歴史を理解することは、人間を理解すること。ヒストリー(歴史)とストーリー(物語)は、もとは同じ言葉でした。中国の伝統的な「紀伝体」の歴史書も、個々人の伝記を中心とした文学作品でした。
本講座では、日本にも大きな影響を残した中国史上の人物をとりあげ、運や縁といった個人の一回性の生きざまと、社会学的な法則や理論など普遍的な見地の両面から、人生を紹介します。豊富な図像を使い、予備知識のないかたにもわかりやすく解説します。(講師・記)
ろう‐しラウ‥【老子】
[ 一 ] 中国古代の思想家。道家の祖。古来の伝説によれば、姓は李、名は耳(じ)、字(あざな)は耼(たん)(一説に伯陽)。春秋時代の末期、周の守蔵の史(蔵書室の管理者)。周末の混乱を避けて隠遁を決意し、西方の某関所を通過しようとしたところ、関所役人の尹喜(いんき)に請われて「老子道徳経」二巻を著わした。しかし、老子という人物は実在せず、おそらく道家学派の形成後に、その祖として虚構されたものと考えられる。
[ 二 ] 中国の道家書。二巻、八一章、約五〇〇〇字から成る。春秋時代末期に、[ 一 ]の著わしたものと伝えられるが、実際には、戦国時代における道家思想家の言説を、漢初に集成したもの。その思想は、まず宇宙間(自然界)に存する一種の理法に着目してこれを道と称し、相対的一時的とする人の道に対して、恒久不変の道としてこれを讚美する。一方、人もこの道を模範として無為自然を持することにより、かえって大成を期待し得るとし、行政の簡素を尊ぶ無為の治、卑弱謙下を旨とする無為の処世訓を述べる。有に対する無、人為に対する自然を説く思想として、後世への影響は著しい。道徳経。老子道徳経。老子経。
老子 ろうし
生没年不詳。中国古代の道家(どうか)思想の開祖とされる人物。またその著作とされる書物。
[金谷 治 2015年12月14日]
人物
老耼(ろうたん)ともいう。姓は李(り)、名は耳(じ)、字(あざな)は耼。 春秋時代に楚(そ)の苦(こ)県(河南省鹿邑(ろくゆう)県)に生まれる。周の王室の守蔵室の吏(り)(図書役人)となり、孔子(こうし)が訪れて礼の教えを受けたこともあった。 やがて周の衰微をみて隠棲(いんせい)を決意して西方に旅立った。途中、関所で関守り(関尹喜(かんいんき))の請いによって、上下2編の書を著して去ったが、行方はついに不明であったという。 しかし、この伝説には疑問が多く、それを伝える最古の資料『史記』の「老子伝」でも疑問を表明している。孔子の先輩として紀元前6世紀に活躍した人物の実在性は薄い。 今日の学説としては、前479年没の孔子より100年ほど後輩とする説や、架空の人物として実在を否定する説などもある。 要するにはっきりせず、現存の書物との結び付きで考えれば、戦国中期(前4世紀)よりさかのぼることはできない。 [金谷 治 2015年12月14日]
書物
『老子』2編はまた『道徳経』ともよばれる。上編が「道」の字で始まるので道経、下編が「徳」で始まるので徳経で、それをあわせた名称である。 儒教の道徳とは違って、宇宙人生の根源とその働きとを表すことばである。内容は約5000字。現在は81章に分けられているが、これは原初の形ではない。 文章は簡潔な格言的表現の集積で、対句(ついく)や脚韻(きゃくいん)を多く用い、意表をつく逆説的なことばにも特色があって、民間に広く口誦(こうしょう)で伝えられてきた諺(ことわざ)や格言を集めたような趣(おもむき)がある。 したがって、世俗的なことばとともに比喩(ひゆ)的な難解な語句も多く、古来の解釈も異説が多い。成立はほぼ戦国末期であろう。 注釈の数もきわめて多いが、魏(ぎ)の王弼(おうひつ)(226―249)の注が現存最古で、無の哲学としての立場から解釈し、河上公(かじょうこう)注は治身治国(ちしんちこく)の現実的な解釈のほか、養生にかかわる神仙道教への傾斜をみせていて、この二つが古注の代表である。 日本では河上公注本の古鈔(こしょう)が多い。敦煌(とんこう)からは想爾(そうじ)注が発見され、古道教での解釈をうかがわせる。 この後、唐では玄宗(げんそう)皇帝の御注、宋(そう)では林希逸(りんきいつ)(1193―1271)の注が有名で、とくに林の『口義(こうぎ)』は江戸時代にもっとも広く読まれた。 日本の注釈としては太田晴軒(せいけん)(1795―1873)の『全解』が優れる。なお1973年に中国の馬王堆(まおうたい)で発見された2種の『老子』はほぼ前200年ごろのもので、現存最古の書写本文である。
[金谷 治 2015年12月14日]
(以下略)
老子は楚の苦県(こけん)視ス(らいきょう)曲仁里(きょくじんり)の人である。姓は李氏、名は耳(じ)、字(あざな)は伯陽、諡(おくりな)は耼という。
