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学び直しの中国古代史 戦国の興亡
最新の更新2024年9月2日 最初の公開2024年6月30日
- 第1回 7/2火 秦 諸侯国から帝国まで七百年の歩み
- 第2回 8/6火 斉 決勝戦まで勝ち残った西帝と東帝
- 第3回 9/3火 趙 北方の軍事大国で栄えた邯鄲の都
以下、https://www.asahiculture.com/asahiculture/asp-webapp/web/WWebKozaShosaiNyuryoku.do?kozaId=7207388より引用。引用開始
紀元前403年から前221年までの中国の戦国時代は、国どうしが「富国強兵」「合従連衡」でしのぎを削った乱世で、漢文の故事成語の宝庫です。七大強国「戦国の七雄」こと韓・魏・趙・斉・燕・楚・秦は覇をきそい、弱小国ながら由緒ある周、魯、衛、宋は生き残りをかけて戦いました。日本でも最も人気がある戦国時代の各国の興亡を、豊富な図版を使いながら予備知識のないかたにもわかりやすく解説します。
第1回 7/2火 秦 諸侯国から帝国まで七百年の歩み<
YouTube https://www.youtube.com/playlist?list=PL6QLFvIY3e-lPEvOzw3C0rnrPxZ1SoGlz
○ポイント、キーワード
- 後発優位
後発国や後発企業には、先進国や先発企業にない優位性がある、という考え方。
対概念は「先発優位」。
秦は、西の辺境の後発国であったが、外国出身者を登用して「変法」による中央集権体制を整え、先発国家である中原諸国に対して「後発優位」性を生かし、富国強兵に成功した。
- 『資治通鑑』(しじつがん)
北宋の司馬光が、1084年(元豊7年)に完成した編年体の歴史書。紀元前403年の韓・魏・趙の自立による戦国時代の始まりから、959年の北宋建国の前年までの1362年間の歴史を描く。
中国人にとって、本格的な歴史の始まりは「戦国時代」からであった。その前の春秋時代までは、いわば「前史」であった。
- 軍国主義 militarism
外交手段として戦争を重視し、軍事力強化を最優先とする国家体制や思想のこと。
歴史上の「軍国」は、古代中国の秦、古代ギリシアのスパルタ、中世のカロリング朝、近代のプロイセン、など。
- 中原 ちゅうげん
古代中国文明の中心地域であった、黄河の中・下流域の華北平原一帯のこと。古代の漢文では「中国」「中州」「中土」とも。
戦国時代の七大強国「戦国七雄」は、秦・楚・斉・燕・趙・魏・韓である。このうち中原諸国は韓・魏・趙・斉で、秦・燕・楚は辺境諸国であった。
- 領域国家
春秋時代の国は「邑」(ゆう。都市国家)の連合体であり、いわば「点」と「線」の国家だった。中国の総人口は五百万ていどで(諸説あり)、戦争は貴族中心の車戦で短期決戦で、各国の君主は諸侯であった。
戦国時代の国は領域国家となり、支配力は「面」となった。鉄製農具の普及と各国の富国強兵の競争の結果、中国の総人口は二千万ていど(諸説あり)と激増し、戦争は歩兵中心の攻城戦となって長期化し、各国の君主は王を名乗った(一時期の秦と斉は帝号を名乗った)。
○辞書的な説明
- 『デジタル大辞泉 』より引用
しん【秦】
中国の国名。
(一)春秋戦国時代の国の一。戦国七雄の一。初め秦(甘粛)の地にいたが、前771年、周の諸侯に列せられて以後、渭水(いすい)に沿って東進。勢力を拡大して、前249年に周を滅ぼし、前221年政(始皇帝)の時には六国を滅ぼし天下を統一。都は咸陽。前207年、3代15年で漢の劉邦(りゅうほう)(高祖)に滅ぼされた。
(二)五胡十六国時代の3王朝、前秦・後秦・西秦。
- 『山川 世界史小辞典 改訂新版』より引用
戦国時代(せんごくじだい)
