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中国権力者列伝

最新の更新 2021年12月22日   最初の公開 2021年10月10日

(以下、朝日カルチャーセンター・新宿「中国権力者列伝」より自己引用。引用開始)
 古来、世界の権力者は、軍隊や治安組織などの「暴力装置」、宗教や学問を利用した「権威装置」、臣下や民衆の不満の暴発を防ぐ「安全装置」を力のよりどころにしてきました。 日本や西洋と違い、中国では21世紀の今も安全装置が未熟なままです。前3世紀の秦の始皇帝から現代の国家主席まで、中国の歴代の権力者は「騎虎(きこ)の勢い」状態です。 いったん虎(権力の比喩)にまたがって走り出したら、途中で止まれない。もし虎の背中から降りれば、たちまち自分が虎に食い殺される。 中国はなぜ、このような国となったのでしょう。 その理由と歴史的経緯を、豊富な図像を交えて、予備知識のないかたにもわかりやすく説き明かします。(講師・記)
参考 今までの講座
[「中国権力者列伝」第1シーズン] 2020年6月-9月
[「中国権力者列伝」第2シーズン] 2020年10月-12月
[「中国権力者列伝」第3シーズン] 2021年1月-3月
[「中国権力者列伝」第4シーズン] 2021年4月-6月
[「中国権力者列伝」第5シーズン] 2021年7月-9月

第2週・第4週 木曜 10:30〜12:00 朝日カルチャーセンター・新宿教室にて
  1. 2021/10/14 臥薪嘗胆の復讐王・勾践
  2. 2021/10/28 始皇帝をつくった男・呂不韋
  3. 2021/11/11 劉邦をささえた宰相・蕭何
  4. 2021/11/25 チンギス・カンの側近・耶律楚材
  5. 2021/ 12/09 大元帥になった国際人・孫文
  6. 2021/12/23 清と満洲国の末代皇帝・溥儀

臥薪嘗胆の復讐王・勾践
YouTube https://www.youtube.com/playlist?list=PL6QLFvIY3e-kFV5kEQoZYL434hRaauggz


Google 画像検索 [勾践] [勾踐(繁体字)]

○キーワード・故事成語・ことわざ
 古代中国の漢文古典では「越人」(えつひと、エツジン)は中国人あつかいされていなかったことに注意。
 参照 「中国の古代都市 越国の都・紹興(2021年10月2日 朝日カルチャーセンター・新宿教室)」
○辞書の説明
『デジタル大辞泉』からの引用
こうせん【勾践】
[?〜前465]中国、春秋時代の越の王。会稽山(かいけいざん)の戦いで呉王夫差(ふさ)に敗れたが、復讐を誓い、 忠臣范蠡(はんれい)と備えること20年、ついに呉を滅ぼした。→会稽(かいけい)の恥 →臥薪嘗胆(がしんしょうたん)

○略歴 ○その他

始皇帝をつくった男・呂不韋
YouTube https://www.youtube.com/playlist?list=PL6QLFvIY3e-lMmmGn31U2fhOf4MRV0ckx
○キーワード
○辞書の説明
『精選版 日本国語大辞典』より引用。引用開始。
りょ‐ふい ‥フヰ【呂不韋】
中国戦国末の商人で秦の宰相。趙の人質となっていた秦の荘襄王を庇護、のちにその擁立の功によって丞相となり、始皇帝に仲父と尊称されたが、密通事件に連座して失脚、自殺した。学者を優遇し、諸説を折衷して「呂氏春秋」を編纂。俗説では始皇帝の実父とされる。紀元前二三五年没。
引用終了