周王室の図書館の役人であった。 孔子が周に行き、老子にいにしえの礼を問おうとすると、老子は言った。 「子(し。きみ)の言うところの者は、その人と骨と、みなすでに朽ちている。 ただ、彼らの言葉だけがむなしく残っているだけだ。 そもそも君子というものは、時流を得れば豪華な馬車を乗り回すが、時流に乗れねば転蓬(てんぽう。風に吹かれて雪だるまのように丸まった荒野の枯れ草)のようにさすらいの身となる。 『良賈(りょうこ)は深く藏して虚しきがごとく、君子は盛徳あれば容貌は愚なるがごとし』というではないか。 吾われ之これを聞きく、良賈りやうこは(四)深ふかく藏ざうして・虚きよなるが若ごとく、君子くんしは盛徳せいとくありて容貌ようばう愚ぐなるが若ごとしと。 きみの驕気(きょうき)と多欲、えらそうな態度、果てしない野心は、捨て去るがよい。 どれもきみに益がないものだ。 わたしが君に告げたいのは、それだけだ」 孔子は退出し、自分の弟子にむかって言った。 「空を飛ぶ鳥も、私にはわかる。水を泳ぐ魚も、私にはわかる。大地を走るけものも、私にはわかる。 走るけものは網で捕まえられる。泳ぐ魚は釣り糸で捕まえられる。飛ぶ鳥は矰繳(いぐるみ)で捕まえられる。 でも、龍だけは、風雲に乗じて天にのぼる龍は、私にはわからない。 私は今日会った老子という人物は、まるで龍のようではないか」 老子は道徳を修めた。自らの才を隠し名声を求めなかった。衰えた周王朝を見限り、西に向かい、函谷関に至った。 関令の尹喜(いんき)は「隠遁なさる前に、ぜひ著作を書いてくださいますよう」と懇願した。 老子は上下二篇の書物を書き、道徳について五千余字の文を残し、去った。その後の老子については、誰も知らない。 一説に、楚国の老莱子(ろうらいし)という人は著書が十五篇あり道家の効用を述べ、孔子と同時代を生きた人物だという。 あるいは老子は百六十歳以上まで生きたとも、あるいは二百歳以上まで生きたとも言われる。道を修め命を養ったゆえであろう。 孔子の死後百二十九年経ってからの史官の記録に「周の太史(たいし)儋(たん)」なる人物が出てくる。 儋は秦の献公(在位、前384年 - 前362年)に「初め周と一体だった秦は500年で離れ、さらに70年後に覇王が秦に出現するでしょう」と予言した、と記録されている。 「この儋は老子だ」と言う人もいれば、「そうじゃない」という人もいる。どちらが正しいか、もはや誰にもわからない。老子は隠君子(いんくんし)なのだ。 老子の家系について、息子の宗(そう)は魏の将軍となり段干に封じられた。宗の子は注、注の子は宮、宮の玄孫である仮は漢の文帝に仕えた。 仮の子である解は膠西王劉卬(こうせいおう りゅうこう 前154年死去)の太傅(たいふ。守り役)となり斉の地に住んだ。 世で老子を学ぶ者は孔子の儒学を退け、儒学を学ぶ者もまた老子を退ける。「道が違えば互いに話しもできぬ」とは、まさにこれか。 お互いに話し合いができない』とは、このような状態を言うのであろうか。李耳(老子)は無為でありながら自然と教化する。清らかで静かで、自然に正しくなるのが、彼の教えである。 |
不思議なことには、このドイツ語で紹介された老子はもはや薄汚い唐人服を着たにがにがとこわい顔をした貧血老人ではなくて、さっぱりとした明るい色の背広に暖かそうなオーバーを着た童顔でブロンドのドイツ人である。どこかケーベルさんに似ている、というよりはむしろケーベルさんそっくりの老人である。それが電車の中で隣席に腰かけていて、そうして明晰に爽快なドイツ語でゆっくりゆっくり自分に分かるように話してくれるのである。その話が実に面白い。哲学の講義のようでもあり、また最も実用的な処世訓のようでもあり、どうかするとまた相対性理論や非ユークリッド幾何学の話のようでもある。そうかと思うと、また今の時節には少しどうかと心配されるような非戦論を滔々と述べ聞かすのであった。引用終了
同じ思想が、支那服を着ていてそうして栄養不良の漢学者に手を引かれてよぼよぼ出て来たのではどうしても理解が出来なかったのに、それが背広にオーバー姿で電車の中でひょっくり隣合ってドイツ語で話しかけられたばかりに一遍に友達になってしまったような体裁である。
【誤】 令和の典拠となった序文は中国の漢文のパクリ
【正】 令和の典拠となった序文には中国の漢文へのオマージュがある
新元号の典拠となった一文「初春令月、気淑風和」は、後漢の文人・張衡(ちょうこう 78年-139年)の韻文作品「帰田賦」の「仲春令月、時和気清」(仲春の令月、時は和し気は清し)をふまえる。これは新発見でも何でもなく、市販の『万葉集』の注釈書に、ずっと前から書いてある周知の事実である。
一般に、古典作品は、さらにそれより古い時代の古典作品の趣向や言葉をふまえて作られる。張衡の「仲春令月、時和気清」にしても、彼はゼロから新奇な語句を作ったわけではない。
彼も当然、昔の中国人にとって必読の書籍を読み、自分の血肉としていた。張衡が「仲春令月、時和気清」と書いたとき、彼の胸の中には、『儀礼』の「令月吉日」とか、『礼記』の「四時和焉」(四時、和す)、『楚辞』の「天高而気清」(天高くして気、清し)などの語句が去来していたかもしれない。
古典とは、そういうものだ。
なお、張衡の「帰田賦」の趣旨は、宮仕えをやめて田舎にひっこんでスローライフを送りたい、というもの。令和の典拠となった序文とは全然違う。
張衡 (ちょうこう) Zhāng Héng 生没年:78-139