通常,韓,魏,趙(ちょう)の3国が諸侯に列せられた前403年から,秦が6国を併呑した前221年までの約200年間をいう。春秋時代以来変貌をとげた社会のうえに中国統一が形成される過程期である。周の権威はまったく失墜して有力諸侯(戦国の七雄)は王を称した。彼らは互いに領土を広げ,土地改革を行い,直轄地区を増し,集権的富国強兵策をとって争覇した。各国とも有為の士を登用したから,経世致用の学(諸子百家)が勃興し,思想界は盛況を呈した。7国のうちの最強はいち早く国内の集権化に成功した西方の秦で,6国の対抗を退けてついに天下を統一した。政治的統一過程と表裏して社会経済は著しい発展を示した。鉄製農具,牛耕,灌漑工事などが普及して生産力が増大し,土地の私有制が起こった。また,商業が発達し,貨幣(布銭,刀銭など)が各地の都市で流通した。
- 『精選版 日本国語大辞典』より引用
しゅんじゅう‐じだいシュンジウ‥【春秋時代】
中国、東周の前期。紀元前七七〇年の周室の東遷から紀元前四〇三年まで、すなわち、晉の韓・魏・趙三氏の独立によって戦国時代のはじまるまでの時代をいう。魯の年代記「春秋」に記載された時代の意。封建的氏族秩序の崩壊してゆく時代で、周室の権威が次第に衰え、諸侯間の対立・抗争が激化し蛮族の中国侵入が相ついだため、有力諸侯が覇者として中原の支配にあたった。
○略年表
秦の歴代君主は「君」時代、「「公」時代、「王」時代、「皇帝」時代に分けられる。
君:非子(在位前900-前858)から荘公(前821-前778)まで
公:襄公(前777-前766)から孝公(前361-前338)まで
王:恵文王(前337-前311)から秦王政(前246-前221。始皇帝)まで
皇帝:始皇帝(前221-前210)、二世皇帝(前209-前207)、子嬰(前207、三世皇帝?)まで
- 【西周時代】
紀元前905年、周の孝王に仕えた非子が馬の生産で功績を挙げ「嬴」(えい)姓を賜って大夫となり、秦邑(現在の甘粛省張家川回族自治県)を賜った。
春秋時代の身分は、天子、諸侯(公・侯・伯・子・男)、卿、大夫、士、庶人、奴婢、であった。
- 前822年、周の宣王の命令で西戎(せいじゅう)を破った荘公は、西垂(現在の陝西省眉県)の大夫に封じられた。
- 【春秋時代】
前770年、周室の東遷。
襄公は兵を率いて周を救うために戦い、周の平王から「伯」の爵位を賜り、岐山(西周の故地)より西の地を賜り、諸侯国となった。
- 前712年、平陽(現在の陝西省宝鶏市)に遷都。
- 前677年、雍(よう。現在の陝西省宝鶏市鳳翔区の南東)に遷都。
- 前659年、秦の第9代の「公」である穆公(ぼくこう)が即位。名臣の百里奚(ひゃくりけい)を重用して、国力を高めた。穆公は「春秋五覇」の一人に数えられる。
- 前621年、穆公が死去。有能な家臣177名が殉死し、秦国は弱体化した。
- 前403年、戦国時代が開始(開始年は諸説あり)。
- 前383年、魏の圧迫を受け、秦は櫟陽(れきよう。現在の陝西省西安市閻良区)に遷都。
- 前359年、孝公は、外国出身(衛の公族)で法家思想の政治家である商鞅(しょう おう、前390年−前338年)を重用して彼に「商鞅変法」を開始させる。旧来の貴族層の特権を廃して中央集権政治の体制をつくり、富国強兵を目指した。
- 前350年、陽(現在の陝西省陽県)付近に遷都し、都の名を咸陽(かんよう)と改めた。
- 前324年、恵文王が王号を名乗る。
恵文王は韓・趙・魏・燕・楚の五カ国連合軍の進攻を破り、巴蜀地方(現在の四川省)に領地を拡大し、国力を高めた。
- 前306年、昭襄王(しょうじょうおう)が即位(前251年まで)。秦の第28代君主で、第3代の王であり、のちの始皇帝の曾祖父である。
- 前298年、斉の孟嘗君(asahi20220414.html#02)が秦に入国。昭襄王と会見。
- 前297年、孟嘗君は秦を脱出して斉に帰還(鶏鳴狗盗の故事)。
- 前288年、秦の昭襄王19年、斉の湣王(びんおう)が東帝、秦が西帝を名乗った。湣王はまもなく帝号を撤回したため、昭襄王も帝号をやめざるをえなかった。これが後に、昭襄王を尊敬する曾孫の秦王政が「帝」号にこだわった一因となった。
