歴史を理解することは、人間を理解すること。ヒストリー(歴史)とストーリー(物語)は、もとは同じ言葉でした。中国の伝統的な「紀伝体」の歴史書も、個々人の伝記を中心とした文学作品でした。日程 2022/4/14, 4/28, 5/12, 5/26, 6/9, 6/23 第2週・第4週 木曜 10:30〜12:00 全5回 (引用終了)
本講座では、後世に大きな影響を残した中国史上の人物をとりあげ、運や縁といった個人の一回性の生きざまと、社会学的な法則や理論など普遍的な見地と、その両面から、歴史を再解釈します。豊富な図像を交えて、予備知識のないかたにもわかりやすく説き明かします。(講師・記)
そう‐おう サウワウ【荘王】
中国、春秋時代の楚の王(在位前六一四‐前五九一)。春秋の五覇の一人。紀元前五九七年、晉の景公の軍を破って中原の覇者となった。周の使者に鼎(かなえ)の軽重を問うた逸話や「三年鳴かず飛ばず」の故事は有名。(?━前五九一)
そう‐おう〔サウワウ〕【荘王】
[?−前591]中国、春秋時代の楚(そ)の王。在位、前614−前591。春秋五覇の一人。名は侶。前597年、晋の景公を破って覇者となった。周王の使者に鼎(かなえ)の軽重を問うた逸話は有名。→鼎の軽重を問う
司馬遷『史記』楚世家第十より 参考 https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1118527/10 莊王即位三年,不出號令,日夜為樂,令國中曰:「有敢諫者死無赦!」伍舉入諫。莊王左抱鄭姫,右抱越女,坐鐘鼓之閨B伍舉曰:「願有進隱。」曰:「有鳥在於阜,三年不蜚不鳴,是何鳥也?」莊王曰:「三年不蜚,蜚將沖天;三年不鳴,鳴將驚人。舉退矣,吾知之矣。」居數月,淫益甚。大夫蘇從乃入諫。王曰:「若不聞令乎?」對曰:「殺身以明君,臣之願也。」於是乃罷淫樂,聽政,所誅者數百人,所進者數百人,任伍舉、蘇從以政,國人大説。 |
吉川英治『三国志』群星の巻「絶纓」四より https://www.aozora.gr.jp/cards/001562/files/52411_51062.html 吉川英治は昭和の作家で、かなり脚色を加えていることに注意。 それは、楚国の荘王のことであるが、或る折、荘王が楚城のうちに、盛宴をひらいて、武功の諸将をねぎらった。 すると――宴半ばにして、にわかに涼風が渡って、満座の燈火がみな消えた。 荘王、 (はや、燭をともせ)と、近習へうながし、座中の諸将は、かえって、 (これも涼しい)と、興ありげにさわいでいた。 ――と、その中へ、特に、諸将をもてなすために、酌にはべらせておいた荘王の寵姫へ、誰か、武将のひとりが戯れてその唇を盗んだ。 寵姫は、叫ぼうとしたが、じっとこらえて、その武将の冠の纓(おいかけ)をいきなりむしりとって、荘王の側へ逃げて行った。 そして、荘王の膝へ、泣き声をふるわせて、 「この中で今、誰やら、暗闇になったのを幸いに、妾(わらわ)へみだらに戯れたご家来があります。はやく燭をともして、その武将を縛(から)めてください。冠の纓の切れている者が下手人です」 と、自分の貞操をも誇るような誇張を加えて訴えた。 すると荘王は、どう思ったか、 「待て待て」と、今しも燭を点じようとする侍臣を、あわてて止め、 「今、わが寵姫が、つまらぬことを予に訴えたが、こよいはもとより心から諸将の武功をねぎらうつもりで、諸公の愉快は予の愉快とするところである。酒興の中では今のようなことはありがちだ。