以下、https://www.asahiculture.com/asahiculture/asp-webapp/web/WWebKozaShosaiNyuryoku.do?kozaId=8546398より引用。
中国の歴代の君主は、なぜ、海千山千の膨大な臣民と広大な領土を統治できたのか? そこには、現代のビジネスや人間関係構築にも通じる「帝王学」があります。『韓非子』に見る狡知の統治術、黄老の術に学ぶ無為自然のマインドコントロール、覇道と王道のひそかな混合、『貞観政要』の人心掌握術とプロパガンダ、等々。本講座では、歴代の名君や策士たちの実例をひもときながら、現代の中国と中国人を理解するうえでも役立つ中国的リーダーシップの技術を、予備知識のないかたにもわかりやすく解説します。(講師・記)
ていおう‐がくテイワウ‥【帝王学】
[名詞] 帝王の地位につく者が帝王としてふさわしい素養や見識などを身につけるために行なう修養。
[初出の実例]「この先生を立たしめて、所謂る帝王学(テイワウガク)の師範たらしめるに至ったかと思ふと」(出典:駒のいななき(1916)〈巖谷小波〉一六)
王道・覇道 おうどう・はどう Wang-dao Ba-dao
中国儒家の政治思想。 王道とは先王 (王者) の行なった道徳政治,覇道とは春秋時代の覇者の行なった武力による権力政治。 孔子は徳を政治原理とする仁政を理想としたが,孟子は王道と覇道を峻別し,両者は仁と利,徳化と武力の相違とした。 そして王道の前提として人民の経済的安定を重視し,そのための諸策を講じた。 戦国末の荀子はより現実的な王覇論を展開し,王者−覇者−強者−危者−亡者の系列のなかで,覇者の存在意義を高め,承認した。 統一国家の漢においては,表現を孟子にかりたが,立場は荀子に近い王道論が政治原理として採用され,さらに董仲舒が陰陽五行説を導入して天人相関説を唱えた。
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「世界最高のリーダー論」の一つといわれる「貞観政要」。リーダーの器はどう論じられているのか? 意外にも「何もしないのが理想のリーダーだ」と記されている。真のリーダーは、プライドや見栄などで自らの器をいっぱいにするのではなく、むしろそれらを上手に捨て器を空にすることで、部下の諫言に耳を傾け、新しい価値観を吸収し、自らを律することができるのだという。
習近平の書棚にある『群書治要』は、父親が保存にかかわった中国伝統文化の遺産であると同時に、習近平が語る「治国理政」、もっと言えば、いわゆる「習近平思想」の虎の巻である。こう考えれば、紅二代の血の濃さがより深く理解できる。中国で「黄河文化」、「中華文化」などの大仰な名前がつく半ば公式の団体は、革命世代の長老が創設し、その二代目が名誉職を継いでいるケースがしばしばある。
余は少時好んで漢籍を学びたり。 これを学ぶ事短かきにもかかはらず、文学はかくの如き者なりとの定義を漠然と冥々裏に左国史漢より得たり。 ひそかに思ふに英文学もまたかくの如きものなるべし、かくの如きものならば生涯を挙げてこれを学ぶも、あながちに悔ゆることなかるべしと。 余が単身流行せざる英文学科に入りたるは、全くこの幼稚にして単純なる理由に支配せられたるなり。司馬遷の『史記』の評価は当初は低かったが、宋代以降は最高の歴史書としての評価が確定した。
つと籠もりゐたまひて、いぶせきままに、殿を、「つらくもおはしますかな。かく苦しからでも、高き位に昇り、世に用ゐらるる人はなくやはある」と思ひきこえたまへど、おほかたの人がら、まめやかに、あだめきたるところなくおはすれば、いとよく念じて、「いかでさるべき書どもとく読み果てて、交じらひもし、世にも出でたらむ」と思ひて、ただ四、五月のうちに、『史記』などいふ書、読み果てたまひてけり。
(大意 ― 夕霧は受験勉強のため部屋に籠って気が晴れず、父の光源氏を恨んだ。 「ひどいお父様だ。別に勉強しなくても、血筋や縁故で高い位に上って世に用いられる人もいるじゃないか」。 夕霧はそう思いましたが、もともとまじめな性格な子でしたので、意を決して 「よし。こうなったら、なんとか漢籍もはやく読んでしまおう。仕事ができる役人になって、出世してやるぞ」と思い、 四、五ヶ月のうちに『史記』などの書も読み終えました。
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諸侯之剣、以知勇士為鋒、以清廉士為鍔、以賢良士為脊、以忠聖士為鐔、以豪傑士為鋏。此剣直之亦无前、挙之亦无上、案之亦无下、運之亦无旁。