中国の後漢時代の科学者,文学者。字は平子。河南省の南陽西鄂の人。安帝・順帝に仕え,天文暦法や史料編纂の長官に当たる太史令になり,さらに後漢では最高の官の尚書になった。文学の才にたけ,〈西京賦〉〈東京賦〉〈南都賦〉〈思玄賦〉などの詞賦を書き,また七言詩成立途上の一時期を画す〈四愁詩〉を作った(いずれも《文選》に収録された)。天文・陰陽・暦算に通じ,渾天(こんてん)家として《霊憲》を書いて,宇宙生成説,宇宙説を論じ,さらに〈天地は鶏卵のよう〉に球状の天が中央のまるい地を包むという明確な渾天説に基づいて《渾天儀》を書き渾天儀の製法について述べた。候風地動儀とよばれた世界最古の地震計の製作のほかに記里鼓車(里程計)あるいは指南車の設計者としても知られている。彼は数学者としても優れ,円周率の値として,3.16<π<3.18を算出した。
執筆者:橋本 敬造
張衡 ちょうこう (78―139)
中国、後漢(ごかん)の文人、科学者。南陽、西鄂(せいがく)県(河南省南陽県)の人。字(あざな)は平子。詞賦に秀で、長安と洛陽(らくよう)の風俗を描いた『西京賦』『東京賦』(あわせて『二京賦』)をつくり、人々が奢侈(しゃし)に走るのを風刺した。自身や光武帝の出身地南陽を賛美した『南都賦』や、『思玄賦』『帰田賦』などとともに『文選(もんぜん)』に収められている。天文・暦算や機械製作にも優れ、安帝・順帝のとき太史令(国立天文台長)となり、渾天(こんてん)説と渾天儀に関する『渾天儀注』や『霊憲』などの天文書を著し、水力で自動回転する渾天儀、天球儀や指南(しなん)車、木雕(もくちょう)(自分で飛ぶ木製の鳥)などをつくった。132年製作の候風地動儀は震源地の方向もわかる地震感知装置であった。図讖(としん)(讖緯(しんい)説)などの迷信を廃し、権力者にも厳しかったため河間王の補佐役に転出させられたが、そこでも治績をあげ、3年間で召喚されて尚書となり、139年没した。晩年の『四愁詩』は最初の七言詩であり、秀作とされる。
[宮島一彦]
中国仏教の僧侶の読経は音楽的ですね。日本の寺と違って床は石なので、声の反響もいい。江蘇省泰州市の南山寺にて。 pic.twitter.com/zAhrY7nXek
— 加藤徹(KATO Toru) (@katotoru1963) October 24, 2024
がんじん【鑑真】
唐の帰化僧。揚州江陽県の人。日本律宗の祖。天平勝宝五年(七五三)、失明の身で仏像、律天台の経典を携えて来朝。東大寺にはじめて戒壇を設け、聖武天皇、孝謙天皇らに戒を授けた。のち大僧都となり、大和上の称号をうけ、天平宝字三年(七五九)唐招提寺を建立。来日の際の事情は、淡海三船(おうみのみふね)の「唐大和上東征伝」に詳しい。(六八八‐七六三)
鑑真 がんじん (687―763)
中国唐代の僧。日本の律宗(りっしゅう)の祖。過海(かかい)大師、唐大和上(とうだいわじょう)などと尊称される。揚州(江蘇(こうそ)省)の人。俗姓は淳于(じゅんう)。揚州大雲寺の智満(ちまん)について出家、南山律(なんざんりつ)の道岸(どうがん)(654―717)によって菩薩戒(ぼさつかい)を受け、その後、長安の実際寺で恒景(こうけい)を戒和上(かいわじょう)として具足戒(ぐそくかい)を受けた。洛陽(らくよう)、長安に住すること5年、その間に三蔵(さんぞう)を学び、道宣(どうせん)の弟子融済(ゆうさい)、満意の門人大亮(たいりょう)らに律学の教えを受け、また天台も兼学した。揚州に帰ったのちは大明寺にあって律を講じ、江准(こうわい)の化主(けしゅ)と仰がれ、その名声はとどろいた。そのころ733年(天平5)に日本僧の栄叡(ようえい)(?―749)、普照(ふしょう)(生没年不詳)が授戒伝律の師を求めて入唐(にっとう)していたが、742年に二人が鑑真を訪れ、弟子のなかに日本に渡って律を伝える人がいないか、募ってもらうよう請うた。それが機縁となり、鑑真は弘法(ぐほう)のため不惜身命(ふしゃくしんみょう)の思いに燃え、自ら弟子を率いて来朝した。来朝まで5回も渡海に失敗し、あるときは同行の僧の密告や弟子の妨害によって未然に終わり、あるときは海に乗り出してから風浪にもてあそばれて難破し、あるときは遠く海南島に流される労苦を味わい、12年の歳月を要して来朝した。その間、栄叡や弟子祥彦(しょうげん)の死に会い、自らも失明するに至っており、海路、陸上の旅で世を去ったもの36人、望みを放棄して彼のもとを去ったもの200余人に及んだ。しかし渡海の失敗が重なる間も、鑑真は各地で伝道教化(きょうげ)に励んだ。鑑真の伝記には在唐中の活動が総括されており、百数十遍の各種律典を講じ、寺舎を建立し、十方(じっぽう)の衆僧を供養し、さらに、仏像をつくること無数、一切経(いっさいきょう)を書写すること30部、戒を授けること4万有余に及んだ、と伝える。
