HOME > 授業教材集 > このページ

中国権力者列伝 第5シーズン

最新の更新 2021年8月26日   最初の公開 2021年7月7日

(以下、朝日カルチャーセンター・新宿「中国権力者列伝」より自己引用。引用開始)
 古来、世界の権力者は、軍隊や治安組織などの「暴力装置」、宗教や学問を利用した「権威装置」、臣下や民衆の不満の暴発を防ぐ「安全装置」を力のよりどころにしてきました。 日本や西洋と違い、中国では21世紀の今も安全装置が未熟なままです。前3世紀の秦の始皇帝から現代の国家主席まで、中国の歴代の権力者は「騎虎(きこ)の勢い」状態です。 いったん虎(権力の比喩)にまたがって走り出したら、途中で止まれない。もし虎の背中から降りれば、たちまち自分が虎に食い殺される。 中国はなぜ、このような国となったのでしょう。 その理由と歴史的経緯を、豊富な図像を交えて、予備知識のないかたにもわかりやすく説き明かします。(講師・記)
参考 今までの講座
[「中国権力者列伝」第1シーズン] 2020年6月-9月
[「中国権力者列伝」第2シーズン] 2020年10月-12月
[「中国権力者列伝」第3シーズン] 2021年1月-3月
[「中国権力者列伝」第4シーズン] 2021年4月-6月

第2週・第4週 木曜 10:30〜12:00 朝日カルチャーセンター・新宿教室にて

第1回 07/08 古代の禹王 中華文明の原体験
YouTube https://www.youtube.com/playlist?list=PL6QLFvIY3e-ldEjARnT3Nfa9ndlyqktG2
○キーワード ○『精選版 日本国語大辞典』より「禹」の解説を引用。引用開始。
う【禹】 中国古代の伝説上の聖王。夏王朝の始祖。姓、姒(じ)。別名、文命。 治水に功を立て、舜から帝位を譲られ天下を治めた。その死後、子の啓が諸侯から推されて天子となったのが、 中国における世襲王朝の始まりとされる。夏禹。大禹。
[補注]古来、実在の人物とされているが、おそらく亀の類の動物説話から発生したものと考えられる。
 引用終了。

○『日本大百科全書(ニッポニカ)』より引用。引用開始。
禹 う
 中国、夏(か)王朝の始祖とされる人物。中国に大洪水が起こったとき、鯀(こん)の失敗の後を受けて、その子の禹が治水に成功し、その功によって帝舜(しゅん)から天子の位を譲られた、と『史記』夏本紀などは伝える。『尚書(しょうしょ)』(書経)禹貢篇(うこうへん)には、禹が中国全土を9州に分け、それぞれの土地に適した貢納品を定めたという記事があるが、これは後世戦国時代ごろの状況を禹の時代に仮託したものであろう。堯(ぎょう)から舜へ、舜から禹へと天子の位が禅譲(ぜんじょう)されたという説話も、このころできあがったらしい。戦国初期の墨子(ぼくし)は、家族を顧みず治水に奔走した禹の勤勉さや質素な生活態度に、深い敬意を払っており、現在でも中国各地に禹の治水伝説にまつわる場所が存在している。[小倉芳彦]

○漢字「禹」の字源
 『説文解字』に「禹、蟲也」(禹は蟲なり)とある。蟲は「昆虫」だけでなく、「爬虫類」(爬蟲類) など四足歩行動物を指すこともある。禹は、龍蛇や亀ないし魚のような水関係の生き物の姿を した神を指したが、後世の説話ではヒトとされ聖王となった、という説もある。