○ことわざや故事成語
○略歴
○司馬遷『史記』巻二十五・呂不韋列伝より
  1. 呂不韋は韓の陽翟出身の大商人である。各地を渡り歩いて商売し、巨万の富を築いた。
  2. 秦の昭王の四十年(前267年)、太子が亡くなった。
    四十二年、秦の昭王は太子が亡くなったため、二男の安国君(後の孝文王。前302-前250)を太子とした。
  3. 安国君に二十人あまりも息子がいた。彼は、自分が最も寵愛した華陽夫人を「正夫人」とした。しかし彼女には男子が生まれなかった。
  4. 安国君の息子のなかに、子楚(後の荘襄王。前281-前247)という名の男子がいた。
    子楚の生母はの名は夏姫だったが、寵愛を受けなかった。子楚は、趙に人質に出された。秦は何度も趙を攻めた。趙は子楚をあまり礼遇しなかった。子楚は、秦王の多数の庶子の一人にすぎず、おまけに諸侯に人質に出された身で、車馬や金回りにも不自由していた。
  5. 呂不韋が邯鄲で商売をしていたとき、子楚の様子を見て同情し、
    「この奇貨、居くべし(此奇貨可居)」
    と言い、彼を訪問した。
    「私なら、あなた様のご門を立派にしてさしあげることができます」
    子楚は笑って
    「まず、ご自分の門を立派にしてから、私の門を大きくしてください」
    「実を申しますと、私の門が立派になるかどうかは、あなた様のご門しだいなのです」
    子楚は呂不韋の言いたいことを悟った。二人は奥で座り、深く語り合った。
  6. 呂不韋は言った。
    「あなた様のおじいさま、つまり秦王さまは老いました。お父君の安国君が太子におなりですね。漏れ聞くところによると、お父君は華陽夫人(?-前230)を寵愛され、その華陽夫人にはお子がないとのこと。お世継ぎを立てることができるのは、華陽夫人だけです。今、あなた様のご兄弟は二十人余りもいらっしゃる。失礼ながら、あなた様は、そのなかの中くらいの地位にあり、あまり愛されず、諸侯に人質に出されっぱなしです。もし、大王が薨去され、お父君が王となられた場合には、あなた様のご兄弟のあいだで後継者争いが起きるでしょう。あなた様は不利です。ずっと外国においでです。ご長兄をはじめ、あなた様のご兄弟は、朝も晩もずっとお父様の身近にいらっしゃる。太子の地位を争うのは、無理でしょうな」
  7. 子楚が「いかにも。では、どうしたら良いか」と言うと、
  8. 呂不韋は「あなた様はお金がない。客分として外国にいらっしゃる。これでは、親御様が喜ぶ品物をご実家に贈ることも、有力者と交遊を結ぶこともできないでしょう。私、呂不韋めは貧乏商人でございますが、あなた様の将来に賭けて、千金を投資いたします。私はあなた様のために西に赴き、安国君と華陽夫人に運動して、あなた様をお世継ぎにするよう働きかけます」
  9. 子楚は頓首(とんしゅ)して「あなたの計画が成功したら、秦国を分けて共有しましょう」と言った。
  10. 呂不韋は五百金を子楚に与え、交際費にさせた。さらに五百金で珍奇な品物を買い入れ、西の秦国に行った。人脈をたどってまず華陽夫人の姉に会い、彼女を通じて持参の品を華陽夫人に贈った。そのうえで華陽夫人にふきこんだ。
  11. 「子楚さまは賢いかたです。天下の諸侯の賓客と広く交際なさっています。自分はいつも夫人を天のようにお慕い申し上げている、と、太子さまとあなた様のことを思って、趙の都で泣いておられます」
    華陽夫人は喜んだ。
  12. 呂不韋は、華陽夫人の姉の口からも、このように言わせた。
    「容色で人に仕える者は、容色が衰えると寵愛も減る、と言います。あなたは太子にお仕えして、今はよいけれど、お子が生まれていません。ぜひ、まだ寵愛がさめぬうちに、太子のお子たちの中から賢くて心が良い人を選び、ご自分の養子になさいませ。夫が亡くなった後も、自分の養子が世継ぎとして王となれば、あなたの地位は安泰です。子楚さまが最適ですよ。賢いかたですが、あなたの夫のお子たちの中での序列は中くらいだし、ご生母も愛されてないので、自力で世継ぎになるのは絶望的です。どうです。あなたの力で、子楚さまを秦の世継ぎにしてさしあげてみては。さすれば、あなたの老後も安泰です」
     華陽夫人は同意した。
  13. 夫人は、夫の安国君に泣きながら訴えた。
    「私は今は幸せです。あなたに愛されておりますから。でも将来が不安です。わが子がいないからです。もしお許しを頂けるのなら、子楚さまを私の養子にお迎えしたい。そのうえで子楚さまをお世継ぎにしてくだされば、私も老後の心配をせずにすみます」 
  14. 安国君は、寵愛する華陽夫人の懇願を聞き入れた。彼は、玉製の割符を刻んで夫人に与え、約束の証拠とした。安国君と華陽夫人は、呂不韋を子楚の傅(お守り役。後見人)とした。
    子楚が太子の後継者、つまり次の次の秦国王の予定者となったことで、諸侯の子楚を見る目は一気に変わった。
  15. 呂不韋は、邯鄲の舞姫を身請けして囲っていた。舞姫は妊娠した。
    ある日、子楚が呂不韋の家で酒酒をご馳走になった時、その舞姫を見て気にいり、
    「譲ってもらえまいか」
    と言った。呂不韋は腹を立てたが、すでに子楚に賭けて全財産を投資していることを思いだし、その舞姫を差し出した。彼女はすでに妊娠していることを隠し抜き、十二ヶ月後に政(後の始皇帝)を生んだ。子楚は、舞姫あがりのその女性を正夫人に立てた。
  16. 秦の昭王の五十年(前257年)、秦軍が趙に侵攻し、首都・邯鄲を包囲した。
    趙は人質の子楚を殺すことにした。
    呂不韋は六百斤もの黄金を監視の役人にばらまいて買収し、脱走に成功し、秦軍の陣地にたどりついた。こうして帰国することができたのである。
  17. 次に趙は子楚の妻子を殺そうとした。子楚の夫人は趙の豪家の娘だったので、母子ともに隠れおおせることができた。