- 前265年、昭襄王は、外国出身の范雎(はん しょ。生年不詳-前255年?)を宰相に任じた。范雎は故事成語「睚眥(がいさい)の怨み」でも有名。范雎の遠交近攻の外交戦略により、秦はますます強大になった。
- 前262年-前260年、長平の戦い。秦が趙に勝利。趙の武将で、「趙括、兵を談ず」の趙括は戦死。秦の将軍・白起は、趙軍の捕虜40万を生き埋めにして殺した。
- 前259年、嬴政(えいせい。後の始皇帝)が趙の首都・邯鄲(かんたん)で誕生。父は、昭襄王の孫で人質として趙に送られていた子楚。始皇帝の実父は、人質時代の子楚のパトロンであった呂不韋(asahi20211014.html#02)だったという説もある。
- 前255年、昭襄王52年、秦は約8百年続いた周を滅ぼし、周の九鼎を接収した。
- 前251年、昭襄王56年、昭襄王が死去。享年75。
息子の安国君があとを継ぎ(第4代孝文王)、自分の子である子楚を太子に指名。
- 前249年、子楚が即位(荘襄王)。
- 前247年、荘襄王は在位3年で死去。
息子で13歳の政が王位を継ぐ(秦王政。後の始皇帝)
- 前238年、秦王政9年、にせ宦官の嫪毐(ろうあい)の反乱。
太后(政の生母)が嫪毐とのあいだにもうけた2人の男児は殺され、呂不韋も失脚した。
- 前235年、呂不韋が自殺。
- 前233年、秦王政14年、政は韓非(『韓非子』)を謁見。
外国出身者でありながら秦王政に重用されていた李斯(りし)は、韓非と同じく、荀子(じゅんし)の門下の出であった。李斯は、自分より優秀な同門の韓非が登用されれば自分の地位は危ういと考え、讒言して韓非を投獄させ、毒を渡して自殺させた。
- 前227年、燕の太子・丹からの依頼で、荊軻(けいか)が秦王を暗殺しようとしたが失敗。
秦王政は、諸国を攻略して併呑。
- 前221年、戦国七雄のうち、最後まで残っていた斉が、秦に攻略されて滅亡。
戦国時代は終わり、天下は統一された。
39歳の政は「始皇帝」を名乗った。
○その他 春秋戦国時代の秦にちなむ漢語
- 秦越(しんえつ)
きわめてかけ離れている、というたとえ。春秋時代の秦は西北の辺境、越は東南の辺境にあったことから。
「秦楚の路(みち)」という言い方もある。
- 秦晋(しんしん)
両家が婚約したり、婚姻関係を結ぶこと。「秦晋之好(しんしんのよしみ)」とも。
春秋時代の秦と晋の君主の家が、代々、婚姻関係を結んだことにちなむ。
- 秦兵(しんぺい)
秦国の兵。兵隊が過酷に取り扱われることをたとえる。
第2回 8/6火 斉 決勝戦まで勝ち残った西帝と東帝
YouTube https://www.youtube.com/playlist?list=PL6QLFvIY3e-kkI_ep7LY5wxa6bjvbwWdd
○ポイント、キーワード
- 中国が「ヨーロッパ」にならなかった理由
ヨーロッパの中央はアルプス山脈。中国の中央は「中原」すなわち華北平原(かほくへいげん)。
もし仮に、中国の地形がヨーロッパ的であったら、秦の始皇帝の中国統一は成功せず、中国はヨーロッパ的な独立国家の集合体となっていたかもしれない。
- 山東省 さんとうしょう
中華人民共和国の省のひとつで、戦国時代の斉国があった場所。
西部は平坦な華北平原で、中部は山がち、東部は山東半島として渤海(北側)と黄海(南側)に突き出している。
現在の山東省の人口は1億人を超え、中国では広東省に次いで2番目に人口が多い。
「戦国の七雄」の中で最も長い海岸線をもち、国土の西部が「中原」である斉は、海岸線を利用した漁業や製塩業と、華北平原の「五穀」の農業を背景に、
軍事力・経済力・文化力(稷下の学士=しょくかのがくし、等)
で他の大国より頭ひとつぶん抜きん出た存在であった。
- 「斉」(せい)の意味
斉(正字は「齊」)の字源は、穀物の穂が伸びて高さが生えそろっている形を写した象形文字。
転じて「ひとしい」「そろう」「ととのう」の意味になる。
「一斉」「斉唱」「修身斉家治国平天下」。
cf.髪飾り説もある。https://kotobank.jp/word/斉
人間の胴体の上下がひとしい箇所は「臍」(へそ)。