○禹の事跡
 神話的な人物であった禹は、 春秋時代の儒教では聖人として再解釈され、 戦国時代の墨家思想では重要視された。 禹は、有史以前の神話・伝説の人物であり、 その事跡については古典の諸書で食い違いが多い。以下は、 最大公約的なものである。
  1. 禹の姓は姒(じ)、諱(いみな)は文命。「姒文命」と呼ぶ。氏は夏后(古代において氏と姓は区別した)。諡号は禹。大禹、夏禹、戎禹とも呼ばれる。
  2. 禹は、黄帝から数えて八代目の子孫で、父の名は鯀(こん)であった。
     鯀は、説話ではヒトだが、本来は古代の魚身の神だったと推定する学者もいる。
  3. 鯀はもともと、現在の四川省北川県に住んでいた。禹は子供のころ、父に連れられて、 中原(黄河中流域。中国文明の中心地)に移住した。
  4. 当時は、三皇五帝のひとり帝堯(ていぎょう)の治世で、中原は黄河の氾濫で 水びたしになり、人民は苦しんでいた。
  5. 帝堯は、鯀に黄河の治水を命じた。鯀は、天帝の魔法の土「息壌」 を盗み、黄河をせきとめようとした。が、九年かかっても成功しなかった。
  6. 治水工事に失敗した鯀は、死んだ。
     死因は、諸書によって様々である。政治色の強い『韓非子』では堯から舜への禅譲に反対したため処刑された、とする。 神話色の強い『山海経』では、天帝が火の神である祝融を派遣して鯀を殺した、とする。 殺された鯀の遺体は、「黄能」(黄熊、黄龍とも)という怪物になって姿を消した、とも伝えられる。
  7. 帝堯の次の舜は、禹を登用し、父のあとをついで治水を行わせた。
    舜は、堯とあわせて「堯舜」(ぎょうしゅん)と呼ばれるほどの、古代の聖王である。
  8. 禹は、父である鯀の失敗にかんがみ、水路をあちこちに掘って黄河の水を最終的に海に逃がす方法を考案した。
  9. 禹はみずから、天下の各地をめぐって視察し、人々を指揮して土木工事を行った。
    働き過ぎで「偏枯」(へんこ)になってしまったほどだった。
  10. 禹は、塗山氏のむすめと結婚したが、新婚早々から各地をめぐり、13年ものあいだ帰宅できなかった。ただし、 その間も自宅の前を通過することはあった。
     禹がたまたま自宅の前を通過するとき、塗山氏が出産し、長男誕生の産声が聞こえたが、 禹は忙しかったため門の中に入らずそのまま通り過ぎた。
     数年後、再び自宅の前を通ると、塗山氏に抱かれた息子(名前は啓)が門の前にいた。 禹は手をふったが、忙しすぎたため、そのまま通り過ぎた。
  11. 禹の息子の名前が「啓」であることについて、別の神話的な説話もある。
     禹は、土木作業をするときはヒトの姿から「熊」(クマ、ないし「能」や「龍」の類の怪獣)に変身した。 妻の塗山氏は、妊娠中だったが、弁当を届けに来て、 「熊」の姿になった夫を目撃し、ショックのあまり 石になってしまった。禹が泣き悲しむと、石が割れて、中から男の赤ちゃんが出てきた。 石がひらいて生まれたので「啓」と名付けた。
  12. 禹は治水に成功し、人々から「大禹」とたたえられた。
    年老いた舜は、禹に、天子の位を禅譲した。
  13. 禹は、天子の位を舜の実子である商均に譲ろうとしたが、天下の諸侯は 禹の徳をしたって商均のもとを離れて禹のもとに集まった。
     禹は、しかたなく天子の位につき、禹王となった。
