新宿教室 教室・オンライン自由講座 見逃し配信あり引用終了
指定木曜日 10:30〜12:00 2025/1/9, 1/23, 2/13, 2/27, 3/13, 3/27 全6回
歴史を理解することは、人間を理解すること。ヒストリー(歴史)とストーリー(物語)は、もとは同じ言葉でした。中国の伝統的な「紀伝体」の歴史書も、個々人の伝記を中心とした文学作品でした。
本講座では、日本にも大きな影響を残した中国史上の人物をとりあげ、運や縁といった個人の一回性の生きざまと、社会学的な法則や理論など普遍的な見地の両面から、人生を紹介します。豊富な図像を使い、予備知識のないかたにもわかりやすく解説します。(講師・記)
張良 (ちょうりょう) Zhāng Liáng 生没年:?-前168
【没年は前186年ですが、日本の辞書・事典では前168年とするものが多いです。加藤徹】
中国,漢の高祖の功臣。字は子房。その家柄は代々韓の宰相であった。韓が秦に滅ぼされると,その仇を報じようとして,巡幸中の始皇帝を博浪沙(はくろうさ)(河南省陽武県の南)で襲撃するも失敗。秦の追捕をのがれて下邳(かひ)(江蘇省邳県の南)に隠れた。このとき黄石老人から太公望呂尚(りよしよう)の兵法書を授かったといわれる。陳勝・呉広の挙兵に呼応してたち上がり,劉邦に従ってその軍師となった。秦軍を破って関中に入り,秦都咸陽をおとし,有名な鴻門(こうもん)の会では劉邦を危地から救い,さらに項羽を追撃して自害に追いやるまで,彼はつねに劉邦の帷幕(いばく)にあって奇謀をめぐらし,漢を勝利にみちびいた。漢の天下平定にともないその功績によって留侯に封ぜられたが,そののちも長安に都すべきことを進言したり,蕭何(しようか)を相国に推したり,また恵帝の擁立に努めるなど,漢帝国創建に果たした役割は大きい。死後,文成侯と諡(おくりな)された。
執筆者:永田 英正
張良 (ちょうりょう)
能の曲名。四・五番目物。観世信光(のぶみつ)作。シテは黄石公(こうせきこう)。漢の高祖に仕える張良(ワキ)は,夢の中で不思議な老人に出会い,5日後に下邳(かひ)の土橋で兵法を伝授してもらう約束をする。下?に出向くと,老人(前ジテ)はすでに来ていて遅参を咎(とが)め,さらに5日後に来いといって消え失せる。張良が今度は早暁に行くと,威儀を正した老人が馬でやって来て黄石公(後ジテ)と名のり,履いていた沓(くつ)を川へ蹴落とす。張良はすかさず飛び下りて拾おうとするが,激流に阻まれて果たせない(〈中ノリ地〉)。そこへ大蛇(ツレ)が現れて沓を拾い,いどみかかるが,張良は剣を抜いて沓を奪い,黄石公に履かせる(〈早笛(はやふえ)・ノリ地〉)。その働きを見て,黄石公は秘伝の巻物を張良に与える。大蛇は観音の仮の姿であった。また,黄石公は遥かの高山に上り,金色に光り輝く黄石と化した。眼目の中ノリ地をはじめワキの見せ場が多く,ワキ方の重い伝授物となっている。
執筆者:横道 万里雄
丁公遽戮、雍歯先侯――人事は水物人事異動の季節は、四月と十月が多い。新年度に誰をどこに異動するか、水面下での協議をちょうど今ごろ進めている会社や団体もあるだろう。今回は人事の故事を取り上げる。 八世紀、唐の李瀚(り かん)が書いた『蒙(もう)求(ぎゅう)』は、漢文を学ぶ青少年向けの教科書である。日本人も、平安時代の昔から明治時代くらいまで、てっとり早く故事成語を覚えるための学習教材として『蒙求』を愛読してきた。この本の中の 孫康映雪(そんこうえいせつ) 車胤聚蛍(しゃいんしゅうけい) という対句は、日本人の心をとらえた。漢文訓読で読み下すと「孫康は雪に映(うつ)し、車胤は蛍(ほたる)を聚(あつ)む」。 西暦五世紀、宋(そう)(南朝宋。劉(りゅう)宋)の孫康は、家が貧しく灯火の油を買うお金がなかった。冬の夜は窓をあけ、雪に反射する月明かりで読書し、勉強した。三世紀の東晋(とうしん)の車胤も灯油が買えず、ホタルを集め、その光で夜遅くまで勉強した。孫康も車胤も、苦学して立派な人材になった。 『蒙求』の「蛍雪(けいせつ)の功」の話は日本人の心をとらえた。明治時代には「螢の光、窓の雪、ふみよむ月日、重ねつつ」云々の唱歌も作られた。 『蒙求』には、権謀術数のブラックな故事も多い。論功行賞に関する 丁公遽戮(ていこう きょりく) 雍歯先侯(ようし せんこう) という対句もそうだ。漢文訓読は「丁公は遽(にわ)かに戮(りく)され、雍歯は先(ま)づ侯(こう)たり」。