越王句践破呉帰。義士還家尽錦衣。宮女如花満春殿、只今惟有鷓鴣飛。 越王勾践 呉を破って帰る 義士 家に還りて 尽く錦衣す 宮女 花の如く 春殿に満つ 只今惟 鷓鴣の飛ぶ有り |
「今、御身の説かれたような先祖をもちながら、子孫には、朕のごとき懦弱(だじゃく)なものが生れたかと思うて、朕は朕の身をかなしむのである。……国舅(こっきゅう)、さらに説いて、朕に訓(おし)えよ。してまた、その高祖皇帝の画像の両側に立っている者は、どういう人物であるか」 (中略) 董承は謹んで答えた。 「上は張良。下は蕭何であります」 「うム。して張良、蕭何のふたりは、どういう功に依って、高祖のかたわらに立つか」 「張良は、籌(はかりごと)を帷幄(いあく)の中にめぐらして、勝ちを千里の外に決し、蕭何は国家の法をたてて、百姓をなずけ、治安を重くし、よく境防を守り固めました。高祖もつねにその徳を称せられ、高祖のおわすところ必ず二者侍立しておりましたとか。――ゆえに後代ふたりを以て建業の二功臣とあがめ、高祖皇帝を画けば、必ずその左右に、張良、蕭何の二忠臣を書くこととなったものでありましょう」 「なるほど、二臣のような者こそ、真に、社稷(しゃしょく)の臣というのであろうな」 「……はっ」 董承は、ひれ伏していたが、頭上に帝の嘆息を聞いて、何か、責められているような心地に打たれていた。 |
やりつ‐そざい【耶律楚材】
[1190−1244]モンゴル帝国初期の功臣。字(あざな)は晋卿(しんけい)。諡(おくりな)は文正。契丹族に属し、遼(りょう)の王族の子孫。金に仕えたが、チンギス=ハンに降って政治顧問となり、オゴタイ=ハンに信任されて中書令となり、行政制度・税制などの基礎を確立。文集「湛然居士集」、見聞記「西遊録」。
耶律楚材 やりつそざい(1190―1244)○略歴
モンゴル帝国初期の功臣。字(あざな)は晋卿(しんけい)、諡(おくりな)は文正、号は湛然居士(たんぜんこじ)。耶律氏は遼(りょう)の王族の出身で代々金(きん)に仕えた。楚材は天文、地理、数学、医学、儒教、仏教、道教に通じていた。1215年モンゴル軍が燕京(えんけい)(北京(ペキン))を占領したときチンギス・ハンに降(くだ)ってその政治顧問となり、西域(せいいき)遠征に従った。オゴタイの即位に尽力し、中書令として重用された。金の滅亡後(1234)、華北の土地に適した政策を実施し、軍政と民政とを分離して軍官が民政に干渉せぬようにし、また、税制を整備して帝国の経済的基礎を確立したが、オゴタイ・ハンの死(1241)後は左遷された。詩人、文人としても優れ、文集『湛然居士集』、西域遠征に従った際の見聞記『西遊録』がある。楚材の子の鋳(ちゅう)(1221―85)も世祖フビライに仕えて高官となり、とくに詩人として有名である。[護 雅夫]
チンギスは金の首都を平定したあと、耶律楚材の令名を聞き、召し出した。楚材は身長が八尺もあり(宋元時代の1尺は31.2cm)、 髭は美しく声もよく通った。チンギスは、彼を偉丈夫と認めて言った。「遼と金は歴代の仇どうしだった。私はおまえのかわりに金を滅ぼし、 仇をうってやったのだ」。楚材は答えた。「臣の父祖はずっと金に仕えてきました。金の臣下となったからには、 主君を仇と思う気持ちはありません」。チンギスは彼の言葉に感心し、自分の左右に置くことにした。 楚材に「吾図撒合里」(ウト・サカル)と呼び、彼の本名を呼び捨てにする無礼を避けた。けだし、長い髯の人、という意味である。楚材はハーンの側近となり、中国語担当の書記官(ビチクチ)となった。
丘長春は道教のリーダーであり、耶律楚材とはウマが合わなかった。楚材の自著『耶律楚材西遊録』(日本語訳は筑摩書房『世界ノンフィクション全集19』昭和36年など)には、丘長春に対する罵詈雑言が並び、漢文史書での楚材のイメージと大きく異なる。井上靖の小説『蒼き狼』にも、耶律楚材がチンギス・カンに対して丘長春への不満を述べるシーンがある。
彼は失脚したあと死んだとしるす文献もあるが、『元史』耶律楚材伝には、
――甲辰(一二四四年)夏五月、位に于て薨ず。年五十五。
と、在職のまま死んだことになっている。
