古来、世界の権力者は、軍隊や治安組織などの「暴力装置」、宗教や学問を利用した「権威装置」、臣下や民衆の不満の暴発を防ぐ「安全装置」を力のよりどころにしてきました。日本や西洋と違い、中国では21世紀の今も安全装置が未熟なままです。前3世紀の秦の始皇帝から現代の国家主席まで、中国の歴代の権力者は「騎虎(きこ)の勢い」状態です。いったん虎(権力の比喩)にまたがって走り出したら、途中で止まれない。もし虎の背中から降りれば、たちまち自分が虎に食い殺される。中国はなぜ、このような国となったのでしょう。その理由と歴史的経緯を、豊富な図像を交えて、予備知識のないかたにもわかりやすく説き明かします。(講師・記)日程 2022/1/13, 1/27, 2/24, 3/10, 3/24 第2週・第4週 木曜 10:30〜12:00 全5回 (引用終了)
帝尭陶唐氏は、姓は伊祁である。名は放という説もある。帝嚳の息子である。 その仁の心は天のようで、その知力は神のようだった。彼の近くにつきしたがえば輝く太陽のように思え、遠くから見ると高い恵の雲のように見えた。 尭は、都を平陽(現在の山西省臨汾市堯都区の「堯廟」あたりか)に置いた。宮殿は「茅茨不翦(ぼうしふせん)、土階三等」 という質素なものだった(かやぶき屋根で、軒先も切りそろえておらず、土台の高さはわずか三段ぶんだけであった)。 宮殿の庭に雑草が生えた。毎月の十五日までは、毎日葉が一枚づつ生えた。 毎月の後半は逆に一枚づつ葉が落ちた。 ただし三十日未満の月は(旧暦は、大の月は三十日、小の月は二十九日)葉が一枚だけ残って落ちなかった。 この草を「蓂莢」(めいきょう)と名付け、葉を観察して上旬・中旬・下旬の推移や、朔日を知った。 尭が天下を統治して五十年たった。 冶まっているのかいないのか、 億兆(十万、百万)の民が自分を推戴することを願っているのか願っていないのか、 彼にはわからなかった。 左右の側近に聞いてもわからない。 朝廷の臣下に聞いてもわからない。 在野の識者に聞いてもわからない。 そこで、尭はおしのびで外出し、康衢(こうく。道路が四方八方に通じている、町中)を歩きまわった。 子供が歌っていた。 立我烝民、莫匪爾極。不識不知、順帝之則。 (我が烝民を立つる、爾の極に匪ざる莫し。識らず知らず、帝の則に順う) ――私たち人民の生活が成り立つのは、みな、あのかたの究極の徳政のおかげ。みんなは知らないうちに、天子さまのお触れにしたがっている。 【堯は、プロパガンダのにおいを嗅ぎ取り、安心できなかった】 老人がいた。口に食べ物を含んで自分の腹つづみをうち、地面を叩きながら歌った。 日出而作、日入而息。鑿井而飲、畊田而食。帝力何有於我哉。 (日出で作(な)し、日入りて息う。井を鑿うがちて飲み、田を畊(たがや)して食らう。帝力、何ぞ我に有らんや) 日が出てりゃ働く。暮れれば休む。井戸堀り水飲む、耕し食べる。天子の力なんて関係ないね。 【堯は、民衆が真に自由であることを知り、ようやく安心した】 尭は華山に行幸した。山の関所の番人が言った。 「おお、聖人に祝福の言葉を捧げます。あなた様が長生きしますよう。豊かになって多くの男子に恵まれますよう」 尭は言った。「やめてくれ。男子が多いと心配事が増える。豊かになれば面倒が増える。 長生きすれば恥辱を受けることが増える(寿則多辱。いのちながければ、すなわち、はじ、おおし)」 番人は反論した。 「天は万人をこの世に生むと、必ず職を授けます。 男の子が多くても、仕事を与えれば、何の心配事もありませんよ。 豊かになったら、富を人々に分配すれば、何の面倒も起きませんよ。 天下に道がある世なら、万物と共に繁栄を謳歌すればよろしいでしょう。 天下に道がない世なら、徳を修めて暇を楽しみ、千年のあいだ世間と距離を置き、 昇天して白い雲に乗り神様のいる天国に行けば、恥辱を受ける心配はありませんよ」 |
