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中国権力者列伝 第2シーズン

最新の更新2020-11-11  最初の公開 2020-10-7

(以下、朝日カルチャーセンター・新宿「中国権力者列伝」より自己引用。引用開始)
 古来、世界の権力者は、軍隊や治安組織などの「暴力装置」、宗教や学問を利用した「権威装置」、臣下や民衆の不満の暴発を防ぐ「安全装置」を力のよりどころにしてきました。 日本や西洋と違い、中国では21世紀の今も安全装置が未熟なままです。前3世紀の秦の始皇帝から現代の国家主席まで、中国の歴代の権力者は「騎虎(きこ)の勢い」 状態です。いったん虎(権力の比喩)にまたがって走り出したら、途中で止まれない。もし虎の背中から降りれば、たちまち自分が虎に食い殺される。 中国はなぜ、このような国となったのでしょう。 その理由と歴史的経緯を、豊富な図像を交えて、予備知識のないかたにもわかりやすく説き明かします。(講師・記)
参考 [「中国権力者列伝」第1シーズン] 2020年6月-9月

第2週・第4週 木曜 10:30〜12:00 朝日カルチャーセンター・新宿教室にて

第1回 共通祖先の作り方 黄帝
https://www.youtube.com/playlist?list=PL6QLFvIY3e-kSR4Ux_PC1D8QlAIsxvmOJ
キーワード
 参考論文 楊志強「「炎黄子孫」と「中華民族」--近代中国における国民統合をめぐる二つの言説」慶應義塾大学大学院社会学研究科紀要、2007
  WikiPedia 中国語版 https://zh.wikipedia.org/wiki/炎黄子孙

 黄帝は神話・伝説上の古代の帝王。炎帝神農氏の異母兄弟とも伝えられる。
 伝説によると、黄帝は、侵略してきた蚩尤(しゆう)と戦ったとき、「指南車」を作らせて勝利し、中国文明の基礎となるさまざまな文物制度を定め、最後は天の昇ったという。
 例えば鏡も、黄帝の妃であった嫫母(ぼぼ)が偶然に発明したとされる(「中国の妖しい鏡」)。
別名:姓は姫ないし公孫姓、氏は軒轅(けんえん)氏または帝鴻氏。軒轅は名ともいう。戦国時代の斉国の青銅器銘文には黄帝を「高祖」と呼んだ例もある。
生没年:不明(非実在の可能性が高い)。紀元前26世紀から前25世紀ともされる。
主な事蹟:五帝のひとり(中国の皇帝と天皇・上皇参照)
評価:「文化英雄」「人文始祖」。神話的帝王、中国文明の創始者、「中華民族」共通の始祖。

〇加上説
 江戸時代の学者・富永仲基(1715ー1746)が『出定後語』において提唱した仮説。後発の教派・学派ほど、自己を権威づけるため、自分たちの起源をより古い時代の伝説的人物に仮託する傾向がある、という考え。
 近代日本の東洋史学者・内藤湖南(1866ー1934)は、加上説を援用し、古代中国の諸子百家の成立時期を推定した。
 春秋時代の孔子は、周公を最も尊敬した。
 戦国時代の墨子は、周公より古い伝説の帝王、禹を尊敬した。
 墨子の教えを報ずる墨家集団を攻撃するため、孟子は、禹よりも古い堯と舜を理想化した。
 孟子よりもあとに成立した道家集団は、老子を孔子の先輩とし、また、堯舜よりも古い黄帝を尊った。
 以下、農家と易学は、それぞれ神農と伏羲を開祖として仰いだ。
 古代中国の伝承では、古い順に、
伏羲 神農 黄帝 堯 舜 禹 周公
であり、それぞれを尊ぶ学派は、
易学 農家 道家 孟子 墨子 孔子
である。学派の実際の成立時期と、それぞれが理想化して始祖と仰ぐ人物の年代順はちょうど反対の関係になっている、と、内藤湖南は推理した。
 つまり、道家思想=老荘思想の成立時期は、彼ら自信の主張とは裏腹に、孔子や孟子の儒教思想よりも新しい、と内藤湖南は推定した。

〇黄帝の伝説
 中国古代の伝説上の帝王。炎帝神農氏の時代の末、諸侯を攻める炎帝を阪泉の地(河北涿鹿(たくろく)県北西)に破り、妖怪のような蚩尤(しゆう)を涿鹿で殺し、天子となった。
 戦国時代以降に成立したと思われる伝説によると、黄帝は「文化英雄」でもあり、鏡や車、舟、衣服、家屋、弓矢などのさまざまな道具の発明や、文字や音律、暦などの文物制度の制定にもかかわった。
 現存する中国最古の医学書『黄帝内経素問』と『黄帝内経霊枢』も黄帝の著作に仮託されている(日本の栄養ドリンク剤「ユンケル黄帝液」の語源)。
 中国では唐代以降散佚し、日本の『医心方』(10世紀)に収録されて残った房中術の古典『素女経』も、黄帝に仕えた神女「素女」に仮託されている。
 前漢の初期には、黄帝は老子と結びつけられ、「黄老の術」と呼ばれた道家思想の実践が流行した。
 後漢の時代に成立したと思われる『列仙伝』によると、黄帝は首山(山西省浦阪県)の銅を採り、荊山(河南省)の麓で鼎(かなえ)を鋳造させた。鼎が完成すると、天から、髯(あごひげ)を垂らした龍が迎えにおりてきた。黄帝は龍に乗って昇天した。群臣もいっしょに昇天しようと龍の髯などにつかまったが、落ちてしまったという。別の伝説では、黄帝といっしょに昇天できた臣下は七十二人だけだったと言う。

〇黄帝陵
 「天下第一陵」とも称される。中華人民共和国陝西省延安市黄陵県に現存する陵墓遺跡。黄帝は昇天し、地上に残された衣服と冠を葬った「衣冠塚」であると伝えられる。
 帝陵の最初の祭祀は紀元前442年に始まったとされている。唐の大暦5年(770年)に廟の建立。以来、歴代王朝が黄帝の祭祀を行ってきた。
 約333ヘクタールに及ぶ広大なエリアに、6万本以上の「古柏」があり、そのうち3万本は樹齢千年以上である。なお、中国の墓地に植樹される「松柏」の「柏」は、日本のカシワとは全く違う木で、針葉樹の一種であるコノテガシワのこと。
 環境考古学の安田喜憲(やすだ・よしのり)氏が担当したNHKの番組・人間大学「森と文明」(1997年)でも、黄帝陵の森の映像は、「レバノン杉」と並んで印象的に紹介されていた。

〇黄帝紀元
 西洋のキリスト紀元や日本の神武紀元に対抗して、清末のナショナリズム高揚のなかで提唱された紀元。「黄紀」とも言う。実際に使われたのは短命だった。
 清末、康有為ら変法派は孔子紀年を提唱した。革命派の学者・劉師培はこれに反対し、光緒29年(1903年)、『国民日日報』に「黄帝紀年論」を発表し、黄帝誕生の年を紀元とすることを主張し、1903年を黄帝紀元4614年とした。
 革命家の宋教仁は、黄帝即位の年を紀元とすることを主張し、1904年を黄帝紀元4602年とした。
 武昌蜂起(辛亥革命)で中華民国湖北軍政府が成立すると、清朝の元号「宣統」を廃止し、宣統3年(1911年)を黄帝紀元4609年とした。各省政府もこれに応じた。孫文が中華民国臨時大総統の地位に就くと、通達をくだし、黄帝紀元4609年11月13日(1912年1月1日)をもって中華民国元年元旦とし、黄帝紀元の使用を停止した。

