歴史を理解することは、人間を理解すること。ヒストリー(歴史)とストーリー(物語)は、もとは同じ言葉でした。中国の伝統的な「紀伝体」の歴史書も、個々人の伝記を中心とした文学作品でした。
本講座では、日本にも大きな影響を残した中国史上の人物をとりあげ、運や縁といった個人の一回性の生きざまと、社会学的な法則や理論など普遍的な見地の両面から、人生を紹介します。豊富な図像を使い、予備知識のないかたにもわかりやすく解説します。(講師・記)
汨羅の淵に波騒ぎ 巫山の雲は乱れ飛ぶ「汨羅」は屈原が入水して自殺した川の名前。「離騒」は屈原の作品とされる韻文(長編の詩)。
溷濁の世に我起てば 義憤に燃えて血潮湧く
(中略)
止めよ離騒の一悲曲 悲歌慷慨の日は去りぬ
我等が剣 今こそは 廊清の血に躍るかな
屈原 (くつげん) Qū Yuán※女嬃は屈原の姉ともいう。
中国,戦国時代,楚国の人。一名は屈平(くつぺい)。《楚辞》の主要な作品の作者とされる。楚の貴族の出身である屈原は,楚の懐王の信任をえて内政外交の両面で腕を振るっていた。諸国の併呑をもくろむ秦が,南方の大国である楚の力をはばかり,遊説家の張儀を遣(おく)って秦・楚の連合を説かせたとき,秦よりも斉と結ぶべきだと主張した屈原は,彼の才能をねたむ者たちの讒言(ざんげん)をこうむって,懐王から遠ざけられた。このとき屈原は漢北の地に蟄居したのだとされる。懐王は秦の口車に乗って秦に入り,捕虜となって死んだ。次いで,即位した頃襄(けいじよう)王も,弟の子蘭らの讒言を聴いて屈原をうとんじたため,放逐された屈原は洞庭湖周辺の江南の荒野を放浪した。やがて,秦の軍が楚の都の郢(えい)を陥(おと)すと,絶望した屈原は汨羅(べきら)の淵(湖南省長沙にある)に身を投げて死んだ。このような波浪の多い不遇の生涯の中で《楚辞》の離騒,九歌,九章,天問などの諸篇が生み出されたとされる。
ただ彼の伝記としては《史記》屈原伝がほとんど唯一のものであるが,その記述には矛盾が少なくなく,また《楚辞》の諸作品を屈原の生涯と結びつけねばならない必然性に欠けるところから,《楚辞》を屈原の伝記と切り離して理解しようとする考え方もある。なお魏晋南北朝以降,民間伝承の中で屈原は水の神としての性格を強めていった。そうした伝承の中では,屈原は5月5日に水中に身を投げ,その彼を救うために竜船(ペーロン)による競争が始まったとされ,また水中で竜に苦しめられている彼に食料を送るため粽(ちまき)が作られたのだともされる。現在もなお,湖南省一帯に屈原とその娘の女嬃(じよしゆ)の伝説が流布している。
執筆者:小南 一郎
『楚辞』(そじ)
戦国時代の楚(そ)の屈原(くつげん),宋玉らの辞賦(じふ)および漢代の数家のものを含む作品集。漢代の辞賦文学盛行の先鞭をなす書。また屈原作とされる諸編には,楚に伝わっていた神話,伝説,歌舞などがうかがえる。通行本は後漢の王逸(おういつ)の編。
大意―いにしえの帝高陽(顓頊 せんぎょく)の末裔である、今は亡き父の名は伯庸という。以下略
帝高陽之苗裔兮 帝高陽(ていこうえい)の苗裔(びょうえい) 朕皇考曰伯庸 朕(わ)が皇考を伯庸(はくよう)と曰ふ 攝提貞於孟陬兮 攝提(せってい)孟陬(すう)に貞(ただ)しく 惟庚寅吾以降 惟(こ)れ庚寅(こういん)に吾(われ)以て降(くだ)れり 皇覽揆余初度兮 皇、覽(み)て余を初度に揆(はか)り 肇錫余以嘉名 肇めて余に錫(たま)ふに嘉名を以てす 名余曰正則兮 余を名づけて正則と曰ひ 字余曰靈均 余を字(あざな)して靈均と曰ふ
屈原既放、游於江潭、行吟沢畔。顔色憔悴、形容枯槁。大意―追放された屈原は、川や淵をめぐり、川辺をさまよいながら吟行した。顔はやつれ体は痩せ細っていた。
漁父見而問之曰「子非三閭大夫与。何故至於斯。」
屈原曰「挙世皆濁、我独清。衆人皆酔、我独醒。是以見放。」
漁父曰「聖人不凝滞於物、而能与世推移。世人皆濁、何不淈其泥、而揚其波。衆人皆酔、何不餔其糟、而歠其釃。何故深思高挙、自令放為。」
屈原曰「吾聞之、『新沐者必弾冠、新浴者必振衣。』 安能以身之察察、受物之汶汶者乎。寧赴湘流、葬於江魚之腹中、安能以皓皓之白、而蒙世俗之塵埃乎。」
漁父莞爾而笑、鼓竡ァ去。乃歌曰、
滄浪之水清兮 可以濯吾纓
滄浪之水濁兮 可以濯吾足
遂去、不復与言。
屈原、既に放たれて、江潭に游び、行〻(ゆくゆく)沢畔に吟ず。顔色憔悴し、形容枯槁す。
漁父(ぎょほ)見て、之に問ひて曰く「子は三閭大夫に非ずや? 何の故に斯(ここ)に至いたれる?」と。
屈原曰く「世を挙げて皆濁れるに、我独り清(す)めり。衆人皆酔へるに、我独り醒めたり。是(ここ)を以て放たる」と。
漁父曰く「聖人は物に凝滞せずして、能く世と推移す。世人、皆濁らば、何ぞ其その泥を淈(にご)して其の波を揚あげざる? 衆人、皆酔はば、何ぞ其の糟(かす)を餔(くら)ひて其の釃(しる)を歠(すす)らざる? 何の故に深く思ひ高く挙あがり、自ら放たれしむるを為なすや?」と。
