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中国権力者列伝 第4シーズン

最新の更新2021-6-9  最初の公開 2021-4-7

(以下、朝日カルチャーセンター・新宿「中国権力者列伝」より自己引用。引用開始)
 古来、世界の権力者は、軍隊や治安組織などの「暴力装置」、宗教や学問を利用した「権威装置」、臣下や民衆の不満の暴発を防ぐ「安全装置」を力のよりどころにしてきました。 日本や西洋と違い、中国では21世紀の今も安全装置が未熟なままです。前3世紀の秦の始皇帝から現代の国家主席まで、中国の歴代の権力者は「騎虎(きこ)の勢い」状態です。 いったん虎(権力の比喩)にまたがって走り出したら、途中で止まれない。もし虎の背中から降りれば、たちまち自分が虎に食い殺される。 中国はなぜ、このような国となったのでしょう。 その理由と歴史的経緯を、豊富な図像を交えて、予備知識のないかたにもわかりやすく説き明かします。(講師・記)
参考 今までの講座
[「中国権力者列伝」第1シーズン] 2020年6月-9月
[「中国権力者列伝」第2シーズン] 2020年10月-12月
[「中国権力者列伝」第3シーズン] 2021年1月-3月

第2週・第4週 木曜 10:30〜12:00 朝日カルチャーセンター・新宿教室にて

第1回 魏の曹操 漢・侠・士の男の人間関係

参考動画
https://www.youtube.com/playlist?list=PL6QLFvIY3e-miogNb3vlgoeiIJ8X4m0u0

曹操の強み:親から受け継いだ資産、文武両道の資質
曹操の弱み:「名士コンプレックス」

○キーワード・ポイント
【豆知識】大阪府河内長野市(かわちながのし)のゆるキャラ「くろまろくん」は、魏の曹操の子孫である。
 曹操(魏の武帝)→息子・曹丕(そうひ。魏の文帝)→・・・→(渡来氏族)高向玄理(たかむこのくろまろ)
○曹操の墓「曹操高陵」
 中国の河南省安陽市安陽県安豊郷西高穴村の「西高穴2号墓」が、2009年に曹操の墓とされたが、異論もある。
 この墓で発見された男性の骨は、死亡推定年齢60代前後、 生前の身長は155センチメートル前後、虫歯や歯周病多数であったが、曹操の骨とされている。

○大辞林第三版より引用
曹操(155 〜220)中国,三国時代魏(ぎ)の始祖。字(あざな)は孟徳。諡(おくりな) は武帝。廟号(びようごう)は太祖。黄巾の乱を平定。後漢の献帝を擁して華北を統一し たが、江南進出は劉備・孫権の連合軍に阻まれた。詩賦をよくした。

○曹操の略歴
 名士コンプレックスをもつ魏の曹操は、生涯をかけて名士に認められようと努力したが、失敗した。
 これと対照的に、諸葛孔明をはじめとする名士に見込まれたのは、蜀の劉備であった。
 後世の小説や芝居では、曹操は悪役、劉備は正義の味方、として描かれるようになった。
○【月旦評】
 吉川英治の小説『三国志』桃園の巻より。「青空文庫」でも読めます。
 曹操は一日、その許子将を訪れた。座中、弟子や客らしいのが大勢いた。曹操は名乗って、彼の忌憚 ない「曹操評」を聞かしてもらおうと思ったが、子将は、冷たい眼で一眄(いちべん)したのみで、卑しんでろくに答えてくれない。
「ふふん……」
 曹操も、持前の皮肉がつい鼻先へ出て、こう揶揄した。
「――先生、池の魚は毎度鑑みておいでらしいが、まだ大海の巨鯨は、この部屋で鑑たことがありませんね」
 すると、許子将は、学究らしい薄べったくて、黒ずんだ唇から、抜けた歯をあらわして、
「豎子(じゅし)、何をいう! お前なんぞは、治世の能臣、乱世の姦雄※だ」
 と、初めて答えた。
 聞くと、曹操は、
「乱世の姦雄だと。――結構だ」
 彼は、満足して去った。

※(注) 許劭の曹操評は、正史では「治世之能臣、乱世之姦雄」(『三国志』魏書・武帝紀 注)あるいは「清平之姦賊、乱世之英雄」(『後漢書』許劭伝)であった。

参考 十八史略
★原漢文
 嵩与沛国曹操、合軍破賊。操父嵩、為宦者曹騰養子。或云、夏侯氏子也。操少機警、有 権数。任侠放蕩、不治行業。汝南許劭、与従兄靖有高名。共覈論郷党人物。毎月輒更其題 品。故汝南俗有月旦評。操往問劭曰、我何如人。劭不答。劫之。乃曰、子治世之能臣、乱 世之姦雄。操喜而去。至是以討賊起。
★書き下し
嵩、沛国の曹操と軍を合せて賊を破る。操の父嵩、宦者曹騰の養子と為る。或いは云ふ、
すう/はいこく/そうそう/ぐん/あは/ぞく/やぶ/そう/ちち/すう/かんじゃ/そうとう/ようし/な/ある/い
夏侯氏の子なりと。操、少くして機警、権数有り。任侠放蕩にして行業を治めず。汝南
かこうし/こ/そう/わか/きけい/けんすう/あ/にんきょう/ほうとう/こうぎょう/をさ/じょなん
の許劭、従兄の靖と高名有り。共に郷党の人物を覈論す。毎月、輒ち其の題品を更
きょしょう/じゅうけい/せい/こうめい/あ/とも/きょうとう/じんぶつ/かくろん/まいつき/すなは/そ/だいひん/あらた
む。故に汝南の俗に月旦の評有り。操、往きて劭に問ひて曰く「我は如何なる人ぞ」と。劭、
ゆゑ/じょなん/ぞく/げったん/ひょう/あ/そう/ゆ/しょう/と/いは/われ/いか/ひと/しょう
答へず。之を劫す。乃ち曰く「子は治世の能臣、乱世の姦雄なり」と。操、喜びて去
こた/これ/おびやか/すなは/いは/し/ちせい/のうしん/らんせい/かんゆう/そう/よろこ/さ
る。是に至りて賊を討つを以て起こる。
ここ/いた/ぞく/う/もっ/お

