歴史を理解することは、人間を理解すること。ヒストリー(歴史)とストーリー(物語)は、もとは同じ言葉でした。中国の伝統的な「紀伝体」の歴史書も、個々人の伝記を中心とした文学作品でした。引用終了
本講座では、日本にも大きな影響を残した中国史上の人物をとりあげ、運や縁といった個人の一回性の生きざまと、社会学的な法則や理論など普遍的な見地の両面から、人生を紹介します。豊富な図像を使い、予備知識のないかたにもわかりやすく解説します。(講師・記)
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あん‐えい【晏嬰】
[?〜前500]中国、春秋時代の斉(せい)の宰相。字(あざな)は平仲。霊・荘・景の三公に仕えた。 すぐれた見識をもって国家経営にあたった政治家として知られる。言行録「晏子春秋」がある。晏子。
晏嬰 あんえい
生没年不詳。中国、春秋時代の斉(せい)の政治家。字(あざな)は平仲(へいちゅう)。尊んで晏子(あんし)と称される。 節倹力行をもって鳴り、霊公、荘公、景公の3代に仕えて、君をいさめ国を治めた名宰相。斉の名臣として、約100年前の管仲(かんちゅう)と並び称される。 『史記』に二つの逸話が載っている。 第一は賢者越石父(えつせきほ)の話。晏子が出遊した際、囚(とら)われの身の石父を贖(あがな)い、ともに帰った。石父は、ことばもなく部屋に入ってしまった晏子の態度をとがめ、知己には礼遇すべき旨を説いた。非を悟った彼は石父を上客としてもてなした。 第二は御者の話。晏子の車を意気揚々と走らせている御者の姿を一見したその妻が離縁を申し出た。身長6尺(約140センチメートル)に満たない小男の晏子は宰相でありながらも、沈着でいつも謙虚であるのに対し、身長8尺の夫は御者の身でありながら得意満面というのが、その理由であった。御者は非を悟り自重する。晏子はこれを大夫(たいふ)に推薦したという。 『論語』の「公冶長篇(こうやちょうへん)」に、孔子のことばとして、「晏平仲は善(よ)く人と交わる。久しくして人これを敬す」との評がみえる。
[伊東倫厚]
『史記』巻62・晏嬰列伝 原漢文 晏平仲嬰者,萊之夷維人也。事齊靈公、莊公、景公,以節儉力行重於齊。既相齊,食不重肉,妾不衣帛。其在朝,君語及之,即危言;語不及之,即危行。國有道,即順命;無道,即衡命。以此三世顯名於諸侯。 越石父賢,在縲紲中。晏子出,遭之涂,解左驂贖之,載歸。弗謝,入閨。久之,越石父請絶。晏子懼然,攝衣冠謝曰:「嬰雖不仁,免子於緦何子求絶之速也?」石父曰:「不然。吾聞君子詘於不知己而信於知己者。方吾在縲紲中,彼不知我也。夫子既已感寤而贖我,是知己;知己而無禮,固不如在縲紲之中。」晏子於是延入為上客。 晏子為齊相,出,其御之妻從門闔ァ闚其夫。其夫為相御,擁大蓋,策駟馬,意氣揚揚甚自得也。既而歸,其妻請去。夫問其故。妻曰:「晏子長不滿六尺,身相齊國,名顯諸侯。今者妾觀其出,志念深矣,常有以自下者。今子長八尺,乃為人仆御,然子之意自以為足,妾是以求去也。」其後夫自抑損。晏子怪而問之,御以實對。晏子薦以為大夫。 太史公曰:(中略)方晏子伏莊公尸哭之,成禮然後去,豈所謂「見義不為無勇」者邪?至其諫説,犯君之顏,此所謂「進思盡忠,退思補過」者哉!假令晏子而在,余雖為之執鞭,所忻慕焉。 |
日本語訳(AIを補助的に使用した)
晏平仲(晏嬰)は、萊の夷維の出身である。 斉の霊公、荘公、景公に仕え、倹約と実践を重んじることで斉国で重んじられた。 斉の宰相となってからは、食事に肉料理を重ねず、側室にも絹の衣服を着せなかった。 朝廷では、君主が自分に言及すれば直言し、言及されなければ謹んで行動した。 国に道がある時は命令に従い、道がなければ命令を斟酌した。 これによって三代の君主に仕えながら、諸侯の間で名声を轟かせた。