753年(天平勝宝5)薩摩(さつま)(鹿児島県)坊津(ぼうのつ)に到着、翌754年入京した。聖武(しょうむ)上皇はその労をねぎらい、詔(みことのり)して鑑真に授戒伝律の権限を委任し、自ら鑑真を戒師として東大寺大仏の前で登壇受戒した。また従来の僧も旧戒を捨てて受戒し、ここに、かつて日本で行われたことのない10人の僧による三師七証(さんししちしょう)の受戒が成立した。翌755年には戒壇院(かいだんいん)もつくられ、それまでの度牒(どちょう)にかわって戒牒(かいちょう)を授ける制度が確立された。上皇崩御(ほうぎょ)後の756年(天平勝宝8)には大僧都(だいそうず)に任じられたが、老齢のためその任を解かれ、戒律の教導に専念することとなり、大和上(だいわじょう)の称が与えられた。759年(天平宝字3)、かねて与えられていた新田部(にいたべ)親王の旧宅をもって寺とし、これを唐招提寺(とうしょうだいじ)と称し、戒律研鑽(けんさん)の道場として衆僧に開放する制をたてた。また官寺における布薩(ふさつ)のための経済的裏づけを行うことと相まって、仏教の協同体意識を養い、いわゆる教団(僧伽(そうぎゃ)、サンガ)が初めて名実ともに確立するに至った。彼が将来したもののうち、天台典籍(てんせき)はのちに最澄(さいちょう)の天台宗開創の基盤となり、王羲之(おうぎし)父子の真蹟(しんせき)は書道の興隆に多大の影響を与えた。ともに来朝した弟子に法進(はっしん)(709―778)、思託(したく)(生没年不詳)などがあり、法進は戒壇院を継ぎ、思託は鑑真の伝記『大唐伝戒師僧名記大和上鑑真伝』(略称『大和上伝』)3巻を書いた。この書は現存しないが、これを略述した真人元開(まひとげんかい)(淡海三船(おうみのみふね))の『東征伝』1巻が現存する。鑑真の墓所は唐招提寺にあり、開山堂には国宝の鑑真像を安置する。
[石田瑞麿 2017年1月19日]
『安藤更生著『鑑真』(1967/新装版・1989・吉川弘文館)』▽『石田瑞麿著『鑑真――その戒律思想』(1974・大蔵出版)』
以下、『唐大和上東征伝』の一部を引用。 参考 「鑑真の伝記といわれる「唐大和上東征伝」はどのような資料か。現代語訳があれば読みたい。」https://crd.ndl.go.jp/reference/entry/index.php?id=1000253648&page=ref_view 参考 国書データベース https://kokusho.nijl.ac.jp/biblio/100183117/13?ln=ja |
日本天平五年、歳次は癸酉。沙門の栄叡と普照等は、遣唐大使・丹墀真人広成に随ひて唐国に至り留学す。是の年、唐の開元二十一年なり。
唐国の諸寺の三蔵大徳は、皆、戒律を以て入道の正門と為す。若し不持戒者が有らば、僧中に歯せず。是に於いて方に知る、本国に伝戒の人無きことを。
仍りて東都大福先寺の沙門道璿律師に請ひ、副使中臣朝臣名代の舶に附して、先に本国に向かひ去りて、伝戒者と為すことを擬す。 栄叡と普照は唐国に留学して已に十載を経。使を待たずと雖も而も早帰を欲す。是に於いて西京安国寺の僧、道航・澄観、東都の僧徳清、高麗僧如海を請し、又、宰相李林甫の兄・林宗の書を請得し、揚州の倉曹たる李湊に与へ、大舟を造り糧を備へて送遣せしむ。 又、日本国の同学僧たる玄朗・玄法の二人と倶に下りて揚州に至る。是の歳、唐の天宝元載冬十月、日本の天平十四年、歳次は壬午なり。 時に大和尚は揚州の大明寺に在り。衆の為に律を講ず。栄叡と普照とは大明寺に至り、大和尚の足下に頂礼して具さに本意を述べて曰く 「佛法は東流して日本国に至る。其の法有りと雖も、而も伝法の人無し。日本国に昔、聖徳太子といふ人あり。曰く『二百年後に、聖教は日本に興らむ』と。今、此の運に鍾る。願くは大和上は東遊して興化せよ。」 と。大和上は答へて曰く 「昔聞く、南岳思禅師は遷化の後に倭国の王子に託生して佛法を興隆し衆生を済度す、と。又、聞くならく、日本国の長屋王は佛法を崇敬し、千の袈裟を造りて此の国の大徳衆僧に棄施し、其の袈裟の縁の上に四句を繍著して曰く 『山川は域を異にすれども、風月は天を同じくす。諸の仏子に寄せて、共に来縁を結ばん』 と。此を以て思量するに、誠に是れ佛法興隆有縁の国なり。今、我が同法の衆中に、誰か此の遠請に応じて、日本国に向ひて伝法する者有らんや」と。 時に衆は黙然として一も対ふる者無し。良や久しくして、僧・祥彦といふもの有り、進みて曰く 「彼の国は太だ遠く性命は存し難し。滄海はE漫として百に一も至るものなし。人身は得難くして中国に生まるるは難し。進修して未だ備はらず。道果も未だ剋せず。是の故に衆僧は咸く黙して対ふる無きのみ」と。 大和上は曰く 「是れ法事の為なり。何ぞ身命を惜しまんや。諸人が去らざれば我が即ち去くのみ」と。 祥彦は曰く 「大和上が若し去かば、彦も亦た随ひ去かん」と。 爰に僧の道興・道航・神頂・崇忍・霊粲・明烈・道黙・道因・法蔵・法載・曇静・道翼・幽巖・如海・澄観・徳清・思託等二十一人が有りて、願ひて同心して大和上に随ひて去らんとす。 |