〇漢民族復興の象徴としての黄帝
 魯迅(1881-1936)が日本に留学していた数え23歳のときに詠み、自分の写真に書き付けた漢詩「自ら小像に題す」。

   霊台無計逃神矢  霊台 神矢を逃るるに計無し
   風雨如磐闇故園  風雨 磐の如く故園を闇とす
   寄意寒星荃不察  意を寒星に寄するも荃は察せず
   我以我血薦軒轅  我は我が血を以て軒轅に薦めん

 レイダイ、シンシをノガるるにケイナし。フウウ、イワオのゴトくコエンをヤミとす。イをカンセイにヨするもセンはサッせず。ワレはワがチをモッてケンエンにススめん。
 清末の専制政治という時代背景もあって、魯迅はわざと難解な表現を使っている。解釈には諸説があるが、最後の一句の解釈だけは共通している。
 霊台(清末の統治者階級を指すか)はもはや神の矢から逃れるすべはない。風雨は岩のように重く、ふるさとは闇だ。この思いを寒星に寄せても「荃は察せず」(『楚辞』「離騒」の名句「荃不察余之中情兮」をふまえる)である。私は私の血を黄帝に捧げよう。
(中国語の「簡体字」による表記)鲁迅《自题小像》 灵台无计逃神矢,风雨如磐暗故园。寄意寒星荃不察,我以我血荐轩辕。

〇中華民族の強制的拡大の歴史と黄帝
 清末の革命思想家は「滅満興漢」を主張し、清朝の支配民族である満洲人を「韃虜(だつりょ)」という蔑称で呼び、「炎黄之裔、厥惟漢族」(炎黄のすえ、それただ漢族のみ)とうそぶいた。
 これに対して、保守派は「満漢」一体を唱道した。の融和を主張した。康有為(1858-1928)は「満洲人も黄帝の後裔である」「我が国はみな黄帝の子孫であり、今、各郷のうち、実に、同胞一家の親、異無きが如し」と強弁した。
 「炎黄子孫」は儒教的な古めかしい言い方だが、「中華民族」は近代西洋の「民族」という概念を導入したハイカラな呼称である。
 1900年11月、清の政治家伍廷芳が講演で「中華民族」という言葉を使った。ジャーナリスト・梁啓超は、1905年の時点では満洲人やモンゴル人、チベット人を中華民族に含めなかったが、1922年には満洲人も中華民族に含めた。
 中華民国の建国以降は、中国人は全て「炎黄子孫」であり、「中華民族」である、という言説が流行するようになった。
 現在、中国政府は「中華民族」を「漢族と55少数民族の総称」と規定している。ウイグルやチベットも「中華民族」に含めて、黄帝崇拝を推し進めている。


第2回 東アジアに残した影響 漢の武帝
別名:廟号(びょうごう)は世宗。姓名は劉徹
生没年:前156年−前87年(享年七十) 在位は前141年−前87年(足かけ55年)
主な事蹟:高祖劉邦の曽孫、前漢第7代の皇帝。儒教の国家教学化を公認、政治や文物の制度を強化、四方への外征を盛んに行った。
評価:武帝の時代の中国の国力は、ざっくり見積もって始皇帝の時代の二倍になっていた。武帝は政治・経済・文化の面で強大な中華帝国を作ることに成功したが、国庫の蓄積を蕩尽したり、専売制により民生を圧迫するなど、その功罪をめぐる評価は今も論議が尽きない。

○ポイント
 武帝の時代は前漢の最盛期で、国力は秦の始皇帝の時代のざっと2倍になった。
 物量で満ち足りた武帝は、質を目指し、権威装置としての文化、を活用した。
 彼は、いわゆる「文化威信スコア」的な価値を理解しており、モノとしての威信財だけでなく、文化威信スコアの高いコト(文化イベント)やソフトパワーの創造に力を入れた。
 武帝は、
  泰山で「封禅」(ほうぜん)の儀式を行い、
  儒者・董仲舒の献策をいれて儒教の国家教学化を承認し(異説もある)、
  文人の司馬相如を出仕させて自分の栄光を「上林の賦」に詠ませ、
  歴史家の司馬遷(司馬相如とは赤の他人)を太史令や中書令(宦官の職掌)に任じ、
  柏梁台という豪華な箱物を築いて群臣に詩句を作らせる(柏梁体)
など文化活動にも力を入れた。武帝は、権威装置としての「サロン」の効用を理解した最初の帝王だった。

○キーワード
  〇さまざまな「武帝」
 「武帝」という諡号(しごう)を死後におくられた帝王は多い。
 単に武帝と言うと「漢武」こと前漢の武帝(劉徹)を指すことが多いが、魏の武帝(曹操)、西晋の武帝、梁の武帝、その他を指すこともある。

〇武帝に関連する成語
★傾城傾国(けいせいけいこく)、傾国の美女・・・李夫人の故事
★歓楽極まりて哀情多し(かんらくきわまりてあいじょうおおし)・・・武帝が詠んだ漢詩「秋風辞」の一節「歓楽極兮哀情多」から。楽しみ尽きて哀しみ来る。
★張騫鑿空(ちょうけん さくくう)・・・武帝が張騫(ちょうけん ?−前114年)を西域に派遣した故事
★星槎を泛かぶ(せいさをうかぶ)・・・俗世間を離れること。張騫が筏(いかだ)に乗って天の川まで至った、という説話に基づく。
★汗血の馬(かんけつのうま)・・・汗血馬(かんけつば)。武帝が、寵愛している李夫人の兄・李広利を「弐師将軍」に封じて西域の大宛国に遠征させて獲得した駿馬の種類。血のように赤い汗を流し、一日に千里を走ったという。
cf.坂崎紫瀾(さかざき しらん)の伝記小説『汗血千里駒』(かんけつせんりのこま)・・・坂本龍馬が有名人になるきっかけとなった小説 ★反魂香(はんごんこう)・・・武帝が李夫人と死別したあと、道士に命じて霊薬を金の炉で焚き上げさせ、煙の中に夫人の姿を見たという故事。日本の歌舞伎の『傾城反魂香』や落語『反魂香』の元ネタ。
★立子殺母(りっしさつぼ)・・・外戚(がいせき)の専横を未然に防ぐ目的で、息子を後継者に指名するのとあわせて、その生母を始末すること。武帝はその先例を開いた。

〇日本への影響

〇武帝の政治的事蹟
★内政 知識人の活用と中央集権
 「郷挙里選」という官吏任用法を採用し、各地の有能な人材を推挙させ、中央集権を強化した。
 「推恩の令」を出し、遺産相続の兄弟平等化をすすめることで、諸侯王の領土を細分化して諸侯王の権勢を弱め、中央集権を強化した。
 董仲舒の献策をいれて五経博士を設置、儒教を官学とする道をつけた。
 商人あがりの政治家・桑弘羊の献策をいれて、均輸法・平準法や、塩・鉄・酒の専売制を始めて国家の財源を確保したが、民生や民間の自由な商業を圧迫した。cf.『塩鉄論』
★外征 積極的な軍事行動
 北方遊牧民族の国・匈奴(きょうど)への外征。衛皇后の弟である衛青と、その甥の霍去病(かくきょへい)の両将軍に匈奴を攻めさせた。
 対匈奴軍事作戦の一環として、張騫を西域の大月氏国に派遣し、シルクロードの交易にも多大の影響を与えた。
 南越国(現在の広東省、広西省、ベトナム北部)に大軍を派遣して前111年に征服し、南越九郡(南海九郡とも。南海郡、蒼梧郡、合浦郡、鬱林郡、交阯郡、九真郡、日南郡、珠崖郡、儋耳郡)を置いた。
cf.いわゆる「魏志倭人伝」の一文「有無する所、儋耳・朱崖と同じ」。
 紀元前109年、武帝は現在の雲南省東部にあった滇(てん)を征服し、益州郡を置いた。
 前108年、朝鮮半島に遠征し「漢の四郡」を置いた。