この二人とも、前漢の初代皇帝・劉邦(前二四七年ないし前二五六年-前二一六年)の関係者だ。 秦の始皇帝の死後、天下は乱れた。各地で群雄が割拠した。最後に勝ち残ったのは、楚の項羽(前二三二年-前二〇二年)と、漢の劉邦だった。 前二〇五年、劉邦は、各地の群雄と連合して、五十六万の大軍で、項羽の本拠地・彭(ほう)城(じょう)(現在の江蘇省徐州市)を占領した。遠征中だった項羽は、三万の精鋭部隊を率いて彭城を急襲。油断していた五十六万の連合軍は総崩れとなった。項羽は、それほど強かった。 大負けした劉邦は、命からがら西へ逃げた。項羽の部将・丁公が追いついた。ピンチになった劉邦は、丁公にむかい、 「俺もおまえも、将来がある男だ。苦しめあうのはよそう」 と懇願した。丁公は追撃をやめ、劉邦を見逃してやった。 その後、劉邦は再起し、項羽に勝った。丁公は、劉邦の軍中に馳せ参じた。劉邦は、 「丁公は項羽の部下だったくせに、不忠だった。項羽が天下を取れなかったのは、こいつのせいだ」 と言い、命の恩人であるはずの丁公を斬刑に処して、 「後世の人臣が、丁公みたいにならぬようにするのだ」 と言い放った。 さて、天下を取った劉邦は、漢王朝の初代皇帝となった。宮殿から見下ろすと、諸将は落ち着きのない様子で、あちこちでひそひそ話をしている。劉邦が 「あいつらは何をビクビクしてるんだ?」 と軍師の張良(ちょう りょう)にきくと、張良は答えた。 「陛下は、農民から身を起こされ、彼らとともに戦い、天下をお取りになりました。陛下の論功行賞のご褒美人事の恩恵を受けられるのは、古参の仲間と陛下のお気に入りばかり。逆に、死刑を命じられるのは、陛下に憎まれた者たち。あの者どもは『陛下のご褒美人事には限りがある。陛下に疑われたら死刑になる』と恐れ、謀反の相談をしておるのです」 「そいつは困った。何かいい手はないか」 「陛下がいちばん憎んでいらっしゃるのは、誰ですか」 「雍歯の野郎だ。昔からあいつには、さんざん煮え湯を飲まされてきた。ぶっ殺してやりたい。でも、あいつも手柄を立てたからなあ。殺すに殺せない」 「では、さっそく雍歯をお取り立てなさいませ」 劉邦はすぐさま雍歯に領地を与え、諸侯の列に加えてやり、朝廷の高官に取り立てた。群臣はそれを見て、不安をまぎらすため飲み続けていた酒をやめ、 「あんなに陛下から憎まれた雍歯でさえ、大名になれた。俺たちも心配ない」 と喜んだ。 丁公は恩をあだで返された。雍歯は、上司が寛大さをアピールするため、出世した。人事は水物だ。 劉邦と同じく農民出身で天下を取った豊臣秀吉にも、ちょっと似た話がある。 秀吉が「唐(から)入(い)り」(朝鮮出兵)の計画を進めていたとき。薩摩の大名・島津義久に仕えていた中国(当時は明(みん)王朝)出身の許儀後という名前の医師が、日本の秘密情報を手紙に書き、中国に送った。秀吉の素性も書いた。それを知った近所の中国人が、日本側に密告した。 秀吉の側近はみな、許儀後をスパイ罪で釜ゆでの刑にすべきだ、と上奏した。だが、秀吉は言った。 「許儀後は日本に帰化する前は、明国人だった。祖国のため敵国の秘密を伝えるのは、当然だ。そもそも、わしは卑怯な不意打ちが嫌いだ。開戦の意図を知られてもかまわん。古今東西の帝王は、社会の底辺の出身者が多い。わしの素性を明国に知られても、不都合はない」 秀吉は、許儀後のスパイ行為を不問に付した。許儀後を密告した中国人に対しては、 「おまえも明国人だろう。同胞を密告するとは、悪いやつだ」 とたしなめた。朝鮮の学者・李瀷(り よく)(一六八一年-一七六三年)は、自著『星湖僿説(せいこさいせつ)』の中でこの挿話を紹介し「秀吉は大きな力量をもつ、非凡な人物である」と高く評価した。 さて、「人事」という日本語には、「人間の事柄」と「人材の配置」の二つの意味がある。「ひとごと」と読むと「自分に関係のないこと」の意になる。 新年度の人事(人材の配置)で自分はどうなるか。「人事(人間の事柄)を尽くして天命を待つ」覚悟で、「人事(ひとごと)」のように冷静に構えて、人事異動の内示の季節を迎えるのがよいのかもしれない。 |
異石 帝 「この書をよめば帝王の師となることが出来る。後日にわたしを探し求めるならば、穀城山下の黄いろい石がそれである」 いわゆる 漢の末に |
【自分の備忘用】講座「中国歴史人物列伝」
— 加藤徹(KATO Toru) (@katotoru1963) January 19, 2025
第2回「竇皇后(とうこうごう) 前漢の基礎を確立した影の主役」