屈原曰く「吾、之を聞けり。『新たに沐する者は必ず冠を弾き、新たに浴する者は必ず衣を振るふ』と。安んぞ能く身の察察たるを以て、物の汶汶たるを受くる者ならんや? 寧ろ湘流に赴きて江魚の腹中に葬らるとも、安んぞ能く晧晧の白きを以て而も世俗の塵埃を蒙らんや?」と。
漁父、莞爾として笑ひ、(えい)を鼓(こ)して去る。乃ち歌ひて曰く、
滄浪の水清まば、 以て吾が纓を濯ふべし
滄浪の水濁らば、 以て吾が足を濯ふべし
と。遂に去りて、復た与に言はず。
一時間に及ぶ会見は、和やかな雰囲気のうちに終わりに近づいた。引用終了。
毛主席は、書棚の中から糸とじ本の『楚辞集注』六巻を取ってくるよう服務員に言いつけ、立ち上がってそれを田中首相に手渡した。『楚辞集注』は、楚の宰相であり詩人でもあった屈原らの辞賦を集めた『楚辞』に、南宋の学者、朱熹が注釈を付けたものである。
なぜ『楚辞集注』を贈ったのか。さまざまな憶測が流れた。「屈原に引っかけて、国民の利益のため決然として訪中した田中首相の愛国心を称えたのだ」という見方もあった。真相はよくわからない。しかし「主席はこの本が大好きだったからに違いありません」と王さんはみている。
毛主席は、田中首相が強く固辞したにもかかわらず、書斎から玄関まで一行を見送りに出た。毛主席の足取りは速く、遅れまいと、林さんは小走りについて行ったという。
こうして「歴史的な会見」は終わった。
毛主席の側近に、郭沫若という人がおりまして屈原を主題としまして、有名な戯曲五幕を作りました。これは中共を研究している人々は、皆一応読んでいるものであります。この『屈原』を読んでみますと、秦の対楚謀略が、宮廷の重臣に浸透していく様が、おもしろく書かれています。この作品では結局、屈原は捕えられ一服もられるところを、屈原に共鳴する一人の美女が救おうとしますが、こと露見して共に捕われる。そこに、一人の義士が出まして、辛うじて、二人を救出するのでありますが、時既に遅く、屈原を救おうとした美女は、屈原の代りにその毒杯をあほって、死んでしまいます。そこで屈原等は、その骸【むくろ】に火を放ち、その炎の中に『離騒』の一篇「橘頌」を投じ、これを手向けて去るというところで、幕になります。引用終了。「新釈漢文大系」を出版している明治書院のサイトでは、以下のような分析を載せる。
毛沢東も「詞」を作ります。郭沫若の『離騒』をも読んでいることと思います。それにしても、何故に、この『楚辞』を田中首相に贈ったのでありましょう。
ちょっと考えると、お前は、俺のいうことをきかないで、東方のアメリカ、或いはアジア自由諸国と合縦して、我が国に対抗しようというなれば、汝の運命は屈原であるぞ、というのかも知れない。そう解釈されても仕方ない。
或いは別にかんぐると、ソ連を秦に擬らえて、お前はソ連に乗ぜられると、屈原の様な運命になって、投水自殺をするように、身を亡ぼすことになるぞ・・・何しろ中共とソ連の関係は険悪ですから、こういう意見もおもしろい。
なににしても、一国の首相にお土産として贈るには、縁起が悪い。いろいろかんぐれば、そんな解釈もできる不愉快なもの。そんなものを、うやうやしくいただいて帰るとは何だと酷評する人もおります。まあ田中さんは、そんなことまでご承知の筈はない。
こんなことは、今度の事件の一エピソードであります。しかし、非常に思想性と時代に対する風刺性の強い事件です。
1972年9月25日、田中角栄首相は北京を訪れ、同夜の歓迎会で挨拶をしました。その挨拶の中に「中国に多大なご迷惑をおかけした」という言葉がありました。同年9月27日に改めて会見が行われたとき、毛沢東はその「迷惑」という言葉に対応して、田中首相に「楚辞集註」を渡したといいます。田中首相は渡された意味を知ってか知らずか、そのときには本を開かず、日本に帰ってから明治書院刊の新釈漢文大系「楚辞」で調べたといわれています。そこには「迷惑」について次のように記載されていました。引用終了
忼慨して絶たんとして得ず、中瞀乱して迷惑す
(こうがいしてたたんとしてえず、ちゅうぼうらんしてめいわくす)
いきどおり慨(なげ)いて君と絶とうかと思ってもできず、心の中は暗み乱れて迷いのである。
(新釈漢文大系 第34巻「楚辞」285ページ 「八 九辦」第二段)
「迷惑」という言葉は、中国では女性のスカートにお茶をこぼして申し訳ないといったくらいの軽い意味であり、その程度の言葉では済まされないという、毛沢東がそのとき言いたかったことに田中角栄首相がすぐに呼応していたら、日中関係はまた少し変化していたかもしれないという人もいます。
現在中国と関係のある方々は、今の中国の人々の意識が「楚辞」に書かれた「迷惑」程度ではないということを認識しておく必要がありそうです。
朱全忠 (しゅぜんちゅう) Zhū Quán zhōng 生没年:852-912
