殺せたが、殺しても名が立たぬゆえに耐え忍んだのである。」
項王の亡将である鐘離眛は、家が伊廬にあり、もとより韓信と親しかった。項王の死後、亡命して韓信のもとに帰った。漢王は眛を恨み、その楚にいると聞いて、楚に詔して眛を捕えさせようとした。
韓信がはじめて楚王として国に入ると、県邑を巡行し、兵を整えて出入りした。漢六年、人が上書して楚王信が反しようとしていると告げた。高帝は陳平の計を用い、天子が巡狩して諸侯を会し、南方に雲夢があるとして、使者を発して諸侯を陳に集め、「私は雲夢に遊ぶ」と告げた。実は韓信を襲うつもりであったが、韓信はそれを知らなかった。
高祖がまさに楚に至ろうとしたとき、韓信は兵を発して反しようとも思ったが、自ら罪がないと考え、また帝に謁見したいとも思った。しかし捕えられるのを恐れた。ある者が韓信に言った。
「鐘離眛を斬って帝に謁すれば、帝は必ず喜び、患いはないでしょう。」
韓信は眛に会って相談した。眛は言った。
「漢が楚を討たないのは、私があなたのもとにいるからである。もし私を捕えて漢に媚びようとするなら、私は今日死ぬが、あなたもすぐに滅ぶであろう。」
そして韓信を罵って言った。
「あなたは長者ではない。」
ついに自ら首を刎ねた。
韓信はその首を持って陳において高祖に謁した。高祖は武士に命じて韓信を縛らせ、後車に載せた。韓信は言った。
「果たして人の言った通りである。『狡兎死して良狗亨られ、高鳥尽きて良弓蔵され、敵国破れて謀臣亡ぶ』という。天下がすでに定まった今、私はまさに煮られるべきである。」
帝は言った。
「人があなたの反を告げたのだ。」
こうして韓信は拘束された。洛陽に至って罪を赦され、淮陰侯とされた。
韓信は漢王が自分の才能を恐れ憎んでいることを知り、常に病と称して朝廷に出仕しなかった。ここから日夜怨みを抱き、ふだんから不満に満ち、絳侯・灌侯らと並ぶことを恥じた。
あるとき樊噲を訪ねると、噲は跪いて迎え、臣と称して言った。
「大王がよくも私のところへお越しくださいました。」
韓信は門を出て笑い、
「私は噲のような者と同列であったのか。」
と言った。
帝はしばしば諸将の才能を論じ、韓信に問うた。
「私にはどれほどの兵を将たることができるか。」
韓信は言った。「陛下はせいぜい十万であります。」
帝は言った。「では君はどうか。」
「臣は、多ければ多いほどよろしいのであります。」
帝は笑って言った。
「多ければ多いほどよいのに、なぜ私に捕えられたのか。」
韓信は言った。
「陛下は兵を将たることはできませんが、将を将たることができます。これこそが、私が陛下に捕えられた理由であります。しかもそれは天の授けたもので、人力によるものではありません。」
陳豨が鉅鹿守に任じられ、別れの挨拶に淮陰侯を訪れた。淮陰侯はその手を取り、左右を退けて庭を歩きながら天を仰いで嘆じて言った。
「君と語るべきことがある。」
陳豨は言った。「将軍の命に従います。」
淮陰侯は言った。
「君の治める地は天下の精兵の集まる所であり、しかも君は陛下の信任厚い臣である。人が君の反を告げても、陛下は必ず信じない。二度告げられてようやく疑い、三度告げられてはじめて怒って自ら出兵するであろう。そのとき私は内から呼応し、天下を取ることができる。」
陳豨はもとより韓信の才能を知っていたので信じ、
「謹んで教えを奉じます。」
と言った。
漢十年、陳豨は果たして反した。帝は自ら軍を率いて討伐に向かい、韓信は病と称して従わなかった。密かに使者を陳豨のもとに送り、
「弟が挙兵したなら、私は内からこれを助ける。」
と伝えた。
さらに韓信は家臣と謀り、夜中に偽の詔を作って囚人や奴婢を赦免し、これを率いて呂后と太子を襲う計画を立てた。準備は整い、陳豨からの報を待っていた。
ところが、ある舎人が罪を得て投獄され、殺されそうになった。その弟が変事を上奏し、韓信の謀反を呂后に告げた。
呂后は直ちに召そうとしたが、党与が応じぬことを恐れ、蕭何と謀り、使者を偽って
「陳豨はすでに誅され、列侯・群臣はみな祝賀している」
と伝えさせた。
蕭何は韓信を欺いて言った。
「病であっても無理にでも入朝して賀すべきである。」