参考資料 【『漢文で知る中国』pp.52-55 誤置代籍中、両朝尊母儀】
by 加藤徹 @katotoru1963 at 朝日カルチャーセンター新宿 @asakaruko on 2025/1/23https://t.co/qEJKV80pIz pic.twitter.com/Lv6lhxQdjq
原漢文 | 訳文(ChatGPTを活用) |
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竇太后,趙之清河觀津人也。呂太后時,竇姫以良家子入宮侍太后。 太后出宮人以賜諸王,各五人,竇姫與在行中。竇姫家在清河,欲如趙近家,請其主遣宦者吏: 「必置我籍趙之伍中。」 宦者忘之,誤置其籍代伍中。籍奏,詔可,當行。竇姫涕泣,怨其宦者,不欲往,相彊,乃肯行。 | 竇太后は、趙国清河郡観津県(かんしんけん。現在の河北省衡水市武邑県東部)の人である。 呂太后(前241-前180)の時代、竇姫は良家の娘として宮中に入り、太后に仕えていた。 太后は宮女を諸王に分け与え、それぞれ五人ずつ賜ったが、竇姫もその中に含まれていた。 竇姫の家は清河にあり、趙国が家に近いので、趙国へ行くことを望み、宦官(役人。前漢時代の「宦官」「宦者」は、必ずしも去勢者とは限らなかった)に「私は必ず趙国ゆきの名簿に入れてくださいね」と頼んだ。 しかし、宦官はうっかり忘れて、誤って彼女の名前を代国(現在の河北省張家口市あたり。当時の最果ての小国)行きの名簿に登録してしまった。 名簿が報告されると、詔が下され、代国へ行くことが決まった。竇姫は涙を流し、宦官を恨み、代国へ行くのを嫌がったが、説得されてようやく行くことを承諾した。 |
至代,代王獨幸竇姫,生女嫖,後生兩男。而代王王后生四男。先代王未入立為帝而王后卒。及代王立為帝,而王后所生四男更病死。 | 代国に到着すると、代王(後の第5代皇帝・文帝。前203-前157)は竇姫を特に寵愛した。 竇姫は娘の劉嫖(後の館陶公主。武帝の陳皇后の生母。生没年不詳)を産み、その後、二人の男子を産んだ。 一方、代王の正妃は四人の男子を産んだが、代王が皇帝として即位する前にその正妃は亡くなった。 そして、代王が皇帝(文帝)として即位(前180年)すると、正妃の産んだ四人の男子は皆病死してしまった。 |
孝文帝立數月,公卿請立太子,而竇姫長男最長,立為太子。立竇姫為皇后,女嫖為長公主。其明年,立少子武為代王,已而又徙梁,是為梁孝王。 | 文帝が即位して数か月後、公卿たちは太子を立てることを請願した。 竇姫の長男(劉啓。後の景帝。前188-前141)が最年長であったため、彼が太子に立てられた。竇姫は皇后に立てられ、娘の劉嫖は長公主となった。 その翌年、末子の劉武が代王に立てられ、その後さらに梁に遷され、梁孝王となった。 |
竇皇后親蚤卒,葬觀津。於是薄太后乃詔有司,追尊竇后父為安成侯,母曰安成夫人。令清河置園邑二百家,長丞奉守,比靈文園法。 | 竇皇后の親は若くして亡くなり、観津に葬られていた。そこで薄太后は有司に命じて、竇皇后の父を安成侯に追尊し、母を安成夫人と呼ぶようにした。 また、清河に園邑(供養のための土地)を二百家置き、長と丞を配置して奉仕させ、霊文園の制度に倣わせた。 |
竇皇后兄竇長君,弟曰竇廣國,字少君。少君年四五歳時,家貧,為人所略賣,其家不知其處。 傳十餘家,至宜陽,為其主入山作炭,(寒)[暮]臥岸下百餘人,岸崩,盡壓殺臥者,少君獨得脱,不死。 自卜數日當為侯,從其家之長安。聞竇皇后新立,家在觀津,姓竇氏。廣國去時雖小,識其縣名及姓,又常與其姉採桑墮,用為符信,上書自陳。 | 竇皇后の兄は竇長君で、弟は竇広国、字は少君と言った。竇少君(竇広国)が四、五歳だったころ、家は貧しく、人に略取されて売られ、家族はその所在を知らなかった。 少君は十数軒に渡って転売された。宜陽にたどり着き、主人に従って山で炭焼きに従事した。 ある晩、百人余りとともに岸の下で寝ていたところ、岸が崩れて皆が押し潰されたが、少君だけが脱出して九死に一生を得た。 彼は自ら占い、自分が数日後に侯となる運命だと知り、家族を探して長安に向かった。 竇皇后が新たに立てられたことを聞いた。皇后の実家は観津にあり、姓が竇であった。 竇広国は幼少期の記憶で郡の名前や姓を覚えており、またいつも姉と一緒に桑の実を拾っていた記憶もあった。手紙を書いて、みずからの身の上を陳述した。 |
