歴史を理解することは、人間を理解すること。ヒストリー(歴史)とストーリー(物語)は、もとは同じ言葉でした。中国の伝統的な「紀伝体」の歴史書も、個々人の伝記を中心とした文学作品でした。引用終了
本講座では、日本にも大きな影響を残した中国史上の人物をとりあげ、運や縁といった個人の一回性の生きざまと、社会学的な法則や理論など普遍的な見地の両面から、人生を紹介します。豊富な図像を使い、予備知識のないかたにもわかりやすく解説します。(講師・記)
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あん‐えい【晏嬰】
[?〜前500]中国、春秋時代の斉(せい)の宰相。字(あざな)は平仲。霊・荘・景の三公に仕えた。 すぐれた見識をもって国家経営にあたった政治家として知られる。言行録「晏子春秋」がある。晏子。
晏嬰 あんえい
生没年不詳。中国、春秋時代の斉(せい)の政治家。字(あざな)は平仲(へいちゅう)。尊んで晏子(あんし)と称される。 節倹力行をもって鳴り、霊公、荘公、景公の3代に仕えて、君をいさめ国を治めた名宰相。斉の名臣として、約100年前の管仲(かんちゅう)と並び称される。 『史記』に二つの逸話が載っている。 第一は賢者越石父(えつせきほ)の話。晏子が出遊した際、囚(とら)われの身の石父を贖(あがな)い、ともに帰った。石父は、ことばもなく部屋に入ってしまった晏子の態度をとがめ、知己には礼遇すべき旨を説いた。非を悟った彼は石父を上客としてもてなした。 第二は御者の話。晏子の車を意気揚々と走らせている御者の姿を一見したその妻が離縁を申し出た。身長6尺(約140センチメートル)に満たない小男の晏子は宰相でありながらも、沈着でいつも謙虚であるのに対し、身長8尺の夫は御者の身でありながら得意満面というのが、その理由であった。御者は非を悟り自重する。晏子はこれを大夫(たいふ)に推薦したという。 『論語』の「公冶長篇(こうやちょうへん)」に、孔子のことばとして、「晏平仲は善(よ)く人と交わる。久しくして人これを敬す」との評がみえる。
[伊東倫厚]
『史記』巻62・晏嬰列伝 原漢文 晏平仲嬰者,萊之夷維人也。事齊靈公、莊公、景公,以節儉力行重於齊。既相齊,食不重肉,妾不衣帛。其在朝,君語及之,即危言;語不及之,即危行。國有道,即順命;無道,即衡命。以此三世顯名於諸侯。 越石父賢,在縲紲中。晏子出,遭之涂,解左驂贖之,載歸。弗謝,入閨。久之,越石父請絶。晏子懼然,攝衣冠謝曰:「嬰雖不仁,免子於緦何子求絶之速也?」石父曰:「不然。吾聞君子詘於不知己而信於知己者。方吾在縲紲中,彼不知我也。夫子既已感寤而贖我,是知己;知己而無禮,固不如在縲紲之中。」晏子於是延入為上客。 晏子為齊相,出,其御之妻從門闔ァ闚其夫。其夫為相御,擁大蓋,策駟馬,意氣揚揚甚自得也。既而歸,其妻請去。夫問其故。妻曰:「晏子長不滿六尺,身相齊國,名顯諸侯。今者妾觀其出,志念深矣,常有以自下者。今子長八尺,乃為人仆御,然子之意自以為足,妾是以求去也。」其後夫自抑損。晏子怪而問之,御以實對。晏子薦以為大夫。 太史公曰:(中略)方晏子伏莊公尸哭之,成禮然後去,豈所謂「見義不為無勇」者邪?至其諫説,犯君之顏,此所謂「進思盡忠,退思補過」者哉!假令晏子而在,余雖為之執鞭,所忻慕焉。 |
日本語訳(AIを補助的に使用した)
晏平仲(晏嬰)は、萊の夷維の出身である。 斉の霊公、荘公、景公に仕え、倹約と実践を重んじることで斉国で重んじられた。 斉の宰相となってからは、食事に肉料理を重ねず、側室にも絹の衣服を着せなかった。 朝廷では、君主が自分に言及すれば直言し、言及されなければ謹んで行動した。 国に道がある時は命令に従い、道がなければ命令を斟酌した。 これによって三代の君主に仕えながら、諸侯の間で名声を轟かせた。