中国,五代後梁第1代の皇帝,太祖。在位907-912年。宋州碭山県(安徽省)の人。本名は朱温であるが,黄巣の反乱軍に投じ,乱後半に形勢不利とみて唐朝に下り,全忠の名を賜った。さらに恩賞として運河の要衝汴州(べんしゆう)に治所を置く宣武軍節度使に任ぜられ,その豊かな経済的立地により群雄を平定し,唐帝を保護下に置いた。907年(開平1),自らがたてた唐最後の哀帝に迫って譲位させ,帝位についた。国を大梁と号し,汴州を開封府と改称して都とした。運河時代の幕開きである。唐的伝統にとらわれず,新しい時代に即応して新興人士を抜擢し,勧農策や税役軽減を図った。しかし,河東・鳳翔・淮南・剣南の諸勢力は梁朝を認めず,また江南各地にも自立政権が成立しつつあって支配は及ばず,黄河中・下流域が実質的領域であった。とくに河東の李克用とは激しく抗争し,その子李存勖(りそんきよく)の代には河北を制せられて窮地に陥り,ついで次子朱友珪に殺された。
→五代十国
執筆者:愛宕 元
後梁(こうりょう) Houliang 907〜923
五代最初の中原王朝。唐の節度使朱温(朱全忠,太祖)が哀帝を廃して汴州(べんしゅう)に建国。武人支配の王朝。唐の節度使李克用(りこくよう)およびその子の李存勗(りそんきょく)と抗争し,2代17年で李存勗に滅ぼされた。
こう‐そう〔クワウサウ〕【黄巣】
[?〜884]中国、唐末の農民反乱、黄巣の乱の指導者。山東省曹州の人。科挙に落第して、塩の闇商人となる。のち仲間とともに決起し長安を占領したが、唐軍に大敗し自殺。
李清照 りせいしょう Li Qing-zhao
[生]元豊7(1084)
[没]?
中国,北宋末の女流詞人。済南 (山東省) の人。号,易安。『洛陽名園記』の著者李格非の娘。金石学者趙明誠の妻。 18歳で結婚。才媛で,金石文の採集,研究に夫を助けて『金石録』 (30巻) を完成させた。 宋の南渡後,明誠は建康で病没し,その直後から戦乱に巻込まれ,江南地方を転々と流離し,膨大な蔵書,古器,拓本を次々に失い,晩年は悲惨な境遇に終ったという。 詞人としては婉約派の正統を受け,夫への追慕,流亡の愁苦をうたって,繊細な情熱を清新な発想で表現し,宋代を通じて一流に数えられる。 詞集『漱玉詞』,文集『漱石集』。
し【詞】
(前略)
A中国、古典文学の一ジャンル。唐代に流行した新しい歌謡の歌詞が、やがて文学形式として定着したもの。 一句の字数が不定で、俗語を多用する。宋代に栄え、宋を代表する文学とされる。填詞(てんし)、詩余などとも呼ばれる。〔填詞図譜(1806)〕
(後略)
趙明誠が子どもだったとき、昼寝をして、不思議な夢を見た。夢の中で本を暗誦した。目が覚めたあと覚えていたのは、三つの句だけだった。以下は、李清照が思春期の少女の心情を詠んだ「詞」。詞牌(しはい)は「点絳唇」(てんこうしん)
「言与司合、安上已脱、芝芙草拔」
言と司は合し、安の上はすでに脱し、芝芙は草、抜す。
「合(がっ)」「脱」「抜」で韻をふむ。
趙明誠の父親は、幼い息子のために、夢を解釈してやった。
「言と司が合えば、詞。安の上部をはずすと、女。芝芙の草かんむりを取れば、之夫だ。つまり『詞女之夫』という、夢のお告げだ」
その予言どおり、趙明誠は成人後、「詞」の女流詩人である李清照の夫となった。
蹴罷秋千,起来慵整繊繊手。露濃花痩, 薄汗軽衣透。意味は、https://www5a.biglobe.ne.jp/~shici/liqingz16.htmを参照。
見有人来,襪剗金釵溜。和羞走,倚門回首,却把青梅嗅。
この詞はぶらんこに乗って、遊んでいた女の子が、すこし汗を掻いた衣を整えていました。この時、見知らぬ男が歩いてきました。中国では昔、結婚適齢の未婚女性は原則的に家族以外の男性とあってはいけませんでした。少女は恥ずかしくて、靴をはく暇もなく、靴下のまま逃げようとしました。そして、髪の毛に飾った金のアクセサリーを落としたことにも気づきませんでした。でも、好奇心から男の人を見たくて、門の闇に隠れた後、そっと振り返えりました。人にばれたら恥ずかしいと思って、青梅を手に持ってその香を嗅ぐ様子を見せました。少女のしぐさをくっきりと描写し、自由と恋に対する憧れを表しています。とても素敵ですよね。
紅藕香残玉簟秋。軽解羅裳,独上蘭舟。雲中誰寄錦書来。雁字回時,月満西楼。意味は、https://www5a.biglobe.ne.jp/~shici/liqingz9.htmを参照のこと。
花自飄零水自流。一種相思,両処閑愁。此情無計可消除。才下眉頭,却上心頭。
私は建中辛巳の年,趙氏に嫁いだ。その時先君は礼部員外郎,丞相は吏部侍郎で,夫君は二十一歳,太学の学生であった。「金石録後序」の日本語訳と原漢文は、https://sankouan.sub.jp/kans-5.htmでも読める。
