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中国歴史人物列伝 9

最新の更新2025年5月21日   最初の公開2025年4月9日

  1. 晏嬰 孔子と同時代の名宰相だった小男 あんえい
  2. 呂后 三大悪女と称される史上初の皇后 りょこう
  3. 周瑜 孫権を補佐し曹操を破った貴公子 しゅうゆ
  4. 文天祥 歴史を変えた科挙の首席合格者 ぶんてんしょう
  5. 秋瑾 和服と日本刀を愛した女性革命家 しゅうきん
  6. 川島芳子 謀略と謎に満ちた男装の麗人 かわしまよしこ
  7. 参考 今までとりあげた人物 実施順 時代順
以下、https://www.asahiculture.com/asahiculture/asp-webapp/web/WWebKozaShosaiNyuryoku.do?kozaId=7811497より引用。閲覧日2025年4月9日。引用開始
 歴史を理解することは、人間を理解すること。ヒストリー(歴史)とストーリー(物語)は、もとは同じ言葉でした。中国の伝統的な「紀伝体」の歴史書も、個々人の伝記を中心とした文学作品でした。
 本講座では、日本にも大きな影響を残した中国史上の人物をとりあげ、運や縁といった個人の一回性の生きざまと、社会学的な法則や理論など普遍的な見地の両面から、人生を紹介します。豊富な図像を使い、予備知識のないかたにもわかりやすく解説します。(講師・記)

 Zoomウェビナーを使用した、教室でもオンラインでも受講できる自由選択講座です(原則、講師は教室で講義予定)。見逃し配信(2週間限定)はマイページにアップします。各自ご確認ください。
引用終了


晏嬰 孔子と同時代の名宰相だった小男
YouTube https://www.youtube.com/watch?v=NSQefsgTNas&list=PL6QLFvIY3e-l-iHfY2t9y4INELlQQNUAH

○ポイント、キーワード
○辞書的な説明
○略年表  晏嬰の言行は、漢文古典『晏子春秋』に詳しい。
 司馬遷の『史記』晏嬰列伝の記述は簡素だが、司馬遷は晏嬰を非常に高く評価した。
『史記』巻62・晏嬰列伝
原漢文
晏平仲嬰者,萊之夷維人也。事齊靈公、莊公、景公,以節儉力行重於齊。既相齊,食不重肉,妾不衣帛。其在朝,君語及之,即危言;語不及之,即危行。國有道,即順命;無道,即衡命。以此三世顯名於諸侯。
越石父賢,在縲紲中。晏子出,遭之涂,解左驂贖之,載歸。弗謝,入閨。久之,越石父請絶。晏子懼然,攝衣冠謝曰:「嬰雖不仁,免子於緦何子求絶之速也?」石父曰:「不然。吾聞君子詘於不知己而信於知己者。方吾在縲紲中,彼不知我也。夫子既已感寤而贖我,是知己;知己而無禮,固不如在縲紲之中。」晏子於是延入為上客。
晏子為齊相,出,其御之妻從門闔ァ闚其夫。其夫為相御,擁大蓋,策駟馬,意氣揚揚甚自得也。既而歸,其妻請去。夫問其故。妻曰:「晏子長不滿六尺,身相齊國,名顯諸侯。今者妾觀其出,志念深矣,常有以自下者。今子長八尺,乃為人仆御,然子之意自以為足,妾是以求去也。」其後夫自抑損。晏子怪而問之,御以實對。晏子薦以為大夫。
太史公曰:(中略)方晏子伏莊公尸哭之,成禮然後去,豈所謂「見義不為無勇」者邪?至其諫説,犯君之顏,此所謂「進思盡忠,退思補過」者哉!假令晏子而在,余雖為之執鞭,所忻慕焉。
日本語訳(AIを補助的に使用した)

 晏平仲(晏嬰)は、萊の夷維の出身である。 斉の霊公、荘公、景公に仕え、倹約と実践を重んじることで斉国で重んじられた。 斉の宰相となってからは、食事に肉料理を重ねず、側室にも絹の衣服を着せなかった。 朝廷では、君主が自分に言及すれば直言し、言及されなければ謹んで行動した。 国に道がある時は命令に従い、道がなければ命令を斟酌した。 これによって三代の君主に仕えながら、諸侯の間で名声を轟かせた。

 越石父という賢者がいたが、囚われの身であった。 晏子が外出した際、道で彼に出会い、車の左側の馬を解いて彼を贖い、連れ帰った。 しかし晏子は帰ると、じゅうぶんな挨拶もせぬまま、そのまま奥に入ってしまった。 しばらくして、越石父は絶交を申し出た。 晏子は驚き、衣冠を整えて謝罪し、「私は不徳ではありますが、あなたを厄介から救い出しました。なぜこんなに早く絶交を求めるのですか?」と問うた。 石父は答えて言った。 「そうではありません。私は、君子は無理解者には退けられるが、理解者からは信頼される、と聞いています。 私が囚われていた時、あちらの御仁は私を理解していませんでした。しかし、あなたは私を贖い出してくださった。あなたは、私の理解者のはず。 理解者のもとでないがしろにされるくらいなら、無理解者のもとで囚われの身になっている方がましなのです」。晏子はそこで彼を上客として迎えた。

 晏子が斉の宰相であった時、外出した際に、車夫の妻が門の隙間から夫の様子を覗った。 夫は宰相の御者として、大きな車蓋を掲げ、四頭の馬を駆り、意気揚々と得意になっていた。 帰宅後、妻は離婚を求めた。夫が理由を問うと、妻は言った。
「晏子様は身長六尺(約140cm)に満たないお体で、斉国の宰相となり、諸侯に名を轟かせています。 今日、妾が外出されるのを見ると、思いは深く、常に謙虚でいらっしゃいます。 あなたは身長八尺(約185cm)もあるのに、人の御者でしかありません。 それなのに、あなたは自分に満足している。だから私を離縁してください」
 その後、夫は自らを慎むようになった。晏子は怪しんで理由を問うと、車夫は実情を答えた。晏子は彼を大夫に推薦した。
 司馬遷の評語(中略)太史公曰: (中略)晏子が荘公の遺体に伏して泣き、礼を尽くしてから去ったのは、まさに「義を見て為さざるは勇なきなり」(『論語』為政篇)と言われるものではないか。 また、彼が諫言する際、君主の顔色を損ねることも恐れなかったのは、これこそ「進んでは忠を尽くし、退いては過ちを補う」(孝経』))という者であろう。 仮に晏子が今も生きていたなら、私はたとえ彼の鞭を執る者(御者)となっても、心から慕って仕えたいと思う。


年表

○その他


呂后 三大悪女と称される史上初の皇后
YouTube https://www.youtube.com/playlist?list=PL6QLFvIY3e-lk0a-YZT7ZOplxs_lsubsn