〇武帝と女性たち
 武帝が登場するまでの前漢は、始皇帝の秦にくらべても、地味な王朝だった。高祖劉邦の建国、未亡人である呂后の専権、文景の治(文帝と景帝の治)、など、宮廷内の波風は民間の生活に悪影響を与えることはなく、人民は休息し、国庫は豊かになった。
 景帝の十男(九男説もある)で「彘」(てい、ブタの意)という幼名を与えられた劉徹は、本来なら、ただの皇子として平凡な生涯を送るはずだった。しかし、祖母である竇氏(文帝の皇后)の強い意向で、先に皇太子に立っていた異母兄を押しのけて、前141年、数え十六歳の若さで即位した。皇后になったのは、竇氏の孫娘でいとこである陳皇后だった。
 気位の高いセレブであった陳皇后との夫婦仲は悪かった。武帝は、姉の平陽公主のやしきのコーラスガールで、私生児であった衛子夫を見初めた。衛子夫は武帝の長男を産み、衛皇后となり、一族もとりたてられたが、最晩年は「巫蠱の乱」で息子ともども悲惨な最期をたどった。
 その他にも、武帝は生涯で数多くの女性を寵愛した。なかでも「傾国の美女」「傾城」の由来となった李夫人は有名。
 武帝が生涯で最後に寵愛した鉤弋夫人(こうよくふじん)、別名、趙ul(ちょうしょうよ)または拳夫人は、武帝の末子でのちに第八代皇帝・昭帝となる劉弗陵(前94年-前74年)を生んだ。武帝は、劉弗陵を後継者に指名するにあたり、鉤弋夫人を殺害させた(史学界ではこのようなやりかたを「立子殺母」「子貴母死」と呼ぶ)。


第3回 インフラ化した姓 後漢の光武帝
 日本では、一般的な知名度が低い光武帝(劉秀)だが、英雄としての素質の高さは中国史でも屈指。

小説 塚本青史『光武帝』上中下 2003年、講談社
小説 宮城谷昌光『草原の風』上中下 2011年、中央公論新社
小説 称好軒梅庵(しょうこうけん ばいあん Twitter
@chitakko2)『光武大帝伝』2020年、宙出版 
TVドラマ「秀麗伝 〜美しき賢后と帝の紡ぐ愛〜」() https://www.ch-ginga.jp/feature/shureiden/chart/ 〇日本史の教科書でもおなじみの「漢委奴国王印」(かんのわのなのこくおういん)は、後漢の初代皇帝・光武帝(在位 25年-57年)が、日本からの使者に与えた金印です。若いころ学生だった光武帝は「隴を得て蜀を望む」「柔よく剛を制す」などの名言でも有名です。いったん滅亡した漢王朝を復興し、後漢の開祖・光武帝となった劉秀(りゅう・しゅう)の成功の秘訣と、日本との関係を解説します。

〇宗族(そうぞく)
 父系同族集団のこと。前漢の時代から近代まで、中国社会の「インフラ」であった。

〇景帝(前188年-前141年)
 前漢の第6代皇帝。ある夜、寵愛していた程姫を召し出した。程姫は月のさわりがあったため、こっそり自分の侍女(唐氏)を身代わりにして、景帝の寝室に送り込んだ。酒好きの景帝はその夜も酔っており、相手が唐氏と気付かなかった。唐氏は妊娠し、皇子を産んだ。あとから発覚した皇子なので、「発」と名付けられた。
 「三国志」の曹操の時代の反骨の知識人・孔融(孔子の子孫)をはじめ、もし景帝が酒に酔っていなかったら後漢の王朝はなかった、と皮肉る意見もある。

〇劉秀
 前6年−後57年。後漢(25年−220年)の初代皇帝・光武帝 (在位 25年−57年) 。姓は劉、名は秀、字(あざな)は文叔。
 前漢の高祖・劉邦の9世の孫であり、前漢の景帝の子で長沙王となった劉発の子孫でもある。父は、南陽郡 (湖北省) 蔡陽県に土着していた豪族で、母の樊氏も南陽の豪族出身。子供のころは物静かな性格で、若いころは「仕官するなら執金吾、妻を娶らば陰麗華」(仕官当作執金吾、娶妻当得陰麗華)というのが夢だった。陰麗華は南陽郡新野県出身の豪族陰氏の美女である。
 劉秀が少年だったころ、前漢(前206年−後8年)は、外戚の王莽(おうもう、前45年 - 23年)によって簒奪されて滅亡した。王莽は、中国史上初の強制的禅譲(ぜんじょう)によって「新」(8年-23年)という王朝の皇帝となったが、いにしえの周王朝を理想とする現実離れした儒教的政策を行った。国政は混乱し、赤眉の乱や緑林の乱をはじめ、各地で群雄が蜂起し、乱世となった。
 劉秀は青年時代、最高学府「太学」で儒教の古典『尚書』を学んだ知識人であった。
 22年、劉秀は、豪胆な性格の兄・劉演(りゅうえん ?年−23年)とともに挙兵し、南陽の諸勢力と連合して反乱を起こした。連合軍のなかでは、豪胆な性格で能力が高い劉演と、遠縁の同族の劉玄のどちらを皇帝として立てるかで論議になったが、結局、劉演が譲った。
 23年(更始元年)、劉玄が漢の皇帝を名乗り(更始帝) 、漢王朝の復興を宣言した(「玄漢」)。同年、劉秀は王莽の大軍を昆陽の地で打ち破り、長安に攻め入った。王莽は混乱の中で殺された。更始帝は都を長安に定めた。劉秀は蕭王に封じられ、引続き河北を平定した。なおこの年、劉秀はあこがれの陰麗華をめとっている。
 天下を取った更始帝は、劉演を誅殺した。
 25年(更始3年=建武元年)、長安は、赤眉の反乱軍に攻め込まれた。更始帝は逃げたが、結局、赤眉軍に投降し、皇帝の璽綬を赤眉軍が擁立していた皇帝・劉盆子(11年−?)に譲り渡した。皇帝の位を返上した劉玄は、まもなく赤眉軍の部将によって殺された。長安を占領した赤眉軍は、統治能力に欠けており、食糧も尽きたので故郷の山東へ戻ろうとした。
 長安が混乱していたあいだ、劉秀は各地の反乱軍を降して自らの軍門に加え、数十万の大軍にふくれあがっていた。実力者となった劉秀は部下から皇帝に即位するよう請願され、2度まで固辞、3度目には考慮する態度を見せ、4度目に即位を受諾して皇帝となり(光武帝)、元号を建武とし、都を洛陽に定めた(「東漢」)。
 27年、赤眉軍は兵糧が尽きて劉秀に投降した。
 30年、東を平定。33年には隴西を攻略。光武帝は「人、みずから足れりとせざるを苦しむ。既に隴を得て復た蜀を望む(隴を得て蜀を望む)」という名言を吐き、引き続き天下統一を進め、36年(建武12年)に蜀の公孫述を滅ぼし、中国の再統一と漢王朝の復興を達成した。
 光武帝は、洛陽への遷都や田租の軽減、後宮の縮小などを行い、豪族連合政権による「小さな政府」を作る一方、儒教の学問を奨励し、内政の充実を図った。同時に、王莽の儒教的中華思想丸出しの外交政策が匈奴や高句麗など周辺民族の反発を招いたことへの反省から、異民族の鎮撫にも留意した。倭の奴国の使者が洛陽を訪れ「漢委奴国王印(かんのわのなのこくおういん)」を下賜されたのは、その一例である。