○銅雀台 どうじゃくだい
 曹操の思いを象徴する豪華な建物。豊臣秀吉が作った聚楽第と比較しうる。
 「雀」は「鳳凰」より格下の鳥だが、曹操は身分が低い自分も「龍」(皇帝の象徴)や「鳳凰」(皇后の象徴)より上のセレブになれるという思いをこめて「銅雀台」と名付けたという説もある。
 曹操が魏王に昇爵した210年に造営。「文闘」のあらわれ。
 曹操の五男・曹植は「銅雀台の賦」を、三男・曹丕は「登台賦」を詠み銅雀台を描写した。
 蔡文姫は「胡笳十八拍」を銅雀台で演奏した。

★吉川英治の小説『三国志』「望蜀の巻・文武競春」より引用。「青空文庫」でも読めます。
 冀北の強国、袁紹が亡びてから今年九年目、人文すべて革たまったが、秋去れば冬、冬去れば春、四季の風物だけは変らなかった。
 そして今し、建安十五年の春。鄴城(河北省)の銅雀台は、足かけ八年にわたる大工事の落成を告げていた。
「祝おう。大いに」
 曹操は、許都を発した。
 同時に――造営の事も終りぬれば――とあって、諸州の大将、文武の百官も、祝賀の大宴に招かれて、 鄴城の春は車駕金鞍に埋められた。
 そもそも、この漳河のながれに臨む楼台を「銅雀台」と名づけたのは、九年前、 曹操が北征してここを占領した時、青銅の雀を地下から掘り出したことに由来する。
 城から望んで左の閣を玉龍台といい、右の高楼を金鳳台という
 いずれも地上から十余丈の大厦である。そしてその空中には虹のような反橋を架け、玉龍金鳳を一郭とし、 それをめぐる千門万戸も、それぞれ後漢文化の精髄と芸術の粋をこらし、金壁銀砂は目もくらむばかりであり、 直欄横檻(ちょくらんおうかん)の珠玉は日に映じて、
「ここは、この世か。人の住む建築か」と、たたずむ者をして恍惚と疑わしめるほどだった。
「いささか予の心に適かなうものだ」
 由来、英雄は土木の工を好むという。
 この日、曹操は、七宝の金冠をいただき、緑錦の袍(ひたたれ)を着、 黄金の太刀を玉帯に佩いて、足には、一歩一歩燦爛と光を放つ珠履(しゅり)をはいていた。
「規模の壮大、輪奐(りんかん)の華麗、結構とも見事とも、言語に絶して、申し上げようもありません」
 文武の大将は彼の台下に侍立した。そして万歳を唱し、全員杯を挙げて祝賀した。
(中略)
 その時、楽部の伶人たちは、一斉に音楽を奏し、天には雲を闢(ひら)き、地には漳河の水も答えるかと思われた。
 水陸の珍味は、列座のあいだに配され、酒はあふれて、台上台下の千杯万杯に、尽きることなき春を盛った。
「武府の諸将は、みな弓を競って、日頃の能をあらわした。江湖の博学、文部の多識も、何か、佳章を賦して、 きょうの盛会を記念せずばなるまい
 酒たけなわの頃、曹操がいった。
 万雷のような拍手が轟く。王朗、字は景興(けいこう)、文官の一席から起って、
「鈞命に従って、銅雀台の一詩を賦しました。つつしんで賀唱いたします――」
銅雀台高ウシテ帝畿壮(サカン)ナリ
水明ラカニ山秀イデ光輝ヲ競ウ
三千ノ剣佩 黄道ヲ趨リ
百万ノ貔貅(ヒキユウ)ハ紫微ニ現ズ
 と朗々吟じた。
 曹操は、大いに興じて、特に秘愛の杯に酒をつぎ、
「杯ぐるみ飲め」
 と、王朗に与えた。
 王朗は、酒を乾して、杯は袂に入れて退がった。文官と武官と湧くごとく歓呼した。
 すると、また一人、雲箋に詩を記して立った者がある。東武亭侯侍中尚書、鍾繇、字は元常であった。
 この人は、当代に於て、隷書を書かせては、第一の名人という評がある。すなわち七言八絶を賦って――
銅雀台ハ高ウシテ上天ニ接ス
眸ヲ凝ラセバ遍ネクス旧山川
欄干ハ屈曲シテ明月ヲ留メ
窓戸ハ玲瓏トシテ紫烟ヲ圧ス
漢祖ノ歌風ハ空シク筑ヲ撃チ
定王ノ戯馬 謾リニ鞭ヲ加ウ
主人ノ盛徳ヤ尭舜ニ斉シ
願ワクハ昇平万々年ヲ楽シマン
 と、高吟した。
「佳作、佳作」
 曹操は激賞しておかなかった。そして彼には、一面の硯を賞として与えた。拍手、奏楽、礼讃の声、台上台下にみちあふれた。
「ああ、人臣の富貴、いま極まる」
 曹操は左右の者に述懐した。

