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衣食住から見る中国四千年の歴史 ― 日本人との比較

最新の更新 2021年10月24日    最初の公開 2021年9月26日

早稲田大学エクステンションセンター・中野校
【対面+オンラインのハイブリッド】衣食住から見る中国四千年の歴史 ― 日本人との比較
https://www.wuext.waseda.jp/course/detail/53149/
各回の講義予定
(既に終了) 2021年7月 テーマ別に学びなおすと面白い中国四千年の歴史

曜日 火曜日 時間10:30〜12:00
日程 全5回 ・09月28日 〜 10月26日
(日程詳細)09/28, 10/05, 10/12, 10/19, 10/26
目標
・私たちが生きている今の時代がこのようになった理由を考える。
・日本史と中国史という枠組みを取り払い、世界的な視野から東アジアを見直す。
・歴史の予備知識がない人にも、身近なことから考える楽しさを体験してもらう。
講義概要
日本の衣食住は、古来、中国の多大な影響を受けてきました。和服も、米も味噌も茶も、瓦屋根の建築も、和風の文化のルーツは古代の中国大陸です。と同時に、島国である日本の衣食住は、昔も今も中国とは微妙に違います。どこが違うのか、なぜ同じではないのか。そこに着目すると、中国文明の歴史の本質が見えてきます。本講座は、豊富な図版を使い、中国史について予備知識がない初心者のかたにもわかりやすく説明します。

09/28 衣服 中国の漢服と日本の和服
〇今回のポイント
 現代日本人にとって、江戸時代、およびそれ以前の時代は、日本的な伝統の時代である。
 現代中国人にとって、清朝も含めて、過去の時代は必ずしも「中国的」でも「伝統的」でもなかった。
 現代中国人のナショナリズムや伝統観は、屈折している。
 「漢服」と和服の違いも、そこに起因する。
 現代の中国や韓国の若者は、自国にないものを日本がもっていることを羨むことがある。
https://www.youtube.com/playlist?list=PL6QLFvIY3e-kPSy396yjPylS07ICNZy1q

★清朝末期の女性革命家・秋瑾(しゅうきん、1875−1907)が、チャイナドレス(旗袍 チーパオ)を嫌って和服を着用した理由とは? [google 画像検索「秋瑾」]
★日本の落語家は和服を着用するのに、中国の「相声演員」が「漢服」ではなく満洲人の「馬褂(マーグワ/マーグワル)」を着用する理由とは?
★日本では「時代劇」はほとんど「江戸時代劇」なのに、中国の「古装劇」の多くが清朝時代以外である理由は?
〇人類と衣服
 衣服を着る動物はヒトだけである。実用的側面と象徴的側面がある。
 ★衣服の環境適応的側面・・・暑さや寒さ、湿気、風、日差し、その他の外的な刺激から人体を守る機能をもつ。
 ★衣服の社会文化的側面・・・性差や身分、民族、階層を示したり、美意識を体現する。
 ★衣服の運動機能的側面・・・仕事や運動をしやすくする実用的性。
実用的側面と象徴的側面は、しばしば矛盾する。

〇世界の服装の種類 参考 [日本大百科全書(ニッポニカ)の解説 服装 ふくそう]

〇中国人の服装の形は「礼」と結びついている
 現代は洋服。伝統的な衣服は民族差が著しい。
★漢族(漢民族)・・・寛衣型。漢服も和服も、右衽(うじん)=みぎまえが原則。自分からみて左の衽(おくみ)を右の上に重ねる着方。これは、右手を「ふところ」の中に入れやすい。
★夷狄(いてき。非漢民族)・・・窄衣型。胡族や夷狄は、左衽(さじん)=ひだりまえが原則。これは、弓で矢を射るときに便利。日本も、古代の埴輪(はにわ)の服装も左衽だったが、後に漢族の影響で右衽になった。
cf.『論語』憲問篇第十四:子貢曰「管仲非仁者與。桓公殺公子糾、不能死、又相之」。子曰、「管仲相桓公、霸諸侯、一匡天下、民到于今受其賜。微管仲、吾其被髮左衽矣。豈若匹夫匹婦之爲諒也、自經於溝瀆、而莫之知也」。
 管仲なかりせば、われ、それ被髪・左衽せん。
 もし管仲がいなかったら、わたし(孔子)はいまごろ、ざんばら髪に左まえの服装をしていたろう(わが中国はとっくに異民族に征服されていたろう)。