     禹の封地は「夏」(現在の山西省運城市夏県。山西省、河南省、陝西省が交わる地域にある)だったので、 彼の王朝を後世「夏王朝」と呼ぶ。
  14. 禹は、夏王朝の都を「陽城」に置いた。現在の河南省鄭州市の、登封市告成鎮の地とされる。
  15. 中国で1996年から1999年にかけて実施された「夏商周年表プロジェクト」では、 禹の夏王朝創始を紀元前2071年ないし前2070年と比定しているが、史実かどうかは不明である。
  16. 禹王は、後の中華帝国の基礎をきずいた。禹の徳化と支配が及んだ「禹域」は、中国の雅称となった。
  17. 『書経』の「禹貢」(うこう)は、禹が天下を巡視して貢賦(こうふ)の制を定めた事跡を記す地理書である。
    禹は天下を、冀州・兗(えん)州・青州・徐州・揚州・荊州・豫州・梁州・雍州の「九州」に分けた、とされる。
    ただし、これは明らかに後世の仮託。
  18. 禹は、各地から献上された銅を使って「九鼎」を鋳造させた。
     故事成語「鼎(かなえ)の軽重を問う」の「鼎」は、禹の九鼎を指す。
     この成語の語源は、「春秋五覇」のひとりである楚の荘王が、周王朝の権威を軽んじ、 周室に伝わる宝器である九鼎の大小・軽重を?問うたという『春秋左伝』宣公三年の話による。
  19. 伝説によると、禹は、水の深さを測る「定海神針」(定海神珍とも書く)という魔法の道具をもっていた。 定海神針は、後に龍宮城の龍王が所有していた。 孫悟空がまだ暴れん坊だったころ、龍王からこの魔法の道具を奪い、 伸縮自在の武器「如意棒」としてしまった。
  20. 禹は、「酒池肉林」の亡国を予言した。
     『戦国策』によると、禹の時代、儀狄という人物(性別不明)が初めて酒を造り、 禹王にすすめた。禹は「きっと後世、この美味な飲み物に酔って国を滅ぼす 者があらわれるだろう」と遠い未来を予言し、儀狄を遠ざけた。
     禹王の予言どおり、夏の桀王(けつおう)は肉山脯林(にくざんほりん)で、殷の紂王(ちゅうおう) は酒池肉林で、それぞれ酒色に溺れて亡国の暗君となった。
  21. 禹王は、政務に励み、天下を巡行した。
     現在の浙江省紹興市南部の山に来たとき、命数が尽きて亡くなった。
     天下の諸侯は、禹王の終焉の地にかけつけ「会稽(かいけい)」した。会稽とは「人々が一堂に会して、功績を 計る(稽は計に通じる)」という意味である。別の説では、 禹が天下の諸侯をこの地に集めて「会稽」させたあと、そのまま亡くなったとする。
     この山は「会稽山」と呼ばれるようになった。呉越の戦いの故事成語「会稽の恥」でも有名な山である。
     禹の墓所とされる会稽山大禹陵は、現在も観光地として有名である。
  22. 禹は、後継者として賢者の益を指名していた。しかし禹の死後、諸侯は益よりも、禹の実子である啓を 評価したため、啓が天子の位についた。
     こうして、禹から「世襲」が始まった。
     中国で1996年から1999年にかけて実施された「夏商周年表プロジェクト」では、 禹の夏王朝創始を紀元前2071年ないし前2070年と比定しているが、史実かどうかは不明である。
○魯迅の風刺的歴史ファンタジー短編集『故事新編』
 「理水」は、禹の治水説話を描いた短編。「禹は虫である」と主張する学者が、パロディ的に登場する。