○ポイント、キーワード
○辞書的な説明
○略年表 同時代人


AIを使った和訳 2025年4月23日
『史記』高祖本紀第八 https://ja.wikisource.org/wiki/史記/卷008
  1. 単父(ぜんほ)の人・呂公は、沛(はい)の県令として善政を施していた。ある時、仇を避けるために沛へ移り住み、そこで家を構えた。
    沛の有力者や役人たちは、呂令に大事な客人がいると聞いて、次々と祝賀に訪れた。蕭何(しょうか)はそのとき主簿で、進物の受付を担当していた。蕭何は諸侯たちに向かって、「千銭未満の贈り物しか持って来ない者は、堂の下に座るように」と言った。
    劉邦(後の高祖)は当時、亭長で、もとから役人を軽蔑していた。そこで嘘をついて「祝儀は一万銭」と言って門前に名を告げたが、実際は一文も持っていなかった。名が告げられると、呂公は驚いて立ち上がり、門まで出て迎えた。呂公は人相を見るのが好きで、劉邦の風貌を見て感心し、礼を尽くして上座に迎えた。蕭何は小声で「劉季(劉邦の字)は大言壮語が多いが、実際の行動は少ない」と言ったが、劉邦はその場の客たちを軽んじ、堂の上座にふんぞり返って一歩も譲らなかった。
    酒宴の終盤、呂公は密かに劉邦を引き留めた。劉邦が酒を飲み終えた後、呂公は言った。「私は若い頃から人相を見てきたが、あなたほどの人物は見たことがない。どうか自らを大切にしてほしい。私には娘がいるので、あなたの側女として差し上げたい。」
    宴が終わると、呂夫人は呂公を叱った。「あなたはいつもあの娘を貴人に嫁がせたいと話していたでしょう。沛令が求めてきても断ったのに、なぜ劉邦に勝手に許すのですか?」呂公は、「これは女や子供には分からぬことだ」と言い、結局、娘を劉邦に嫁がせた。この娘こそ後の呂后であり、孝恵帝と魯元公主を産んだ。
  2. 劉邦が亭長だった頃、よく田舎の田に帰っていた。呂后は二人の子を連れて田にいて草取りをしていたとき、一人の老人が通りかかり、水を所望した。呂后は食事をふるまった。その老人は呂后の相を見て、「あなたは天下の貴婦人になる方だ」と言い、二人の子の相も見た。孝恵を見て、「あなたが貴くなるのは、この子のためです」と言い、魯元を見ても同じように将来の貴さを予言した。老人が去った後、劉邦が近所の家から帰ってきたので、呂后はそのことを話した。劉邦はまだ近くにいると聞いて老人を追いかけ、追いついて尋ねた。老人は「さっきの夫人と子は、どれもあなたに似ていて、あなたの相もまた非常に貴い」と答えた。劉邦は感謝して、「あなたの言葉が本当なら、恩を忘れません」と礼を述べた。劉邦が出世してからも、結局その老人が誰だったかは分からなかった。
  3. 秦の始皇帝は「東南に天子の気がある」と聞いて、それを抑えるために東へ遊行した。劉邦はその言葉を聞いて不安になり、芒山(ぼうざん)・碭山(とうざん)の山中に隠れた。呂后は人と一緒に劉邦を探しに出て、いつも見つけ出した。劉邦は不思議に思って理由を問うと、呂后は「あなたのいる場所の上には、いつも雲の気があったので、すぐ分かりました」と答えた。劉邦は心の中で喜び、沛の青年たちもこの話を聞いて、彼に付き従いたいと思う者が増えた。
  4. 劉邦が布を討ったとき、流れ矢に当たり、病に伏した。病状が悪化すると、呂后は名医を呼んだ。医者は「治療できます」と言ったが、劉邦は怒って罵った。「私は布衣(庶民)から三尺の剣で天下を取ったのだ。これは天命である。命が天にあるなら、扁鵲(名医)でも何の助けにもならぬ」と言って治療を拒み、代わりに金五十斤を与えて医者を帰した。その後、呂后が「陛下が亡くなられたら、蕭相国が死んだときの後任は誰にしますか?」と尋ねると、劉邦は「曹参(そうしん)だ」と答えた。さらにその次は?と問うと「王陵がよい。だがやや愚直なので、陳平が補佐するとよい。陳平は知恵が余っているが、単独では任せにくい。周勃は重厚で学問は少ないが、劉氏を安定させる者は彼だ。太尉にするとよい」と言った。呂后がさらに次の候補を問うと、劉邦は「その後のことはお前の知るところではない」と言った。
  5. 盧綰(ろわん)は数千の騎馬を率いて辺境に待機していたが、病が癒えることを祈って見舞いに来た。
  6. 四月甲辰、高祖は長楽宮にて崩じた。四日間、訃報を公にせず、呂后と宦官の審食其(しんいき)は謀って「諸将はもとは帝と同じ民で、今は臣下となっているが、常に不満を抱いている。今、若い皇子を君主にすれば、彼らは必ず反乱を起こす。根絶やしにせねば天下は治まらぬ」と語った。 この話を聞いたある者が、将軍の酈食其(れきいき)に告げた。彼は審食其に「帝が崩御して四日も訃報を伏せ、諸将を殺すつもりだと聞いた。本当なら天下が危ない。陳平と灌嬰は十万の兵を擁して滎陽を守っており、樊噲と周勃は二十万の兵で燕と代を制している。もし諸将が殺されたと知れば、兵を連れて関中を攻めてくる。内に大臣が反し、外に諸侯が反すれば、国家は滅びる」と訴えた。審食其がこれを呂后に伝えると、すぐに丁未の日に訃報を発し、天下に大赦を行った。
  7. 盧綰は高祖の崩御を聞いて匈奴に亡命した。