〇被服の材質
 古代の神話・伝説の天子「三皇五帝」
 三皇と五帝の顔ぶれには諸説ある。天皇、地皇、人皇(泰皇)の後世の想像図を見ると、草や葉っぱなどを材料とした、いかにも「原始人」的な被服をまとっているかのように描かれている。これに対して「五帝」は植物繊維を織りなした衣服をまとう文明人として描かれている。

動物系
 その他、漢民族は古来、世界的に見ても、動物由来の素材を被服に使うことにたけていた。
植物系

〇和服と「漢服」
 レトロニム(英語: retronym)は「再命名」の意。
 「和服」は、洋服が普及した明治時代以降に洋服の対概念としてできた、新しい概念であり、レトロニムの一種である。
 「漢服」はさらに新しく、21世紀に入ってから始まった「漢服復興運動」で提唱された概念で、洋服だけでなく、和服や「チャイナドレス(中国語では「旗袍」)」などと対になるレトロニムである。
「華夷変態」・・・1644年、最後の漢民族的王朝である明王朝が滅び、満洲系の清王朝に取ってかわられたことを指す。出典は、江戸時代の儒学者である林春勝(林鵞峰)と林信篤(林鳳岡)の父子が1732年に編纂した本の書名。
「西洋の衝撃」・・・Western Impactのこと。近代西洋が圧倒的な軍事力・科学力・経済力で、アジア・アフリカその他の地域を席巻したことを指す。中国は1840年に勃発したアヘン戦争、日本は1853年の黒船が象徴的な事件であった。
〇京劇は「中華世界の動く美術館」 < 漢文教育研修会 教養講座・第2日「京劇」
 京劇が成立した清朝時代は「華夷変態」後の時代であり、漢民族本来の伝統的な服飾文化や衣冠の礼制は演劇の世界の中でのみ、かろうじて保たれていた。
 現代人の起居座臥の動きや礼儀作法は西洋の影響が強い。京劇の舞台上では、演劇的に誇張されてはいるが、中国本来の古雅な美意識と礼儀作法が貫いている。
 例えば『論語』に何度も出てくる「趨」の足さばきは、現代中国人は行わないが、京劇の舞台上では「円場」の足さばきとして今も常用されている。

〇朝鮮民族の「小中華」意識と「漢服」
 李海応『薊山紀程』十四日 (1803年)の漢詩
清簟楼台絳帳垂 セイタンのロウダイ、コウチョウたる。
城南大路匝胡児 ジョウナンのおおじにコジめぐる。
王風委地求諸野 オウフウはチにすてられ、これをヤにもとむれば、
礼楽衣冠尽在斯 レイガクとイカンとは、ことごとくここにあり。
 清代、北京に派遣された朝鮮国の使節団の一員が、中国の町で詠んだ漢詩。
 大意は――清王朝が統治している今の中国は、もはや本当の中国ではない。今の中国では、民間人も役人も、髪は屈辱的な辮髪を強要され、服装も異民族風である。わが朝鮮国(李氏朝鮮)の官服が、明王朝までの中華風であるのとは大違いだ。中国本土では、いにしえの中華の伝統文化はすたれ、地に落ちた。だが、それがかろうじて残っている例外的な場所がある。中国の町の南の大路、辮髪をした連中がむらがって見物している芝居の舞台。いにしえの中華の礼楽や衣冠は、タイムカプセルのように、すべて芝居の舞台上に保存されている。