竇皇后言之於文帝,召見,問之,具言其故,果是。又復問他何以為驗? 對曰:「姉去我西時,與我決於傳舍中,丐沐沐我,請食飯我,乃去。」於是竇后持之而泣,泣涕交下。侍御左右皆伏地泣,助皇后悲哀。乃厚賜田宅金錢,封公昆弟,家於長安。 | 竇皇后は文帝にこれを伝え、竇広国を召し出して面会した。 彼が詳細を話すと、どれも事実だった。さらに他に証拠がないかどうか、たずねると、彼は言った。 「姉さんが私を置いて西へ行ったとき、駅舎で私の髪を米のとぎ汁で洗ってくれて、ご飯を食べさせてくれて、そのあと分かれました」。 竇皇后は、生き別れた弟だとわかり、手を握って涙を流した。 左右の侍者たちも伏してもらい泣きした。 その後、弟には田宅や金銭が豊かに与えられ、長安に居住することとなった。 |
絳侯、灌將軍等曰:「吾屬不死,命乃且縣此兩人。兩人所出微,不可不為擇師傅賓客,又復效呂氏大事也。」於是乃選長者士之有節行者與居。竇長君、少君由此為退讓君子,不敢以尊貴驕人。 | (高祖劉邦の死後、呂后の専横で苦労した、前漢の功臣である)絳侯(周勃=しゅうぼつ。?-前169)や灌将軍(灌嬰=かんえい。?-前176)らは言った。 「我々が畳の上で死ねるかどうかは、皇后陛下の兄と弟しだいだ。二人とも出自は卑しい。師傅や賓客を慎重に選ばねば。さもないと呂太后の再来になっちまうぞ」と語った。 そのため、品行の良い人物を選び、皇后の兄と弟の二人と共に暮らさせた。竇長君と少君はこれにより謙虚な人物となり、尊貴な立場を誇ることはなかった。 |
竇皇后病,失明。文帝幸邯鄲慎夫人、尹姫,皆毋子。 孝文帝崩,孝景帝立,乃封廣國為章武侯。長君前死,封其子彭祖為南皮侯。 呉楚反時,竇太后從昆弟子竇嬰,任侠自喜,將兵,以軍功為魏其侯。竇氏凡三人為侯。 | 竇皇后は病を患い、失明した。文帝の寵愛は邯鄲慎夫人や尹姫に移ったが、いずれも子供は産まなかった。 (前157年に)文帝が崩じ、(文帝と竇太后のあいだの子である)景帝が即位すると、竇広国は章武侯に封じられた。 竇長君はそれ以前に亡くなっており、その子である彭祖が南皮侯に封じられた。 呉楚七国の乱(前154年)の際、竇太后の年下のいとこである竇嬰は侠気を好み軍を率いて戦い、軍功により魏其侯に封じられた。かくて、竇一族からは、あわせて三人が侯となった。 |
竇太后好黄帝、老子言,帝及太子諸竇不得不讀黄帝、老子,尊其術。 | 竇太后は、黄帝(asahi20201008.html#01)と老子(asahi20241010.html#01)の言説(黄老思想)を好んだ。景帝や太子、および竇一族の者たちも、黄老思想の書を学びその術策を学ばざるを得なかった。 |
竇太后後孝景帝六歳(建元六年)崩,合葬霸陵。遺詔盡以東宮金錢財物賜長公主嫖。 | 竇太后は、息子である景帝が死去してから六年後(建元六年。前135年)に崩じ、文帝の霸陵に合葬された。遺言により、東宮の金銭と財宝はすべて長公主・劉嫖に与えられた。 |
漢引用終了
【読み】はた,かん
【全国順位】 18,438位
【全国人数】 およそ260人
由来解説
漢帰化族の漢使主、漢直、東漢直、現大阪府東部である河内漢直、川内漢忌寸などの子孫。
〇景帝(前188年-前141年)
前漢の第6代皇帝。ある夜、寵愛していた程姫を召し出した。程姫は月のさわりがあったため、こっそり自分の侍女(唐氏)を身代わりにして、景帝の寝室に送り込んだ。酒好きの景帝はその夜も酔っており、相手が唐氏と気付かなかった。唐氏は妊娠し、皇子を産んだ。あとから発覚した皇子なので、「発」と名付けられた。
「三国志」の曹操の時代の反骨の知識人・孔融(孔子の子孫)をはじめ、もし景帝が酒に酔っていなかったら後漢の王朝はなかった、と皮肉る意見もある。
兵車行 へいしゃこう | |
車轔轔 馬蕭蕭 行人弓箭各在腰 耶嬢妻子走相送 塵埃不見咸陽橋 牽衣頓足攔道哭 哭声直上干雲霄 道旁過者問行人 行人但云点行頻 或従十五北防河 便至四十西営田 去時里正与裹頭 帰来頭白還戍邊 辺庭流血成海水 武皇開辺意未已 君不聞漢家山東二百州 千村万落生荊杞 縦有健婦把鋤犁 禾生隴畝無東西 況復秦兵耐苦戦 被駆不異犬与鶏 長者雖有問 役夫敢申恨 且如今年冬 未休関西卒 県官急索租 租税従何出 信知生男悪 反是生女好 生女猶得嫁比鄰 生男埋沒随百草 君不見 青海頭 古来白骨無人収 新鬼煩冤旧鬼哭 天陰雨湿声啾啾 |
