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学び直しの中国古代史
洛陽、長安、紹興 三つの古い都市

最新の更新2025年2月2日   最初の公開2025年1月3日

  1. 洛陽 2025年1月7日火曜
  2. 長安 2025年2月4日火曜
  3. 紹興 2025年3月4日火曜
第1火曜日 15:30〜17:00 教室(千葉教室)+オンライン(どこからでも) 見逃し配信あり
以下、朝日カルチャーセンター千葉のhttps://www.asahiculture.com/asahiculture/asp-webapp/web/WWebKozaShosaiNyuryoku.do?kozaId=7675897より自己引用。引用開始

 中国では、今からおよそ五千年前に原始的な都市が発生して以来、都市を中心に政治、経済、文化が発達してきました。中国史に登場する数多くの古代都市の中でも、東の洛陽、西の長安、南の紹興は、それぞれ地理的・経済的にも大きな個性な違いがあり、歴史の激動の舞台となってきました。紀元前770年ごろに東周の都に定められて以来、何度も全国的な首都となった洛陽。漢や唐の首都として奈良時代の日本の都市計画にも大きな影響を与えた長安。中国の東の沿海部に位置し日本とも意外と近かった紹興。この三つの古都の歴史と魅力を、豊富な図版を使い、予備知識のないかたにもわかりやすく解説します。(講師・記)
引用終了


洛 陽

 洛陽は、紀元前11世紀の周初から10世紀の唐末まで、2千年間にわたりたびたび中国の首都となった古都です。 西の長安が栄華を誇る政治都市だったのに対して、東の洛陽は落ち着いた感じの文化都市でした。 芥川龍之介の『杜子春』や司馬遼太郎の「洛陽の穴」など日本人の洛陽観にも触れつつ、映像資料も使って、洛陽の歴史的特徴と魅力をわかりやすく解説します。

関連項目

Google 写真検索 「洛陽」「洛阳

★遺跡を中心とした略年表 ※隋唐以降は下記の「あらまし」を参照。

★日本人が見た洛陽

司馬遼太郎『長安から北京へ』(中央公論社、昭和51年=1976年)127頁-137頁より引用。引用開始。
 洛陽というのは、宋において衰微するまでは、大した町であった。唐代では首都が長安であったとはいえ、なお副首都の位置を保っていたとされる。
 唐の長安は世界都市として当時、遠く西方にまで光芒を放っていたが、その背後地である「関中」は秦漢時代ほどの農業生産力をもたなくなり(長安の消費人口が大きすぎたために)、食糧その他の物資は洛陽にあおがざるをえなかった。このため洛陽が副首都とされ、長安なみとまではゆかなくても相当な規模の宮殿や官衙が備えられていた。
 日本史でできた先入主では信じがたいことだが、皇帝でさえ長安で食糧不足になると、めしを食うために(ごく具体的な意味で)洛陽まで出てきて長期滞在した。百官を連れてきた。当然後宮の女どももきた。みな洛陽で、数万人の支配階級とその寄生者たちが、箸をうごかしてめしを食った。
 星斌夫(ほしあやお)氏の『大運河』(近藤出版社)によれば、玄宗皇帝などは洛陽にやってきてめしを食うことがしばしばで、それより前、盛唐のころの高宗などは、在位三十三年のうち十一年もこの洛陽で暮らしたという。江南の穀倉地帯から大運河などの水路をへて食糧が洛陽まではこばれてくる。洛陽から長安への輸送は険阻な陸路が多く、難渋をきわめた。その輸送を待つより、いっそ口を洛陽に持って行って食物を食うほうが手っとりばやく、そういう発想で洛陽への行幸が営まれた。その移動は百官や後宮の女たち、宦官たちをふくめると、一万数千人になったであろう。かれらが洛陽に移って最初の食卓で箸をとりあげることを想像するとき、一万数千人のはげしい咀嚼音がきこえそうである。江南から洛陽への食糧輸送は、経費も労働も、すべて農民たちの負担によった。その輸送は、挙げて政治都市長安の政治組織にめしを食わせるためだったことを思うと、支配と被支配の関係がひどく簡単なような気がする。
(中略)中国においては日本の奈良朝以前から洛陽(あるいは塩の揚州もふくめて)という大きな商業機能が存在し、これによって中国人が洛陽の機能を通じ、物価、交通、輸送、需給の相関といういきいきした商業的思考法を身につけたということである。この刺激は経済を知るだけでなく、モラルの点でも多くのものを中国思想に加えたかと思える。
(中略)
「この含嘉倉の穴の中に、二十五万キログラムから三十万キログラムまでの穀物を入れることができます。保存の能力は、粟なら九年、米なら五年です」  と、説明者がいった。
 ともかくも、洛陽には現在発見されているだけで二百六十一個というおびただしい穀物収蔵用の窖(あなぐら)の跡があるということから想像すると、隋唐時代におけるこの副首都がどんな機能をもっていたかが、具体的にわかってくるような気がする。