帝舜有虞氏は姚姓である。名は重華という、という説もある。瞽瞍(瞽叟。こそう)の息子で、
顓頊の六世の孫である。 舜の父は、後妻の色香に惑溺(わくでき)し、後妻との間にできた象(しょう)という子を溺愛し、 いつも舜を殺そうとつけ狙った。が、舜は孝悌(こうてい)の道を尽くし、人格を修養して姦淫に至らなかった。 【説話では、舜は後妻から姦淫を迫られたが拒否し、焼き殺されそうになったとき屋根から原始的なパラシュートで 降りて脱出したり、と様々な苦労をしている。舜は実家を離れ、流浪の生活を送った。】 舜が歴山で農耕生活を送ると、近くの人々は感化され畦を譲り合うようになった。 舜が雷沢で漁師になると、人々は感化さ漁場を譲るようになった。 舜が河岸で焼き物を焼くと、器はゆがまずきれいに焼き上がった。 舜が住むと自然に人が集まって村ができ、二年で町になり、三年で都会になった。 時の天子であった堯は、舜が聡明であることを聞いて、彼を民間から抜擢したいと考えた。 堯は、自分の2人の娘、娥黄と女英を舜の嫁にしようとして、嫁入り道具を調えて嬀汭(ぎぜい。山西省の地名)に行かせた。 こうして舜は、堯の大臣となり、政務を行った。いわゆる「四罪」(舜四凶)【共工(きょうこう)、驩兜(かんとう)、鯀(こん)、三苗(さんびょう)の4人の悪神、ないし神話的人物】 を退けた。具体的には、驩兜を放逐し、共工を流刑にし、鯀を死刑にし、三苗を山奥へ追いやった。 その一方、才子である「八元八ト」の16人を登用し、九官を任命し、十二牧(12人の地方長官)と国政を協議した。 才能のある善良な者を十六人登用し、国政を分担する官僚を任命し、地方を統治する十二人の総督と相談した。こうして、四海の内(天下、の意)はみな舜の功績のおかげをこうむった。 舜は「五絃之琴」を弾き、「南風之詩」を歌い、天下はうまく治まった。詩に曰く。 南風之棘a、可以觧吾民之慍兮、南風之時兮、可以阜吾民之戝兮。 (南風の薫ずる、以て吾が民の慍(いかり)を解くべし。南風の時なる、以て吾が民の財を阜(ゆたか)にすべし) ――南の風がかぐわしく吹く。わが民の心はやさしくなれる。南の風が吹くべきときに吹く。わが民の財産は豊かになれる。 時景星出、卿雲興。百工相和而歌曰、卿雲爛兮、糺縵縵兮、日月光華、旦復旦兮。 (南風之薫れる、以て吾が民之慍りを解く可し、南風之時なる、以て吾が民之財を阜つむ可しと。 その時、空にめでたい星が輝き、めでたい雲がわいた。百官は唱和した。 卿雲爛兮、糺縵縵兮、日月光華、旦復旦兮。 (卿雲爛たり。糺(キュウ)縵縵(マンマン)たり。日月(ジツゲツ)光華あり、旦、復た旦) ――めでたい雲が輝いて、よじれて、ゆるゆる長く伸びる。太陽と月は光輝き、朝の次はまた朝。 舜の子の商均は、不肖の馬鹿息子だった。そこで舜は、禹を天に推薦した。引退した舜は南に巡狩(じゅんしゅ)し、蒼梧(そうご。湖南省永州市寧遠九疑山)の野で亡くなった。 |
堯曰「咨爾舜。天之暦數在爾躬。允執其中。四海困窮。天禄永終」。舜亦以命禹。(以下略)
堯いわく「ああ、なんじ舜。天の暦数、なんじのみにあり。まことにその中(ちゅう)を執れ。四海、困窮せば、天禄、永く終わらん」と。 舜もまたもって禹に命ず。
(要約)堯の時代。歴山の農民は畑の境界を争い、 黄河の漁師は釣場を奪いあい、 東夷の陶工は粗悪な土器を作った。それぞれの地に 舜が一年住むと、舜の仁徳に教化されて、それぞれの人民は立派になったという。また『韓非子』五蠹(ごと)にいう。
孔子は、舜は聖人だ、と感嘆した。
が、これは矛盾である。
もし堯が本当に完璧な聖天子なら、天下に不正や乱れはなかったはずだ。 舜が乱れを改めたというなら、堯は聖人ではなかったことになる。 堯と舜が同時に聖人であることは、「矛盾」の話と同じで、論理的に成り立たないのである。