第2回 07/22 蜀漢の諸葛孔明 士大夫の典範
YouTube https://www.youtube.com/playlist?list=PL6QLFvIY3e-l5685XPW262IrVhytECqNP
○キーワード
○諸葛孔明について
 参考内部リンク [三国志 個性豊かなヒーローたち 2016] [諸葛孔明(PDF 文京アカデミー三国志講座 第4回 2016年3月9日)]
★デジタル大辞泉「諸葛亮」の解説
しょかつ‐りょう〔‐リヤウ〕【諸葛亮】
[181〜234]中国三国時代の、蜀漢(しょっかん)の丞相。琅邪(ろうや)(山東省)の人。 字(あざな)は孔明。劉備(りゅうび)に仕え、赤壁の戦いで魏(ぎ)の曹操を破った。 劉備没後、その子劉禅を補佐、出師(すいし)の表を奉って漢中に出陣、五丈原で魏軍と対陣中に没した。

○略歴
  1. 181年に諸葛珪の子として生まれる。本貫(ほんがん)は徐州琅邪郡陽都県(現在の山東省臨沂市沂南県)。
     諸葛氏は後漢の名門で、父は「名士」階層であった。
  2. 幼時、父の諸葛珪が急死。
  3. 諸葛一族のリーダー的存在であった叔父の諸葛玄(?-197)に連れられ、徐州から弟の諸葛均といっしょに南のほうに移住。
  4. 諸葛玄は、旧知の荊州(けいしゅう)の劉表を頼り、その地で死去(異説もある)。
  5. 青年時代の諸葛亮は、荊州で晴耕雨読の生活を行い、自作の『梁父吟』という漢詩を吟じた。
     自分の才能を、斉の桓公に仕えた管仲(asahi20210408.html#03)や、 前3世紀初頭の名将・楽毅(がっき。「まず隗より始めよ」の故事で燕国に仕えた)に比した。
  6. 地元の名士の黄承彦の「黄頭黒色」の娘と結婚。
  7. 207年、諸葛亮の友人の徐庶が、劉備(161-223)の幕下に出入りし、諸葛孔明を劉備に推薦する。
  8. 207年冬、故事成語「三顧の礼」。劉備は、20歳も年下の無名の青年の家を3度も訪問し、出馬を要請した。
     諸葛孔明は劉備に仕えることを決意し、「天下三分の計」を献策する。
     劉備と長年「侠」の関係で結びついてた関羽と張飛は、劉備が20歳も年下の「士」(名士)たる諸葛亮に夢中になっているのが、 気に入らなかった。
     故事成語「水魚の交わり」。劉備は2人に向かって 「孤之有孔明、猶魚之有水也。願諸君勿復言」=孤(こ)の孔明有るは、なお魚(うお)の水有るが如きなり。願わくば諸君復(ま)た言う勿(なか)れ、と述べた。
  9. 208年、赤壁の戦い。孫権と劉備の連合軍が、曹操の侵攻軍に勝利。
    戦いの前、呉の孫権の勢力は、主戦派と講和派に分裂していた。 諸葛亮は陣営に赴き、劉備との同盟を成立させた。
  10. 212年-214年、劉備の入蜀(にゅうしょく)で活躍。諸葛亮は一貫して文官であり、軍政家であった。
  11. 220年、魏の曹操死去。同年、後漢が滅亡。
  12. 221年、劉備が蜀の成都で、漢の皇帝を自称して即位。政権の自称は「漢」、後世の呼称は「季漢」「蜀漢」「蜀」など。
     諸葛亮は「漢」の丞相・録尚書事となる。
  13. 221年7月−222年8月、夷陵(いりょう)の戦い。劉備の蜀軍は呉に敗退。
  14. 223年、劉備、白帝城で死去。劉備は死の直前、 「きみの才能は(敵国のリーダーである)魏の曹丕の10倍ある。 もし、愚息の劉禅(207−271)が補佐するに値する人物なら補佐してくれ。 もし愚息に才能がなければきみみずから取って代わって国を治めてくれ」 と言い残した(劉備の乱命)。
     同年、劉禅が数え17歳の若さで即位(蜀の後主)。
     諸葛孔明は、政治の実権を掌握。
  15. 225年、益州南部四郡を平定。現地の漢人の有力者・孟獲(もう かく)を帰順させる(小説では南蛮王)。故事成語「七縦七擒」(しちしょう しちきん)。
  16. 227年、北伐を計画。諸葛孔明は出陣の前に、皇帝の劉禅に上奏文「出師表」(すいしのひょう)を提出。
     「出師表」は、後世の人々から「諸葛孔明の出師の表を読みて涙を堕さざれば、その人、必ず不忠」と激賞された名文で「危急存亡の秋(とき)」など名言の宝庫。
  17. 228年春、第一次北伐。街亭の戦いで、蜀軍の先鋒の馬謖が敗北。故事成語「泣いて馬謖を斬る」。
    cf.京劇では「失空斬」として「失街亭」「空城計」「斬馬謖」の一連の流れを舞台で演じる。
  18. 229年春、第三次北伐。魏に対して局地的に勝利するも、補給線を維持できず撤退。
  19. 231年春、第四次北伐。魏に対して局地的に勝利するも、補給線を維持できず撤退。
  20. 234年春、第五次北伐。五丈原の戦い。
     諸葛孔明は屯田を行い、魏の司馬懿(しばい)を挑発するが、魏軍は動かず。故事成語「巾幗之贈(きんかくのぞう)」
