歴史を理解することは、人間を理解すること。ヒストリー(歴史)とストーリー(物語)は、もとは同じ言葉でした。中国の伝統的な「紀伝体」の歴史書も、個々人の伝記を中心とした文学作品でした。日程 2022/10/13, 10/27, 11/10, 11/24, 12/8, 12/22
本講座では、後世に大きな影響を残した中国史上の人物をとりあげ、運や縁といった個人の一回性の生きざまと、社会学的な法則や理論など普遍的な見地と、その両面から、歴史を再解釈します。豊富な図像を交えて、予備知識のないかたにもわかりやすく説き明かします。(講師・記)
こう‐う〔カウ‐〕【項羽】
□[前232〜前202]中国、秦末の武将。宿遷(江蘇省)の人。名は籍。叔父項梁とともに兵を挙げ、漢の高祖(劉邦)と協力して秦を倒し、楚王となった。のち、劉邦と天下を争うが、垓下(がいか)の戦いに敗れ、烏江(うこう)で自殺。
□謡曲。五番目物。唐の烏江の野辺の草刈り男の前に、項羽の霊が現れ、回向を頼み、激戦の模様を語る。
沛公(劉邦のこと)の左司馬の曹無傷が、使者を送り項羽に密告した。項羽は、咸陽に入ると、秦の最後の王である子嬰を一族ごと皆殺しにして、宮殿を焼き払った。
「沛公は関中の王になる野心があります。彼は、秦の三世皇帝になってもおかしくなかった子嬰を大臣に任命し、宝物を独占しています」
項羽は激怒した。この時、項羽の軍勢は約40万人で新豊の鴻門に駐屯していた。沛公こと劉邦の兵は約10万人で霸上にあった。
「亜父」こと范増は、項羽に言った。「沛公(劉邦)は山東にいたときは財貨と美女に目がない遊び好きでした。 しかし、関中に入った今は、宝にも美女にも淡泊です。 これは劉邦が大きな野心を抱いているからです。 望気術の者に劉邦の姿を見させたところ、やつには、天子になる気があります。 今のうちに劉邦を攻めねば、たいへんなことになりますぞ」
項羽の叔父である項伯(?−前192)は、劉邦の家来である張良と仲がよかった。項伯は劉邦に、釈明にゆくようアドバイスした。
翌朝、劉邦は百騎余りの家来を従え、項王に釈明するため、鴻門に来た。劉邦は言った。
「将軍は河北で戦い、私は河南で戦いました。 予想外のことに、私が先に関中に入ってしまいました。将軍と私を仲違いさせて戦わせようとして、根も葉もない讒言をする、つまらぬ者がいるようです」
項羽は劉邦の顔を見ると、警戒心をといて、言った。
「沛公の左司馬の曹無傷が、そんなことを言っていた。私がここに来たのは、彼の言葉のせいだ」
項羽は、劉邦を招いて酒盛りをした。范増は、劉邦を殺すように項羽に目配せしたが、項羽は応じない。
范増は、項羽のいとこである項荘にひそかに命じて、剣舞に乗じて劉邦を暗殺させようとした。それを察した項伯が同時に剣舞をして劉邦の身をかばった。
劉邦の部将で、犬殺しの肉屋あがりの樊噲(はん かい、? - 紀元前189年)も急を聞いてかけつけた。樊噲は、
「私たちは命がけで、悪い秦を倒すためにともに戦ってきたのに、このしうちは何ですか。 懐王さまは、最初に咸陽に入った者を関中王にするとお約束され、たまたま、 わが主人が咸陽に一番乗りしました。 でも、わが主人は、自分が項羽さまをさしおいて関中王になるなんて恐れ多い、と思って、 宝にも美女にも手をつけず、 自分の軍隊を郊外にまで引き上げて、 項羽さまをお待ちしていたのですぞ。 そんな、わが主人のまごころを、お疑いなさるのか」
無学で口べたな樊噲がそう言うと、項羽は「まあ、座れ」と言い、宴会を続けた。
しばらくして、ころあいを見計らい、劉邦はトイレに行くという口実で、樊噲とともに宴会場から逃げ出した。
劉邦の家来の張良は、あやまって言った。
「沛公は酒に酔いすぎたので、お先に失礼しました。ご挨拶もせず、ご無礼の段、おゆるしください。 つつしんで白璧一対を大王様(項羽)に、玉斗一対を大将軍様(范増)に献上いたします」