〇柔よく剛を制す
 中国古代の兵法書『黄石公三略(三略)』の言葉。原文は、
「軍讖曰『柔能制剛、弱能制強』。柔者徳也。剛者賊也。弱者人之所助。強者怨之所攻。柔有所設、剛有所施、弱有所用、強有所加。兼此四者而制其宜」。
 光武帝が「柔能制剛」をモットーとしたことで、有名となった。

〇有志竟成(ゆうしきょうせい)
 光武帝が、不可能と思われた斉攻略をなしとげた部下を賞賛して「有志者事竟成」(志ある者は事ついに成る)と述べた言葉を、四字熟語化したもの。

〇糟糠の妻(そうこうのつま)
 貧しい生活と苦労を分かちあって生きてきた妻を指す言葉。「糟」は酒粕(さけかす)、「糠」は糠(ぬか)。
 『後漢書』宋弘伝の故事。光武帝の姉・湖陽公主は、未亡人だった。彼女は、大尉の宋弘(そうこう)と再婚したいと願い、弟である光武帝に取りなしを頼んだ。光武帝は姉の姿を屏風の後ろに隠したうえで、宋弘を呼び出して言った。「世間のことわざでは、出世すれば友達をかえ、金持ちになれば妻をかえる、と言う。それが人情かな(諺言貴易交、富易妻、人情乎)」。宋弘は「私めは、貧賤(ひんせん)の交わりは忘るべからず、糟糠の妻は堂を下さず、と聞いております(臣聞貧賤之知不可忘、糟糠之妻不下堂)」と答えた。光武帝は姉にむかって「だめそうです(事不諧矣)」と述べた。

〇客星、御座を犯す(かくせいござをおかす)
 『後漢書』厳光伝の故事。
 厳光(げんこう、生没年不詳)は、現在の浙江省余姚市出身の知識人。学生時代の光武帝(劉秀)の学友だった。劉秀が皇帝になると、厳光は姓名を変えて隠者となった。後に、羊の毛ごろもを着て釣りをしているところを発見された。
 光武帝は、厳光を宮中に招いて、夜は同じベッドで眠った。厳光は足を光武帝の腹部のうえに載せて眠った。翌日、宮中の天文官が「昨夜、星空に異変がありました。突然あらわれた星が、帝座を犯すことはなはだ急でございました」と報告した。光武帝は笑って「朕が友だちと一緒に寝たからだよ」と言った。
 建武17年(41年)、光武帝は再び厳光を宮中に招いたが、今度は来なかった。厳光が数え80歳で亡くなったとき、光武帝はとても悲しみ、手厚く葬った(史書には80歳とあるが、これだと厳光の年齢は光武帝より20歳以上も年上ということになる。史書の間違いか、あるいは忘年の交わりであったのか)。
cf.毛沢東(1893年-1976年)と梁漱溟(りょう・そうめい 1893年-1988年)

○吉川英治の小説『三国志』「篇外余録」より
(引用開始)
 孔明の一短を挙げたついでに、蜀軍が遂に魏に勝って勝ち抜き得なかった敗因がどこにあったかを考えて見たい。 私は、それの一因として、劉玄徳以来、蜀軍の戦争目標として唱えて来た所の「漢朝復興」という旗幟が、 果たして適当であったかどうか。また、中国全土の億民に、いわゆる大義名分として、 受け容れられるに足るものであったか否かを疑わざるを得ない。
 なぜならば、中国の帝立や王室の交代は、王道を理想とするものではあるが、 その歴史も示す如く、常に覇道と覇道との興亡を以てくり返されているからである。
 そこで漢朝というものも、後漢の光武帝が起って、 前漢の朝位を簒奪した王莽(おうもう)を討って、再び治平を布いた時代には、 まだ民心にいわゆる「漢」の威徳が植えられていたものであるが、 その後漢の治世も蜀帝、魏帝以降となっては、天下の信望は全く地に墜ちて、 民心は完全に漢朝から離れ去っていたものなのである。
 劉玄徳が、初めて、その復興を叫んで起った時代は、実にその末期だった。 玄徳としては、光武帝の故智に倣(なら)わんとしたものかもしれないが、 結果においては、ひとたび漢朝を離れた民心は、いかに呼べど招けど ――覆水フタタビ盆ニ返ラズ――の観があった。
 ために、玄徳があれほどな人望家でありながら、容易にその大を成さず、 悪戦苦闘のみつづけていたのも、帰するところ、部分的な民心はつなぎ得ても、 天下は依然、漢朝の復興を心から歓迎していなかったに依るものであろう。
 同時に、劉備の死後、その大義名分を、先帝の遺業として承け継いできた孔明にも、 禍因はそのまま及んでいたわけである。彼の理想のついに不成功に終った根本の原因も、 蜀の人材的不振も、みなこれに由来するものと観てもさしつかえあるまい。
(引用終了)

第4回 汚れた英雄のクリーニング 唐の太宗
〇唐王朝を父や兄弟とともに建国した李世民(り・せいみん)は、第二代皇帝・太宗(在位 626年-649年)になりました。彼は、史上まれな偉大な名君とされています。
 『西遊記』の物語では、太宗は三蔵法師と義兄弟のちぎりを結ぶなど、庶民的な物語の世界でも人気があります。が、彼には、兄弟殺しなど黒い経歴もあります。
 徳川家康の「東照宮御遺訓」に偽造説があるように、太宗の言行録『貞観政要』もかなり怪しい点があります。
 名君の虚実を、わかりやすく解説します。
https://www.youtube.com/playlist?list=PL6QLFvIY3e-nkrZ3iXlqa0HpYVxXeTiTW

○貞観政要(じょうがんせいよう) NHK「100分 de 名著」2020年1月放送
 以下、NHK出版のサイト「https://www.nhk-book.co.jp/detail/000062231072019.html」より引用。
 中国史上最大の名君はこうして生まれた
 唐の第2代皇帝・太宗が治めた貞観期(627〜649年)は、理想的な政治が行われた時代として名高い。 その神髄が詰まっている『貞観政要』は、後世の皇帝がこぞって読み継ぎ、わが国でも徳川家康や明治天皇が愛読したという帝王学の古典。 本当に優れたリーダーの資質とは。強い組織をいかに作るか。判断力はどのように磨くか──卓抜な比喩表現を味わいながら、現代的な視点で読み解く。

 以下、NHKのサイト「https://www.nhk.or.jp/meicho/famousbook/94_gokyo/index.html」より引用。
 中国史上、最も安定した治世の一つを築いたといわれる、唐の第二代皇帝・李世民。「貞観の治」と呼ばれる善政をしいた李世民と彼を補佐した重臣たちとの間で交わされた問答をもとに編纂されたのが「貞観政要」です。明治天皇や徳川家康が、ここから帝王学を学んだともいわれる名著です。「貞観政要」を現代の視点から読み解くことで、理想のリーダーや組織のあり方、困難な人生を生き抜く方法などを学んでいきます。
 「貞観政要」が卓越したリーダー論、組織論といわれるのはなぜか? その秘密は、李世民の政治に対する真摯な姿勢にあります。彼は、自分の殺害を計画した人物さえ、その能力を認めて側近に取り立てました。また、臣下たちの忌憚のない厳しい諫言にもよく耳を傾け、自らの政治方針を常にチェックし、改善を続けていきました。全十巻四十篇からなる李世民の言行録ともいえる「貞観政要」には、こうした彼の姿勢や日々の苦闘によって培われた、生きた知恵が豊富に盛り込まれているのです。

