成都は中国の奥地、長江上流の四川盆地にある大都会です。5千年前の古蜀(しょく)文明が栄え、三国志の劉備や諸葛孔明が「蜀漢」を建国し、唐の安史の乱で玄宗や杜甫が避難先とした成都一帯は、なぜ「蜀」、つまり目玉の大きな虫と呼ばれたのか。謎とロマンに満ちたその歴史を、豊富な図版を使い、わかりやすく解説します。(講師・記)
2022/9/10 土曜 10:30〜12:00 教室・オンライン同時開催 |
雑言古詩「蜀道難」 噫吁戲危乎高哉 噫吁戲(ああ)危ふきかな高きかな 蜀道之難難于上青天 蜀道の難きは青天に上るよりも難し 蚕叢及魚鳧 蚕叢(さんそう)及び魚鳧(ぎょふ) 開国何茫然 開国 何ぞ茫然たる 爾来四万八千歳 爾来四万八千歳 不与秦塞通人煙 秦塞と人煙を通ぜず (以下、略) |
成都市 友好都市 成都市(中華人民共和国四川省)
1984年(昭和59年)9月27日提携
成都市は、四川料理とパンダの生息地で有名な中国四川省の省都で、成都平原にあり、北京の南西約1,800キロメートルの位置にある。
気候は温暖で雨量も多く年間降水量は約1,000ミリ。土地は肥沃で産物も豊富にあるので昔から「天府の国」と称した。夏も酷暑という暑さではなく、冬は降雪凍結ともに少なく、年間平均気温は20℃前後。
成都市の歴史は悠久で、約1,800年前、蜀の王開明第9世がこの地を領した【加藤徹の注――「開明第9世」は開明尚を指すと思われるが、2千数百年前の人物である。】。漢代には生糸で作った錦織(蜀錦)が発達し、「錦城」と呼ばれていた。三国時代には、劉備玄徳がここに蜀漢を建国、諸葛孔明が活躍した。近年、中心部では急速に都市化が進んでおり、四川省の経済の中心となっている。
せいと【成都】
中国、四川省の省都。四川盆地西部に位置し、中国南西部の交通の要衝を占める。三国時代の蜀漢の都以来、しばしば独立政権の根拠地となった。蜀錦(しょくきん)と呼ばれる絹織物でも知られる。
参考記事 「三星堆遺跡で過去最大の神獣が出土 中国・四川省」2022年8/28(日) 11:12配信 https://news.yahoo.co.jp/articles/f8f99a730fb0f73251d7b5252c64522504cbda99 【8月28日 CGTN Japanese】中国南西部の四川省にある三星堆(さんせいたい)遺跡(紀元前1600〜紀元前1046年)の8号坑で、新たな青銅器「大型立人神獣」が出土しました。 この神獣は長さと高さがいずれも1メートルほどで、これまで三星堆から出土した動物型青銅器のうち最も大きいということです。犬をほうふつとさせる奇妙な姿をしていて、長い耳と大きな口を持っています。背中には一人の人間が真っすぐに立っていて、典型的な「三星堆の仮面」をつけているような姿となっています。 紹介によりますと、三星堆で1986年の1回目の発掘から現在までに出土した神獣は高さ20〜30センチの小柄のものがほとんどで、1メートルのサイズの神獣が出土するのは非常に珍しいということです。 |
蜀王には名前がついている。初代が蚕叢で、次は柏灌、その次は魚鳧だ。三代で約1500年ほどがたつ。このうち柏灌の名は、この風土に扶桑信仰に続いて柏樹信仰があったこと、それらが「建木神話」を担っていたことを物語る。 魚鳧という名は、この時代になって蜀や巴で鵜飼がさかんになっていただろうことを想定させる。だいたい中国で鵜飼が有名なのが四川なのである。宋の沈括の『夢渓筆談』にも、四川の水辺にいる者たちの多くが鵜飼をしていた、鵜は川辺の樹上に群棲するのでその糞尿で樹木が霜雪のように枯れる、それを蜀水華と言うのだと書いてある。 三星堆からも鵜を象った青銅製の鳥がかなり多く出土した。この金属技能はもともと巴人がもっていたもので、それを甘粛の斉家文化→寺窪文化というプロセスをへて戈人の漁労集団が獲得したものだったろう。 (中略) つまりは、こういうことらしい。古代巴蜀の建国伝説は太古においてすでに養蚕・柏樹信仰・鵜飼・太陽伝説・霊亀観念・聖石崇拝をもっていて、そこに稲作が入ってきた。これが黄河文明には見られない独特の長江文明の母型をつくりあげた。こういうことだが、そうだとすると、四川の長江はナイル・インダス以上の古代文明の母型だったということだ。 これらをさらに特色づけたのは三国時代以降の五斗米道が四川に流入したことだ。そこにはおそらく濃密なタオイズムが脈動した。初期道教だ。そもそも諸葛孔明が天下三分の計をなす前に四川の蜀に目をつけたのは劉焉だった。そこに張陵や張魯の五斗米道が広がりつつあった。曹操が漢中を破ったので、張魯は巴中に逃れていたのだ。 この初期道教を伴う思潮と習慣が長江を下って、呉巫や越巫のほうへ降りていったのだろう。蜀から来た李寛は呉に来ても蜀人の方言を使い、水に呪いをかけて病気を治した。古代巴蜀文化はこうして長江を下っていったのである。センセイ曰く、「蓋し巴蜀は百川を入れる大湖にして、百川を出だす大湖である」。 |
吉川英治の小説『三国志』赤壁の巻より引用。西暦208年の赤壁の戦いの直前、若き日の諸葛孔明が、劉備にむかって「天下三分の計」を披瀝する場面。
https://www.aozora.gr.jp/cards/001562/files/52415_51066.html
「――こうみてまいると、いまや天下は、曹操と孫権とに二分されて、南北いずれへも驥足(きそく)を伸ばすことができないように考えられますが……しかしです……唯ここにまだ両者の勢力のいずれにも属していない所があります。それがこの荊州(けいしゅう)です。また、益州(えきしゅう)です」 「おお」 「荊州の地たるや、まことに、武を養い、文を興すに足ります。(中略)――益州(四川省)はどうかといえば、要害堅固で、長江の深流、万山のふところには、沃野(よくや)広く、ここも将来を約されている地方ですが、国主劉璋(りゅうしょう)は、至って時代にくらく、性質もよくありません。妖教跋扈(ばっこ)し、人民は悪政にうめき、みな明君の出現を渇望しております。――さあ、ここです。この荊州に起り、益州を討ち、両州を跨有(こゆう)して、天下に臨まんか、初めて、曹操とも対立することができましょう。呉とも和戦両様の構えで外交することが可能です。――さらに、竿頭(かんとう)一歩、漢室の復興という希望も、はや、痴人(ちじん)の夢ではありません。その実現を期することができる……と、私は信じまする」 孔明は、細論して余すところなかった。かくその抱負を人に語ったのは、おそらく今日が初めてであろう。 |
七言絶句「上皇西巡南京歌」其四 李白 誰道君王行路難 誰か道ふ 君王 行路 難しと 六龍西幸万人歓 六龍(りくりょう)西幸して 万人 歓ぶ 地転錦江成渭水 地は転じ 錦江 渭水と成り 天迴玉塁作長安 天は廻り 玉塁 長安と作る shuí dào jūn wáng xíng lù nán liù(k) lóng xī xìng wàn rén huān dì zhuǎn jǐn jiāng chéng wèi shuǐ tiān huí yù(k) lěi zuò cháng ān |
五言絶句「絶句」其二 杜甫 江碧鳥逾白 江 碧にして 鳥 逾〻白く 山青花欲然 山 青くして 花 然えんと欲す 今春看又過 今春 看〻又過ぐ 何日是帰年 何れの日か 是れ帰年ならん jiāng bì(k) niǎo yú bó(k) shān qīng huā yù(k) rán jīn chūn kàn yòu guò hé rì(t) shì guī nián |