『史記』呂后本紀第九 http://ja.wikisource.org/wiki/史記/卷009
  1. 呂太后は高祖の若き日からの妃であり、孝恵帝と魯元太后を産んだ。高祖が漢王となった後、定陶の戚姫を得て寵愛し、彼女との間に趙隠王・如意を儲けた。
  2. 孝恵帝は仁愛で気弱な性格であり、高祖は「我に似ぬ」として常に太子を廃して戚姫の子・如意を立てようとした。如意は高祖に似ていたためである。戚姫は寵愛され、常に関東に高祖に従っていた。昼夜泣きながら、子を太子に立てんと望んだ。呂后は年長であり、都に残り政務を司ることが多く、高祖と会う機会が少なく、次第に疎まれるようになった。
  3. 如意が趙王に立てられた後も、太子を代えようとする動きは幾度もあったが、大臣たちの強い反対と留侯(張良)の策により、太子は廃されずに済んだ。
  4. 呂后は剛毅な性格であり、高祖の天下統一にも大いに貢献した。大臣の誅殺にも呂后の力が大きく働いた。 呂后には二人の兄があり、共に将となった。長兄の周呂侯は戦死し、その子・呂台は酈侯に、子・産は交侯に封ぜられた。次兄・呂釋之は建成侯となった。
  5. 高祖十二年四月甲辰、高祖は長楽宮で崩御し、太子が帝位を継いだ。時に高祖には八人の男子がいた。 長男・劉肥は孝恵帝の異母兄であり、斉王に封ぜられた。 他の男子は皆孝恵帝の異母弟であり、戚姫の子・如意は趙王、薄夫人の子・恒は代王、その他の姫の子・恢は梁王、友は淮陽王、長は淮南王、 建は燕王に封ぜられた。高祖の弟・劉交は楚王、兄の子・劉濞は呉王となった。 劉氏以外で王に封ぜられたのは功臣・番君呉芮の子のみであり、長沙王となった。
  6. 呂后は戚夫人とその子・趙王如意を最も憎み、戚夫人を宮中の幽閉施設「永巷」に閉じ込め、趙王を召し寄せた。使者が三度赴いたが、趙国の宰相・建平侯周昌は、「高祖のご命令で趙王をお預かりしている。王は若年であり、また病もある。太后が王を害そうとしていると聞き、王を行かせることはできぬ」と拒んだ。呂后は激怒し、趙国の宰相を長安に召還し、再び趙王を召した。趙王は赴いたが、到着前に孝恵帝は太后の怒りを察し、自ら趙王を迎え入れて共に宮中に入った。孝恵帝は趙王に付き添い、起居も食事も共にしたため、太后は手を下せなかった。
  7. 孝恵元年十二月、帝は早朝に弓の稽古に出た。趙王は幼く早起きできず、一人残された。これを知った太后は毒酒を持たせて趙王に飲ませた。 暁方、孝恵帝が戻ると趙王はすでに死んでいた。淮陽王・友を趙王に遷封し、夏には酈侯の父に追贈して令武侯と諡した。
  8. その後、呂后は戚夫人の手足を切断し、両目をえぐり、耳を焼き、喋られぬ薬を飲ませ、便所に住まわせ、「ヒトブタ(人彘)」と呼ばせた。数日後、孝恵帝を呼び見せた。孝恵はそれが戚夫人と知るや大いに泣き、それより病に臥し、一年以上立ち上がることができなかった。人を遣わして太后に言った。「これは人の為すことにあらず。私は太后の子ではあるが、天下を治めることはできぬ」と。以後、孝恵帝は日々酒に耽り、政務を取らなくなった。これが病の原因である。
  9. 二年、楚元王・斉悼恵王が朝廷に参じた。十月、孝恵帝は斉王と宴を開き、太后の前で斉王を兄として上座に置き、家族の礼を以て接した。太后は怒り、二つの毒酒を用意し、斉王に寿を述べさせた。斉王が立ち上がると、孝恵もまた立って盃を取って共に寿を述べようとした。太后は驚いて自ら孝恵の盃に酒を注いだ。斉王は怪しみ、酔ったふりをして退出した。後に毒であると知り、命の危険を感じて深く憂えた。斉国内史が進言した。「太后には孝恵帝と魯元公主しかおらぬ。今、王には七十余の城があるが、公主はわずか数城しか与えられていない。もし一郡を献じて公主に与えれば、太后は喜び、王は憂うことなし」と。 斉王はこれに従い、城陽の一郡を太后に献じ、公主を王太后とした。呂后は大いに喜び、これを許した。宴を開いて歓談し、その後、斉王は国に帰った。
  10. 三年、長安城の築造が始まり、四年で半ば完成し、五・六年で城は完成した。諸侯が参集し、十月に朝賀が行われた。
  11. 七年(紀元前188年)秋、八月戊寅の日、孝恵帝が崩御した。喪が発せられ、太后は哭したが、涙は流れなかった。留侯の子である張辟彊が侍中として仕えており、十五歳であった。彼は丞相に言った。「太后には孝恵帝しかおらず、今崩御したのに、その哭が悲しみを帯びておりません。君はその理由がおわかりでしょうか?」丞相が「何の理由か?」と問うと、辟彊は答えた。「帝には壮年の子がおらず、太后は君たちを恐れております。今、呂台・呂産・呂祿を将軍に任じ、南北軍に兵を置かせ、その他の呂氏を皆宮中に入れて政務を行わせれば、太后の心は安まるでしょう。君たちも禍を免れることができましょう」。丞相は辟彊の計に従った。太后はそれを喜び、その哭はようやく哀しみを帯びた。ここに呂氏の権力が始まった。大赦が天下に下された。九月辛丑の日、孝恵帝は葬られた。太子が即位して帝となり、高廟に謁した。元年、政令はすべて太后から発せられた。
  12. 太后が政をとるようになり、呂氏一門を諸侯王に立てようと議した。右丞相の王陵に問うと、王陵は答えた。「高祖が白馬を刑して盟を結び、『劉氏でない者が王となれば、天下でこれを討つ』とされました。今、呂氏を王とするのは、その盟に背くものです」。太后はこれを快く思わなかった。左丞相の陳平と絳侯の周勃に問うと、二人は答えた。「高祖が天下を平定した際には、その子弟を王にしました。今、太后が政をとられる中、兄弟である呂氏を王にされるのは、まったく問題ありません」。太后は喜び、朝議を終えた。王陵は陳平と絳侯に詰め寄った。「初めに高祖とともに血をすすり盟を結んだとき、君らもそこにいたであろう。今、高祖が崩御し、太后が女主でありながら、呂氏を王としようとしている。君らはその意に従い、盟を裏切っている。高祖にどんな顔向けができようか」。陳平と絳侯は答えた。「面と向かって廷で争うことにおいては、我らは君に及ばぬ。だが、社稷を全うし、劉氏の後を定めることにおいては、君は我らに及ばぬ」。王陵は答える言葉を持たなかった。
  13. 十一月、太后は王陵を罷免しようとし、彼を太傅に任じて、丞相としての権を奪った。王陵は病となり、免職されて帰郷した。 左丞相の陳平は右丞相とされ、辟陽侯の審食其が左丞相とされた。左丞相は政務を扱わず、宮中の監察を任じられ、郎中令のように扱われた。 審食其はもともと太后の寵愛を受けており、政務に関与していた。公卿たちは皆、彼を通して事を決した。太后は、酈侯の父を悼武王として追尊し、呂氏を王にする準備を進めた。
  14. 四月、太后はまず呂氏を侯に封じようとし、先に高祖の功臣である郎中令の無擇を博城侯とした。 魯元公主が薨じ、謚号を魯元太后とし、子の偃を魯王とした。魯王の父は宣平侯の張敖である。 齊悼恵王の子・章を朱虚侯とし、呂祿の娘を娶わせた。 齊の丞相・壽を平定侯とし、少府の延を梧侯とした。さらに呂種を沛侯、呂平を扶柳侯、張買を南宮侯とした。
  15. 太后は呂氏を王にしようとし、先に孝恵帝の後宮の子・彊を淮陽王とし、不疑を常山王、山を襄城侯、朝を軹侯、武を壺関侯とした。 太后は大臣たちに圧力をかけ、大臣たちは酈侯の呂台を呂王に立てるよう上奏し、太后はこれを許した。建成康侯の呂釋之が亡くなり、その子は罪があり廃され、弟の呂祿を胡陵侯とし、康侯の後を継がせた。
  16. 二年、常山王が薨じ、弟の襄城侯・山を常山王とし、名を義と改めた。十一月、呂王の呂台が薨じ、謚を粛王とし、太子の嘉が王位を継いだ。
  17. 三年、特筆すべきことはなかった。
  18. 四年、呂媭を臨光侯、呂他を俞侯、呂更始を贅其侯、呂忿を呂城侯とし、さらに諸侯国の丞相五人も封じた。
  19. 宣平侯の娘が孝恵皇后となったが子はおらず、妊娠したふりをして美人の子を奪い名をつけ、母を殺して自らの子とし、太子に立てた。孝恵帝が崩じ、太子が即位して帝となった。帝が成長し、母が殺されたことや自分が真の皇后の子でないことを知ると、「后はどうして我が母を殺して名を与えたのか。私はまだ幼かったが、成長すれば報復する」と言った。太后はこれを聞いて心を痛め、乱を恐れて帝を永巷に幽閉し、「帝は病に臥し、誰も謁見できぬ」とした。太后は言った。「天下を治め万民の命を預かる者は、天のように覆い、地のように包み、上には歓びの心があってこそ百姓は安心する。今、皇帝は病が長引き、惑乱し、宗廟を継ぐこともできず、天下を託すに足らぬ。ゆえにこれを代えねばならぬ」。群臣は皆、額を地につけて言った。「皇太后の深きご配慮は、宗廟と社稷を安んずるものであります。臣等、誠に詔を奉じます」。帝は廃され、太后により幽殺された。
  20. 五月丙辰の日、常山王義が帝に立てられ、名を弘と改めた。元年と称されないのは、太后が政権を握っていたためである。 軹侯の朝を常山王とし、太尉官を設け、絳侯の周勃を太尉とした。
  21. 五年八月、淮陽王が薨じ、弟の壺関侯・武を淮陽王とした。六年十月、太后は呂王嘉が驕慢であるとしてこれを廃し、粛王台の弟である呂産を呂王とした。夏、天下に赦が下された。齊悼惠王の子・興居を東牟侯に封じた。
  22. 七年正月、太后は趙王の友を召した。友は呂氏の娘を后としていたが愛さず、他の姫を寵愛したため、呂氏の娘は嫉妬して怒り、太后に讒言をした。「呂氏がどうして王になれましょうか。太后が百年を迎えた後、我が必ずこれを討つ」と言ったという。太后は怒り、これによって趙王を召した。趙王が到着すると、館に留められて謁見を許されず、衛兵がこれを囲み、食も与えられなかった。家臣がひそかに食を届けようとすれば、捕らえて処罰された。趙王は飢え、歌って言った。
    「諸呂政を執りて 劉氏危し
    王侯脅されて 無理に妃を授かる
    我が妃 嫉みて 我を讒訴す
    讒女国を乱し 上は悟らず
    我に忠臣なければ いかで国を守らん
    野に自決して 蒼天に訴う
    ああ悔ゆるに及ばず むしろ早く命を絶たん
    王たる者 飢えて死す 誰かこれを憐れむ
    呂氏道を絶す 天に託して仇を報いん」
    丁丑の日、趙王は幽閉され餓死し、民間の礼で長安の庶民の墓のそばに葬られた。
  23. 己丑の日、日食があり、昼なお暗かった。太后はこれを凶兆とし、不安に思って側近に言った。「わたしのせいだ」。
  24. 二月、梁王の劉恢は趙王に遷される。呂王の呂産は梁王に遷されるが、国へは赴かず、皇帝の太傅となる。 皇子である平昌侯・劉太を呂王に立て、梁の国名を「呂」と改め、「呂」を「済川」と改める。 太后の妹・呂嬃が生んだ娘は営陵侯・劉澤の妻であり、劉澤は大将軍である。太后は諸呂の王たちを重んじていたが、もし自分が崩御した後、劉氏の将軍が害を成すことを恐れ、劉澤を琅邪王とし、その心を慰めようとした。
  25. 梁王であった劉恢は趙王に遷されたことを快く思っておらず、心中に不満を抱いていた。太后は呂産の娘を趙王の后とし、王后の従者は皆、呂氏の者であり、権力をほしいままにし、密かに趙王の動静をうかがっていたため、趙王は自由に振る舞うことができなかった。王が寵愛する姫がいたが、王后は人を使って彼女に毒を盛って殺させた。王はこれを悲しみ、四章からなる歌を作り、楽人にそれを歌わせた。悲しみに沈んだ王は、六月に自殺した。太后はこれを聞き、王が女色に溺れて宗廟の礼を顧みなかったとして、その嗣子を廃した。宣平侯・張敖が死去し、その子・劉偃を魯王に立て、張敖には「魯元王」の諡(おくりな)を贈った。
  26. 秋、太后は使者を代王のもとに遣わし、趙王に遷ろうと告げたが、代王は辞退し、辺境の守りに留まりたいと願った。
  27. 太傅・呂産と丞相・陳平らは、武信侯・呂祿が侯の中で位が最も高いことから、彼を趙王に立てるよう求めた。太后はこれを許し、祿の父である康侯を追尊して「趙昭王」とした。九月、燕の霊王・劉建が薨じ、美人の子がおり、太后は人を遣ってこれを殺させ、跡継ぎを断ったことで国は廃された。八年十月、呂肅王の子である東平侯・呂通を燕王に立て、弟の呂莊を東平侯に封じた。
  28. 三月の中頃、呂后は祓(はらえ)を行い、軹道を通って帰る途中、蒼い犬のような物を見た。それが高后(呂后)の脇を押さえるように乗ったが、忽然と姿を消した。これを占わせたところ、趙王・劉如意の霊が祟っているとの結果が出た。高后はそれにより脇を痛め、病となった。
  29. 高后は、外孫である魯元王・劉偃が若くして父母を失い、孤弱であることを憐れみ、張敖の前妻の子である侈を新都侯に、壽を楽昌侯に封じ、魯元王を補佐させた。また、中大謁者の張釋を建陵侯に、呂榮を祝茲侯に封じた。その他の宦官の長官たちも皆、関内侯に封じられ、五百戸の食邑を与えられた。
  30. 七月の中頃、高后の病が甚だしくなり、趙王・呂祿を上将軍とし、北軍を指揮させ、呂王・呂産を南軍に配置した。呂太后は呂産と呂祿に対しこう命じた。「高帝(劉邦)はすでに天下を平定したが、大臣たちと約し、『劉氏でない者が王になれば、天下の者共にこれを討つ』と定めた。今、呂氏が王となっていることに大臣たちは不満を抱いている。私がもし崩じれば、帝(皇帝)は幼く、大臣たちは変を起こすことを恐れている。必ず兵をもって宮を守り、葬儀を行ってはならぬ。人に主導権を渡してはならぬ」と。
  31. 辛巳の日、高后は崩御した。遺詔により、諸侯王にはそれぞれ黄金千斤、将相・列侯・郎吏には官位に応じて黄金が賜与された。天下は大赦された。呂王・呂産を相国とし、呂祿の娘を皇后とした。高后の葬儀が終わると、左丞相・審食其を皇帝の太傅とした。
  32. (中略)
  33. 【太史公曰】(司馬遷の評語)
    孝恵皇帝および高后(呂后)の時代には、民衆は戦国時代の苦しみからようやく解放され、君主と臣下ともに無為自然の政治を志向し、休息を望んだ。 それゆえ、恵帝は政治に深く関わらず穏やかに治め、高后は女性でありながら政権を握りながらも、政務は宮中の奥から出ることはなく、天下は平穏であった。 刑罰はめったに用いられず、罪人もまれであった。 人々は農耕に励み、衣食が豊かに増えていった。
  34. 【索隠述賛】
    高祖(劉邦)がまだ微力であった頃から、呂氏は妃として仕えた。 やがて正室となり、後宮にて密かに権勢を振るうようになる。 志は柔順を装いながらも、内には忍耐と猜疑の心を抱いていた。 斉の悼王を毒殺し、戚夫人を残酷に扱って殺した。 孝恵帝が崩御したとき、その葬送においても彼女は真に悲しまず、涙はうわべだけであった。 その後、呂氏一門が権力を握り、天下に対して私的な意図を見せた。 有力な臣下たちは殺され、呂氏に関係ない皇族や一族も粛清された。 このような過ちが極まった結果、災いとなって現れ、ついには「蒼狗(=非常の事態、変化の兆し)」が凶兆となった。