越石父という賢者がいたが、囚われの身であった。 晏子が外出した際、道で彼に出会い、車の左側の馬を解いて彼を贖い、連れ帰った。 しかし晏子は帰ると、じゅうぶんな挨拶もせぬまま、そのまま奥に入ってしまった。 しばらくして、越石父は絶交を申し出た。 晏子は驚き、衣冠を整えて謝罪し、「私は不徳ではありますが、あなたを厄介から救い出しました。なぜこんなに早く絶交を求めるのですか?」と問うた。 石父は答えて言った。 「そうではありません。私は、君子は無理解者には退けられるが、理解者からは信頼される、と聞いています。 私が囚われていた時、あちらの御仁は私を理解していませんでした。しかし、あなたは私を贖い出してくださった。あなたは、私の理解者のはず。 理解者のもとでないがしろにされるくらいなら、無理解者のもとで囚われの身になっている方がましなのです」。晏子はそこで彼を上客として迎えた。
晏子が斉の宰相であった時、外出した際に、車夫の妻が門の隙間から夫の様子を覗った。 夫は宰相の御者として、大きな車蓋を掲げ、四頭の馬を駆り、意気揚々と得意になっていた。 帰宅後、妻は離婚を求めた。夫が理由を問うと、妻は言った。
「晏子様は身長六尺(約140cm)に満たないお体で、斉国の宰相となり、諸侯に名を轟かせています。 今日、妾が外出されるのを見ると、思いは深く、常に謙虚でいらっしゃいます。 あなたは身長八尺(約185cm)もあるのに、人の御者でしかありません。 それなのに、あなたは自分に満足している。だから私を離縁してください」
その後、夫は自らを慎むようになった。晏子は怪しんで理由を問うと、車夫は実情を答えた。晏子は彼を大夫に推薦した。
司馬遷の評語(中略)太史公曰: (中略)晏子が荘公の遺体に伏して泣き、礼を尽くしてから去ったのは、まさに「義を見て為さざるは勇なきなり」(『論語』為政篇)と言われるものではないか。 また、彼が諫言する際、君主の顔色を損ねることも恐れなかったのは、これこそ「進んでは忠を尽くし、退いては過ちを補う」(孝経』))という者であろう。 仮に晏子が今も生きていたなら、私はたとえ彼の鞭を執る者(御者)となっても、心から慕って仕えたいと思う。
斉国のお家騒動 斉の霊公は当初、公子光を太子に立てていたが、戎子を寵愛するようになると、戎子が育てた公子牙を太子に据え、光を辺境に追放した。 家臣の崔杼は密かに光を都に戻し、霊公の病が重くなると、高厚と戎子を殺害し、光を即位させた。これが荘公である。 しかし荘公は崔杼の後妻と密通し、激怒した崔杼は荘公を弑した。 のちに崔杼は荘公の弟・杵臼を擁立し、景公とした。崔杼は慶封と共に専権を振るい、反対者には殺害も辞さぬ構えを見せたが、民に人気のあった晏嬰だけは殺さなかった。 やがて家庭内の後継争いに慶封が介入し、内紛が勃発。一族は争いの末に滅び、崔杼は自害した。 「崔杼、其の君を弑(しい)す」 『春秋左氏伝』襄公二十五年にいう。 太史書曰「崔杼弑其君」。崔子殺之、其弟嗣書而死者二人。其弟又書、乃舎之。 南史氏聞太史尽死、執簡以往。聞既書矣、乃還。 斉国の史官が「崔杼は自分の主君を弑逆(しいぎゃく)した」と歴史記録に書いた。 崔杼は史官を殺した。後をついだ史官の弟も同じことを書き、殺された。 次の弟がまた書いた。とうとう崔杼はあきらめた。 南史氏は、史官の兄弟がみな死ぬと聞きつけて、歴史記録用の竹簡を持参して駆けつけたが、すでに事実が記録されたと聞いて、帰った |
読者はわたくしが一夜木犀の花香に酔い、突然幾十年の昔を思返し、竹馬の友として妄にえらい人達の名を列記したのを怪しむかも知れない。わたくしを以て虎威を借る狐にあらずば晏子(あんし)の車を駆る御者(ぎょしゃ)となすかも知れない。わたくしは寧(むしろ)欣然として此の嘲を受けるであろう。
りょ‐こう【呂后】
[ 一 ] 中国前漢の高祖(劉邦)の皇后。二代恵帝の生母。 高祖を補佐して秦末漢初の国難を処理したが、高祖の死後、実権を掌握して劉氏一族を圧迫したために、その死後呂氏の乱を招いた。紀元前一八〇年没。
