紀元前403年から前221年までの中国の戦国時代は、国どうしが「富国強兵」「合従連衡」でしのぎを削った乱世で、漢文の故事成語の宝庫です。七大強国「戦国の七雄」こと韓・魏・趙・斉・燕・楚・秦は覇をきそいました。今回はそのうち4カ国を取り上げます。特に南の楚と東北の燕は、倭人(日本人の祖先)にも大きな影響を与えました。各国の興亡を、豊富な図版を使いながら予備知識のないかたにもわかりやすく解説します。(講師・記)引用終了
楚(春秋戦国時代) そ
中国、長江(ちょうこう/チャンチヤン)中流域に本拠をもち(都は郢(えい))、春秋戦国時代を通じて、華北の諸国と対立した国。春秋時代には湖北省を勢力圏として河南・安徽(あんき)両省に勢力を伸ばし、戦国時代にかけて湖南を勢力圏に加えていった。春秋中期以後、県の設置を通して地方を掌握し、陳(ちん)、鄭(てい)、宋(そう)など中原(ちゅうげん)諸国や山東の斉(せい)、山西の晋(しん)と対峙(たいじ)した。荘王や霊王(在位前540〜前529)が名高い。春秋後期には、江蘇(こうそ)の呉(ご)やこれを滅ぼした越(えつ)と安徽方面で対立する。頃襄王(けいじょうおう)(在位前296〜261)のとき、諸国が宋を滅ぼしにかかったのに参戦し、また越の本拠を何度もの攻撃でやっと攻略する。しかし、こうして東方計略に足をとられているすきに、前279〜278年の攻撃で秦(しん)に湖北、湖南を奪われ、以後東に都を移した。前223年、秦に滅ぼされた。
[平勢隆郎]
陳勝・呉広 20180723asahi-culture.htmlの出身地は、戦国時代の楚の北辺であった。
項羽(こうう 西楚の覇王) asahi20221013.html#01
劉邦(りゅうほう 前漢の初代皇帝) asahi20200625.html#03
蛇足(だそく)cf.https://www.katch.ne.jp/~kojigai/dasoku.htm
矛盾(むじゅん)cf.https://ja.wikibooks.org/wiki/中学校国語_漢文/矛盾
虎の威を借る狐(とらのいをかるきつね)cf.https://www.katch.ne.jp/~kojigai/toranoiwokarukitune.htm#google_vignette
鳴かず飛ばず(なかずとばず)cf.https://www.katch.ne.jp/~kojigai/nakazutobazu.htm
和氏の璧(かしのへき)cf.https://www.katch.ne.jp/~kojigai/kashinoheki.htm
鼎の軽重を問う(かなえのけいちょうをとう)cf.https://www.katch.ne.jp/~kojigai/kanaenokeityou.htm
橘化して枳となる(たちばなかしてからたちとなる) cf.https://www.katch.ne.jp/~kojigai/tachibana.htm
北行して楚に至る(ほくこうしてそにいたる)cf.https://www.katch.ne.jp/~kojigai/hokukousite.htm
日暮れて途遠し(ひくれてみちとおし)
沐猴にして冠す(もっこうにしてかんす)
四面楚歌(しめんそか)
羹に懲りて膾を吹く(あつものにこりてなますをふく)
巫山の夢(ふざんのゆめ)
魏(中国、戦国時代の国) ぎ
中国、戦国時代の国(前403〜前225)。戦国七雄の一つ。周と同姓の畢公高(ひつこうこう)の子孫畢万が晋(しん)の献公に仕え、魏地を与えられて魏氏となった。 その子孫魏絳(ぎこう)は悼公(とうこう)のとき国政に参与し、しだいに魏氏は晋の六卿(りくけい)の一員として力を伸ばし、韓氏、趙(ちょう)氏とともに、范(はん)、中行、知の3氏を滅ぼし、 紀元前453年魏桓子(ぎかんし)のとき実質上晋を三分し、その孫文侯の代の前403年、周室より諸侯と認められた。 文侯と子の武侯のころは安邑(あんゆう)(山西省夏県)を都として、現在の山西省南西部を中心に、田子方(でんしほう)、呉起(ごき)らの賢者、名将、 さらに相として李克(りこく)や魏成子(ぎせいし)らの人材を登用し 、国力充実、領土拡大に努め、高い文化をもつ強国となった。しかし強大化する秦(しん)の侵攻をしだいに受けるようになり、 前340年には都を東の大梁(たいりょう)(河南省開封県)に移さざるをえなくなり(そのため魏を梁とよぶこともある)、 一時信陵君(しんりょうくん)の活躍で反撃したが、前225年秦の前に滅亡した。