華北平野をひとしく分けるように流れていた川の名前は「済」(済水)。
古代中国の戦国時代の済水の河道については諸説あるが、21世紀現在の黄河の河道に近いという説が有力。
cf.https://ja.wikipedia.org/wiki/黄河改道
- 東帝と西帝
「斉秦互帝」(せいしんごてい)。前288年に秦と斉が一時的に同盟関係を結び、秦が西帝、斉が東帝と自称した政治的事件。
日本の中国文学者・吉川幸次郎は、昭和期の米ソ冷戦を「斉秦互帝」になぞらえた漢詩を詠んだ。
○辞書的な説明
- 『精選版 日本国語大辞典 』より引用
せい【斉】
中国の国名。
[ 一 ] 紀元前三七九年まで続いた周代の諸侯国の一つ。周の武王によって呂尚(太公望)が封ぜられた国。山東を領有。前七世紀に桓公の富国強兵策により五覇となった。二九世で、重臣の田氏に国を奪われた。姜斉(きょうせい)。
[ 二 ] 戦国の七雄の一つ(前三七九‐前二二一)。周初以来の斉を、重臣の田氏が奪って建国。
前者と区別するために田斉とも呼ばれる。山東を領有。
前四世紀後半に最盛期に達したが、前二八四年燕に敗れて国力が傾き、秦・趙に圧迫され、やがて秦に滅ぼされた。都の臨淄を中心に商業活動が盛んで、刀貨が流通し、学問も栄えたので、諸子百家の中心地となった。
- 『日本大百科全書(ニッポニカ) 』より引用
臨淄 りんし
中国、周時代の斉(せい)の都が置かれた地。現在は山東省淄博(しはく)市に属す。
周初に太公望呂尚(りょしょう)が封ぜられた営邱(えいきゅう)の地といわれる。
その後、紀元前859年に斉の献公(けんこう)がここに都を定め臨淄(りんし)と名づけた。
春秋時代には桓(かん)公が覇者として、戦国時代には田氏一族が七雄の一国として、ここを中心に活躍した。
華北第一の都市としてとくに文芸の中心として栄えたが、五胡(ごこ)十六国時代(304〜439)から衰えていった。現在の城壁は隋(ずい)代のもので周囲2キロメートルにすぎないが、斉の故城址(じょうし)は周囲約16キロメートルでほぼ方形、南西隅に小城址があり、その中に営邱に比定される小丘がある。城外南東には田氏四王墓といわれる四大古墳もある。
[春日井明]
○略年表
- 【姜斉時代】
前11世紀ごろ(一説に前1046年)、周の武王が「牧野(ぼくや)の戦い」で殷王朝を滅ぼす。
周王朝は封建制で、王族や功臣に地方の領地を与えた。
武王の弟である周公旦は「魯」国(のちの孔子の祖国)の開祖となり、武王の父・文王 asahi20210114.html#02 以来の功臣である呂尚(太公望。姜子牙)は営丘(後の臨淄)に領地を与えられた。
淄水(しすい)は、山東省を流れる川の名前。黒っぽい色だったので「淄」と言い、その川のほとりにあった都市を「臨淄」と呼ぶ(諸説あり)。
臨淄を含む一帯の国名は、済水にちなみ、「斉」となった。
周の武王が征服した殷王朝(商王朝)の故地は、華北平原の黄河中流域であった。
殷の故地を東西からはさんで支配するため、武王は周王朝の「天領」(江戸時代の日本の用語)を陝西省に、「譜代」「親藩」の斉と魯をそれぞれ山東省の中央と南部に置いた。
魯と斉は、「公侯伯子男」の最上位の「公」国であった。
- 前860年、「姜斉政変」(斉のクーデター)。斉の公族の姜山(第7代・献公)が異母弟である胡公を殺害し、勝手に斉の君主となった。
周王朝は献公を認めず、譴責の軍隊を派遣したが、斉軍によって撃退された(らしい)。
- 前815年、第10代・文公(献公)が即位。曾祖父以来の政争が一応の終結を見た。
- 前771年、周の幽王が犬戎(けんじゅう)に殺され、周王朝が東遷。
翌前770年から「東周」が始まる。東周時代の前半は「春秋時代」。
- 前698年、第14代・襄公が即位。
- 前694年、襄公は魯の桓公と斉の領内で会見。魯の桓公は妻の文姜(襄公の異母妹)を帯同してきた。
襄公は、この異母妹と肉体関係をもったことがあり、今回も近親相姦の密通をして、魯の桓公の知るところとなった。
襄公は、魯の桓公と酒を飲み、桓公が酔うと公子彭生に命じて彼を殺させた。