     同年8月、諸葛亮は陣中で病没。享年54。蜀軍は撤退。故事成語「死せる孔明、生ける仲達を走らす」
     戦後、司馬懿は蜀軍の陣地の跡を視察し、孔明を「天下の奇才なり」と驚嘆した。いわゆる「逆感状」。江戸時代の頼山陽(らい さんよう)の漢詩の名句「公論は敵讐より出(い)ずるにしかず」
    cf.土井晩翠(1871-1951 つちいばんすい/どいばんすい)の詩「星落秋風五丈原」(ほしおつしゅうふうごじょうげん)
○諸葛孔明の発明とされるもの
吉川英治(1892−1962)『三国志』篇外余録
https://www.aozora.gr.jp/cards/001562/files/52420_51071.html
 劇的には、劉備、張飛、関羽の桃園義盟(とうえんぎめい)を以て、 三国志の序幕はひらかれたものと見られるが、真の三国史的意義と興味とは、何といっても、曹操の出現からであり、 曹操がその、主動的役割をもっている。
 しかしこの曹操の全盛期を分水嶺として、ひとたび紙中に孔明の姿が現われると、彼の存在もたちまちにして、 その主役的王座を、ふいに襄陽(じょうよう)郊外から出て来たこの布衣(ほい)の一青年に譲らざるを得なくなっている。
 ひと口にいえば、三国志は曹操に始まって孔明に終る二大英傑の成敗争奪の跡を叙(じょ)したものと いうもさしつかえない。
 この二人を文芸的に観るならば、曹操は詩人であり、孔明は文豪といえると思う。
 痴(ち)や、愚や、狂に近い性格的欠点をも多分に持っている英雄として、人間的なおもしろさは、 遥かに、孔明以上なものがある曹操も、後世久しく人の敬仰(けいぎょう)をうくることにおいては、 到底、孔明に及ばない。
 千余年の久しい時の流れは、必然、現実上の両者の勝敗ばかりでなく、 その永久的生命の価値をもあきらかに、曹操の名を遥かに、孔明の下に置いてしまった。
 時代の判定以上な判定はこの地上においてはない。
 ところで、孔明という人格を、あらゆる角度から観ると、一体、どこに彼の真があるのか、 あまり縹渺(ひょうびょう)として、ちょっと捕捉できないものがある。
 軍略家、武将としてみれば、実にそこに真の孔明がある気がするし、また、政治家として彼を考えると、 むしろそのほうに彼の神髄(しんずい)はあるのではないかという気もする。
 思想家ともいえるし、道徳家ともいえる。文豪といえば文豪というもいささかもさしつかえない。
 もちろん彼も人間である以上その性格的短所はいくらでも挙げられようが、――それらの八面玲瓏(れいろう)とも いえる多能、いわゆる玄徳が敬愛おかなかった大才というものはちょっとこの東洋の古今にかけても 類のすくない良元帥(りょうげんすい)であったといえよう。  良元帥。まさに、以上の諸能を一将の身にそなえた諸葛(しょかつ)孔明こそ、 そう呼ぶにふさわしい者であり、また、真の良元帥とは、そうした大器でなくてはと思われる。
 とはいえ、彼は決して、いわゆる聖人型の人間ではない。孔孟の学問を基本としていたことはうかがわれるが、 その真面目はむしろ忠誠一図な平凡人というところにあった。
(中略)
 孔明の一短を挙げたついでに、蜀軍が遂に魏に勝って勝ち抜き得なかった敗因が どこにあったかを考えて見たい。私は、それの一因として、劉玄徳以来、蜀軍の戦争目標として 唱えて来た所の「漢朝復興」という旗幟(きし)が、果たして適当であったかどうか。また、中国全土の億民に、 いわゆる大義名分として、受け容れられるに足るものであったか否かを疑わざるを得ない。
 なぜならば、中国の帝立や王室の交代は、王道を理想とするものではあるが、その歴史も示す如く、 常に覇道(はどう)と覇道との興亡を以てくり返されているからである。
 そこで漢朝というものも、後漢の光武帝が起って、前漢の朝位を簒奪(さんだつ)した王莽(おうもう)を討って、 再び治平を布(し)いた時代には、まだ民心にいわゆる「漢」の威徳が植えられていたものであるが、 その後漢の治世も蜀帝、魏帝以降となっては、天下の信望は全く地に墜ちて、 民心は完全に漢朝から離れ去っていたものなのである。
 劉玄徳が、初めて、その復興を叫んで起った時代は、実にその末期だった。玄徳としては、 光武帝の故智に倣(なら)わんとしたものかもしれないが、結果においては、ひとたび漢朝を離れた民心は、 いかに呼べど招けど――覆水(フクスイ)フタタビ盆(ボン)ニ返ラズ――の観があった。
 ために、玄徳があれほどな人望家でありながら、容易にその大を成さず、悪戦苦闘のみつづけていたのも、 帰するところ、部分的な民心はつなぎ得ても、天下は依然、漢朝の復興を心から 歓迎していなかったに依るものであろう。
 同時に、劉備の死後、その大義名分を、先帝の遺業として承け継いできた孔明にも、 禍因(かいん)はそのまま及んでいたわけである。彼の理想のついに不成功に終った根本の原因も、 蜀の人材的不振も、みなこれに由来するものと観てもさしつかえあるまい。