越石父という賢者がいたが、囚われの身であった。 晏子が外出した際、道で彼に出会い、車の左側の馬を解いて彼を贖い、連れ帰った。 しかし晏子は帰ると、じゅうぶんな挨拶もせぬまま、そのまま奥に入ってしまった。 しばらくして、越石父は絶交を申し出た。 晏子は驚き、衣冠を整えて謝罪し、「私は不徳ではありますが、あなたを厄介から救い出しました。なぜこんなに早く絶交を求めるのですか?」と問うた。 石父は答えて言った。 「そうではありません。私は、君子は無理解者には退けられるが、理解者からは信頼される、と聞いています。 私が囚われていた時、あちらの御仁は私を理解していませんでした。しかし、あなたは私を贖い出してくださった。あなたは、私の理解者のはず。 理解者のもとでないがしろにされるくらいなら、無理解者のもとで囚われの身になっている方がましなのです」。晏子はそこで彼を上客として迎えた。
晏子が斉の宰相であった時、外出した際に、車夫の妻が門の隙間から夫の様子を覗った。 夫は宰相の御者として、大きな車蓋を掲げ、四頭の馬を駆り、意気揚々と得意になっていた。 帰宅後、妻は離婚を求めた。夫が理由を問うと、妻は言った。
「晏子様は身長六尺(約140cm)に満たないお体で、斉国の宰相となり、諸侯に名を轟かせています。 今日、妾が外出されるのを見ると、思いは深く、常に謙虚でいらっしゃいます。 あなたは身長八尺(約185cm)もあるのに、人の御者でしかありません。 それなのに、あなたは自分に満足している。だから私を離縁してください」
その後、夫は自らを慎むようになった。晏子は怪しんで理由を問うと、車夫は実情を答えた。晏子は彼を大夫に推薦した。
司馬遷の評語(中略)太史公曰: (中略)晏子が荘公の遺体に伏して泣き、礼を尽くしてから去ったのは、まさに「義を見て為さざるは勇なきなり」(『論語』為政篇)と言われるものではないか。 また、彼が諫言する際、君主の顔色を損ねることも恐れなかったのは、これこそ「進んでは忠を尽くし、退いては過ちを補う」(孝経』))という者であろう。 仮に晏子が今も生きていたなら、私はたとえ彼の鞭を執る者(御者)となっても、心から慕って仕えたいと思う。
斉国のお家騒動 斉の霊公は当初、公子光を太子に立てていたが、戎子を寵愛するようになると、戎子が育てた公子牙を太子に据え、光を辺境に追放した。 家臣の崔杼は密かに光を都に戻し、霊公の病が重くなると、高厚と戎子を殺害し、光を即位させた。これが荘公である。 しかし荘公は崔杼の後妻と密通し、激怒した崔杼は荘公を弑した。 のちに崔杼は荘公の弟・杵臼を擁立し、景公とした。崔杼は慶封と共に専権を振るい、反対者には殺害も辞さぬ構えを見せたが、民に人気のあった晏嬰だけは殺さなかった。 やがて家庭内の後継争いに慶封が介入し、内紛が勃発。一族は争いの末に滅び、崔杼は自害した。 「崔杼、其の君を弑(しい)す」 『春秋左氏伝』襄公二十五年にいう。 太史書曰「崔杼弑其君」。崔子殺之、其弟嗣書而死者二人。其弟又書、乃舎之。 南史氏聞太史尽死、執簡以往。聞既書矣、乃還。 斉国の史官が「崔杼は自分の主君を弑逆(しいぎゃく)した」と歴史記録に書いた。 崔杼は史官を殺した。後をついだ史官の弟も同じことを書き、殺された。 次の弟がまた書いた。とうとう崔杼はあきらめた。 南史氏は、史官の兄弟がみな死ぬと聞きつけて、歴史記録用の竹簡を持参して駆けつけたが、すでに事実が記録されたと聞いて、帰った |
読者はわたくしが一夜木犀の花香に酔い、突然幾十年の昔を思返し、竹馬の友として妄にえらい人達の名を列記したのを怪しむかも知れない。わたくしを以て虎威を借る狐にあらずば晏子(あんし)の車を駆る御者(ぎょしゃ)となすかも知れない。わたくしは寧(むしろ)欣然として此の嘲を受けるであろう。