○呉兢(670−749)『貞観政要』「君道第一」より
 貞観十年、太宗謂侍臣曰「帝王之業、草創与守成孰難?」尚書左僕射房玄齢対曰「天地草昧、群雄競起、攻破乃降、戦勝乃克。由此言之、草創為難」。 魏徴対曰「帝王之起、必承衰乱。覆彼昏狡、百姓楽推、四海帰命、天授人与,乃不為難。然既得之後、志趣驕逸、百姓欲静而徭役不休、 百姓雕残而侈務不息。国之衰弊,恒由此起。以斯而言、守成則難」。太宗曰「玄齢昔従我定天下、脩嘗艱苦、出萬死而遇一生、所以見草創之難也。魏徴与我安天下、 慮生驕逸之端、必践危亡之地、所以見守成之難也。今草創之難、既已往矣、守成之難者、当思与公等慎之」。
大意――貞観10年(636年)、太宗は侍臣に尋ねた。
「帝王の業で、創業と守成のどちらが困難か?」
 房玄齢の答えは「天下統一を勝ち抜く創業の方が難しいです」
 魏徴の答えは「天子の地位を得るのは、天から授かり人から与えられるものですから、難しくありません。が、天子になると驕慢や奢侈の心が生まれ、国が乱れます。守成の方が難しいです」
 太宗は言った。「昔、私とともに天下統一の戦いに命をかけた房玄齢が、創業の方が難しいと言うのはもっともだ。 今、私とともに天下の安定に心血を注ぐ魏徴が、守成の方が難しいと言うのももっともだ。 今はもう創業の困難は過去のもの。守成の困難に、諸君とともに向き合おう」

〇功と徳
 日本語では「功徳」とひとまとめにするが、中国では「功」と「徳」は別物である。
 「功」は「工」や「攻」と同系の言葉で、土木工事や戦功、功績などを指す。
 「徳」は「得」や「直」と同系の言葉で、人が生まれつきもっている恵みぶかいまっすぐな子心を意味する。
 中国では、大功を建てた有能な君主であっても、徳が薄いと、君主としての正統性を疑われる。
 生涯に汚点をもつ政治家、中国の李世民や日本の徳川家康が、学者を使って「徳」の演出に腐心した理由は、ここにある。

〇皇帝の呼び方
 古代は諡号(しごう)。廟号で呼ぶのは一部の卓越した皇帝のみ。
 唐代から、普通の歴代皇帝も廟号で呼ぶようになった。
 「祖宗」(そそう)は「建国の祖である初代の君主と、中興の祖である特に優秀な君主を指す。また、初代から先代までの代々の君主全部を指す場合もある。
 日本語「皇祖皇宗」は、天皇家の祖先である天照大神から始まり 今上陛下 (きんじょうへいか)に至る歴代の天皇および天皇の祖先を指す。
 王朝を建てた初代皇帝の廟号は通常「太祖」「高祖」。
 それ以外の皇帝には「漢字一字+宗」の廟号を贈るのが普通。
 「太宗」は、第二代の天子に贈られる廟号。唐の太宗こと李世民以外にも、有名なところでは、
北宋の太宗・広孝皇帝(趙Q、在位:976年 - 997年)
明の太宗・文皇帝(朱棣、在位:1402年 - 1424年)。
 日本では「永楽帝」と呼ばれる。嘉靖帝の時に成祖と改称。
清(後金)の太宗・文皇帝(ホンタイジ、在位:1626年 - 1643年)
 などがいる。

○『貞観氏族志』
 太宗朝の638年(貞観12)に頒布された書物。皇帝の家柄を天下一にしようとしたが、成功しなかった。
 以下、内藤湖南「概括的唐宋時代觀」(青空文庫 https://www.aozora.gr.jp/cards/000284/files/1736_21420.html)より引用。
 かくの如き名族は、當時の政治上の位置から殆ど超越して居る。即ち當時の政治は貴族全體の專有ともいふべきものであつて、貴族でなければ高い官職に就く事が出來なかつたが、 しかし第一流の貴族は必ず天子宰相になるとも限らない。ことに天子の位置は尤も特別のものにて、これは實力あるものゝ手に歸したるが、 天子になつても其家柄は第一流の貴族となるとは限らない。唐太宗が天子になれるとき、貴族の系譜を調べさせたが、 第一流の家柄は北方では博陵の崔氏、范陽の盧氏などにて、太宗の家は隴西の李氏で三流に位するといふことなりしも、此家柄番附は、天子の威力でもこれを變更する事が出來なかつた。

〇李世民(り・せいみん。598年/600年―649年。在位626年−649年)
 唐朝の第2代皇帝で、太宗は廟号。中国史上有数の名君として名を残すが、その実像については今もいろいろと論議がある。
 そのあたりは、陳舜臣『中国の歴史』(講談社文庫)にも詳しい。
 日本では、『西遊記』の物語の始めのほうで、三蔵法師こと玄奘と義兄弟の契りを結んだ話などが知られている。1978年のテレビドラマ『西遊記』では、堺正章氏が孫悟空を、俳優の中村敦夫氏が太宗を演じた。
 仏教の「観世音菩薩」が「観音菩薩」と改称されたのは、李世民の「世」の避諱(ひき)のためである。なお、史実の玄奘は「観自在菩薩」と訳した。
 李世民の家系は「大野(だいや)氏」という胡姓をもつ漢民族とされるが、実際の民族系統は謎で、鮮卑系という説が有力である。建前上は、五胡(ごこ)十六国時代の西涼(せいりょう)の武昭王の子孫で、隴西李氏(ろうせいりし)である。
 李氏は、南北朝時代の北魏(ほくぎ)時代には、内モンゴルにある武川鎮(ぶせんちん)に勤務する武人の家柄だった。李世民の曾祖父の代から国軍の最高司令官である武人貴族として、代々や北周や隋(ずい)などの王朝に仕えた。
 李世民の父は、唐王朝の初代皇帝・高祖(在位618年-626年)となった李淵(りえん)で、李淵は隋の第二代皇帝・煬帝(ようだい)の母方のいとこである。
 李世民は子供のころから頭がよく、武にもたけ、心も強かったので、少年時代から人望を得た。隋の煬帝が雁門の地で突厥(とっけつ)の軍に包囲されて苦境に陥ったとき、16歳の李世民は従軍して煬帝の救出に尽力した。また父・李淵が魏刀児(歴山飛)に包囲されたときも軽騎兵を率いて救うなど、若いころから活躍した。
 617年、李世民は腐敗した隋王朝の打倒を志して、太原(たいげん)の軍司令官であった父・李淵を説得して挙兵した。その後、長安を占領して唐朝を樹立し、李淵が唐王朝の初代皇帝となった。20歳そこそこの李世民の働きにより、唐は各地に割拠した群雄を平定し、天下を統一した。
 621年、李淵は、息子・李世民の史上空前の功績を考慮し、功績の高さから前代よりの官位では足りないとし、王公の位のうえに新たに「天策上将」の称号を作り、李世民に与えた。
 李淵の皇太子は、李世民の同母兄である李建成(589年-626年)であった。李建成は、李世民の名声に嫉妬して脅威を感じ、同母弟の李元吉とともにクーデターを画策した。李世民は事前にその動きを察知した。626年6月、李世民は、長安の北門である玄武門で、宮廷に参内する途中の李建成と李元吉を急襲し、みずから弓矢で射殺した (玄武門の変)。李世民は、自分の甥にあたる李建成の5人の男子を処刑した。その反面、李建成の側近であった魏徴(ぎちょう。580年-643年)を諫言(かんげん)役の諫議大夫に取り立てるなど、寛大で太っ腹な面も見せた。
 626年8月、李淵は李世民に譲位した。
 皇帝となった李世民(以下、太宗)は、皇后に、鮮卑系の重臣である長孫無忌(ちょうそんむき)の妹を迎えた。また、突厥をはじめ周辺の異民族を制圧して、諸部族の首長(しゅちょう)たちから「天可汗」(てんかかん)という君主号を贈られた。太宗は、中華帝国の皇帝号と、万里の長城の向こう側の「塞外(さいがい)」の天可汗号を一身に兼ね備えた。唐は「蕃漢(ばんかん)」の両社会を包容する人的同君連合的な世界帝国となった。
 当時の中国の貴族社会において、太宗の李氏の家柄の格付けは最上ではなかった。太宗は貴族の家格のランキングを改定して『貞観氏族志』を作らせ、唐王朝の官爵の高下によって格づけをしなおさせた。
 太宗は、実の兄弟を殺して父から皇帝の位を奪う(形のうえでは譲位)、という、隋の煬帝と同じようなことをした。太宗は、自分は煬帝とは違う有徳の君主である、という姿勢をアピールする必要があった。太宗は、魏徴らの意見に耳を傾け、民を第一に思う名君という姿勢を見せた。名宰相とうたわれた房玄齢(ぼうげんれい)や杜如晦(とじょかい)、名将として名高い李靖(りせい)、李勣(りせき)なども太宗のもとで協力した。
 太宗の治世は「貞観の治(じょうがんのち)」(貞観はその年号)とたたえられ、後世の帝王の模範とされた。太宗と群臣との問答は、のちに『貞観政要』という書名で編集され、日本でも政治家の必読の書とされてきた。
 太宗は学問や文化にも理解を示し、史書や儒教の典籍の編纂を命じた。太宗は能書家でもあり、書聖とたたえられた王羲之(おうぎし)の熱烈なファンでもあった。太宗は、正史『晋書』王羲之伝に自ら注を書いた。また、王羲之の子孫にあたる僧侶・智永が持っていた王羲之の『蘭亭序(らんていじょ)』の真筆を詐欺まがいのやりかたで入手し、自分の墓に納めるよう遺言した。
 記録では、太宗は史上まれに見る名君とされるが、その一部は、太宗に仕えた学者政治家の許敬宗(きょけいそう、592年−672年)の舞文曲筆である可能性がある。許敬宗は、リテラシー能力は高かったが人格は卑しい人物で、賄賂をもらって事実を曲げて記録したり、自分の都合で国史を改竄(かいざん)するなど、曲学阿世(きょくがくあせい)の人物だった。
 太宗の晩年は不幸だった。後継者に恵まれず、太宗の長男で太子の李承乾は奇行に走って破滅した。太宗は、最もかわいがった四男の李泰を皇太子にしたかったが、李泰が皇帝となったあとライバルの兄弟を皆殺しにすることを恐れた。結局、性格がおとなしい李治を皇太子とした。これが、後に則天武后にいいように操られた第三代皇帝・高宗である。
 若いころは軍事的天才だったが、晩年は不敗神話も色あせた。644年、太宗は10万余の大軍で高句麗(こうくり)に親征したが、激戦の末に敗北し、中国本土に撤退した。隋の煬帝も高句麗征服に失敗してそれが亡国の一因になったが、ここでも、太宗は煬帝の汚点をなぞったことになる。
 649年(貞観23年)に崩御した。


