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中国では、今からおよそ五千年前に原始的な都市が発生して以来、都市を中心に政治、経済、文化が発達してきました。中国史に登場する数多くの古代都市の中でも、東の洛陽、西の長安、南の紹興は、それぞれ地理的・経済的にも大きな個性な違いがあり、歴史の激動の舞台となってきました。紀元前770年ごろに東周の都に定められて以来、何度も全国的な首都となった洛陽。漢や唐の首都として奈良時代の日本の都市計画にも大きな影響を与えた長安。中国の東の沿海部に位置し日本とも意外と近かった紹興。この三つの古都の歴史と魅力を、豊富な図版を使い、予備知識のないかたにもわかりやすく解説します。(講師・記)
洛陽というのは、宋において衰微するまでは、大した町であった。唐代では首都が長安であったとはいえ、なお副首都の位置を保っていたとされる。 唐の長安は世界都市として当時、遠く西方にまで光芒を放っていたが、その背後地である「関中」は秦漢時代ほどの農業生産力をもたなくなり(長安の消費人口が大きすぎたために)、食糧その他の物資は洛陽にあおがざるをえなかった。このため洛陽が副首都とされ、長安なみとまではゆかなくても相当な規模の宮殿や官衙が備えられていた。 日本史でできた先入主では信じがたいことだが、皇帝でさえ長安で食糧不足になると、めしを食うために(ごく具体的な意味で)洛陽まで出てきて長期滞在した。百官を連れてきた。当然後宮の女どももきた。みな洛陽で、数万人の支配階級とその寄生者たちが、箸をうごかしてめしを食った。 星斌夫(ほしあやお)氏の『大運河』(近藤出版社)によれば、玄宗皇帝などは洛陽にやってきてめしを食うことがしばしばで、それより前、盛唐のころの高宗などは、在位三十三年のうち十一年もこの洛陽で暮らしたという。江南の穀倉地帯から大運河などの水路をへて食糧が洛陽まではこばれてくる。洛陽から長安への輸送は険阻な陸路が多く、難渋をきわめた。その輸送を待つより、いっそ口を洛陽に持って行って食物を食うほうが手っとりばやく、そういう発想で洛陽への行幸が営まれた。その移動は百官や後宮の女たち、宦官たちをふくめると、一万数千人になったであろう。かれらが洛陽に移って最初の食卓で箸をとりあげることを想像するとき、一万数千人のはげしい咀嚼音がきこえそうである。江南から洛陽への食糧輸送は、経費も労働も、すべて農民たちの負担によった。その輸送は、挙げて政治都市長安の政治組織にめしを食わせるためだったことを思うと、支配と被支配の関係がひどく簡単なような気がする。 (中略)中国においては日本の奈良朝以前から洛陽(あるいは塩の揚州もふくめて)という大きな商業機能が存在し、これによって中国人が洛陽の機能を通じ、物価、交通、輸送、需給の相関といういきいきした商業的思考法を身につけたということである。この刺激は経済を知るだけでなく、モラルの点でも多くのものを中国思想に加えたかと思える。 (中略) 「この含嘉倉の穴の中に、二十五万キログラムから三十万キログラムまでの穀物を入れることができます。保存の能力は、粟なら九年、米なら五年です」 と、説明者がいった。 ともかくも、洛陽には現在発見されているだけで二百六十一個というおびただしい穀物収蔵用の窖(あなぐら)の跡があるということから想像すると、隋唐時代におけるこの副首都がどんな機能をもっていたかが、具体的にわかってくるような気がする。 |
洛陽は、東周、後漢、曹魏、晋、北魏、隋、唐、後梁、後唐の九つの王朝の首都であったので、「九朝王都」と呼ばれている。 最も栄えたのは、隋、唐の時代であったが、それぞれの王都の時代は、華々しく栄えていた。 後漢時代、明帝がある明け方夢を見た。金色に光り輝く人が項(うなじ)から白光を出し、空から宮廷に飛び降りてきた。 (中略) 中国に仏教が伝来した最初の伝説である。 明帝は、洛陽の郊外に寺を建て、二人のインド僧はそこで終生暮した。寺は、経典を運んだ馬にちなんで白馬寺と名づけられた。 仏教が最初に根を下したのが洛陽であるということは見のがすことが出来ない。 (中略) 洛陽の街はどこへ行っても静かだった。 (中略) 殷賑を極めた古都の大建築も、胡人の朝貢の列の鳴らす異域の音楽の旋律も、凱旋を告げる軍鼓のひびきも、夢のまた夢の中に幻の影をたゆたわせているだけで、現実の洛陽の木もれ陽は、絹糸のようにやさしく、靴の下の土には、匂いとやわらかさを千古のままに伝えて、生きていた。 |