瀬戸内寂聴『美と愛の旅2――敦煌・西蔵・洛陽』(講談社、1983年)138頁-143頁
 洛陽は、東周、後漢、曹魏、晋、北魏、隋、唐、後梁、後唐の九つの王朝の首都であったので、「九朝王都」と呼ばれている。
 最も栄えたのは、隋、唐の時代であったが、それぞれの王都の時代は、華々しく栄えていた。
 後漢時代、明帝がある明け方夢を見た。金色に光り輝く人が項(うなじ)から白光を出し、空から宮廷に飛び降りてきた。
(中略)
 中国に仏教が伝来した最初の伝説である。
 明帝は、洛陽の郊外に寺を建て、二人のインド僧はそこで終生暮した。寺は、経典を運んだ馬にちなんで白馬寺と名づけられた。
 仏教が最初に根を下したのが洛陽であるということは見のがすことが出来ない。
(中略)
 洛陽の街はどこへ行っても静かだった。
(中略)
 殷賑を極めた古都の大建築も、胡人の朝貢の列の鳴らす異域の音楽の旋律も、凱旋を告げる軍鼓のひびきも、夢のまた夢の中に幻の影をたゆたわせているだけで、現実の洛陽の木もれ陽は、絹糸のようにやさしく、靴の下の土には、匂いとやわらかさを千古のままに伝えて、生きていた。


  芥川龍之介『上海游記・江南游記』雑信一束
十 洛陽
 モハメット教の客桟の窓は古い卍字の窓格子の向うにレモン色の空を覗かせている。夥しい麦ほこりに暮れかかった空を。

麦ほこりかかる童子の眠りかな

芥川龍之介『杜子春』
 詳しくは加藤徹のサイト「日本と中国、二つの「杜子春」」を参照。
 或春の日暮です。
 唐の都洛陽の西の門の下に、ぼんやり空を仰いでゐる、一人の若者がありました。  若者は名は杜子春とししゆんといつて、元は金持の息子でしたが、今は財産を費ひ尽くして、その日の暮しにも困る位、憐れな身分になつてゐるのです。
 何しろその頃洛陽といへば、天下に並ぶもののない、繁昌を極めた都ですから、往来にはまだしつきりなく、人や車が通つてゐました。門一ぱいに当つてゐる、油のやうな夕日の光の中に、老人のかぶつた紗の帽子や、土耳古の女の金の耳環や、白馬に飾つた色糸の手綱が、絶えず流れて行く容子は、まるで画のやうな美しさです。
 しかし杜子春は相変らず、門の壁に身を凭(もた)せて、ぼんやり空ばかり眺めてゐました。空には、もう細い月が、うらうらと靡いた霞の中に、まるで爪の痕かと思ふ程、かすかに白く浮んでゐるのです。
「日は暮れるし、腹は減るし、その上もうどこへ行つても、泊めてくれる所はなささうだし――こんな思ひをして生きてゐる位なら、一そ川へでも身を投げて、死んでしまつた方がましかも知れない。」
 杜子春はひとりさつきから、こんな取りとめもないことを思ひめぐらしてゐたのです。