君主を殺された魯の国人は激怒して斉を責めると、襄公は彭生を殺して謝罪したが、その後も文姜との密通をやめなかった。
- 前686年、襄公はいとこの公孫無知(第15代君主)に殺された。
襄公の弟の公子糾は管仲とともに魯へ亡命した。同じく弟の公子小白(後の桓公)は鮑叔と莒(きょ)へ亡命した。
公孫無知はまもなく暗殺された。公として諡(おくりな)はおくられなかった。
- 前685年、公子小白が即位(第16代桓公 asahi20210408.html#03)。
桓公は、かつて自分を弓で射殺しかけた管仲を処刑しようとしたが、鮑叔(「管鮑の交わり」。管仲の親友)のとりなしで助命しただけでなく、管仲を宰相として取り立てた。
- 前651年、桓公35年、「葵丘(ききゅう)の会盟」。桓公は「尊王攘夷」のリーダーである「覇者」となり、「春秋五覇(しゅんじゅうごは)」の最初となった。
- 前645年、管仲が死去。桓公は、易牙(えきが)ら三人を「三貴」として取り立てた。
易牙はもと料理人で、桓公が「赤子を蒸したものはまだ味わったことがない」と言ったので、自分の長子を殺して料理して出したという。
参考 「降つて春秋時代になると、有名な齊の桓公、晉の文公、何れも人肉を食して居る。
齊の桓公は、その嬖臣易牙の調理して進めた、彼の子供の肉を食膳に上せて舌鼓を打ち、晉の文公は、その天下放浪中、食に窮した折柄、從臣介之推の股肉を啖つて饑を凌いだ。」
(https://www.aozora.gr.jp/cards/000372/files/4270_14876.html)
- 前643年、桓公は三貴によって病室に幽閉され、餓死もしくは衰弱死。遺体は長期間、放置され、扉からウジが這い出したという。
- 前609年、第21代・懿公(いこう)が馬車のうえで部下に殺され、死体は竹林に遺棄された。
- 前582年、第24代・霊公が即位。
「霊」と諡された君主は暗君が多いが、霊公に仕えた政治家の晏嬰(あん えい、前578? - 前500)はすぐれた人物であった。
- 前551年、魯で孔子 asahi20230413.html#01 が誕生。
- 前548年、第25代・荘公が、権臣の崔杼(さい ちょ/さい しょ、? - 前546年)に殺された。
『春秋左氏伝』襄公二十五年によると、斉国の史官(太史)は「崔杼、其の君を弑(しい)す」と記録に書いた。崔杼は彼を殺した。弟が太史の職をつぎ、同じことを書いた。
崔杼は弟も殺した。次の弟が同じことを書いた。崔杼はあきらめた。
斉国の太史が次々と殺されていることを聞いた「南史氏」は、記録用の竹簡をもってかけつけたが、歴史が正しく記録されたことを聞いて安心し、戻っていった、という。
- 前547年、第26代・景公が即位。晏嬰を宰相として重用した。
- 前517年ごろ、孔子は斉の国に行く。
以下、『論語』より引用。
顔淵第十二より
斉景公問政於孔子。孔子対曰「君君、臣臣、父父、子子」。公曰「善哉、信如君不君、臣不臣、父不父、子不子、雖有粟、吾豈得而食諸。」
参考 https://kanbun.info/keibu/rongo1211.html
述而第七より
子在斉聞韶。三月、不知肉味。曰「不図、為楽之至於斯也。」
参考 https://kanbun.info/keibu/rongo0713.html
- 前391年、第32代・康公が、宰相の田和によって海上の孤島に放逐された。「姜斉」の滅亡。
- 【田斉】
前386年、田和は周の安王から正式に諸侯に列せられた(田斉の初代・太公)。
- 前356年、田斉・第4代君主「威王」が即位。斉が王号を名乗った最初の君主。
威王と、次の宣王の治世が、田斉の最盛期だった。
首都の臨淄は商工業が発展した戸数7万戸(『戦国策』。人口数十万)の大都会であった。天下の「諸子百家」が集まり、「百家争鳴」の豊かな言論空間が生まれた。
貝塚茂樹・伊藤道治『古代中国』講談社学術文庫 p.467より引用。
臨淄の城門の一つである稷門(しょくもん)の傍らに文化区域を設定し、遠く各国から学者、思想家を招いて、その稷下の文化地域にりっぱな邸宅を建てて住まわせた。