[ 二 ] 謡曲。呂后に、韓信・彭越(ほうえつ)や戚夫人の怨霊がとりつき、病気が重くなる。文帝は剣を抜き、これらの怨霊と戦い退散させる。廃曲。
呂后 (りょこう) Lǚ hòu 生没年:?-前180
中国,前漢の高祖劉邦の皇后呂雉(りよち)。もと山陽単父(ぜんほ)(現,山東省単県)の出身。恵帝と魯元公主の生母。 人となりは剛毅で,劉邦の覇業をよく助け,とくに韓信,彭越,黥布など異姓の諸侯王の謀殺に辣腕を振るった。 のち高祖は戚(せき)姫を寵愛し,戚姫の生んだ趙王如意を太子に立てようとしたが,呂后の画策により実現しなかった。 高祖の死後,生子の恵帝が即位し,みずからは皇太后となり,恵帝の姉魯元公主の女を皇后とした。 これ以後,16年にわたって漢朝の実権を掌握した。趙王を毒殺し,戚姫に対しては残忍な仕打ちをおこなった。手足を切断し,眼をえぐり取り,聾啞にして,厠中に捨てた。便所にはブタを飼うのにちなんで人彘(じんてい)と号した。 これを見た恵帝は発病し,淫楽にふけって朝政を顧みなくなった。 前188年即位後7年で恵帝が崩ずると,皇后に子がなかったので後宮の美人(女官)の子を取って3代皇帝(少帝恭)となし,幼少の少帝に代わって臨朝して万事を裁決した。 兄の子の呂台と呂産に南軍と北軍とを率いさせ,呂台,呂産など四人を諸侯王に封建した。 少帝恭が成長して皇后の実子でないことを知ると,これを宮中の永巷に幽閉し,代わって恒山王を4代皇帝(少帝弘)とした。 呂太后の死後,高祖の遺臣周勃,陳平と劉章など劉氏一族が結束して呂氏を族誅し,代王を迎えて文帝とした。
執筆者:上田 早苗
至陽城、番須中,逢大雪,坑谷皆滿,士多凍死,乃復還,發掘諸陵,取其寶貨,遂汙辱呂后屍。凡賊所發,有玉匣殮者率皆如生,
〈《漢儀注》曰「自腰以下,以玉爲札,長尺,廣一寸半,爲匣,下至足,綴以黄金縷,謂之爲玉匣」也。〉故赤眉得多行婬穢。
至陽城、番須中において、大雪に遭い、谷や坑(くぼ地)はすべて雪で満たされ、兵士たちは多くが凍死した。そこで軍は引き返し、諸陵(皇族の陵墓)を発掘し、その財宝を奪った。 そして呂后の遺体を汚辱した。 賊が発掘した中には、玉の匣(ひつぎ)で?(せん:死体をおさめる)されていたものがあり、そうした遺体はたいてい生前と変わらぬ様子であった。 〈『漢儀注』にはこうある:「腰から下を玉で作った札(たてふだ)で覆い、それは長さ一尺、幅一寸半のもので匣を作り、足元まで覆い、金の糸で綴っていた。これを玉匣と呼ぶ」〉 このため赤眉軍は、数多くの陵墓で淫らな行為を行うことができたのであった。 |
母后(呂后)が政務を執るようになると、その嫉妬と害意を存分に振るったため、世間の人々は彼女を武則天と並べて語った。しかし、これは公平な評価とは言えない。 武則天は年号を改めて新たな王朝を起こし、一族の武氏をことごとく王に封じ、唐の皇子たちをほぼ皆殺しにし、さらには自分の子孫さえ数人を殺して、淫らな欲望をほしいままにした。その悪事は、古今未曾有のものであった。 一方、呂后は高祖(劉邦)が危篤の際、蕭何に「後継者は誰が適任か」と問い、国家の安定を第一に考えていたことがわかる。孝恵帝が即位した後は、呂后が政務を執ったが、起用したのは曹参・王陵・陳平・周勃ら、いずれも高祖が国家の安定を託した人物ばかりである。これは、孝恵帝が帝位を守れないことを恐れてのことであり、武則天のように嫉妬から太子・弘や太子・賢を殺したのとはまったく異なる。 呂后が産んだ子は孝恵帝と魯元公主だけであり、その他はすべて側室の子であった。もし孝恵帝が長生きしていたならば、彼とともに政治を考え、長期の治世を図っていたであろう。高祖が太子を廃そうとしたとき、呂后は張良に策を求め、周昌が諫めたときには跪いて感謝したという話からも、母子の絆がいかなるものであったかがわかる。 孝恵帝が崩じた後、呂后は後宮の子を立てて帝位につけたが、これも恨みから廃位した。