○江戸時代の漢詩人・頼山陽「詠三国人物十二絶句」七、孟徳
 金刀版籍得雄蹲
 銅雀楼台日月昏
 七十二堆春草碧
 更無寸土到児孫
金刀の版籍雄蹲するを得て
きん/とう/はんせき/ゆうそん/え
銅雀楼台日月昏し
どうじゃく/ろうだい/じつげつ/くら
七十二堆春草碧く
しちじゅうにたい/しゅんそう/あを
更に寸土の児孫に到る無し
さら/すんど/じそん/いた/な
【注】金刀=卯金刀。漢王朝の国姓「劉」のアナグラム。
七十二堆=曹操は自分の墓を盗掘されぬよう「七十二疑冢」を作らせた、という伝説がある。
[この七言絶句の大意]魏の曹操は、劉氏の国土を乗っ取った。曹操は自分の権勢を天下に示すため、銅雀台 を築かせた。天空の太陽や月が隠れて見えぬほど豪壮な高層建築だった。また曹操は自 分の死後、墳墓が盗掘されぬよう、七十二もの偽の墓を作らせた。 それほど周到に悪知恵を働かせた曹操だったが、曹操の魏も、司馬氏に乗っ取られ、 あえなく滅亡。結局、曹操は自分の子孫に寸土も残せなかった。残せたのは、彼の七十 二箇所の墓に青青と生える春の雑草だけである。
○曹操が詠んだ漢詩「短歌行」
 原漢文
對酒當歌、人生幾何。譬如朝露、去日苦多。
慨當以慷、憂思難忘。何以解憂、唯有杜康。
青青子衿、悠悠我心。但爲君故、沈吟至今。
幼幼鹿鳴、食野之苹。我有嘉賓、鼓瑟吹笙。
明明如月、何時可輟。憂從中來、不可斷絶。
越陌度阡、枉用相存。契闊談讌、心念舊恩。
月明星稀、烏鵲南飛。繞樹三匝、無枝可依。
山不厭高、水不厭深。周公吐哺、天下歸心。
 書き下し文
酒に対しては当に歌ふべし。人生幾何ぞ。譬(たと)へば朝露の如く、去日(きょじつ) 苦(はなは)だ多し。
慨(なげ)きて当に慷(いた)むべし。憂思忘れ難く、何を以てか 憂ひを解かん。唯(た)だ杜康(とこう)有るのみ。
青青たる子(し)が衿(えり)、悠悠た る我が心、但だ君が故の為に、沈吟して今に至る。
幼幼(ゆうゆう)として鹿は鳴き、野 の苹(よもぎ)を食ふ。我に嘉賓有り。瑟(しつ)を鼓し笙を吹く。
明明と月の如く、何 の時か輟(と)るべき。憂ひは中より来たりて、断絶すべからず。
陌を越えて阡を度(は か)り、枉(ま)げて用いて相存す。契濶して談讌し、心に旧恩を念(おも)ふ。
月明ら かに星は稀にして、烏鵲(うじゃく)は南に飛ぶ。樹を繞(めぐ)ること三匝(そう)、 枝の依るべき無し。
山は高きを厭(いと)はず。水は深きを厭はず。周公は哺(ほ)を吐き て、天下は心を帰す。
 大意
酒を前にしておおいに唱おう。人生なんて短いものさ。 喩えるならば朝の露。過ぎし日々ばかりが多い。 どうせ嘆くなら盛大に嘆こう。 つらい思いが胸にふさがる。 どうやってつらさを晴らそうか。 ただ酒、それだけだ。 青々とした才子の襟元を見て、 恋い焦がれる少女のように、 才能ある人材に恋い焦がれて、 ずっと小声で歌っているのだよ。 「鹿鳴館」の由来となった故事のように、 私のもとに人材が来てくれたら、 楽器をかなでてもてなすよ。 キラキラ輝く月のような人材が、 手に入るのはいつだろうか。 胸がキュンとなってしまい、 いつまでもそれが続くのだ。 阡陌(せんぱく)の東西のちまたを超えて、 わざわざ来てくれるのなら、 久闊 (きゅうかつ)を叙して語り合い、 旧交を温めよう。 夜空には月(曹操自身の暗喩)が輝き星の光(曹操のライバルたちの暗喩)は薄れている。 故事成語「烏鵲の智」(うじゃくのち)のカササギは南にむかって飛ぶ。 木のまわりを三回もめぐって、 それでもまだ止まる枝を探しあぐねている。 山は高ければ高いほどいい。 海は深ければ深いほどいい。 いにしえの周公は人材登用に熱心で、 客が来ると食事を吐き出して出迎えたので、 天下の人々の心は周公に集まったのだ。

○曹操の遺言
 正史『三国志』魏書・武帝紀第一より
 原漢文
庚子、王崩于洛陽。年六十六。遺令曰
「天下尚未安定、未得遵古也。葬畢、皆除服。其 将兵屯戍者、皆不得離屯部。有司各率乃職。斂以時服、無蔵金玉珍宝」。
 書き下し文。 庚子、王、洛陽に崩ず。年六十六。遺令に曰く
「天下、尚未だ安定せず、未だ古へに遵ふを得ざるなり。葬畢れば皆、服を除け。其 の将兵の屯戍する者は、皆、屯部を離るるを得ざれ。有司は各おの乃が職を率ゐよ。斂 は時服を以てし、金玉珍宝を蔵する無かれ」と。
 大意
かのえねの年、魏王曹操は洛陽で崩御した。享年六十六。遺言の命令にいう。
「天下の平和はまだ回復していない。古式にのっとった葬礼はできない。 私の埋葬が終わり次第、みな喪服を脱ぐように。わが将兵は駐屯地や部署を離れてはならぬ。 官吏はそれぞれ自分の職務を続けよ。 私の埋葬は平服でけっこう。副葬品として金銀財宝を墓に入れてはならぬ」。