むしろ諸公がくつろいで、今宵の宴をそれほどまで楽しんでくれたのが予も共にうれしい」 と、いって、さてまた、 「これからは、さらに、無礼講として飲み明かそう。みんな冠の纓(おいかけ)を取れ」と、命じた。 そしてすべての人が、冠の纓を取ってから、燭を新たに灯させたので、寵姫の機智もむなしく、誰が、女の唇を盗んだ下手人か知れなかった。 その後、荘王は、秦との大戦に、秦の大軍に囲まれ、すでに重囲のうちに討死と見えた時、ひとりの勇士が、乱軍を衝いて、王の側に馳けより、さながら降天の守護神のごとく、必死の働きをして敵を防ぎ、満身朱(あけ)になりながらも、荘王の身を負って、ついに一方の血路をひらいて、王の一命を完うした。 王は、彼の傷手(いたで)のはなはだしいのを見て、 「安んぜよ、もうわが一命は無事なるを得た。だが一体、そちは何者だ。そして如何なるわけでかくまで身に代えて、予を守護してくれたか」と、訊ねた。 すると、傷負(ておい)の勇士は、 「――されば、それがしは先年、楚城の夜宴で、王の寵姫に冠の纓をもぎ取られた痴者(ちしゃ)です」 と、にこと笑って答えながら死んだという。 |
劉向(前206年−後9年)『説苑』「復恩」より。 吉川英治の小説中の引用と違って、原典の敵国は「晋」であり、「絶纓」の勇士が死んだとも書いていないことに注意。 楚莊王賜群臣酒,日暮酒酣,燈燭滅,乃有人引美人之衣者,美人援絶其冠纓,告王曰:「今者燭滅,有引妾衣者,妾援得其冠纓持之,趣火來上,視絶纓者。」王曰:「賜人酒,使醉失禮,奈何欲顯婦人之節而辱士乎?」乃命左右曰:「今日與寡人飲,不?冠纓者不懽。」群臣百有餘人皆絶去其冠纓而上火,卒盡懽而罷。居三年,晉與楚戰,有一臣常在前,五合五奮,首卻敵,卒得勝之,莊王怪而問曰:「寡人コ薄,又未嘗異子,子何故出死不疑如是?」對曰:「臣當死,往者醉失禮,王隱忍不加誅也;臣終不敢以蔭蔽之コ而不顯報王也,常願肝腦塗地,用頸血湔敵久矣,臣乃夜絶纓者。」遂敗晉軍,楚得以強,此有陰コ者必有陽報也。 |
戦争の経緯 前段階1 楚と鄭の戦争 前597年、晋と楚のあいだの小国・鄭は、晋と軍事同盟を結んだ。楚の荘王は鄭に親征し、鄭の都城を包囲した。3ヶ月後、鄭の襄公(姫堅 在位前604年-前587年)は無条件降伏し、みずから「肉袒牽羊」(にくたんけんよう)して、荘王の前にひざまずいた。楚の荘王の臣下は鄭を滅ぼして直轄領とするよう進言したが、荘王は「鄭の襄公は謙遜の心を身につけた。きっと国をうまく治めるだろう。鄭の社稷(しゃしょく)を滅ぼすのはしのびない」と述べ、南の楚に帰還しようとした。 前段階2 晋軍の遅すぎた到着 鄭の救援のため、晋の正卿(宰相格の有力政治家)である荀林父が大軍を率いて、河水(黄河の旧名。当時はまだ黄河は黄濁していなかった、とされる)を渡って南下してきた。が、時すでに遅く、鄭は楚に降伏し、楚軍は南への撤収を開始していた。 晋の大軍の南下を知った荘王は、軍を北に転じた。こうして、楚と晋の両軍は邲の地で対峙した。 開戦直前 部下たちの独断専行 楚も晋も、軍のトップは開戦を避けて、自軍を無傷のまま撤収させようとしたが、好戦的な部下は主戦論を主張し、部下の独断専行に引きずられるようにして開戦してしまった。 楚の荘王と令尹(宰相)の孫叔敖(名宰相として歴史に名を残す。「寝丘」の故事でも有名)は開戦を避け、撤退しようとした。が、大夫(日本の武家政治の家老にあたる)伍参(有名な伍 子胥の先祖)が荘王の前で額を何度も地面にたたきつけて土下座しながら(叩頭)「晋の国内政治はまだ統制が取れていません。