そして、呂后自身の子孫がいなくなると、側室の子が権勢を握って呂氏をないがしろにするよりは、呂氏の勢力を先に固めておくほうが良いと考えたのである。だから、孝恵帝の生前には呂氏を王に封じることはなく、それは彼の死後に行われた。これは呂后の私情と近視眼的な判断であった。 そもそも嫉妬は女性にありがちな感情である。ただ、呂后が最も嫉妬したのは戚夫人とその子である。それは、戚夫人がかつて寵愛を受け、太子の地位を奪いかけたためであり、高祖の死後、すぐに彼女らを殺した。 それ以外の側室の子については、たとえば文帝(劉恒)は代に封じられた際、母の薄太后をともに行かせているし、淮南王の劉長は母がいなかったため呂后に依って立ち、最後まで無事であった。斉悼恵王は孝恵帝の異母兄で呂后の機嫌を損ねたため毒殺されそうになったが、城陽郡を魯元公主の封地として献上すると、再び呂后は彼を元通りに遇した。彼の子の朱虚侯・劉章が宴に参加し、軍法で酒を注ぐ役を自ら願い出て、呂氏の者で酒を逃れた者を一人斬っても、呂后は罪を問わなかった。 趙王劉友が幽閉されて死に、梁王劉恢が自殺したのは、妃が呂氏と不仲だったためである。ただし、趙王の妃も呂産の娘、梁王の妃も呂氏の娘であった。また、少帝の皇后や朱虚侯の妻も呂祿の娘である。呂氏の娘たちは他家に嫁がせることなく、必ず劉氏の男子に嫁がせていたことからも、呂后が劉氏と呂氏の親密を願っていたことが分かる。 これに比べ、武則天は周を建てて唐を滅ぼした。両者の違いはまさに天地の開きがある。 呂后が辟陽侯(寵臣)を左丞相として宮中を監督させたのも、彼がかつて項羽の軍中で呂后と苦難を共にしたためである。多少の私情はあったが、当時すでに老齢であり、家の古い召使のようなもので、後宮で女性たちの世話をさせる程度の存在で、なお親しくしていたというわけではない。 『史記』の劉澤伝には「太后は張子卿を寵愛していた」とあるが、『漢書』では「張卿」とされ、如淳の注には「宦官である」と記されている。したがって、これも肉体関係のある愛人というわけではない。 これに比べ、武則天が薛懷義や張易之兄弟を寵愛し、恥も知らずにふるまったこととは雲泥の差がある。 武則天のような禍は、後魏の文明皇后・馮氏や胡氏などに多少似た例があるが、それでも世の人が呂后と武則天を並び称するとは、まさに公平な評価とは言えないのである。 |
院の思しのたまはせしさまの、なのめならざりしを思し出づるにも、「よろづのこと、ありしにもあらず、変はりゆく世にこそあめれ。
戚夫人の見けむ目のやうにはあらずとも、かならず、人笑へなることは、ありぬべき身にこそあめれ」
など、世の疎ましく、過ぐしがたう思さるれば、背きなむことを思し取るに、
春宮、見たてまつらで面変はりせむこと、あはれに思さるれば、忍びやかにて参りたまへり。
【與謝野晶子訳】 院が自分のためにどれだけ重い御遺言をあそばされたかを考えると何ごとも当代にそれが実行されていないことが思われる。 漢の初期の戚(せき)夫人が呂后(りょこう)に苛(さいな)まれたようなことまではなくても、 必ず世間の嘲笑を負わねばならぬ人に自分はなるに違いないと中宮はお思いになるのである。 これを転機にして尼の生活にはいるのがいちばんよいことであるとお考えになったが、 東宮にお逢いしないままで姿を変えてしまうことはおかわいそうなことであるとお思いになって、目だたぬ形式で御所へおはいりになった。 |
しゅう‐ゆシウ‥【周瑜】
中国、三国時代、呉の武将。字(あざな)は公瑾(こうきん)。名は周郎。廬江舒(安徽省)の人。孫権に従い、二〇八年曹操を赤壁に破った。功により南郡太守に任ぜられたが、劉備に先んじて四川を攻
周瑜 しゅうゆ (175―210)