第5回 史上最強の引き締めの結末 明の洪武帝
以下、『日本大百科全書(ニッポニカ)』の「朱元璋」の項目より引用。
 ・・・中国史上で最強の独裁体制を確立した。 貧苦のなかで成長した洪武帝は民衆の統治によく配慮し、 六諭(りくゆ)を定め、 教民榜文(きょうみんぼうぶん)を頒布して、人民の守るべき分(ぶん)を教え、 皇帝に忠実に服従すべきことを説いた。 御製大誥(たいこう)によって、分に背いた場合、どのような悲惨な処分を受けるかについても説いた。 それにもかかわらず、先の胡惟庸の獄についで、93年には藍玉(らんぎょく)の獄が起こり、 多くの功臣、宿将を一掃しなければならなかった。 洪武帝は晩年、猜疑心(さいぎしん)が強くなり、皇太子標(ひょう)を失い、精神的に不安のうちに病没した。
cf.明治日本の天皇制は、「教育勅語」「一世一元制」など洪武帝を参考にしたところが多い。
cf.安田峰俊「
大量殺人の方針は上海で決定…? オウムと中国の「知られざる絆」」(2018年)によると「現代中国は嫌いだが伝統的な中国の神秘主義や武術・健康ノウハウはOK……という、ありがちなパターンだ。ただ、そのなかで異彩を放つのが、麻原が過去生(転生前の人生)において明朝の建国者・朱元璋(洪武帝)の生まれ変わりだったと述べていた点だろう。麻原は1994年2月22日から数日間、「前世を探る旅」として訪中し、この洪武帝ゆかりの地を巡っている。」
別名:朱重八→朱興宗→朱元璋(字は国瑞)、洪武帝、廟号は太祖、「明の太祖」
生没年:1328年-1398年
主な事蹟:紅巾の乱、北伐、皇帝独裁、一世一元制、大粛清
評価:清の歴史家・趙翼の評は「蓋明祖一人、聖賢、豪傑、盗賊之性、実兼而有之者也。」(ひとりで聖賢、豪傑、盗賊の性質をあわせもっていた)


〇中国史の近世
 日本の近世は江戸時代(戦国時代も含める説がある)。皇居は江戸城。
 中国の近世は明清時代(宋元時代も含める説がある)。北京の紫禁城(故宮)は明の永楽帝が改築。

 明(1368年-1644年)は、初代皇帝の影響を後々まで引きずる。

〇朱元璋の生涯
 1328年、濠州の鍾離(現在の安徽省鳳陽県)の貧しい佃農(でんのう)の家に生まれる。
 1344年、飢饉と疫病で親兄弟が死去。皇覚寺(こうかくじ)に入って托鉢僧となり各地を放浪。
 1351年、紅巾(こうきん)の乱が起こる。翌年、濠州で郭子興(かくしこう)も元に反旗を翻した。朱元璋は一兵卒として郭子興の反乱軍に参加。異相がきっかけで郭に認められて頭角を現し、郭の養女であった馬氏(後の馬皇后)と結婚した。
 1355年、郭子興が死去。朱元璋は郭軍の指揮権を掌握し、紅巾軍の一部将となる。同郷の湯和(とうわ)、徐達(じょたつ)、李善長(りぜんちょう)ら、後の「開国の功臣」も集まる。

NHK『テレビで中国語』テキスト 連載「標語でたどる なるほど! “中国の歴史”」2019年1月号用の原稿より自己引用
高筑墙,广积粮,缓称王
Gāo zhù qiáng, guǎng jī liáng, huǎn chēng wáng
【訳】高く壁を築き、広く食料を集め、ゆっくり王だと名乗る。
【意味】漢文訓読で読み下すと「高く牆(しょう)を築き、広く糧(りょう)を積み、緩(ゆる)ゆる王を称(しょう)せよ」。14世紀、元の時代の末、天下は乱れ、群雄割拠の状態になった。群雄の一人・朱元璋(しゅげんしょう)(後の明(みん)の初代皇帝)は、民間の有識者・朱(しゅ)升(しょう)に、天下を取るための戦略方針をたずねた。朱升はこの「九字の計」を献策した。