【原漢文】 日本国天平五年歳次癸酉。沙門栄睿・普照等、随遣唐大使丹墀真人広成、至唐国留学。是年唐開元廿一年也。 唐国諸寺三蔵大徳、皆以戒律為入道之正門。若有不持戒者、不歯於僧中。於是方知本国無伝戒人。 仍請東都大福先寺沙門道璿律師、附副使中臣朝臣名代之船、先向本国去、擬為伝戒者也。 栄睿・普照留学唐国、已経十載。雖不待使、而欲早帰。於是、請西京安国寺僧道抗・澄観、東都僧徳請、高麗僧如海、又請得宰相李林甫之兄林宗之書、与楊州倉曹李湊、令造大舟、備粮送遺。 又与日本同学僧玄朗・玄法二人、倶下至楊州。是歳唐天宝元載冬十月。日本天平十四年歳次辛巳也。 時大和上在楊州大明寺、為衆僧講律。栄睿・普照至大明寺、頂礼大和上足下、具述本意曰 「佛法東流、至日本国。雖有其法、而無伝法人。本国昔聖徳太子曰『二百年後、聖教興於日本』。今鍾比運。願和上東遊興化。」 大和上答曰 「昔聞、南岳恵思禅師遷化之後、託生倭国王子、興隆佛法、済度衆生。又聞、日本国長屋王、崇敬佛法、造千袈裟、棄施此国大徳衆僧、其袈裟縁上、繍著四句曰 『山川異域。風月同天。寄諸佛子。共結来縁』。以此思量、誠是佛法興隆有縁之国也。今我同法衆中、誰有応此遠請、向日本国伝法者乎。」 時衆黙然、一無対者。良久、有僧祥彦、進曰 「彼国太遠、性命難存。滄海E漫、百無一至。人身難得、中国難生。進修未備、道果未尅。是故衆僧咸黙無対而已。」 和上曰 「是為法事也、何惜身命。諸人不去、我即去耳。」 祥彦曰 「和上若去、彦亦随去。」 爰有僧道興・道杭・神項・崇忍・雲粲・明烈・道黙・道因・法蔵・老静・道翼・幽巖・如海・澄観・徳清・思託等廿一人、願同心随和上去。 |
太宗 (たいそう) Tài zōng 生没年:939-997
中国,宋朝第2代皇帝。初名は趙匡義,のち太祖の名を避けて光義とし,皇帝になってQ(けい)と改めた。 趙弘殷の第3子,太祖の実弟である。976年,太祖が急死すると,太祖の諸子をさしおいて彼が即位した。 そのことが後世にさまざまな疑いをもたれ,彼が殺したのではないかとさえ憶測された。 内外政策では,基本的には太祖の方針を継承しつつ,さらにいっそう徹底して,彼によって宋朝の基礎が固められた。 まず国内統一事業では,残っていた呉越(浙江省)と漳・泉2州(福建省)を併合し,北漢(山西省)を親征して征服し, ほぼ中国の統一を成し遂げた。その余勢をかって,五代後晋のとき契丹に割譲した, いわゆる燕雲十六州の奪回をはかったが,これは成功せず,かえって契丹の侵寇に悩まされた。 内政でも,太祖が始めた君主独裁による中央集権化の政策を受け継ぎ, それをさらに徹底した。 たとえば,太祖のときには認められていた,辺境を守る節度使の諸特権をすべて取り上げて,内地同様に中央統制を強化した。 また科挙制度を拡充して,及第者の数を一挙に数倍にふやし,大量の知識人を官僚に登用する道を開いた。 一方では,《太平御覧》などの大部な書物の編纂事業をはじめ,新王朝に批判的な知識人の懐柔をはかった。 彼は,酒を好み武人気質の太祖とは異なり,酒は飲めず, 遊興を避けて政務にはげみ,余暇には読書を楽しみ書をたしなむ文化人であった。
執筆者:竺沙 雅章
五代十国時代の「五代」
後梁(907年-923年) 後唐(923年-936年) 後晋(936年-946年) 後漢(947年-950年) 後周(951年-960年)
参考 五代十国から北宋にかけての人物
愛宕山の寺院建立を誓ってから十年後の、天元五年(九八二)。四十四歳になった奝然は、ついに行動を起こした。彼は朝廷に、宋に渡って霊場を巡礼したいむねを申告した。引用終了
「私は凡庸で愚鈍ですが、分をわきまえております。もし宋人から遠路巡礼の意図をたずねられたら、私は『日本国の無才無行の三流僧侶が修行のために参ったのです。決して求法のためではありません』と答えます。さすれば、わが日本国の恥とはなりますまい」
奝然は言外で、自分が第二の空海や最澄になる野心をもたぬことを述べたのである。
結局、朝廷は奝然の渡航を、特例として黙認することにした。
翌、永観元年(九八三)八月一日。四十五歳の奝然は、弟子の嘉因・盛算らとともに宋の商船に便乗して、九州を出発した。十七日後、船は中国の台州に到着。九月に天台山を巡礼したあと、蘇州・楊州などの大都会を経て、十二月に宋の首都・開封に到着した。
奝然は一私人の資格で渡宋したが、宋の第二代皇帝・太宗(初代皇帝・趙匡胤の弟)は、彼を国賓として待遇し、皇宮で引見した。奝然は、日本の『職員令』や『日本年代記』、そして中国の古典『孝経』の豪華本などを献じ、太宗を喜ばせた。
太宗は、日本の風土・歴史・地理・物産に興味をもち、奝然にたずねた。奝然は中国語会話はできなかったが、筆談で漢文をすらすらと書いて答えた。太宗が日本の王制についてたずねると、奝然は答えた。
「わが国の天皇は一姓伝継であり、臣下もみな世襲です。易姓革命は、一度もありません」
太宗は驚嘆し、宰相をかえりみて、羨望の言葉を漏らした。
「日本は島国の未開人だとばかり思っていたのに、王統は一姓伝継で、臣下もみな世襲とは! 中国のいにしえの理想の道を実現しているのは、われらではなく、なんと、彼ら日本人のほうではないか」
太宗は関係各省庁に命じて、奝然の五台山参詣の便宜を図らせた。そして奝然に、国家が僧侶に与える最高の栄誉である「紫衣」と、「法済大師」の称号、印刷されたばかりの『大蔵経』五千四十七巻などを与えた。