中国、三国呉(ご)の功臣。字(あざな)は公瑾(こうきん)。廬江舒(ろこうじょ)(安徽(あんき)省舒城県)の人。呉の建国者孫権の父孫堅(そんけん)が董卓(とうたく)討伐の義兵をおこすと、これに従った。周瑜は同じ年齢の孫堅の子孫策とは兄弟同様の親交があり、協力して江東地区の掌握に努めた。孫策の弟の孫権がたつと、張昭とともに補佐し、呉国建国の基礎を築いた。208年、魏(ぎ)の曹操(そうそう)が荊州(けいしゅう)北部を併合すると、呉では降服論が大勢を占めていたが、周瑜はひとり主戦論を唱え、蜀(しょく)の劉備(りゅうび)と同盟を結び、赤壁で曹操の軍船を焼討ちして、魏軍を敗退させた。周瑜はまた荊州における劉備の勢力拡大を警戒し、巴蜀(はしょく)の領有を進言したが、四川(しせん)攻略を前にして病死した。
[上田早苗]
読み下してゆくうちに、周瑜は※加藤注「天すでに、この周瑜を地上に生ませ給いながら、何故また、孔明を地に生じ給えるや」は、中国語の成語では「既生瑜、何生亮?」(Jì shēng Yú, hé shēng Liàng?)と言う。恨気 胸にふさがり、手はわななき、顔色も壁土のようになってしまった。
「ううむっ……」と、太く、苦しげに、長嘆一声すると、急に、
「筆、筆、筆。……紙を。硯 を」
と、さけび、引ったくるように持つと、必死の形相をしながら、なにか懸命に書き出した。文字はみだれ、墨は散り、文は綿々と長かったが、遂に書き終るや否、筆を投げて、
「ああ、無念っ……無情や人生。皮肉なることよ宿命……。天すでに、この周瑜を地上に生ませ給いながら、何故また、孔明を地に生じ給えるや!」
云い終ると、昏絶して、一たん眼を閉じたが、ふたたびくわっと見ひらいて、
「諸君。不忠、周瑜はここに終ったが、呉侯を頼む。忠節を尽して……」
忽然、うす黒い瞼を落し、まだ三十六歳の若い寿 に終りを告げた。時、建安十五年の冬十二月三日であったという。
ぶん‐てんしょう‥テンシャウ【文天祥】
中国南宋末の政治家。字(あざな)は履善、号は文山。宋末、元軍と戦い、恭宗の命で元と講和を論じたが失敗して捕えられ、その間に宋は滅んだ。 後、脱走して益王を奉じて戦ったが再び捕えられ死刑となった。獄中で作った孟子の理論に基づく「正気歌」は著名。著に「文山集」がある。(一二三六‐八二)
文 天祥 ぶんてんしょう 1236〜82
南宋末期の政治家
20歳のとき進士に首席で合格。元軍の南下に際し,1275年文官ながら義勇軍を編成して防戦。講和使節となり,元軍に赴いて捕らえられたが脱走した。 翌年,首都臨安の陥落後も南方各地で転戦し,再び捕らえられて大都に送られた。1279年南宋が克R (がいさん) で滅んだので,元に仕官を勧められたがきかず,処刑された。
文天祥 (ぶんてんしょう) Wén Tiān xiáng 生没年:1230(ママ)-82
中国,南宋末の宰相,忠臣。字は宋瑞または履善。号は文山。吉州吉水(江西省)の出身。進士の首席。地方官時代,モンゴル軍進入に浮足立った朝廷の遷都論に反対したり,権力者賈似道(かじどう)にたてついたりして気骨を示す。 1275年(徳祐1),元軍の侵攻が本格化すると,任地の江西南端贛州(かんしゆう)から土豪,少数民族などの混成義勇軍を率いて国都臨安にかけつけた。 76年正月,元の攻勢で無人化した中央政府の宰相に抜擢され, 敵の総司令官バヤン(伯顔)と和平交渉にあたったが抗論して譲らず捕らえられた。北方への護送中,鎮江で脱出し,海路温州から福建に逃れ,度宗の長子瀛国(えいこく)公㬎のもとにはせ参じた。 しかしもと宰相の陳宜中らと合わず,分派行動を起こし,福建,江西地方の回復をはかったが成功せず,広東五坡嶺で元将張弘範に捕らえられた。 宋の滅亡とともに元の世祖フビライは,江南の漢民族支配に彼を利用しようとして,大都(北京)に護送させた。 しかし文天祥は宋王朝への忠節をまげず,在獄3年ののち82年(至元19)処刑された。 81年獄中で作った長詩〈正気歌(せいきのうた)〉は,天地間の不変の気を宋に忠節をつくすみずからの姿と重ねて歌ったもので,藤田東湖,吉田松陰ら日本の幕末の勤皇の志士,忠君愛国の思想に少なからぬ影響を及ぼした。 《文山全集》20巻があり,杜甫の詩の集句も作っている。