坂口安吾『日本文化私観』より引用。
https://www.aozora.gr.jp/cards/001095/files/42625_21289.html
 僕達は五六名の舞妓を伴って東山ダンスホールへ行った。深夜の十二時に近い時刻であった。 舞妓の一人が、そこのダンサーに好きなのがいるのだそうで、その人と踊りたいと言いだしたからだ。 ダンスホールは東山の中腹にあって、人里を離れ、東京の踊り場よりは遥に綺麗だ。満員の盛況だったが、 このとき僕が驚いたのは、座敷でベチャクチャ喋っていたり踊っていたりしたのでは一向に見栄えのしなかった舞妓達が、 ダンスホールの群集にまじると、群を圧し、堂々と光彩を放って目立つのである。 つまり、舞妓の独特のキモノ、だらりの帯が、洋服の男を圧し、夜会服の踊り子を圧し、 西洋人もてんで見栄えがしなくなる。成程、伝統あるものには独自の威力があるものだ、と、いささか感服したのであった。
参考 内部リンク

10/05 住居 「家」が屋根の下に豚である理由
〇今回のポイント
・中国人の「家」は中国人の精神構造を可視化したものである。
・家具の配置や使い方のコンセプトは、日本人と違う。
・庶民の住宅から皇帝の宮城まで、自己相同性が通底している。
YouTube https://www.youtube.com/playlist?list=PL6QLFvIY3e-l9qt43YZ5KHimvc2zpdHX_

〇漢字「家」の字源説
 家という漢字は、殷王朝の武丁期(紀元前13世紀後半-12世紀初頭ごろ)の甲骨文字の時代までさかのぼることができる。
 通説によると、「宀」(屋根)+「豕」(ぶた)の会意文字で、生活を行う建物。
 後漢の許慎(58年? - 147年?)による、最古の部首別漢字字典『説文解字』には「家、居也。従宀、豭省声」とある。 家という漢字は住居の意味で、部首はウカンムリで、発音はオスのブタを意味する「豭」(音読みはカ)であり、「豕」は「省声」つまり「形声文字の声符の筆画を省略したもの」、と解釈する。
 許慎の時代には未発見だったが、近現代に出土して再発見された甲骨文字の「家」にあたる文字を見ると、ウカンムリの下にはペニスを描いたブタと、 ペニスを描いていないブタ(性別不問)の2種類の甲骨文字があり、許慎の説を補強する。
 白川静の説によると、「豕」はブタではなく生贄の犬で、建物を建てる際に犠牲を捧げたことによる。
【豆知識】(問)ウカンムリの下にブタだと快適な家になるのに、ウシだとなぜ不自由な「牢」になるのか?
(答)「牢」のウカンムリにあたる部分は、甲骨文字までさかのぼると屋根ではなくて「柵」を描いたものだったから。
参考 https://asia-allinone.blogspot.com/2010/05/blog-post_22.html

〇中国人は「四角フェチ」
・漢字は四角形が多い。国、囲、固、・・・
・「品行方正」「天円地方」・・・方形(正方形、長方形)は美しい。
・麻雀卓、四合院、「東夷西戎南蛮北狄」、四海、・・・
・漢詩も、中国共産党のスローガンも、漢字の配列はきれいな四角形でまとめたがる。
・個人の居宅も、都市の城郭も、四角形。

〇中国人の家の「周壁」的性格
・国は万里の長城で、都市は城壁で、家は壁で、心も「周壁」をめぐらす。
・日本家屋は木造軸組構造と真壁(しんかべ)、中国家屋は大壁(おおかべ)構造
・山口淑子(李香蘭)が最初に日本の旅館に泊まったときの恐怖感。「匪賊が来たらどうするの?」。『李香蘭 私の半生』参照

〇日本人の居宅の「劇場」的性格
・中国人は固定式ベッド、日本人はふとん
・中国人はテーブル、日本人はお膳とちゃぶ台
・中国人のベッドは部屋のすみ、日本人のふとんは部屋の中心

○中国の宮殿建築と日本の貴族の寝殿造りの違い
太田静六『寝殿造の研究』(吉川弘文館、1987年)よると、日本でも奈良時代までは中国風の建築が主流だったが、平安時代からは以下のように変化した。
  1. 中国風の土間式から、日本風の床(字面から上に離れて、床下の空間がある)へ。
  2. 中国風の瓦葺から、日本風の檜皮葺へ。
  3. 中国風の丹土塗から、日本風の白木造へ。
  4. 中国風の「屋内でも土足」から、日本風の「屋内へは履物を脱いで上る」へ。
  5. 中国風の寝台(ベッド)から、日本風の畳の上に直接、ふとんをしいて寝る方式へ。
  6. 中国風の椅子から、日本風の座り方へ。
  7. 中国風の密閉式、日本風の全面開放式へ。
  8. 中国風の閉鎖主義的な個室本位から、日本風の開放的な大部屋式へ。
 これらは後世の日本風の「家」の特徴でもある。

