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中国歴史人物列伝 10
最新の更新2024年8月7日 最初の公開2024年8月7日
- 蘇秦 舌先三寸だけで戦国を動かす遊説家 ?-前284年
- 荊軻 始皇帝暗殺未遂事件の伝説的な刺客 ?-前227年
- 阿倍仲麻呂 中国史の一部となった日本人 698−770
- 黄巣 唐に引導を渡した科挙落第者の怨念 835ごろ-884
- 呉三桂 明清交替戦争の決定票を握る将軍 1612−1678
- 参考 今までとりあげた人物 実施順 時代順
以下、https://www.asahiculture.com/asahiculture/asp-webapp/web/WWebKozaShosaiNyuryoku.do?kozaId=8005412より引用
対面+見逃し配信付き 朝日カルチャーセンター新宿教室
日程 木2025/7/10, 7/24, 8/28, 9/11, 9/25 全5回 指定木曜日 10:30〜12:00
歴史を理解することは、人間を理解すること。ヒストリー(歴史)とストーリー(物語)は、もとは同じ言葉でした。中国の伝統的な「紀伝体」の歴史書も、個々人の伝記を中心とした文学作品でした。
本講座では、日本にも大きな影響を残した中国史上の人物をとりあげ、運や縁といった個人の一回性の生きざまと、社会学的な法則や理論など普遍的な見地の両面から、人生を紹介します。豊富な図像を使い、予備知識のないかたにもわかりやすく解説します。(講師・記)
第1回 蘇秦 舌先三寸だけで戦国を動かす遊説家
YouTube https://www.youtube.com/playlist?list=PL6QLFvIY3e-m1YJFGVw0SU3m_zCprGkKk
○ポイント、キーワード
- 諸子百家 しょしひゃっか
中国の春秋戦国時代に現れた学者・学派・遊説家の総称。
諸子は「孔子」「老子」「孟子」の「子」(先生)。百家は「儒家」「法家」「道家」など学派。
前漢の司馬遷『史記』による六家は、陰陽家、儒家、墨家、
法家、
名家、
道家。
後漢の班固『漢書』芸文志では、縦横家、雑家、農家の三家を加えて「九流」とし、小説家を最後に加えて「十家」とする。
後世は、さらに兵家を加え十一家とする。
- 『戦国策』せんごくさく
前漢末の劉向(りゅうきょう)が編んだ歴史書。戦国時代に諸国の策略や、諸国を遊説した縦横家の献策や策謀を国別に集めた。「戦国時代」の名称の由来。日本でも江戸時代以降、人気の古典となった。漢文の故事成語の宝庫でもある。
- 縦横家 じゅうおうか/しょうおうか
各国の間を行き来して「合従連衡(がっしょうれんこう)」の軍事的外交の献策を売り込んだ遊説家たちのこと。「縦」は南北、「横」は東西を指す。
- 合従連衡 がっしょうれんこう
中国の戦国時代における諸国の同盟関係の2種類のグランドデザイン、合従策と連衡策のこと。
戦国の七大国のうち、西端の秦が最強国となると、残りの東方6カ国(燕、趙、韓、魏、斉、楚)は2つの道を迫られた。
一つは合従(「従」は「縦」の減筆略字)。六国が「縦」(南北)に連合して対秦六カ国軍事同盟を結ぶこと。
一つは連衡。六国が個別に、秦と条約を結ぶことで戦争を避け、その間、他の六国との抗争に傾注すること。
縦横家のうち、蘇秦は合従策を売り込んで成功した。
- 張儀 ちょうぎ ?〜前310
蘇秦と同時代のライバルとして連衡策を売り込んだ縦横家。ただし、近現代の歴史学では張儀は蘇秦より前の時代に活躍したとされる。
○辞書的な説明
- 『旺文社世界史事典 三訂版 』より引用
蘇 秦
そしん ?〜前317
戦国時代の縦横家 (じゆうおうか)
洛陽の人。秦の恵文王に仕えようとして失敗。
燕 (えん) の文侯に用いられ,ついで趙 (ちよう) ・韓・魏・斉 (せい) ・楚の諸国に合従 (がつしよう) 策をもって秦に対抗することを説き,六国 (りつこく) の相として15年間秦に対抗。
のち張儀の連衡 (れんこう) 策の成立によって失敗し,斉で刺殺された。
- 『改訂新版 世界大百科事典 』より引用
蘇秦 (そしん)
Sū Qín
中国,戦国の策士。生没年不詳。字は季子。東周の洛陽(らくよう)に生まれ,張儀とともに斉の鬼谷先生に雄弁の術を学んだ縦横家(じゆうおうか)の一人。
はじめ秦に遊説するが用いられず,のち燕の文侯に任用され,東方六国に説いて合従同盟を締結,秦に対抗した。功により趙の武安(河北省武安県)に封ぜられたが,やがて讒言(ざんげん)を受けて亡命。斉で暗殺されたという。
この《史記》の伝える彼の事跡については従来より信憑性が問題になっていたが,近年,馬王堆漢墓から出土した帛書に蘇秦に関する資料が発見されて,《史記》の錯誤がより明確となった。
→合従連衡
執筆者:永田 英正
○略年表
同時代人(生年不詳なので推定)
孟子 仁義と王道政治を説いた戦国の亜聖
屈原 毛沢東が田中角栄に本を渡した意味
斉の孟嘗君――鶏鳴狗盗の食客を活用した戦国の四君
平原君―食客とともに乱世を戦う
趙の藺相如――国を守った刎頸の交わり
- 前403年、「三晋」が周王朝から正式に諸侯に認められた。戦国時代の開始年をここに置く説が有力。
- 前380頃、年代不詳。蘇秦は東周(洛陽付近)に生まれる。
- 前350頃、鬼谷子に学ぶ。漢文説話では張儀と同門とされるが、史実は2人は活躍時代か違う可能性がある。
cf.【刺股懸梁】しこけんりょう 蘇秦は読書して眠くなるとキリで自分の股を刺した。
後漢の孫敬はロープで頭と梁をつないで読書した。
- 340頃、蘇秦は秦に遊説したが失敗し、困窮して帰郷。家族からも馬鹿にされた。
- 330頃、蘇秦は燕で取り立てられ、合従策をもって諸国を遊説した。まず趙を説き、次いで韓・魏・斉・楚・燕を説得。
cf.【鶏口牛後】けいこうぎゅうご 蘇秦が韓王を説得したときの名言
- 328頃、六国合従成立、蘇秦は六国の相印をおびる。秦の東方進出をストップさせた。
実家に帰ると、家族は卑屈なほどうやうやしい態度で迎えた。
cf.【前倨後恭】ぜんきょ−こうきょう
「使我有洛陽負郭田二頃、豈能佩六国相印乎」
我をして洛陽負郭の田二頃を有らしめば、豈に能く六国の相印を佩びんや
ワレをしてラクヨウフカクのデンニケイをアらしめば、
アにヨくリッコクのショウインをオびんや。
(もし実家にそこそこの不動産があれば、私はこんな大出世はできなかったろう)
https://manapedia.jp/text/3764
- 324頃、斉・魏が秦と結んで趙を攻撃。合従瓦解。
- 322頃、斉が燕を攻撃し、文侯死去に乗じて十城を奪取。蘇秦は斉を説いて城を返還させた。
- 321頃、燕王から冷遇され、再び斉に移った。斉では人々から敵視され命を狙われた。
- 318頃、蘇秦は刺客に襲われ重傷を負い、死去。死の直前に、犯人を炙り出す策略を進言した。
○司馬遷『史記』巻69・蘇秦列伝第九
cf.https://ja.wikisource.org/wiki/史記/卷069
AIも使った現代語訳
蘇秦(そしん)は、東周(とうしゅう)の洛陽(らくよう)の人である。東方に赴き、斉(せい)において師に学び、鬼谷(きこく)先生のもとでその術を習った。
その後、数年にわたって遊説に出たが、大きく失敗して帰郷した。兄弟、兄嫁、妹、妻、妾(しょう)までもがひそかに彼を笑って言った。
「周の人々の風俗では、家産を整え、農工商に励み、十分の二の利を追うことを務めとしている。
今、あなたは本業を捨てて、口舌の業に従ったのだから、失敗して当然であろう」と。
蘇秦はこれを聞いて恥じ入り、自らを痛んで、部屋に閉じこもり、外に出ず、蔵書を取り出して繰り返し読んだ。そして言った。
「そもそも士(さむらい)として書を受け入れ、首を垂れて学んだのに、尊貴や栄誉を得ることができないのであれば、書を多く読んでも何の意味があろうか」と。
そこで『周書』の『陰符(いんぷ)』を見つけ、それを伏して読みふけった。
一年後、熟読して自ら練磨し、「これによって当世の君主を説得できるであろう」と言った。そして周の顕王(けんおう)に説こうとした。だが、顕王の側近たちはかねてから蘇秦を知っていたが、彼を軽んじて信用しなかった。