寛和二年(九八六)七月、四十八歳の奝然は、宋の商船に便乗して、太宗からもらったみやげとともに、九州に帰着した。
我就往仙台的医学専門学校去。 従東京出発、不久便到一処駅站、写道:日暮里。不知怎地、我到現在還記得還名目。其次却記得水戸了、這是明的遺民朱舜水先生客死的地方。 仙台是一个市鎮、并不大;冬天冷得利害;還没有中国的学生。 で、仙台の医学専門学校へ行くことにした。東京を発ち、すぐにとある駅に着いた。日暮里と書いてあった。なぜか今もその名を覚えている。 その次に覚えているのはもう水戸だけだ。明の遺民、朱舜水先生が客死された地だ。 仙台は町だが、さして大きくはなない。冬は寒さが厳しい。まだ中国からの学生はいなかった。 |
朱舜水 しゅしゅんすい (1600―1682)
江戸初期に明(みん)から渡来した儒学者。名は之瑜(しゆ)、字(あざな)は魯璵(ろよ)(楚璵(そよ)は誤り)、号の舜水は郷里の川の名からとった。 中国浙江(せっこう)省餘姚(よよう)の士大夫の家に生まれ、明国に仕え、祖国滅亡の危機を救わんと、海外に渡って奔走、長崎にも数度きたり、七度目の1659年(万治2)長崎に流寓(るぐう)した。 翌1660年柳川(やながわ)藩の儒者安東省庵(あんどうせいあん)(守約(もりなり))と会い、彼の知遇を受ける。 水戸藩主徳川光圀(とくがわみつくに)が史臣小宅生順(おやけせいじゅん)(1638―1674)を長崎に遣わして、舜水を招こうとしたのはその数年後。 初め応じなかったが、門人省庵の勧めもあり、招きに応じて水戸藩の江戸藩邸に至ったのは1665年(寛文5)7月、66歳のときである。 以後水戸にも二度きているが、住居は江戸駒込(こまごめ)の水戸藩中屋敷(東京大学農学部敷地)に与えられ、天和(てんな)2年4月17日83歳で没するまで、光圀の賓師(ひんし)として待遇された。 『大日本史』の編纂(へんさん)で有名な安積澹泊(あさかたんぱく)(名は覚)はその高弟。 墓は光圀の特命によって水戸家の瑞竜山(ずいりゅうざん)墓地(常陸(ひたち)太田市)に儒式をもって建てられた。 舜水が水戸藩の学問に重要な役割を果たしたことが知られる。 舜水の学問は朱子学と陽明学の中間、実学とでもいうべきものである。 その遺稿は光圀の命によって編纂された『朱舜水文集』(28巻)などに収められている。
[瀬谷義彦 2016年2月17日]
『朱舜水記念会編『朱舜水』(1912・朱舜水記念会事務所)』▽『稲葉君山編『朱舜水全集』(1912・文会堂書店)』▽『小田岳夫著『桃花扇・朱舜水』(1971・新潮社)』▽『木下英明著『文恭先生朱舜水』(1989・水戸史学会)』▽『石原道博著『朱舜水』新装版(1989・吉川弘文館)』
水戸学 みとがく
江戸時代に水戸藩で『大日本史』編修事業を中心としておこった学風 前期と後期に区別される。前期は2代藩主徳川光圀 (みつくに) のもとに安積澹泊 (あさかたんぱく) ・栗山潜鋒 (くりやませんぽう) らの『大日本史』編修について大義名分を明らかにし,皇室尊崇を説いた時期。後期は徳川斉昭 (なりあき) を中心に藤田幽谷の『正名論』,藤田東湖の『弘道館記述義』,会沢正志斎の『新論』などの思想によって代表される尊王攘夷論となり,単なる歴史学から抜けだし実践的な政治運動へと展開した。しかし将軍家と親類という立場からも,討幕論にまで発展せず,不徹底は免れなかった。
『先哲叢談』より引用sentetusoudan.html 巻之二 朱之瑜 【原文】 舜水、冒難而輾転落魄者十数年。其来居此邦、初窮困不能支。柳河安東省庵、師事之、贈禄一半。 久之、水戸義公、聘為賓師。寵待甚厚、歳致饒裕。然、倹節自奉、無所費、至人或詬笑其嗇也。遂儲三千余金。 臨終、尽納之水戸庫内。嘗謂曰「中国乏黄金。若用此于彼、一以当百矣」。新井白石謂「舜水縮節積余財。 非苟而然矣。其意蓋在充挙義兵以図恢復之用也。然、時不至而終。可憫哉」。 【書き下し】 舜水、難を冒して輾転落魄すること十数年。其の来りて此の邦に居るや、初め窮困して支ふること能はず。 柳河の安東省庵、之に師事し、禄の一半を贈る。之を久くして、水戸の義公、聘して賓師と為す。寵待甚だ厚く、歳〻饒裕を致す。然るに倹節自ら奉じ、費す所無し。人、或は其の嗇を詬笑するに至る。遂に三千余金を儲ふ。臨終に尽く之を水戸の庫内に納る。嘗て謂ひて曰く「中国、黄金に乏し。若し此れを彼に用ひば、一以て百に当らん」と。新井白石、謂ふ「舜水、縮節して余財を積む。苟もして然るに非ず。其の意、蓋し義兵を挙げ、以て恢復を図るの用に充つるに在り。然るに、時至らずして終る。憫むべきかな」と。 【大意】 明末清初の動乱期に日本に亡命してきた学者の朱舜水は、命の危険を冒してアジア各国を転々として、苦労を重ねること十数年。わが国の長崎に来た当初は、金銭的に困窮し、生活ができなかった。筑後の柳河藩(柳川藩とも書く)の儒者であった安東省菴(安東省庵)は、朱舜水の弟子となり、自分がもらっていた俸禄二百石の半分を師である朱舜水に贈った。