五言律詩「春夜喜雨」 好雨知時節 好雨 時節を知り 当春乃発生 春に当って 乃ち発生す 随風潜入夜 風に随って 潜かに夜に入り 潤物細無声 物を潤して 細やかにして 声 無し 野径雲倶黒 野径 雲と倶に黒く 江船火独明 江船 火 独り明らかなり 暁看紅湿処 暁に紅の湿れる処を看れば 花重錦官城 花は錦官城に重からん hǎo yǔ zhī shí jié(t) / dāng chūn nǎi fā(t) shēng suí fēng qián rù(p) yè / rùn wù(t) xì wú shēng yě jìng yún jū hēi(k) / jiāng chuán huǒ dú(k) míng xiǎo kān hóng shī(t) chù / huā zhòng jǐn guān chéng |
成都市は、三国志で有名な蜀の文化を現代に伝え、物産の豊かさから「天府の国」と呼ばれています。面積約14.3㎢(九州の約1/3)、人口は約1,600万人です。中国内陸部最大の都市で、大型ビルや商業施設が建ち並び、中央政府もハイテク産業基地、商業・貿易物流センターならびに総合交通拠点など、重要な都市に位置づけています。新しい市街地「天府新区」の建設など、古い三国志文化と新しい中国がほどよく溶け合った、日本人にとっても馴染みやすい近代都市です。 2019年の経済はGDP約1兆7,000億元と全国で第7位でした。また、近年は一帯一路発展戦略の重要拠点の一つ、物流・交通の要衝として中国とヨーロッパを繋ぐ窓口に変貌しようとしています。また2019年には安倍総理も成都を訪問するなど、日本の注目度も年々高まっています。 観光やグルメも沢山の魅力があります。パンダと麻婆豆腐は日本でも知らない人はいないでしょう。この他にも、三国志の諸葛孔明を奉った武侯祠、唐代の有名詩人が住んだ杜甫草堂など日本人にも馴染みのある観光スポットに加え、多くの世界遺産(九寨溝、峨眉山、楽山大仏、都江堰、青城山)があります。 激辛グルメが好きな方には、火鍋(ひなべ)や回鍋肉(ホイコーロー)、担々麺なども手軽に楽しんでいただけます。(もちろん辛くない四川料理もたくさんありますし、本格的な日本料理店だってあります。) |
6.中国の古代青銅器への適用
1991年から2000年にかけて東京国立文化財研究所で共同研究を行った中国社会科学院の金正耀(2006年より中国科学技術大学へ移る)は,中国古代の青銅資料を系統的に分析し,以下の諸点を見出した。
まず,夏王朝(B.C.2090年〜B、C.1600年)には,遼寧省や山東省から中原地域にかけての幅広い範囲から集められた青銅原料が使用されていたとみられる。
中国四川省の三星堆遺跡(B.C.2000年頃もしくは以前)や,商代(B.C.1600年〜B.C.1046年)遺跡の値氏商城・鄭州商城(商代早期),鄭州二里岡害蔵・湖北省盤龍城(商代中期),安陽股嘘・江西省新干大型墓(商代後期)から出土する青銅資料は,特異な鉛同位体比(金正耀はこれを「高放射性起源鉛」とよぶ)を示す(金:2001a)。ただしそれはほんの数百年間で検出されなくなり,周代の遺跡ではほとんど姿を消してしまう。
この結果について,金(2001b,2001c,2001d)は,四川省・貴州省・雲南省の境にある鉱床が原料の産地ではないかと推定している。
これに対し齋藤(2003)は,(以下、省略)
黄河流域を中心とした殷代青銅器とこの長江上流の四川三星堆青銅器とは、ほぼ同じ銅鉱石を使用していたことが判明している」「、現在では三星堆文化の範囲を龍山文化の初期に当るBC2500年前後から殷王朝末期のBC1000年前後の、略1500年間に措定している。その中で特に青銅器は、一般的に殷代中期頃と言われている。しかし、どうも殷代末期から西周時代まで下るように思われるし、形態が人面中心と言う特殊性は有っても、デザイン的青銅鋳造技術は何か河北(殷)よりも劣っている(特にキャストの複雑性に於いて、但し薄く作る技術はすばらしい)ように思われるのは、小生の偏見であろうか。