○中国建築の歴史と特徴
参考 https://kotobank.jp/word/中国建築-97183

〇イエとウチの感覚は日中共通
 物理的なイエと、心理的なウチ。
 日本の「浅野藩」と「浅野家家中」。
 宋の武将・岳飛の「岳家軍」とか、馬俊仁にちなむスポーツの「馬家軍」。日本映画では「零戦黒雲一家 (ぜろせんくろくもいっか)」とか「小津組」とか。

〇日本人と中国人の「縄張り意識」の違い。
・住居の面積の考え方の違い。
 以下、http://t-china.info/1540より引用。引用開始。
 中国の商品房(分譲住宅)に関する面積は、「商品房銷售計算および公用建築面積分灘規則」(1995年12月施行)という規則に規定されています。
 中国の分譲マンションの房屋産権登記証(不動産登記証明)に記載されているのは建築面積というものです。不動産売買の契約書にも、この建築面積が記載されます。上記の規則に則ると、中国の建築面積は次のとおりです。
 商品房(分譲住宅)の建築面積=室内建築面積+分配される共有建築面積
 この室内建築面積には、具体的に何が入っているのでしょうか? この規則によると、室内の面積(バルコニー含む)と室内の壁の部分(部屋を区分けする壁)です。
 もうひとつの分配される共有建築面積には、マンションのエントランス部分、共有廊下、エレベーターホール、階段、公共トイレ、エレベーター部分、ゴミ置き場、消防コントロール室、配電室、ポンプ室、警備員の待合室など。個人の所有が特定される駐車場などは除かれます。
(中略)
 中国の建築面積と日本の専有面積はまったく異なる面積であり、この2つを比べることはできません。
・埼玉県川口市の芝園団地
 住民の半分強が中国人になった団地。
 「家」に関する意識の違いも、日本人住民と中国人住民の「見えない壁」の一因に。
参考 中島恵[中国人の街・川口で広がる「日本人との距離」 芝園団地の人々は何を考えているのか]
 大島隆[芝園団地に住んでいます 記者が住民として見た、「静かな分断」と共生]
cf.ネットの記事 長さ1km越・日本四大防壁団地

10/12 喫茶 抹茶が滅んだ中国と生き残った日本
〇今回のポイント
YouTube https://www.youtube.com/playlist?list=PL6QLFvIY3e-n6ZBFRTp-jCgwd6EoG35Ux
○中国の茶と日本の茶の違い
〇茶の種類
★原材料による分類
 狭義の茶:チャノキの葉や茎を材料として加工した飲み物。
 広義の茶:いろいろな材料から作った飲み物。例:柿の葉茶
★加工方法による分類
 陸羽(733年? - 804年)『茶経』による分類
觕茶(そちゃ)、散茶、末茶、餅茶(へいちゃ)
 觕は「粗」の意味。くず茶。ただし日本語の「粗茶」とは意味が違う。
 散茶は、茶葉のままの形のお茶。参考 http://www.tea-jp.com/tea/6-tea/black/sancha/
 末茶は「抹茶」。日本では今も残っているが、中国では明(みん)の時代に衰滅。
 餅茶は、粉にして練り固めた茶。中国語「餅」は、日本語の「モチ」とは意味が違う。
 現代日本人が「茶」と言うと、散茶と抹茶を指す。現代中国では、散茶と餅茶が主流。
 餅茶には、磚茶(たんちゃ。磚はレンガの意)、団茶(だんちゃ。団は円いの意)などがある。プーアル茶は今も団茶として飲むことが多い。