  18. 秦の昭王の五十六年(前251年)、昭王が死去した。
    太子の安国君が新たな秦王となった。華陽夫人は王后に、子楚は太子になった。
    趙も、さすがに太子となった子楚の夫人と子を殺すのはまずいと考え、母子を秦に送り返した。
  19. 秦王は在位わずか一年で死去し、孝文王と諡(おくりな)された。太子の子楚が王となった。荘襄王がこれである。
    荘襄王は、養母を華陽太后とし、実母を夏太后とした。
  20. 呂不韋の投資は大成功だった。彼は荘襄王の元年、秦の丞相となり、文信侯に封じられ、河南洛陽の十万戸を所領として与えられた。
  21. 荘襄王も短命で、即位三年で亡くなった。太子の政が秦王になった。呂不韋を尊んで相国とし、「仲父」(ちゅうほ。父に次ぐ人)と呼んだ。
  22. 秦王・政はまだ年少であった。政の太后は、もともと呂不韋に囲われた舞姫だったが、ひそかによりを戻して呂不韋と私通した。
    呂不韋の権勢は召使を一万人かかえるほどになっていた。
  23. さて、当時、天下に名の通った有力者は、食客を抱えるのがトレンドだった。魏に信陵君、楚に春申君、趙に平原君、斉に孟嘗君がいた。彼らは、士に対してへりくだり、賓客を集めることを競い合った。
  24. 呂不韋は、秦は強大なのに食客集めという点で負けていることを恥じた。呂不韋もまた、士を招いて厚遇したので、抱える食客三千人にも至った。
  25. この時代、諸侯の国には弁士が多かった。荀子(じゅんし)こと荀卿の著書は天下に広まっていた。
    呂不韋は、食客にそれぞれ自分が見聞したことを書かせ、編集して八覧・六論・十二紀など二十余万字からなる大著を作り、天地・万物・古今のことを網羅していると称し、書名を『呂氏春秋』とした。
    完成した『呂氏春秋』は、秦の都・咸陽(かんよう)の市場の門に並べられた。千金を懸賞金としてこの書物の列の上に懸け、諸侯の国の遊士・賓客に向かって「一字でも増減できる人がいれば千金をさしあげよう」と豪語した。
  26. 子どもだった秦王政は、だんだん大人になった。それでも太后の淫乱はやまなかった。
    呂不韋は、自分と太后の不倫が秦王にばれることを恐れて、密かに嫪毐(ろうあい)という男を見つけ出し、自分の舎人とした。(以下、原漢文「乃私求大陰人嫪毐以為舍人、時縦倡楽、使毐以其陰関桐輪而行」。一部、不訳)。嫪毐の存在を噂で聞きつけた太后は、果たして興味を持った。
  27. 呂不韋は、世間と秦王政の目をごまかすための偽装工作をした。
    「嫪毐は、腐刑(去勢の刑)にあたる罪を犯した」
    という告訴事件をでっちあげたうえで、呂不韋は太后に言った。
    「嫪毐を腐刑の受刑者だと偽れば、おそばに仕えさせられます」
    太后は、腐刑の役人に賄賂を渡し、腐刑の判決を偽造させ、嫪毐のひげや眉を抜いて宦者にしたてあげた。
  28. こうして太后は嫪毐を身近に置き、密かな関係を楽しんだ。
    やがて太后は妊娠した。
    太后は醜聞の発覚を恐れた。嘘の占いを行い、咸陽の宮殿を出て、少し離れた雍(よう)の地に住んだ。
    嫪毐は太后にべったりと付きしたがい、厚い賞賜を受け、決済を全て任された。嫪毐の家の召使は数千人にのぼり、仕官を求めて嫪毐の舎人になった者は千余人もいた。
  29. 始皇の七年(前240年)、荘襄王の生母である夏太后が薨じた。孝文王の后である華陽太后は、孝文王と共に寿陵の地に合葬されていた。夏太后の子である荘襄王は止陽の地に葬られていた。それ故に、夏太后は別に単独で杜の東の地に葬られた。夏太后は生前「東にわが子を望み、西に吾が夫を望む。百年後には、近傍に一万戸の邑ができるはずです」と言っていた。
  30. 始皇の九年(前238年)、とうとう醜聞が露見した。告発者があらわれたのである。嫪毐は実は宦者ではなく、ずっと太后と秘密の関係にあること。すでに子どもが二人も生まれているが、事実を全て隠匿していること。太后と嫪毐は、秦王政が亡くなったら自分たちの隠し子を世継ぎにしよう、と申しあわせていること、などが告発された。
  31. 秦王政は役人に調査させた。相国の呂不韋がぐるになっていたこともわかった。
  32. 追いつめられた嫪毐は、太后の印璽を使って兵を集めて反乱を起こしたが、すぐに鎮圧され、殺された。
  33. 九月、嫪毐の三族は皆殺しになった。太后が生んだ二人の子も殺された。太后は雍に遷された。嫪毐の舎人は全員その家産を没収され、蜀(四川省)へ流された。
  34. 秦王政は、相国の呂不韋をも誅殺したいと思った。が、先代の王に尽くした功績は大きく、賓客・弁士で相国の弁護をする者が多かったので、法にかけて処刑することができなかった。
  35. 秦王は十年十月に、相国・呂不韋を罷免した。斉人の茅焦の意見をいれ、太后を雍から迎えて咸陽に復帰させた。そして文信侯に戻った呂不韋を都から河南へと赴かせた。
  36. 呂不韋は失脚後も、依然として危険人物だった。一年たっても、文信侯の居所への道路では、謁見を請う諸侯の賓客や使者の往来が絶えなかった。
    秦王は謀反を恐れて、文信王に次のように書き送った。
    「あなたには、河南に封じられ十万戸の食邑を与えられるほどの功労があったのか。あなたには、仲父と呼んでもらえるほどの血のつながりがあるのか。自分の家属とともに蜀に移りなさい」
     呂不韋は将来を悲観した。自分は今後、ますます権勢を剥がれ、最後は誅殺されるだろう。そう考えた彼は、酖毒を飲み自殺した。
    秦王政は、呂不韋も嫪毐も死んだので、残りの者は赦免した。嫪毐の舎人で蜀に流された者は咸陽に復帰した。始皇の十九年(前228年)、太后が薨じた。帝太后と諡し、荘襄王の陵墓に合葬した。
○その他