また、舜は1年に1箇所ずつ、つまり3年でたった3箇所を教化できたにすぎない。効率が悪すぎる。
もし、私が主張しているとおり、信賞必罰の法令を天下の人民に施行すれば、すぐに天下は治まるだろう。
(要約)昔、堯が王であった時代、王宮は質素だった。 屋根は「茅茨不剪」、たる木は丸太のままのクヌギ。堯の食べ物は粥とアカザや豆の葉のスープ。 衣服は、冬は鹿の皮、夏は葛(かずら)。現代の門番だってもっとましな暮らしをしている。
禹が王となった時には、スキやクワをみずから持って率先して肉体労働にいそしみ、ふくらはぎの肉がなくなり、すねの毛がすり切れてなくなったという。 現代の奴隷だってこれよりは楽である。
つまり、堯や舜が天子の位をあっさりと譲ったのは、門番の暮らしや奴隷の労働から自由になることと同義だった。 ゆえに、天下を譲る、なんて、当時はぜんぜん美談ではなかったのだ。
今から五十年ほどまえ、わたしが第一高等学校に入学したばかりのこと、一年生の東洋史の箭内亙先生が、東洋史のはじ めに、堯・舜などという帝王たちは実在の人物ではなくて後世のつくり話だと講義 された。そのとき、クラスのなかにいた中国の留学生が突然たちあがり、血相かえ て「先生!堯舜アリマス」といって抗議したという事件があった。堯と禹と舜で 「天・地・人」の思想を擬人化したものだといわれ、 それが少壮学者に支持されたわけです。しかし、この学説は当時の漢学者からみま すと、「まことにけしからん」というわけである。漢学者先生たちが堯・舜を抹殺 されてはといって論議されたのは、ちょうど中国の留学生が「先生!堯舜アリマ ス」といったのと、ほぼ同じ心境で、今から思うとほほえましい。
が、僕の心もちは明るい電燈の光の下にだんだん憂欝になるばかりだつた。 僕はこの心もちを遁れる為に隣にゐた客に話しかけた。彼は丁度獅子のやうに白い頬髯ほほひげを伸ばした老人だつた。 のみならず僕も名を知つてゐた或名高い漢学者だつた。従つて又僕等の話はいつか古典の上へ落ちて行つた。
「麒麟はつまり一角獣ですね。それから鳳凰もフエニツクスと云ふ鳥の、……」
この名高い漢学者はかう云ふ僕の話にも興味を感じてゐるらしかつた。僕は機械的にしやべつてゐるうちにだんだん 病的な破壊慾を感じ、堯舜を架空の人物にしたのは勿論、「春秋」の著者もずつと後の漢代の人だつたことを話し出した。 するとこの漢学者は露骨に不快な表情を示し、少しも僕の顔を見ずに殆ど虎の唸るやうに僕の話を截り離した。
「もし堯舜もゐなかつたとすれば、孔子は譃をつかれたことになる。聖人の譃をつかれる筈はない。」
僕は勿論黙つてしまつた。
吉川英治の小説『三国志』「臣道の巻」より引用。引用開始。
彼(曹操)は胸襟をひらいて、赤裸の自己を見せるつもりでいう。 いかにも自然児らしく、今なお洛陽の一寒生らしくも見える。 だが、そのどこまでが、ほんとうの曹操か。 玄徳は、彼の調子にのって、自分の帯紐(おびひも)をといてしまうような風は容易に示さない。 玄徳が、曹操の程度に自己を脱いで見せれば、それはすっかり自己の全部を露呈してしまうからともいえよう。――玄徳は自分をつつむのに細心で周到であった。いや臆病なほどですらある。 よく取れば、それは玄徳が人間の本性をふかく観つめ、自己の短所によく慎み、あくまで他人との融和に気をつけている温容とも心がけともいえるが、悪く解すれば、容易に他人に肚をのぞかせない二重底、三重底の要心ぶかい性格の人ともいえる。 すくなくも、曹操の人間は、彼よりはずっと簡明である。時おり、感情を表に現わしてみせるだけでも、ある程度の腹中はうかがえる。 ――が、そうかといって、玄徳は肚ぐろく曹操はより人がよいとも、云いきれない。(以下略) |
劉表は、前漢の景帝(在位、前157−前141)の四男・魯恭王劉余の子孫。劉備は、同じく景帝の九男・中山靖王 劉勝の子孫を称した。 「宗族のよしみ」の関係である。 劉備は、景帝の七男・長沙定王劉発の子孫、という説もある。 なお後漢の歴代皇帝は、 長沙定王劉発の子孫である。 |