執筆者:梅原 郁
露骨に云へば中佐の詩は拙悪と云はんより寧ろ陳套を極めたものである。吾々が十六七のとき文天祥の正気の歌などにかぶれて、ひそかに慷慨家列伝に編入してもらひたい希望で作つたものと同程度の出来栄(できばえ)である。内村鑑三「基督信徒のなぐさめ」https://www.aozora.gr.jp/cards/000034/files/55507_72651.html より引用。
「これを文天祥の土窖(どこく)に比すればわが舎(しゃ)はすなわち玉堂金屋なり、塵垢(じんこう)の爪に盈(み)つる蟻虱(ぎしつ)の膚を侵すもいまだ我正気に敵するに足らず」 と勇みつつ幽廬(ゆうろ)の中に沈吟せし藤田東湖を思え。幸徳秋水「死生」https://www.aozora.gr.jp/cards/000261/files/1453_16149.htmlより引用。
石川五右衛門も国定忠治も死刑となった、平井権八も鼠小僧も死刑となった、白木屋お駒も八百屋お七も死刑となった、大久保時三郎も野口男三郎も死刑となった、 と同時に一面にはソクラテスもブルノーも死刑となった、ペロプスカヤもオシンスキーも死刑となった、王子比干や商鞅も韓非も高青邱も呉子胥も文天祥も死刑となった、 木内宗五も吉田松蔭も雲井龍雄も江藤新平も赤井景韶も富松正安も死刑となった、 刑死の人には実に盗賊あり殺人あり放火あり乱臣賊子あると同時に、賢哲あり忠臣あり学者あり詩人あり愛国者・改革者もあるのである
しゅう‐きん〔シウ‐〕【秋瑾】
[1875〜1907]中国、清末の女性革命家。浙江(せっこう)省紹興の人。 日本留学中に中国革命同盟会に入り、帰国して革命運動に従事。浙江で武装蜂起を計画したが、発覚して処刑。チウ=チン。
秋瑾 (しゅうきん) Qiū Jǐn 生没年:1875-1907
中国,近代,最初の女性革命家,婦人解放運動の先駆者。字は璿卿(せんけい),号は競雄。 鑑湖女侠と自称した。 厦門(アモイ)に生まれる。原籍は浙江省山陰県(現,紹興),魯迅と郷をともにする。 生年については,1877,78,79年の諸説がある。 祖父,父ともに地方官を歴任した読書人の家庭に育ち,父命に従って湖南省湘潭の富商の息子,王廷鈞に嫁し2子をもうけた。 戸部主事の官を金で買った夫とともに北京に移り住んだが,そのときの北京は義和団の運動が敗北し, ヨーロッパ列強に対してなすすべを失い狼狽ただならぬ清朝政府の中央でしかなかった。 この地で異民族の支配する清朝の腐敗をまのあたりにした秋瑾は,民族の危機を悟るとともに革新思想に触れ救国の思いにかられる。 1904年(光緒30),守旧頑迷な王廷鈞のもとを飛び出して革命派の蝟集(いしゆう)する東京に新知識を求めて留学した。 下田歌子を校長とする青山実践女学校で教育,看護学などを学ぶかたわら,宋教仁,陶成章(1878-1912)らの革命派人士と交わり, 馮自由の紹介により中国同盟会に加入した。 これより先,一時帰国した際,母方の従兄徐錫麟(1873-1907)を介して光復会に入会していた。 革命と婦人の解放に奔走するその後の短い生涯の一歩を踏み出していたのである。
06年,日本の文部省が清朝留学生の反清活動を規制するため公布した〈清国留学生取締規則〉に抗議する留学生大会が開かれた。 男子学生の陳天華らにまじって即刻の抗議帰国を秋瑾は主張した。 会場には抗議に消極的な留学生もいた。同郷の魯迅もその一人であった。 短刀をテーブルに投げつけ激昂する秋瑾に,このとき魯迅は死刑を宣告されるという一幕もあった。 東京での秋瑾は,和服姿に日本刀をいつも携えていたという。 帰国した秋瑾は,07年の春,紹興の大通学堂の校務をとりしきり,身を男装につつんで革命兵士の養成につとめ,浙江省の各地の会党を光復軍に組織した。 7月,安徽省の安慶に武装蜂起した徐錫麟に呼応して浙江省の蜂起をはかった。計画は事前に清朝官憲により察知されていた。 大通学堂は包囲され従容と縛に就いた。 革命の節義を貫き通し,2日のちの黎明の刻,軒亭口に処刑された。