車轔轔 馬蕭蕭 行人(こうじん)の弓箭(きゅうせん)各(おのおの)腰に在り 耶嬢(やじょう)妻子 走りて相送る 塵埃(じんあい)にて見えず 咸陽橋(かんようきょう) 衣を牽き足を頓(とん)して 道を攔(さえぎ)りて哭す 哭声(こくせい)直ちに上りて雲霄(うんしょう)を干(おか)す 道旁(どうぼう)を過ぐる者 行人(こうじん)に問う 行人 但(ただ)云(い)う「点行(てんこう)頻(しき)りなり」と 或(ある)いは十五より北 河(か)を防ぎ 便(すなわ)ち四十に至って西、田(でん)を営む 去る時 里正(りせい) 与(ため)に頭(こうべ)を裹(つつ)み 帰り来って頭(こうべ)白きに還(ま)た辺(へん)を戍(まも)る 辺庭(へんてい)の流血 海水と成るも 武皇(ぶこう) 辺(へん)を開く意 未だ已まず 君聞かずや 漢家山東(かんかさんとう)の二百州 千村万落(せんそんまんらく)荊杞(けいき)を生ずるを 縦(たと)い健婦(けんぷ)の鋤犁(じょうり)を把(と)る有るも 禾(か)は隴畝(ろうほ)に生じて東西無し 況(いわん)や秦兵(しんぺい)復(ま)た苦戦に耐うるをや 駆らるること犬と鶏とに異ならず 長者 問う有りと雖も 役夫 敢えて恨みを伸べんや 且(か)つ今年の冬の如きは 未(いま)だ関西(かんせい)の卒を休(や)めざるに 県官 急に租(そ)を索(もと)むるも 租税 何(いず)くより出でん 信(まこと)に知る 男を生むは悪しく 反(かえ)って是(こ)れ女を生むは好きを 女を生まば猶(な)お比鄰(ひりん)に嫁(か)するを得るも 男を生まば埋没して百草に随(したが)う 君見ずや 青海(せいかい)の頭(ほとり) 古来 白骨 人の収むる無きを 新鬼は煩冤(はんえん)し旧鬼(きゅうき)は哭(こく)す 天陰(くも)り雨湿(けぶ)るとき声啾啾(しゅうしゅう)たり |
貧交行 ひんこうこう | |
翻手作雲覆手雨 紛紛軽薄何須数 君不見管鮑貧時交 此道今人棄如土 |
手を翻せば雲と作り 手を覆せば雨 紛紛たる軽薄 何ぞ数うるを須いん 君見ずや管鮑 貧時の交わり 此の道 今人 棄てて 土の如し |
春望 しゅんぼう | |
国破山河在 城春草木深 感時花濺涙 恨別鳥驚心 烽火連三月 家書抵万金 白頭掻更短 渾欲不勝簪 |
国破れて 山河在り 城春にして 草木深し 時に感じて 花にも涙を濺ぎ 別れを恨んで 鳥にも心を驚かす 峰火 三月に連なり 家書 万金に抵る 白頭掻いて更に短かく 渾べて簪に勝えざらんと欲す |
三代の栄耀一睡のうちにして、大門の跡は一里こなたにあり。 秀衡が跡は田野になりて、金鶏山のみ形を残す。 まづ高館に登れば、北上川、南部より流るる大河なり。 衣川は和泉が城を巡りて、高館の下にて大河に落ち入る。 泰衡らが旧跡は、衣が関を隔てて南部口をさし固め、えぞを防ぐと見えたり。 さても、義臣すぐつてこの城にこもり、功名一時の草むらとなる。 「国破れて山河あり、城春にして草青みたり。」と、笠うち敷きて、時の移るまで涙を落とし侍りぬ。
夏草やつはものどもが夢の跡
卯の花に兼房見ゆる白毛かな 曾良
月夜 げつや | |
今夜鄜州月 閨中只独看 遥憐小児女 未解憶長安 香霧雲鬟湿 清輝玉臂寒 何時倚虚幌 双照涙痕乾 |
今夜 鄜州の月 閨中 只えに独り看るならん 遙かに憐れむ 小兒女の 未だ 長安を憶うを 解せざるを 香霧 雲鬟湿い C輝 玉臂寒からん 何れの時か 虚幌に倚り 双び照らされて 涙痕乾かん |
石壕吏 せきごうのり | |
暮投石壕村 有吏夜捉人 老翁踰牆走 老婦出門看 吏呼一何怒 婦啼一何苦 聴婦前致詞 三男鄴城戍 一男附書至 二男新戦死 存者且偸生 死者長已矣 室中更無人 惟有乳下孫 孫有母未去 出入無完裙 老嫗力雖衰 請従吏夜帰 急応河陽役 猶得備晨炊 夜久語声絶 如聞泣幽咽 天明登前途 独与老翁別 |
暮れに石壕の村に投ず 吏、有りて夜、人を捉ふ 老翁は牆を踰えて走り 老婦は門を出でて看る 吏の呼ぶこと一に何ぞ怒れる 婦の啼くこと一に何ぞ苦しき 婦の前みて詞を致すを聴く 「三男は鄴城を戍る 一男は書を附して至る 二男は新たに戦死すと 存する者は且く生を偸むも 死する者は長く已みぬ 室中、更に人無く 惟だ乳下の孫、有るのみ 孫には母の未だ去らざる有るも 出入に完裙無し 老嫗は力衰へたりと雖も 請ふ、吏に従ひて夜帰せん 急ぎ河陽の役に応ぜば 猶ほ晨炊に備ふるを得ん」と 夜久しくして語声は絶え 泣きて幽咽するを聞くが如し 天明、前途に登らんとして 独り老翁と別る |
絶句 其の二 ぜっく そのに | |