○曹操を単なる悪役としない歴史小説
○曹操のミニ内部リンク

第2回 殷の紂王 酒池肉林の伝説の虚と実

参考動画
https://www.youtube.com/playlist?list=PL6QLFvIY3e-kpSp1AGzCp0xn8BQp2leNz

○キーワード・ポイント

○殷(いん)と商
 日本では、中国最古の王朝とされる。「殷」は、司馬遷の『史記』殷本紀をはじめ後世の説話的呼称で、殷王朝の人々の自称は「商」だったので、中国では「商」王朝と呼ぶ。
 中国では、最古の王朝は「夏」とする。
 史書によると、殷の初代の湯王は紀元前1600年頃、暴君であった夏の桀王を滅ぼして殷王朝を建てた。
 第22代の殷王・武丁(前13世紀ごろ)は大邑商(現在の「殷墟」)に都を置き、また甲骨文もこの時代から残るようになる。
 第30代で最後の殷王・帝辛(ていしん。説話の「紂王」のモデル)の在位期間は、中国の「夏商周断代工程」では紀元前1075年から前1046年までとする。
 商の滅亡後、各地に散った「商人」は「商業」に従事した。

○故事成語
・箕子の憂い(きしのうれい)
 cf.箕子朝鮮(きしちょうせん) ・象箸玉杯(ぞうちょぎょくはい)
・酒池肉林

○漢文の本「十八史略」の記述(現代語訳)
 殷王朝の王統は、太丁・帝乙を経て帝辛に至った。帝辛の名は受、諡号は紂(紂王)と言った。 生まれつき弁舌がたち運動神経もよく、猛獣と素手で格闘できるほどだった。 臣下の諫言をはねつける知力と、自分の非をとりつくろう弁舌力をもっていた。
 あるとき、帝辛は初めて象牙の箸を作った。叔父の箕子は嘆息した。
「象牙の箸を作ったからには、 食事の盛り付けは質素な土器を使うまい。宝玉の杯を作るだろう。 玉杯と象箸を使うからには、アカザヤと豆の葉の質素な吸い物とか、 粗末な短い毛織物と安価な藁ぶき屋根に満足できなくなるだろう。 高価な錦の衣を何枚も重ねて、高大な建物に住み、 何事も贅沢になってしまうだろう。 天下の富を注いでも、帝辛の欲望を満たせぬようになるだろう。」
 紂王は、有蘇氏という部族を討伐した。 有蘇氏は妲己(だっき)という美女を献上した。 紂王は妲己を溺愛し、何でも望みを聞いた。 また民に重税を課し、都の財物や穀物を集め、御料地を広げた。酒で池を作り、木に干し肉を懸けて林とし、毎晩、酒池肉林の酒宴に耽った。
 天下の民は紂王を恨んだ。諸侯には殷に叛く者も出てきた。紂王は恐怖政治をしいた。 銅の柱を作って油を塗り、真っ赤に焼けた炭火の上に銅の柱を丸木橋のようにわたして罪人を渡らせた。 罪人が足をすべらせて落ちて焼け死ぬ様子を、紂王と妲己は見て楽しんだ。これを炮烙の刑と呼んだ。
 紂王の淫虐がひどかったため、庶兄の微子はしばしば諌めたが、紂王は聞かなかった。微子は殷を去った。
 叔父の比干は紂王を諌め、3日間、側を離れなかった。紂王は怒って、
「吾聞く、聖人の心(しん)には七竅(しちきょう。七つの穴)有りと」
と言い、比干を生体解剖して殺した。
 箕子は気が狂ったふりをして奴隷に身をやつしたが、紂王に捕らえられた。
 殷の宮廷楽長は、楽器を携えて周に亡命した。
 周公昌(西伯昌。後の周の文王)と九侯と顎侯は、殷の藩屏(はんぺい)たる三公だった。
 紂王は九侯を殺し、顎侯は殺して干し肉とし、周公昌は紂王によって羑里(ゆうり)の地に幽閉された。
 周公昌の臣下・散宜生は、美女と財宝を紂王に献上したので、紂王は周公昌を釈放した。
 天下の諸侯は紂王を見限り、周公昌の徳をしたった。
 周公昌が死去すると、息子の発(後の周の武王)があとをついだ。武王は、天下の諸侯を率いて殷を攻めた。周軍と殷軍の「牧野の戦い」で破れた紂王は、宝玉をつづりあわせた衣服をまとい 焼身自殺した。こうして殷王朝は滅びた。

○『論語』の言葉
殷に三仁あり――微子第十八
 微子去之、箕子爲之奴、比干諌而死。孔子曰「殷有三仁焉」。
 微子はこれを去り、箕子はこれが奴(ど)と為(な)り、比干(ひかん)は諌(いさ)めて死す。孔子曰く「殷に三仁あり」と。
 微子は国を去り、箕子は狂ったふりをして奴隷に身をやつし、比干は紂王を諌めて死んだ。孔子は「殷には三人の仁者がいる」と言った。

