吉川英治(1892−1962)『三国志』篇外余録 https://www.aozora.gr.jp/cards/001562/files/52420_51071.html 劇的には、劉備、張飛、関羽の桃園義盟(とうえんぎめい)を以て、 三国志の序幕はひらかれたものと見られるが、真の三国史的意義と興味とは、何といっても、曹操の出現からであり、 曹操がその、主動的役割をもっている。 しかしこの曹操の全盛期を分水嶺として、ひとたび紙中に孔明の姿が現われると、彼の存在もたちまちにして、 その主役的王座を、ふいに襄陽(じょうよう)郊外から出て来たこの布衣(ほい)の一青年に譲らざるを得なくなっている。 ひと口にいえば、三国志は曹操に始まって孔明に終る二大英傑の成敗争奪の跡を叙(じょ)したものと いうもさしつかえない。 この二人を文芸的に観るならば、曹操は詩人であり、孔明は文豪といえると思う。 痴(ち)や、愚や、狂に近い性格的欠点をも多分に持っている英雄として、人間的なおもしろさは、 遥かに、孔明以上なものがある曹操も、後世久しく人の敬仰(けいぎょう)をうくることにおいては、 到底、孔明に及ばない。 千余年の久しい時の流れは、必然、現実上の両者の勝敗ばかりでなく、 その永久的生命の価値をもあきらかに、曹操の名を遥かに、孔明の下に置いてしまった。 時代の判定以上な判定はこの地上においてはない。 ところで、孔明という人格を、あらゆる角度から観ると、一体、どこに彼の真があるのか、 あまり縹渺(ひょうびょう)として、ちょっと捕捉できないものがある。 軍略家、武将としてみれば、実にそこに真の孔明がある気がするし、また、政治家として彼を考えると、 むしろそのほうに彼の神髄(しんずい)はあるのではないかという気もする。 思想家ともいえるし、道徳家ともいえる。文豪といえば文豪というもいささかもさしつかえない。 もちろん彼も人間である以上その性格的短所はいくらでも挙げられようが、――それらの八面玲瓏(れいろう)とも いえる多能、いわゆる玄徳が敬愛おかなかった大才というものはちょっとこの東洋の古今にかけても 類のすくない良元帥(りょうげんすい)であったといえよう。 良元帥。まさに、以上の諸能を一将の身にそなえた諸葛(しょかつ)孔明こそ、 そう呼ぶにふさわしい者であり、また、真の良元帥とは、そうした大器でなくてはと思われる。 とはいえ、彼は決して、いわゆる聖人型の人間ではない。孔孟の学問を基本としていたことはうかがわれるが、 その真面目はむしろ忠誠一図な平凡人というところにあった。 (中略) 孔明の一短を挙げたついでに、蜀軍が遂に魏に勝って勝ち抜き得なかった敗因が どこにあったかを考えて見たい。私は、それの一因として、劉玄徳以来、蜀軍の戦争目標として 唱えて来た所の「漢朝復興」という旗幟(きし)が、果たして適当であったかどうか。また、中国全土の億民に、 いわゆる大義名分として、受け容れられるに足るものであったか否かを疑わざるを得ない。 なぜならば、中国の帝立や王室の交代は、王道を理想とするものではあるが、その歴史も示す如く、 常に覇道(はどう)と覇道との興亡を以てくり返されているからである。 そこで漢朝というものも、後漢の光武帝が起って、前漢の朝位を簒奪(さんだつ)した王莽(おうもう)を討って、 再び治平を布(し)いた時代には、まだ民心にいわゆる「漢」の威徳が植えられていたものであるが、 その後漢の治世も蜀帝、魏帝以降となっては、天下の信望は全く地に墜ちて、 民心は完全に漢朝から離れ去っていたものなのである。 劉玄徳が、初めて、その復興を叫んで起った時代は、実にその末期だった。玄徳としては、 光武帝の故智に倣(なら)わんとしたものかもしれないが、結果においては、ひとたび漢朝を離れた民心は、 いかに呼べど招けど――覆水(フクスイ)フタタビ盆(ボン)ニ返ラズ――の観があった。 ために、玄徳があれほどな人望家でありながら、容易にその大を成さず、悪戦苦闘のみつづけていたのも、 帰するところ、部分的な民心はつなぎ得ても、天下は依然、漢朝の復興を心から 歓迎していなかったに依るものであろう。 同時に、劉備の死後、その大義名分を、先帝の遺業として承け継いできた孔明にも、 禍因(かいん)はそのまま及んでいたわけである。彼の理想のついに不成功に終った根本の原因も、 蜀の人材的不振も、みなこれに由来するものと観てもさしつかえあるまい。 |