※原作である唐代伝奇『杜子春伝』の冒頭は、
「杜子春は、蓋(けだ)し周・隋の間の人なり。少(わか)くして落拓にして、家産を事とせず。然して志気間曠(かんくわう)にして酒を縱(ほしいまま)にして間遊するを以て、資産蕩尽す。親故に投ずるも、皆事に事(つか)へざるを以て棄てらる。
 冬に方(あた)り、衣破れ腹空しくして、長安の中を徒行す。日晩(く)れて未だ食せず、彷徨して往く所を知らず。東市の西門に於いて、饑寒の色掬すべく、天を仰ぎて長吁(ちやうく)す。」
香川県・井原九八「私の青春記 戦車第一師団防空隊」、平和祈念展示資料館『労苦体験手記 軍人軍属短期在職者が語り継ぐ労苦(兵士編) 第19巻』48頁より引用
https://www.heiwakinen.go.jp/wp-content/uploads/archive/library/roukunote/onketsu/19/O_19_047_1.pdf
 洛陽攻略戦は機動砲兵隊が部隊の掩護をしつつ、敵軍に包囲された洛陽を見下ろす三山村の台上に陣地を構築しました。昼間、洛陽より撃ち出す砲弾が陣地周辺に落下し気味が悪かったものですが、夕方、軍砲兵隊が敵の発射光を目標にして三発目で制圧したのには、その精度の良さに感服しました。
 洛陽の十キロほど手前の竜門峡の隘路の戦闘や白沙鎮の戦闘では戦死者が出ました。この竜門峡は山全体に何万と知れない多くの石仏の彫刻があり、それを見ることが出来ましたが、戦争中であり平和になったらぜひ今一度と思っておりました。戦後に二度ほど行きましたがここは中国の観光地として有名です。
 河南作戦である中国の古都洛陽に対する総攻撃は、四月二十日、火蓋が切って降ろされ、五月二十五日に陥落しました。


★洛陽のあらまし
 現在の河南省洛陽市。河南省西部で、黄河の支流・洛水の北側にあるので「洛陽」と呼ぶ。
 北京・南京・西安・洛陽は、中国の四大古都。
 この中でも洛陽は約4千年の歴史をもち、歴代王朝の累計105人の帝王がここに都を置き、東周から五代十国時代まで九つの王朝の首都となった(カウントのしかたには諸説あり)。
 中華人民共和国の都市のランク付けは、上から、直轄市(北京市、上海市、重慶市、天津市)、副省級市(省都など)、地級市(南京市、西安市、洛陽市はこれ)、副地級市・省直管市、県級市、鎮、・・・
  1. 紀元前1800年頃の「二里頭遺跡」は、河南省洛陽市にある。
  2. 前11世紀、西周の第二代・成王は、東へのおさえとして洛邑を置く。
    一説に、紀元前1050年頃、洛水を挟んで南側に成周、北側に王城が建てられ、東周の時代には両都市を合わせて洛邑と呼ばれるようになっという。
  3. 前771年、周の第十三代・平王は洛邑に遷都し、「東周」時代が始まる。
  4. 戦国時代の秦、自国の都・咸陽と、周の都・洛陽を結ぶ街道上に「函谷関」(かんこくかん)を建設。
  5. 渭水流域の軍事力と結びついた咸陽や長安に対して、洛陽は華北平原の経済力と結びついた物資の集積地として発展してゆく。
  6. 1世紀、後漢の光武帝(在位25-57年)が首都を洛陽に遷す。漢王朝は「火徳」とされたので洛陽のサンズイを嫌って雒陽と改名した。
  7. 後漢の末、「土徳」をモットーとする三国志の曹操が実権を握ると洛陽に戻した。
  8. 493年、北魏は第6代孝文帝の時代に洛陽に遷都。洛陽郊外に龍門石窟を造営。
  9. 唐の武則天の「武周」(690年−705年)は一時的に「神都」と改名され首都となった。
  10. 宋の時代、物資の集積地としての地位がより東の開封にうつった。また元以降は「北族」の軍事力を背景に北京が首都となることが増えた。
    宋以降、洛陽は副首都としての歴史的機能を他の大都市にゆずった。

★世界の古代都市との比較
 人口の変遷 https://ja.wikipedia.org/wiki/歴史上の推定都市人口

 ターシャス・チャンドラー (1987年)による世界の「人口上位十大都市」。
 紀元前1千年・・・成周(洛陽の前身)の推定人口は5万人で、テーベ、鎬京と並び世界のトップ3の大人口(当時として)。
 前650年・・・人口7万で世界第3位をキープ。
 前430年・・・人口10万人だが世界第5位まで落ちる。
 前200年・・・人口6万人で世界21位に転落。同年の1位は人口40万人の長安。
 100年・・・後漢の首都となり人口42万、僅差で世界2位。同年の1位は人口45万人のローマ。
 500年・・・北魏の首都。20万人で世界3位。
 622年・・・唐の副都。20万人で世界4位。1位は50万人のクテシフォン、2位は40万人の長安、3位は35万人のコンスタンティノポリス。
 800年・・・唐の副都。30万人で世界4位。1位はバクダード、2位は長安。
 900年・・・唐の副都。15万人で世界7位。20万人の平安京(世界第4位)にも負ける。
 司馬遼太郎が述べたとおり、960年、北宋の建国以降、洛陽が世界の都市ランキングの上位に顔を出すことはなくなった。