劉邦をささえた宰相・蕭何
YouTube https://www.youtube.com/playlist?list=PL6QLFvIY3e-mczp8VxQIhXwjgMBrwceq_
○キーワード、ポイント ○辞書の説明
  • 『精選版 日本国語大辞典』より引用(引用開始) しょう‐か セウ‥【蕭何】
    中国、前漢の政治家。諡(おくりな)は文終。沛の豊邑(江蘇省豊県)の人。高祖劉邦第一の功臣で、丞相から相国となり、秦の法律・制度・文物の取捨吸収に努め、漢王朝経営の基礎を作った。律九章を作ったといわれる。(引用終了)
  • 『世界大百科事典 第2版』より引用(引用開始) しょうか【蕭何 Xiāo Hé】
     ?‐前193
     中国,漢の高祖(劉邦)の功臣。沛(はい)(現,江蘇省沛県)の人。法令に通じて沛県の下級官吏となるが,早くから無名の劉邦の擁護者であった。劉邦が興起して沛公となると従軍して庶務を担当し, 咸陽入城のときは,まっさきに秦の宮室にはいって律令図書の類を押収し,ために劉邦は土地の険要,戸口の多少,人民の疾苦する原因など天下の情勢を詳細に知ることができたといわれる。 劉邦が漢王となると丞相に任ぜられ,韓信を大将軍に推挙したり,また項羽と対決した楚漢の戦では,関中にとどまって経営し,兵糧や兵士の補給に努めて功績があった。(引用終了)