女の独立と男女の平等を身をもって示し,革命に殉じた秋瑾の言論は今日,《秋瑾集》(中華書局)にまとめられている。 そこに収める詩文は,中国の女性史に一閃の光芒を放った生涯の激越さをうかがうに足るものがある。 秋瑾をモデルにした人物を登場させる魯迅の小説《薬》は周知の作品であるが,武田泰淳《秋風秋雨人を愁殺す》は,秋瑾の絶命詞(この詞については真偽さだかでない)を題にかぶせた秋瑾伝の秀作である。
執筆者:須山 優
人一倍知性と気骨に恵まれた秋瑾は、この祖国の危機を打開する運動に挺身する必要があると考えていました。 日本の女子教育が、中国より進んでいることなどを聞いたりしたことが、彼女の留学熱に拍車をかけ、1904年家族を置いてついに日本へ留学し、松本亀次郎がいる弘文学院に編入しました。 後に反清革命運動に身を投じるようになり、孫文が率いる革命団体「中国同盟会」に参加したり、また女性だけの「共愛会」も創設したりしています。 当時の秋瑾は、清服を嫌って、和服を着用し、好んで短刀を身につけていました。その後、実践女学校(現実践女子大学)に入学し、教育・工芸・看護学なども学び、麹町神楽坂の武術会にも通い、射撃を練習し、爆薬の製法まで学んでいました。
日清戦争が終わると、清国は国家革新の方策として若者の日本留学を奨励しました。これを受け、1896(明治29)年から1911(明治44)年頃まで、清国から大量の留学生が来日しました。
下田歌子は、かねて欧州留学中から東アジアの連帯を強く願っていました。1901(明治34)年の実践女学校における清国留学生受け入れを皮切りに、1905(明治38)年には実践女学校に清国留学生部を設置するなどの取り組みを通じて、留学生の積極的な受け入れを行います。 以降、歌子のもとで実践女学校は日本における清国女子留学生受入の中心的な学校として、1922(大正11)年まで100名近い多くの卒業生を輩出しました。
こうした留学生の中には、辛亥革命で捕えられ処刑された秋瑾がいます。1905(明治38)年に入学し、実践女学校に在籍しました。革命家として、また過激な思想の持ち主として知られた秋瑾が入学するとき、舎監が心配して校長の歌子に相談しましたが、歌子はそういった人物にこそ教育が必要だと考え、「よく見抜いて大きく扱えよ」と答えたと伝わっています。
浙江省紹興市の繁華街、軒亭口の道路を左右に分けるように、高さ10メートルほどのコンクリートの秋瑾烈士記念碑が立っている。1907年7月15日の夜明け前に、女性革命家秋瑾はこの碑の場所で衆人環視の中、斬首刑に処せられた。
午前3時に山陰県監獄から曳き出された彼女は、県衙門で即刻死刑の宣告を受けたとき、動じる色もなく知県(県知事)の李宗嶽に訣別の遺書を書かせよ、袒衣(斬首前に衣服を剥ぐこと)をするな、梟首(さらし首)をするな、と三つの要求をした。知県は時間がかかる遺書を除き、袒衣と梟首をせぬことを約束した。
この前日に、秋瑾は李宗嶽の取調べに対して『秋風秋雨愁殺人』(秋風秋雨人を愁殺す)と有名な絶唱を書き遺している。そのあとに代わった残忍な取調官が用意した火煉瓦、火鎖などの虐殺的拷問具を前にして、「革命党員は死を恐れない。殺したければ殺せ」と叫んだのみで、目を閉じ、歯を食いしばって遂に一言も吐かなかった。
翌暁に彼女の斬首刑を予定している官側は、衰弱死を恐れて拷問を打ちきり、贋造した供述書に力ずくで拇印を押させ、死刑宣告の体裁を作った。判決のあと直ちに、秋瑾は足に鎖枷をつけられ、腕は背後に縛り上げられて刑場に向かった。極度の疲労でよろめく死刑囚秋瑾を支えようとした護送兵に、彼女は一喝した。「自分で歩く! 手出し無用」。