わが軍は王の親征により士気は高く、宰相が率いる敵軍と戦えば必ず勝てます。わが軍はわざわざ王みずからがご出馬になられたのに、手をこまねいて撤収したら天下にしめしがつきません」と主戦論を主張した。荘王は悩んだ末、軍を北に転じて晋軍と対峙することにした。が、荘王はあくまで戦争を避けるつもりであり、和睦の使者を晋軍に送った。 晋軍のトップも和睦するつもりだった。晋の宰相である荀林父と士会(後に晋国の宰相となる政治家)は、荘王からの和睦の申し入れに同意した。ところが、主戦派の晋軍の将校である先縠が独断専行し、勝手に、楚の荘王に「和睦を拒否する。開戦あるのみ」という返答の使者を送った。荘王側は、これが晋軍将校の独断専行であることを見抜き、再び和睦の使者を晋軍のトップに派遣した。 開戦 晋軍の荀林父は和睦を受け入れ、2人の部下(魏リと趙旃)を使者として派遣した。2人の部下は護衛兵を連れて荘王の本陣を訪れたが、実はこの2人は和睦をするつもりはなく、独断専行で荘王を暗殺するつもりだった。2人が連れてきた晋軍の部隊は、荘王への突発的な攻撃をしかけたが、楚軍の警備は堅く、撃退されてしまった。失敗をさとった2人は晋軍陣地にむかって逃亡を始めた。 楚の荘王の本陣の部隊(中軍)は、反射的に2人を追いかけて晋軍陣地に向かって動きはじめた。それを見た令尹(宰相)の孫叔敖は、和平派だったものの、中軍を見殺しにできず、あわてて左軍と右軍にも追撃を命じた。 晋の出先部隊から先に楚に攻撃をしかけたのに、結果的には、楚が全軍で晋に奇襲をかける形になった。 晋軍の壊走 「舟中の指、掬すべし」 晋は大軍を中軍、上軍、下軍の3つに分けて布陣していたが、その三分の二が壊滅した。 『春秋左氏伝』宣公十二年には、戦闘の記録として、 「桓子不知所為、鼓於軍中。曰『先済者有賞』。中軍下軍争舟、舟中之指可掬也。」 桓子(晋軍トップの荀林父のこと)為す所を知らず、軍中に鼓して曰く「先ず済らん者には賞有らん」と。中軍・下軍、舟を争い、舟中の指、掬すべし。 とある。読み下し文は、国立国会図書館デジタルコレクションの https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/958966/262 も参照。 晋軍の司令官である荀林父は、楚軍の突然の猛攻に驚愕してなすすべをしらず、退却を決意し、陣太鼓を打ち鳴らして「最初に川を渡った者に賞を与える」と全軍に布告した。上軍だけは整然と撤収することができたが、中軍と下軍は総崩れとなった。兵士らは川(黄河)をわたる舟に殺到した。舟の数には限りがあり、先に乗れた者は舟が転覆することを恐れ、刀をふるって、ふなべりにとりすがる兵士たちの指を切断した。船底には、切断された無数の指が、手ですくえるほどたくさんたまった。 |
二十年,圍宋,以殺楚使也。圍宋五月,城中食盡,易子而食,析骨而炊。宋華元出告以情。莊王曰:「君子哉!」遂罷兵去。二十三年,莊王卒。
もうしょう‐くん〔マウシヤウ‐〕【孟嘗君】
[?〜前279]中国、戦国時代の斉の公族。姓は田、名は文。一芸に秀でた客士数千人をかかえたことで知られ、戦国末の四君の一人に数えられた。秦の昭王に暗殺されかけたとき、狗盗と鶏鳴を得意とする食客に救われたという鶏鳴狗盗の故事で有名。のち、斉・魏の宰相となったが、晩年は諸侯として自立。
孟嘗君 もうしょうくん Meng-chang-jun; Mêng-ch`ang-chün
[生]?