★複都制
単都制の対概念。首都を二つ置く場合は両都制ないし両京制と呼ぶ。
首都を複数置く場合の理由は、国防、歴史、経済などさまざまである。
○陪都・・・中国史で、行政上、国都に準ずる扱いをうけた特別な都市。明代の金陵(南京市)、清代の奉天(盛京とも称された。現在の瀋陽市)など。金陵と奉天は留都でもあった。
 日本史でも、孝徳天皇から桓武天皇までの難波京や、徳川家康が大御所として政治をとった駿府など、事実上の陪都がいくつか存在した。
○留都・・・首都が別の場所に遷都したあとの、元の首都があった都市。
○行都・・・行在に同じ。臨時の事実上の首都。南宋の時代は、臨安を行都、建康を留都とした。日中戦争下の重慶は中華民国中央政府(蒋介石政権)の行都でありかつ陪都とされた。
○別都・副都・次都・・・意味は副首都だが、ニュアンスは若干違う。

★紀元前11世紀、渭水流域の盆地である関中から興った周王朝は、後世の長安の前身となる関中の鎬京と、洛陽の前身である洛邑に二つの拠点を置いた。
以後、西都・長安と、東都・洛陽の両京体制を採用する王朝が多かった。
前漢は長安を首都として洛陽を副都としたため、西漢と呼ばれる。
後漢は洛陽を首都としたため、東漢と呼ばれる。
北周、隋、唐は、長安を首都とし、洛陽を副都とした。唐の時代でも、武則天や安禄山は洛陽を事実上の首都とした。司馬遼太郎『長安から北京へ』(中公文庫)の「洛陽の穴」で、司馬は、安禄山が洛陽を事実上の首都とした理由を推定している。
 10世紀以降は、長安も洛陽も地方の「主都」化した。中国の複都制の首都は、開封や北京、南京など別の都市に遷っていった。

参考 朝日カルチャーセンター・新宿教室 2019/11/14(木)「中国五千年の文明と歴史 中国とは何か 第三回 長安と洛陽―なぜ首都が二つも必要だったのか


長 安

 唐(618年−907年)の首都・長安は、人口100万の国際都市であり、日本の平城京や平安京をはじめ東アジアの都市設計に大きな影響を与えました。 唐の長安があった場所は、もとは盆地の田舎でしたが、300年間にわたり世界帝国の首都となり、11世紀以降は地方都市に戻り2度と首都になることはありませんでした。 楊貴妃や李白、杜甫、空海らも暮らした世界都市・長安の栄枯盛衰の歴史と魅力を、豊富な映像資料を使い、わかりやすく解説します。
関連項目


https://www.youtube.com/playlist?list=PL6QLFvIY3e-lQJSEMNPTgl-gpZ3lKRlvr
Google画像検索 [長安] [长安](中国語の簡体字)
ポイント