かれら学者たちは、卿(大臣)につぐ高級官僚の俸給をもらいながら、決まった職はなにもなく、講堂などに集まって、学問についてお互いに討論しあっていた。
こうして、天下の有名な学者、思想家が集まり、稷門のほとりに住まっていたので、世にこれを稷下の学士という。
- 前342年、馬陵の戦い。斉の将軍・孫臏(そんぴん。孫子=孫武の子孫 asahi20231012.html#02)が、魏軍に勝利。
以後、天下は、西の秦と、東の斉の二大強国時代になる。
- 前299年、斉の孟嘗君(田文。威王の孫 asahi20220414.html#02)が、秦から斉に逃げ帰る(「鶏鳴狗盗」の故事)。
- 前288年、斉の湣王が東帝を称し、秦の昭襄王が西帝を称した(斉秦互帝)。
その後まもなく、湣王は、縦横家の蘇代の説得で東帝を撤回。
- 前284年、燕国の名将・楽毅(がっき)が、楚と斉を除く「戦国七雄」の連合軍を率いて斉国で電撃作戦を展開。
斉は首都を含む70余城の大半を奪われ、?と即墨の2城を残すのみになり、滅亡寸前となった。
- 前279年、「田単火牛」「火牛陣」。斉の名将・田単の奇計により、斉は逆転勝利して復国に成功。ただし、もはや往年の国力はなかった。
- 前261年、田斉の第8代(王としては第5代。最後の王)の田建が即位。
- 前247年、秦王政(のちの始皇帝 asahi20200625.html#02)が数え13歳で即位。
- 前236年、「秦の統一戦争」開始。趙、韓、燕、魏、楚などが次々と攻略される。
田建は他の5カ国が次々と秦に併呑されてゆくのを傍観するだけであったという。
- 前221年、最後に残った斉が、侵攻してきた秦軍によって滅亡。田建は捕虜となり、身柄を遠隔地に移送され、食糧を絶たれて餓死した(とも伝えられる)。
斉を滅ぼして天下を統一した秦王は「始皇帝」を名乗った。
○その他
- 斉の首都・臨淄は、現在の中華人民共和国山東省淄博市臨淄区である。
淄博市は、日本の新潟県加茂市と姉妹都市である。
cf.https://www.city.kamo.niigata.jp/docs/30193.html
- 春秋・戦国時代の斉国の人々の顔つきや体格は、日本の弥生人(の一部)とそっくりだった。
以下、「歴史のささやき 土井ケ浜・人類学ミュージアム名誉館長 松下孝幸」https://www.sankei.com/article/20150403-TKA3ETUGBFN5BL46YFPEH2DG5Q/より引用。閲覧日2024年8月5日。引用開始(一部の脱字は引用者=加藤徹が改めた)
山東省の古人骨と、北部九州・山口の弥生人の酷似は、北部九州・山口の弥生人の大本が大陸にあるということを示唆する。
彼らの出自についてはこれで決着が着いたと言ってもよいだろう。
約2000年前、日本は列島内で自己完結していたわけではなく、東アジアと広くリンクしていたのだ。
国内から出土する弥生人に地域差があるのは、おそらく、大陸における中国統一の戦乱による人の移動が、引き起こしたものであろう。
ただ、山東省臨淄の人骨が北部九州・山口の弥生人に酷似しているからといって、彼らが山東省からやってきたということにはならない。
その後、他の省からも少数ながら、彼らに似た人骨が出土している。朝鮮半島も含め、大陸のどこから、どのようなルートで、日本のどこへ入ってきたかは、まだ明らかになっていない。
第3回 9/3火 趙 北方の軍事大国で栄えた邯鄲の都
YouTube https://www.youtube.com/playlist?list=PL6QLFvIY3e-laqilDozjCqiSAU0j5a5T4
○ポイント、キーワード
- 戦国時代の始まり
春秋時代と戦国時代の境界線の年次については7つの説がある。
いちばん古い前481年説は、歴史書『春秋』魯哀公十四年(紀元前481年)の最後の記述「獲麟」(麒麟を獲た)を根拠とする。