范増は、受け取った玉斗を、剣でうち砕くと、
「ああ、豎子(じゅし)、与に(ともに)謀るに足らず。項王の天下を奪う者は、必ず沛公ならん。吾が属、今にこれが虜とならん」
と嘆息した。
劉邦は自陣に戻ると、立ちどころに曹無傷を殺した。
司馬遷『史記』項羽本紀より | ||
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【原漢文】 項王軍壁垓下。兵少食尽。漢軍及諸侯兵囲之数重。 夜聞漢軍四面皆楚歌、項王乃大驚曰「漢皆已得楚乎? 是何楚人之多也!」。 項王則夜起、飲帳中。有美人名虞、常幸従。駿馬名騅、常騎之。 於是、項王乃悲歌慨、自為詩曰「 力抜山兮気蓋世、 時不利兮騅不逝。 騅不逝兮可奈何、 虞兮虞兮奈若何?」。 歌数闋、美人和之。項王泣数行下、左右皆泣、莫能仰視。 於是項王乃上馬騎、麾下壮士騎従者八百余人、直夜潰囲南出、馳走。平明、漢軍乃覚之、令騎将潅嬰以五千騎追之。 |
【書き下し文】 項王の軍、垓下に壁す。兵少なく食尽く。漢軍及び諸侯の兵、之を囲むこと数重なり。 夜、漢軍の四面に皆楚歌するを聞き、項王乃ち大いに驚きて曰く「漢、皆已に楚を得たるか。是れ何ぞ楚人の多きや」と。 項王、則ち夜起ちて帳中に飲す。美人有り、名は虞、常に幸せられて従ふ。駿馬あり、名は騅、常に之に騎す。 是に於て、項王乃ち悲歌慷慨し、自ら詩を為りて曰く、「 力、山を抜き、気、世を蓋ふ。 時、利あらずして騅逝かず。 騅の逝かざる、奈何とすべき。 虞や虞や若を奈何せん」と。 歌ふこと数闋。美人、之に和す。項王、泣数行下る。左右皆泣き、能く仰ぎ視るもの莫し。 是に於て項王乃ち上馬して騎す。麾下の壮士、騎従する者八百余人。直ちに夜、囲みを潰して南に出でて馳走す。平明、漢軍乃ち之を覚り、騎将灌嬰をして五千騎を以て之を追はしむ。 |
【読みかた】 コウオウのグン、ガイカにヘキす。ヘイスクなくショクツく。カングンオヨびショコウのヘイ、コレをカコむことスウチョウなり。 ヨル、カングンのシメンにミナソカするをキき、コウオウスナワちオオいにオドロきてイワく「カン、ミナスデにソをエたるか。コれナンぞソヒトのオオきや」と。 コウオウ、スナワちヨルタちてチョウチュウにインす。ビジンアり、ナはグ、ツネにコウせられてシタガう。シュンメアり、ナはスイ、ツネにコレにキす。 ココにオイて、コウオウスナワちヒカコウガイし、ミズカらシをツクりてイワく、 「チカラ、ヤマをヌき、キ、ヨをオオう。トキ、リあらずしてスイユかず。スイのユかざる、イカンとすべき。グやグや、ナンジをイカンせん」と。 ウタうことスウケツ、ビジンコレにワす。コウオウ、ナンダスウギョウクダる。サユウミナナき、ヨくアオぎミるものナし。 ココにオイてコウオウ、スナワちジョウバしてキす。キカのソウシ、キジュウするモノハッピャクヨニン。タダちにヨル、カコみをカイしてミナミにイでてチソウす。ヘイメイ、カングンスナワちコレをサトり、キショウカンエイをしてゴセンキをモッてコレをオわしむ。 |
太史公曰:吾聞之周生曰「舜目蓋重瞳子」、又聞項羽亦重瞳子。羽豈其苗裔邪? 何興之暴也?要約すると――項羽は、古代の聖天子である舜と同様、重瞳だった、という説がある。ひょっとして、項羽は舜の子孫なのだろうか?
夫秦失其政、陳渉首難、豪傑蠭起、相与并争、不可勝数。
然羽非有尺寸、乗勢起隴畝之中、三年、遂将五諸侯滅秦、分裂天下而封王侯、政由羽出、号為霸王、位雖不終、近古以來未嘗有也。
及羽背関懐楚、放逐義帝而自立、怨王侯叛己、難矣。
自矜功伐、奮其私智而不師古、謂霸王之業、欲以力征経営天下、五年、卒亡其国、身死東城、尚不覚寤、而不自責、過矣。
乃引「天亡我、非用兵之罪也」、豈不謬哉!
