歴史を理解することは、人間を理解すること。ヒストリー(歴史)とストーリー(物語)は、もとは同じ言葉でした。中国の伝統的な「紀伝体」の歴史書も、個々人の伝記を中心とした文学作品でした。★詳細・お申し込みは[朝日カルチャーセンターのこちらのサイト]
本講座では、後世に大きな影響を残した中国史上の人物をとりあげ、運や縁といった個人の一回性の生きざまと、社会学的な法則や理論など普遍的な見地と、その両面から、歴史を再解釈します。豊富な図像を交えて、予備知識のないかたにもわかりやすく説き明かします。(講師・記)引用終了
五胡十六国 ごこじゅうろっこく Wu-hu shi-liu-guo; Wu-hu shih-liu-kuo
中国,華北を中心とし,漢 (のちの前趙 ) と 氐族の成 (前蜀,のちの漢) が独立した 304年から 439年北魏の統一により南北朝時代に入るまでの時代。また,その期間に興亡した諸国の総称。五胡とは,匈奴,羯 (けつ) ,鮮卑,氐 (てい) ,羌 (きょう) 。十六国は,五胡と漢人の建てた 19国のうちのおもな 16国をいう。この時代の文化はさしてみるべきものはなかったが,五胡の君主のなかにはみずから仏教を信奉したり,大衆教化を仏教に求めた者もあって,仏教は飛躍的発展をとげた。
前秦 ぜんしん 351〜394
五胡十六国の一国。氐 (てい) の族長,苻健 (ふけん) が始祖
首都は長安。苻健の甥の苻堅が第3代皇帝となると,漢人宰相の王猛を重用して国政を整え,東の前燕 (ぜんえん) を滅ぼし,西の前涼 (ぜんりよう) を下して華北を統一。西域・東夷の62国が入貢したという。382年100万と称される大軍を率いて南下したが,翌年淝水 (ひすい) の戦いで東晋 (とうしん) に大敗。以後,国勢がふるわず,苻堅は縊死 (いし) し,後継者たちもあいついで殺されて滅亡。
とうしん【東晋 Dōng Jìn】
中国,晋王朝が華北を放棄し,江南にうつって建康(南京)に都を置いた時代。317年から420年,元帝司馬睿(しばえい)から恭帝司馬徳文まで11代。創業の初めにあたって王朝の命数を占った郭璞(かくはく)は,〈二百年を享(う)けん〉といったという。〈百二年〉をひっくりかえして〈二百年〉といったのであり,およそ102年で滅んだ。おなじく都を建康に置いた三国の呉および南朝4王朝とともに六朝の一つにかぞえられる。
また、苻堅(中国、五胡十六国時代の前秦の第三代君主)は凡主ではなかった。王猛(苻堅の輔佐の臣)に対座して賢士を他に求め、多く将士を率いて大業を成そうとしたその凡眼で無いことを知るべきである。その賢士を求める心が偽りの無いことも知るべきで、この人にこの心あって、しかも尚王猛の面前に瞳穏やかに、苻堅はただこれ善人そのものとして、才華で人を威圧することもなかった。凡人凡眼が人を知ることの出来ないのも已むを得ない定めである。(中村喜治訳)と高く評価した。 cf.青空文庫 https://www.aozora.gr.jp/cards/000051/files/59829_68326.html
こたいこう【胡太后 Hú tài hòu】 442‐490
中国,北魏第4代文成帝の皇后。第5代献文帝の全期および第6代孝文帝の前半,朝政を独裁した。姓は馮氏。北燕馮氏の孫。高宗の死後,権臣乙弗渾を誅して北魏王朝の危機を救ったことから朝権を掌握した。異腹の献文帝を毒殺したといわれ,寵臣とのスキャンダルも多かったが,李沖ら有能な臣下の提案を受け入れて国政の整備をはかった。三長制,均田制,租庸調,俸禄制など,すべて太后の功績である。死後文明太后と諡(おくりな)された。
孝文帝【こうぶんてい】
中国,北魏の第6代皇帝(在位471年―499年)。廟号は高祖。初め胡太后が執政,その間に均田法などが実施され,隆盛期を迎えた。490年親政,平城(大同)から洛陽に遷都。胡服(こふく),胡語を禁じ,帝室の姓拓跋(たくばつ)氏を元氏と改めるなど,中国への同化政策を強化した。
せんぴ【鮮卑】
古代、北アジアで活躍した遊牧民族。五胡の一。2世紀中ごろ、匈奴(きょうど)の滅亡後に全モンゴルを支配したが、その後は諸部族に分裂。五胡十六国時代に慕容(ぼよう)氏(燕)・乞伏(きっぷく)氏(秦)・禿髪(とくはつ)氏(涼)らが華北に建国、386年には拓跋(たくばつ)氏が北魏を建て華北を統一した。
ほく‐ぎ【北魏】