★現代の中国茶の分類
 茶葉の加工の度合いや色により「緑茶、白茶、黄茶、青茶、紅茶、黒茶」の六つに分類する。庶民生活では「花茶」(ジャスミンティー。茉莉花茶)や「烏龍茶」(ウーロン茶)、「普洱茶」(プーアル茶)のような言い方が普通。
  1. 緑茶
     不発酵茶。現代日本では主流。中国の緑茶は日本と製法が違うので味わいが異なる。「龍井」(ロンジン)が有名。中国のペットボトルの「緑茶」は砂糖が入っていることがあるので要注意。
  2. 白茶
     弱発酵茶。希少。
  3. 黄茶
     弱後発酵茶。
  4. 青茶
     半発酵茶。ウーロン茶など。中国語の「青」はブルーではなく、黒みがかった色。現代中国で最も普及しているのは、この系統の茶である。
  5. 紅茶
     完全発酵茶(全発酵茶)。
  6. 黒茶
     後発酵茶。雲南省のプーアル茶が有名。
 日本でも有名なジャスミンティー(花茶、茉莉花茶)は、上記の各種の茶葉にジャスミンの花を混ぜたものの総称。「菊花茶」はハーブティーのような飲み物で「茶外茶」の一種。
 この他、産地による分類に「中国十大銘茶」がある。

〇中国茶の歴史
★喫茶の歴史は前漢から
 孔子は(おそらく)茶を知らなかった。
 茶は当初、南方のローカルな飲み物だった。原産地は不明で、
四川・雲南説(長江及びメコン川上流)
中国東部・東南部説
 がある。原産地と黙される雲南省や福建省は、今も中国茶の製茶の中心地。
 文献記録では、「茶」の存在は、
中国最古の辞書である『爾雅』(じが)。紀元前2世紀ごろ
前漢の王褒の文章「僮約」
 などから確認できる。当初は四川省のローカルな飲み物で、現代と違い、いろいろな物を混ぜて飲んでいたらしい。
 創作物の「三国志」では、よく茶を飲むシーンが出てくるが、これはあくまでも創作である。例:吉川英治の小説『三国志』、中国映画『レッドクリフ Part II -未来への最終決戦-』(原題: 赤壁。前編2008年、後編2009年)、他。
吉川英治『三国志』小説本編の冒頭部より
「茶を」
 役人は眼をみはった。
 彼らはまだ茶の味を知らなかった。茶という物は、瀕死の病人に与えるか、よほどな貴人でなければのまないからだった。それほど高価でもあり貴重に思われていた。
「誰にのませるのだ。重病人でもかかえているのか」
「病人ではございませんが、生来、私の母の大好物は茶でございます。貧乏なので、めったに買ってやることもできませんが、一両年稼いでためた小費もあるので、こんどの旅の土産には、買って戻ろうと考えたものですから」
(中略)
「おまえ茶をのんだことがあるのかね。地方の衆が何か葉を煮てのんでいるが、あれは茶ではないよ」
「はい。その、ほんとの茶を頒(わ)けていただきたいのです」
 彼の声は、懸命だった。
 茶がいかに貴重か、高価か、また地方にもまだない物かは、彼もよくわきまえていた。
 その種子は、遠い熱帯の異国からわずかにもたらされて、周の代にようやく宮廷の秘用にたしなまれ、漢帝の代々(よよ)になっても、後宮の茶園に少し摘まれる物と、民間のごく貴人の所有地にまれに栽培されたくらいなものだとも聞いている。
 また別な説には、一日に百草を嘗めつつ人間に食物を教えた神農はたびたび毒草にあたったが、茶を得てからこれを噛むとたちまち毒をけしたので、以来、秘愛せられたとも伝えられている。
 いずれにしろ、劉備の身分でそれを求めることの無謀は、よく知っていた。
 ――だが、彼の懸命な面(おももち)と、真面目に、欲するわけを話す態度を見ると、洛陽の商人も、やや心を動かされたとみえて、
「では少し頒けてあげてもよいが、お前さん、失礼だが、その代価をお持ちかね?」と訊いた。
(以下略)
 南北朝時代(439年−589年)でも、茶は北魏で「酪奴」(らくど)と呼ばれる(出典は『洛陽伽藍記』の北魏の高祖と王粛の会話)など、まだ南中国の飲み物だった。