そこで西に赴き秦に至ったが、秦の孝公(こうこう)はすでに没していた。蘇秦は恵王(けいおう)を説いてこう言った。
「秦は四方を山に囲まれ、渭水(いすい)に沿い、東には関中と黄河があり、西には漢中(かんちゅう)、南には巴蜀(はしょく)、北には代馬(たいば)がある。
これはまさに天の宝庫(てんぷ)である。秦の民の多さと兵法の教えをもってすれば、天下を呑み込み、皇帝と称して統治することも可能である」と。
だが秦王は言った。
「羽毛が未だ生え揃わぬ鳥が高く飛べるはずもなく、文理の明らかでない者が天下を兼ねることもできぬ」と。
そしてちょうど商鞅(しょうおう)を誅殺した直後で、弁士を忌み嫌っていたため、蘇秦を用いなかった。
そこで蘇秦は東へ向かい趙(ちょう)へ行った。趙の粛侯(しゅくこう)は弟の成(せい)を宰相とし、奉陽君(ほうようくん)の号を授けていた。しかし奉陽君は蘇秦の説を容れなかった。
蘇秦はさらに燕(えん)に赴き、一年以上たってようやく燕の文侯(ぶんこう)に謁見することができた。彼は文侯にこう説いた。
「燕の東には朝鮮(ちょうせん)・遼東(りょうとう)、北には林胡(りんこ)・楼煩(ろうはん)、西には雲中(うんちゅう)・九原(きゅうげん)、
南には嘑沱(こだ)・易水(えきすい)がある。領土は二千里余り、甲冑を備えた兵士は数十万、戦車六百台、騎馬六千騎、穀物は数年分を支える。
南には碣石(けつせき)・雁門(がんもん)の豊かさがあり、北には棗(なつめ)と栗の利がある。民が耕作せずとも、棗と栗だけで足りるほどである。
これこそ天の宝庫というべきものである。
そもそも安寧で争いのない国で、軍が全滅したり将が討たれた例がなく、戦を免れてきた国として燕に勝るものはない。大王はその理由をご存じか。燕が甲冑をつけての戦いを免れてきたのは、趙が南の盾となってきたからである。秦と趙は五度戦い、秦が二勝、趙が三勝している。秦と趙が互いに疲弊し、燕は無傷でそれに乗じてきた。これが燕が戦を免れた理由である。
さらに秦が燕を攻めようとすれば、雲中・九原を越え、代・上谷を過ぎ、数千里の地を踏破しなければならない。たとえ燕を得たとしても、秦にとっては守り切れぬであろう。秦が燕を害することは、明らかに困難である。だが趙が燕を攻めるとなれば、号令ひとつで十日もかからずに数十万の軍が東垣(とうえん)に展開する。嘑沱を渡り、易水を越え、四、五日で都に迫ることができる。ゆえに秦が燕を攻めるのは千里の彼方の戦い、趙が燕を攻めるのは百里の内の戦いである。百里の脅威を顧みず、千里の脅威を重んずるのは、まことに愚策である。よって大王には、趙と親しくして合従の策をとり、天下が一つとなれば、燕に災いは決して訪れまい」と。
文侯は言った。
「あなたの言には理がある。しかし我が国は小国であり、西は強国の趙に迫られ、南は斉に近い。斉と趙はいずれも大国である。もしそなたがどうしても合従の策で燕を安んじようというなら、私は国をあげてこれに従おう」と。
そこで文侯は蘇秦に車馬・金銀財宝を与え、趙へと送り出した。
しかし趙では奉陽君がすでに死んでおり、蘇秦は趙の粛侯に直接こう説いた。
「天下の卿相(けいしょう)・人臣、あるいは平民の士に至るまで、みな貴君の行いと義を高く評価し、長らく教えを受け、忠を尽くしたいと願っていた。しかしながら、奉陽君の嫉妬と、君が彼を任用していたことにより、賓客や遊士たちはみな自らの才を尽くすことができなかったのである。今や奉陽君も没し、君はふたたび士民と親しもうとされている。ゆえに私は愚考をあえて進言するものである」と。
ひそかに君のために計るに、最もよいのは、民(たみ)を安んじて事(こと)なきを旨とすることである。すなわち、民に何かをさせるような事態を起こしてはならないということである。民を安んずる根本は、交(まじわり)を選ぶことにある。交をうまく選べば民は安んじられ、交を誤れば民は一生不安のうちにある。
ここで外患について述べよう。斉(せい)と秦(しん)は共に敵対する存在であり、どちらかに頼っても民は安んじられない。秦に依って斉を攻めても安まらず、斉に依って秦を攻めても安まらない。ゆえに、他国を説得してその国を攻めさせるような者は、常に言葉巧みに交わりを断ち切ることを苦心して行っている。どうか君には、そうしたことを軽々しく口に出さないよう願いたい。
白(はく)と黒とが分かれる理由は、ただ陰陽の差にすぎない。君がもし誠実に私の言に耳を傾けてくだされば、燕(えん)は必ず旃裘(せんきゅう:毛皮)・狗馬(くば:犬や馬)の産地を手にし、斉は魚や塩の海産をもたらし、楚(そ)は橘(きつ)や柚(ゆ)の園を提供し、韓(かん)・魏(ぎ)・中山(ちゅうざん)もまた湯沐(とうもく)の奉(ほう:俸禄)を捧げるであろう。そして貴族や親族・兄弟たちも、皆が封侯(ほうこう:諸侯に封ぜられる)されることが可能である。
そもそも、土地を割き利益を独占することは、五伯(ごはく)が軍を滅ぼし将を虜(と)ってまで求めたものであり、封侯や栄誉をめぐって貴戚(きせき)らが争ったのは、殷湯(いんとう)・周武(しゅうぶ)らの時代のように、王を廃し君を立てるような事でもあった。今、君が高く手を拱(こまぬ)いて座っていながら、これらの利益をすべて手にできるのは、私が君のために最も願うことである。
今、もし大王が秦と同盟すれば、秦は必ず韓と魏を弱体化させようとするであろう。もし斉と組めば、斉は必ず楚と魏を弱めようとする。魏が弱まれば黄河の外を割譲せざるをえず、韓が弱まれば宜陽(ぎよう)を差し出すことになる。宜陽を失えば上郡(じょうぐん)との道が絶たれ、黄河の外を割譲すれば交通路は途絶する。楚が弱まれば、燕にとって援軍がなくなる。これら三つの策については、慎重に計算せねばならない。
秦が軹道(しどう)を下れば、南陽(なんよう)は危機に陥る。秦が韓を脅し、周(しゅう)を囲めば、趙氏(ちょうし)は自ら兵を操ることになるであろう。
衛(えい)を占拠し、巻(けん)を奪えば、斉は必ず秦に朝貢するであろう。秦が山東(さんとう)を得ようと望めば、必ず兵を挙げて趙に向かうに違いない。
秦軍が黄河を渡り、漳水(しょうすい)を越え、番吾(ばんご)に拠れば、戦は必ず邯鄲(かんたん)の地に及ぶことになる。これが私が君のために憂えることである。
当今の情勢において、山東諸国の中で最も強国なのは趙である。趙の領土は二千里余り、甲冑を備える兵士は数十万、戦車千台、騎馬一万匹、穀物は数年分に及ぶ。西には常山(じょうざん)、南には黄河と漳水、東には清河(せいか)、北には燕国がある。燕は確かに弱国であり、恐れるには足らない。
だが、秦が天下にとって最も脅威とするのは趙である。それにもかかわらず、秦が敢えて趙を攻めようとしないのはなぜか。それは、韓・魏がその背後から議(はか)ろうとすることを恐れているからである。ゆえに、韓・魏は趙の南の盾なのである。
秦が韓・魏を攻める際、そこには険しい山や大河といった天然の障壁はない。ゆえに、少しずつその領土を食い、国都の近くにまで進出してきている。韓・魏が秦に抵抗できなければ、必ずや秦に服属することになる。もし秦が韓・魏を制圧すれば、次に趙に災いが降りかかるのは必定である。これが私が君のために恐れることである。
臣(わたくし)は聞いております。堯(ぎょう)は三夫(さんぷ/臣下)の支配地すら持たず、舜(しゅん)は咫尺(しせき/わずかな)ほどの土地も持たずして天下を有し、禹(う)は百人ほどの民も擁せずして諸侯の王となったと。湯王(とうおう)・武王(ぶおう)の軍勢は三千人に満たず、戦車も三百乗(しょう)、兵卒は三万人にすぎなかったが、それでも天子の位に就いた。これこそ、まことに道を得たからである。
したがって、明君(めいくん)は外にあっては敵の強弱を測り、内にあっては自国の士卒の賢不肖を見極め、両軍が相対して戦う前に、すでに勝敗・存亡の分かれ目は心中に明らかとなっている。どうして衆人の意見に惑わされ、あやふやなまま事を決するようなことがあろうか。
臣はひそかに天下の地図を展べて案じてみた。すると、諸侯の土地は秦(しん)の五倍あり、兵力は秦の十倍に達する。六国が一つになって力を合わせ、西に向かって秦を攻めれば、秦は必ず敗れるであろう。ところが現状は、西に向かって仕え、かえって秦に臣下として見られている。敵を打ち破るのと、敵に打ち破られるのと、他人を臣属させるのと、自分が臣属するのとでは、どうして同列に論じられようか。