江碧鳥逾白 山青花欲然 今春看又過 何日是帰年 |
江碧にして 鳥 逾白く 山青くして 花 然えんと欲す 今春 看又過ぐ 何れの日か 是れ帰年ならん |
春夜喜雨 しゅんや、はるをよろこぶ | |
好雨知時節 当春乃発生 随風潜入夜 潤物細無声 野径雲倶黒 江船火独明 暁看紅湿処 花重錦官城 |
好雨、時節を知り 春に当りて乃ち発生す 風に随ひて潜かに夜に入り 物を潤はして細やかにして声無し 野径、雲は倶に黒く 江船、火は独り明らかなり 暁に紅の湿れる処を看れば 花は錦官城に重からん |
江南逢李亀年 こうなんにてりきねんにあう | |
岐王宅裏尋常見 崔九堂前幾度聞 正是江南好風景 落花時節又逢君 |
岐王の宅裏 尋常に見 崔九の堂前 幾度か聞く 正に是れ江南の好風景 落花の時節 又 君に逢う |
青年時代にはそれほどはつきりとしなかつた杜詩の大きな背景、それらのものがこの節しきりとわたしの想像に上つて來る。言つて見れば、詩人としての杜子美は大きな現實主義者である。性格的にさう言へると思ふ。五十九歳で唐の來陽といふところに病死したといふその涙に滿ちた生涯が何よりの證據だ。さういふ點で、多分にロマンチックな要素をそなへてゐたあの李太白の質とはいちじるしい對照を見せる。杜詩の痛切な現實性は、一字一句の末にもあらはれてゐないではないが、それよりもこれらの詩の全體が語るものにこそ、まことの詩人らしさが窺はれると思ふ。藤村は杜甫(姓+実名)ではなく、杜子美(姓+字=あざな)と呼んでいる。
丞相ノ孔明を祠堂 何 レノ処ニカ尋 ネン
錦管 城外柏森々
階 ニ映ズ碧草 自 ラ春色
葉 ヲ隔ツ黄鸝 空 シク好音
三顧頻繁 ナリ 天下ノ計
両朝開濟 ス 老臣ノ心
師 ヲ出シテ未ダ捷 タズ 身先 死ス
長ク英雄ヲシテ 涙襟 ニ満 シム
頌 した後人の詩は多いがこれは代表的な杜子美 の一詩である。沔陽 の廟前に後主 劉禅 が植えたという柏 の木が、唐時代までなお繁茂していたのを見て、杜子美がそれを題して詠ったものだといわれている。
何 he 2 か 日 ri(t)4 じつ 是 shi 4 ぜ 帰 gui 1 くゐ 年 nian 2 ねん |
今 jin 1 きん 春 chun 1 しゅん 看 kan 1 かん 又 you 4 いう 過 guo 4 くわ |
山 shan 1 さん 青 qing 1 せい 花 hua 1 くわ 欲 yu(k) 4 よく 然 ran 2 ぜん |
江 jiang 1 かう 碧 bi(k)4 へき 鳥 niao 3 てう 逾 yu 2 ゆ 白 bo(k)2 はく |
絶 jue(t) 2 ぜっ 句 ju 4 く 杜 du 4 と 甫 fu 3 ほ |
杜 詩 千 載 待 知 音 |
男 子 蓋 棺 情 未 朽 |
不 盡 新 蝉 傳 世 吟 |
無 邊 竹 葉 指 風 顫 |
朦 朧 樹 色 潤 人 襟 |
剥 落 金 泥 遺 古 額 |
花 洗 青 潭 水 愈 深 |
草 堂 穀 雨 我 來 尋 |
草 堂 |
しゅ‐き【朱熹】
[1130〜1200]中国、南宋の思想家。婺源(ぶげん)(江西省)の人。 字(あざな)は元晦(げんかい)・仲晦。号は紫陽・晦庵(かいあん)など。諡(おくりな)は文公。 北宋の周敦頤(しゅうとんい)らの思想を継承・発展させ、倫理学・政治学・宇宙論にまで及ぶ体系的な哲学を完成し、後世に大きな影響を与えた。 著「四書集注(しっちゅう)」「近思録」「周易本義」「晦庵先生朱文公文集」など。→朱子学
朱熹(しゅき) Zhu Xi 1130〜1200
南宋の学者。婺源(ぶげん)県(江西省)が本籍だが,生まれ育ったのは,尤渓(ゆうけい)県(福建省)。宋学の大成者。朱子は尊称。 彼の哲学(理気説)は,宇宙本体たる太極(たいきょく)(理)が実在して理・気となるという二元的存在論に立ち, これを道徳原理に応用して性即理(人欲を去って天理を尽くす)の修養を説いた。 その学問方法として格物致知(かくぶつちち)なる主知主義を唱えた。従来の聖典たる五経の上に四書を置き,実践的には名分節義を主張した。 『通鑑綱目』(つがんこうもく)を著し,君臣父子の道徳を絶対視して宋の絶対君主制を支えた。 朱子学は周敦頤(しゅうとんい),程頤(ていい),程(ていこう)の学派と欧陽脩(おうようしゅう)ら歴史学派を総合して宋学を集大成したもので, 元朝以後,官学に採用され,中国,朝鮮王朝,日本の国家理念に影響した。