[没]襄王5(前279)
中国の戦国時代末期における戦国四君の一人。姓は田。名は文。父の田嬰(でんえい)は斉の威王の子で薛(せつ。山東省)に封じられ,父の死後,跡を継いだ。賓客を好遇し,その食客は数千人に及んだという。秦の昭襄王はその賢明なことを聞き,王の8(前299)年,孟嘗君を招いて殺そうとしたが,狗盗(「こそどろ」の意)や鶏の鳴き声の上手な食客の手引きで秦から脱出に成功したという「鶏鳴狗盗」の故事が有名。一時斉の湣王(びんおう)に仕えたが意見が合わず薛に引退し,のち魏の宰相を務めたこともあったが,最後は自立。彼の行動には伝説的要素が強い。
夜をこめて 鳥の空音は謀るとも よに逢坂の関は許さじ
そん‐けん【孫権】
[182〜252]中国、三国時代の呉の建国者。在位222〜252年。孫堅の子。富春(浙江省)の人。字あざなは仲謀。諡号(しごう)、大帝。父・兄の事業を継いで、江東六郡を支配し、赤壁の戦いでは劉備と同盟し曹操の軍を破った。
孫権 そんけん Sun Quan; Sun Ch`üan
[生]光和5(182) [没]神鳳1(252)
中国,三国時代の呉の第1代皇帝 (在位 222〜252) 。字は仲謀,諡は大皇帝。呉郡富春 (浙江省富陽県) の人。孫堅の子。建安5 (200) 年兄孫策の急死により跡を継いだ。孫権は土着豪族および北から南下した名士の支持を得て,巧みな政治的外交的手腕をふるい,ついに江南支配を達成した。劉備と連合して曹操の南下を食止めた赤壁の戦いはその間に起ったものである。 222年呉王となり,建元して黄武といったが,まだ魏の封策を受けていた。黄竜1 (229) 年には皇帝の位について独立し,建業を首都とした。
孫権 そんけん(182―252)
中国、三国呉(ご)の初代皇帝(在位222〜252)。字(あざな)は仲謀、諡号(しごう)は大帝。孫堅(そんけん)の子。192年父の堅が死に、200年兄の策が没したので19歳で孫氏の統領となり、父兄の事業を受け継いだ。曹操(そうそう)や劉備(りゅうび)と対立、同盟を繰り返しつつ、揚子江(ようすこう)中・下流域を基盤に呉国を建てた。すなわち208年、劉備と同盟して曹操の南下を食い止め、赤壁(せきへき)の戦いを行った。戦後は妹を劉備の皇后として嫁がせ、その関係を密接にしたが、荊(けい)州領有をめぐってしだいに対立を深め、劉備の入蜀(しょく)を機に妹を呉に帰らせ、曹操と同盟して劉備の武将関羽(かんう)を攻め、荊州領有に成功した。魏(ぎ)の文帝がたつと呉王に封じられたが、年号を独自に黄武とし、独立の意を示した(222)。劉備の死後、蜀(しょく)と同盟し魏と対立した。229年帝位につき、都を建業(けんぎょう)(南京(ナンキン))に定めた。国内においては山越(さんえつ)の討伐を行い、また交州の士氏を倒してインドシナ半島にも勢力を伸ばすなど、南方に領土を広げた。晩年皇太子に先だたれ、後継争いが起こり、呉は混乱した。[狩野直禎]
吉川英治『三国志』孔明の巻より
孫権は、泣きはらした眼をふせながら、兄孫策の枕頭へ寄って、 「兄上、お気をしっかり持って下さい。いまあなたに逝かれたら、呉の国家は、柱石を失いましょう。そこにいる母君や、多くの臣下を、どうして抱えてゆけましょう」 と、両手で顔をつつんで泣いた。 孫策は、いまにも絶えなんとする呼吸であったが、強いて微笑しながら、枕の上の顔を振った。 「気をしっかり持てと。……それはおまえに云いのこすことだ。孫権、そんなことはないよ。おまえには内治の才がある。しかし江東の兵をひきいて、乾坤一擲を賭けるようなことは、おまえはわしに遠く及ばん。……だからそちは、父や兄が呉の国を建てた当初の艱難をわすれずに、よく賢人を用い有能の士をあげて、領土をまもり、百姓を愛し、堂上にあっては、よく母に孝養せよ」 |
吉川英治『三国志』赤壁の巻 孫権はいきなり立って、佩いている剣を抜き払い、 「曹操の首を断つ前に、まずわが迷妄から、かくのごとく斬るっ!」 と、前の几案(つくえ)を、一揮に、両断して見せた。 そしてその剣を、高々と片手にふりあげ、 「今日以後、ふたたびこの問題で評議はすまい。汝ら、文武の諸大将、また吏卒にいたるまで、かさねて曹操に降伏せんなどと口にする者あらば、見よ、この几案と同じものになることを!」 |