この作品で利用した資料は、楚材の著作をはじめ、すべて漢文の文献である。モンゴル史は、漢文だけでなく、ペルシア文献も参照すべきであるが、不思議なことに、ジュワイニーやラシードなどのペルシア文献には、耶律楚材の名はまったくでてこない。なかには、彼はそれほど重要な人物ではなかったと推測する人もいる。だが、彼の詩文を読んでも、たとえば息子の鋳が15歳になったときに与えた詩に、「忝なくも位は人臣を極め」とあるように、彼がモンゴル政権の中枢にいたことはたしかである。おもうに彼の努力は、儒仏に根づいた文明と人命を、大破壊から守ることに集中されていて、戦争が上手であったのでもなく、税収の成績をあげたのでもない。イスラム史家の立場からみれば、楚材にはしるすに足る業績がなかったことになる。★評価についての諸説
モンゴルが初めて中原に侵入したとき、政治は無秩序状態で、中国の王朝の遺民は惵惵(ちょうちょう)と恐怖し、朝夕まで生きられるかどうかもわからぬ惨状にあった。このとき耶律楚材は、民をいつくしむ心をもって、 枉尺直尋(おうせきちょくじん。小さな犠牲で大きな利益を得ること)の計をおこなうため、あえて旧敵国であるモンゴルに仕官し、自分の学識を実践したのである。 そのおかげで、中原の人民は戎狄(じゅうてき)によって虐殺されることを免れた。すべては、かの人のおかげである。 『春秋公羊伝』桓公十一年にしるす名言「行権有道、自貶損以行権、不害人以行権」(権を行うに道あり。自ら貶損して以て権を行う。人を害さずして以て権を行う)にあてはまる理想の政治家に、耶律楚材は近いと言えようか。
中国革命の父・孫文と梅屋庄吉
1階ロビーの右手に展示してある燭台付きのアップライトピアノ(写真)は、梅屋庄吉邸において孫文夫人である宋慶齢が弾いていたピアノで、国産のもっとも古いもののひとつです。
日比谷松本楼になじみ深いお客様に、革命の志士・孫文(写真中央)もいらっしゃいました。辛亥革命時、日本に亡命中だった孫文は松本楼の代表取締役会長夫人の祖父であり、現社長 小坂文乃の曾祖父にあたる梅屋庄吉(写真は梅屋夫妻)に連れられて革命運動のため、しばしば当店を訪れております。
梅屋庄吉は、中国革命の父と称えられる孫文を一生をとおして、物心両面で支えました。
孫文は日本亡命中、足しげく梅屋邸に出入りしておりました。大正4年には梅屋邸で宋慶齢(写真)とめぐりあい、結婚式を挙げることとなります。夫婦が中国に戻るまでのあいだ、婦人は梅屋邸に身を寄せて、ひまさえあればピアノを弾いていたそうです。孫文は、しばしば松本楼も訪れていたことから、松本楼の再建後(下記)に「孫文夫人ゆかりのピアノ」が店内に展示されることとなりました。
一八九五年、下関における日清講和条約の調印。清朝打倒を決意した孫文は、同志とともに広州で最初の武装蜂起を企てる…。「大同社会」の実現を目指して、世界を翔る若き革命家の軌跡。膨大な資料から真実を読み取り、最後まであきらめなかった姿勢と無私の精神にあふれた孫文の実像が甦る歴史小説の神髄。『青山一髪』を改題、待望の文庫化。
「孫文の継承者は国民党」 台湾・洪氏、習氏発言に反論 日本経済新聞 2016年11月12日 22:57孫文の功績をたたえたいが、孫文が鼓吹した「三民主義」は21世紀の中国の政治体制とそぐわない部分が多い。
https://www.nikkei.com/article/DGXLASGM12H4Q_S6A111C1000000/ 2021年12月8日閲覧
【台北=共同】台湾の国民党の洪秀柱主席は12日、中国の習近平国家主席が清朝を倒した辛亥革命を主導した孫文生誕150年を記念した演説で「中国共産党が孫文の最も忠実な継承者だ」と発言したことについて「真正な継承者は当然、国民党だ」と反論した。
以下、NHKテレビ「知るを楽しむ 歴史に好奇心」のテキスト(2007)のp.76-p.79から自己引用。 哲学と革命・孫文を理解する補助線として比較すべき人物
なぜ近代の中国人は、自分たちで考案した新漢語を捨てて、日本漢語を使うようになったのか。日清戦争で日本が中国に勝利したあと、大量の中国人留学生が日本にわたって勉学し、日本語の翻訳書を通じて西洋の学芸を学ぶようになったことも、理由の一つでしょう。ただ、より大きな理由として、日本人が考案した新漢語にはセンスがすぐれたものが多く、中国人にもすんなり受け入れられた、ということがあげられます。
西洋の知の根幹をなす「フィロソフィー」という学問は、「知」(ソフィー)を「愛する(フィロ)」という意味です。日本人は、これを「哲学」と訳しました。