最も有力な紀元前403年説は、周の威烈王23年、周王が三晋を正式に諸侯として追認し、晋が名実ともに韓・魏・趙に分裂したことを根拠とする。
つまり「趙の建国」が、戦国時代の皮切りであった。
- 中原
趙は、黄河文明の中心地「中原」の国の一つであり、先進国だった。
趙の首都であった邯鄲は、殷王朝の遺跡「殷墟」から60キロメートルしか離れていない。
○辞書的な説明
- 『ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典』より引用
趙 ちょう Zhao; Chao
中国の戦国時代の諸侯。七雄の一つ (前 453〜222) 。
その祖先は周の穆王に仕えた造父 (ぞうほ) といわれ,春秋時代には晋の六卿の一つとして活躍した。
春秋時代末期に趙鞅は范氏,中行氏を滅ぼし,その子趙無恤は知伯氏を討ち (前 453) ,韓氏,魏氏とともに晋を3分して自立した (戦国時代) 。
晋の烈侯 17 (前 403) 年正式に諸侯となり,敬侯1 (前 386) 年都を邯鄲に営んだ。
戦国時代中期,武霊王は胡服を採用し,騎射を修得させるなど北方民族の戦法を取入れ,軍制を改革して北地を攻略し,秦をうかがった。
しかし戦国時代後半には秦の圧迫を受け,廉頗,藺相如,あるいは平原君ら名将の活躍もあったが,長平に大敗して (前 262) 衰え,王遷8 (前 228) 年秦に滅ぼされた。
その際王子嘉は代 (河北省蔚県) に逃れて自立したが,やがてこれも滅ぼされた (前 222) 。
- 『日本大百科全書(ニッポニカ) 』より引用
邯鄲(中国) かんたん / ハンタン
(中略) 太行(たいこう)山脈の東麓、黄河(こうが)のすぐ北にあり、先史時代から集落の開けた所であった。
すぐ南の河南省安陽(あんよう)には殷墟(いんきょ)がある。
春秋時代には衛の属国であったが、戦国時代に趙(ちょう)はここに都を置き、それ以来漢代に至るまで華北での経済、文化の中心として栄えた。
付近で産する鉱石を利用して鉄の冶金を行い、王侯に匹敵する富をなした者もあり、また高級な遊女の存在でも有名であった(『史記』貨殖列伝)。
秦(しん)は趙を滅ぼして郡と県を置いたが、その重要性は衰えず、漢になっても王族を派遣して治めたほどであった。
しかし後漢(ごかん)以後、南方の開発が進むにつれ、経済の中心としての地位を失い、一地方都市にすぎない存在となった。
1952年市が設けられ、1956年峰峰市を合併して今日に至る。
古代に繁栄した邯鄲は文学でも取り上げられることが多く、田舎(いなか)者が邯鄲へ行ってそこの人の歩き方をまねているうちに、自分の歩き方を忘れて這(は)って帰ったという故事(邯鄲学歩(かんたんがくほ)、『荘子』秋水篇(へん))、
邯鄲の市で道士の枕を借りて寝た盧生(ろせい)が、一生のすべてを夢にみたが、目が覚めると眼前の黄粱(コウリャン)(粟(あわ))がまだ煮えてもいなかったという故事(邯鄲の夢、あるいは黄粱夢(こうりょうむ)、
『枕中記(ちんちゅうき)』)は有名で、いずれも当時の邯鄲の経済、文化の繁栄を物語る。
またこの故事にちなむ学歩橋、黄粱夢(呂翁祠(ろおうし))という旧跡もある。
このほか趙時代の故城跡、宮殿跡といわれる叢台(そうだい)などの名勝もある。
峰峰には南北朝時代から建設が始められた響堂山石窟(きょうどうさんせっくつ)があり、石仏、絵画など仏教芸術の宝庫である。
1945年10〜11月、華北の解放区をめぐる国民党軍と人民解放軍との戦闘は、邯鄲の戦役として知られる。
[秋山元秀 2017年3月21日]
○略年表
- 【西周時代】
前976年ごろ、西周の穆王(ぼくおう)が即位。
穆王に仕えた名御者の造父は「趙城」に封ぜられた。趙氏の始まり。
- 【春秋時代】
前622年、晋の文公(asahi20210114.html#03)に仕えた名臣の趙衰(ちょう さい 趙成子)が死去。
長男の趙盾は、晋の政治の実権を握った。
- 前607年、暴君だった晋の霊公が、趙盾の暗殺を図るが失敗。
趙盾は国外逃亡を図ったが、国境の手前まで来たとき、クーデターで霊公は殺された。