○江戸時代の川柳
江戸の川柳『誹風柳多留全集』『誹風柳多留捨遺』
参考 http://www.ic.daito.ac.jp/~oukodou/tyosaku/nanjyaina.html
 どれ程な事か孔明首をまげ(13篇)
 三つ山でご承知ならと諸葛亮(18篇)
 今日もまた留守でござると諸葛亮(26篇) ←「三顧の礼」と吉原の遊女
 孔明も三会目から帯をとき(捨4篇) ←「三顧の礼」と吉原の遊女
 万卒を孔明羽根でたたむなり(43篇)
 蜀将に孔明さんは妙にきき(119篇) ←蜀将は「食傷」、孔明さんは「光明散」というダジャレか
 さあ琴だ孔明何か弾いている(126篇) ←「空城の計」
 松風をくらって司馬懿引き返し(46篇)
 孔明がさそうひょうたん雨に濡れ(38篇)  ←葫蘆谷の戦い
 鼎足を一本へし折る五丈原(61篇)  ←吉川英治『三国志』五丈原の巻・銀河の祷り
 燈明が消えたで蜀が闇になり(77篇)
 孔明が木馬仲達うまく乗り(124篇)
 孔明が死んで夜講の入りが落ち(64篇)


第3回 08/26 宋の徽宗 道楽をきわめた道君皇帝
YouTube https://www.youtube.com/playlist?list=PL6QLFvIY3e-lkH_brMDukXD1fDuLS7Xkj
○キーワード ○日本の国語辞典の記載
『デジタル大辞泉』の解説。引用開始。
き‐そう【徽宗】[1082〜1135]中国、北宋第8代の皇帝。在位1100〜1125。名は佶(きつ)。書画の名手として知られ、文化・芸術を保護奨励したが、 政治力なく国政は乱れ、金の侵入に際し帝位を子の欽宗(きんそう)に譲位、のち親子とも捕らえられ、今の黒竜江省で死去。(引用終了)

略歴


第4回 09/09 明の永楽帝 世界制覇の見果てぬ夢
YouTube https://www.youtube.com/playlist?list=PL6QLFvIY3e-mleBbySOL5BEsScCZsoUQ-
○キーワード
○デジタル大辞泉から引用。
 えいらく‐てい【永楽帝】[1360〜1424]中国、明の第3代皇帝。在位1402〜1424。太祖の第4子。名は朱棣(しゅてい)。靖難(せいなん)の変を起こして即位。 諸王を抑え君主権を強化し、宦官(かんがん)を重用。のち南京(ナンキン)から北京(ペキン)に遷都。対外的には積極策をとり、他国からの朝貢も盛んだった。 また、「永楽大典」「四書大全」などの編纂(へんさん)を命じた。太宗。成祖。

○永楽帝と臣下
○略年表 ○永楽帝関係 参考ミニリンク

第5回 09/23 清の李鴻章 老大国をささえた大男
YouTube https://www.youtube.com/playlist?list=PL6QLFvIY3e-mJ3MRwyFBvjYbWTobAKVuM
○キーワード ○国語辞典からの引用。
精選版 日本国語大辞典「李鴻章」の解説
り‐こうしょう ‥コウシャウ【李鴻章】
 中国清末の政治家。安徽省合肥出身。太平天国の乱の際、曾国藩の幕下にはいる。 一八七〇年直隷総督兼北洋大臣に就任。その後洋務運動の中心人物として軍の近代化を図ったが、 日清戦争の敗北で失脚。また、芝罘(チーフー)条約、下関条約、義和団事件など重要外交案件のすべてにかかわった。(一八二三‐一九〇一)

○評価

略歴
○エピソード ・李鴻章は身長180センチメートル以上の大男だった。日清戦争の前、 日本の外交官・小村寿太郎(身長156センチメートル)にむかって「日本人は皆、閣下のように小さいのですか?」 とからかうと、小村は「日本では閣下のような大男は『大男、総身に知恵が回りかね』と申し、大事を託さぬことになっています」 と切り返した。李鴻章は、最晩年の辛丑条約締結でも小村と向かい合った。
・東京にあった中華レストラン「留園」の経営者・盛毓度(1913−1993)は、李鴻章の財界面での後継者である盛宣懐の孫であった。


HOME > 授業教材集 > このページ