紂(ちゅう)の不善や、是(か)くの如くこれ甚(はなは)だしからざるなり――子張篇第十九
 子貢曰「紂之不善也、不如是之甚也。是以君子悪居下流、天下之悪皆帰焉」。
 子貢(しこう)が曰く「紂(ちゅう)の不善や、是(か)くの如くこれ甚(はなは)だしからざるなり。是(ここ)を以て君子は下流に居ることを悪(にく)む。天下の悪、皆、焉(これ)に帰す」と。
 子貢が言った。「紂王の不善は、史実では、説話ほどひどくはなかった。 (しかしいったん、暴君というレッテルを貼られてしまったため、 残虐な話がみな彼のしわざとされてしまったのだ)。それゆえ君子は、悪いほうにいることを嫌う。 天下の悪事が、あれもこれも彼のせいだ、と自分のせいにされてしまうからだ」。

○『孟子』尽心下の言葉
「悉く書を信ずれば則ち書無きに如かず」
 ことごとくしょをしんずればすなわちしょなきにしかず
 書物の内容をまるごとうのみにするくらいなら、いっそ、書物なんてないほうがましだ。批判や疑う精神が大切だ。
 ※漢文の原文の「書」は、書物という一般名詞ではなく、『書経』という本の書名だが、日本語のことわざでは一般的な書物の意味で使われる。
 孟子の原文の現代語訳。
 『書経』は儒家のバイブルだが、『書経』をまるごと鵜呑みにするくらいなら、いっそ、『書経』なんかないほうがましだ。 私(孟子)は『書経』の「武成篇」を 読んだが、見るべき内容はそのうちの二行か三行くらいだ。 仁の人は天下無敵だ。至仁の人が不仁を伐つ。(最高の仁者である周の武王が、最悪の不仁者である殷の紂王を討伐する。 それが、史上有名な「牧野の戦い」だ。 戦闘開始後、紂王の配下の軍隊はなだれをうつように武王側に寝返ったため、 死傷者が出るひまもまく、紂王は敗北した、というのが歴史の真相であるはずだ。それなのに『書経』武成篇には) 「戦場は、杵がプカプカ浮くほど血の海になった」と書いてあるが、そんな状況はありえない。

○史実の帝辛
 甲骨文が殷墟で発掘されたことで、20世紀に入って歴史の真実が知られるようになった。
 中国の学界では、帝辛の在位は紀元前1075年−前1046年とされたが、異説も多い。享年は不明だが、当時としては高齢だった可能性がある。
 甲骨文によれば、帝辛はそれまでの歴代の王と同様に熱心に祖先祭祀に努めた。また、 理由は不明だが、人身御供は帝辛から廃止された。
 帝辛は、殷の東の「人方」(東夷)という勢力の討伐に力を入れたが、その隙に背後から西の周に攻められて滅亡し、周人は 易姓革命を正当化するため帝辛を暴君として語り継いだ、という説がある。
 「紂王」は、帝辛が死んでからずっと後世につけられた諡号である。
 『逸周書・諡法解』では「悪諡(下諡)」として「蕩 ・ 丁 ・ 干 ・ 荒 ・ 惑 ・ 刺 ・ ・ 戻 ・ 霊 ・ 繆 ・ 携 ・ 虚 ・ 煬 ・ 隠 ・ 幽 ・ 願 ・ ・ 專 ・ 縦 ・ 醜」を挙げる。
 中国歴代の暴君・暗君のうち、「霊」や「幽」などは複数いるが、「紂」は紂王こと帝辛ただ1人である。

 
第3回 斉の桓公 中国史上最初の覇者

参考動画
https://www.youtube.com/playlist?list=PL6QLFvIY3e-kx5FhjQwjya4HMx-_eQ3To

○大辞泉より引用
かん‐こう〔クワン‐〕【桓公】
[?〜前643]中国、春秋時代の斉の君主。在位、前685〜前643年。姓は姜(きょう)。名は小白。 鮑叔牙(ほうしゅくが)の進言により管仲を登用して国力を充実させ、前651年、春秋五覇の第一となった。
○キーワード・ポイント
○斉の桓公の略歴

○漢文古典『管子』
 管仲の著書と伝えられるが、おそらくは後世の仮託(かたく)。
士農工商の四民は国の石民なり」
「倉廩(そうりん)満ちて礼節を知り、衣食足りて栄辱を知る」>日本語では「衣食足りて礼節を知る
「一年の計は穀を樹うるに 如しくは莫なし。終身の計は人を樹うるに如しくは莫なし。一樹一穫なる 者は穀なり。一樹百穫なる者は人なり」


第4回 唐の武則天 中国的「藩閥」政治の秘密

参考動画
https://www.youtube.com/playlist?list=PL6QLFvIY3e-kRvkGuXgHSno-xmU-c7u20
google 中国語の「武則天」画像検索結果 日本語の「則天武后」画像検索結果

○キーワード・ポイント
 武則天は、前半生は夫・高宗(第三代皇帝)と、後半生は新興勢力である科挙官僚と結んだ。 ○比較参考 近代日本
 明治時代・・・藩閥政治(薩長土肥)。短所は政府の私物化。長所は政府と民間、政府・軍の横の連携。
 大正・昭和(戦前)・・・議会政治、官僚政治。長所は開かれた政治。短所は縦割り行政による国政の迷走。

○彼女の名前は多い。生前から死後にかけて、さまざまな呼び方がある。
 天后 聖神皇帝 則天大聖皇帝 則天大聖皇后 大聖天后 天后聖帝 則天皇后 則天順聖皇后 ……
 昔は彼女が高宗の皇后として葬られたことを重視して「則天武后」と呼んだが、今は彼女が生前、帝位についたことを重視して「武則天」と呼ぶことが多い。