朱子学 (しゅしがく) Zhū zǐ xué
(前略) 時代は南宋に入ると様相を一変する。宋は異民族の金によって淮河(わいが)以北を奪取されたうえ,金に対して臣下の礼をとるという,屈辱的な講和条約を甘受せねばならなくなった。 心ある士大夫は切歯扼腕(せつしやくわん)し,金との徹底抗戦を主張したが,ほかならぬ朱熹の父朱松も,そのような熱烈な民族主義者の一人であったし,朱熹自身も金との和平路線には反対し続けた。 朱子学の形成に,こうした危機的な時代状況が大きく作用したのは否めぬ事実である。 また,思想界に目を転じても,〈異端〉思想である禅の簡明直截な教義に心ひかれる士大夫が数多く存在していた。 北宋時代からすでにそうであったが,とりわけ北宋の末から南宋の初めにかけて,臨済の再来といわれた大慧宗杲(だいえそうこう)が新しい禅風を起こし,多くの士大夫を吸引して,その心の不安に答えていた。 宗杲が没したのは,朱熹が34歳のときのことである。朱熹自身も十代のころに参禅の経験をもったほどであって,当時禅は士大夫社会において一種のブームのごとき観を呈していたのである。 しかし,朱熹にとっていっそう憂うべきことは,このように国家と中国文化が危機に瀕しているにもかかわらず,多数の士大夫が自分ひとりの栄達にのみかかずらい,科挙のための受験勉強に血まなこになっている姿であった。
朱子学はむろん,朱熹という一個の卓越した頭脳によって作り上げられたものであるが,その形成の背後には,おおよそ上述のような状況が引金として存在していた。 要するに朱子学は,漢民族の政治的,文化的アイデンティティの希求の所産なのであった。 それは,朱熹が中原から遠く隔てられた,福建の片田舎に生まれ育った事実とも無関係ではあるまい。 そこが辺境であっただけに,いっそう〈中央〉,すなわち真に伝統的なもの,中国的なものへの,自己同一化の欲求が激しかったのである。 (後略)
酔下祝融峰 酔ひて祝融峰を下る 我来万里駕長風 我、来たりて万里、長風に駕す 絶壑層雲許盪胸 絶壑の層雲、かく胸をうごかす 濁酒三杯豪氣発 濁酒三杯、豪気発し 朗吟飛下祝融峰 朗吟、飛び下る、祝融峰 |
偶成 少年易老学難成 少年老い易く学成り難し 一寸光陰不可軽 一寸の光陰 軽んずべからず 未覚池塘春草夢 未だ覚めず池塘春草の夢 階前梧葉已秋聲 階前の梧葉 已に秋声 |
張献忠 (ちょうけんちゅう) Zhāng Xiàn zhōng 生没年:1606-46
中国,明末農民反乱において,李自成とならび称された指導者。 陝西省延安衛柳樹の貧農に生まれ,長じて北辺守備隊の兵士となったが死罪を犯し,あやうくのがれた。 当時,陝西地方の民衆は明朝の悪政とあいつぐ干ばつ,飢饉に生活は破壊され,各地に暴動が起こっていた。 彼は1630年(崇禎3)米脂県18寨の農民を率いて蜂起し,やがて王嘉胤の部隊と合流して八大王と称した。 王嘉胤が戦死したのちは高迎祥(?-1636)の部下となり,一軍の首領として活躍した。 高迎祥が殺されてからは李自成とたもとを分かち長江(揚子江)流域を転戦,一時谷城(湖北省)で明軍に下ったが再起し,四川に入って成都を根拠地として帝位につき,大西国を建て,大順と建元した。 彼の軍団は軍規厳正で,3年免糧などのスローガンを掲げ,また奴僕佃戸の反乱組織と結ぶなど注目すべき動きを示した。 しかし後期には民衆を殺戮するなどの政策をとり,根拠地経営に失敗し,進攻してきた清の粛親王豪格の軍に討たれた。
執筆者:谷口 規矩雄
張献忠 ちょうけんちゅう (1606―1646)
中国、明(みん)末、崇禎(すうてい)年間(1628〜44)の反乱の首領。陝西(せんせい)省延安の貧農に生まれる。 一時、延綏(えんすい)鎮の守備兵となったが、1630年米脂(べいし)県の農民を率いて決起、八大王を称し、各地の農民軍と不即不離の関係をもって、陝西から河南、湖北、安徽(あんき)に転戦。 四川(しせん)に入ったが利あらず、反転して43年、武昌(ぶしょう)を攻略、大西王と称した。 翌年ふたたび四川に進み、重慶(じゅうけい)、成都を落とし、ここで帝位につき大西国を建て、元号を大順、成都を西京(せいけい)とし、このころ華北に活躍していた李自成(りじせい)と並ぶ首領となった。 建国後、湖南、江西も攻略し、軍規を厳しくして殺傷暴行を禁じた。 また、3年間租税を免除し、農奴を解放、婆子(ばし)軍という婦人部隊を編成して婦人の権利を認めるなど、目新しい政策で農民をひきつけた。 しかし、そのために、中小地主、士太夫の支持がなく、李自成と連合することもできず、清(しん)軍の南下に呼応した四川の地主らの弾圧を受け、3年間抵抗したが戦死した。