十 洛陽 モハメット教の客桟の窓は古い卍字の窓格子の向うにレモン色の空を覗かせている。夥しい麦ほこりに暮れかかった空を。 麦ほこりかかる童子の眠りかな |
或春の日暮です。 唐の都洛陽の西の門の下に、ぼんやり空を仰いでゐる、一人の若者がありました。 若者は名は杜子春とししゆんといつて、元は金持の息子でしたが、今は財産を費ひ尽くして、その日の暮しにも困る位、憐れな身分になつてゐるのです。 何しろその頃洛陽といへば、天下に並ぶもののない、繁昌を極めた都ですから、往来にはまだしつきりなく、人や車が通つてゐました。門一ぱいに当つてゐる、油のやうな夕日の光の中に、老人のかぶつた紗の帽子や、土耳古の女の金の耳環や、白馬に飾つた色糸の手綱が、絶えず流れて行く容子は、まるで画のやうな美しさです。 しかし杜子春は相変らず、門の壁に身を凭(もた)せて、ぼんやり空ばかり眺めてゐました。空には、もう細い月が、うらうらと靡いた霞の中に、まるで爪の痕かと思ふ程、かすかに白く浮んでゐるのです。 「日は暮れるし、腹は減るし、その上もうどこへ行つても、泊めてくれる所はなささうだし――こんな思ひをして生きてゐる位なら、一そ川へでも身を投げて、死んでしまつた方がましかも知れない。」 杜子春はひとりさつきから、こんな取りとめもないことを思ひめぐらしてゐたのです。 |
洛陽攻略戦は機動砲兵隊が部隊の掩護をしつつ、敵軍に包囲された洛陽を見下ろす三山村の台上に陣地を構築しました。昼間、洛陽より撃ち出す砲弾が陣地周辺に落下し気味が悪かったものですが、夕方、軍砲兵隊が敵の発射光を目標にして三発目で制圧したのには、その精度の良さに感服しました。 洛陽の十キロほど手前の竜門峡の隘路の戦闘や白沙鎮の戦闘では戦死者が出ました。この竜門峡は山全体に何万と知れない多くの石仏の彫刻があり、それを見ることが出来ましたが、戦争中であり平和になったらぜひ今一度と思っておりました。戦後に二度ほど行きましたがここは中国の観光地として有名です。 河南作戦である中国の古都洛陽に対する総攻撃は、四月二十日、火蓋が切って降ろされ、五月二十五日に陥落しました。 |
漢音・・・遣唐使の時代に、中国語の発音をもとに日本人向けに作られた読み方。古くは「からごえ」とも読まれた。 唐の首都・長安の中国語の発音に由来する読み方。中国から諸般の事情で日本に渡来した続守言(しょく・しゅげん)と薩弘格(さつ・こうかく)が、691年、持統天皇の時代に「音博士」(おんはかせ、こえのはかせ)に任じられ、日本人に教授したのが始まり。ただし現代日本語の漢音は、江戸時代から近代にかけて学者が「反切」等をもとに整理したものも混じっている。近代西洋の概念を日本語に訳した新漢語などは、漢音読みが多い。
長安 一片の月 (ちょうあん いっぺんのつき) 萬戸 衣を擣つの声 (ばんこ ころもをうつのこえ) 秋風 吹いて尽きず (しゅうふう ふきてつきず) 総て是 玉関の情 (すべてこれ ぎょっかんのじょう) 何れの日か 胡虜を平らげて (いずれのひか こりょをたいらげて) 良人 遠征を罷めん (りょうじん えんせいをやめん) |
国破れて山河在り (くにやぶれて、さんがあり ) 城春にして草木深し (しろはるにして、そうもくふかし) 時に感じて花にも涙を濺ぎ (ときにかんじて、はなにもなみだをそそぎ) 別れを恨んで鳥にも心を驚かす (わかれをうらんで、とりにもこころをおどろかす) 峰火 三月に連なり (ほうか、さんげつにつらなり) 家書 万金に抵る (かしょ、ばんきんにあたる) 白頭 掻けば更に短かく (はくとう、かけば、さらにみじかく) 渾べて簪に勝えざらんと欲す (すべて、しんにたえざらんとほっす) |