そもそも、衡人(じょうにん/秦に内通する者)とは、皆が諸侯の領土を割譲して秦に与えようとする者たちである。秦はこれを受けて高殿を築き、壮麗な宮殿を建て、竽瑟(うしつ)の音楽に耳を傾け、前には高楼閣、後には美人が侍っている。だがその一方で、諸侯の国々は秦の害にさらされながら、その苦しみを分かち合おうとはしない。ゆえに、衡人たちは日夜、秦の権勢を利用して諸侯を脅かし、土地を割譲させようと躍起になっている。どうか大王には、これを慎重にご判断いただきたい。
臣はまた聞いております。明君とは疑いを絶ち、讒言(ざんげん)を排し、流言の根を断ち、朋党(ほうとう/派閥)の門を閉ざす者であると。だからこそ、尊君の地位を高め、領土を広げ、兵力を強める策を、臣は今ここに忠心をもってご進言するのです。
ひそかに大王のために計るに、韓(かん)・魏(ぎ)・斉(せい)・楚(そ)・燕(えん)・趙(ちょう)の六国が親しく連携し、秦に背くのが最善であります。諸国の将軍や宰相たちが洹水(かんすい)のほとりに集い、互いに人質を交わし、白馬を裂いて血盟を結び、約定を交わすのです。その盟約の内容は次のようなものです。
秦が楚を攻めれば、斉・魏は精鋭を出してこれを援け、韓は秦の糧道を断ち、趙は黄河・漳水(しょうすい)を渡って進軍し、燕は常山の北を守る。
秦が韓・魏を攻めれば、楚はその背後を断ち、斉は精鋭を出して援軍とし、趙は河漳を渡り、燕は雲中を守る。
秦が斉を攻めれば、楚が後方を断ち、韓は城皋(じょうこう)を守り、魏は道を封鎖し、趙は河漳・博関(はくかん)を渡って進み、燕は精鋭を出して援軍とする。
秦が燕を攻めれば、趙は常山を守り、楚は武関(ぶかん)に軍を置き、斉は勃海(ぼっかい)を渡り、韓・魏はいずれも精鋭を出して援軍とする。
秦が趙を攻めれば、韓は宜陽(ぎよう)に軍を置き、楚は武関に軍を置き、魏は河外に兵を進め、斉は清河を渡り、燕は精鋭を出して援軍とする。
この盟約に背いた諸侯があれば、他の五国が連合してこれを討伐する。
このように六国が親しく連携し、賓客のように秦と対すれば、秦の軍は決して函谷関(かんこくかん)を越えて山東(さんとう)を侵すことなどできぬ。かくして覇王(はおう)の事業は完成するのです。」
趙王(ちょうおう)は言った。
「寡人(かじん)は年若く、即位してまだ日が浅く、国家の長期計画について聞いたことがなかった。だが今、上客(じょうかく/尊敬する賓客)が天下を心にかけ、諸侯の安寧を思われていること、まことに感銘を受けた。寡人は国をあげてこれに従おう。」
そこで、車百乗(しょう)、黄金千溢(せんいつ)、白璧百双、錦繍(きんしゅう)千純を用意し、諸侯への使者として蘇秦を派遣した。
このころ、周の天子は秦の恵王(けいおう)に文武の胙(そ/祖先の祭祀の土地)を贈っていた。恵王は犀首(さいしゅ)を魏に攻め込ませ、将軍の龍賈(りゅうか)を捕え、魏の雕陰(ちょういん)を奪ったうえで、さらに東への軍事行動を計画していた。
蘇秦は、秦兵が趙に迫るのを恐れ、張儀(ちょうぎ)を怒らせて秦に引き入れ、その間に策を進めた。
次に韓の宣王(せんおう)を説いて言った。
「韓は北に鞏(きょう)・成皋(せいこう)の堅固な地があり、西に宜陽(ぎよう)・商阪(しょうはん)の険地、東に宛(えん)・穰(じょう)・
洧水(いすい)、南に陘山(けいざん)がある。領土は九百里あまり、甲冑を備える兵士は数十万、天下の強弓・強弩は皆、韓から出る。
谿子(けいし)、少府(しょうふ)、時力(じりき)、距(きょ)といった射手は、六百歩(ぶ)以上の距離からでも的に命中させる。
韓兵は走りながら射ることもでき、百発も撃つ間に一息もつけぬ。遠くを射れば矢は盾を貫き胸を穿ち、近ければ矢頭が心臓を貫く。
韓兵の剣や戟(げき)は冥山(めいざん)、棠谿(とうけい)、墨陽(ぼくよう)、合賻(ごうふ)、ケ師(とうし)、宛馮(えんぷう)、龍淵(りゅうえん)、太阿(たいあ)などの名産である。
これらは、陸において牛馬を断ち、川において白鳥や雁をも切ることができる。敵に向かえば、堅甲や鉄幕、革甲をも貫通する。すべてが備わっている。
韓兵の勇猛さと重装備、強弩、鋭利な剣をもってすれば、一人で百人に当たるも同然である。
そのような強い韓の力と、大王のご賢明さとをもってしながら、西に向かって秦に仕え、手を組んで服従している。これは社稷(しゃしょく/国家)を辱め、天下の笑いものになるという点で、これ以上の恥はない。ゆえに大王には慎重にご判断いただきたい。
大王が秦に仕えるならば、秦は必ず宜陽・成皋を要求してくるであろう。今年それを与えれば、来年にはまた新たな領土を要求してくる。
与えれば土地が尽き、与えなければ過去の譲歩が無駄となり、さらなる災いを招く。そもそも、大王の国土には限りがあるが、秦の欲望には限りがないのです。
有限の土地で無限の要求に抗うのは、まさに怨みを買い、禍を招くことにほかならない。戦わずしてすでに国土を失っているようなものです。
臣は俗諺(ぞくげん)を聞いたことがある。『寧(むし)ろ鶏口(けいこう)となるも、牛後(ぎゅうご)となるなかれ』と。
今、秦に手を交えて従属するというのは、まさに牛後にほかならない。大王のご賢明さと、韓の強兵をもってしながら、牛後と呼ばれるのは、まことに大王の名誉に関わることであり、臣としてはこの上なく恥ずかしく思います」
これを聞いた韓王は、怒って顔色を変え、腕をまくり目を見開いて剣に手をかけ、天を仰いで大きく嘆息して言った。
「寡人は不肖とはいえ、決して秦に仕えることなどできぬ。今や主君(蘇秦)が趙王の教えを伝えてくれた。寡人は国家をかけて社稷をお守りし、これに従おう。」
また蘇秦は魏の襄王(じょうおう)に説いて言った。
「大王の領土は、南に鴻溝(こうこう)・陳(ちん)・汝南(じょなん)・許(きょ)・
郾(えん)・昆陽(こんよう)・召陵(しょうりょう)・舞陽(ぶよう)・新都(しんと)・
新郪(しんき)があり、東には淮水(わいすい)・潁水(えいすい)・
煑棗(しゃそう)・無胥(ぶしょ)、西は長城の境界に至り、北には河外(かがい)・巻(けん)・衍(えん)・酸棗(さんそう)などがある。領域は千里に及びます。
土地の名こそ小さいが、農村や住居の数は数えきれず、草を刈って馬を飼う場所すらないほどである。
人民は多く、車馬はひしめき、昼夜を問わず行き交い、どこもかしこも賑わって、あたかも三軍(さんぐん)の兵が動くかのようである。
わたくしはひそかに大王の国力を量ったところ、楚(そ)に劣らぬほどであると存じる。
それなのに、衡人(じょうにん:秦の手先)は大王を惑わし、強大なる虎狼の如き秦と手を結ばせ、他国を侵略しようと勧める。だが、結果として秦の害を受けながら、その災いを顧みないのは誤りである。
秦の勢力を後ろ盾にして、自国の主君を内から脅すような行為こそ、これ以上ない大罪である。魏は天下でも屈指の強国であり、大王は天下でも屈指の賢君である。それにもかかわらず、今や西に顔を向けて秦に仕え、『東の藩屏(はんぺい)』を自称し、帝の宮殿を築き、冠帯を賜って春秋の祭祀を行うなどとは、わたくしは大王の恥と存じる。
わたくしはまたこう聞いている。越王句踐(えつおうこうせん)は、疲弊した三千の兵で夫差(ふさ)を干遂(かんすい)において捕え、周の武王(ぶおう)は三千の兵と三百乗(しょう)の革製の戦車を率いて、牧野(ぼくや)で紂王(ちゅうおう)を倒した。それは兵の数が多かったからではなく、威勢を奮ったからである。
今、大王の兵をひそかに聞くに、武士が二十万、蒼頭(そうとう:従者・雑兵)が二十万、奮撃兵が二十万、下僕が十万、戦車が六百乗、騎馬が五千匹に及ぶという。これは、越王句踐や武王をはるかに凌いでいる。
それにもかかわらず、大王は群臣の言葉に耳を貸し、秦に仕えようとしている。秦に仕えるためには必ず領土を割いて献上する必要があり、兵を使う前からすでに国土は失われてしまう。群臣のうち秦に仕えることを説く者たちは、みな奸臣であり、忠臣ではない。
そもそも、主君に仕える者が、自らの主の領土を割譲して外交に当て、一時の功績を盗み取って将来を顧みず、公の利益を損ねて私利を得ようとする。外には秦の勢力を借り、内では主君を脅して土地を割譲させる――これこそ大王において、よく見抜いていただきたいことである。