趙と李の家柄は名族でなく【加藤注:実際はセレブの家だった】,もともとつつましい生活をしていたので,毎月初めと月半ばの休暇には,いつも衣類を質に入れて五百文の銭を手にし,歩いて相国寺にゆき,碑文と果物を買った。帰ると,二人向かいあって鑑賞しながら食べ,昔の葛天氏(古代の帝王)の頃のつつましくも平和に暮らしていた民びとのようね,と言ったものだった。
二年後,夫が出仕すると,衣食はできるだけ切りつめ,遠方絶域を極め,天下の古文奇字を集め尽くす計画を立てた。月日と共に,次第次第に増えていった。丞相は中央政府に居られ,親戚知人には帝室図書館に勤務するものもあり,散逸した詩経の詩篇や史書,孔子旧宅壁中の書,汲郡の古墳中の簡書などまだ見ぬ書があったため,遂に写し取るのに夢中になり,やがて妙味を覚えて,止められなくなってしまった。それからは古今の名人の書画,一代の奇器などを眼にすると,また衣類をかたに買い取ったものだった。
今でも記憶しているが,崇寧年間(1102−1106)の頃のこと,ある人が徐煕の牡丹の図を所有していて,銭二十万でどうだと言った。当時高貴の家の子弟でも,二十万という値では,簡単に工面できるものではなかった。二晩手元に留め置いたが,結局手元不如意で返すしかなかった。夫婦相向かい数日間悔しがったものだった。
それから郷里(青州。いまの山東省益都県)に十年引きこもり,あれこれ収入があって,衣食にも余裕があった。夫は続けて二つの郡の太守をつとめたが,その俸給はすべて,古書校訂につぎ込んだ。一書を獲得すれば,すぐ二人で校勘をおこない,整理をして標題を付ける。書画や古青銅器が手にはいると,撫でさすったり広げたり巻き納めたりして,きずを検分し,一晩に蝋燭一本が燃え尽きるのが慣わしだった。だから装丁は精緻,字画は完壁,収書家の第一位であった。
私は生まれつき記憶力に恵まれていたので,食事がすむと,帰来堂に坐して茶をいれ,うずたかく積み上げられた書物を指さして,あの事はあの本の何巻の何葉の第何行に有ったかなどと言って,当たりかどうかで勝負をし,茶を飲む順番を決めたものだった。当たれば茶碗を挙げて大笑い,茶をふところにひっくり返して,かえって飲むこともできずに席を立っ始末,だがこうして老いていければよいと思った。だから憂患困窮にあっても,志を曲げることはなかった。
収書が完成すると,帰来堂に書庫を設け,大きな本箱には目録を整え,書物をしまった。閲覧する際には,鍵を請け出し帳簿に付け,それから巻秩を探す。少しでも汚損すれば,必ず修復補正を要求され,以前のように気ままではいられなくなった。これでは快適さを追求して,逆に戦標を獲得したようなもの,私の性分では耐えられず【加藤注:一部の学者はこのくだりを根拠に不仲説をとなえる】,それで食事からは肉を抜き,着物からは模様ものを抜き,首には宝石などの飾りを無くし,部屋には塗金刺繍の調度を無くして,百家の書で,字に欠損がなく,編集に誤謬のないものは,すぐにそれを買い求めて,副本を備えることにしようと決心したのだった。
もともと我が家では周易,左氏伝を家学としていたので,この二門に関わる文献は,最も備わることになった。こうしてテーブルにずらりと並び,枕元に無造作に重ねて,意にかない心のむくまま,目を遊ばせ探求欲を満たし,その楽しみは音楽,色恋,ペットの愛玩にまさるものだった。
靖康丙午の歳(1126),夫君が酒川(山東省溝川県)の知事になられたとき,金軍が都に侵入したと聞いた。まわりを見渡して荘然とし,箱や手箱にいっぱいのものに,かつは恋々とし,かつは胸痛め,きっと我が物ではなくなるのだろうという予感がした。
建炎丁未(元年,1127)の年の春三月,姑の葬儀のため急ぎ南下することになった。余分な物まで載せられないので,まず書物の中の版型の大きな物を除外し,次に絵画の幅数の多いものを除き,次に古器の中で款識のない物を除いた。その後さらに官版書,普通の絵画,重い器物を除いた。こうして次々減らしても,依然として書物は車十五台になった。
東海(江蘇省東海県)まで来ると,舟を連ねて准河を渡り,さらに長江を渡って,建康(江蘇省南京市)についた。青州の屋敷にはまだ書冊や什器が,十あまりの部屋に保管してあり,次の年の春にもう一度船を設えて積んでくるつもりでいた。が,十二月,金軍が青州に侵攻,その十あまりの部屋の物は,すべて灰になってしまった。
建炎戊申(二年,1128)の秋九月,夫君は喪が明けて建康府の知事になられたが,
己酉(建炎三年,1129)の春三月には辞され,舟で蕪湖(安徽省蕪湖市)に上り,姑敦(安徽省当塗県)に入り,贛水のほとりに居を構えることにした。
夏五月,池陽(安徽省貴池県)に来たとき,湖州知事の辞令を受け,都に上り皇帝に拝謁されることになった。そこで一家を池陽に止めたまま,単身で招集に応じられた。