韓信が入ると、呂后は武士に命じてこれを縛り、長楽宮の鐘室で斬った。
韓信は斬られながら言った。
「私は蒯通の計を用いなかったことを悔やむ。ついに婦女子のような者に欺かれた。これが天命であろうか。」
こうして韓信の三族は皆殺しにされた。
高祖は陳豨の軍から帰り、韓信の死を知ると、喜びと憐れみとが入り交じり、
「韓信は死に際して何と言ったか。」
と問うた。
呂后は言った。
「蒯通の計を用いなかったことを悔やんでいました。」
高祖は言った。
「それは斉の弁士である。」
そこで詔して斉に命じ、蒯通を捕えさせた。蒯通が至ると、高祖は言った。
「お前は淮陰侯に反を教えたのか。」
蒯通は答えた。
「その通りです。臣は確かに教えました。あの若僧が私の策を用いなかったので、自らこのような最期を迎えたのです。もし彼が臣の策を用いていたなら、陛下はどうしてこれを誅することができたでしょうか。」
帝は怒って言った。「煮殺せ。」
蒯通は言った。「嗟呼、冤罪で煮殺されるとは。」
帝は言った。「韓信に反を教えておいて、何が冤罪か。」
蒯通は言った。
「秦の綱紀が断たれ、天下が大いに乱れ、異姓の諸侯が並び起こり、英雄豪傑が群がりました。
秦が鹿(禄と同音)を失うと、天下がこれを共に追い、脚の速い者が先にこれを得たのです(中原に鹿を逐う)。
盗賊の犬が堯を吠えても、堯が不仁なのではなく、犬が自分の主でないから吠えたのです。
当時、臣はただ韓信のみを知り、陛下を知りませんでした。しかも陛下のために事をなそうとしていた者は天下に無数にいました。ただ力が及ばなかっただけです。
これをすべて煮殺すことができましょうか。」
高帝は言った。
「よい、放免せよ。」
こうして蒯通の罪は赦されたのである。
太史公(司馬遷)のコメント。
私はかつて淮陰に行ったことがあるが、淮陰の人々が私にこう語ってくれた。
「韓信は布衣の身分であったころから、すでにその志は凡人とは異なっていました」
その母が亡くなったとき、韓信は貧しく、葬るだけの財もなかった。しかし彼は、あえて高くて広い土地を選んで墓を営み、そのそばに一万戸の人家が置けるほどの場所を定めたという。私はその母の墓を実際に見たが、まさにその通りであった。
もし仮に、韓信が道を学び、謙虚でへりくだり、自らの功績を誇らず、自分の才能をひけらかさなかったならば、ほとんど確実に、漢王朝における功臣として、周公・召公・太公望のような人物に並び、後世にわたって祭祀を受ける存在になっていたであろう。
しかし彼はそうしなかった。天下がすでに定まったのに、なお背反と反逆を謀り、そのために一族が皆殺しにされる結果となった。これは、むしろ当然の帰結ではなかったであろうか。
(『史記』の翻訳、終わり)
[一番上]
王莽 儒教を利用し漢王朝を簒奪した外戚
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○ポイント、キーワード
○辞書的な説明
○略年表
○その他
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李自成 明を滅ぼした逆賊か農民の英雄か
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○略年表
○その他
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雍正帝 清王朝を支えた謹厳実直な改革者 1678-1735
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○その他
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李光耀 シンガポールを建国した華人四世 1923-2015
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○辞書的な説明
○略年表
○その他
[一番上]
【参考】 今まで取り上げた人物
★講座の実施日順
- 秦の始皇帝