周書(しゅうしょ)にいわく、『綿々(めんめん)として絶えず、蔓蔓(まんまん)としていかんせん。毫釐(ごうり)も伐たざれば、将に斧柯(ふか)を用いんとす』と。これは、些細な問題を放置すれば、やがて大問題に発展することを戒めた言葉である。前もって考慮を怠れば、後に大きな災いが起こる。どうなさるおつもりであろうか。
大王がまことにわたくしの言葉を聞き入れてくださるならば、六国が連携し、心を一つにして力を合わせれば、強大な秦の脅威など恐れる必要はない。
よって、わが趙王(ちょうおう)は愚かなわたくしに策を託し、盟約の内容をお伝えすることを命じられた。すべては大王のご裁断にかかっております。」
魏王は言った。
「寡人(かじん)は不肖にして、いまだ賢者の教えを聞く機会もなかった。だが今、主君(しゅくん:蘇秦)が趙王の詔(みことのり)を伝えてくれた。寡人は社稷(しゃしょく/国家)のために、謹んでこれに従おう。」
蘇秦はさらに東に赴いて、斉の宣王(せんおう)にこう説いた。
「斉の南には泰山(たいざん)があり、東には琅邪(ろうや)、西には清河(せいか)、北には勃海(ぼつかい)を擁し、四方を自然の要害に囲まれた『四塞(しそく)の国』であります。斉の領土は二千里余りにおよび、武装兵は数十万、蓄えた穀物は丘や山のようである。
三軍の精兵、五家ごとの徴兵は、進めば鋒矢(ほうし/鋭い矢)のごとく、戦えば雷霆(らいてい/激しい雷)のごとく、退けば風雨のようである。いざ軍役となっても、泰山を越え、清河を絶え、勃海を渡るようなことはない。
臨菑(りんし)の都には七万戸があり、わたくしの試算では一戸に男子三人としても二十一万人にのぼる。遠方の郡から兵を徴するまでもなく、臨菑一都市のみで既に二十一万の兵を動員できる計算となる。
臨菑は非常に富み栄え、民は皆、竽(う)や瑟(しつ)を吹き、琴(こと)や筑(ちく)を奏で、闘鶏や猟犬の遊び、六博(ろくぼく)や蹴鞠(けまり)を楽しんでいる。街の道では車の車輪がぶつかり合い、人々の肩がすれ違い、衣の裾が幕のようにつながり、袖の動きが天蓋のようになり、汗が雨のように滴る。家々は豊かで人々は満ち足り、志は高く、気概も盛んである。
これほどに、斉の強さと大王の賢明さがあれば、天下に敵う者はいない。にもかかわらず、西に向かって秦に仕えるとは、わたくしは大王の恥と考える。
そもそも韓(かん)・魏(ぎ)が秦を恐れるのは、国境が秦と接しているからである。兵を出せば十日もかからず勝敗が決する。もし秦と戦って勝てば兵の半数は損耗し、四方の守りは手薄になる。負ければ国の滅亡が迫る。ゆえに、韓・魏は秦と戦うのをためらい、かえってその属国となることを選んでいるのである。
だが秦が斉を攻めるとすれば事情は違う。韓・魏の領土を越え、衛(えい)・陽晋(ようしん)の道を通り、亢父(こうほ)の険阻を抜けねばならない。その地では車は並んで通れず、騎馬は横に並べない。百人が守れば千人でも突破できない。秦が深入りすれば、後ろから韓・魏の攻撃を恐れ、進退きわまり、進軍を断念せざるを得ない。したがって、秦が斉に害を加えるのは不可能であることが明白である。
そのような秦の無力を深く理解せず、みだりに西面して仕えようとするのは、群臣の浅慮です。今こそ、秦に仕える名分なくして強国の実を保ち、大王には深くお考えいただきたい。」
斉王は言った。
「寡人(かじん)は愚かにして、海辺の辺境に在り、東の果てにある国を守るのみであったため、これまで他国の教えを聞く機会がなかった。今、そなたが趙王(ちょうおう)の詔(みことのり)を伝えてくださった。謹んで、国をもってこれに従おう。」
蘇秦は続いて西南へ赴き、楚の威王(いおう)にこう説いた。
「楚は天下の強国であり、大王は天下の賢君である。西には黔中(けんちゅう)・巫郡(ふぐん)、東には夏州(かしゅう)・海陽(かいよう)、
南には洞庭(どうてい)・蒼梧(そうご)、北には陘塞(けいさい)・郇陽(じゅんよう)を擁し、
領土は五千里余、武装兵は百万人、戦車は千乗、騎馬は万匹、穀物の蓄えは十年分に及ぶ。まさに覇王の資質である。
これほどの楚の強さと大王の英明さをもってすれば、天下に抗する者はいない。なのに西に向かって秦に仕えようとするならば、諸侯は皆、章台(しょうだい:秦王宮)に朝見するようになってしまう。
秦が最も脅威とするのは楚である。楚が強ければ秦は弱くなり、秦が強ければ楚が弱くなる。両者が並び立つことはできない。ゆえに、大王のためには、諸侯とともに秦を孤立させる『合従(がっしょう)』こそが最上の策である。
大王がこれを拒めば、秦は必ず二手に分かれて軍を出す。一軍は武関(ぶかん)から進軍し、もう一軍は黔中から下る。そうなれば楚の
鄢(えん)・郢(えい)は危機に瀕するであろう。
『乱れる前に治め、起こる前に備える』――これが政の道である。災いが起きてから悔やんでも、もはや手遅れである。よって、大王にはお早めにお考えいただきたい。
もし大王がわたくしの言をお聞き入れくださるなら、山東(さんとう)の諸国をして四季の貢ぎ物を奉らせ、大王の明詔を仰ぎ、社稷を託し、宗廟を奉じ、兵を鍛え、軍を整えさせ、大王の指揮のもとにすべてを運ばせよう。
この拙き計をお用いくださるならば、韓・魏・斉・燕・趙・衛の国々から、妙なる音楽と美しい女性が後宮を満たし、燕・代(えん・たい)の駱駝や良馬が外厩(がいきゅう)に充ちるであろう。ゆえに、諸侯が一致団結すれば楚王が覇を唱えることになり、もし秦との連携が成れば秦が帝となる。今、覇王たる地位を捨て、臣属の名を得ようとするのは、大王にはふさわしくないと存じる。
秦は虎狼の国であり、天下を呑み込もうという野心をもっている。秦は天下の仇敵である。合従に反対する者は、みな諸侯の土地を割譲させて秦に仕えさせようとする者であり、これは仇を育てて敵に奉ずることに等しい。
主君に仕える者がその領土を割って秦のような強欲な虎狼に奉じ、天下を侵略させ、ついに秦の災いに見舞われても、その責任を顧みないとは何たることか。外に秦の威を借り、内では主君を脅して領土を割譲させる。これこそ、最大の謀反であり、不忠の極みである。
ゆえに、合従とは諸侯が土地を割って楚に仕える策であり、連衡とは楚が土地を割って秦に仕える策である。この二策の差は天地ほどに大きい。さて、大王はどちらをお選びになるか。
わたくしは愚策を趙王に託され、盟約を奉じてこれをお伝えする次第です。」
楚王は言った。
「わが国は西で秦と国境を接している。秦は巴蜀(はしょく)と漢中を併呑しようとしている。秦は虎狼の国であり、親しむべき相手ではない。
また韓・魏は秦の脅威に直面しており、深く共謀することはできない。ともに策を練ろうとすれば、逆にその内容が秦に漏れ、謀が成る前に国が危機に陥る。わたくしは楚一国で秦に抗して勝つとは思えず、内においては家臣と相談しても頼みとするには足らぬ。
わたくしは床に伏しても安らかに眠れず、食しても味がせず、心はぐらぐらと定まらず、風にはためく旗のように落ち着かない。
今、そなたが天下を一つにまとめ、諸侯を糾合し、危機に瀕した国々を救おうとするならば、わたくしは社稷を託し、謹んでこれに従おう。」
こうして六国は合従して力を合わせた。蘇秦はその盟約の長(ちょう)となり、六国の宰相を兼ねたのである。
蘇秦(そしん)は趙王(ちょうおう)に成果を報告するため北へ戻る途中、洛陽(らくよう)を通過した。彼の車列や物資は非常に豪華で、各国の諸侯は使者を送り、あたかも王者のように遇した。
周の顕王(けんおう)もその威容を恐れて道を整え、人を派遣して郊外まで出迎えた。
蘇秦の兄弟の妻や嫂(あによめ)たちは彼を見ると、顔をそむけ、うつむいて跪き、飲食の際も傅(まか)り仕えるようになった。蘇秦は笑いながら嫂に問うた。
「なぜ、以前は横柄だったのに、今はこうも丁重なのか?」
嫂は平伏して地面に顔をつけ、こう答えた。
「季子(蘇秦)は高位にのぼり、黄金を持つようになられたからでございます」
蘇秦は大きく嘆息して言った。
「一人の人間でさえ、富貴になれば親類縁者も畏れ敬い、貧賤なら軽んずるのだ。ましてや世間の人々はなおさらだ。