    ○略歴 ○その他
    ★吉川英治『三国志』臣道の巻」より引用。後漢の献帝と、董承(献帝の側室である董貴人の父親)の会話。
    「今、御身の説かれたような先祖をもちながら、子孫には、朕のごとき懦弱(だじゃく)なものが生れたかと思うて、朕は朕の身をかなしむのである。……国舅(こっきゅう)、さらに説いて、朕に訓(おし)えよ。してまた、その高祖皇帝の画像の両側に立っている者は、どういう人物であるか」
    (中略)
     董承は謹んで答えた。
    「上は張良。下は蕭何であります」
    「うム。して張良、蕭何のふたりは、どういう功に依って、高祖のかたわらに立つか」
    「張良は、籌(はかりごと)を帷幄(いあく)の中にめぐらして、勝ちを千里の外に決し、蕭何は国家の法をたてて、百姓をなずけ、治安を重くし、よく境防を守り固めました。高祖もつねにその徳を称せられ、高祖のおわすところ必ず二者侍立しておりましたとか。――ゆえに後代ふたりを以て建業の二功臣とあがめ、高祖皇帝を画けば、必ずその左右に、張良、蕭何の二忠臣を書くこととなったものでありましょう」
    「なるほど、二臣のような者こそ、真に、社稷(しゃしょく)の臣というのであろうな」
    「……はっ」
     董承は、ひれ伏していたが、頭上に帝の嘆息を聞いて、何か、責められているような心地に打たれていた。