長安の歴史
  1. 西周の都・鎬京(こうけい)。今の西安市南西郊。
  2. 秦の咸陽(かんよう)。宮址は西安の北西方の渭河(いが)北岸で、阿房(あぼう)は西郊にあった。
  3. 前漢の長安城は、初代皇帝・劉邦が設置。
    劉邦の出身地は東方で洛陽を首都にしたかったが、宰相の蕭何の意見で、咸陽の近くに巨大な新都を造営。秦のインフラを流用しやすかったことが一因。
    名前を「長安」とし、蕭何の意見で面積は咸陽の4倍に拡大し、「威信財」的な建築をふんだんに 採用し、漢王朝の永続性を天下にアピールした。
    前漢の長安城(中国では、城壁で囲まれた都市全体を「城」と呼ぶ)は、現在の西安市の北西郊、渭河の南に位置。
    周囲に高い城壁を巡らし、城門の数は12、城内には長楽宮や未央宮(びおうきゅう)など 壮麗な宮殿を造営し、市民のために市場や居住区も作られた。
    前漢長安城の総面積36平方キロメートル。武帝の時代に完成をみた。
    前漢の諸帝の陵墓は、渭水の北の渭北丘陵と、西安市南東の白鹿原に造営された。
  4. 後漢は首都を、東野洛陽に置いた。「東漢」とも呼ぶ。
  5. 五胡十六国や、南北朝時代の北朝の諸王朝は、 漢代長安城の場所に宮都を構えた。
  6. 中国を再統一した隋の文帝は、582年、 土木建築の技術官僚・宇文ト(うぶん・かい)に命じて、 新都・大興城(だいこうじょう)を造営させた。
  7. 唐長安城は、隋の大興城を修築したもの。
    東西9.7キロメートル、南北8.6キロメートル、と東西方向のほうが長い四角形だった。
    都市設計は、北辺の中央に宮城と皇城を置いた。
    城内の中心軸には南北に幅150メートルの幹線道路を作り、 大小の道路を東西・南北に碁盤の目状に作った。
    長安城内は109の「坊」に分かれ、それぞれの坊には住宅、仏寺、道観、イスラム寺院などが点在していた。 その様子は陳舜臣の歴史小説『曼陀羅の人―空海求法伝』に描かれている。
    太宗と高宗は長安城外北東に大明宮を造営。
    則天武后こと武則天は、唐の国号を中断して「周」と改称し洛陽に遷都。その後、また長安に戻る。
  8. 長安の最盛期は、唐の玄宗皇帝と楊貴妃の時代。
    玄宗は長安城内に興慶宮を造営。南東隅の曲江池は遊宴の地。
    城内の「東市」「西市」は商店や人混みにあふれ活気に満ちていた。その様子は 映画『空海−KU-KAI−美しき王妃の謎』2017年で活写。
    長安には、日本の遣唐使も含め、世界中から人材・物材が集まった。
    755年、安禄山の乱が起き、長安は荒廃。杜甫の漢詩「春望」が有名。「国、破れて山河、在り。 城、春にして草木、深し」。
    907年、唐が滅亡。その後、長安が再び中華帝国の首都となることはなく、地方都市に転落した。
  9. 明王朝の建国の翌年、1369年、明は元朝の奉元路を廃止して「西安府」を設置した。 「西安」という地名の初見。
  10. 清末の1900年、義和団事件で、西太后らが西安に逃げる。
  11. 1936年、西安事変。蒋介石が、張学良らによって、西安郊外の華清池温泉で監禁される。

★遺跡から見た長安と周辺の略史のメモ


名所旧跡
 京都やローマなどと違い、唐の時代からの伝世の建築はあまり残っていない。
漢詩
★「子夜呉歌」 李白(701−762)  しやごか りはく
長安 一片の月  (ちょうあん いっぺんのつき)
萬戸 衣を擣つの声  (ばんこ ころもをうつのこえ)
秋風 吹いて尽きず  (しゅうふう ふきてつきず)
総て是 玉関の情  (すべてこれ ぎょっかんのじょう)
何れの日か 胡虜を平らげて  (いずれのひか こりょをたいらげて)
良人 遠征を罷めん  (りょうじん えんせいをやめん)
原漢文 長安一片月、萬戸擣衣声。秋風吹不尽、総是玉関情。何日平胡虜、良人罷遠征。
中国語の発音 Cháng'ān yípiàn yuè, wàn hù dǎo yī shēng. Qiū fēng chuī bú jìn, zǒng shì yù guān qíng. Hé rì píng hú lǚ, liáng rén bà yuǎn zhēng.
大意 長安の夜空の一片の月。町中の家々から砧(きぬた)を打つ音が響きわたる。 秋の風は吹き続ける。これらはみな、玉門関(にいる夫)を思う情をかきたてる。 蛮族が平定され、夫が遠征から戻るのはいつの日か。

★「春望」 杜甫(712−770) しゅんぼう とほ
国破れて山河在り (くにやぶれて、さんがあり )
城春にして草木深し (しろはるにして、そうもくふかし)
時に感じて花にも涙を濺ぎ (ときにかんじて、はなにもなみだをそそぎ)
別れを恨んで鳥にも心を驚かす (わかれをうらんで、とりにもこころをおどろかす)
峰火 三月に連なり (ほうか、さんげつにつらなり)
家書 万金に抵る (かしょ、ばんきんにあたる)
白頭 掻けば更に短かく (はくとう、かけば、さらにみじかく)
渾べて簪に勝えざらんと欲す (すべて、しんにたえざらんとほっす)
原漢文 国破山河在、城春草木深。感時花濺涙、恨別鳥驚心。烽火連三月、家書抵萬金。白頭掻更短、渾欲不勝簪。
中国語の発音 Guó pò shān hé zài, chéng chūn cǎo mù shēn. Gǎn shí huā jiàn lèi, hèn bié niǎo jīng xīn. Fēng huǒ lián sān yuè, jiā shū dǐ wàn jīn. Bái tóu sāo gèng duǎn, hún yù bù shēng zān.
大意 都は破壊されたが、大自然の山や河は依然としてそこにある。町は春を迎え、草木が青青と茂る。時世に感じて花を見ても涙が流れる。家族との別れを恨み、鳥の鳴き声にもハッとする。戦争ののろしは三か月もやまず、疎開先の家族からの音信は万金にも価する。わたしの白髪をかくとますます薄くなっており、もう冠を止める簪(かんざし)もさせなくなりそうだ。