中国、南北朝時代の北朝の一つ(三八六‐五三四)。鮮卑の拓跋珪(道武帝)が、内蒙古の盛楽に都して建国。四三九年第三代太武帝の時に華北を統一した。のち孝文帝は、均田制、三長制を実施し、四九四年に都を洛陽に移して徹底した漢化政策をとったが、以後国力は衰退に向かい、五三四年東魏・西魏に分裂して滅びた。後魏。魏。
なんぼくちょう‐じだい ナンボクテウ‥【南北朝時代】
[一] 中国が江南の南朝と華北の北朝とに分裂対立した時代。五胡十六国の紛乱や東晉の滅亡から隋の再統一までの約一七〇年間をいう。北方民族の進出や江南の開発により、貴族政治が発達、九品官人法・均田制・三長制などの制度が実施され、文芸の開花とともに、仏教や道教が流布し、後の大唐世界帝国の基礎を作った。後漢の滅亡からかぞえて魏晉南北朝時代ともいう。
以上の考察が当を得たものであるとするならば、『魏書』に端的に記される李夫人の死とは非常に複雑なものであったということになる。すなわち献文帝との間に子を為した馮太后は母親の身代わりとして献文帝の寵臣である李恵の娘の李夫人を選び、子貴母死に則って賜死した。そうすることで馮太后自身は醜聞を避け、皇太子生母として賜死されることなく、かつ親政を開始する献文帝の勢力伸長をおさえることにもつながった。このように子貴母死は馮太后に至って当初の目的を大きく逸脱し、後宮権力者によってその既得権益を保持するために恣意的に利用された。そればかりか皇帝権力に対してさえ、間接的にではあるが、害をなすものとなったといえる。
出典 稲田友音「北魏における所謂子貴母死について」(『九州大学東洋史論集』2015-03-31)pp.55-56 PDF https://doi.org/10.15017/1657870 |
馮太后は、権力欲も性欲も強かった。彼女は朝廷の美男子3人
王叡(434-481 後に吏部尚書になる) 李冲(450-498 後に南部尚書になる) 宿衛監・李奕(りえき) と関係をもち、重用した。 献文帝は、権力を握って離さない嫡母を恨んでいた。彼女が寵愛する李奕を、謀反をたくらんでいるという罪で、その一族もろとも処刑した。 これによって、馮太后との対立は決定的となった。 馮太后から譲位を迫られた献文帝は、腹いせに、すでに成人している叔父に譲位することで馮太后の権勢を削ごうとしたが、臣下からも反対され、幼いわが子に譲位することになった。 |
https://zh.wikisource.org/wiki/魏書/卷13#文明皇后より引用
太后行不正,内寵李奕,顯祖因事誅之,太后不得意。顯祖暴崩,時言太后為之也。 |
https://zh.wikisource.org/wiki/魏書/卷13#貞皇后より引用
后容色美麗,得幸於高祖,生皇子恂。以恂將為儲貳,太和七年后依舊制薨。 |
隋 ずい
中国の王朝(581〜618)。南朝の陳を征服して、4世紀以来の南北の政治的対立に終止符を打ち、中国周辺にも勢力拡大に努めたが、短命に終わった。隋の国名は、創建者楊堅(ようけん)(後の文帝)が隨(ずい)国公であったことに由来する。通説では、辶は走るに通ずるところから、政権の安定を願って、隨字から辶を取り去ったのだというが、当時の碑文などには隨字も使われている。(以下省略)
ずい【隋】
中国、南北朝を統一した王朝名(五八一‐六一八)。北朝の北周の権臣楊堅(文帝)が静帝の禅譲を受けて建国。都は大興(長安)。五八九年南朝の陳を滅ぼして全中国を再統一し、科挙をはじめ、州県制・均田制・租庸調制・府兵制など唐制の基礎となる諸制度による集権的な帝国を建設した。二世煬帝は大運河をひらき、大規模な外征を行なったが、その苛酷な土木事業や高句麗遠征の失敗はやがて各地に反乱を引き起こし南北統一後、三十余年で滅んだ。
煬帝 ようだい
569−618 隋(ずい)(中国)の2代皇帝。在位604-618。
天和4年生まれ。初代文帝の次男。589年南朝の陳をほろぼして全国を統一。父の病没(殺害説もある)により即位。大運河の建設や高句麗(こうくり)(朝鮮)遠征の失敗などから反乱がおこり,大業14年(義寧2)3月11日親衛隊に殺された。50歳。裴世清(はい-せいせい)を遣隋使小野妹子の派遣への答礼使として日本におくったことでも知られる。姓は楊。名は広。
劉瑾 りゅうきん Liu Jin; Liu Chin
[生]? [没]正徳5(1510)