○その他


周瑜 孫権を補佐し曹操を破った貴公子
YouTube https://www.youtube.com/playlist?list=PL6QLFvIY3e-mgDsBhbQv6RIEC6Z1DEDYM

○ポイント、キーワード
○辞書的な説明
○周瑜(175-210)の同時代人

○略年表
○正史『三国志』周瑜の伝記
https://zh.wikisource.org/wiki/三國志/卷54#周瑜
AIを使った日本語訳
 周瑜(字は公瑾)は廬江郡舒県の出身である。祖父の周景、その子の周忠は共に漢の太尉を務めた。
 〈謝承の『後漢書』によれば、周景の字は仲郷。若い頃から清廉で有能と評され、明確な学識と親孝行により察挙(推挙)され、公府に召された。その後、豫州刺史となり、汝南の陳蕃を別駕に、潁川の李膺・荀緄・杜密、沛国の朱寓を従事に任命した。皆、天下の英才であった。徐々に昇進し、尚書令、さらに太尉となった。張璠の『漢紀』では、周景の父・周栄は章帝・和帝の時代に尚書令を務めたという。景は地方官として善政を敷き、賢人を好んで重んじた。毎年、孝廉を推挙し、彼らを家に招いて宴を開き、贈り物をし、子弟も採用した。彼は常に「自分の子のように扱う、政治に何の差があるか」と言っていた。一方で、司徒の韓?は河内太守のとき、公私の別を守り、推挙も一度だけで、その後は関わらなかった。「私は彼を推挙した。それで十分だ。恩を一門に偏らせるべきではない」と言い、世間ではこの二人の姿勢を比較して論じた。〉
 周瑜の父・周異は洛陽の県令を務めた。周瑜は体格が良く容姿にも優れていた。かつて孫堅が義兵を率いて董卓を討伐したとき、一家で舒に移った。 孫堅の子・孫策と周瑜は同い年で、特に親しく交わり、周瑜は自宅の広い屋敷を孫策に提供し、母親にも礼を尽くし、家の財を分け合うほどであった。
 周瑜の叔父・周尚は丹楊太守であり、周瑜は彼を訪ねた。ちょうどその頃、孫策が東へ向かおうとしていたところ、歴陽に到着し、周瑜に書を送った。周瑜は兵を率いてこれを迎えた。孫策は大いに喜び、「卿を得た、うまくいった」と言った。
 周瑜は横江・当利を共に攻め、いずれも攻略した。さらに江を渡って秣陵を攻撃し、?融・薛礼を破った。そこから湖孰・江乗を下り、曲阿に入った。劉繇は逃走し、孫策の兵力は数万に達した。孫策は周瑜に「この兵で呉・会稽を平定し、山越を鎮めるには十分だ。卿は丹楊を鎮めよ」と言い、周瑜は戻った。
 その後間もなく、袁術は従弟の袁胤を派遣して周尚に代わらせ、周瑜と周尚は共に寿春へ戻った。袁術は周瑜を将軍にしようとしたが、周瑜は袁術に将来性がないと見て、居巣の長官を望み、東へ帰るための通行許可を求め、袁術はこれを許した。こうして周瑜は居巣から呉に戻った。この年、建安3年(198年)のことである。
 孫策は自ら周瑜を迎え、建威中郎将に任じ、兵2千人、騎兵50騎を与えた。
〈『江表伝』によれば、孫策はさらに鼓吹隊を与え、館舎を整え、莫大な贈り物をした。孫策の命令には
「周公瑾は英才であり、私とは幼い頃から親友で、兄弟のような間柄である。かつて丹楊で兵を出し、船や食糧を調達して大事業を助けた。彼の功績に報いるには、今の待遇でも足りぬほどだ」
と記された。〉 このとき周瑜は24歳で、呉では皆「周郎」と呼んだ
 その後、孫策は荊州を取ることを考え、周瑜を中護軍に任じ、江夏太守を兼ねさせ、皖を攻めてこれを落とした。ときに橋公の二人の娘(共に絶世の美女)を得て、孫策は姉(大橋)を、周瑜は妹(小橋)を妻とした。
〈『江表伝』によれば、孫策は冗談交じりに周瑜に「橋公の娘は流浪していたが、我ら二人を婿に得たのだから、きっと満足しているだろう」と言ったという。〉
 さらに尋陽近くに進軍し、劉勳を破り、江夏を討ち、豫章・廬陵を平定した。巴丘に駐屯した。
〈臣・裴松之の注釈:この時期、孫策は豫章・廬陵を得たばかりであり、江夏はまだ手に入れていなかった。周瑜が駐屯した場所は、現在の巴丘県であり、後に平定された巴丘とは異なる。〉
 建安5年(200年)、孫策が亡くなり、孫権が後を継いだ。周瑜は兵を率いて葬儀に参列し、そのまま呉に留まった。中護軍として長史の張昭と共に政務を担った。
〈『江表伝』によれば、曹操が袁紹を破って勢力を拡大し、建安7年(202年)に孫権へ人質を要求してきた。孫権は家臣を集めて会議したが、張昭・秦松らは決断できなかった。孫権自身も送りたくないと考えていた。そこで周瑜と二人で母のもとへ出向き、相談した。周瑜はこう言った。
「楚が初めて封じられた地は荊山のそば、わずか百里足らずの地でした。しかし賢明な継承者を得て領土を広げ、郢に都を置き、荊州・揚州を支配し、南海まで達し、九百年もの間、国家を保ちました。今、将軍(孫権)は父兄の遺した基盤を受け継ぎ、六郡の民を擁し、兵士も優れ、食糧も豊か、兵士は忠誠を尽くし、銅を山から採り、塩を海から得る。国内は富み、人心も安定している。船を出せば朝に発ち夕には着く。士気は高く、敵なしの強さを誇る。このような状況でなぜ人質を送らねばならぬのか。人質となれば曹氏に付き従わざるを得ず、召されれば断れぬ。つまり、相手の支配下に置かれるということです。せいぜい侯の位と十数人の従者、数台の車と数頭の馬を与えられるだけ。将軍が南面して孤(君主)と称することとは比べものになりません。送らぬ方がよい。事の成り行きを見極めてからでも遅くない。もし曹氏が義を以て天下を正すのなら、そのときに仕えても遅くはない。もし暴虐を図るなら、兵は火のようなもの。抑えなければ自ら滅ぶ。将軍は力を蓄え威を示し、天命を待つべきです。なぜ人質を送る必要がありましょうか?」
 孫権の母は言った。
「公瑾の意見は正しい。彼は伯符(孫策)と同い年で、わずか1ヶ月だけ若い。私は彼を我が子のように思っている。汝は兄のように彼を敬いなさい。
 こうして、人質は送られなかった。
 建安11年、周瑜は孫瑜らと共に麻屯・保屯を攻め、敵の首領を討ち取り、一万人以上を捕虜にして官亭に帰還した。江夏太守の黄祖が将軍の鄧龍に兵数千を預けて柴桑に侵入させたが、周瑜はこれを追撃し、鄧龍を生け捕って呉に送った。
 建安13年春、孫権が江夏を攻撃するにあたり、周瑜は先鋒の総大督となった。その年の9月、曹操が荊州に侵攻し、劉琮が降伏して曹操は水軍を手中に収め、陸軍・水軍あわせて数十万を擁することとなった。これを聞いた孫権の家臣たちは恐れ、会議で皆「曹操は漢の名を借りて各地を征伐し、正義を掲げている。今、対抗するのは時勢に逆らう行為であり、曹操の軍勢は強大。迎え入れた方がよい」と主張した。
 これに対し、周瑜はこう言った。
「それは違います。曹操は漢の宰相を名乗っているが、実際は漢の敵です。将軍(孫権)は神武の才があり、父兄の遺志を継ぎ、江東を治め、領土は数千里に及び、兵力も充実しています。今や、天下の害を除き、漢王朝を支えるべき時です。それなのに、敵に道を譲るのですか? 北方はまだ完全に平定されておらず、馬超・韓遂も健在で曹操の背後に脅威がある。さらに曹操の軍は馬を捨て舟に頼って南下してきており、水戦は中国(中原)の兵には不慣れである上、今は真冬で馬に飼料もなく、疫病も流行っている。このような状態で攻めてきた曹操を打ち破る好機は、今しかない。私に精鋭三万を与えていただければ、夏口に進軍し、必ず曹操を撃破してみせます。」
 孫権はこれを聞いて喜び、