りょ‐こう【呂后】
[ 一 ] 中国前漢の高祖(劉邦)の皇后。二代恵帝の生母。 高祖を補佐して秦末漢初の国難を処理したが、高祖の死後、実権を掌握して劉氏一族を圧迫したために、その死後呂氏の乱を招いた。紀元前一八〇年没。
[ 二 ] 謡曲。呂后に、韓信・彭越(ほうえつ)や戚夫人の怨霊がとりつき、病気が重くなる。文帝は剣を抜き、これらの怨霊と戦い退散させる。廃曲。
呂后 (りょこう) Lǚ hòu 生没年:?-前180
中国,前漢の高祖劉邦の皇后呂雉(りよち)。もと山陽単父(ぜんほ)(現,山東省単県)の出身。恵帝と魯元公主の生母。 人となりは剛毅で,劉邦の覇業をよく助け,とくに韓信,彭越,黥布など異姓の諸侯王の謀殺に辣腕を振るった。 のち高祖は戚(せき)姫を寵愛し,戚姫の生んだ趙王如意を太子に立てようとしたが,呂后の画策により実現しなかった。 高祖の死後,生子の恵帝が即位し,みずからは皇太后となり,恵帝の姉魯元公主の女を皇后とした。 これ以後,16年にわたって漢朝の実権を掌握した。趙王を毒殺し,戚姫に対しては残忍な仕打ちをおこなった。手足を切断し,眼をえぐり取り,聾啞にして,厠中に捨てた。便所にはブタを飼うのにちなんで人彘(じんてい)と号した。 これを見た恵帝は発病し,淫楽にふけって朝政を顧みなくなった。 前188年即位後7年で恵帝が崩ずると,皇后に子がなかったので後宮の美人(女官)の子を取って3代皇帝(少帝恭)となし,幼少の少帝に代わって臨朝して万事を裁決した。 兄の子の呂台と呂産に南軍と北軍とを率いさせ,呂台,呂産など四人を諸侯王に封建した。 少帝恭が成長して皇后の実子でないことを知ると,これを宮中の永巷に幽閉し,代わって恒山王を4代皇帝(少帝弘)とした。 呂太后の死後,高祖の遺臣周勃,陳平と劉章など劉氏一族が結束して呂氏を族誅し,代王を迎えて文帝とした。
執筆者:上田 早苗
至陽城、番須中,逢大雪,坑谷皆滿,士多凍死,乃復還,發掘諸陵,取其寶貨,遂汙辱呂后屍。凡賊所發,有玉匣殮者率皆如生,
〈《漢儀注》曰「自腰以下,以玉爲札,長尺,廣一寸半,爲匣,下至足,綴以黄金縷,謂之爲玉匣」也。〉故赤眉得多行婬穢。
至陽城、番須中において、大雪に遭い、谷や坑(くぼ地)はすべて雪で満たされ、兵士たちは多くが凍死した。そこで軍は引き返し、諸陵(皇族の陵墓)を発掘し、その財宝を奪った。 そして呂后の遺体を汚辱した。 賊が発掘した中には、玉の匣(ひつぎ)で?(せん:死体をおさめる)されていたものがあり、そうした遺体はたいてい生前と変わらぬ様子であった。 〈『漢儀注』にはこうある:「腰から下を玉で作った札(たてふだ)で覆い、それは長さ一尺、幅一寸半のもので匣を作り、足元まで覆い、金の糸で綴っていた。これを玉匣と呼ぶ」〉 このため赤眉軍は、数多くの陵墓で淫らな行為を行うことができたのであった。 |
母后(呂后)が政務を執るようになると、その嫉妬と害意を存分に振るったため、世間の人々は彼女を武則天と並べて語った。しかし、これは公平な評価とは言えない。 武則天は年号を改めて新たな王朝を起こし、一族の武氏をことごとく王に封じ、唐の皇子たちをほぼ皆殺しにし、さらには自分の子孫さえ数人を殺して、淫らな欲望をほしいままにした。その悪事は、古今未曾有のものであった。 一方、呂后は高祖(劉邦)が危篤の際、蕭何に「後継者は誰が適任か」と問い、国家の安定を第一に考えていたことがわかる。孝恵帝が即位した後は、呂后が政務を執ったが、起用したのは曹参・王陵・陳平・周勃ら、いずれも高祖が国家の安定を託した人物ばかりである。これは、孝恵帝が帝位を守れないことを恐れてのことであり、武則天のように嫉妬から太子・弘や太子・賢を殺したのとはまったく異なる。 呂后が産んだ子は孝恵帝と魯元公主だけであり、その他はすべて側室の子であった。