[安倍道子]
韓 かん
中国、戦国時代に山西省南東部から河南省中部にかけての地を領有した国。戦国七雄の一つ。 王室の祖先は春秋時代の山西の大国晋(しん)の一族。晋の勢力圏にあって魏(ぎ)氏、趙(ちょう)氏と並び称された。 韓氏、魏氏、趙氏は、范(はん)氏、中行(ちゅうこう)氏など他の有力世族(せいぞく)をしだいに滅ぼして、その所領と権力を拡大していった。 紀元前451年、晋の最大世族知氏を滅ぼして、晋の領地を三分し、前403年には魏氏、趙氏とともに晋を継ぐ存在として、周から認められた。 韓氏の所領の中心は、春秋末の平陽から、宜陽(ぎよう)、陽?(ようてき)へと移り、前375年には鄭(てい)を滅ぼして、そこに国都を置いた(河南省新鄭)。 前356年、韓の昭釐公(しょうきこう)は申不害(しんふがい)を登用して官僚制を整備し、次の宣惠王(せんけいおう)は王を称するに至った。 しかし、その後は西の秦(しん)、南の楚(そ)に圧迫されて振るわず、しだいに秦の侵攻を受けて前230年に滅ぼされた。 その少し前、秦に使いして殺された韓非(かんぴ)(『韓非子』は彼の著とされる)は、韓の王族である。
[平勢隆郎]
以下、#chugokubungakunosekai.htmlより自己引用。
『史記』にある話。魏の文侯のとき、西門豹が、鄴(ぎょう)という土地の長官になった。西門豹は着任すると、さっそく土地の住民に、何かつらいことはないか、たずねた。土地の老人は答えた。
「河伯という川の神様に、毎年、若い女子を人身御供(ひとみごくう)として捧げる儀式が、たいへんな負担になっており、私どもの貧乏の原因になっております。でも、世間では、もし河伯に妻となるべき女性を捧げないと、河伯が怒って洪水がおき、みんな溺れてしまう、と言われておるので、しかたありません」
「その儀式の時がきたら、私に教えてくれ。私もその儀式に行き、女子を見送ろう」
儀式の日が来た。西門豹は部下を連れて、川のほとりの会場に行った。三老(土地の教化をつかさどる三人の老人)、下役人、豪族、村の顔役たちも参列した。巫女は老女で、女の弟子を十人ほどしたがえていた。女の弟子はみな、豪華な絹のひとえの服をきて、巫女のうしろに立っていた。
西門豹は、いけにえとして用意された娘を呼んで、その顔をのぞきこんで言った。
「美しくないな。巫女どのにお願いして、河伯に伝えていただきたい。もっと美しい女を用意するので、ちょっと待ってほしい、と」
西門豹は、部下に命じて、巫女の体を拘束して、川の中に投げ込ませた。巫女は沈んだまま、浮かんでこなかった。
しばらくして、西門豹は言った。
「らちがあかない。今度は弟子たちにも応援に行ってもらおう」
三人の高弟たちが川に投げ込まれた。
「巫女は女性なので、河伯と交渉できないのだろう。今度は、三老にお願いしよう。川の中に入って、神様と交渉してきてくれ」
三老が川に投げ込まれた。
西門豹は、筆を髪に挿して、腰を「く」の字に折り曲げ、しばらくの間、うやうやしく川に立っていた。
「三老も帰ってこない。では、今度は、役所の属官と、豪族のうち一人に、川の中に入って、神様と交渉してもらうことにしよう」
一同は頭を地面に血がでるほど叩きつけ、命乞いをした。西門豹は言った。
「河伯は、客をずっと留めて返してくれないことがわかった。おまえたちはみな辞職して、立ち去るがいい」
土地の役人や人民はたいへん驚き恐れ、これ以後、河伯が妻をめとるなどという迷信を口にする者は絶えた。
すると西門豹はすぐさま、民を動員して、用水路を十二本つくり、川の水を引いて民の田畑をうるおした。民はみな水利を得て、生活が豊かになった。西門豹の名声は天下に聞こえ、その恩恵は後世にまで及んだ。
商鞅(もとの名は公孫鞅)はもともと魏の法家思想家だったが、魏の恵王に用いられず、秦に行き出世した人物。