- 前漢の高祖・劉邦
- 宋の太祖・趙匡胤
- 清末の西太后
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- 共通祖先の作り方 黄帝
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- インフラ化した姓 後漢の光武帝
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- 史上最強の引き締めの結末 明の洪武帝
- 打ち破れなかった2つのジンクス 蒋介石
- パワーゲーマーの栄光と転落 唐の玄宗
- 織田信長もあこがれた古代の聖王 周の文王
- 「19浪」の苦節をのりこえた覇者 晋の文公
- 早すぎた世界帝国 元のクビライ
- 中国統治の要道を示した大帝 康煕帝
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- 蜀漢の劉備 「負け太り」で勝ち抜いた三国志の英雄
- 明の万暦帝 最後の漢民族系王朝の最後の繁栄
- 袁世凱 83日間で消えた「中華帝国」の「洪憲皇帝」
- 劉少奇 21世紀も終わらない毛沢東と劉少奇の闘争
- 楚の荘王――初めは飛ばず鳴かずだった覇者
- 斉の孟嘗君――鶏鳴狗盗の食客を活用した戦国の四君
- 呉の孫権――六朝時代を創始した三国志の皇帝
- 梁の武帝――ダルマにやりこめられた皇帝菩薩
- 南唐の李U――李白と並び称せられる詩人皇帝
- 台湾の鄭成功――大陸反攻をめざした日中混血の英雄
- 趙の藺相如――国を守った刎頸の交わり
- 前秦の苻堅――民族融和を信じた帝王の悲劇
- 北魏の馮太后――欲深き事実上の女帝
- 隋の煬帝――日没する処の天子の真実
- 明の劉瑾――帝位をねらった宦官
- 林彪――世界の中国観を変えた最期
- 項羽――四面楚歌の覇王
- 司馬仲達――三国志で最後に笑う者
- 太武帝――天下を半分統一した豪腕君主
- 憑道――五朝八姓十一君に仕えた不屈の政治家
- チンギス・カン――子孫は今も1600万人
- 宋美齢――英語とキリスト教と蒋介石
- 平原君―食客とともに乱世を戦う
- 陳平―漢帝国を作った汚い政治家
- 秦檜―最も憎まれた和平主義者
- 曽国藩―末世を支えた栄光なき英雄
- 汪兆銘―愛国者か売国奴か
- 江青―女優から毛沢東夫人へ
- 孔子 東洋の文明をデザインした万世の師表
- 司馬遷 司馬遼太郎が心の師とした歴史の父
- 玄奘 孫悟空の三蔵法師のモデルはタフガイ
- 李白 酒と旅を愛した詩人の謎に満ちた横顔
- 岳飛 中華愛国主義のシンボルとなった名将
- 魯迅 心の近代化をはかった中国の夏目漱石
- 扁鵲 超人的な医術を駆使した伝説の名医
- 孟子 仁義と王道政治を説いた戦国の亜聖
- 達磨 中国禅宗の祖師はインド人の仏教僧
- 白居易 清少納言と紫式部の推しの大詩人
- 鄭和 大航海時代を開いたムスリムの宦官
- 李小龍 哲学と映画に心血を注いだ武術家
- 夏姫 衰えぬ美貌で多くの君臣と関係した美魔女
- 孫子 戦争哲学を説いた春秋と戦国の二人の孫子
- 張騫 武帝の命令で西域を探検した前漢の冒険家
- 慧能 日本・中国・韓国・ベトナムの禅僧の源流
- 洪秀全 清末の太平天国の乱を起したカルト教祖
- 梅蘭芳 毛沢東が「私より有名だ」と言った名優
- 趙飛燕 ― 妹とともに皇帝を虜にした舞姫
- 阮籍 ― 三国志の乱世を生きた竹林の七賢
- 後周の世宗 ― 五代一の名君となった養子
- 魏忠賢 ― 明王朝を傾けた史上最悪の宦官
- ダライ・ラマ5世 ― チベット統一の英主
- 林則徐 ― アヘン戦争で善戦した欽差大臣
- 伍子胥――祖国を滅ぼし死屍に鞭打った復讐者
- 冒頓単于――東ユーラシアのもう一人の始皇帝
- 鳩摩羅什――日本人が読むお経を作った訳経僧
- 郭子儀――中国を滅亡から救った遅咲きの名将
- 蘇軾――書道と豚の角煮でも有名な文豪政治家
- 李徳全――平塚らいてうとも対談した女性大臣
- 屈 原 毛沢東が田中角栄に本を渡した意味