★「登科後」 孟郊(751−814)  とうかののち もうこう
昔日の齷齪 誇るに足らず (せきじつのあくせく、ほこるにたらず)
今朝 放蕩として思ひ涯無し (こんちょう、ほうとうとして、おもい、はてなし)
春風 意を得て 馬蹄疾し (しゅんぷう、いをえて、ばてい、はやし)
一日に看尽くす 長安の花 (いちにちにみつくす、ちょうあんのはな)
原漢文 昔日齷齪不足誇。今朝放蕩思無涯。春風得意馬蹄疾、一日看尽長安花。
中国語の発音 Xī rì wò chuò bù zú kuā. Jīn zhāo fàng dàng sì wú yá. Chūn fēng dé yì mǎ tí jí, yí rí kàn jǐn Cháng'ān huā.
大意 今までの苦労は自慢するほどのことじゃない。今朝はのびのびとどこまでも嬉しい気分。春風と達成感で、馬のひづめも軽やか。長安の花をすべて一日で見つくすぞ。

★「詠菊」 黄巣(835−884) きくをよむ こうそう cf.asahi20250111.html#02
待ち到る 秋来 九月八 (まちいたる、しゅうらい、くがつはち)
我が花 開く後は百花殺へん (わがはな、ひらくのちはひゃっかおとろえん)
天を衝く香陣 長安を透り (てんをつくこうじん、ちょうあんをとおり)
満城 尽く帯びん 黄金の甲を (まんじょう、ことごとくおびん、おうごんのこうを)
原漢文 待到秋来九月八。我花開後百花殺。衝天香陣透長安、満城尽帯黄金甲。
中国語の発音 Dài dào qiū lái jiǔ yuè bā. Wǒ huā kāi hòu bǎi huā shā. Chōng tiān xiāng zhèn tòu Cháng'ān, mǎn chéng jìn dài huáng jīn jiǎ.
大意 俺は科挙に落ちた。やつらは合格した。俺が悪いんじゃない。世の中が腐ってるんだ。俺の姓は黄だ。俺は遅咲きの、黄金色の菊なのだ。今に見てろ。科挙に合格して喜んでいる早咲きの花ども。覚悟しておけ。いずれ俺の時代がくる。菊の節句、九月九日の前日が決起の日だ。俺が大輪の花を咲かせるとき、早咲きの花どもは皆殺しだ。長安の都が、俺の花の猛烈な香りで満たされる。町中が、黄金色に輝く甲冑の兵で埋め尽くされる。俺は、黄金色の菊なのだ。


故事成語
 推敲(すいこう)
『唐詩紀事』巻四十 cf.https://zh.wikisource.org/wiki/唐詩紀事_(四庫全書本)/卷40
 cf.https://kanbun.info/koji/suiko.html  https://manapedia.jp/text/1835
原漢文 島赴舉至京騎驢賦詩得僧推月下門之句欲改推作敲引手作推敲之勢未决不覺衝大尹韓愈乃具言愈曰敲字佳矣遂並轡論詩久之
賈島(かとう)挙(きょ)に赴きて京(けい)に至り、 驢(ろ)に騎(の)りて詩を賦(ふ)し、「僧は推す月下の門」の句を得たり。推を改めて敲(こう)と作(な)さんと欲す。 手を引きて推敲の勢(いきほい)を作(な)すも、未(いま)だ決せず。 覚えず大尹(たいゐん)韓愈(かんゆ)に衝(あ)たる。 乃(すなは)ち具(つぶさ)に言ふ。 愈曰く「敲の字佳(よ)し」と。 遂に轡(くつわ)を並べて詩を論ずること之を久しくす。
大意 苦吟で有名な漢詩人・賈島(かとう 779-843)は、科挙の受験のため首都・長安にのぼった。 ロバに乗りながら漢詩を作り「僧は推す、月下の門(僧推月下門)」という句を思いついた。 が、「僧は敲(たた)く、月下の門」に直したほうがよいかな、とも思った。 手を動かして、門を押したり叩いたりする仕草をしながら、苦吟した。 決めかねているうちに、うっかり、大尹(長安の長官)で大詩人である韓愈(かんゆ 768−824)の行列に突っ込んでしまった。 賈島が事情を詳しく説明すると、韓愈は「僧は敲く、のほうがよいね」と言った。 そのまま二人は、それぞれウマとロバのくつわを並べて道を進みながら、漢詩の論議をずっと続けた。