六月十三日,荷物を背負い,舟から岸に上がって腰掛けたとき,粗末な上着にあみだにかぶった頭巾,精気は虎の如く,眼光燭燗と人を射,舟に向かって別れを告げられた。 私は嫌な予感がして,大声で『もしこの町に危険が迫ったら,いかが致しましょう。』といった。 手を振り上げ遠くから『皆に従え。やむを得なくなったら,まず家財を捨てよ,次が衣類,その次は書冊と巻物,その次が古器,先祖の位牌だけは,自分で抱えて,死ぬまで離すな,忘れるんじゃないぞ。』という返事。 そうして馬を駆って行ってしまった。途中大急ぎで馬を走らせ,酷暑を冒し,病気にかかった。行在所に着いたとき,熱病におかされた。
七月末,手紙で病に伏せっていると知らせがあった。 私は驚き恐れた,夫君はもともとせっかちな性分だ,どうしたものか。熱病に罹って熱が上がると,きっと熱冷ましを服用するだろうが,それではますますひどくなる。 そこで舟のとも綱を解いて川を下り,一昼夜三百里を進んだ。着いてみると,やはり柴胡,黄苓などの薬を大量に服用して,熱に加えて下痢までして,病状は危険な状態になっていた。 私は悲しみの涙にくれ,あたふたして後の事をたずねることもできなかった。
八月十八日,ついに起き上がれなくなり,筆を取り詩を作り,書き終えると亡くなられた,死後の事は何も言い残されなかった。
葬儀は終ったが,私には身を寄せる所がない。朝廷ではすでに後宮の人々を分散させていたし,長江も渡航禁止という噂だった。その時まだ書籍二万巻,金石の拓本二千巻,食器や寝具は百人の来客に対応できるだけのものがあったし,ほかの家具もそれに見合うだけの数があった。私までもが大病を患い,かろうじて息をしている有様。情勢は日々緊迫の度を加えていた。
夫君には妹婿に当たり,兵部侍郎の官にあって,皇太后の護衛をして洪州(江西省南昌市)にいる人があることに思い当たり,昔からの部下二人を使いに出し,先に一部荷物を送り身を寄せようと考えた。冬十二月,金軍が洪州を落とし,すべては水の泡となった。あの舟を連ねて長江を渡って来た書物も,雲煙となってしまった。わずかに小さな巻軸の書帖,写本の李杜韓柳の文集,世説新語,塩鉄論,漢唐の石刻の副本数十軸,三代の鼎鼎十数点,南唐の写本が数箱だけであった。たまたま病中の慰みとして,寝室に持ち込んでいた物だけが,やっと残るだけとなったのである。長江上流にはもう進めず,敵の勢いも予測しがたいものがあったので,弟の迒(こう)が勅令局の冊定官をしていたので,そこに頼ることにした。台州(漸江省臨海県)に着くと,知事はすでに逃亡していた。刻(漸江省峡県)に向かい,上陸し,衣類などを捨て,黄巌(漸江省黄岩県)に逃げ,舟を雇って海に出,行宮に駆けつけた,当時仮御所は章安(漸江省臨海県東南)にあったのだが,それから御船の後について温州(漸江省温州市)に行き,それからまた越州(漸江省紹興市)に行った。
庚戌(建炎四年,1130)の年十二月,百官の解き放ちがあり,そこで衙州(漸江省衙県)に逃げた。
紹興辛亥の年(元年,1131)春三月,再び越州に行った。
壬子(紹興二年,1132)の年,今度は杭州(漸江省杭州市)に行った。亡夫君の病気が重かった時,張飛卿という学士が,玉の壷を携えて見舞いに来たことがあった。そのまま持ち帰っていったが,それが大変な宝玉だった。誰が言いふらしたか,お上が買い上げられるとの噂が広がり,また密かに弾劾の準備が進められていると聞こえてきた。私は恐惶し,申し開きもしないまま,家中の銅器などの器物を,朝廷に寄進するつもりだった。越州に来たとき,皇帝はすでに四明(漸江省寧波市)に移られていたので,家中には止め置かず,写本と一緒に刻に預けておいた。そのあと官軍が反乱兵を捕らえたとき,持ち去られ,そっくり前の李将軍の家に収まったと聞いた。やっと残っていた物も,こうして十のうち五,六は無くなってしまった。
四十箱足らずの書画硯墨だけは,もう他に置いておけず,常に寝台の下に置いて,自分の手で出し入れしていた。
会稽(漸江省紹興市)にいたとき,当地の鍾氏の屋敷に住んでいた。ある晩,壁の穴から五つの箱が持ち去られた。私は悲しみ堪えきれず,懸賞金を出して買い戻そうとした。二日後,隣人の鍾復皓が十八軸を持ち報償を求めた。それで盗人は近くにいると知れた。いろいろ手は尽くしたが,その他の物はついに出てこなかった。今になって,それらは転運判官の呉説が安値で手に入れたことが分かっている。やっと残っていた物は,とうとう十のうち七八が無くなり,有る物といえば,一二の不完全な書冊,数種類の平凡な書帖に過ぎぬが,そんなものでも自分の頭や目のように愛おしんでいる,何と愚かなことであろうか。
尋尋覓覓, 冷冷清清, 凄凄慘慘戚戚。 乍暖還寒時候, 最難將息。 三杯両盞淡酒, 怎敵他、暁來風急。 雁過也, 正傷心, 却是旧時相識。意味は、https://www5a.biglobe.ne.jp/~shici/liqingz1.htmを参照。
満地黄花堆積, 憔悴損, 如今有誰堪摘? 守着窓児, 独自怎生得黒。 梧桐更兼細雨, 到黄昏、点点滴滴。 這次第, 怎一個、愁字了得?