もし私が洛陽郊外に田二頃でも持っていたら、どうして六国の宰相印を佩びることができたろうか。いや、できなかった。」
こう言って、千金を宗族や旧友に惜しみなく分け与えた。
かつて蘇秦が燕へ赴くとき、ある人物から百銭を借りて旅費とした。富貴を得たのち、その人物に百金を返した。また、恩を受けた者すべてに返礼をしたが、ある従者がただ一人だけ受け取れず、自ら進み出て言った。
蘇秦は答えた。
「忘れていたわけではない。お前が私とともに燕に向かった際、易水(えきすい)の上で何度も私を見捨てようとした。
あの時、私は困窮しており、お前に深く望みをかけていた。だから後回しにしたのだ。だが今、報いはすでに受けたであろう」
蘇秦が六国の合従を成立させ趙に帰ると、趙の粛侯(しゅくこう)は彼に「武安君(ぶあんくん)」の称号を与えた。
そして合従の誓書を秦に送りつけた。以後、秦軍は十五年間、函谷関(かんこくかん)を越えて東進できなかった。
その後、秦は謀略により犀首(さいしゅ)を使い、斉と魏を欺いて趙を攻めさせ、合従を崩そうとした。
斉・魏が趙を攻めると、趙王は蘇秦を責めた。蘇秦は恐れて、自ら燕に赴き、斉を説得して報復すると請い出た。
しかし、蘇秦が趙を去ると、合従は解体してしまった。
秦の恵王(けいおう)は娘を燕の太子の妃にした。その年、燕の文侯(ぶんこう)が死に、太子が即位して燕の易王(えきおう)となった。
斉の宣王(せんおう)は燕の喪中を狙って燕を攻め、十城を奪った。燕王は蘇秦を呼び、言った。
「先生がかつて燕に来られ、先王が資金を出して趙へ赴かせ、六国を合従させた。だが今や、斉はまず趙を攻め、次いで燕を攻めた。
これは天下の笑い者である。先生、斉から奪われた十城を取り戻せるか?」
蘇秦は深く恥じ入り、こう答えた。
「必ずや取り戻してご覧に入れましょう」
蘇秦は斉王に謁見し、再拝しながら、うつむいて祝い、仰いで弔った。
斉王は問うた。
「祝いと弔いが同時に来るとは、どういうことか?」
蘇秦は言った。
「餓えた人が腹を満たすために烏(からす)のくちばしから食べようとは思いません。それは飢えをしのげても、命を落とす恐れがあるからです。
今、燕は小国ながら、秦王の娘婿(むこ)です。十城を奪って秦と敵対すれば、強大な秦が後方を攻める恐れがあります。
これはまさに烏の口から食べるようなものです」
斉王は色を変えて問うた。
「では、どうすればよいのか?」
蘇秦は答えた。
「古の賢者は、災いを転じて福とし、失敗をもって成功に変えました。大王がもし私の策をお聴き入れくださるなら、十城を燕に返上なされ。
燕は理由もなくして領土を得れば歓喜し、秦も自らの縁故ゆえにそれが返されたと知れば喜びましょう。これは仇敵を捨て、石のように堅固な友を得る方法です。
もし燕と秦がともに斉に仕えるなら、大王は天下に号令できる立場となり、誰も逆らえません。
これは言葉だけで秦と結び、十城をもって天下を取る――すなわち、覇王の業であります」
斉王は「善し」と言って、十城を燕に返還した。
ある者が蘇秦を誹謗して言った。
「この者は主君を売り、立場を二転三転させる反覆の臣であり、必ず謀反を起こすであろう」
蘇秦は罪を恐れて燕に戻ったが、燕王はもはや官職を与えなかった。蘇秦は燕王に謁見し、こう言った。
「私は東周の辺境の卑しい者でございます。寸分の功績もなかった私を、王は廟で拝受し、廷で礼遇してくださいました。
私は斉の兵を退け、十城を得ました。むしろ、親しみが増すべきところです。
いま王が私に官を与えられないのは、何者かが中傷し、私を不信に陥れたからに違いありません。
しかし、不信は王の災いではなく、むしろ福であります。忠信というものは自らの行動で証明されるもの、進取というものは他人のためにするものです。
私は母を東周に捨てて進取の道を選びました。
もし曾参(そうしん)のように孝行で、伯夷(はくい)のように廉潔で、尾生(びせい)のように信義を守る者がおれば、三人で王に仕えることができましょう。
だが、曾参のように一夜たりとも親から離れない者を、どうして燕王が千里の旅に遣わせましょう。
伯夷のように封爵を受けず首陽山で餓死した者に、どうして進取を望めましょう。
尾生のように、橋の下で女と約束して洪水に抱柱して死んだ者を、どうして兵を退けるために用いましょう。
これこそ忠信によって罪を得るということであります」
燕王は言った。
「忠信にして罪を得る者など、いるはずがなかろう」
蘇秦は答えた。
「それは違います。ある官吏が遠方へ赴任している間に、その妻が不義を犯しました。
相手は夫が帰ることを恐れると、妻は『大丈夫、毒入りの酒を用意してある』と言いました。夫が三日後に帰宅すると、妻は女中に酒を運ばせました。
女中は毒があることを告げようとすれば女主人に追放され、告げなければ主人を殺すことになる。悩んだ末に、酒をわざとこぼしました。
主人は激怒し、彼女を杖で五十回も打ちました。
女中は、上は主人を守り、下は女主人を守ったのに、なお罰を受けたのです。忠信であっても罪を免れぬとはこのことでしょう。
私の過ちも、まさにこれと同じであります」
燕王は言った。
「先生、旧官にお戻りください」
そのうえ、さらに厚遇した。
だがその後、燕王の母である文侯夫人(ぶんこうふじん)と蘇秦は密通していた。
燕王はそれを知っていたが、むしろ礼遇を増した。蘇秦は誅殺を恐れ、燕王にこう説いた。
「私が燕にいる間は、燕の国威を高めることができませんが、斉にいれば燕の価値は高まります」
燕王は言った。
「先生の思うままにせよ」
そこで蘇秦は、罪を犯したふりをして燕を去り、斉に逃れた。斉の宣王は彼を客卿(かくけい)として遇した。
のちに宣王が没し、湣王(びんおう)が即位した。
蘇秦は湣王に「孝を示すには豪華な葬礼を」「得意を示すには高い宮殿と広大な苑を」と説いた。
彼の意図は、斉を浪費させ、疲弊させることによって燕に有利にすることであった。
やがて燕の易王が没し、燕噲(えんかい)が王となった。
その後、斉の大夫たちは蘇秦と寵を争い、刺客を送って彼を襲わせた。蘇秦は一命をとりとめて逃げた。
斉王は刺客を探させたが見つからなかった。蘇秦は死の間際、斉王に言った。
「私が死んだら、私の身体を車裂きにして市場に晒し、『蘇秦は燕のために斉に乱を起こさんとした』と掲げてください。そうすれば、真犯人は必ず名乗り出るでしょう」
斉王はその言葉通りにした。果たして、刺客は自首し、斉王は即座にこれを処刑した。
燕ではこの報を聞き、こう言った。
「斉はなんと手厚く蘇秦の仇を討ったことか!」
○その他
- 蘇秦や合従連衡は、後世の文芸作品でもよく登場する。
以下、吉川英治の小説『三国志』赤壁の巻・舌戦(https://www.aozora.gr.jp/cards/001562/files/52415_51066.html)より引用。赤壁の戦いの前、諸葛孔明が呉の群臣に対して、曹操と対決すべきことを説く場面。引用開始
虞翻が口を閉じると、すぐまた、一人立った。淮陰の歩隲、字は子山である。
「孔明――」こう傲然呼びかけて、
「敢て訊くが、其許は蘇秦、張儀の詭弁を学んで、三寸不爛の舌をふるい、この国へ遊説しにやってきたのか。それが目的であるか」
孔明は、にことかえりみて、
「ご辺は蘇秦、張儀を、ただ弁舌の人とのみ心得ておられるか。蘇秦は六国の印をおび、張儀は二度まで秦の宰相たりし人、みな社稷を扶け、天下の経営に当った人物です。さるを、曹操の宣伝や威嚇に乗ぜられて、たちまち主君に降服をすすめるような自己の小才をもって推しはかり、蘇秦、張儀の類などと軽々しく口にするはまことに小人の雑言で、真面目にお答えする価値もない」
一蹴に云い退けられて、歩隲が顔を赤らめてしまうと、
「曹操とは、何者か?」と、唐突に問う者があった。
孔明は、間髪をいれず、
「漢室の賊臣」と、答えた。
[一番上]
第2回 荊軻 始皇帝暗殺未遂事件の伝説的な刺客
YouTube https://www.youtube.com/playlist?list=PL6QLFvIY3e-ld38HO1WlBRFLyzL9GAmNU
○ポイント、キーワード
- 刺客列伝 しかくれつでん
司馬遷の『史記』列伝の一つ。曹沬、専諸、豫譲、聶政、荊軻の5人を取り上げる。
後世の儒教的な歴史家は、司馬遷がテロリストの列伝を立てたことを批判する声もあった。