紹 興

東シナ海をはさんで九州の対岸にある中国浙江省の紹興は、人口500万の大都市で、3千年近い歴史をもつ古都です。
「会稽(かいけい)の恥」「臥薪嘗胆(がしんしょうたん)」「呉越同舟」「顰に倣う(ひそみにならう)」など日本人になじみ深い故事成語は、 古代の越国や紹興に由来します。
 また紹興は名所旧跡も多い。4千年前の伝説の聖天子の陵墓「禹陵(うりょう)」や、書聖・王羲之(おうぎし)ゆかりの蘭亭、 近代の作家・魯迅の故里、周恩来の祖居、等々。日本の稲(ジャポニカ米)の起源も、古代日本語での中国の呼称モロコシ(諸越)も 紹興一帯と関係があります。
 本講座では、豊富な図版や映像を使いつつ、古都・紹興の歴史と魅力をわかりやすく解説します。
関連項目



https://www.youtube.com/playlist?list=PL6QLFvIY3e-n2R3otICQAAfmWqjT1aqK6

○ポイント
○李白(701-762)の漢詩「越中懐古」
  越王句践破呉帰。義士還家尽錦衣。宮女如花満春殿、只今惟有鷓鴣飛。
越王勾践 呉を破って帰る
義士 家に還りて 尽く錦衣す
宮女 花の如く 春殿に満つ
只今惟 鷓鴣の飛ぶ有り
 エツオウコウセン、ゴをヤブってカエる。ギシ、イエにカエりてコトゴトくキンイす。キュウジョ、ハナのゴトく、シュンデンにミつ。 タダイマタダ、シャコのトぶアり。
大意 紀元前473年、越王勾践(在位前497年-前465年) は、宿敵の呉国をやぶり、この地に凱旋した。 忠義の士卒たちは自宅に戻り、みな錦で着飾った。 花のように美しい宮女たちで、春の王宮はいっぱいになった。 悠久の歳月は流れた。今ではただ、シャコが飛んでいるだけだ。
※鷓鴣は鳥の名前。学名は Francolinus pintadeanus で、日本語ではコモンシャコと呼び、中国語では中華鷓鴣、中国鷓鴣、越雉などと呼ぶ。
※現代中国では「越中古」というタイトルのほうが普通。以下は現代中国の簡体字とピンイン。
越王勾践破吴归。战士还家尽锦衣。宫女如花满春殿,只今惟有鹧鸪飞。
Yuè wáng gōu jiàn pò wú guī. Yì shì huán jiā jìn jǐn yī. Gōng nǚ rú huā mǎn chūn diàn, zhǐ jīn wéi yǒu zhè gū fēi.

○紹興の気候と地形
 日本とよく似ている。海に近いモンスーン気候で、山は樹木で覆われている。
年間降水量  紹興:約1400  東京:約1600ミリ
年平均気温  紹興:16-17℃  東京:15.8℃
・日本との姉妹都市は静岡県富士宮市。
・静岡県公式HP > > [静岡県・浙江省友好提携40周年]「浙江省は、本県特産の茶、ミカンのふるさととも言われるように、本県とゆかりが深い土地です。また、温暖な気候や、長い海岸線を有することなど、本県との共通点も多いことなどから交流にふさわしいとして選定されました。」
・富士宮市公式HP > > [友好交流関係都市 中華人民共和国 浙江省 紹興市]
(引用開始)紹興市は中国の東南海地区、揚子江デルタ南部に位置し、中国最大の商工業都市上海から南西に250kmの距離にあります。
人口約430万人、面積7,901平方キロメートルで、市街区の人口は約30万人です。
気候は温潤で自然に恵まれ、湖や水路が多く、「東方のベニス」とも「橋の里」とも称されている名高い水郷の都市です。
また、中華料理の際に供される紹興酒の産地としても有名で、「酒の里」とも言われています。
紹興は、中華民族発祥地のひとつとして、7000年以上の昔から古代文化が栄えていたといわれ、2,400年余り前の 春秋時代(紀元前770年〜403年)、越の都が置かれました。
紹興市は、中国を代表する文学家の魯迅をはじめ、女性革命家の秋瑾、政治家の周恩来など、優れた人物も輩出しています。
市内には中国書道の聖地であり、書聖 王 羲之が「蘭亭集序」を書いたところとして名高い「蘭亭」など、貴重な文化遺跡も数多く 残されています。(引用終了)