明治の末、日本の学者・小柳司気太は中国(当時は清)に渡り、学者で書家としても有名な兪樾(一八二一ー一九〇六)に会いました。 小柳は帰国後、哲学雑誌に「兪曲園の哲学」という論文をのせ、彼の学説を紹介しました(曲園は、兪樾の号)。それを見た兪樾はビックリして、次のような漢詩を作りました。
挙世人人談哲学 世を挙げて 人人 哲学を談ず 愧我迂疏未研榷 愧ず 我が迂疏にして 未だ研榷せざりしを 誰知我即哲学家 誰か知らん 我も即ち哲学家 東人有言我始覚 東人 言有りて 我 始めて覚る
大意は──近頃の世の中では、誰もが「哲学」という学問を談じている。恥ずかしいことに、私は時流にうとく、「哲学」とは何か、よく知らなかった。ところがなんと、私自身も哲学者なのだった。日本人の言葉によって、私は始めてそれを知った。
近代の中国人にとって、日本漢語は、自分たちを見つめ直す「鏡」になったのです。
「中国革命の父」孫文(一八六六ー一九二五)にも、同じような逸話があります。
一八九五年、清朝打倒をめざして活動していた孫文は、広東での蜂起に失敗し、「広島丸」という船で日本に逃げました。神戸に上陸して日本の新聞を見ると、カナ文字はわからなかったものの、漢字の「支那革命党孫文日本に来たる」という見出しが、孫文の目に飛び込んできました。「革命」という日本漢語を見て、孫文は、衝撃を受けました。
もともと中国の漢文では、「革命」という語は、「易姓革命」の意味でした。ある王朝が倒れ、前の皇帝とは別の姓をもつ英雄が「天命」を受けて、新王朝を創始すること。伝統的な中国の「革命」は、王朝の交替を指す言葉にすぎませんでした。
しかし日本漢語の「革命」は、レボルーションの訳語でした。社会体制を根底から変える、という新しい意味がありました。「革命」という日本漢語から霊感を得た孫文は、興奮して、同志の陳少白にこう語りました。
「日人称吾党為革命党、意義甚佳。吾党以後即称革命党可也」(日人、吾が党を称して「革命党」と為す。意義、甚だ佳なり。吾が党は以後、即ち「革命党」と称して可なり)
日本人から「革命家」と呼ばれたことは、孫文は、自分たちの使命をより明確に自覚しました。これ以後、中国語でも「革命」は日本語と同じ意味で使うようになりました。
溥儀に対して日本の皇室は「日本皇室としては何の安全保障も約束できないが、それでもよければ御来朝を待つ」と連絡した。 溥儀がいた通化(満洲国通化省通化市。1946年2月3日の「通化事件」でも有名)の空港は小さすぎて、日本まで直接に飛べる大型飛行機は着陸できなかった。そこで溥儀ら一行は、まず小型で航続力が短い「フォッカー・スーパーユニバーサル」2機に分乗し、朝鮮半島の平壌か、満洲国の奉天に出て、そこで大型機に乗り換え、日本の羽田まで飛ぶことにした。乗り換えの場所について、溥儀の側近たちは、奉天は危険なので平壌まで飛びたいと主張した。しかし、8月7日に関東軍の政策主任参謀・第4課長になったばかりの宮本悦雄大佐(陸士38期)は、奉天での乗り換えを強硬に主張した。宮本が自説を押し通した結果、タッチの差で、溥儀は奉天の空港でソ連軍に捕まってしまった。 参考文献 池田純久・著『陸軍葬儀委員長』昭和28年刊 |
初稿では、溥儀は極東国際軍事裁判で保身のため偽証したことを謝罪し、日本軍と満洲国との連絡役を務めた関東軍将校の吉岡安直に罪を擦り付けたと反省したが、出版にあたっては削除された。これらの部分は2007年版では復活している。 |
愛新覚羅浩『流転の王妃の昭和史』新潮文庫より引用。引用開始。
私【愛新覚羅浩。溥傑の妻。日本人】にとって、その頃できうる唯一のことは、お見舞いに行って差さしあげることだけでした。 「何か召し上がりたいものはございませんか?」 とお尋ねすると、 「日本のチキン・ラーメンが食べたい」 という意外なご返事でした。常々、中国料理が世界一だと胸を張られ、幼い頃より最高級の宮廷料理を口にして育ってこられた大兄【溥儀のこと】ではありましたが、病気のせいであっさりとしたものしか受け付けられなくなってしまったのでしょうか。 私が北京に住むようになってからも、日本から船で日本の食品を送ってもらっていました。そのなかにあった即席麺を、大兄が珍しそうに召し上がったことがあったのです。(引用終了) 日清のチキンラーメンは1958年から発売。 |