- 風蕭蕭として易水寒し かぜしょうしょうとしてしえきすいさむし
決死の戦いに旅立つときの、悲壮な覚悟を表すことば。出典は司馬遷の『史記』。
- 白虹貫日 びゃっこう、ひをつらぬく
不吉なたとえ。出典は司馬遷の『史記』巻83・魯仲連鄒陽列傳第二十三「昔者荊軻慕燕丹之義、白虹貫日、太子畏之」。
○辞書的な説明
- 『デジタル大辞泉』より引用
けい‐か【荊軻】
[?〜前227]中国、戦国時代の刺客。衛の人。燕(えん)の太子丹の依頼で、秦王政(始皇帝)を刺そうとして失敗、殺された。
太子との別れに、易水(えきすい)のほとりで作った易水送別の歌「風蕭々として易水寒し、壮士一たび去って復た還らず」(「史記」刺客伝)の詩が有名。
荊卿。→易水
- 『日本大百科全書(ニッポニカ) 』より引用
荊軻けいか(?―前227)
中国、戦国時代の刺客。衛(えい)の人。剣術を好んで燕(えん)に赴く。当時秦(しん)に人質となっていた燕の太子丹(たん)は、秦王政(せい)(始皇帝)の待遇が悪かったので逃げ帰ってきていた。丹は、小国の燕が大国の秦に勝つには秦王を脅迫して土地を諸侯に返還させるか、あるいは暗殺するしかないと考え、荊軻に暗殺を依頼する。荊軻は秦から逃亡してきた樊於期(はんおき)将軍の首と、燕の督亢(とっこう)の地図を携えて出発する。易水のほとりで、太子らとの別れに際して「風蕭々(しょうしょう)として易水寒し、壮士一たび去ってまた帰らず」と歌った。秦王は地図を献上されたものと喜んで広げたが、その瞬間、荊軻は地図の内に隠していた匕首(あいくち)を取り出して秦王を突いた。秦王は驚いて身を引き、剣を抜こうとしたが抜ききれず、逃げ回る。武器の携帯を許されていない臣下たちも、とっさのことで手をこまぬいていたが、やがて秦王自ら剣を抜き荊軻に切りつけ、続いて従臣たちが彼を殺してしまう。『史記』刺客列伝に記されたこの事件は、古来、名場面として知られている。その後、燕は秦に攻撃され、紀元前222年に滅ぼされた。
[鶴間和幸]
○同時代の人物(荊軻の生年が不明なため、下記の人物の一部は同時代でない可能性もある)
○略年表
- 年代不明、3世紀半ば、荊軻は衛の国に生まれる。学識と剣術に優れた人物として育つ。諸国を流浪。
- 年次不明。燕(えん)の国に至る。犬の屠殺を生業とする「狗屠」や、筑の名手・高漸離(こうぜんり)らと親交を深め、「傍若無人」の語源となる。
- 前232年、燕の太子丹(たいしたん)が、秦から燕に帰国。『燕丹子』によると、秦に人質となっていた丹が帰国を希望すると、秦王政(丹の幼なじみ後の始皇帝)は
「烏の頭が白くなり、馬に角が生えたら帰国させてやる」と言った。丹が嘆くと、この二つの奇跡が実現した。秦王政はやむを得ず帰国を許した、という。
- 230年ごろ。秦が東方の諸国を次々と滅ぼすなか、燕国は危機をつのらせる。太子丹は荊軻を秦王政(後の始皇帝)暗殺の刺客として迎える。
- 227年、荊軻が秦におもむき、秦王暗殺計画を決行。純粋な暗殺ではなく、秦王を脅迫して領土返還を約束させることを第一目的、それができぬ場合は秦王を殺す、という二段構えの計画だった。
それも一因となり、暗殺は失敗。
- 226年、暗殺未遂の報復として、秦は大軍をもって燕を攻撃。燕の都・薊(けい)が陥落。燕王喜と太子丹は遼東へ逃れる。
代の王嘉(おうか)は燕王に太子丹を殺して秦に差し出すよう勧め、丹は殺される。
- 前222年、燕が滅亡。
- 前221年、秦が天下を統一。秦王政は始皇帝となる。
○司馬遷『史記』刺客列伝より
参考 https://ja.wikisource.org/wiki/史記/卷086
荊軻(けいか)は衛(えい)の人である。彼の先祖はもと斉(せい)の人であったが、衛に移り住んだため、衛の人々は彼を慶卿(けいけい)と呼んだ。しかし燕に移ると、燕の人々は彼を荊卿(けいけい)と呼んだ。
荊軻は読書と剣術を好み、その技術をもって衛の元君(げんくん)に説得を試みたが、元君はこれを用いなかった。その後、秦が魏を攻めて東郡を設置し、衛の元君の一族を野王(やおう)に移した。
荊軻はかつて楡次(ゆじ)を旅した際、蓋聶(がいじょう)という人物を相手に、剣について論じた。蓋聶は怒ってにらみつけた。荊軻が出て行くと、人々の中に再び荊卿を呼び戻す者がいた。蓋聶は言った。
「剣について、彼はとんちんかんなことを言うので、私は彼をにらみつけてやった。彼が去るのは当然だ。ひきとめるな」
それでも使者が荊卿のもとに行くと、彼はすでに馬で榆次を去っていた。使者が戻って報告すると、蓋聶は「ほれ、去ったろう。俺ににらみつけられたからな」と言った。
荊軻は趙の首都・邯鄲(かんたん)に遊び、魯句踐(ろこせん)と博打をした。口論になった。魯句踐は腹を立て、怒鳴った。荊軻は黙ったまま、立ち去った。それきり、再び会うことはなかった。
荊軻は燕の国都に着いた。燕の狗屠(くと)と、筑の演奏家である高漸離(こうぜんり)とつきあった。荊軻は酒を好み、毎日、狗屠や高漸離とともに燕の市で飲んだ。酒が盛り上がると、高漸離が筑を奏し、荊軻はそれに合わせて市中で歌った。盛り上がると涙を流し、人目をはばからず【旁若無人 ぼうじゃくぶじん】感情をあらわにした。荊軻は酒席に遊ぶこともあったが、性格は沈着で学問を好み、諸侯のもとを訪ねるたびに、現地の賢者や豪傑と親交を結んだ。燕においても、処士である田光先生は彼をよくもてなし、彼がただ者ではないことを見抜いていた。
その後、秦に人質として送られていた燕の太子丹が、亡命して燕に帰ってきた。太子丹は、その前は人質として趙に送られていた。秦王政(後の始皇帝)は趙で生まれ、幼い頃は丹と親しかった。その後、政は秦王となり、丹は秦で人質となった。秦王政は太子丹に冷たく接した。丹は恨んで燕に逃げ帰ったのである。帰国後、丹は秦王政に報復しようとしたが、燕の国力は弱小だった。その後、秦は東に兵を出して斉・楚・三晋を攻め、徐々に諸侯を侵食し、その脅威はついに辺境の燕にまで及んだ。燕の君臣は皆、秦の侵略を恐れた。
太子丹はこれを憂い、師傅(しふ。守り役)である鞠武(きくぶ)に尋ねた。鞠武は答えた。
「秦の領地は天下に及んでおります。韓・魏・趙を威圧し、北には甘泉・谷口という堅固な地があり、南には・渭の肥沃な地があります。巴・漢の豊かな地を支配し、右には隴・蜀の山岳が、左には関・殽の険阻があります。
人口は多く士は勇ましく、兵器も豊富です。わが国の領域である長城の南、易水の北の地がまだ飲み込まれておりませんが、時間の問題でしょう。秦の恨みを買い、かの王の逆鱗(げきりん)に触れてはなりません」
「では、どうすればよいのか?」
「奥にお入りください。そこでご相談しましょう」
そうこうしているうちに、秦の将軍である樊於期が秦王政に罪を得て、燕に亡命してきた。燕の太子丹は亡命を受け入れようとした。鞠武は反対した。
「だめです。秦王政は暴虐です。わが燕に対して怒りも蓄えています。これだけでも心配なのに・・・・・・まとて樊於期将軍が、わが燕にいることを知られたら、これはまさに『餓えた虎の道に肉を置く』ようなものです。きっと禍(わざわい)が起きます。たとえ、いにしえの管仲や晏嬰のような賢人がいても、この危険は避けられません。お願いします。すぐに樊於期将軍を(外国である)匈奴へ送り、口封じをしてください。さらに西の三晋(晋の領地)、南に斉や楚、北に単于(匈奴の首領)と結び、今後の秦への対応策を練るべきです」
太子は言った。
「あなたの消極策では、わが国の運命はじり貧になるだけだ。先延ばししても、希望はない。それだけではない。樊於期は天下で行き場所を失い、私の元に身を寄せている。丹は決して、強大な秦に屈して同情すべき人物を匈奴に送り捨て去ることはない。私も絶体絶命の危機にある。もっとよく考えてください」
鞠武は言った。
「そもそも、危険な選択をしながら平安を求め、わざわいの種をまきながら福を願うのは、思慮が浅く恨みを買います。一人の亡命者のために国全体の危険をかえりみないのは、いわゆる『怨みを資(たす)けて禍を助く』というものです。重い羽毛を炉炭に投じるようなもの、必ず災いがあります。ましてや鷹のように獰猛な秦が、怨みと暴虐の怒りをもって行動するのです。慎重の上にも慎重を。わが燕には田光先生という人物がいます。知恵は深く、沈着で勇敢です。彼と謀るべきです」