○紹興の名所旧跡と地理的な位置
 現在「紹興市」と呼ばれる領域は広い。紹興市の面積7901平方kmは、静岡県の面積7780平方kmよりも広い。
 紹興市の中心部である越城区(人口61万人、面積493平方km)だけで、 鹿児島市(人口60万人、面積548平方km)に匹敵する。「越」は古代の越国、「城」は中国語で「城郭都市」の意味である。
 また紹興市の領域のなかに、下位の行政単位として諸暨市(人口108万人)や嵊州市(人口73万人)という「市」 が含まれる点、つまり市の中にさらに別の市があるという階層構造は、日本人の地名の感覚からすると混乱する。
 古代越国の首都「会稽」も、魯迅など紹興出身の有名人の出生地の多くも、 越城区に集中している。
  他の場所からの直線距離  魯迅の故居から見ると、北京と日本の広島は等距離。
○失われた古代民族「百越」
 古代百越の居住地域は、現在は漢民族が分布しているが、古代には  日本語で中国を指す旧称「唐土(もろこし)」の語源は「諸越」=越族、百越。古代日本人にとって「中国」といえば、 北京などの北方でも洛陽・西安などの内陸部でもなく、まず東シナ海沿岸部を指した。
 古代の越族は、中国江南地方からベトナム北部までの長大な地域に分布していた。 ベトナムの漢字表記は「越南」であり、中国広東省の古名「粤」は「越」の同音異字である。
 越族の歴史の中核は、春秋戦国時代の越国(えつこく。紀元前600年頃-前306年)である。
 日本の「越国」(こしのくに。越前・越中・越後の三越)の地名由来を古代中国の越族と結びつける説もある。
 越族は言語も民族系統も、漢民族とは違っていたが、戦国時代の末から漢民族に同化吸収された。
・百越語 残存資料は少ないが中国語(漢語)とは別系統で、東南アジアの諸民族と類縁関係の言語であったというのが通説。
 中国の北では「河」、南では「江」と言う。「江」の語源は古代の百越語とする説がある。
 劉向(前77年−前6年)の『説苑』には「越人歌」の越語原文(発音を漢字で表記)と、それを漢文(古代中国語)に翻訳した 漢詩が掲載されており、これは中国史上最古の訳詩とも言われる。
越語の原文濫兮抃草濫予昌枑沢予昌州州州焉乎秦胥胥縵予乎昭澶秦踰滲惿隨河湖。
は「食」へんの右横に「甚」。
漢文の訳文今夕何夕兮、搴舟中流。今日何日兮、得与王子同舟。蒙羞被好兮、不訾詬恥。 心幾頑而不絶兮、得知王子。山有木兮木有枝,心悦君兮君不知。
大意:今夜はなんという夜でしょう。川の中で舟遊び。 今日はなんという日でしょう。王子さまと同じ舟。 とんだ田舎娘ですが、どうぞ、お嫌いにならないで。 ああ心が乱れます。王子さまとお会いできるなんて。 山には木が生え、木は枝分かれ。 千々(ちぢ)に乱れる私の、あなたをしたうこの気持ち。 あなたは気づいてないけれど。
参考 中国語版WikiPedia「越人歌」の載せる現代中国語訳(2021年9月30日閲覧):
今晩是怎樣的晩上啊在河中漫游。今天是什麼日子啊與王子同舟。 深蒙厚愛啊不嫌我粗鄙。 心緒紛亂不止啊能結識王子。 山上有樹木啊樹木有丫枝,心中喜歡你啊你卻不知此事。

○紹興をめぐる略年表  古代の越国の首都は、現在の中華人民共和国浙江省紹興市越城区にあった。
 紹興という地名は12世紀からで、それ以前は「会稽」や「越」などと呼ばれていた。  
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