正史『晋書』より 帝内忌而外ェ,猜忌多權變。魏武察帝有雄豪志,聞有狼顧相,欲驗之。乃召使前行,令反顧,面正向後而身不動。又嘗夢三馬同食一槽,甚惡焉。因謂太子丕曰:「司馬懿非人臣也,必預汝家事。」 |
世祖太武皇帝諱Z,明元皇帝之長子也。母曰杜貴嬪。天賜五年,生於東宮。體貌瑰異,道武奇之,曰:「成吾業者必此兒也。」泰常七年四月,封太平王。五月,立為皇太子。
https://zh.wikisource.org/wiki/北史/卷002#世祖太武帝 以下同じ |
中国の道教は、民衆道教と教会道教(国家公認の道教教団)の2つに大別できるが、教会道教の最初は寇謙之の「新天師道」である。 天師道は漢末の張陵(ちょうりょう)、張衡(ちょうこう)、張魯(ちょうろ)の「三張」の五斗米道(ごとべいどう)に始まる民衆道教であったが、 魏・晋の時代に新五斗米道すなわち新天師道となり、寇謙之は新天師道を北魏の太武帝に公認させた。 中国道教の二大流派 ・正一教(しょういつきょう/せいいつきょう)←天師道←五斗米道(後漢) ・全真教(金の時代に成立。北京の白雲観は観光地としても有名) 旺文社世界史事典 三訂版より引用 新天師道 しんてんしどう 423年,北魏の寇謙之 (こうけんし) が開いた道教の一派 道教の神,太上老君の神示を受けて新天師の位を得たという寇謙之が,仏教の教理にならって五斗米道を整理・体系化したもので,太武帝により国教とされた。 |
三月甲寅,中常侍宗愛構逆,帝崩於永安宮,時年四十五。秘不發喪。 |
常曰:「法者,朕與天下共之,何敢輕也。」故大臣犯法,無所ェ假。雅長聽察,瞬息之間,下無以措其奸隱。然果於誅戮,後多悔之。 司徒崔浩死後,帝北伐,時宣城公李孝伯疾篤,傳者以為卒,帝聞而悼之,謂左右曰:「李宣城可惜。」又曰:「朕向失言,崔司徒可惜,李宣城可哀。」褒貶雅意,皆此類也。 |
馮道(ふうどう)(882―954)
中国、五代の政治家。「ひょうどう」とも読む。瀛(えい)州景城(河北省献県)の人。字(あざな)は可道。
唐末に燕(えん)の劉守光(りゅうしゅこう)に仕え、守光が後晋(こうしん)に敗れたのちは李存勗(りそんきょく)(後唐(こうとう)の荘宗)に仕えて翰林(かんりん)学士になる。 次の明宗の代には博識多才と他人と競うことのない人柄を買われて宰相に抜擢(ばってき)された。 以後、五つの王朝(後唐、後晋、遼(りょう)、後漢(こうかん)、後周(こうしゅう))11人の天子に高位高官として仕えること30年、宰相を20余年務めた。
クーデターに明け暮れた乱世にあって、同時代の人々から「寛厚の長者」と称された馮道は、後世になって無節操、恥知らず者の代表と目される。 それは、君に忠といわず国に忠といい、虚名に誤られることなく何事にも現実を重視せよ、と主張した彼の人生哲学を誤解した見解であろう。
932年に彼の首唱によって始められ21年かかって完成した儒教の九経の出版は、経書の木版印刷の最初とされ、グーテンベルクの業績に対比されるほど文化史的意義が深い。
[礪波 護]『礪波護著『馮道』(1966・人物往来社)』
五代十国 ごだいじっこく Wu-dai Shi-guo; Wu-tai Shih-kuo
中国で唐が滅亡 (907) してから宋が成立 (960) し,全国を統一するまでの時代をいう。 五代とは華北を中心に後梁,後唐,後晋,後漢,後周の5王朝が興亡したところから出た名であり,そのほか各地には前蜀,後蜀,呉,南唐,呉越, 閩,荊南 (南平) ,楚,南漢,北漢などの諸国があったので十国という。
五代十国は武人政治の時代で,武力を握った節度使,鎮将などが各地に割拠し,諸国の君主はいずれも節度使の出身であった。 しかもこれらの節度使の多くは,唐末の争乱のなかから身を起した群盗,兵士,土豪などの新興階級の出身で,そのなかには異民族出身で部将に採用された者も多く, 後唐,後晋,後漢の建国者はいずれも突厥沙陀部の出身であった。それらの軍隊の中核は,牙軍と呼ばれる親軍で,私的主従関係が一般化していた。