「田先生との関係を、とりもってくれるか?」
「かしこまりました。」
鞠武が田光のもとに行き、
「太子は先生と国事を相談したいと願っています」
と言うと、田光は
「お受けいたします。」
と答え、太子丹のもとにやってきた。
太子はわざわざ出迎えて道案内し、跪いた。異例の礼遇である。田光は座った。周囲に誰もいない。太子は小声で言った。
「燕と秦は共存できません。どうかお知恵をください」
田光は言った。
「一日に千里を駆ける騏驥(きき)も、老いれば駑馬(どば)にも追い抜かれます。太子は、私が若かったころの評判をお聞きのようですね。私は老いて、衰えています。でも、おそれながら荊軻(けいか)という人物をご推薦します」
「先生は、私を荊軻にとりもってくださいますか」
「かしこまりました。」
田光が退出するとき、太子はわざわざ門まで送り、念をおした。
「今日の密談は国の存亡にかかわる大事です。くれぐれもご内密に」
田光はうつむいて笑い「承知しました」と答えた。
田光は荊軻に会い、告げた。
「私はあなたと親しい。燕国の者は皆それを知っている。今、太子は、私の全盛期の評判を聞いて私を呼んだが、今はもうこのように老いている。燕と秦はどちらかが滅びねばならぬ、という認識は、太子と私は同じだ。君は直接、太子と会って話してほしい」
「わかりました」
「もうひとつ。『年長者は行動に慎重で人に疑われないようにするものだ』と言う。太子は私に国の事を打ち明けたあと『ご内密に』と念をおした。私は信用されていないようだ。侠として面目ないことだ」
田光は、自分が自殺することで、荊軻を激励しようとした。
「これからすぐ太子のもとに行き、田光は死んだ、と伝えてくれ。私が死ねば秘密は漏れない」
田光は自刎(じぶん)した。【自刎は、自分で自分の首を刎(は)ねること。字義通りの意味は、自分の首を完全に切断すること。ただし、実際には、実際は頸動脈を切ったりのどをえぐるだけで、胴体と首が離れるまでに至らないことがおおい。古代中国人の死生観では、遺体が残っていれば魂は再生できると信じられていたので、死ぬこと自体はそんなに怖くなかった。例外は首の切断で、首と胴体が離れると魂は永遠に再生できないと考えられ、完全な死として恐れられた。】
荊軻は太子に会い、田光の死と最期の言葉を伝えた。太子は深く頭を下げて跪き、膝をついて涙を流した。
「私が田先生に念をおしたのは、大事を成すためでした。今、田先生は死をもって口を閉ざされた。私の本意ではありません」
荊軻が席に着くと、太子は距離を置いて敬意を示し、額を地につけて言った。
「田先生は、不肖・私と話しあってくださった。天はわが燕を憐れみ、まだ見捨てていない。今、秦の貪欲さは限りがない。天下の土地をすべて奪おうとしている。
秦はすでに韓の王捕え、土地を奪い尽くした。さらに兵を挙げ、南は楚を討ち、北は趙に迫っている。秦の王翦将軍は数十万の軍勢を率いて漳・鄴を攻め、李信は太原・雲中から進軍中です。趙は秦に抵抗しきれず、降伏するでしょう。趙が秦の軍門にくだれば、次はわが燕です。燕は弱小国家で、戦争に苦労してきました。わが国の総力を結集しても、秦の侵略に対抗できません。もはや、わが国と連合して秦と戦う諸侯もいません。そこで、苦肉の策がございます。どなたか、天下の勇士を秦に派遣して、領土割譲を餌に秦王に会見を求めるのです。秦王は貪欲なので、きっと会見するでしょう。そこで、秦王を襲撃し、彼を人質にとって交渉するのです。秦が侵略してきた土地を、全て返還することを約束させるのです。かつて魯の曹沫(そうかい)が斉の桓公(かんこう)に短刀を突きつけて領土の返還を約束させた故事を、再現するのです。秦王が承諾しなければ、彼をその場で刺殺する。秦は強権国家であり、外征の軍隊は強いが、国内の臣下は互いに疑心暗鬼の状態で、秦王が死ねば内乱状態になるでしょう。その隙に天下の諸侯が再び連合すれば、秦に勝利できます。これが私の秘策です。私も命をかけています。ぜひ、あなたにお願いしたい」
しばらくの沈黙ののち、荊軻は言った。
「これは国の大事です。私のような身分の低い者では務まらないかもしれません」
太子はひたすら頭を下げ続けた。荊軻は承諾した。
流れ者だった荊軻は、燕の上卿に任じられ、豪邸を与えられた。太子は毎日、荊軻のもとを訪れ、太牢(盛大な供え物)を供え、珍しい品々を贈り、馬車や美女も思いのままに与え、手厚く待遇した。
その後、荊軻は一見すると平穏な生活を送った。そうこうしているうちに、秦の将軍・王翦は趙を破って趙王を捕らえ、その土地をすべて併合した。秦軍は北進して燕の南境に迫った。太子丹は恐れ、荊軻に言った。
「秦兵は間もなく易水を渡ってきます。そうなれば、私がいくらあなたに長く仕えたいと思っても、叶いませぬ」
荊軻は答えた。
「そのお言葉を待っていました。私が秦王へ謁見する時が来ました。今この時期でなければ、疑い深い秦の国に近づくことはできません。秦王は、樊於期(はんおき)将軍の首に、金千斤と邑万家の賞金をかけています。私に、樊将軍の首と、燕の督亢(とくこう)の地図をください。私はそれを献上するという名目で、秦王に会見を申し込みます。秦王にに直接対面できれば、今まで受けたご恩に報いることができましょう」
太子は言った。
「樊将軍は困窮して、私に頼ってきた。彼の気持ちをふみにじるのは、忍びません。どうかよくお考えください」
荊軻は太子の気持ちを知ると、自分で樊於期と対面した。
「秦の将軍(樊於期)に対する仕打ちには、言葉もございません。ご両親やご親族は、皆、命を奪われたとのこと。そのうえ秦王は、将軍の首に金千斤(非常に多額の金)と邑万家の報償をかけた、と聞いております。この先、どうなさるお考えですか」
樊於期は天を仰いで嘆息し、はらはらと涙を流した。
「いつもそればかり考えています。骨の髄まで痛みます。しかし、どうすればよいのか。私にもわからないのです」
「一つ、策がございます。燕国の災いを解き、将軍の仇を討つことができる策略です」
「どんな策ですか」
「あなたの首をいただき、それを秦王に献上するのです。秦王は喜んで私と会見するでしょう。私は隙を見て、左手で秦王の袖を掴み、右手でその胸を押さえつけてやります。そして将軍の仇を討ち、燕に対する辱めを晴らします。いかがでしょうか」
「それです。それこそ私が日夜、望んでいたことです。お教え、ありがとうございます」
樊於期は自刎して死んだ。太子はこれを聞いて駆けつけ、倒れて泣き悲しんだ。樊於期の首は、箱に納められ、封をされた。
太子は、天下一の匕首(ひしゅ。あいくち。短刀)を探し求め「趙の徐夫人の匕首」を百金で入手した。そして職人に命じて、熱した毒薬を匕首にしみこませた。試しに人を刺すと、糸ひとすじほどの血がにじんだだけで、誰もが即死した。太子はこれを荊軻に持たせて派遣した。
燕国には秦舞陽(しんぶよう)という勇敢な少年がいた。13歳で人を殺したが、誰も彼に逆らえぬほどの荒くれ者だった。そこで秦舞陽を荊軻の副官として同行させることにした。
荊軻は荊軻で、同行させたい人物がいた。その人物は遠方に住んでいた。荊軻は待ち、出発しない。太子は、ひょっとして荊軻が怖じけずいたのでは、と疑い、かまをかけた。
「日数だけが過ぎてゆきます。ご出発なさるおつもりはありますか。私は秦舞陽を先に派遣しようと思います」
荊軻は怒って太子を叱りつけた。
「太子は、私を見込んでくださったのではなかったのですか。ただ暗殺するだけの捨て石の役なら、小童(こわっぱ)でもできます。匕首一本だけを手に、強大な秦にひとりで乗り込む私が、まだ出発しない理由は、私が見込んだ人物と同行するためです。太子が今すぐに、とおっしゃるなら、今すぐ出発します」
太子と、秘密の計画を知る賓客たちは、みな白い衣冠(喪服)を着用して、生前葬の出で立ちで荊軻の出立を見送った。荊軻は易水(えきすい)に至り、道祖神に祈った。高漸離は筑(弦楽器)をかき鳴らし、荊軻は演奏に和して変徵(へんち。ソのフラット)で歌った。士は涙を流した。荊軻は進んで自作の詩を吟じた。
風蕭蕭兮易水寒
壮士一去兮不復還
風、蕭蕭として易水寒し。壮士、一たび去って復た還らず。