「曹操はずっと漢を滅ぼし自立する機会を狙っていた。いまや袁氏、呂布、劉表も倒れ、残るは我一人。彼とは共存できない。君の言葉は我が志と一致する。これは天が君を我に授けたのだ」
と語った。
 また、その夜、周瑜は再び孫権に言った。
  「皆は曹操の『水陸合わせて80万』という誇大な書簡に騙されています。実際は中原の兵はせいぜい15〜16万、劉琮の兵を加えても7〜8万で、しかも士気が低く、病人も多い。こちらが精鋭5万を用いれば十分に対抗できます。将軍、どうかご安心を」
 孫権は周瑜の背を叩いて、
「公瑾(周瑜)、君の言葉はまさに我が心と同じだ。諸将は自分の家族のことしか考えておらず、頼りにならない。君と魯粛だけが心を共にしてくれる。天が君らを我に与えてくれたのだ。5万の兵はすぐには揃えられないが、すでに3万を選抜し、艦船・食料・武器も準備した。君と魯粛・程普は先に出陣し、私は後から兵と物資を送って援護しよう。もし不測の事態があればすぐ戻ってくれ、我自ら曹操と決着をつけよう」
 この時、劉備は曹操に敗れ、南へ逃れていたが、魯粛と当陽で出会い、計を共にし、夏口に移動した。そして諸葛亮を孫権に遣わした。孫権は周瑜・程普らを劉備と合流させて曹操を迎え撃たせ、赤壁にて対峙した。
 曹操軍はすでに疫病が広がっており、最初の交戦で敗走し、北岸へ退いた。周瑜軍は南岸にいた。
 このとき、部将の黄蓋が提案した。
「敵は数に勝るが、船が連結しており火攻めが有効です」
 黄蓋は大型軍船に薪や油を詰め、布で覆って牙旗を掲げ、偽降伏の手紙を曹操に送った。曹操は半信半疑ながら黄蓋の真意を測りつつ、期待もしていた。 黄蓋は風向きを利用し、火船を敵船に接近させて一斉に火を放ち、大火災となった。 南東風が強く、炎は瞬く間に岸辺の陣営にも及び、曹操軍は大混乱。焼死・溺死する者も多く、軍は敗走して南郡に撤退した
 周瑜・劉備は追撃し、曹操は江陵城に曹仁らを残し、自身は北へ帰った。
 その後、周瑜・程普は南郡を攻め、曹仁と対峙した。まだ交戦はしていなかったが、甘寧を夷陵に派遣し、曹仁がそれを攻撃。甘寧は周瑜に救援を求め、呂蒙の策で周瑜自身が出陣して救援した。しかし、矢傷を右脇に受けて重症を負い、退却。曹仁はこれを聞いて攻勢を強めようとしたが、周瑜が起き上がり陣営を巡り兵を鼓舞すると、曹仁は退いた。
 孫権は周瑜を偏将軍とし、南郡太守に任命。江陵を本拠とし、下雋・漢昌・劉陽・州陵を封邑とした。
 劉備は左将軍・荊州牧となり公安に本拠を置いた。周瑜は孫権に上奏してこう述べた。
「劉備は梟雄であり、関羽・張飛という猛将を抱え、いつまでも人の下にはいないでしょう。備を呉へ移して豪邸を与え、美しい女性で歓待し、心を奪いましょう。そして関羽・張飛を別々の地に分けて配置し、私のような者が彼らを掌握して戦いに用いれば、大きな事業を成し遂げられます。今、土地を与えて三人を一箇所に集めるのは、まるで蛟龍が雨雲を得るようなもので、いずれ手に負えなくなるでしょう」
 だが孫権は曹操の北方にいることを警戒し、劉備を取り込もうとしていたため、この意見は採用されなかった。  当時、益州では劉璋が牧となっており、外敵の張魯に苦しんでいた。周瑜は孫権に提案した。
「曹操は最近敗れて内政に手が回らぬ。いま奮威(呂範)と共に蜀を取り、張魯を制圧し、呂範を残して守備させて馬超と同盟を結びます。私は戻って襄陽を拠点とし、曹操を圧迫すれば、北方も攻略できます」
 孫権はこれを認め、周瑜は江陵に戻って出征の準備をしていたが、途中の巴丘で病没した。享年36。
 孫権は喪服を着て悲しみ、側近も深く感動した。葬送は呉まで送り返し、蕪湖で迎え、必要な費用はすべて公費でまかなわれた。後に命令を出して、
「故・将軍の周瑜、程普に仕えていた者の客に対して、誰も詮索してはならぬ」
とした。
 初め、周瑜は孫策と友人のようにつきあい、太妃(孫権の母)も孫権に周瑜を兄とみなして仕えるよう命じた。当時、孫権は将軍の地位にあり、諸将や賓客の礼儀は簡素だったが、周瑜だけは特に敬意を尽くし、臣下の礼節を守った。性格は寛大で、おおむね人々から慕われたが、ただ程普とは不仲であった。
(『江表伝』によると、程普は年長を理由にしばしば周瑜を軽侮したが、周瑜はわざとへりくだって耐え、決して争わなかった。後に程普は心から敬服し親しみを込めて重んじ、人に「周公瑾と交われば、醇醪(まろやかな美酒)を飲むようで、知らず知らずのうちに酔ってしまう」と語った。当時の人々はこの謙虚さに感服したという)
 当初、曹操は周瑜が若くして優れた才能を持つと聞き、説得できると考え、密かに揚州に使者を遣わし、九江の蒋幹を周瑜のもとへ送った。蒋幹は立派な風貌で弁舌に優れ、江淮地方で並ぶ者のない人物だった。彼はわざと質素な服装で私的な訪問と称して周瑜を訪ねた。周瑜は出迎えるとすぐに言った。
「子翼(蒋幹の字)よ、苦労してはるばる来られたが、曹操の説得のために来られたのでしょう?」
 蒋幹は
「同郷の貴方と久しぶりに会い、近況を聞きたくて来ただけです。説得などとは、疑いすぎでは?」
 と答えた。周瑜は
「私は夔や師曠(古代の音楽の名人)には及ばないが、琴の音を聞けば曲の趣きはわかりますよ」
 と言い、蒋幹を中に招き、酒食を振る舞った後、
「今は密事があるので、まず宿に戻られよ。用事が済んだら改めて招こう」
 と告げた。
 三日後、周瑜は蒋幹を招き、陣営の倉庫や武器・物資を見学させ、宴席で侍女たちの服飾や珍玩を見せながら言った。
「丈夫たる者、知己の主君に出会い、外では君臣の義を結び、内では骨肉の恩情を交わし、言うことが全て聞き入れられ、禍福を共にするならば、たとえ蘇秦や張儀が生き返り、酈食其が再び現れても、その背中を撫でて論破できるでしょう。貴方ごときがどうして私の心を変えられようか?」
 蒋幹は笑うだけで、終いに何も言わなかった。帰還後、蒋幹は
「周瑜の高雅な器量は言葉で揺るがせない」
 と報告し、中原の士人たちもこれを称賛した。
 劉備が京から帰還する際、孫権は飛雲大船に乗り、張昭・秦松・魯肅ら十余人と共に見送り、別宴を開いた。張昭らが退出した後、孫権は劉備だけを残し、周瑜について
「公瑾(周瑜の字)の文武の才略は万人に優れる。だがその器量の大きさから、長く臣下でいることはあるまい」
と嘆いた。
 周瑜が魏軍を破った時、曹操は「敗走を恥じない」と言い、後日、孫権に
「赤壁の戦いでは疫病が流行ったため、私が自ら船を焼いて撤退しただけだ。周瑜が虚名を得たのは不当だ」
 と書き送った。周瑜の威名が広まるにつれ、曹操も劉備も彼を讒言しようとした。
 周瑜が死去すると、孫権は涙を流し
「公瑾は王を補佐する器だった。若くして亡くなられ、私はこれから誰を頼りにすればよいのか」
と嘆いた。後に孫権が皇帝を称した時、公卿たちに
周公瑾がいなければ、私は帝位につけなかった
と語った。
 周瑜は若い頃から音楽に精通し、三杯飲んだ後でも演奏の誤りがあれば必ず気づき、振り返って確認した。そこで当時の人々は
「曲に誤りあれば、周郎顧みる」
という歌謡を作った。
 周瑜には二人の男子と一人の女子があり、女子は太子の孫登に嫁いだ。長男の周循は公主を妻に迎え、騎都尉に任じられ、父の周瑜のような風格があったが、早世した。周循の弟の周胤は、初め興業都尉に任じられ、宗室の女子を妻に迎え、兵千人を授けられて公安に駐屯した。(以下省略)