[星 斌夫]
無頭鬼
張献忠 はかの李自成 と相列 んで、明 朝の末期における有名の叛賊である。
彼が蜀 の成都 に拠って叛乱を起したときに、蜀王の府をもってわが居城としていたが、それは数百年来の古い建物であって、人と鬼とが雑居のすがたであった。ある日、後殿のかたにあたって、笙歌の声が俄かにきこえたので、彼は怪しんでみずから見とどけにゆくと、殿中には数十の人が手に楽器を持っていた。しかも、かれらにはみな首がなかった。
さすがの張献忠もこれには驚いて地に仆 れた。その以来、かれは其の居を北の城楼へ移して、ふたたび殿中には立ち入らなかった。
中国で「社会報復性無差別テロ」と呼ぶべき事件が急増している。社会不満や不条理の報復として無関係の弱者を襲撃する事件、ネットスラングで「献忠」と呼ばれている。明末の農民反乱リーダーで歴史的大量殺戮(さつりく)者の張献忠の名前からとったものだ。
張作霖(ちょうさくりん) Zhang Zuolin 1875〜1928
中国の軍閥。奉天(遼寧)省海城県の人。馬賊の出身。1903年帰順して勇軍の隊長となり,辛亥(しんがい)革命で奉天市内を警備し師長に進み,実業を兼営した。 16年奉天督軍兼省会となり,多数の日本軍事顧問を側近にめぐらし,日本に利用されつつ日本を利用しようとした。18年華北に南征して兵力を倍増し,20年以後,事実上の満洲王となった。 たびたび関内に出兵し,内モンゴルをあわせ,最盛時の25年には兵力36万,上海まで押えた。翌年討共の名で関内に入り,27年北京で大元帥に就任。 28年国民革命軍に敗れ,関内引揚げの途中,6月4日奉天で関東軍に列車を爆破され死んだ。
張作霖 ちょうさくりん / チャンツオリン (1875―1928)
中国の軍閥。字(あざな)は雨亭。奉天(ほうてん)省(現、遼寧(りょうねい)省)海城県の人。馬賊から身をおこし、日露戦争では日本軍の別働隊として暗躍。のち清(しん)朝に帰順。 辛亥(しんがい)革命のとき、奉天(現瀋陽(しんよう))市内に入り警備にあたる。1916年、奉天将軍の段芝貴(だんしき)を追って督軍になる。 1918年、東三省巡閲使、その後、黒竜江、吉林(きつりん)両省を支配下に収めて、東三省全体に君臨する奉天軍閥を形成した。 1920年安徽(あんき)派・直隷(ちょくれい)派の争いに介入し、北京(ペキン)政界に進出。1924年、第二次奉直戦争に大勝すると、彼の勢力は大幅に伸長し、その支配領域は華北、華東を経て遠く江蘇(こうそ)にまで及んだ。 その後、軍閥孫伝芳(そんでんほう)、馮玉祥(ふうぎょくしょう)の反発、および部下の郭松齢(かくしょうれい)の反乱があり、一時、東北に戻った。 1926年、呉佩孚(ごはいふ)と結んで馮玉祥を追い安国軍総司令と称した。 1927年4月、北京のソビエト大使館を捜索、そこにいた李大サ(りたいしょう)らの中国共産党員を殺害した。 同年6月、陸海軍大元帥を称し、北京政府を掌握した。 1928年、国民党の北伐軍の進撃を受け、やむなく東北への撤退を決意し、6月、座乗列車が奉天郊外の皇姑屯(こうことん)付近で日本の関東軍により爆破され死んだ。
張作霖は日本の後援を受けて軍閥として成長し、日本もまた彼を利用して東北に進出しようとした。その点で両者は互いに利用しあう関係にあった。しかし、彼が東北の枠を越えて全国的な規模の軍閥に成長すると、アメリカなどとのつながりが生まれ、かならずしも日本のいうことに従わなくなったのが、殺されたおもな理由であろう。
[倉橋正直]
張作霖の同時代人
- 清の李鴻章 老大国をささえた大男
- 清末の西太后
- 清と満洲国の末代皇帝・溥儀
- 大元帥になった国際人・孫文
- 袁世凱 83日間で消えた「中華帝国」の「洪憲皇帝」
- 張作霖 馬賊あがりの奉天派軍閥の総帥
- 魯迅 心の近代化をはかった中国の夏目漱石
- 汪兆銘―愛国者か売国奴か
- 打ち破れなかった2つのジンクス 蒋介石
- 中華人民共和国の毛沢東
- 梅蘭芳 毛沢東が「私より有名だ」と言った名優
- 李徳全――平塚らいてうとも対談した女性大臣
- 周恩来 失脚知らずの不倒翁
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