    ★ジャーナリストの池上彰氏は、1973年4月1日、NHKに記者として入局。「初任地は小さな町で」「通信部への転勤」と自ら希望し、松江放送局や広島放送局呉通信部(現、呉支局)で勤務。  地方都市では記者が少なく一人あたりの担当が多く、 自然と警察や検察、裁判所、地方行政を実地で学ぶことができ、日本国全体の仕組みを「ミニ国家」としての地方から学んだ。
     漢という大帝国のいしずえを築いた大政治家の蕭何も、沛県という「ミニ国家」で国家の経綸を学んだ。

     
    チンギス・カンの側近・耶律楚材
    YouTube https://www.youtube.com/playlist?list=PL6QLFvIY3e-nhy7z1dq9c8lHAGeUexWGF
    中国の歴史ドラマ『成吉思汗 第21集』(2000年)耶律楚材が初めてチンギス・カンと会う場面は36分52秒目から。
    https://youtu.be/OrV36IzeCjw?t=1312

    ○キーワード cf.安岡正篤『蒙古の大宰相 哲人耶律楚材』(金鶏学院、人物研究叢刊 第6、昭和4年)「はしがき」「耶律楚材は私が青年時代に最も志気を涵養し、 依つて以て儒や禅に対する研究を深うすることの出来た大恩人の一人である。」

    ○辞書の説明
    デジタル大辞泉より引用。
    やりつ‐そざい【耶律楚材】
    [1190−1244]モンゴル帝国初期の功臣。字(あざな)は晋卿(しんけい)。諡(おくりな)は文正。契丹族に属し、遼(りょう)の王族の子孫。金に仕えたが、チンギス=ハンに降って政治顧問となり、オゴタイ=ハンに信任されて中書令となり、行政制度・税制などの基礎を確立。文集「湛然居士集」、見聞記「西遊録」。

    日本大百科全書(ニッポニカ)より引用
    耶律楚材 やりつそざい(1190―1244)
    モンゴル帝国初期の功臣。字(あざな)は晋卿(しんけい)、諡(おくりな)は文正、号は湛然居士(たんぜんこじ)。耶律氏は遼(りょう)の王族の出身で代々金(きん)に仕えた。楚材は天文、地理、数学、医学、儒教、仏教、道教に通じていた。1215年モンゴル軍が燕京(えんけい)(北京(ペキン))を占領したときチンギス・ハンに降(くだ)ってその政治顧問となり、西域(せいいき)遠征に従った。オゴタイの即位に尽力し、中書令として重用された。金の滅亡後(1234)、華北の土地に適した政策を実施し、軍政と民政とを分離して軍官が民政に干渉せぬようにし、また、税制を整備して帝国の経済的基礎を確立したが、オゴタイ・ハンの死(1241)後は左遷された。詩人、文人としても優れ、文集『湛然居士集』、西域遠征に従った際の見聞記『西遊録』がある。楚材の子の鋳(ちゅう)(1221―85)も世祖フビライに仕えて高官となり、とくに詩人として有名である。[護 雅夫]
    ○略歴 ○その他
    ★陳舜臣(ちん しゅんしん、1924年2月18日- 2015年1月21日)『耶律楚材』より引用
    彼は失脚したあと死んだとしるす文献もあるが、『元史』耶律楚材伝には、
       ――甲辰(一二四四年)夏五月、位に于て薨ず。年五十五。
    と、在職のまま死んだことになっている。
    この作品で利用した資料は、楚材の著作をはじめ、すべて漢文の文献である。モンゴル史は、漢文だけでなく、ペルシア文献も参照すべきであるが、不思議なことに、ジュワイニーやラシードなどのペルシア文献には、耶律楚材の名はまったくでてこない。なかには、彼はそれほど重要な人物ではなかったと推測する人もいる。だが、彼の詩文を読んでも、たとえば息子の鋳が15歳になったときに与えた詩に、「忝なくも位は人臣を極め」とあるように、彼がモンゴル政権の中枢にいたことはたしかである。おもうに彼の努力は、儒仏に根づいた文明と人命を、大破壊から守ることに集中されていて、戦争が上手であったのでもなく、税収の成績をあげたのでもない。イスラム史家の立場からみれば、楚材にはしるすに足る業績がなかったことになる。
    ★評価についての諸説 ★中国での伝統的な評価の例
    正史『新元史』より引用。
     史臣曰「蒙古初入中原、政無紀綱、遺民惵惵不保旦夕。耶律楚材以民愛物之心、為直尋枉尺之計、委贄仇邦、行其所学、卒使中原百姓不至踐刈於戎狄、皆夫人之力也。伝所謂、自貶損以行権者、楚材其庶幾歟。」
    モンゴルが初めて中原に侵入したとき、政治は無秩序状態で、中国の王朝の遺民は惵惵(ちょうちょう)と恐怖し、朝夕まで生きられるかどうかもわからぬ惨状にあった。このとき耶律楚材は、民をいつくしむ心をもって、 枉尺直尋(おうせきちょくじん。小さな犠牲で大きな利益を得ること)の計をおこなうため、あえて旧敵国であるモンゴルに仕官し、自分の学識を実践したのである。 そのおかげで、中原の人民は戎狄(じゅうてき)によって虐殺されることを免れた。すべては、かの人のおかげである。 『春秋公羊伝』桓公十一年にしるす名言「行権有道、自貶損以行権、不害人以行権」(権を行うに道あり。自ら貶損して以て権を行う。人を害さずして以て権を行う)にあてはまる理想の政治家に、耶律楚材は近いと言えようか。