国名 | 開祖 | 年代 |
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宋(劉宋) | 劉裕(武帝) | 420年 - 479年 |
斉(南斉) | 蕭道成(高帝) | 479年 - 502年 |
梁(蕭宋、南朝梁) | 蕭衍(武帝) | 502年 - 557年 |
陳 | 陳霸先(武帝) | 558年 - 589年 |
梁武帝は天監六年(五〇七)または天監七年に、仏教的世界観に基づいて宗廟祭祀改革の実施を企図し、天監十六年に改革を実現した。宗廟祭祀改革におよそ十年もの時間を要したことは、皇帝秩序を支えてきた儒家的世界観の根強さを示している。 (中略) 梁武帝は『般若経』や『涅槃経』の教義に造詣が深いが、個人的な信仰として仏教に傾倒するだけでなく、国家統治の面においても菩薩金輪王を理想像とし、皇帝として仏教経典に基づく理想世界を具現化するために尽力していたものと考えられる。 遠藤祐介「梁武帝における理想的皇帝像――菩薩金輪王としての皇帝」『武蔵野大学仏教文化研究所紀要 37号』2021-02-28, pp.1-32 |
正史『南史』巻7武帝下より引用。
雖在蒙塵,齋戒不廃止,及疾不能進膳,盥漱如初。皇太子日中再朝,毎問安否,涕泗交面。賊臣侍者,莫不掩泣。疾久口苦,索蜜不得,再曰:「荷,荷!」遂崩。 梁の武帝は蒙塵(もうじん)してからも、仏教徒としての斎戒をやめなかった。憂憤のあまり病気になり、食事を取れなくなったあとも、盥漱(かんそう。手を洗い口をすすぎ、身を清めること)はもとのまま続けた。武帝の皇太子(後の簡文帝)は毎日、高齢の父のもとに何度も参上して安否を問い、顔中を涙でぬらした。逆臣の侍者もみな同情して、もらい泣きしたほどだった。 武帝は長患いのため口の中が苦くなり、蜜を要求したがもらえなかった。「荷、荷」と謎の言葉を繰り返したあと、崩御した。 ※「荷、荷」の意味は謎。「カ、カ」というあえぎ声だったのか、それとも仏教的な蓮華(「荷」には「蓮」=ハスの意味がある)の幻想を見たのか。真相はわからない。 |
挙。梁武帝、問達磨大師「如何是聖諦第一義?」。磨云「廓然無聖」。帝曰「対朕者誰?」。磨云「不識!」。帝不契、達磨遂渡江至魏。(以下略)
挙(こ)す、梁の武帝、達磨大師に問う「如何(いか)なるか是(こ)れ聖諦(しょうたい)第一義」。磨(ま)云(いわ)く「廓然無聖」。帝曰く「朕に対する者は誰ぞ」。磨云く「識(し)らず」。帝、契わず。達磨、遂に江を渡って魏に至る。(以下略)
本師曇鸞梁天子 ほんじ どんらん りょうてんし大意は――南朝の梁の天子であった武帝は、同時代の曇鸞大師を菩薩として敬い、大師がいらっしゃる北魏の地に向かって遙拝していた。大師はかつて、北インド出身の三蔵流支から浄土の経典を授かったとき、不老不死の秘法が書いてある中国道教の書物を惜しげもなく焼き捨て、仏教の浄土宗に帰依されたおかたである。
常向鸞処菩薩礼 じょうこう らんしょ ぼさらい
三蔵流支授浄教 さんぞう るし じゅじょうきょう
焚焼仙経帰楽邦 ぼんしょう せんぎょう きらくほう
是故に彼等支那人の間には、先例といふことが豫想以上の大なる勢力をもつてゐる。〔これに就いて面白い事實がある。梁の武帝時代に、領内の州を整理した所、從來中央政府の帳簿によると、百七州あるべきものが、實際調査すると、八十二州しかない。その餘の二十餘州の所在が判明せぬ。併し舊帳簿に登録してあるからといふので、所在不明の二十餘州を削除せずに、本の儘に百七州としたといふ。領内の行政區の所在不明といふのも支那式だが、更にその所在の判明せぬ州をその儘に、保存繼承した點が面白いでないか。これが支那人氣質である。〕※「支那人」は現代では差別用語とされ、使われない。
り‐いく【李U】
[937〜978]中国、五代の南唐の最後の王。後主と称される。在位961〜975。字(あざな)は重光。号、鍾隠(しょういん)。宋に下って幽閉され、毒殺された。五代の代表的詞人で、初めの作品は艶麗、晩年は憂愁にみちた凄絶な詞風で新境地を開いた。
五代十国 ごだいじっこく 907〜979