昔日の齷齪 誇るに足らず (せきじつのあくせく、ほこるにたらず) 今朝 放蕩として思ひ涯無し (こんちょう、ほうとうとして、おもい、はてなし) 春風 意を得て 馬蹄疾し (しゅんぷう、いをえて、ばてい、はやし) 一日に看尽くす 長安の花 (いちにちにみつくす、ちょうあんのはな) |
待ち到る 秋来 九月八 (まちいたる、しゅうらい、くがつはち) 我が花 開く後は百花殺へん (わがはな、ひらくのちはひゃっかおとろえん) 天を衝く香陣 長安を透り (てんをつくこうじん、ちょうあんをとおり) 満城 尽く帯びん 黄金の甲を (まんじょう、ことごとくおびん、おうごんのこうを) |
賈島(かとう)挙(きょ)に赴きて京(けい)に至り、 驢(ろ)に騎(の)りて詩を賦(ふ)し、「僧は推す月下の門」の句を得たり。推を改めて敲(こう)と作(な)さんと欲す。 手を引きて推敲の勢(いきほい)を作(な)すも、未(いま)だ決せず。 覚えず大尹(たいゐん)韓愈(かんゆ)に衝(あ)たる。 乃(すなは)ち具(つぶさ)に言ふ。 愈曰く「敲の字佳(よ)し」と。 遂に轡(くつわ)を並べて詩を論ずること之を久しくす。 |
(引用開始)紹興市は中国の東南海地区、揚子江デルタ南部に位置し、中国最大の商工業都市上海から南西に250kmの距離にあります。
人口約430万人、面積7,901平方キロメートルで、市街区の人口は約30万人です。
気候は温潤で自然に恵まれ、湖や水路が多く、「東方のベニス」とも「橋の里」とも称されている名高い水郷の都市です。
また、中華料理の際に供される紹興酒の産地としても有名で、「酒の里」とも言われています。
紹興は、中華民族発祥地のひとつとして、7000年以上の昔から古代文化が栄えていたといわれ、2,400年余り前の 春秋時代(紀元前770年〜403年)、越の都が置かれました。
紹興市は、中国を代表する文学家の魯迅をはじめ、女性革命家の秋瑾、政治家の周恩来など、優れた人物も輩出しています。
市内には中国書道の聖地であり、書聖 王 羲之が「蘭亭集序」を書いたところとして名高い「蘭亭」など、貴重な文化遺跡も数多く 残されています。(引用終了)
越語の原文 | 濫兮抃草濫予昌枑沢予昌州州■州焉乎秦胥胥縵予乎昭澶秦踰滲惿隨河湖。 ※■は「食」へんの右横に「甚」。 |
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漢文の訳文 | 今夕何夕兮、搴舟中流。今日何日兮、得与王子同舟。蒙羞被好兮、不訾詬恥。 心幾頑而不絶兮、得知王子。山有木兮木有枝,心悦君兮君不知。 |
「魏志倭人伝」より。古代中国人は、邪馬台国の倭人は、古代の紹興地方と関係があると考えていた。
【原漢文】男子無大小、皆黥面文身。自古以來、其使詣中國、皆自稱大夫。夏后少康之子、封於會稽、斷髪文身、以避蛟龍之害。今倭水人好沈没捕魚蛤、文身亦以厭大魚水禽、後稍以爲飾、諸國文身各異、或左或右、或大或小、尊卑有差、計其道里、當在會稽東冶之東。 【訓読】男子は大小無く、皆、黥面文身す【顔やからだにイレズミをする】。古より以来、その使中国に詣(いた)るや、 皆、自ら大夫(たいふ)【古代中国の卿・大夫・士の真ん中の身分】と称す。 夏后少康【夏王朝の第6代の君主】の子【名前は無余。越王勾践の先祖】は会稽に封ぜられ、 断髪文身して、以て蛟龍(こうりゅう)【みずち。伝説上の水棲動物。ワニがモデルか】の害を避く。今、倭の水人は沈没して魚、蛤を捕るを好み、 文身は、亦、以て大魚【サメなどの大型の魚】、水禽【みずどり】を厭(はら)う。後、稍(しだい)に以て飾と為る。 諸国の文身は各〻(おのおの)に異なり、或は左し、或は右し、或は大に、或は小に、 尊卑の差有り。その道里を計るに、まさに会稽、東冶【現在の福建省福州市の西にあった会稽郡東冶県を指すか】の東に在るべし。 |