〇武則天が登場するまで。
★武則天は「中国の三大悪女」の二番目。
 彼女の前には、呂后を始め、多数の「悪女」が存在した。特に、
 は、武則天の先駆的な存在であった。

★貴族制から官僚制へ
 唐王朝は、明治時代の日本と似ていた。
 明治の日本は、旧京都系貴族、薩長土肥の藩閥貴族が国政の中枢を独占し、「高文」(高等文官試験。1894年開始)官僚の勢力や 政党政治家(1898年の「隈板内閣」が日本初の政党内閣)はまだ弱かった。
 大正時代に藩閥政治が消滅すると、戦前の日本は政府と軍部の対立、陸軍と海軍の対立、政党間の対立など縦割りによる迷走に悩まされた。
   中国史上、南北朝時代から唐の中期までは、貴族制の時代だった。
 西魏・北周・隋・唐の支配階層は、鮮卑(せんぴ)民族の色が濃厚な、いわゆる「武川鎮軍閥(ぶせんちんぐんばつ)」ないし「関隴集団(かんろうしゅうだん)」であった。
※関隴集団・・・函谷関(かんこくかん)の西側の地域「関中」すなわち現在の陝西省と、現在の甘粛省の東南部の「隴西」(ろうせい)を地盤とする集団。
※武川鎮・・・北魏の北方の辺境地帯に置かれた六つの「鎮」の一つ。
 北周の宇文泰、隋の楊堅、唐の李淵など各王朝の創始者は武川鎮軍閥の有力者だった。
 一方、官吏登用試験の科挙は、隋の時代から始まり、唐に受け継がれた。
 武則天の時代は、唐の前期であり、新興の科挙官僚と、旧来の貴族層である関隴集団が、政治の実権をめぐって暗闘を続けた。
 武則天は人材の登用につとめた。彼女が女帝になれた一因は、新興の科挙官僚など知識人層の支持を得たことにある。


〇武則天についてのあれこれ
★「売り家と唐様(からよう)で書く三代目」…中国の王朝も日本の幕府も、東洋の世襲政権の永続性は3代目で決まることが多い。唐の第三代皇帝は高宗(李治)と「嫁」の武后。日本の幕府の三代将軍は源実朝、足利義満、徳川家光。
★「年上の女房は金(かね)のわらじを履いてでも探せ」…武后は西暦624年2月17日生まれ、夫の高宗(李治)は628年7月21日生まれ。
★高宗と「百忍治家」…高宗が「九世代同居」の秘訣を問うと、張公芸は黙って紙に「忍」の字を百あまり書き、それを見た高宗は涙を流した、という挿話。
★武后と「無字碑」(乾陵無字碑)…高宗と武后の合奏墓の石碑には字が刻まれておらず、白紙のような状態のままである。その理由は謎である。
★武后と日本…武后の夫は「天皇」、武后は「天后」と自称した。「日本」号を最初に承認したのは武后だった。日本の貴族・粟田真人は大宝2年(702年)「遣唐使」として中国に出発した。当時は「武周」だった。日本にとっては663年の白村江の戦い以来初の本格的な使節派遣であった。武后は「日本」という新しい国号を承認し、が成立したことを唐に対して宣言するなど、様々な目的を持った使節であった。長安で皇帝に在位中だった晩年の武則天は粟田真人を「司膳員外郎」に任じた。唐人は粟田真人を「好く経史を読み、属文を解し、容止温雅なり」と評した。聖武天皇(在位724年-749年)と光明皇后、その娘の孝謙天皇は、武后の治世をかなり意識していた節がある。

〇辞書類からの引用
★そくてんぶこう【則天武后】 大辞林第三版 (624 〜 705) 中国、唐の高宗の皇后。姓は武。諡おくりなは則天大聖皇后。高宗の死後、中宗・睿宗えいそうを廃位させ、690年、国号を周(武周690〜705)と改め帝位につく。独裁政治を行なったが、人材を登用し治政に努めた。武后。武則天。

★そくてん‐ぶこう【則天武后】 デジタル大辞泉 [624〜705]中国、唐の高宗の皇后。中国史上唯一の女帝。在位690〜705。姓は武。名は曌(しょう 曌は「明」の下に「空」と書く一文字)。高宗の没後、子の中宗、弟の睿宗(えいそう)を廃立。唐の皇族・功臣らを滅ぼし、同族を重用、自ら帝位に就き、国号を周とした。クーデターで中宗が復位し、唐が再興したのち、病死。

★履歴

〇後世の評価
★芥川龍之介の随筆『侏儒の言葉』より
 武器それ自身は恐れるに足りない。恐れるのは武人の技倆である。正義それ自身も恐れるに足りない。恐れるのは煽動家の雄弁である。武后は人天を顧みず、冷然と正義を蹂躙した。しかし李敬業の乱に当り、駱賓王(らくひんのう)の檄を読んだ時には色を失うことを免れなかった。「一抔土未乾 六尺孤安在」の双句は天成のデマゴオクを待たない限り、発し得ない名言だったからである。
※「一抔(いっぽうの土、未だ乾かざるに、六尺(りくせき)の孤、安(いづ)くにか在る」。先帝(則天武后の夫であった高宗)が亡くなりその陵墓の土も乾いていないのに、幼帝はいまいずこにおわすのだろうか(則天武后の横暴によって廃位させられてしまったではないか)。