○その他


文天祥 歴史を変えた科挙の首席合格者
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○ポイント、キーワード
○辞書的な説明
○同時代人
○略年表
○正史『宋史』 AIを使った日本語訳
https://zh.wikisource.org/wiki/宋史/卷418#文天祥
 文天祥(ぶん・てんしょう)、字(あざな)は宋瑞、また履善とも称した。吉州の吉水の人である。体つきは堂々としており、肌は白く玉のように美しく、眉は秀で、目は長く、見返ればその目は光り輝いた。幼い頃から、学宮に祀られていた郷里の先生である欧陽修、楊邦乂、胡銓の像を見て、いずれも諡号が「忠」であるのを見て、深くこれに憧れ、「死んで彼らのように祀られなければ、男とは言えない」と語った。
 二十歳のときに進士に及第し、英殿での策問に臨んだ。当時は理宗の治世が長く、政治が次第に弛んでいたが、天祥は「天に法りて息まず」を題とし、万字を超える文章を草稿もなく一気に書き上げた。皇帝はこれを見て第一位に抜擢した。試験官の王応麟は「この巻は古の義に満ち、忠節は鉄石のごとし、まことに得難き人物である」と奏上した。その後、父の喪に服すため帰郷。
 開慶年間、大元(モンゴル)の軍が宋を攻め、宦官の董宋臣が都の遷移を主張するが、誰も異議を唱えられなかった。天祥は寧海軍節度判官として朝廷に入り、董宋臣を斬って民心を一つにするよう上奏するも、聞き入れられず、自ら職を辞して帰郷した。その後、刑部郎官となる。董宋臣が再び政権に復帰すると、天祥は再度その罪を上奏したが、またも無視された。
 やがて瑞州の太守となり、江西提刑を経て、尚書左司郎官に任ぜられたが、御史により度々弾劾され罷免された。その後、軍器監兼学士院直を務める。宰相の賈似道は病と称して辞職を求めるも、皇帝が許さず、天祥はその制詔を書くこととなった。彼はその文章にて似道を遠回しに批判したため、似道は不快に思い、御史の張志立に命じて天祥を弾劾させた。幾度も排斥された天祥は、友人の錢若水の例に倣い、三十七歳で辞職した。
 咸淳九年、湖南提刑として復職し、旧知の宰相・江万里に会う。万里は天祥の節義をかねてより評価しており、「天時と人事の変化が迫っている。国家の責任は君にある」と激励した。
 翌年、?州の知事となる。徳祐年間、江上より緊急の報が届き、朝廷は全国に勤王を命じた。天祥は詔を受けて涙し、郡中の豪傑を招き、少数民族とも結び、兵を挙げた。その友は「烏合の衆で元軍と戦うのは無謀」と止めたが、天祥は「国が三百年育てた民が、一人も戦わぬのは恥」と応じ、自ら戦いに赴いた。
 天祥は元来贅沢を好んだが、この時より生活を切り詰め、財産をすべて軍費に充てた。客人と時局を論じるたびに涙し、「人の楽しみを楽しみ、人の憂いを共に憂い、人の食を食らう者は、人のために死ぬべし」と述べた。
 八月、軍を率いて臨安に到り、平江府の長官に任ぜられるが、宰相の宜中が不在のため、赴任を許されず、十月に宜中が戻りようやく任地へ。朝廷は呂師孟を兵部尚書に、呂文徳を王に封じて元との講和を目指したが、天祥は上疏して「呂師孟を斬って士気を鼓舞すべし」と主張。また「国家が強藩を削り弱体化した結果、敵の進攻に対処できなくなった」と論じ、全国を四つの軍区に分け、長沙・隆興・番陽・揚州に指揮官を置くべきとしたが、朝廷は遠大すぎると退けた。
 その後、元軍が常州に攻め込み、天祥は将軍らを派遣して救援させたが敗北。常州が陥落し、独松関も突破されたため、天祥は平江を棄て、余杭を守るよう命じられた。
 翌年正月、文天祥は臨安府知事に任命された。まもなく宋が降伏し、丞相の陳宜中と張世傑は去った。文天祥は引き続き枢密使に任じられ、やがて右丞相兼枢密使に任命され、元軍の陣中へ赴き講和を求める使命を受けた。だが、元の丞相バヤン(伯顔)と皋亭山で対論し、激しく言い争ったため、バヤンは怒って彼を拘束し、左丞相の呉堅、右丞相の賈余慶、枢密院の長官謝堂、副官の家鉉翁・劉?らと共に北へ送った。
 文天祥は夜、従者の杜滸ら12人とともに真州から脱出した。苗再成が彼を迎え、喜びのあまり涙を流しながら言った。「淮東・淮西の兵を合わせれば復興は可能です。ただ二方面の司令官にわずかな不和があるため、連携が取れていないのです。」文天祥が「策はどう立てるべきか」と問うと、再成は詳細な軍略を述べた。文天祥はその計画を絶賛し、制置使に書状を送り、使者を派遣して連携を呼びかけた。
 ところが、文天祥がまだ到着しないうちに、揚州で元に降った兵士が「一人の丞相が密かに真州に派遣され、降伏を説得している」と述べた。制置使の張庭芝はこれを信じ、文天祥が降伏しに来たのだと誤解して苗再成に「急ぎ彼を殺せ」と命じた。再成は文天祥を殺すに忍びず、文天祥に「城外へ出てくれ」と言って制置司からの文書を示し、門外に閉め出した。
 しばらくして、再成は偵察隊を二手に分けて派遣し、文天祥の真意を探った。彼らは文天祥と語り、彼の忠義に心打たれ、殺すに忍びず、兵20人を与えて揚州へ向かわせた。明け方、城下に到着したが、制置司は文天祥に対する警戒を強めており、周囲の兵たちも驚愕した。文天祥は東へ海沿いに逃れ、途中、兵に出会って茂みに隠れて命を拾い、飢えていたところを樵夫から雑炊をもらった。板橋に入ったとき再び兵に襲われ、杜滸と金応は捕まり、文天祥はまたも逃れた。杜滸たちは持っていた金を賄賂にして脱出し、二人の樵夫を雇って文天祥を高郵まで担いで運び、そこから海を渡って温州に逃れた。
 そのころ益王(端宗)がまだ即位していないと聞くと、文天祥は上奏して即位を勧め、観文殿学士・侍読として福州に召されたのち、右丞相に任命された。陳宜中らとの政見が合わず、7月には江西の都督として赴任し、軍を集めて汀州に入った。
 以下、文天祥は江西各地で兵を挙げ、敵と戦い、敗れ、再起を繰り返しながら、義を貫いた。しかし味方は相次いで敗れ、捕らえられ、また死を選んだ者も多く、次第に戦力は消耗していった。至元15年(1278)3月、麗江浦に進軍し、8月には「少保(官職)」・「信国公」の称号を受けたが、軍中で疫病が流行し、多くの兵が命を落とした。唯一の息子と妻もこの時死去した。
 12月、潮陽で元の名将・張弘範の軍に不意を突かれ、戦う間もなく部隊は壊滅、文天祥は逃亡中に王惟義に捕らえられた。自殺を試みたが果たせず、部下の多くも討死あるいは捕らえられた。
 張弘範は彼を客人として丁重に扱い、宋の残軍を率いる張世傑に降伏勧告の書を出すよう命じた。文天祥は「私は親に仕えられなかったのに、他人に親を裏切れというのか?」と拒否し、代わりに有名な『零丁洋詩』を記した。その末尾には、
「人生自古誰無死,留取丹心照汗青」
(人は古来より誰しも死を免れないが、赤心を歴史に刻むことこそ我が望み)
 とあった。弘範はそれを見て笑い、無理に命じることはしなかった。
 やがて崖山の戦いで南宋が完全に滅亡し、宴の場で弘範は文天祥に「国が滅び、忠義は果たされた。心を改めて元に仕えれば宰相にもなれるだろう」と語ったが、文天祥は涙を流し、「国を救えなかっただけでも罪深いのに、なお命を惜しんで心変わりするなど、とてもできぬ」と答えた。弘範は彼の忠義に感じ入り、護衛をつけて都(大都)へ送った。
 大都に着いた文天祥は、食を絶ち八日間断食したが、死なずに再び食を摂った。元朝は彼に丁重な待遇を与えたが、彼は眠らず、夜通し座って過ごした。王積翁が「南の人間では文天祥ほどの人物はいない」と上奏し、元朝は彼を登用しようとしたが、文天祥は「亡国の臣にとって、唯一の道は死である」と固辞した。宰相留夢炎が「彼を出せばまた江南を動かすだろう」と反対したため、道士にする案も流れた。
 彼が大都に捕らえられて三年、ついに元朝は彼が屈しないと悟り、処刑を決定した。ちょうどその頃、都では「宋の主」を名乗る者が現れ、混乱もあったため、疑いの目を向けられたのだった。
 文天祥は最後の詔に「願いは何か」と問われ、「宋の恩を受けて宰相となった者が、二つの姓に仕えることはできません。死をもって報いるのみです」と答えた。いったんは処刑を思いとどまる動きもあったが、最終的に彼の願い通り処刑が執行された。
 臨刑の時、文天祥は非常に落ち着いており、役人に「わが事はこれで終わった」と言い、南に向かって拝して斬られた。数日後、妻の欧陽氏が遺体を引き取り、彼の顔は生きているかのようだった。享年47。
 彼の衣帯の中には、次の言葉が書かれていた。
「孔子は仁を成し、孟子は義を取るという。義を尽くすからこそ、仁に到るのである。聖賢の書を読んできて、何のために学んだのか。今ようやく、それに恥じぬ生涯だったと言える。」