羽(ドレミファ、のラにあたる音)で慨嘆を歌った。士たちは目を怒らせ、怒髪は冠をついた。【燕趙悲歌の士】 荊軻は馬車に乗り、振り返らずに去って行った。最後まで振り返らなかった。
秦に到着した。荊軻は千金に及ぶ贈り物を、秦王の寵臣である中庶子・蒙嘉に贈った。蒙嘉は秦王に申し上げた。
「燕王は大王さまの威を心より恐れております。あえて兵を構え陛下に逆らうことはしません。燕王の願いは、国を挙げて秦の臣下となり、他の諸侯と同様に郡県の役職をつとめ俸禄をもらい、先祖の宗廟を奉じて守ることを望んでおります。燕王は小心者で、恐れ多くて自ら参上して述べることができません。そこで燕王は、謹んで樊於期の首と燕の領土である督亢の地図を函に封じ、それを大王さまに献上するため、使者を派遣してきました。使者は、わが国の朝廷で大王さまと会見して言上するよう命じられております。大王さまはどうぞ、おとりはからいくださいますよう」
秦王(秦王政。後の始皇帝)はこれを聞いて大いに喜び、朝服を着て九賓の儀を設け、咸陽宮で燕の使節を迎えた。荊軻は樊於期の首を納めた箱を持ち、秦舞陽は地図を納めた箱を持ち、前に進んだ。秦王の玉座のきざはしのもとに至った。秦舞陽は顔色が変わり、ぶるぶる震えた。群臣はいぶかしく思った。荊軻は秦舞陽を振り返り、微笑みを浮かべてあやまった。
「こやつはなにぶん、北の最果ての田舎者です。初めて天子のお姿を仰ぎ見て、震えておるのでございます。陛下に願わくば、私どもが任務をまっとうできますよう、今少しお時間をくださいませ」
秦王は荊軻に命じた。
「舞陽が持つ地図を見せよ」
荊軻は、舞陽の手から地図を取ると、秦王に渡した。秦王が地図の巻物を開くと、地図の端が尽きて匕首が出てきた。荊軻は左手で秦王の袖を掴んだ。右手で匕首を握り、秦王の胸に押し当てる。体に届く寸前、秦王は驚いて身をよじる。立ち上がる。袖がぷつりと切れる。秦王は剣を抜こうとする。剣は長く、鞘からすぐに抜けない。秦王は逃げた。荊軻は追う。秦王は柱の周りを走る。群臣は驚いた。席を立って動揺したが、不意のことで動けない。秦の法では、殿中の群臣は武器を持参できない。護衛は殿下に控え、秦王の命令がなければ上がれない。外の衛兵に命令しても、間に合わない。秦王の側近は、素手では、追いかける荊軻を止められない。侍医の夏無且(かむしょ)は、薬の袋を荊軻に投げつけた。柱の周りを逃げ回る秦王に、側近たちは、
「背中から抜剣してください」
と言った。秦王は背中に手を回す。剣は、さやから抜け出た。荊軻は左ももを斬られて倒れた。手にした匕首を秦王に投げつける。はずれた。匕首は銅の柱に当たった。秦王は続けざまに荊軻を斬る。彼は八つの傷を受けた。
荊軻は失敗を悟った。柱に寄りかかって笑い、両足を前に投げ出して座った。
「事が成らなかったのは、秦王を生かしたまま領土の返還を約束させようと思ったからだ。燕の太子に報いるつもりであった」
側近たちは荊軻にとどめを刺した。
秦王は事件後しばらく憂いを晴らせなかった。関係者の論功行賞を行い、侍医の夏無且には黄金200枚を賜った。
「夏無且はふだんから私のためを思ってくれている。だから薬嚢で荊軻を止めてくれたのだ」
腹の虫がおさまらない秦王は、趙への遠征軍を増員し、将軍の王翦に燕への侵攻を命じた。十ヶ月で、燕の首都・薊(けい)城は陥落した。燕王喜(えんおうき)と太子丹らは、精鋭を率いて遼東まで退いた。秦の将軍・李信は燕王喜を追撃した。
燕王喜と連合して秦軍と戦っていた代王嘉(だいおうか。趙の亡命政権である代国の王。趙の最後の王)は、燕王喜に書簡を送って言った。
「秦が燕を執拗に急追するのは、太子丹のせいです。もしあなたが丹を殺して秦王に献げれば、秦王は必ず和解し、社稷(国家)は血を流さず安泰になるでしょう」
その後、秦の将軍・李信は太子丹を追撃した。丹は衍水(えんすい)に身を隠した。燕王は使者を送り、太子丹を斬らせた。遺体を秦に献じようとしたが、秦軍は進撃をやめなかった。五年後、秦はついに燕を滅ぼした。燕王喜は捕虜となった。
翌年(紀元前221年)、秦は天下を統一し、秦王政は自ら「始皇帝」と号した。
秦は太子丹や荊軻の残党狩りを行った。みな逃亡した。
高漸離(こうぜんり)は改名して労働者に身をやつし、宋子(そうし)という分限者のもとに隠れ住んだ。苦しい生活を送った。ある日、やしきの中から筑の演奏が聞こえてきた。高漸離はその場から立ち去れず、「あそこはよいが、ここはだめだ」と評価を口にした。演奏のたびにそんなことが続いた。
「あの使用人は音楽の通ですね。こっそり、演奏のよしあしを論評しています」
従者から報告を受けた主人は、高漸離に筑を奏でさせてみた。すばらしい演奏だった。一堂は彼に褒美の酒を与えた。
高漸離は思った。このまま隠れていても、きりがない。覚悟を決めよう。彼は箱に隠していた筑を取り出し、晴れ着に着替えると、あらためて人々の前にあらわれた。一堂は驚き、彼を上客として待遇した。高漸離は筑を撃って歌った。みな感動して涙を流した。
この話は秦始皇の耳にも入った。秦始皇は、謎の筑の名手を引見した。高漸離を見知っている者がいて、
「これは高漸離でございます」
と告げた。始皇帝は、彼の筑の技を惜しんだ。殺さずに身近に置くこととし、彼の目をつぶした【漢字「民」の字源説】。始皇帝は、高漸離に演奏させるたびに、その腕前を激賞した。彼はだんだん、秦始皇に近づくことができた。高漸離は筑の中に鉛を仕込んだ。始皇帝の身近で演奏したとき、突然、筑で始皇帝に打ちかかった。はずれた。
高漸離は処刑された。始皇帝はその後、死ぬまで、諸侯の人を身近に置かなかった。
魯句踐は、荊軻の秦王暗殺未遂事件を聞いて、ひそかに語った。
「ああ、残念だ。彼が暗殺剣の術をきわめなかったことが。わたしは人を見る目がなかった。以前、私は彼に怒鳴った。彼のほうこそ、わたしを人間じゃない、と心の中で見下していたに違いない」
○その他
- 1962年の大映映画『秦・始皇帝』(1962年)では、市川雷蔵が荊軻を、宇津井健が太子丹を、佐々木孝丸が田光を、石黒達也が樊於期を演じた。
高漸離は登場せず、代わりに、荊軻の妻・蘭英(これは、この映画オリジナルの架空の人物。演じたのは中村玉緒)が筑を弾いた。
- 筑(ちく)は竹の棒で元を叩いてかき鳴らす打弦楽器であった。戦国時代から唐の時代まで楽器として使われたが、その後は消滅した。
現代中国では、考古学的な出土品をもとに、古代の筑が復元されている。
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第3回 阿倍仲麻呂 中国史の一部となった日本人
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第4回 黄巣 唐に引導を渡した科挙落第者の怨念
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第5回 呉三桂 明清交替戦争の決定票を握る将軍
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先秦時代(三皇五帝、夏・殷・周、春秋・戦国)
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- 殷の紂王 酒池肉林の伝説の虚と実
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- 「19浪」の苦節をのりこえた覇者 晋の文公
- 夏姫 衰えぬ美貌で多くの君臣と関係した美魔女
- 楚の荘王――初めは飛ばず鳴かずだった覇者
- 孫子 戦争哲学を説いた春秋と戦国の二人の孫子
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秦・漢・三国(漢末)
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- 文天祥 歴史を変えた科挙の首席合格者 ぶんてんしょう
- マルコ・ポーロ 世界史を変えた大旅行家
明・清
- 史上最強の引き締めの結末 明の洪武帝
- 明の永楽帝 世界制覇の見果てぬ夢
- 鄭和 大航海時代を開いたムスリムの宦官
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