魏の宰相だった公叔痤(こうしゅくざ)は、老いて病死する直前、恵王に、自分の食客である公孫鞅を推挙した。恵王は受け入れなかった。 公叔痤は「公孫鞅を用いぬなら、彼が将来、わが国の脅威にならぬよう、今のうちに彼を殺してください」と進言した。恵王は納得した。
公叔痤は次に、商鞅を呼び出し「私は臣下として、王に、お前を殺すよう進言せざるをえなかった。しかし友として、お前に言う。今すぐ他国に逃げよ」と言った。
公孫鞅は「恵王が、私を採用せよというあなたの推薦を採用できぬ人物なら、私を抹殺せよというあなたの進言も採用できないでしょう」と平然としていた。実際、そのとおりになった。
後に公孫鞅は魏を見限って、秦に渡り、宰相となった。魏の恵王は後悔した。
※この公叔痤の話は江戸時代の日本でも有名で、上田秋成『雨月物語』「菊花の約」の最後でも引用されている。
・・・信陵君は、魏へ帰れないので、そのまま趙に留まった。信陵君はある時、二人の「処士」と会談した。二人はそれぞれ、博徒と漿家(味噌屋)にかくまわれていた。平原君は妻(信陵君の姉)にむかって、
「信陵君ともあろう人が、博徒や味噌屋のような連中を相手にするのか」
とあざ笑った。信陵君は怒って
「私は、彼らが賢明であると前から聞いていた。このような交わりを恥とするあなたは、うわべだけの人物のようだ」
と言って趙の国から出て行こうとした。平原君は、あわてて謝罪した。
以後、平原君のところから信陵君のもとにうつる食客が増えた。
燕(春秋戦国時代) えん
中国、春秋戦国時代の国名。周の武王の弟召公奭(しょうこうせき)が薊(けい)(現北京(ペキン)市内)に封ぜられたのに始まるといわれる。 西周、春秋時代の燕に関しては諸書に記録がみられないが、これは異民族の山戎(さんじゅう)によって中原(ちゅうげん)地域との連絡が断たれたためと考えられている。 戦国時代に入っても初期は斉(せい)や趙(ちょう)に圧迫されていたが、紀元前4世紀末、昭王(在位前312〜前279)が即位すると楽毅(がくき)らの賢人名将を招き、 前284年には楽毅の率いる軍が斉軍を破り、斉の都の臨淄(りんし)をはじめ、斉の都市の大部分を占領した。 また、しばしば攻撃を受けた異民族の東胡(とうこ)も撃ち、造陽(ぞうよう)(河北省懐来(かいらい)県)より襄平(じょうへい)(遼陽(りょうよう)市付近)まで長城を築き、 現在の遼寧(りょうねい)、河北両省と朝鮮北部を領有した。 しかし、昭王の死後は、楽毅が退けられたため、斉の地から軍が撤退する結果となり、前3世紀なかば以降は秦(しん)の圧迫を受けることになった。 太子の丹は刺客荊軻(けいか)を秦に送って秦王政(後の始皇帝)の暗殺を謀ったが失敗し、かえって前222年秦に滅ぼされた。
[太田幸男]
昭王は富国強兵のため、優れた人物を招こうとして、学者の郭隗(かく かい)に相談した。 郭隗は答えて言った。
「むかし、ある君主が、1日に千里を走る名馬を求めました。君主は使用人に千金を与え、天下に探し求めさせました。 すると使用人は、死んだ名馬の骨を五百金で買って帰ってきました。君主が怒ると、使用人は 『名馬であれば、死んだ骨でさえ金に糸目をつけずに買う。 この噂が天下に広がれば、生きている名馬ならなおさら高額で買い取ってくれるだろう、と期待する人たちが、むこうから名馬を売り込んできます。お待ちください』 と答えました。果たして、一年もたたないうちに、千里の名馬が三頭もやってきたそうです。
さて、王さまが天下の賢者を招きたいとおぼしめしなら、まず、この私・郭隗からお始めください。 私が優遇されれば、私より優れた人材は、千里の道も遠しとせず、むこうから駆け付けることでしょう」
昭王は郭隗のために邸宅を築いたうえ、郭隗を先生としてうやうやしく師事した。
これを聴いた天下の傑出した人材たちは、われ先に、燕の国にやって来た。魏からは名将の楽毅(がっき)が、斉からは陰陽家の鄒衍(すうえん)が、趙からは政治家の劇辛が燕にやって来て、昭王に仕えた。
易水送別 唐・駱賓王 此の地 燕丹に別る 壮士 髪 冠を衝く 昔時 人 已に没し 今日 水 猶寒し |
えきすいそうべつ とう・らくひんのう このち えんたんにわかる そうし はつ かんむりをつく せきじ ひと すでに ぼっし こんにち みず なお さむし |