★唐の時代からメジャーな飲み物に
 日本に茶が伝わったのも、遣唐使の時代である。
 唐の時代に、茶は品格のある飲み物として広まった。李や杜甫、白居易などの詩人はよく酒を飲んだが、茶についても少しだけ漢詩に詠んでいる。
 李白(701年−762年)の長編漢詩『答族侄僧中孚贈玉泉仙人掌茶並序』
 杜甫(712年−770年)の連作漢詩『重過何氏五首之三』の「落日平台上、春風啜茗時」
 陸羽(733年?−804年)が書いた『茶経』は、日本の茶道にとっても出発点となる重要な書物である。
 白居易(772年−846年)の五言絶句。
   山泉煎茶有懐  山泉にて茶を煎て懐い有り  白居易
  坐酌泠泠水   坐して酌む 泠泠の水
  看煎瑟瑟塵   看て煎る 瑟瑟の塵
  無由持一碗   一碗を持して
  寄与愛茶人   茶を愛する人に寄せ与うるに由無し
 山の中の泉で煎茶を楽しみながら思ったこと。透き通った冷たい山の水をくんで茶を点てると、緑色の細かい泡がふつふつと見える。残念だな、都会に住む茶の愛好家に、この至福の一杯を飲んでもらう方法がないとは。
 禅の高僧・趙州従諗(じょうしゅう じゅうしん 778年 - 897年)の禅語「喫茶去(きっさこ)」は日本でも有名。
 cf.薬師寺寛邦の僧侶ボーカルプロジェクト「キッサコ」の名前の由来は「喫茶去」。
 唐代の進士・王敖(おうごう)が書いた文章『茶酒論』は、いわゆる「敦煌文献(とんこうぶんけん)」の1つであるが、茶と酒を擬人化して対論させる戯作的な文章だが、唐代の中国人にとって茶の薬理効果がアルコールに匹敵する作用をもっていたことを示すなど、貴重な文献。

★茶文化の普及は千年前の宋代から
 宋の時代、皇帝から庶民まで喫茶の文化が普及。皇帝は超高級な茶を、庶民は安価な茶を楽しんだ。
 茶にはタバコや酒に匹敵する中毒性がある。宋は榷茶法 (かくちゃほう) という茶の専売制を行った。
 宋代から「茶馬貿易」開始。北や西の遊牧系異民族には西辺の甲状軟骨肥大の風土病があったが、茶を飲めば予防でき、また茶の中毒性に対する免疫性もなく、チャノキは乾燥地帯では栽培できなかった。
 日本へは、栄西が臨済宗の禅とともに南宋の茶文化を持ち帰った。現代の日本の茶文化の起源。
 cf.羅漢供茶(らかんきょうちゃ。中国の簡体字では“罗汉供茶”):21世紀に復元された幻の茶藝。
  日本の天台宗の僧侶・成尋(じょうじん 1011年−1081年)は1072年、北宋へ渡り、天台山や五台山など智者大師ゆかりの諸寺を巡礼したが、彼の著書『参天台五台山記』にも羅漢供茶についての記述がある。
  日本の禅僧・道元(1200年-1253年)は南宋の時代に天台山に渡り、日本の永平寺(福井県)に羅漢供茶の儀式を持ち帰った。
  参考 「佛天雨露 罗汉供茶」 「百度「罗汉供茶」検索結果

★明の太祖・朱元璋が抹茶を禁止
 モンゴルの支配を打ち破り江南地方から明王朝を興した農民出身の朱元璋は、重農主義的政策を行い、高価な抹茶を禁止した。保存性に優れた半発酵茶が普及しはじめる。

★清の茶とアヘン戦争
 清朝のモンゴル支配の道具の1つが「茶」だった。モンゴル式の茶はモンゴル語では「ツァイ」、中国語では「蒙古奶茶」と呼ばれる。この他に「バター茶」(中国語では「酥油茶」)もあった。
 司馬遼太郎『ロシアについて』(文春文庫、1989年)に、清国の漢民族系商人は高利貸となりモンゴル人に紙より安い茶を高価に売りつけ、モンゴル人を困窮化した、とある。
 西洋人は当初、日本の茶文化に触れたが、後に中国茶のほうが世界に普及した。
 英国は、清から茶、陶磁器、絹などを大量に輸入し、大赤字だった。英国は清にアヘンを輸出した。これがアヘン戦争(1840年勃発)の原因である。