- 朱全忠 中世と貴族制を終わらせた反逆者
- 李清照 戦争に引き裂かれたおしどり夫婦
- マルコ・ポーロ 世界史を変えた大旅行家
- 王陽明 知識と実行は一体と説いた思想家
- 順治帝 中国本土を征服した皇帝の死の謎
- 老子 行方知れずになったタオイズムの開祖
- 張衡 天文学や地震も研究した古代の科学者
- 鑑真 日本に移住した史上初のビッグネーム
- 北宋の太宗 日本を羨んだ兄殺し疑惑の皇帝
- 朱舜水 水戸黄門が師とあおいだ亡命中国人
- 老舎 満州人の世界的作家と文革での謎の死
- 張良 劉邦の天下取りをささえた名軍師
- 竇皇后 前漢の基礎を確立した影の主役
- 杜甫 詩聖とたたえられた社会派の詩人
- 朱子 東アジアの官学を創出した儒学者
- 張献忠 無差別大量殺人の残虐な反逆者
- 張作霖 馬賊あがりの奉天派軍閥の総帥
- 晏嬰 孔子と同時代の名宰相だった小男 あんえい
- 呂后 三大悪女と称される史上初の皇后 りょこう
- 周瑜 孫権を補佐し曹操を破った貴公子 しゅうゆ
- 文天祥 歴史を変えた科挙の首席合格者 ぶんてんしょう
- 秋瑾 和服と日本刀を愛した女性革命家 しゅうきん
- 川島芳子 謀略と謎に満ちた男装の麗人 かわしまよしこ
- 蘇秦 舌先三寸だけで戦国を動かす遊説家 ?-前284年
- 荊軻 始皇帝暗殺未遂事件の伝説的な刺客 ?-前227年
- 阿倍仲麻呂 中国史の一部となった日本人 698−770
- 黄巣 唐に引導を渡した科挙落第者の怨念 835ごろ-884
- 呉三桂 明清交替戦争の決定票を握る将軍 1612−1678
- 褒姒(ほうじ) 微笑みで国を滅ぼしたファム・ファタール 前790年代?-前771?
- 韓非子(かんぴし) 故事成語の宝庫は中国のマキャヴェリ 前280頃-前233
- 関羽(かんう) 道教の神として祭られる三国志の義の武将 160頃-220
- 楊貴妃(ようきひ) 史上まれな美女の知られざる真実とは 719-756
- マテオ・リッチ 西洋から中国に渡来したイタリア人宣教師 1552-1610
- 梁啓超(りょうけいちょう) 日本とも縁が深い近代言論人 1873-1929
- 昭襄王 秦を最強国とした始皇帝の曾祖父 前325-前251
- 韓信 漢の天才軍略家の屈辱と栄光の人生 前231-前196
- 王莽 儒教を利用し漢王朝を簒奪した外戚 前45-23
- 李自成 明を滅ぼした逆賊か農民の英雄か 1606-1645
- 雍正帝 清王朝を支えた謹厳実直な改革者 1678-1735
- 李光耀 シンガポールを建国した華人四世 1923-2015
★時代順
先秦時代(三皇五帝、夏・殷・周、春秋・戦国)
- 共通祖先の作り方 黄帝 前2717?-前2599?
- 太古の堯と舜 「昭和」の出典になった伝説の聖天子
堯:前2356?-前2255? 舜:前2294?-前2184?
- 古代の禹王 中華文明の原体験 前2123?-前2025?
- 殷の紂王 酒池肉林の伝説の虚と実 前1105?-前1046?
- 織田信長もあこがれた古代の聖王 周の文王 前1152?-前1056?
- 褒姒(ほうじ) 微笑みで国を滅ぼしたファム・ファタール 前790年代?-前771?
- 斉の桓公 中国史上最初の覇者 前716-前643
- 「19浪」の苦節をのりこえた覇者 晋の文公 前697-前628
- 夏姫 衰えぬ美貌で多くの君臣と関係した美魔女 前630頃-?
- 楚の荘王――初めは飛ばず鳴かずだった覇者 前613-前591
- 孫子 戦争哲学を説いた春秋と戦国の二人の孫子
孫武:前544?-前496? 孫臏:前380頃-前320頃
- 老子 行方知れずになったタオイズムの開祖 前571頃?-前471頃?
- 晏嬰 孔子と同時代の名宰相だった小男 前578-前500
- 伍子胥――祖国を滅ぼし死屍に鞭打った復讐者 前559?-前484
- 孔子 東洋の文明をデザインした万世の師表 前552/551-前479
- 扁鵲 超人的な医術を駆使した伝説の名医 前407頃?-前310頃?