★趙翼(1727年-1812年)『二十二史箚記』巻十九新旧唐書より
【要旨】 武后が(皇帝になってから)美少年を寵愛することを、諫言役の朱敬則(635年−709年)がいさめたところ、武后は「さすがはそなた」と彩絹のボーナスを与えて度量を示した。男の皇帝は何千何百という妃をもつが、武后は「女主」として寵愛した異性は数名にすぎなかった。武后は人材登用に力を入れた。のちに、彼女の孫である玄宗皇帝の治世を支えた名臣たちの多くは、武后が抜擢した人物たちであった。(武后は批判されるべき点も多いが)女性の中の英主である、と言わざるを得ない。
cf.[中國哲學書電子化計劃・維基 -> 廿二史箚記 -> 卷十九新舊唐書]
 至朱敬則疏諫選美少年,則曰「陛下內寵有薛懷義、張易之、昌宗矣,近又聞尚食柳模自言其子良賓潔白美須眉,長史侯祥雲陽道壯偉,堪充宸內供奉。」桓彥範以昌宗為宋璟所劾,後不肯出昌宗付獄,彥範亦奏云「陛下以簪履恩久,不忍加刑。」此皆直揭後之燕暱嬖幸,可羞可恥,敵以下所難堪,而後不惟不罪之,反賜敬則彩百段,曰「非卿不聞此言。」而於璟、彥範亦終保護倚任。
 夫以懷義、易之等床第之間,何言不可中傷善類,而後迄不為所動搖,則其能別白人才,主持國是,有大過人者。其視懷義、易之等不過如面首之類。人主富有四海,妃嬪動至千百,後既身為女主,而所寵幸不過數人,固亦無足深怪。


第5回 清の乾隆帝 世界の富の三割を握った帝王

参考動画
https://www.youtube.com/playlist?list=PL6QLFvIY3e-m-FvXqJvvcWobucxRf5znk

○キーワード・ポイント
○乾隆帝 愛新覚羅弘暦
姓 愛新覚羅 あいしんかくら/アイシンギョロ
名 弘暦 こうれき/ホンリー
父親 雍正帝(世宗、憲皇帝、愛新覚羅胤禛)
母親 崇慶太后(孝聖憲皇后)
生年 1711年9月25日
即位 1735年10月8日
譲位 1796年2月9日
死没 1799年2月7日

○精選版『日本国語大辞典』より引用
けんりゅう‐てい【乾隆帝】
中国、清朝の第六代皇帝(在位一七三五‐九五)。諱(いみな)は弘暦。廟号は高宗。一〇回にわたる外征を行なって、インドシナ、台湾、チベットなどの地域を平定。文化面にも力を尽くし、「大清一統志」「四庫全書」をはじめ、数多くの編集事業をおこし、祖父康熙(こうき)帝とともに「康熙・乾隆時代」といわれる清朝の最隆盛期を現出した。晩年、政治の腐敗を招き、清朝の勢威は衰えた。(一七一一‐九九)