〇その他
★毛沢東と茶
 農民出身の毛沢東は、歯磨きの習慣がなく、起床後はお茶で口をゆすいでそのまま飲み干し、お茶の葉を噛んだ。
★茶樹王
 茶の原産地の一つと目される雲南省に自生する巨大な茶の木のこと。複数ある。
★武夷岩茶
 ウーロン茶の一種で、福建省の武夷山の岩肌に生育するチャノキの茶。高級。
★国宴茶

 

酒礼 孔子も李白もお酒好き
〇今回のポイント
・中国史の「禁酒令」は長続きしたためしはない。
・儒教も道教も禁酒はしない。
・「乾杯合戦」は今は流行らない。
YouTube https://www.youtube.com/playlist?list=PL6QLFvIY3e-lyI5wMs_hKYLhQZ3BbcDxq
〇酒の種類
(1)醸造酒:原料をそのまま、もしくは原料を糖化させたものを発酵させた酒。
 (1a)単発酵酒:糖分を含む原料を造る酒。西洋のワインなど。
 (1b)複発酵酒:穀物などデンプン質の原料を糖化させたあと発酵させて造る酒。ビールや、中国の黄酒、日本の清酒など。
(2)蒸留酒:醸造酒を蒸留してアルコール分を高めて造る強い酒。ウイスキーや、中国の白酒、日本の焼酎など。
。 (3)混成酒:酒に他の原料を加えて造った酒。楊貴妃が愛飲したとされる桂花陳酒や、蛇酒などの薬酒、日本の梅酒など。

 ロバート・テンプル著、牛山輝代訳『改訂新版 図説 中国の科学と文明』(河出書房新社、2008年改訂新版初版)の「第4章 日常生活と工業技術」に「強いビール(酒)」が立項されていることからわかるように、中国の醸造酒の技術は高かった。
 西洋のビールや古代中国の酒は「単行複発酵酒」であり、糖化の過程のあとにアルコール発酵を施すため、アルコール度数が低い。
 中国の黄酒や日本の清酒は、糖化とアルコール発酵を同時に行う「並行複発酵酒」で、西洋のビールよりアルコール度数はずっと高くなる。

〇中国の酒の歴史 〇中国の乾杯
 中国の酒宴の「乾杯合戦」では、「乾杯!」のかけ声とともに、アルコール度数の高い蒸留酒「白酒」を、乾杯用の小さいグラス「小酒杯」に注ぎ合う。乾杯ののち、相手に向けて杯を傾け底を見せ、飲み干したことを示す。ただし「乾杯!」の直後に「随意(スイイー)」という宣言があれば、飲み干さなくてよい。
 近年は健康志向から、乾杯にワインやビールを行うことが増え、また乾杯合戦も時代遅れになっている。
 乾杯の時は、自分のグラスを相手のグラスのどの高さにカチンとあわせるかで、相手との格付けが決まる。そのため、周恩来もケ小平も、中国政府の要人は外国の来賓との乾杯のとき、グラスの高さが相手より低くなりすぎないように(相手のグラスより1センチていど下がのぞましい)全神経を集中する。
 日中国交正常化交渉の時、周恩来と田中角栄の乾杯の瞬間の記録映像を見ると、周恩来が全神経を集中して田中角栄のグラスの高さに照準を合わせてグラスを差し出したのに対して、田中は日本式に自分で自分の杯を額におしあて拝むようにして乾杯し、完全にすれちがっていた(ちゃんとグラスを合わせた乾杯も行った)。
cf.https://jaa2100.org/entry/detail/044663.html


料理 中国にない日本の中華料理
○ポイント
YouTube https://www.youtube.com/playlist?list=PL6QLFvIY3e-mctORsIOVR-0KfqUS-1WW1
○司馬遼太郎の中国観 「聖人」とは全ての人に飯を食わせられる人のこと。
 司馬遼太郎の小説『項羽と劉邦』のテーマ
 項窒ヘ戦闘には勝つが戦争に負けた。その理由を、太平洋戦争での日本の敗戦体験を背負っていた司馬遼太郎が描いた小説。
 漢の劉邦は、部下の蕭何が食糧補給に対して常に注意を払った。また劉邦は有能な人材を適材適所で配置した。
 楚の項羽は武勇に秀でいたが、補給を軽んじ、公正な論功行賞ができず人材の収集に失敗し、孤立して敗北した。