諸侯の剣は、知勇の士(し)を以(もっ)て鋒(ほう)と為(な)し、清廉(せいれん)の士を以て鍔(がく)と為し、賢良の士を以て脊(せき)と為し、忠聖の士を以て鐔(たん)と為し、豪傑の士を以て鋏(きょう)と為す。此(こ)の剣は、之(これ)を直(なお)くすれば亦(ま)た前(まえ)无(な)く、之を挙(あ)ぐれば亦た上无く、之を案ずれば亦た下无く、之を運(めぐ)らせば亦た旁(かたわら)无し。
諸侯の剣は、知勇の士を切っ先とし、清廉の士を刃先とし、賢良の士をみねとし、忠聖の士を鍔とし、豪傑の士を柄とします。この剣は無敵です。まっすぐ突き出せば前に当たる者はなく、上下四方にふりまわしても邪魔するものはありません。
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上、常に従容として信と与に諸将の能不を言い、各々差有り。
上、問いて曰く
「我の能く将たること、幾何ぞ」と。
信、曰く
「陛下は、将たること能くするは十万を過ぎず」と。
上、曰く
「君に於いては何如」と。
曰く
「臣は多々益々善きのみ」と。
上、笑いて曰く
「多々益々善ならば、何為れぞ我の為に禽と為るや」と。
信、曰く
「陛下は兵に将たること能わずして、将に将たることを善くす。
此れ乃ち、臣の陛下の為に禽と為る所以なり。
且つ陛下は所謂天授にして人力に非ざるなり」と。
高祖劉邦は天下を取って皇帝となったあと、いつもくつろいだ雰囲気の中で、韓信と将軍たちの能力の優劣について語り合ったが、それぞれに違いがあった。 あるとき皇帝がたずねて言った。 「俺は、どれくらいの兵を率いることができるか」 韓信は答えた。 「陛下がお率いになれるのは、せいぜい十万ほどです」 「では君はどうだ」 「私は、多ければ多いほどよろしいのです」 皇帝は笑って言った。 「多ければ多いほどよいのなら、どうして天下取りで私に負けて捕らえらたのか」 「陛下は兵に将たる器ではありませんが、将に将たる器でいらっしゃいます。されば、私は陛下に負けて捕らえられたのです。 また、陛下のいわゆる天与の強運は、人間の力の及ぶものではありません」 |
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竇太后、黄帝・老子の言を好み、
帝および太子、諸竇、黄帝・老子を読まざるを得ず、
その術を尊ぶ。
竇太后は、黄帝(asahi20201008.html#01)と老子(asahi20241010.html#01)の言説(黄老思想)を好んだ。景帝や太子、および竇一族の者たちも、黄老思想の書を学びその術策を学ばざるを得なかった。 |
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孝元皇帝、宣帝の太子なり。
母を共哀許皇后と曰う。宣帝、微時に民間に生る。
年二歳にして、宣帝即位す。八歳、立ちて太子と為る。
壮大にして、柔仁、儒を好む。
宣帝の用うる所、多く文法の吏にして、刑名を以て下を繩し、
大臣の楊ツ・盍寛饒ら、刺譏の辞語に坐して罪と為りて誅せらるるを見、
嘗て侍燕に従い、従容として言う
「陛下、刑を持つこと太だ深し。宜しく儒生を用うべし」と。
宣帝、色を作して曰く
「漢家には自ら制度あり、本より王覇の道を以てこれを雑う。
奈何ぞ純ら徳教に住して、周政を用いんや。
且つ俗儒は時宜に達せず、古を好みて今を非とし、
人をして名実に眩ましめ、守る所を知らしめず。
何ぞ委任するに足らんや」と。
乃ち歎じて曰く
「我が家を乱す者は、太子なり」
元帝は、宣帝の皇太子であった。母は共哀許皇后である。宣帝は身分の低いころ、民間で生まれた。 孝元皇帝は二歳のときに、宣帝が即位し、八歳で皇太子に立てられた。成長すると、性格は温和で仁慈に富み、儒学を好んだ。 彼は、宣帝が用いる人材に法律実務を重んじる官吏が多く、刑罰や法令によって臣下を厳しく取り締まり、 大臣の楊ツや盍寛饒らが、風刺的な言葉を用いたという理由で罪に問われ処刑されたのを見て、 あるとき宴席に仕えていた際、落ち着いた様子で次のように進言した。 「陛下は刑罰を用いることがあまりに厳しすぎます。 儒学者を登用なさるべきです。」 宣帝は顔色を変えて言った。 「漢王朝にはもともと独自の制度がある。 もとより王道と覇道を織り交ぜて政治を行っているのだ。 どうしてただ徳による教化だけに頼って、周王朝の政治をそのまま用いねばならぬのか。 しかも俗儒どもは時勢を理解せず、古いものを尊び今を否定する。 そのため人々を名目と実際の区別に迷わせ、何を守るべきか分からなくさせる。 どうして重い任務を任せるに足りようか。」 そしてため息をついて言った。 「わが家(漢王朝)を乱す者は、太子であろう。」 |