○その他


秋瑾 和服と日本刀を愛した女性革命家
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○ポイント、キーワード
○辞書的な説明
○略年表 ○その他


川島芳子 謀略と謎に満ちた男装の麗人
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○略年表 ○その他


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  44. 南唐の李U――李白と並び称せられる詩人皇帝
  45. 台湾の鄭成功――大陸反攻をめざした日中混血の英雄
  46. 趙の藺相如――国を守った刎頸の交わり
  47. 前秦の苻堅――民族融和を信じた帝王の悲劇
  48. 北魏の馮太后――欲深き事実上の女帝
  49. 隋の煬帝――日没する処の天子の真実
  50. 明の劉瑾――帝位をねらった宦官
  51. 林彪――世界の中国観を変えた最期
  52. 項羽――四面楚歌の覇王
  53. 司馬仲達――三国志で最後に笑う者
  54. 太武帝――天下を半分統一した豪腕君主
  55. 憑道――五朝八姓十一君に仕えた不屈の政治家
  56. チンギス・カン――子孫は今も1600万人
  57. 宋美齢――英語とキリスト教と蒋介石
  58. 平原君―食客とともに乱世を戦う
  59. 陳平―漢帝国を作った汚い政治家
  60. 秦檜―最も憎まれた和平主義者
  61. 曽国藩―末世を支えた栄光なき英雄
  62. 汪兆銘―愛国者か売国奴か
  63. 江青―女優から毛沢東夫人へ
  64. 孔子 東洋の文明をデザインした万世の師表
  65. 司馬遷 司馬遼太郎が心の師とした歴史の父
  66. 玄奘 孫悟空の三蔵法師のモデルはタフガイ
  67. 李白 酒と旅を愛した詩人の謎に満ちた横顔
  68. 岳飛 中華愛国主義のシンボルとなった名将
  69. 魯迅 心の近代化をはかった中国の夏目漱石
  70. 扁鵲 超人的な医術を駆使した伝説の名医
  71. 孟子 仁義と王道政治を説いた戦国の亜聖
  72. 達磨 中国禅宗の祖師はインド人の仏教僧
  73. 白居易 清少納言と紫式部の推しの大詩人
  74. 鄭和 大航海時代を開いたムスリムの宦官
  75. 李小龍 哲学と映画に心血を注いだ武術家
  76. 夏姫 衰えぬ美貌で多くの君臣と関係した美魔女
  77. 孫子 戦争哲学を説いた春秋と戦国の二人の孫子
  78. 張騫 武帝の命令で西域を探検した前漢の冒険家
  79. 慧能 日本・中国・韓国・ベトナムの禅僧の源流
  80. 洪秀全 清末の太平天国の乱を起したカルト教祖
  81. 梅蘭芳 毛沢東が「私より有名だ」と言った名優
  82. 趙飛燕 ― 妹とともに皇帝を虜にした舞姫
  83. 阮籍 ― 三国志の乱世を生きた竹林の七賢
  84. 後周の世宗 ― 五代一の名君となった養子
  85. 魏忠賢 ― 明王朝を傾けた史上最悪の宦官
  86. ダライ・ラマ5世 ― チベット統一の英主
  87. 林則徐 ― アヘン戦争で善戦した欽差大臣
  88. 伍子胥――祖国を滅ぼし死屍に鞭打った復讐者
  89. 冒頓単于――東ユーラシアのもう一人の始皇帝
  90. 鳩摩羅什――日本人が読むお経を作った訳経僧
  91. 郭子儀――中国を滅亡から救った遅咲きの名将
  92. 蘇軾――書道と豚の角煮でも有名な文豪政治家
  93. 李徳全――平塚らいてうとも対談した女性大臣
  94. 屈 原 毛沢東が田中角栄に本を渡した意味
  95. 朱全忠 中世と貴族制を終わらせた反逆者
  96. 李清照 戦争に引き裂かれたおしどり夫婦
  97. マルコ・ポーロ 世界史を変えた大旅行家
  98. 王陽明 知識と実行は一体と説いた思想家
  99. 順治帝 中国本土を征服した皇帝の死の謎
  100. 老子 行方知れずになったタオイズムの開祖
  101. 張衡 天文学や地震も研究した古代の科学者
  102. 鑑真 日本に移住した史上初のビッグネーム
  103. 北宋の太宗 日本を羨んだ兄殺し疑惑の皇帝
  104. 朱舜水 水戸黄門が師とあおいだ亡命中国人
  105. 老舎 満州人の世界的作家と文革での謎の死
  106. 張良 劉邦の天下取りをささえた名軍師
  107. 竇皇后 前漢の基礎を確立した影の主役
  108. 杜甫 詩聖とたたえられた社会派の詩人
  109. 朱子 東アジアの官学を創出した儒学者
  110. 張献忠 無差別大量殺人の残虐な反逆者
  111. 張作霖 馬賊あがりの奉天派軍閥の総帥
  112. 晏嬰 孔子と同時代の名宰相だった小男 あんえい
  113. 呂后 三大悪女と称される史上初の皇后 りょこう
  114. 周瑜 孫権を補佐し曹操を破った貴公子 しゅうゆ
  115. 文天祥 歴史を変えた科挙の首席合格者 ぶんてんしょう
  116. 秋瑾 和服と日本刀を愛した女性革命家 しゅうきん
  117. 川島芳子 謀略と謎に満ちた男装の麗人 かわしまよしこ