吉川英治の小説『三国志』「赤壁の巻」より引用。最初のセリフは劉表。
「さ。……そこが難しい。……自分も近ごろは、老齢に入って、しかも多病。いかんせん、この難局に当って、あれこれ苦慮すると、昏迷してしまう。……ご辺は、漢の宗族、劉家の同族。ひとつわしに代って、国事を治め、わしの亡いあとは、この荊州を継いでくれまいか」 「おひきうけできません。この大国、またこの難局、どうして菲才玄徳ごときに、任を負うて立てましょう」 孔明はかたわらにあって、しきりと玄徳に眼くばせしたが、玄徳には、通じないものか、 「そんな気の弱いことを仰せられず、肉体のご健康につとめ、心をふるい起して、国治のため、さらに、良策をお立て遊ばすように」 とのみ云って、やがて、城下の旅館に退ってしまった。あとで、孔明が云った。 「なぜお引受けにならなかったのですか」 「恩をうけた人の危ういのを見て、それを自分の歓びにはできない」 「――でも、国を奪うわけではありますまいに」 「譲られるにしても、恩人の不幸は不幸。自分にはあきらかな幸い。……玄徳には忍びきれぬ」 孔明は、そっと嘆じて、 「なるほど、あなたは仁君でいらっしゃる」と、是非なげに呟いた。 |
劉璋も劉表と同じく魯恭王劉余の子孫であり、劉備と同様に景帝の子孫である。 |
吉川英治『三国志』「出師の巻」より
「丞相よ。人将(まさ)に死なんとするやその言よしという。朕の言葉に、いたずらに謙譲であってはならぬぞ。……君の才は、曹丕に十倍する。また孫権ごときは比肩(ひけん)もできない。……故によく蜀を安んじ、わが基業をいよいよ不壊(ふえ)となすであろう。ただ太子劉禅は、まだ幼年なので、将来は分らない。もし劉禅がよく帝たるの天質をそなえているものならば、御身が輔佐してくれればまことに歓ばしい。しかし、彼不才にして、帝王の器(うつわ)でない時は、丞相、君みずから蜀の帝となって、万民を治めよ……」 |
デジタル大辞泉より引用 1 国民が自主的に統治されうる能力。被統治能力。 2 統治能力。統率力。日本での誤った用法。 |
明と、オスマン帝国(旧称はオスマン・トルコ)の歴代皇帝は皇后の家柄に
こだわらなかった。明の初代皇帝・洪武帝の皇后は
「大脚馬皇后」つまり、貧乏すぎて纏足(てんそく)もできず天然の大きな
足のままの「馬」姓の皇后、であった。 オスマン帝国の歴代皇帝の生母も奴隷や人質など出自は低かった。 近世の日本や英国など「君臨すれども統治せず」の君主は血縁カリスマによって正統性を担保されていたが、 明やオスマン帝国など「有能な専制君主」を前提とした国家はそうではなかったことに注意。 |
巡撫は、明・清時代に中央が地方を鎮撫するため派遣した大官で、「総督」とあわせて「総督巡撫」「督撫」とも言う。建前上は総督は軍務、巡撫は民政をつかさどったが、実際には両者の区別は曖昧で、それぞれ直属の軍隊をもち、有事には両者が協力して省軍を指揮した。清朝末期には督撫の実権が拡大し、各省がその下に半独立の形勢を呈するようになった。
各地の督撫の筆頭格は、直隷省(北京を含む地方)・河南省・山東省の総督として軍政・民政の両方を統括した「直隷総督」で、清末には北洋通商大臣も兼務した。歴代の「直隷総督、巡撫兼北洋通商大臣」には、曾国藩、李鴻章、栄禄、袁世凱らが相次いで就任した。
袁世凱氏の容貌は能く雑誌の口絵などて見るが、ソックリ其儘だ。 写真で見ると眼は鋭いが、実物は夫れ程で無い、光沢があつて一種の引力がある。 色濃く頬豊に、鬚は半面以上だ。頭も余程禿げかゝり、僅に垂れたる辮髪も霜を帯ぶること深い。 五十前の人とは思はれぬやうだ。心配の多い為めであつたらう。 身の丈はヤット五尺位で、小肥りに肥つては居るが、脂肪質で、根は頗る弱かりさうに見えた。云々と書いている。