五代十国の君主たちは,分立割拠のなかで自国の富国強兵化をはかり,支配秩序の安定と農業生産力の開発に努めた。 とりわけ従来後進地域であった華中,華南の開発は著しく,各地に特産物を生み出し,商品流通も盛んとなり,宋代以後の華北を凌駕する素地がつくられた。
この時代は半世紀余にすぎないが,単なる暗黒時代ではなく,唐から宋への変革期をなすところにその時代的意義がある。
藩鎮 はんちん
中国、唐・宋(そう)期の地方官署の名称。 藩鎮は、均田体制の破綻(はたん)という政治的危機を克服するために辺境や内地に設けられた。 しかし藩鎮の長官である節度使(せつどし)は管内の軍事、行政、財政の三権を掌握し、しだいに唐朝の支配下から一個の軍閥として自立していった。 8世紀末にはその数が50ほどであったが、唐朝との、あるいは藩鎮どうしの対立のなかでしだいに淘汰(とうた)され、強力な藩鎮だけが残り、五代群雄割拠の時代を迎え、のち、宋に入って解体された。
[伊藤宏明]
道少純厚,好學能文,不恥惡衣食,負米奉親之外,惟以披誦吟諷為事,雖大雪擁戸,凝塵滿席,湛如也。
https://zh.wikisource.org/wiki/舊五代史/卷126 |
契丹入汴,道自襄、ケ召入,戎王因從容問曰:「天下百姓,如何可救?」 道曰:「此時百姓,佛再出救不得,惟皇帝救得。」 |
為子、為弟、為人臣、為師長、為夫、為父,有子、有猶子、有孫,奉身即有餘矣。為時乃不足,不足者何? 不能為大君致一統、定八方,誠有愧于?職?官,何以答乾坤之施。 時開一卷,時飲一杯,食味、別聲、被色,老安于當代耶! 老而自樂,何樂如之! 時乾祐三年朱明月長樂老序云。 【大意】私は、人の子となり、弟となり、人臣となり、指導者となり、夫なり、父となった。 私は、子をもうけ、養子をもらい、孫もできた。 いろいろ経験した。満ち足りた人生といえよう。でも、まだ足りないことがある。 主君のため天下統一を達成することは、できなかった。職務怠慢といわれてもしかたがない。天地の神さまのご恩にも報いていない。 でも、私は晩年になってしまった。人生のアフターファイブは、本を読んだり、飲食を楽しんで、マイペースで楽しむことにしよう。 これこそ、人生最高の楽しみである。 |
宋美齢 そうびれい Song Mei-ling
[生]光緒27(1901).4.1. 上海
[没]2003.10.23. ニューヨーク
中国,台湾の婦人政治家。蒋介石夫人。宋慶齢の妹。アメリカのウェスリアン女子大学卒業。 1927年蒋介石と結婚。 1930〜32年国民政府立法委員。 1936年 12月西安事件で蒋介石を救出するため西安に乗り込んだ。 1938年婦女協会新生活運動理事長。第2次世界大戦後訪米してアメリカの対国府援助引き出しのために活躍した。 1946〜50年国民党執行委員。 1950年国府の婦女反共抗俄 (露) 連合会会長。 1969年党第 10期中央評議委員。 1975年蒋の死後主としてアメリカに滞在。
四大家族【よんだいかぞく】
中国,民国時代の財閥。蒋介石,宋子文,孔祥煕,陳立夫・果夫の4家族。地方の小資産家ないし買【べん】であったが,民国成立以後次第に財を積み,特に蒋の政権掌握後,政府,国民党と緊密に結び,官僚資本として中国経済の支配権を確立,日中戦争から戦後にかけ巨大な富を蓄積した。人民共和国成立で財産を没収され,家族は台湾,米国へ逃亡した。 →関連項目 浙江財閥
せっこう‐ざいばつ セッカウ‥【浙江財閥】
<名> 中国浙江・江蘇の出身者を主体とし、上海を本拠に中国の経済界を支配した実業家の集団。 一九世紀後半に買弁資本として発生。以後金融資本に発展し、一九二七年の上海クーデターののちは国民政府と密接に関連してその資金源となるとともに、蒋介石・宋子文・孔祥熙・陳兄弟(陳果夫と陳立夫)の四大家族を生み出し、当時の政治・経済に独裁的な権力をふるった。