その後しばらくして、水戸藩主の徳川光圀(諡は義公。いわゆる「水戸黄門」)が朱舜水を招聘し、客員教授とした。光圀は、朱舜水を大切にもてなし、毎年、相当な金額を与えた。朱舜水は金銭的に豊かになったが、自ら質素倹約を実行し、お金を使わなかった。そのため、朱舜水はケチだ、とあざ笑う者もいた。結局、朱舜水は三千両もの大金を貯めたが、自分では使わず、亡くなる直前に貯金の全額を水戸藩に返納した。朱舜水は生前「中国は、黄金が乏しい。もし、日本で得た黄金を中国で使えば、百倍の効果があろう」と語っていた。後世、儒者の新井白石はこう述べた。「朱舜水が節約して財産を貯めたのは、蓄財を図ってそうしたのではあるまい。たぶん彼は、中国の明王朝を復興するための義勇軍を挙兵するため、その軍資金として貯金したのだろう。だが結局、そのチャンスが来ないまま、彼は死んだ。憐れむべきである」 |
『先哲叢書談』より引用sentetusoudan.html 帰化歴年所。能倭語。然及其病革也、遂復郷語。則侍人不能了解。 【書き下し】 舜水、帰化して年所を歴る。倭語を能くす。然るに、其の病、革まるに及ぶや、遂に郷語に復す。則ち侍人、了解する能はず。 【大意】 朱舜水は、日本に帰化して長く暮らしたので、日本語ができるようになった。しかし晩年、病気が重くなって危篤状態になると、中国の故郷の言葉に戻ってしまった。仕えていた人は、理解できなくなった。 ※「郷語」=朱舜水の故郷は現在の浙江省余姚市で、地元の方言は、中国語の標準語とはかなり違う。 |
『先哲叢書談』より引用sentetusoudan.html 【原文】 舜水文集二十八巻、義公与世子、共所編輯也。毎巻署名、冠以「門人」二字。安東省庵、称為「公侯之尊、尊師如此。真百世之美事」。誠然。 【書き下し】 『舜水文集』二十八巻、義公、世子と共に編輯する所なり。毎巻、名を署し、冠するに「門人」の二字を以てす。安東省庵、称して「公侯の尊、師を尊ぶこと此の如きは、真に百世の美事なり」と為す。誠に然り。 【大意】 朱舜水の死後、出版された『舜水先生文集』二十八巻は、水戸光圀が、水戸藩の後継者と共同で編集した本である。巻ごとに、朱舜水の「門人」である光圀が編集した、と署名してある。儒者の安東省庵は「徳川光圀ほどの高い位にある大名が、師への敬意をこのように表したのは、歴史に残る美談である」とほめたたえた。まことに、そのとおりである。 ※『舜水先生文集』巻頭の署名は「門人権中納言従三位源光圀輯」。権中納言は、日本の律令における官職名で、唐名は「黄門」。徳川氏は、名字は「徳川」だが、本姓は「源」なので、正式の場での姓名は「源光圀」である。光圀は明治時代に「正一位」を追贈されたが、生前の官位は「従三位」だった。 |
水戸黄門で知られる徳川光圀が学問の師と仰ぎ、親交の深かった中国・明時代の儒学者朱舜水の子孫が3日、水戸徳川家の招きで105年ぶりに来日し、同家の墓所(茨城県常陸太田市)にある舜水の墓参りをした。
中国浙江省から来日したのは、舜水から11代後の子孫、朱育才さん(58)と育成さん(54)の兄弟ら。育成さんは「墓参りは先祖何代もの宿願。末裔として、これからも日本と友好を深める努力をしていきたい」と感慨深げだった。
今回の墓参りは、兄弟らの希望を聞いた水戸徳川家15代当主徳川斉正さん(53)の招待で実現した。
老舎 (ろうしゃ) Lǎo Shè 生没年:1899-1966
中国の作家,劇作家。本名舒慶春,字は舎予。北京の貧しい満州旗人の家に生まれた。 幼時に父を失うなど苦しい少年時代を送るなかで,下層庶民に対する同情の目を培われた。 北京師範学校卒業後,数年の教員生活をへて,1924年にイギリスに渡る。 6年間の留学中に,《張さんの哲学》,《趙子曰(いわ)く》,《二馬(二人の馬さん)》などの知識人の生きざまをほろにがいユーモアで描いた長編をつぎつぎに発表,ユーモア作家として文壇に独自の地歩を築く。 帰国後は,斉魯大学,山東大学などで教鞭をとるかたわら,《猫城記》《離婚》《牛天賜》などを発表するが,やがて貧しい人力車夫の悲惨な生涯を描いた長編《駱駝の祥子》を世に問い,下層庶民への愛と暗い現実に対する鋭い批判とによって,批判的リアリズムの方向に新境地をひらいた。 抗日戦争中は武漢にあって中華全国文芸界抗敵協会で指導的役割を果たすいっぽう,《残霧》などの戯曲をも手がけた。
1946年,招かれて渡米。アメリカ滞在中に,親子4代が同居する北京の大家庭の人々の日本軍占領下における生活を描いた100万字にのぼる三部作《四世同堂》を発表。 新中国成立直後に帰国し,北京の貧民窟の変貌と新生を描いて新中国をたたえた戯曲《竜鬚溝(りゆうしゆこう)》によって,北京市から人民芸術家の称号を贈られた。 このほか,名作《茶館》をはじめとする20編をこえる戯曲を執筆するとともに,相声(しようせい)や弾詞(だんし)のような大衆芸能の復興と発展に不滅の功績を残し,また中国作家協会副主席,北京市文聯主席などの要職にもついた。 文化大革命では,党と毛沢東に反対したとして紅衛兵からつるしあげられ,やがて死体となって発見されたが,その死の真相はいまなお不明。 78年6月に名誉回復がおこなわれた。80年末から,比較的完全な作品集として《老舎文集》が人民文学出版社から刊行中である。