- 臥薪嘗胆の復讐王・勾践 前520頃-前465頃
- 斉の孟嘗君――鶏鳴狗盗の食客を活用した戦国の四君 前391頃-前305頃
- 孟子 仁義と王道政治を説いた戦国の亜聖 前372-前289
- 蘇秦 舌先三寸だけで戦国を動かす遊説家 ?-前284年
- 屈原 毛沢東が田中角栄に本を渡した意味 前340頃-前278頃
- 平原君―食客とともに乱世を戦う 前308-前251
- 昭襄王 秦を最強国とした始皇帝の曾祖父 前325-前251
- 趙の藺相如――国を守った刎頸の交わり 前305頃-前240頃
秦・漢・三国(漢末)
- 始皇帝をつくった男・呂不韋 前292-前235
- 韓非子(かんぴし) 故事成語の宝庫は中国のマキャヴェリ 前280頃-前233
- 秦の始皇帝 前259-前210
- 荊軻 始皇帝暗殺未遂事件の伝説的な刺客 ?-前227年
- 劉邦をささえた宰相・蕭何 前257?-前193
- 前漢の高祖・劉邦 前256/247―前195
- 張良 劉邦の天下取りをささえた名軍師 前250頃-前186
- 陳平―漢帝国を作った汚い政治家 前250頃-前178
- 冒頓単于――東ユーラシアのもう一人の始皇帝 ?-前174
- 呂后 三大悪女と称される史上初の皇后 前241?-前180
- 項羽――四面楚歌の覇王 前232-前202
- 韓信 漢の天才軍略家の屈辱と栄光の人生 前231頃-前196
- 竇皇后 前漢の基礎を確立した影の主役 前205?前135
- 張騫 武帝の命令で西域を探検した前漢の冒険家 前164?-前114?
- 東アジアに残した影響 漢の武帝 前156-前87
- 司馬遷 司馬遼太郎が心の師とした歴史の父 司馬遷:前145?-前86?
- 趙飛燕 ― 妹とともに皇帝を虜にした舞姫 趙飛燕:前32?-前1?
- インフラ化した姓 後漢の光武帝 5-57
- 王莽 儒教を利用し漢王朝を簒奪した外戚 前45-23
- 張衡 天文学や地震も研究した古代の科学者 78-139
- 魏の曹操 漢・侠・士の男の人間関係 155-220
- 関羽(かんう) 道教の神として祭られる三国志の義の武将 160頃-220
- 蜀漢の劉備 「負け太り」で勝ち抜いた三国志の英雄 161-223
- 周瑜 孫権を補佐し曹操を破った貴公子 175-210
- 司馬仲達――三国志で最後に笑う者 179-251
- 蜀漢の諸葛孔明 士大夫の典範 181-234
- 呉の孫権――六朝時代を創始した三国志の皇帝 182-252
魏晋南北朝(五胡十六国時代、六朝時代)
- 阮籍 ― 三国志の乱世を生きた竹林の七賢 210-263
- 鳩摩羅什――日本人が読むお経を作った訳経僧 344-413 (350-409)
- 前秦の苻堅――民族融和を信じた帝王の悲劇 338-385
- 北魏の太武帝――天下を半分統一した豪腕君主 408-452
- 北魏の馮太后――欲深き事実上の女帝 442-490
- 梁の武帝――ダルマにやりこめられた皇帝菩薩 464-549
- 達磨 中国禅宗の祖師はインド人の仏教僧 ?-532?
隋・唐から宋・元
- 隋の煬帝――日没する処の天子の真実 569-618
- 汚れた英雄のクリーニング 唐の太宗 598-649
- 玄奘 孫悟空の三蔵法師のモデルはタフガイ 602-664
- 唐の武則天 中国的「藩閥」政治の秘密 624?-705
- 慧能 日本・中国・韓国・ベトナムの禅僧の源流 638-713
- パワーゲーマーの栄光と転落 唐の玄宗 685-762
- 阿倍仲麻呂 中国史の一部となった日本人 698−770
- 鑑真 日本に移住した史上初のビッグネーム 688-763
- 郭子儀――中国を滅亡から救った遅咲きの名将 697-781
- 李白 酒と旅を愛した詩人の謎に満ちた横顔 701-762
- 杜甫 詩聖とたたえられた社会派の詩人 712-770
- 楊貴妃(ようきひ) 史上まれな美女の知られざる真実とは 719-756
- 白居易 清少納言と紫式部の推しの大詩人 772-846
- 黄巣 唐に引導を渡した科挙落第者の怨念 835頃-884
- 朱全忠 中世と貴族制を終わらせた反逆者 852-912
- 憑道――五朝八姓十一君に仕えた不屈の政治家 882−954
- 後周の世宗 ― 五代一の名君となった養子 921-959
- 南唐の李U――李白と並び称せられる詩人皇帝 937-978