【解説】正月である。「今年の我が家の目標」などで盛り上がるご家庭や、仕事始めに「我が社の今年の経営方針」を発表する会社も多かろう。今回は方針策定に関する標語を取り上げる。
 朱元璋は1328年、安徽省鳳陽県の貧農の末っ子として生まれた。数え17歳のとき、両親や兄たちは凶作のため衰弱死して全滅。身寄りを失った朱元璋は托鉢僧となり、ホームレス同然の漂泊生活を送った。彼はもともと美男子とは言えなかったが、栄養不足と苦労のせいで、ますますひどい顔になった。
 元王朝は悪政により統治能力が低下し、「紅巾の乱」が起きた。24歳の朱元璋は、自分で運命を占い、反乱軍の一派に身を投じることにした。頭目は、郭子(かくし)興(こう)という任侠(にんきょう)肌の親分だった。郭子興は朱元璋の顔を見て「てめえみたいな面構えは見たことがねえ」と興味をもち、身近に置いて重用し、自分の養女(後の馬皇后)をめあわせた。人間、何が幸いするかわからぬものである。
 平和と乱世では価値観が逆転する。貧農出身の朱元璋は、貧農出身者が多い反乱軍のあいだで人気を得て、めきめき頭角を現した。朱元璋は「呉国公」を名乗り、郭子興が死去した後はその勢力を受け継ぎ、江南地方を拠点に天下をねらう群雄の一人となった。
 元末、混乱を避けて引退した役人も多かった。学識者の朱升もそんな一人だった。朱元璋は朱升を呼び出し、時局についての見解と今後について意見を聞いた。
「元王朝は滅亡寸前だ。天下は乱れ、群雄が割拠している。私は江南の要衝を押さえている。今後はどのような方針で戦えばよいか」
 朱升は、韻を踏んだ九文字の言葉で答えた。
「高く牆を築き、広く糧を積み、緩ゆる王を称せよ。――江南は農工商業が発達した豊かな土地です。今は下手に動かず、拠点に高い城壁を築き、防備を固めてください。広い地域から糧秣を集めて高く積み上げ、きたるべき戦いに備えてください。当面はいままでどおり、呉国公と名乗り続けてください。あせりは禁物です。天下の情況の推移を見守りつつ、時がきたら、力による覇道ではなく、徳による王道を行う王者だと名乗ってください」
 朱元璋は喜んだ。九字の計を実践して力を蓄えた朱元璋は、1364年からは「呉王」を名乗り、ライバルたちと戦って勝った。
 1368年の正月、朱元璋は応天府(現在の南京)で皇帝に即位し、元号を洪武、国号を大明と定めた。明王朝の初代皇帝・太祖の誕生である。中国史上、南方から興って天下を統一した王朝は、明が初めてである。朱元璋は、皇帝の在位中は元号を変えないという「一世一元制」を開始したので、元号から「洪武帝」とも呼ばれる。
 九字の計を献策した朱升は重用され、明王朝の礼制を定めるなど有識者として国政に参与した。洪武帝はその後、陰惨な粛清を始めるが、それはまた別の物語である。
 簡にして要領を得た“高筑墙,广积粮,缓称王”は、施政方針の標語のお手本となった。
 時は流れ、1973年1月1日の元旦。「文化大革命」に揺れていた中国の新聞や雑誌は、一斉に毛沢東の
“深挖洞,广积粮,不称霸”
 Shēn wā dòng,guǎng jī liáng, bù chēng bà
という指示を掲載した。「深く穴を掘り、広く食糧を積み上げ、覇をとなえず」。当時は東西冷戦と中ソ対立の時代で、核戦争の危機もあった。毛沢東は、国防のために、防空壕や地下空間をたくさん作り、食糧を自給して蓄積する一方、中国のほうから他国に攻撃や圧迫を加えない、という方針を述べた。朱升の「九字の計」をまねたものだが、韻は踏んでいない。
(以下略)
 1368年、各地のライバルと戦って勝ち残った朱元璋は、応天府(南京)で帝位につき、国号を明と定め、年号を洪武とした。また一世一元の制を始めた。
 洪武帝は、自分の故郷を「中都」に指定、各地から数十万人を強制移住させて大規模な造営を始めたが失敗した。
 cf.[「鳳陽調」と「打花鼓」(明清楽資料庫)]
 洪武帝は当初、元の制度を踏襲したが、外敵に勝利すると、政治改革と粛清を行い始める。
 1376年、空印の案。地方官を大量処刑。
 同年、洪武帝は日本から来た禅僧・絶海中津(ぜっかいちゅうしん)を謁見。秦の始皇帝が伝説の仙島「蓬莱」に徐福を派遣した故事をふまえて、漢詩を応酬する
絶海中津が詠んだ七言絶句
  熊野峰前徐福祠 満山薬草雨余肥
  只今海上波涛穏 萬里好風須早帰
熊野峰前 徐福の祠
満山の薬草 雨余に肥ゆ
只今 海上 波濤 穏やかなり
万里の好風 須らく早く帰るべし
 ※和歌山県新宮市に伝わる徐福伝説をふまえる。

 洪武帝が次韻した七言絶句
  熊野峰高血食祠 松根琥珀也応肥
  当年徐福求仙薬 直到如今更不帰
熊野 峰は高し 血食の祠
松根の琥珀も 也た応に肥ゆべし
当年の徐福 仙薬を求め
直ちに如今に到って更に帰らず
 1380年、胡惟庸(こいよう)の獄。多くの功臣を粛清した。これを機に中書省を廃止し、宰相を置かず、六部(りくぶ)を皇帝に直属させた。
 同年、洪武帝は日本国王「良懐」から国書を読んで激怒した。「惟中華之有主、豈夷狄而無君(まさか中華にだけ君主がいて、夷狄に君主はいないとでも?)」「相逢賀蘭山前、聊以博戲。(中国の奥地にある賀蘭山の前で、ちょっと勝負いたしましょう)」云々。
 1381年、賦役黄冊(ふえきこうさつ)を制定し、里甲制を施行。
 1382年、錦衣衛(きんいえい)を設置。事実上の秘密警察(永楽帝の時代の1420年に東廠が設置されると、その下部組織となる)。
 同年、馬皇后が死去(1532年生まれ)。
 1386年、林賢事件。日本のスパイ。
 1392年、皇太子の朱標が急死。朱標の息子が皇太孫に立てられた(後の建文帝)。
 1393年、藍玉(らんぎょく)の獄。多くの功臣を粛清した。胡惟庸の獄とあわせて「胡藍の獄」のとも言う。
 1397年、民衆教化のため六諭(りくゆ)を定めた。「父母に孝順にせよ、長上を尊敬せよ、郷里に和睦せよ、子孫を教訓せよ、各々生理に安んぜよ、非為をなすなかれ」
 1398年、崩御。享年71(満69歳没)。

〇朱元璋と毛沢東の類似性
 「聖賢、豪傑、盗賊之性」を一身に兼ね備えていた。
 農民出身だが、それなりのインテリだった。
 若いころ、反乱軍に身を投じた。
 天下を取ったあと、功臣や旧友を次々と粛清した。
 後継者として期待していた息子に、先立たれた。
 人民に「お説教」するのが好きだった。
 それなりに農民思いだったが、それがかえって農民たちを苦しめた。