暗黒の道の彼方から近づいてくる軒亭口刑場のたいまつの明かりを、秋瑾はまっすぐに見つめ、重い鉄鎖を引きずりながら、隊列の先頭を毅然として歩いた・・・。
(中略)
女性の自立手段として、習ったばかりの日本の看護学の教科書を中国語に翻訳、彼女が発行人となった女性啓蒙雑誌『中国女報』に掲載した。
【備忘用】「秋風秋雨愁殺人」、加藤徹『漢文で知る中国』(NHK出版、2021年)34頁-37頁
— 加藤徹(KATO Toru) (@katotoru1963) June 9, 2025
「秋風秋雨、人を愁殺す」は、女性革命家・秋瑾(1875-1907)が処刑直前に書いた(引用した)詩句として有名。原典は陶宗亮(1763-1855)の漢詩の句「秋雨秋風愁?人」。 pic.twitter.com/eDtXclviiT
東京の宿屋で、私たちはたいてい一緒に起きると新聞を読んでいた。学生たちが読むのは主に『朝日新聞』や『読売新聞』で、社会のこまごまとした話題が好きな者は『二六新聞』を読んでいた。ある朝、いきなり目に飛び込んできたのは中国からの電報で、内容はだいたい次のようなものだった――当時の日本の新聞報道は、実際には、魯迅の記述と微妙に違っていた。
「安徽巡撫の恩銘が Jo Shiki Rin に刺殺され、刺客はその場で逮捕された。」
皆、一瞬あっけにとられたが、すぐに顔を輝かせながら互いに伝え合い、この刺客とは誰なのか、名前の漢字はどう書くのかを調べ始めた。しかし、紹興出身で教科書ばかり読んでいない者なら、すでにすぐにわかっていた。これは徐錫麟(じょ しゃくりん)のことだ。彼は留学から帰国後、安徽の候補道(将来の地方官)として巡警業務を担当しており、まさに巡撫を暗殺する立場にあったのだ。
皆すぐに、彼は極刑に処され、一族も連座するだろうと予測した。ほどなくして、秋瑾女史が紹興で殺されたという知らせも伝わってきた。徐錫麟は心臓をえぐられ、恩銘の親兵たちにすっかり炒めて食われたという。人々の怒りは大きかった。何人かが密かに会合を開き、旅費を集め始めた。そのときに日本の浪人たちが役に立った。イカを裂いて酒の肴にしながら気勢を上げた後、彼は旅立って徐伯蓀(徐錫麟)の遺族を迎えに行った。
名前 | 生没年 | 東京滞在 | 秋瑾とのかかわり | 孫文 | 1866-1925 | 1897・1900・1905年など | 間接的関係。1905年に中国同盟会を東京で結成。秋瑾は会員。 | 蔡元培 | 1868-1940 | 1904-1907 | 秋瑾と同時期に東京留学。教育思想家で、秋瑾ともに中国留学生界に影響。 | 章炳麟 | 1869-1936 | 1901-1906頃 | 革命思想家。秋瑾に大きな思想的影響を与えた。師弟関係に近い。 | 徐錫麟 | 1873-1907 | 1903-1904 | 秋瑾と親交あり。同じく光復会の同志。ともに蜂起を計画。 | 黄興 | 1874-1916 | 1904年-1905年初頭 | 同盟会の主要メンバー。秋瑾とともに革命運動に参加。 | 陳天華 | 1875-1905 | 1903-1905 | 『猛回頭』『警世鐘』などを執筆し、秋瑾に思想的影響を与えた。 | 陶成章 | 1878-1912 | 1902-1905 | 光復会のメンバー。秋瑾とともに浙江で革命活動。思想的にも共鳴。 | 魯迅 | 1881-1936 | 1902年-1909年 | 同時期に東京で留学。秋瑾が処刑された1907年の報を受けて強い衝撃を受けた。 | 汪兆銘 | 1883-1944 | 1903-1905 | 同時期に東京に留学。直接の交流記録はないが、同じ革命運動圏にいた。 | 柳亜子 | 1887-1958 | 1905-1908 | 詩人・革命家。秋瑾を詩で悼んだ。「秋風詞」などを作。直接交流の記録はないが敬慕。 |
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