中国,明中期の宦官。興平 (陝西省) の人。本姓は談。中官劉某に仕えてその姓を受けた。正徳帝 (武宗) の東宮時代からの側近で,司礼太監兼団営総督に進み,帝を逸楽に誘って政治を乱し,政治の実権を握ると収賄政治を事とした。これまでの東廠,西廠のほか新たに内行廠の特務機関を設け,反対者を酷刑に陥れ,公侯勲戚も彼の前に跪拝する状況であった。正徳5 (1510) 年彼の大罪があばかれ,謀反のかどで磔刑に処された。没収された私財は黄金 1200万両,銀2億 5000万両もあったという。
みん【明】
中国、朱元璋(太祖洪武帝)が元を倒して建てた漢民族の王朝(一三六八‐一六四四)。初め南京に都を置いたが、二代恵帝から帝位を奪った永楽帝は、北京に遷都して蒙古を親征、南海諸国にも朝貢を求め、その勢威は一時は黒龍江からアフリカ東岸にまで及んだ。中期以降は北虜南倭に苦しみ、宦官の専権が国政を乱した。崇禎帝の改革にもかかわらず満州族の脅威を前にして内乱・党争が止まず、李自成に北京を占領されて滅びた。
かん‐がん〔クワングワン〕【×宦官】
東洋諸国で宮廷や貴族の後宮に仕えた、去勢された男子。中国・オスマン帝国・ムガル帝国などに多かった。王や後宮に近接しているため勢力を得やすく、政治に種々の影響を及ぼした。宦者かんじゃ。
せいとくてい【正徳帝 Zhèng dé dì】1491‐1521
中国,明朝第11代の皇帝。在位1505‐21年。姓は朱,名は厚照,廟号は武宗,年号により正徳帝とよばれる。第10代孝宗の長子で,暗愚ではなかったが,少年時代から奇行が多く,放縦逸楽の生活に終始した。15歳で即位後も奇行はやまず,商人のまねごとをしたり,宮廷をぬけでて町への微行を楽しみ,宮中にイスラムの礼拝堂をまねて豹房新寺をつくり,淫楽のかぎりをつくすありさまであった。この間,政治の実権は宦官の劉瑾,奸臣の江彬らに握られ,綱紀は頽廃し,賄賂が公行して社会不安が増大した。
りょうちしょし【凌遅処死 líng chí chǔ sǐ】
中国,五代・宋以後行われた極刑の一種。刑場に立てられた柱に受刑者を縛りつけ,生きながら肢体を切りとる。清代の方法では,両乳に刃を入れ,両手足を斬り,腹を割いて臓腑をとり出し,喉を断って殺したという。簡単に絶命させないための死刑執行人(劊子手(かいししゆ))相伝の技術があった。加える刀の数によって等級があった。明代,宦官(かんがん)劉瑾(りゆうきん)は3日がかり4700刀を加えられたという。1905年(光緒31)に正式に廃止された。
・・・予因應之。過官寓早飯,即呼本吏隨該司掌印正郎至西角頭,劉瑾已開刀矣。凌遲刀數,例該三千三百五十七刀,每十刀一歇,一吆喝。頭一日例該先剮三百五十七刀,如大指甲片,在胸膛左右起。初動刀,則有血流寸許,再動刀則無血矣。人言犯人受驚,血俱入小腹小腿肚,剮畢開膛,則血從此出,想應是矣。至晚,押瑾順天府宛平縣寄監,釋縛,瑾尚食粥兩碗。反賊乃如此。次日押至東角頭。先日,瑾就刑,頗言內事,以麻核桃塞口,數十刀,氣絕。時方日升,在彼與同監斬御史具本奏奉聖旨,劉瑾凌遲數足,銼屍,免梟首。受害之家,爭取其肉以祭死者。銼屍,當胸一大斧,胸去數丈。逆賊之報亦慘矣。 |
りん‐ぴょう〔‐ペウ〕【林彪】
[1909〜1971]中国の軍人・政治家。湖北省黄安(こうあん)県の人。1925年中国共産党に入党。北伐・南昌暴動に参加後、毛沢東・朱徳らと紅軍を建設、以後軍の要職を歴任した。文化大革命で運動の先頭に立ち、毛沢東の後継者に指名されたが、クーデターを計画して失敗、ソ連へ亡命を企て飛行機事故で死亡。リン=ピアオ。
黄埔軍官学校 こうほぐんかんがっこう Huang-pu jun-guan xue-xiao
中国国民党が広州近郊の黄埔に設立した陸軍士官養成を目的とする学校。孫文は革命達成のためにはみずからの軍隊をもたなくてはならないという考えから,1924年1月 24日国民党第1回全国代表大会においてこの設立を決定した。同年6月に開校,校長は蒋介石,国民党代表廖仲ト。政治委員制度が取入れられ,周恩来,葉剣英,聶栄臻らおもに共産党員がこれを担当。 26年1月中央軍事政治学校と改称され,27年以降の北伐軍の主流をなした。卒業生のなかには,のちの中国共産党幹部になったものも多い (林彪など) 。 30年9月廃校,その後士官教育は南京中央軍校に移った。
苏联人问:“喝酒吗?”中国人答:“不。”苏联人又问:“抽烟吗?”中国人又答:“不。”苏联人再问:“嫖女人吗?”中国人还是说:“不。”苏联人最后很无奈的说:“那活着有什么意思?” |