昨夜雨疏風驟, 濃睡不消残酒。 試問巻簾人, 却道海棠依旧。 知否? 知否? 應是鵠紅痩。意味は、https://www5a.biglobe.ne.jp/~shici/liqingz2.htmを参照。
マルコ‐ポーロ(Marco Polo)
[1254〜1324]イタリアの旅行家。1271年陸路で中国に向かい、元の上都に到着。フビライに厚遇されて17年間滞在し、各地を旅行。1295年に海路でベネチアに帰国。のちジェノバとの戦争で捕虜となり、獄中で「東方見聞録」を筆録させ、東洋事情をヨーロッパに紹介した。
ポーロ Marco Polo 生没年:1254-1324
中世ベネチア共和国の市民。その先祖は11世紀のころダルマティアから移住したと伝えられるが,正確にたどれる家系は祖父までである。ベネチア移住からマルコの代まで数世代を経て,父ニッコロ,叔父マッテオの兄弟は東方貿易に従事する商人であった。当時ベネチアはジェノバと並んで東方貿易で繁栄し,その商線はシリアから黒海を縦断してクリミア半島に達していた。1260年商用でコンスタンティノープルにいたニッコロ兄弟は商利を追ってクリミアを越え,さらにボルガ下流に位するキプチャク・ハーン国の首都サライに達した。だがおりから突発したキプチャク,イル両ハーン国の戦争で帰路を断たれた。やむなく迂回行路をとって中央アジアのブハラに至って待機する間,たまたま元朝に向かうイル・ハーン国の使臣に誘われるまま随行して元朝廷に至ったのは64-65年の交である。世祖フビライ・ハーンに面謁した兄弟はローマ教皇に有識の宣教師派遣を求めるハーンの親書を託されて帰路につき,69年4月シリアに着いた。おりあしく教皇クレメンス4世の訃に当たったので一応ベネチアに帰って新教皇の選立を待ち,70年末,当時16歳の息子マルコを伴い再度の東方旅行に出発した。
しかるに新教皇グレゴリウス10世の派遣した2名の宣教師はアルメニアの戦乱で前途を放棄したため,ポーロ家の3名によるハーンへの復命旅行が始まり,3年あまりを経た1274年(至元11)の春夏の交に内モンゴルのドロン・ノールに位置する元朝の夏の都である上都に到着した。彼らは元朝のいわゆる色目人に属し,かつ困難な使命を果たした功労者でもあるので,以後ハーンに仕えて中国に滞在すること17年,その間マルコは揚州(江蘇省江都県)地方の総督に任ぜられ,あるいは命を奉じて遠くは雲南,チャンパ(南ベトナム)にまで出使し,その足跡は広く中国本部の11省にわたっている。この見聞が彼の旅行記の6割を占める豊富貴重な元朝中国に関する報告となったのである。揚州における彼の任官に関しては文献の疎漏から中国史料によって後づけられないが,さいわいにも泉州港(福建省晋江県)より海路帰国の途につく段については元朝公文書が明確な記載を残している。至元末年イル・ハーン国第4代アルグーン・ハーンの妃を求めて元朝に派遣され来った使臣に同伴してマルコ父子はその帰国を許されるのであるが,この一行が90年末に泉州を出帆した次第が《経世大典》の残簡中に見いだされるからである。南シナ海,インド洋,アラビア海を経てホルムズに上陸したマルコ父子はイランを縦断して黒海経由で故国に帰還したのは95年,まさに通年計算で26年間の東方大旅行であった。
帰国後ほどなき98年,貿易上の競合関係にあったベネチアとジェノバの間に戦端が開かれるや,マルコは従軍してガレー船艦長の指揮顧問官となったが,クルゾラ沖の海戦に敗れてジェノバの獄につながれた。この間,同室の囚人ピサの物語作者ルスチケロに旅行内容を口述したのが《マルコ・ポーロ旅行記》(《東方見聞録》)の祖本である。彼の旅行は球体としての地球世界がまだ認知されていない中世人の平面的東西世界を,北回りの陸路と南回りの海路で周回した最初の体験であるとともに,その体験を記録に残したという点で,とくに重要な意味をもつ。 執筆者:愛宕 松男
東方見聞録 とうほうけんぶんろく
イタリア、ベネチアの商人マルコ・ポーロの行った東方旅行(1271〜95)の体験談を、物語作者ルスティケロが記録した旅行記。正式の名前は『世界の叙述』Description of the world。マルコ・ポーロは、小アジア、イラン、パミール、東トルキスタン、甘粛(かんしゅく)、長安(西安)を経て中国北辺を横断し、上都(じょうと)(内モンゴル自治区)でフビライ・ハンに会って、そのまま元朝に仕えた。その後、河北、陝西(せんせい)、四川(しせん)から雲南へ、さらに山東、浙江(せっこう)、福建へと、広く中国各地を旅行し、福建のザイトン(泉州)からインドシナ、ジャワ、マレー、セイロン(スリランカ)、インドのマラバルなどを経由して、ペルシア湾のホルムズに達した。