○中国の民謡「鳳陽調」に今も歌われる洪武帝
 cf.[「鳳陽調」と「打花鼓」(明清楽資料庫)]
 「鳳陽調」、別名「鳳陽花鼓」「鳳陽歌」は、安徽省鳳陽県から広まった歌舞音楽で「花鼓」の一種である。
 鳳陽は、明の太祖(初代皇帝)朱元璋(1328-1398)の生まれ故郷。貧農から身を起こした朱元璋は、即位後、重農主義政策を採った。また故郷の鳳陽の地に新しく首都を建設しようと考え、数十万の農民をこの地に強制移住させて人口密度を高め、建物の工事も始めた。
 が、いなかである鳳陽に一国の首都を作るのは、土台、無理な話であった。
 結局、朱元璋の思いつきから始まった首都造営は途中で放棄され、明の首都は、昔からの大都市である南京(後に北京)に置かれた。
 鳳陽の農民は、地元から皇帝が出たせいで「ありがた迷惑」をこうむり、以前より貧しくなってしまった。
 そのうえ、淮河(わいが)流域では、よく洪水が起きた。そのたびに、厖大な数の農民が避難民として流浪した。避難民の婦女子は、生活のため、道ばたで花鼓と小銅鑼を叩き、唱って踊った。その大道芸が芸能として固定化して「鳳陽花鼓」が生まれた。
 「鳳陽花鼓」で歌う曲の一つがこの「鳳陽調(鳳陽歌)」で、曲調は現地の「秧歌」(ヤンゴ。田植え歌)から採った。


第6回 打ち破れなかった2つのジンクス 蒋介石
 中国史の経験則
○蒋介石略伝 1887−1975
 姓は蒋、名は介石、字(あざな)は中正。
 1887年10月31日(光緒十三年9月15日)、浙江省寧波府奉化県の商売人の家に生まれる。
 1902年、15歳のとき、最初の妻である毛福梅(当時19歳)と結婚。
 郷里の学堂で学ぶ。
 1907年、河北省にあった保定軍官学校に入学。
 1908年(明治41)、日本へ留学。1910年に東京の振武学校(中国人留学生のための陸軍士官学校予備学校)を卒業し、新潟県高田の野砲兵第一三連隊に配属された。
 東京に留学中、孫文らの中国同盟会に参加。
 1910年、長男の蒋経国(蒋介石の後継者)が誕生。蒋介石は22歳、毛福梅は27歳だった。同年、孫文と初めて会う。
 1911年10月10日、辛亥革命が勃発。日本軍にいた蒋介石は師団長の長岡外史中将に休暇帰国を申請するが拒否され、勝手に帰国。革命に参加。
 1910年代半ば、上海で危機と隣り合わせの半地下生活を送る。保身のため、青幇の黄金栄の子分となったと言われるが、真相は不明。
 1919年10月10日、中華革命党は中国国民党に改組。蒋介石も党員となる。孫文から着目されていたが、気に入らないとすぐ辞任して郷里に引き込み、呼び戻されることを繰り返す。
 1921年、母・王采玉が病死。
 1923年、「孫文=ヨッフェ宣言」で国共合作。孫文の命令でソ連の軍事事情を視察。
 1924年、ソ連の支援のもと広州に設立された黄埔(こうほ)軍官学校の初代校長に就任。同校の政治部副主任は周恩来(1898-1976)。
 1925年、孫文が死去。国民党の中央執行委員となり、国共合作下の国民革命軍総司令に選ばれた。
 1926年3月、最初の反共事件としての中山艦事件で政治的地位を強化。
 同年7月、北伐を開始。蒋介石が総司令官。
 1927年4月、上海クーデター。反共に転じた。
 同年、それまでの妻を離別して、浙江財閥出身で宋美齢(そうびれい)と結婚。彼女は、孫文夫人の宋慶齢(そうけいれい))の妹で、いわゆる「宋家三姉妹」の一人。
 1928年、南京で国民政府を樹立して中華民国主席となる。が、政敵の汪精衛=汪兆銘や、閻錫山、馮玉祥らの反蒋軍閥の抵抗も続いた。
 1928年6月8日、北伐軍は北京に入城し、北京政府打倒という孫文の遺志を果たした。同年10月、蒋介石は国民政府主席に就任。「以党治国」の党国体制を固める。
 1932年、第一次上海事変で、南京政府は一時的に洛陽に疎開。
 1934年、新生活運動を唱導すると同時に、蒋・孔(こう)・宋(そう)・陳(ちん)の「四大家族」による浙江財閥を育成して財政基盤を固める。
 1936年、西安事件で張学良に捕らえられ、中国共産党との抗日民族統一戦線の形成に同意。
 1937年、日中戦争勃発。政府を重慶に移して、抗日戦争を継続。
 1938年6月、黄河決壊事件。蒋介石の承認のもとであったとされる。
 1939年、毛福梅が日本軍の爆撃で死亡。
 1943年11月、支那派遣軍総司令部参謀だった三笠宮崇仁親王の発案で、蒋介石の母・王采玉の墓前祭が行われ、参謀の辻政信が取り仕切った。
 1943年11月27日、カイロ宣言。アメリカ合衆国大統領フランクリン・ルーズベルト、イギリス首相ウィンストン・チャーチル、中華民国国民政府主席?介石の3人が会見。
 1944年4月17日−12月10日、日本陸軍による大陸打通作戦、蒋介石は大打撃を受ける。
 1944年6月2日−9月14日、拉孟・騰越(らもう・とうえつ)の戦い。蒋介石の「逆感状」が有名。「わが将校以下は、日本軍の松山守備隊あるいはミイトキーナ守備隊が孤軍奮闘最後の一兵に至るまで命を完うしある現状を範とすべし」(『戦史叢書』25、 p285)。この「逆感状」は日本軍が蒋介石の無線電文を傍受したものとも言われ、中国語の原文は未確認。
 1945年、抗日戦争勝利。蒋介石がラジオ演説で老子の言葉「報怨以徳」(怨みに報ゆるに徳を以てす)云々と述べた挿話は有名。
 1946年、国共内戦が勃発。
 1948年、新しい憲政下で初代総統に就任。
 1949年1月、総統をいったん辞任。同年末、大陸を失陥し台湾へ逃れた。蒋介石は旧日本軍の元将校たちに救援を要請(白団)。
 1950年、台湾で中華民国総統に復帰。反共復国を叫ぶ(国光計画)。
 1958年 金門砲戦。米軍は爆撃機による中国本土への核攻撃を準備したが、アイゼンハワー大統領が承認しなかった。国共内戦の最後の戦闘。
 1963年9月 中ソ対立や大躍進の失敗で中国が疲弊。蒋介石は息子の蒋経国を米国に派遣し、ケネディ大統領らに大陸反攻を訴えたが、拒否される。
 1969年、交通事故。以後、表舞台に出なくなる。
 1975年4月5日、台北で死去。87歳。

○国民党と共産党の相似性
 ソ連共産党や赤軍をモデルとした。
 スターリンの息がかかっていた。
 国共合作と国共内戦を繰り返した。
 中心的人物に中国南部の出身者が多かった。
 「以党治国」の党国体制、つまり党が国家と人民を指導する一党独裁を民主主義だと信じた。
 反対党の存在を許さない(台湾では蒋経国の晩年から自由化が進んだ)。
 党のリーダーは「主席」である。
 軍事力の信奉者。

○蒋介石の評価
 「日本」と毛沢東にはさまれて翻弄された独裁者であった。
 独裁者ではあったが、本質は中国最大の軍閥にすぎなかった。彼が中国全土に君臨できた期間は長くはなかった。またヒトラーのような民族浄化や領土拡張も、スターリンや毛沢東のような革命の輸出も行わなかった。
 本来は親日家だった、という説もあるが、そうではないという説もある。知日派であったことは確かである。

○蒋介石の子孫
 蒋経国 1910年4月27日−1988年1月13日(77歳没)。蒋介石の息子。父をついで総統に就任したが、一族による世襲を拒否。晩年、台湾の複数政党制を認める。死後、副総統の李登輝が昇格した。
 蒋友柏 蒋経国の孫。1976年9月10日生まれ。日本が大好きなデザイナーで、台湾独立派に共鳴。
 蒋万安 蒋経国の孫(異説もある)。1978年12月26日年生まれ。蒋介石の曾孫の世代では唯一の政治家で、姉は映画監督。


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