執筆者:吉田 富夫
はっ‐き【八旗】
? 名詞 ? 中国、清朝の兵制。 太祖ヌルハチが挙兵の際、旗色によってその兵を分けたのに始まり、一六一六年、黄・白・紅・藍の各正旗と?(じょう)(ふちどり)旗の計八種が整ったもの。 清の拡大とともに蒙古人・漢人も編入したが、のち分離して蒙古八旗・漢軍八旗となった。 それぞれに国有地を与えてこれを養う目的をもった行政上の組織でもあったが、その土地を私有化しようという傾向が高まるにつれて弱体化した。〔清会典‐八旗都統〕
『張さんの哲学』は、ユーモアと風刺を通じ、人間の愚かさや社会の矛盾を描いた短編小説。
主人公は「張さん」という平凡な市民。彼の「哲学」を通じ、日常生活の中での人間の無知や矛盾が浮き彫りにされる。
主人公は自分の経験や身の回りの出来事から独自の哲学を築き上げるが、その考え方は時に滑稽で、また自分本位である。同時に、その哲学は一般人の思考の限界や、社会の中での自己満足を反映する。 老舎はこの作品で、現代社会における人間の自己中心的な視点を批判するため、ユーモアと風刺をこめて描く。 主人公の「哲学」の愚かさや偏狭さは、現実社会の中で生きる普通の人々が抱える悩みや矛盾と通じている。 |
以下『日本大百科全書(ニッポニカ) 』より引用。引用開始 駱駝祥子 ろーとーしあんつ 中国の作家老舎(ろうしゃ)の長編小説。1937年作。「駱駝(らくだ)」とあだ名された人力車夫祥子を主人公とする。祥子は車宿の主人となることを夢みて働く農村出の正直一途(いちず)の青年だったが、努力のすえ前途に希望をみいだしかけては不幸にみまわれ、それが重なるうち、ついには無気力そのものの廃人に成り下がる。こうした彼の一生を通じて、作者は、古都北京(ペキン)の最底辺に生きる人々の姿を描き出し、あわせて、彼らを死へ追いやる社会の仕組みを告発している。なお、新中国成立後、作者は主人公の悲惨な末路を描いた末尾の部分を削除した改訂版を出し、主人公の立ち直りを暗示した。 [立間祥介] 『立間祥介訳『駱駝祥子』(岩波文庫)』 |
以下『日本大百科全書(ニッポニカ) 』より引用。引用開始 四世同堂 しせいどうどう 中国の作家老舎(1899―1966)の100章三部作からなる抗戦期の代表的長編小説。 第1部「煌惑(こうわく)」34章(1944〜45)、第2部「偸生(とうせい)」33章(1946)、第3部「飢荒(きこう)」 〔1950年に20章まで発表。後半33章までの13章は亡失、82年Ida Pruitによる英抄訳本『The Yellow Storm』(1949・ニューヨーク)より馬小彌が重訳復原〕。 北平(ペイピン)(現北京(ペキン))の小羊圏胡同(シヤオヤンチュワンフートン)に住む4世代同居の祁(チー)一家を中心にさまざまな町内の人々の伝統を愛する平穏な暮らしが、 日本軍の北平占領によって脅かされ破壊される姿を克明に描き出し成功している。 愛する北京が無惨にさびれ、飢えと死の恐怖、漢奸(かんかん)や特務の横行に、ただ当惑し、苦悩しながら生を偸(ぬす)むように生きる北平人もやがて抵抗に立ち上がる。 密告、投獄、虐殺、餓死、凍死の続出するなかで庶民の抵抗運動も発展し、やがて日本投降の日を迎える。 [伊藤敬一] 『日下恒夫訳『老舎小説全集 8〜10 四世同堂』(1983・学習研究社)』 |
以下『日本大百科全書(ニッポニカ) 』より引用。引用開始 龍鬚溝 りゅうしゅこう / ロンシュイコウ 現代中国の作家老舎が新中国成立直後に書いた三幕劇。1950年発表。龍鬚溝は北京(ペキン)の天壇の裏側の貧民街に悪臭を放って流れるどぶ川。第一幕は、旧中国の象徴のようなこのどぶから離れられぬ庶民の貧しく悲しい生活が活写される。第二幕は、解放後人民政府がどぶの改修にかかる。初め住民は信用せず協力しない。だが新政府は税金もとらず工事を進め、大雨で水があふれたときも献身的に住民を救助するので、今度のお上はこれまでと違うと驚く。第三幕は、住民総がかりの協力でどぶは地下に移されりっぱな道路になる。町をあげて大喜びのなかで、住民は人間的にも生まれ変わっていく。新中国誕生の民衆の歓喜に対する直截(ちょくせつ)な表現は大きな反響をよび、1951年老舎はこの作品で北京市政府より人民芸術家の称号を送られた。 [伊藤敬一] 『黎波訳『老舎珠玉』(1982・大修館書店)』 |
戯曲『茶館』は、北京の伝統的な茶館を舞台に、清朝末期から中華民国時代、そして新中国建国直前までの50年間を描いた群像劇的な作品である。 物語は、茶館の経営者である王利発や、茶館を訪れる客を中心に、20世紀前半の中国社会の激動を活写する。 登場人物は、清朝の旧制度を懐かしむ保守主義者、新時代を模索する進歩派、社会の底辺を生きる労働者や娼婦など、さまざまな立場の人物が茶館を訪れる。 それぞれが垣間見せる人生を通じ、中国社会の激動と、ふつうに生きることの困難さが描かれる。 |