★時代順
先秦時代(三皇五帝、夏・殷・周、春秋・戦国)
  1. 共通祖先の作り方 黄帝
  2. 太古の堯と舜 「昭和」の出典になった伝説の聖天子
  3. 古代の禹王 中華文明の原体験
  4. 殷の紂王 酒池肉林の伝説の虚と実
  5. 織田信長もあこがれた古代の聖王 周の文王
  6. 斉の桓公 中国史上最初の覇者
  7. 「19浪」の苦節をのりこえた覇者 晋の文公
  8. 夏姫 衰えぬ美貌で多くの君臣と関係した美魔女
  9. 楚の荘王――初めは飛ばず鳴かずだった覇者
  10. 孫子 戦争哲学を説いた春秋と戦国の二人の孫子
  11. 老子 行方知れずになったタオイズムの開祖
  12. 晏嬰 孔子と同時代の名宰相だった小男 あんえい
  13. 孔子 東洋の文明をデザインした万世の師表
  14. 伍子胥――祖国を滅ぼし死屍に鞭打った復讐者
  15. 扁鵲 超人的な医術を駆使した伝説の名医
  16. 臥薪嘗胆の復讐王・勾践
  17. 孟子 仁義と王道政治を説いた戦国の亜聖
  18. 屈原 毛沢東が田中角栄に本を渡した意味
  19. 斉の孟嘗君――鶏鳴狗盗の食客を活用した戦国の四君
  20. 平原君―食客とともに乱世を戦う
  21. 趙の藺相如――国を守った刎頸の交わり
秦・漢・三国(漢末)
  1. 秦の始皇帝
  2. 始皇帝をつくった男・呂不韋
  3. 前漢の高祖・劉邦
  4. 呂后 三大悪女と称される史上初の皇后
  5. 項羽――四面楚歌の覇王
  6. 劉邦をささえた宰相・蕭何
  7. 張良 劉邦の天下取りをささえた名軍師
  8. 陳平―漢帝国を作った汚い政治家
  9. 冒頓単于――東ユーラシアのもう一人の始皇帝
  10. 竇皇后 前漢の基礎を確立した影の主役
  11. 東アジアに残した影響 漢の武帝
  12. 張騫 武帝の命令で西域を探検した前漢の冒険家
  13. 司馬遷 司馬遼太郎が心の師とした歴史の父
  14. 趙飛燕 ― 妹とともに皇帝を虜にした舞姫
  15. インフラ化した姓 後漢の光武帝
  16. 張衡 天文学や地震も研究した古代の科学者
  17. 魏の曹操 漢・侠・士の男の人間関係
  18. 蜀漢の劉備 「負け太り」で勝ち抜いた三国志の英雄
  19. 周瑜 孫権を補佐し曹操を破った貴公子 しゅうゆ
  20. 蜀漢の諸葛孔明 士大夫の典範
  21. 司馬仲達――三国志で最後に笑う者
  22. 呉の孫権――六朝時代を創始した三国志の皇帝
魏晋南北朝(五胡十六国時代、六朝時代)
  1. 阮籍 ― 三国志の乱世を生きた竹林の七賢
  2. 前秦の苻堅――民族融和を信じた帝王の悲劇
  3. 鳩摩羅什――日本人が読むお経を作った訳経僧
  4. 北魏の太武帝――天下を半分統一した豪腕君主
  5. 北魏の馮太后――欲深き事実上の女帝
  6. 梁の武帝――ダルマにやりこめられた皇帝菩薩
  7. 達磨 中国禅宗の祖師はインド人の仏教僧
隋・唐から宋・元
  1. 隋の煬帝――日没する処の天子の真実
  2. 汚れた英雄のクリーニング 唐の太宗
  3. 玄奘 孫悟空の三蔵法師のモデルはタフガイ
  4. 唐の武則天 中国的「藩閥」政治の秘密
  5. 慧能 日本・中国・韓国・ベトナムの禅僧の源流
  6. パワーゲーマーの栄光と転落 唐の玄宗
  7. 鑑真 日本に移住した史上初のビッグネーム
  8. 郭子儀――中国を滅亡から救った遅咲きの名将
  9. 李白 酒と旅を愛した詩人の謎に満ちた横顔
  10. 杜甫 詩聖とたたえられた社会派の詩人
  11. 白居易 清少納言と紫式部の推しの大詩人
  12. 朱全忠 中世と貴族制を終わらせた反逆者
  13. 憑道――五朝八姓十一君に仕えた不屈の政治家
  14. 後周の世宗 ― 五代一の名君となった養子
  15. 南唐の李U――李白と並び称せられる詩人皇帝
  16. 宋の太祖・趙匡胤
  17. 北宋の太宗 日本を羨んだ兄殺し疑惑の皇帝
  18. 蘇軾――書道と豚の角煮でも有名な文豪政治家
  19. 宋の徽宗 道楽をきわめた道君皇帝
  20. 李清照 戦争に引き裂かれたおしどり夫婦
  21. 秦檜―最も憎まれた和平主義者
  22. 岳飛 中華愛国主義のシンボルとなった名将
  23. 朱子 東アジアの官学を創出した儒学者
  24. チンギス・カン――子孫は今も1600万人
  25. チンギス・カンの側近・耶律楚材
  26. 早すぎた世界帝国 元のクビライ
  27. 文天祥 歴史を変えた科挙の首席合格者 ぶんてんしょう
  28. マルコ・ポーロ 世界史を変えた大旅行家
明・清
  1. 史上最強の引き締めの結末 明の洪武帝
  2. 明の永楽帝 世界制覇の見果てぬ夢
  3. 鄭和 大航海時代を開いたムスリムの宦官
  4. 明の劉瑾――帝位をねらった宦官
  5. 王陽明 知識と実行は一体と説いた思想家
  6. 明の万暦帝 最後の漢民族系王朝の最後の繁栄
  7. 魏忠賢 ― 明王朝を傾けた史上最悪の宦官
  8. 朱舜水 水戸黄門が師とあおいだ亡命中国人
  9. 張献忠 無差別大量殺人の残虐な反逆者
  10. ダライ・ラマ5世 ― チベット統一の英主
  11. 台湾の鄭成功――大陸反攻をめざした日中混血の英雄
  12. 順治帝 中国本土を征服した皇帝の死の謎
  13. 中国統治の要道を示した大帝 康煕帝
  14. 清の乾隆帝 世界の富の三割を握った帝王
  15. 林則徐 ― アヘン戦争で善戦した欽差大臣
  16. 曽国藩―末世を支えた栄光なき英雄
  17. 洪秀全 清末の太平天国の乱を起したカルト教祖
  18. 清の李鴻章 老大国をささえた大男
  19. 清末の西太后
  20. 清と満洲国の末代皇帝・溥儀
民国・中華人民共和国
  1. 大元帥になった国際人・孫文
  2. 袁世凱 83日間で消えた「中華帝国」の「洪憲皇帝」
  3. 張作霖 馬賊あがりの奉天派軍閥の総帥
  4. 秋瑾 和服と日本刀を愛した女性革命家 しゅうきん
  5. 魯迅 心の近代化をはかった中国の夏目漱石
  6. 汪兆銘―愛国者か売国奴か
  7. 打ち破れなかった2つのジンクス 蒋介石
  8. 中華人民共和国の毛沢東
  9. 梅蘭芳 毛沢東が「私より有名だ」と言った名優
  10. 李徳全――平塚らいてうとも対談した女性大臣
  11. 周恩来 失脚知らずの不倒翁
  12. 宋美齢――英語とキリスト教と蒋介石
  13. 老舎 満州人の世界的作家と文革での謎の死
  14. 劉少奇 21世紀も終わらない毛沢東と劉少奇の闘争
  15. 21世紀の中国をデザイン ケ小平
  16. 川島芳子 謀略と謎に満ちた男装の麗人 かわしまよしこ
  17. 林彪――世界の中国観を変えた最期
  18. 江青―女優から毛沢東夫人へ
  19. 李小龍 哲学と映画に心血を注いだ武術家

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