  1. 乾隆帝は当初、祖父・康熙帝の寛容と父・雍正帝の厳格の中道を採ると宣言した。
  2. 領土拡張に熱心だった。晩年、自分が10回出兵して全部成功した (自称)ことを誇り十全詩を詠じ、自ら「十全老人」と号した。清軍の遠征先はジュンガル、グルカ、金川(きんせん)へ2回ずつ、回部、台湾、ビルマ(ミャンマー)、ベトナム。客観的に見れば、成功とは言い難い戦争もあった。
  3. 中国北西部ではジュンガル部を壊滅させ、天山南・北路を確保した。チベットでは、ネパールのグルカ人に勝ってチベット支配を安定させた。ビルマとベトナムを朝貢国に加え、タイやラオスまで朝貢させた。現代中国人の「縄張り」意識は、乾隆帝の時代の清の勢力範囲が基準の一つとなっている。
  4. 香妃の伝説は有名だが、史実ではない。
     乾隆帝は乾隆25年(1760年)、回部の首長ホジ・ハンを攻め滅ぼした。 ホジ・ハンの妻「香妃」は絶世の美女で、乾隆帝は彼女を北京に呼んだが、 香妃は短剣を持ち乾隆帝を拒んだ。乾隆帝の母・崇慶太后は、乾隆帝の留守中に、香妃を自殺させた。
     この伝説は、浅田次郎の小説『蒼穹の昴』にも出てくる。
  5. 乾隆帝は旅行好きだった。その60年の治世の間に、南巡6回、西巡5回、東巡4回と全国巡幸を繰り返した。
  6. 中国のテレビドラマ「如懿伝〜紫禁城に散る宿命の王妃〜」(https://kandera.jp/sp/nyoi/)のヒロインのモデルは、乾隆帝の継皇后ナラ氏である。
    乾隆30年(1765年)の江南巡幸のとき、乾隆帝は突然、継皇后ナラ氏を北京に送り返した。 詳細は謎である。一説に、民の負担を憂えた皇后の諫言が、 乾隆帝の逆鱗に触れたともいう。 さすがの乾隆帝も臣下の猛反対で廃后はできなかった。 翌年、継皇后が亡くなったとき、葬儀を皇貴妃の格下で行うことで鬱憤を晴らした。
  7. チベット仏教に帰依した。以下、石濱裕美子『清朝とチベット仏教 菩薩王となった乾隆帝』の紹介文(作品概要) http://www.waseda-up.co.jp/newpub/post-558.htmlより引用。引用開始。
     清皇帝は,向き合う集団の文化体系に合わせてその時々に自らの姿を示した。儒教官僚を前にしては儒教思想の説く理想的な王,天子の姿をとり,チベットやモンゴルの仏教徒の前では大乗仏教が理想とする王,菩薩王の姿をとり,満洲人たちの前では八旗の長たるハーンとして君臨した。マルチリンガルな国際人が向き合う集団の言語に合わせて自分の使用する言語を切り替えるように,清皇帝は対する集団の性質に合わせて言語体系や文化的な振る舞いを切り替え,異文化と円滑に交流を行った。
     つまり,清皇帝を始めとする満洲人支配層は,満洲語,モンゴル語,漢語,チベット語を程度の差こそあれ理解し,中国文化人であると同時に,チベット仏教徒であり,狩猟に秀でた満洲武人であるという多面的な性格を有していたのである 。これは異文化を外なるもの野蛮なるものとして目下に設定する中国の王権とは対照的な性格である。
     引用終了
  8. 書画骨董を愛好する文化人でもあった。紫禁城(現在の故宮)は広大だが、乾隆帝の「三希堂」の面積は「三畳一間の小さな下宿」(有名な歌の歌詞の一部)くらいしかなく、日本の茶の湯のわびさびに通じるものがある。
    デジタル大辞泉より引用
    さん‐き【三希】
    中国、清朝の乾隆帝が愛蔵した4世紀東晋時代の三つの書。王羲之(おうぎし)の「快雪時晴帖」、王献之の「中秋帖」、王c(おうじゅん)の「伯遠帖」を指す。名称は、三書を得た乾隆帝が「希世の珍」と喜んだことから。
    [補説]「快雪時晴帖」は台北(タイペイ)の故宮博物院、「中秋帖」「伯遠帖」は北京(ペキン)の故宮博物院が所蔵。
    以下「東京国立博物館・1089ブログ・北京故宮博物院200選 研究員おすすめのみどころ(三希堂の日々)」より引用。
     三希堂というのは故宮、すなわち紫禁城(しきんじょう)のなかの養心殿(ようしんでん)という宮殿の片隅にある小部屋で、その広さは畳でいうと3畳ほどにすぎず、部屋の入口には前室(ぜんしつ)とよばれる4畳半くらいの通路がつながります。皇帝は、日常の政務に疲れると、この前室を通りぬけて三希堂に入ってくつろいだのでした。この書斎をつくった乾隆帝(けんりゅうてい)は、文武の才能にめぐまれた、中国史上でも抜群の権勢をほこった皇帝です。そのような大人物がこのような小部屋を好んだというのは、ちょっと意外でもあります。
  9. 清は善政をアピールするため、たびたび事実上の減税を行った。康熙帝の時代の盛世慈世人丁や、雍正帝の時代に全国に拡大した地丁銀制など。乾隆帝も、各省の輪番でその正賦を全免すること4回。そのほかたびたび税の減免を行った。
  10. 康熙帝・雍正帝・乾隆帝は、知識分子の懐柔のため、編集事業に力を入れた。康熙帝の『康熙字典』や、乾隆帝の『四庫全書』は特に有名である。
  11. 乾隆帝の時代には、政治の腐敗や弛緩も目立ち始めた。父・雍正帝と違い、乾隆帝は汚職に寛大だった。八旗漢軍で雲貴総督の李侍堯(りじぎょう)は収賄で弾劾されたが、乾隆帝は特赦を与えた。八旗満洲出身で軍機大臣の和?(わしん)は、乾隆帝に異常に気にいられ、収賄などで不正に蓄財した私財は清の国家歳入の十数年分に達した。
  12. 母親孝行であった。中国では十年ごとの誕生日は「大寿」として特に盛大に祝った。母である崇慶太后の誕生祝いのうち、乾隆16年(1751年)の六十寿、乾隆26年(1761年)の七十寿、乾隆36年(1771年)の八十寿を国家事業として行った。
  13. 乾隆帝は自身の大寿も国を挙げて祝った。乾隆35年(1770)は六十寿、乾隆45年(1780)は七十寿、乾隆55年(1790)は八十寿だった。
    京劇が誕生したきっかけは、安徽省の劇団が北京に呼ばれて八十寿のお祝い興行をしたことだった。
    英国のジョージ3世も八十寿を祝うという名目で、ジョージ・マカートニーらを使節団として派遣した。一行は1793年9月に熱河離宮で乾隆帝に謁見した。 当時は英国より清のほうが強大で、英国使節は朝貢使と見なされ三跪九叩頭の礼を要求されたうえ、英国側の貿易の要求は断られた。
  14. 乾隆帝は、中国史では珍しく、生前に息子の嘉慶(かけい)帝に譲位して太上皇帝となり、訓政(日本の「院政」にあたる)を行った。譲位した理由は、敬愛してやまぬ祖父・康煕帝の在位年数を超えぬためであった。
    第6回 周恩来 失脚知らずの不倒翁

    参考動画
    https://www.youtube.com/playlist?list=PL6QLFvIY3e-lISkNq6FCxDIu_XHH2rrum

    ○キーワード・ポイント
    Cf.司馬遼太郎の革命論 思想家→戦略家→技術者
    司馬遼太郎『花神』より引用。
     さて余談ながら、この小説は大変革期というか、革命期というか、 そういう時期に登場する「技術」とはどういう意味があるかということが、 主題のようなものである。
     大革命というものは、まず最初に思想家があらわれて非業の死をとげる。 日本では吉田松陰のようなものであろう。
     ついで戦略家の時代に入る。 日本では高杉晋作、西郷隆盛のような存在で これまた天寿をまっとうしない。
     三番目に登場するのが、技術者である。 この技術というのは科学技術であってもいいし、 法制技術、あるいは蔵六が後年担当したような 軍事技術であってもいい。
    ○略歴

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