旅行地域の風俗、慣習のほかに、中国人の記録にはみられない元朝の宮廷内の事情が記されており、また、日本を黄金の国としてチパングChipanguの名で初めてヨーロッパに紹介した。その内容があまりにももの珍しいため、初めは信じられなかったが、そののち、多くのヨーロッパ人がアジアへ旅行するにつれて、この書の記事の正確さが知られるに至った。これはコロンブスのアメリカ発見の機縁となり、またヘディンやスタインは、その中央アジア探検に、この書を座右から離したことがなかった。ルスティケロの原本は早く散逸したが、それを基にして潤色、加筆、または削除した多くのテキストができ、そののち幾多の変遷を経て、今日の諸テキストが伝来した。これらの異本は、ムールとペリオとの共編によって校合(きょうごう)のうえ出版されている。
[護 雅夫]
『愛宕松男訳・注『東方見聞録』全二冊(平凡社・東洋文庫)』
ベネチア( Venezia )[ 異表記 ] ヴェネツィア
イタリア北東部、アドリア海のベネチア湾湾奥にある港湾都市。七〜八世紀ごろから貿易で発展。中世末には東地中海貿易を独占し共和国を樹立。ナポレオンに独立を奪われたのち、オーストリア領となったが、一八六六年イタリア王国に併合。一二二の小島群を約四〇〇の橋で結んだ「水の都」で、旧市街は現在も運河をゴンドラが行きかう。ベニス。
漢儒は、儒教の国家教学化をすすめ、訓詁学が確立した。
唐儒は、科挙の試験制度という追い風に乗り、仏教と対抗した。
宋儒は、「理学」であり、士大夫の学問として、こっそり仏教の禅思想も取り入れつつ、「理」や「大義名分論」を重んじた。朱子学が、宋儒の代表。
明儒は、儒教の大衆化の風潮に乗り、激しいイデオロギー性があった。
清儒は、征服王朝下で栄えた儒学であり、訓詁学や考証学など意図的に「象牙の塔」にこもった。
陽明学 ようめいがく
中国の明代中期の思想家王陽明が提唱した儒学理論。 元・明代に国家公認の経書の解釈学となり形骸化した朱子学に対し,王陽明は朱子学の内側からの思想的革新を企て,朱子学の性即理に対し,心即理・知行合一・致良知の説を主張した。
つまり朱子学が実際には天下の事々物々の理を客観的にきわめることを重視したのに対し, 陽明学は宇宙の理法や人間の倫理はうまれながらに人の心に備わっているとし, 心で獲得された理の日常行動での具体的発現を重視した。 朱子学の理論体系を前提に,外在的な規範よりも自己の内面的な判断力とその実行を重視したため, 社会変革の推進者に受容され,またその機能をはたすことが少なくなかった。
王陽明 おうようめい 1472.9.30〜1528.11.29
中国明代の哲学者・政治家。名は守仁,字は伯安。陽明は号。浙江(せっこう)省余姚(よよう)の出身。官は南京兵部尚書・兼都察院左都御史にいたる。 文臣としては明代を通じて武功第一と称され,江西福建の賊乱,宸濠(しんごう)の反乱(寧王による皇位争奪の挙兵),広西瑶(ヤオ)族の乱などを平定。 はじめ朱子学を修めたが,宦官(かんがん)劉瑾(りゅうきん)に反対して流された貴州省竜場山中で,南宋の陸象山の心即理説をうけ,これを根本原理とし,知行合一・万物一体・致良知を主張する陽明学を確立。 陽明学は客観的哲学である朱子学とは対照的に主観的哲学の色彩がこく,朱子学と並ぶ儒学の2大潮流の一つとなった。弟子との問答・書状を収録した「伝習録」がある。
王陽明(王守仁)は、ひどく晩生(おくて)である。引用終了
幼児からの神童が一挙にその才能をのばしていったのではなく、苦渋のすえに覚醒していった。しかもそれまでに逸脱の道を歩んでいた。
有名な著作や大部の書物をのこしたのでもない。作戦軍略家として音に聞こえ、世間にはその功績が知られる程度で、死んだ。
ところが王陽明を慕う者は多く、その言葉は『伝習録』やさまざまな文集として残った。しかも陸象山とともに、朱子に並び称されるにおよんだのである。
こういう道学者はかつていなかった。旧儒学であれ新儒学であれ、道学者というものはどこかで聖人をめざしているはずであって、むろんそれを踏み外した者など数かぎりなくいるが、少なくとも名が残った者に、逸脱者などいなかった。 それが王陽明にあっては、まったくそれまでのタイプにはまらない。
「陽明の五溺」という有名な言葉がある。 「はじめは任侠の習に溺れ、二たびは騎射の習に溺れ、三たびめは辞章の習に溺れ、四たび目は神仙の習に溺れ、五たび目は仏氏の習に溺れ、正徳丙寅、初めて正しく聖賢の学に帰す」というものだ。 『伝習録』に入っている。
任侠が好きで、チャンチャンバラバラにうずうずし、文字習字語彙の遊びに溺れて、神仙タオイズムにも仏教にも惹かれたというのだから、ぼくなど、これに倣っていえば五溺、すべて溺れっぱなしだが、王陽明がそうだったというのである。