    大元帥になった国際人・孫文
    YouTube https://www.youtube.com/playlist?list=PL6QLFvIY3e-ke3FJJuL5Sl68YOY0TpYL3

    ○キーワード ○孫文の呼び方
     日本人は「孫文」と呼ぶが、中国人は敬意をこめて号で「孫中山」と呼ぶ。

    ○精選版『日本国語大辞典』より引用
    そん‐ぶん【孫文】
    中国の政治家。字(あざな)は逸仙(いっせん)。号は中山。広東省出身。ハワイ、香港、ヨーロッパに留学。滞欧中「三民主義」を唱え、一九〇五年東京で中国革命同盟会総理となる。辛亥革命で臨時大総統に推されたが、袁世凱に政権を譲り、第二革命で日本に亡命して中華革命党を組織。一九一九年これを中国国民党に改称、三民主義を中心思想として革命を推進した。(一八六六‐一九二五)

    ○身近な孫文の名ごり
    ○孫文が登場する小説
     陳舜臣『孫文』上下(新潮文庫) 解説・加藤徹
     一八九五年、下関における日清講和条約の調印。清朝打倒を決意した孫文は、同志とともに広州で最初の武装蜂起を企てる…。「大同社会」の実現を目指して、世界を翔る若き革命家の軌跡。膨大な資料から真実を読み取り、最後まであきらめなかった姿勢と無私の精神にあふれた孫文の実像が甦る歴史小説の神髄。『青山一髪』を改題、待望の文庫化。

    ○孫文の略年表

    ○評価
     肯定的評価と否定的評価の両面がある。
     台湾の国民党と、中国本土の中国共産党の双方にとって、孫文は今も「国父」である。
    「孫文の継承者は国民党」 台湾・洪氏、習氏発言に反論 日本経済新聞 2016年11月12日 22:57
    https://www.nikkei.com/article/DGXLASGM12H4Q_S6A111C1000000/ 2021年12月8日閲覧
    【台北=共同】台湾の国民党の洪秀柱主席は12日、中国の習近平国家主席が清朝を倒した辛亥革命を主導した孫文生誕150年を記念した演説で「中国共産党が孫文の最も忠実な継承者だ」と発言したことについて「真正な継承者は当然、国民党だ」と反論した。
     孫文の功績をたたえたいが、孫文が鼓吹した「三民主義」は21世紀の中国の政治体制とそぐわない部分が多い。
     cf.中国で再放送禁止となったテレビドラマ『走向共和』2003年の、孫文の演説を再現したシーン。
    https://youtu.be/--8rfp3CLtA

    ○その他
    ・孫文が「革命家」を名乗ったきっかけは日本の新聞記事だった
    以下、NHKテレビ「知るを楽しむ 歴史に好奇心」のテキスト(2007)のp.76-p.79から自己引用。 哲学と革命
     なぜ近代の中国人は、自分たちで考案した新漢語を捨てて、日本漢語を使うようになったのか。日清戦争で日本が中国に勝利したあと、大量の中国人留学生が日本にわたって勉学し、日本語の翻訳書を通じて西洋の学芸を学ぶようになったことも、理由の一つでしょう。ただ、より大きな理由として、日本人が考案した新漢語にはセンスがすぐれたものが多く、中国人にもすんなり受け入れられた、ということがあげられます。
     西洋の知の根幹をなす「フィロソフィー」という学問は、「知」(ソフィー)を「愛する(フィロ)」という意味です。日本人は、これを「哲学」と訳しました。
     明治の末、日本の学者・小柳司気太は中国(当時は清)に渡り、学者で書家としても有名な兪樾(一八二一ー一九〇六)に会いました。 小柳は帰国後、哲学雑誌に「兪曲園の哲学」という論文をのせ、彼の学説を紹介しました(曲園は、兪樾の号)。それを見た兪樾はビックリして、次のような漢詩を作りました。