- 宋の太祖・趙匡胤 927-976
- 北宋の太宗 日本を羨んだ兄殺し疑惑の皇帝 939-997
- 蘇軾――書道と豚の角煮でも有名な文豪政治家 1037-1101
- 宋の徽宗 道楽をきわめた道君皇帝 1082-1135
- 李清照 戦争に引き裂かれたおしどり夫婦 1084-1155
- 秦檜―最も憎まれた和平主義者 1090-1155
- 岳飛 中華愛国主義のシンボルとなった名将 1103-1142
- 朱子 東アジアの官学を創出した儒学者 1130-1200
- チンギス・カン――子孫は今も1600万人 1162-1227
- チンギス・カンの側近・耶律楚材 1190-1244
- 早すぎた世界帝国 元のクビライ 1215-1294
- 文天祥 歴史を変えた科挙の首席合格者 1236-1283
- マルコ・ポーロ 世界史を変えた大旅行家 1254-1324
明・清
- 史上最強の引き締めの結末 明の洪武帝 1328-1398
- 明の永楽帝 世界制覇の見果てぬ夢 1360-1424
- 鄭和 大航海時代を開いたムスリムの宦官 1371-1433
- 明の劉瑾――帝位をねらった宦官 1451-1510
- 王陽明 知識と実行は一体と説いた思想家 1472-1529
- マテオ・リッチ 西洋から中国に渡来したイタリア人宣教師 1552-1610
- 明の万暦帝 最後の漢民族系王朝の最後の繁栄 1563-1620
- 魏忠賢 ― 明王朝を傾けた史上最悪の宦官 1568-1627
- 朱舜水 水戸黄門が師とあおいだ亡命中国人 1600-1661
- 張献忠 無差別大量殺人の残虐な反逆者 1606-1647
- 李自成 明を滅ぼした逆賊か農民の英雄か 1606-1645
- 呉三桂 明清交替戦争の決定票を握る将軍 1612−1678
- ダライ・ラマ5世 ― チベット統一の英主 1617-1682
- 台湾の鄭成功――大陸反攻をめざした日中混血の英雄 1624-1662
- 順治帝 中国本土を征服した皇帝の死の謎 1638-1661
- 中国統治の要道を示した大帝 康煕帝 1654-1722
- 雍正帝 清王朝を支えた謹厳実直な改革者 1678-1735
- 清の乾隆帝 世界の富の三割を握った帝王 1711-1799
- 林則徐 ― アヘン戦争で善戦した欽差大臣 1785-1850
- 曽国藩―末世を支えた栄光なき英雄 1811-1872
- 洪秀全 清末の太平天国の乱を起したカルト教祖 1814-1864
- 清の李鴻章 老大国をささえた大男 1823-1901
- 清末の西太后 1835-1908
近現代
- 大元帥になった国際人・孫文 1866-1925
- 袁世凱 83日間で消えた「中華帝国」の「洪憲皇帝」 1859-1916
- 梁啓超(りょうけいちょう) 日本とも縁が深い近代言論人 1873-1929
- 張作霖 馬賊あがりの奉天派軍閥の総帥 張作霖:1875-1928
- 秋瑾 和服と日本刀を愛した女性革命家 1875-1907
- 魯迅 心の近代化をはかった中国の夏目漱石 1881-1936
- 汪兆銘―愛国者か売国奴か 1883-1944
- 打ち破れなかった2つのジンクス 蒋介石 1887-1975
- 中華人民共和国の毛沢東 1893-1976
- 梅蘭芳 毛沢東が「私より有名だ」と言った名優 1894-1961
- 李徳全――平塚らいてうとも対談した女性大臣 1896−1972
- 周恩来 失脚知らずの不倒翁 1898-1976
- 劉少奇 21世紀も終わらない毛沢東と劉少奇の闘争 1898-1969
- 宋美齢――英語とキリスト教と蒋介石 1898-2003
- 老舎 満州人の世界的作家と文革での謎の死 1899-1966
- 21世紀の中国をデザイン ケ小平 1904-1997
- 清と満洲国の末代皇帝・溥儀 1906-1967
- 川島芳子 謀略と謎に満ちた男装の麗人 1907-1948
- 林彪――世界の中国観を変えた最期 1907-1971
- 江青―女優から毛沢東夫人へ 1914-1991
- 李光耀 シンガポールを建国した華人四世 1923-2015
- 李小龍 哲学と映画に心血を注いだ武術家 1940-1973
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