907年唐が滅亡してから960年宋の建国と,979年宋の全国統一に至る間の分裂時代の中国に興亡した諸国
五代は華北に興亡した後梁 (こうりよう) ・後唐 (こうとう) ・後晋 (こうしん) ・後漢 (こうかん) ・後周 (こうしゆう) をさし,十国は江南・華南などに割拠した前蜀・後蜀 (こうしよく) ・呉・南唐・閩 (びん) ・楚 (そ) ・荊南 (けいなん) ・南漢・呉越 (ごえつ) ・北漢の諸国をさす。大部分は唐末期以来の節度使が自立した軍事政権で,異民族の支配者もいる。世襲的な貴族が没落し,士大夫階級が社会の中心となるまでの間,軍閥が支配した時代である。
なん‐とう ‥タウ【南唐】
中国の五代十国の一つ(九三七‐九七五)。国号は唐。呉の徐知誥(じょちこう)が呉帝の譲位を受け、金陵(南京)を中心に建国。江南の富を背景に強盛を誇り、唐文化を温存したが、三代で宋の太祖に滅ぼされた。江南国。
し【詞】
2 中国の韻文の一。唐末から宋代にかけて流行。もとは楽曲に合わせて作られた歌詩。1句の長短は不定で俗語を多く使う。填詩(てんし)・詩余・長短句ともいう。
原文 | 書き下し文 |
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春花秋月何時了、 往事知多少。 小樓昨夜又東風、 故國不堪回首月明中。 雕欄玉砌應猶在、 只是朱顏改、 問君能有幾多愁。 恰似一江春水向東流。 |
春花 秋月 何の時にか了らん 往事 多少(いくばく)かを知らん 小楼 昨夜 又 東風 故国は首を回(めぐ)らすに堪へず 月明りの中 雕欄 玉砌(ぎょくせい) 応に猶ほ在るべし 只だ是れ 朱顔 改まる 君に問ふ 能く幾多の愁ひ有りや 恰も似たり 一江の春水、東に向かって流るるに |
原文 | 書き下し文 |
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無言獨上西樓、 月如鈎。 寂寞梧桐深院鎖C秋。 剪不斷、 理還亂、 是離愁。 別是一般滋味在心頭。 |
無言、独り西楼に上れば、 月 鈎の如し。 寂寞たる梧桐の深き院、清秋を鎖す。 剪りても断てず、 理(ととの)へども還た乱るるは、 是れ離愁。 別に是れ一般の滋味、心頭に在り。 |
てい‐せいこう【鄭成功】
中国、明末の遺臣。国姓爺(こくせんや)の名で知られる。日本の平戸で鄭芝龍と田川七左衛門の娘との間に生まれた。七歳で渡明。明滅亡後、抗清・明室復興のため大陸反攻を繰り返した。また、南海貿易にも従事した。近松門左衛門の「国性爺合戦」などで知られる。(一六二四‐六二)
鄭成功は、隆武帝から改名を賜ってからは、自ら「国姓成功」と名乗った。 周囲の中国人は、彼を「国姓爺」(こくせんや。国姓さま)と呼んだ。 日本人は、明王朝の皇帝に対して遠慮する必要がなかったので、彼を「朱成功」と呼んだ。 彼を「鄭成功」と呼んだのは、実は敵対した清だった。清の朝廷は彼を「逆賊鄭成功」「海賊鄭成功」と呼び、天下に対して彼を討伐せよと命じた。 つまり「鄭成功」とは、彼の自称ではなく、清が悪意をこめて彼を呼んだ呼称だった。 本人は「鄭成功」とは名乗らなかったにもかかわらず、敵側である清の呼び方が定着してしまった。 あの世の鄭成功は苦笑いしているかもしれないが、本稿も鄭成功という呼称を使う。 |
四鎮多二心、両島屯師、敢向東南争半壁。 諸王無寸土、一隅抗志、方知海外有孤忠。 |
鄭成功が幼いころ、母親は日本に逃げ帰った。のちに鄭成功は、楼船数百隻の大艦隊を率いて長崎を訪れた。母と生き別れになったとき、鄭成功はまだ幼く、母の歯が黒いという特徴だけを記憶していた。長崎の婦人は、みなお歯黒をしていた。三日間探したが、母は見つからなかった。あきらめて長崎を離れるとき、鄭成功は自分の武威を示すため、長崎の山をめがけて大砲を撃った。山は半分吹き飛んだので、長崎の人はみな感服した。今の「半爿山(はんしょうざん)」がその山で、砲撃で吹き飛ばされたあとが残っており、この山に生える草木は他の山とは違っている。史実と大きく違っているが、長崎の唐人屋敷ではそのような話が語りつがれていたことがわかる。『外国人の見た日本』第一巻(筑摩書房、昭和37年)p.170参照。