なぜ、このような男が国教ともなった朱子学を覆(くつがえ)したといわれ、陽明学を樹立したといわれ、 幕末維新に橋本左内や吉田松陰に、また西郷隆盛や内村鑑三に心服されたのか、にわかには納得がいかないにちがいない。ぼくも長らくそうだった。
南宋以來の大勢を達觀すると、北支那の文化は到底南支那のそれに比敵し得ざること、明白にして疑を容れぬ。 朱子を始め、宋の陸象山(江西省)とか、明の王陽明(浙江省)とか、大思想家は皆南支那の産である。 清一代の思想・學術に甚大なる影響を與へた顧炎武(江蘇省)、黄宗羲(浙江省)、王船山(湖南省)等の先覺者も、亦同樣すべて南支那に屬する。 公羊學の流行は、支那近代學界の一特徴であるが、この公羊學の開拓に功勞ある學者は、莊述祖(江蘇省)、龔自珍(キヨウジチン)(浙江省)等南支那人が多い。 その他變法自強の提唱といひ、孔子教の更張といひ、すべて此等の新氣運は、南支那から勃興して來る。
「孝荘下嫁」:第二代順治帝の生母である孝荘太后は、夫の死後、夫の弟であるドルゴンと秘密裏に結婚していたのではないか、という疑惑。上記のうち二つが順治帝関係である。
近代の英国のヴィクトリア女王は夫の死後、使用人のジョン・ブラウンと秘密結婚していたという噂があるが、それに匹敵するスキャンダルである。
「順治出家」:若くして亡くなった順治帝は実は死んでおらず、亡くなった愛妃の霊をとむらうため帝位を捨てて秘密裏に出家して僧侶になり、ずっとあとまで生きていたのではないか、という疑惑。
日本の花山天皇の突然の出家を連想させる。
「雍正奪位」:雍正帝の父・康煕帝は、本当は別の皇子を後継者に指名するつもりだったのに、雍正帝はイカサマ的な手段で帝位を盗み取った、という疑惑。
これの代わりに、雍正帝の死は実は暗殺だったという「雍正被刺」を入れることもある。
「乾隆身世」:乾隆帝の生母は実は浙江省杭州府海寧の名門の漢民族であったのではないか、という疑惑。
順治帝 じゅんちてい 1638?61
清の第3代皇帝,世祖(在位1643?61)
太宗ホンタイジの第9子。父の死後5歳で即位。叔父睿 (えい) 親王ドルゴンが摂政となる。李自成が北京を占領し,明が滅びたので,明将呉三桂 (ごさんけい) の請いを受け入れて1644年北京に入城し,清朝の中国支配の基礎を置いた。1650年ドルゴンが没して親政。その治世に中国の大部分を征服し,その子聖祖康熙 (こうき) 帝に引き継いだ。辮髪 (べんぱつ) 令は順治帝が施行したもの
順治帝 じゅんちてい (1638―1661)
中国、清(しん)朝第3代皇帝(在位1643〜61)。太宗(たいそう)ホンタイジの第9子。名はフリン、諡(おくりな)は章皇帝、廟号(びょうごう)は世祖(せいそ)。年号をもって順治帝という。1643年、太宗の死後、その弟睿親王(えいしんおう)ドルゴンに擁立され5歳で即位した。1644年3月、明(みん)が李自成(りじせい)らの内乱によって滅亡したことを契機に、清は明の将軍呉三桂(ごさんけい)の救援要請をいれて山海関(さんかいかん)(河北省北東)を越え、4月、李自成を北京(ペキン)から駆逐した。同年9月、順治帝は盛京(せいけい)(瀋陽(しんよう))から北京に遷都し、ここに中国の皇帝となった。順治年間における政治課題の中心は中国支配の確立にあった。軍事面では明の残存勢力の一掃を図るとともに、各地の農民反乱を平定し、郷村秩序の回復を目ざした。また内政面では儒教主義を尊重し、明の官僚機構や科挙制度をほぼ踏襲して読書人層の懐柔を図った。このことは、旧体制の維持を望む漢人支配者階級の支持するところとなり、清朝の中国支配を安定化させる要因となった。
[山本英史]
明末の事跡について卿らが知っていることは、往々にしてみな紙のうえの陳腐な記録にすぎぬ。 朕に仕えた宦官の中には、明末の万暦年間(一五七三年―一六二〇年)以降に紫禁城で働いたベテランもいた。 それゆえ朕だけは、明の後宮の実情を詳しく知っている。清は、明王朝の紫禁城を破壊することなく、そのまま使った(現在の故宮)。この一事だけでも、たいへんな税金の節約となった。
明末の奢侈はひどかった。 建物の造営もあれこれ多かった。 明の一日の出費だけで、今の一年ぶんをまかなえるほどだ。 役所が出す後宮女性の化粧代が銭四十万両、供用の銀は数百万両。 このような浪費は、わが世祖皇帝(清の順治帝。康煕帝の父)の即位によって、ようやく除かれた。 紫禁城内の縦横七層の砌地磚(紫禁城の地面は、敵軍が城外からトンネルを掘って侵入できないよう、石の板やレンガで七層、要所は十数層も重ねて舗装された)の補修や施工も、今はすべて民間業者に外注し、費用を節約している。 今は宮中の用度品も質素で、労働者にはちゃんと賃金を払っている。 が、明末の宮女は九千人、宦官は十万人にものぼり、飲食がゆきわたらず毎日のように餓死者が出たほどだった。