もし孝恵帝が長生きしていたならば、彼とともに政治を考え、長期の治世を図っていたであろう。高祖が太子を廃そうとしたとき、呂后は張良に策を求め、周昌が諫めたときには跪いて感謝したという話からも、母子の絆がいかなるものであったかがわかる。 孝恵帝が崩じた後、呂后は後宮の子を立てて帝位につけたが、これも恨みから廃位した。そして、呂后自身の子孫がいなくなると、側室の子が権勢を握って呂氏をないがしろにするよりは、呂氏の勢力を先に固めておくほうが良いと考えたのである。だから、孝恵帝の生前には呂氏を王に封じることはなく、それは彼の死後に行われた。これは呂后の私情と近視眼的な判断であった。 そもそも嫉妬は女性にありがちな感情である。ただ、呂后が最も嫉妬したのは戚夫人とその子である。それは、戚夫人がかつて寵愛を受け、太子の地位を奪いかけたためであり、高祖の死後、すぐに彼女らを殺した。 それ以外の側室の子については、たとえば文帝(劉恒)は代に封じられた際、母の薄太后をともに行かせているし、淮南王の劉長は母がいなかったため呂后に依って立ち、最後まで無事であった。斉悼恵王は孝恵帝の異母兄で呂后の機嫌を損ねたため毒殺されそうになったが、城陽郡を魯元公主の封地として献上すると、再び呂后は彼を元通りに遇した。彼の子の朱虚侯・劉章が宴に参加し、軍法で酒を注ぐ役を自ら願い出て、呂氏の者で酒を逃れた者を一人斬っても、呂后は罪を問わなかった。 趙王劉友が幽閉されて死に、梁王劉恢が自殺したのは、妃が呂氏と不仲だったためである。ただし、趙王の妃も呂産の娘、梁王の妃も呂氏の娘であった。また、少帝の皇后や朱虚侯の妻も呂祿の娘である。呂氏の娘たちは他家に嫁がせることなく、必ず劉氏の男子に嫁がせていたことからも、呂后が劉氏と呂氏の親密を願っていたことが分かる。 これに比べ、武則天は周を建てて唐を滅ぼした。両者の違いはまさに天地の開きがある。 呂后が辟陽侯(寵臣)を左丞相として宮中を監督させたのも、彼がかつて項羽の軍中で呂后と苦難を共にしたためである。多少の私情はあったが、当時すでに老齢であり、家の古い召使のようなもので、後宮で女性たちの世話をさせる程度の存在で、なお親しくしていたというわけではない。 『史記』の劉澤伝には「太后は張子卿を寵愛していた」とあるが、『漢書』では「張卿」とされ、如淳の注には「宦官である」と記されている。したがって、これも肉体関係のある愛人というわけではない。 これに比べ、武則天が薛懷義や張易之兄弟を寵愛し、恥も知らずにふるまったこととは雲泥の差がある。 武則天のような禍は、後魏の文明皇后・馮氏や胡氏などに多少似た例があるが、それでも世の人が呂后と武則天を並び称するとは、まさに公平な評価とは言えないのである。 |
院の思しのたまはせしさまの、なのめならざりしを思し出づるにも、「よろづのこと、ありしにもあらず、変はりゆく世にこそあめれ。
戚夫人の見けむ目のやうにはあらずとも、かならず、人笑へなることは、ありぬべき身にこそあめれ」
など、世の疎ましく、過ぐしがたう思さるれば、背きなむことを思し取るに、
春宮、見たてまつらで面変はりせむこと、あはれに思さるれば、忍びやかにて参りたまへり。
【與謝野晶子訳】 院が自分のためにどれだけ重い御遺言をあそばされたかを考えると何ごとも当代にそれが実行されていないことが思われる。 漢の初期の戚(せき)夫人が呂后(りょこう)に苛(さいな)まれたようなことまではなくても、 必ず世間の嘲笑を負わねばならぬ人に自分はなるに違いないと中宮はお思いになるのである。 これを転機にして尼の生活にはいるのがいちばんよいことであるとお考えになったが、 東宮にお逢いしないままで姿を変えてしまうことはおかわいそうなことであるとお思いになって、目だたぬ形式で御所へおはいりになった。 |