    挙世人人談哲学世を挙げて 人人 哲学を談ず
    愧我迂疏未研榷愧ず 我が迂疏にして 未だ研榷せざりしを
    誰知我即哲学家誰か知らん 我も即ち哲学家
    東人有言我始覚東人 言有りて 我 始めて覚る

     大意は──近頃の世の中では、誰もが「哲学」という学問を談じている。恥ずかしいことに、私は時流にうとく、「哲学」とは何か、よく知らなかった。ところがなんと、私自身も哲学者なのだった。日本人の言葉によって、私は始めてそれを知った。
     近代の中国人にとって、日本漢語は、自分たちを見つめ直す「鏡」になったのです。
     「中国革命の父」孫文(一八六六ー一九二五)にも、同じような逸話があります。
     一八九五年、清朝打倒をめざして活動していた孫文は、広東での蜂起に失敗し、「広島丸」という船で日本に逃げました。神戸に上陸して日本の新聞を見ると、カナ文字はわからなかったものの、漢字の「支那革命党孫文日本に来たる」という見出しが、孫文の目に飛び込んできました。「革命」という日本漢語を見て、孫文は、衝撃を受けました。
     もともと中国の漢文では、「革命」という語は、「易姓革命」の意味でした。ある王朝が倒れ、前の皇帝とは別の姓をもつ英雄が「天命」を受けて、新王朝を創始すること。伝統的な中国の「革命」は、王朝の交替を指す言葉にすぎませんでした。
     しかし日本漢語の「革命」は、レボルーションの訳語でした。社会体制を根底から変える、という新しい意味がありました。「革命」という日本漢語から霊感を得た孫文は、興奮して、同志の陳少白にこう語りました。
    「日人称吾党為革命党、意義甚佳。吾党以後即称革命党可也」(日人、吾が党を称して「革命党」と為す。意義、甚だ佳なり。吾が党は以後、即ち「革命党」と称して可なり)
     日本人から「革命家」と呼ばれたことは、孫文は、自分たちの使命をより明確に自覚しました。これ以後、中国語でも「革命」は日本語と同じ意味で使うようになりました。
    ・孫文を理解する補助線として比較すべき人物
    清と満洲国の末代皇帝・溥儀
    YouTube https://www.youtube.com/playlist?list=PL6QLFvIY3e-kZUw2vxonT6vN4tPgZZIUo
    ○キーワード
     愛新覚羅溥儀(あいしんかくら・ふぎ)。
     清の宣統帝。満洲国の康徳帝。21世紀になってから廟号「恭宗」、諡号「愍皇帝」を追贈された。
     通称「末代皇帝」「ラストエンペラー」と呼ばれることもある。

    ○辞書の説明
    ★デジタル大辞泉より引用。引用開始。
    せんとう‐てい【宣統帝】
    [1906−1967]中国、清朝最後(第12代)の皇帝。在位1908−1912。名は溥儀(ふぎ)。 辛亥(しんがい)革命で退位。満州事変後の1934年、日本に擁立されて満州国皇帝となり、康徳帝と称した。 第二次大戦後ソビエトに抑留され、東京裁判に証人として出廷。のち、中華人民共和国に保護された。(引用終了)

    ★精選版 日本国語大辞典より引用。引用開始。
    せんとう‐てい【宣統帝】
     中国、清朝最後(第一二代)の皇帝(在位一九〇八‐一二)。姓は愛新覚羅。名は溥儀(ふぎ)。光緒帝の弟載澧の子。三歳で即位、辛亥革命により退位。一九三二年日本軍部に擁立されて満州国執政となり、康徳帝(在位一九三四‐四五)となる。第二次世界大戦後、戦犯として収監されたが、のち釈放。(一九〇六‐六七)。(引用終了)

    ○略歴 ○その他

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