趙盾は都に戻り、成公を立てた。太史(史官)の董狐は晋の国史に「趙盾、その君を弑す」と書いた。
趙盾が「自分は弑逆を行っていない」と抗議した。
董狐は「あなたは霊公が殺されたとき、国境を出ずに帰ってきた。
あなたはまだ晋の正卿だった。
反逆者である趙穿を誅殺しなければならなかった。
にもかかわらず、あなたはそれをしない。
ゆえに、あなた自身が弑逆を行ったのと同じだ」と答えた。趙盾は反論しなかった。【董狐の筆】
- 前597年、趙武(趙盾の孫)が誕生。
趙朔(趙盾の子。趙武の父)をはじめとする趙一族は、司寇の屠岸賈により皆殺しとなった。
趙武は奇跡的に生き残り、成人後、仇を討ち、趙氏を再興した。【「趙氏孤児」の物語】
- 前453年、晋の権臣であった智襄子は、趙無恤(趙襄子)を討伐しようとして返り討ちにあい敗死。
趙無恤は、智襄子の髑髏に漆を塗って杯(便器説もある)にした。cf.織田信長の「箔濃(はくだみ)」
智襄子の旧臣・豫譲は「士は己を知る者の為に死し、女は己を悦ぶ者のために容づくる」と述べ(「知己」の語源)と述べ、
趙無恤の暗殺を試みたが失敗(『史記』刺客列伝)。
晋国は事実上、趙氏、韓氏、魏氏によって三分されたが、名目的には晋の君主が君臨していた。
- 【戦国時代】
前403年、周は「三晋」の独立を追認し、韓・趙・魏を諸侯の列に加えた。
この時点をもって「戦国時代」の開始とする説が有力。
北宋の司馬光による編年体の歴史書『資治通鑑』はこの年から始める。
- 前325年、趙の第6代君主・武霊王(趙雍)が即位。
武霊王の父親は「粛侯」で諸侯だったが、武霊王は当初から「王」として即位した。
- 前313年、学者の荀子が趙に生まれる(前298年説もある)。「青は藍より出て藍より青し」などの教えで有名。
- 前307年、武霊王は群臣の反対を押し切り【胡服騎射】(こふくきしゃ)を採用。趙は軍事強国となる。
以下、20210706.html#03より自己引用。
胡服騎射 こふくきしゃ
古来、中国人は馬車を使い、騎馬の習慣はなかった。戦国時代の趙の武霊王(在位前326年 - 前298年)は軍事力を高めるため、臣下の反対を押し切り、それまで中国人が野蛮人と見下していた騎馬民族の戦法を学んだ。騎馬民族の服と、騎乗して弓を射る戦いかたを採用した。
- 前295年、武霊王あらため「主父」は、息子(恵文王)の臣下の軍隊に居宅を包囲され、餓死。
- 前279年、黽池の会(べんちのかい)。
趙の恵文王の一行は、秦の領内である黽池で、秦の昭襄王と会見。随行した藺相如(りんしょうじょ asahi20220714.html#01)のおかげで、趙は国威を損なうことなく恵文王も帰国できた【完璧帰趙】。
藺相如は大臣に抜擢された。将軍の廉頗(れんぱ)は嫉妬して藺相如を付け狙ったが、後に和解して「刎頸の交わり」(ふんけいのまじわり)を結んだ。【刎頸の友】
- 前262年-前260年、長平の戦い。
趙の総大将・趙括が秦軍に大敗し、趙の国力は衰えた。【趙括、兵を談ず】
- 前259年、秦軍は趙の都・邯鄲を包囲。趙の平原君(asahi20230112.html#01)は食客を連れて、楚に救援を求めた。【嚢中の錐】
同年、?政(えいせい。後の始皇帝)が邯鄲で、秦の人質であった子楚と、趙姫とのあいだの子として誕生。
一説に、始皇帝の実父は呂不韋(りょふい asahi20211014.html#02)。
- 前247年、秦王政(のちの始皇帝 asahi20200625.html#02)が13歳で即位。秦王政の出生地は邯鄲だった。
- 前241年、函谷関の戦い。楚・趙・魏・韓・燕の五カ国の連合軍が秦軍に血戦を挑んだが、秦軍により撃退された。
- 前229年、秦軍を相手に善戦を重ねていた将軍の李牧(白起・王翦・廉頗と並ぶ戦国四大名将の一人)が、趙の幽繆王(ゆうぼくおう)の命令で殺された。
- 前228年、邯鄲は秦軍により攻略され、趙は滅亡した。
○その他
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