○食事はステイタスでもあった。
 満漢全席や千叟宴(せんそうえん)などは、もともと皇帝の威徳を天下に示す演出であった。
 以下、賈寢栫u北京の宮廷料理と博物館についての一考察」(立命館大学社会システム研究所『社会システム研究 (2015 特集号)』, 157-169, 2015-07)より引用。
(引用開始)「千叟宴」とは,清朝の宮廷宴会に六,七十歳以上のお年寄りを招待することである.形式上は敬老であるが,目的は人心の篭絡である.
 千叟宴は中国の歴史上 4 回しか行われていない.共に清朝の宮廷で行われ,中国の宮廷史上最も規模が大きく,最も人数の多い宴会である.1713年の康熙の60歳誕生日の千叟宴は参加者2,800人, 皇室の親戚と宮中の側近を加え,食卓が北京の西直門から頤和園近くの暢春園まで並べられ,長さは約 8 キロまで達した.(引用終了)
 外国では、老人にこそ肉などのごちそうを、という発想がある。
cf映画.『バベットの晩餐会』(スウェーデン、1987年) http://mermaidfilms.co.jp/babettes/

○「王者以民為天、而民以食為天」(『漢書』「酈食其(れきいき)伝」)
王者は民をもって天となし、しかして民は食をもって天となす。

〇『論語』顔淵:子貢問政。子曰、「足食、足兵、民信之矣。」子貢曰、「必不得已而去、 於斯三者何先。」曰、「去兵。」子貢曰、「必不得已而去、於斯二者何先。」曰、「去食。自 古皆有死。民無信不立。」
子貢政を問ふ。子曰はく「食を足し、兵を足し、民之を信にす。」と。子貢曰く「必ず 已むを得ずして去らば、斯の三者に於て何をか先にせん」と。曰く「兵を去らん」と。子 貢曰く「必ず已むを得ずして去らば、斯の二者に於て何をか先にせん。」と。曰く「食を 去らん。古(いにしへ)自(よ)り皆死有り。民信無くんば立たず」と。
→参考『人禍 1958~1962 ―餓死者 2000 万人の狂気』(学陽書房、1991)

〇エネルギー源としての食
人力と畜力 産業革命以前の文明社会のエネルギー源は、ヒトと家畜の「食」だった。
アジアでは 20 世紀半ばまで、そうだった。
こんぴらさん(金比羅山)とうどん
宮沢賢治「 一日ニ玄米四合ト味噌ト少シノ野菜ヲタベ」云々
クリスティー (著), 矢内原 忠雄 (翻訳)『奉天三十年』 上下、岩波新書によると、満 州(中国東北部)を支えたのは大豆。

〇唐の時代の韓愈の漢詩
「馬厭穀兮、士不厭糠籺」
一部のウマが濃厚飼料である穀物をたっぷり与えられ、大事にされているのに対して、 知識人がヌカやカスを食べ、貧しい生活をしていることを風刺。

〇食のありかた
米を主食としてきた日本、主食の有無も含めて時代や地域によって違った中国

〇世界三大穀物
21 世紀現在、世界では米・トウモロコシ・小麦が世界人口の 3 分の 2 に当たる 40 億人 の主食。
伝統的な中国では、北は小麦粉を中心とする麺食、南は米食。
中国は、清朝のとき人口が一億人から四億人まで急増したが、その一因はトウモロコシ など外来の作物の普及による。

〇中国史と穀物。「五穀」
中国では、南部では約1万年前から(?)米を、北部では約7千年前から大麦を栽培。
小麦は約4千年前に西から渡来。北は小麦、南は米、という基本形ができた。
「江浙熟すれば天下足る」「蘇湖熟すれば天下足る」
宋の中期の時代に、占城稲がベトナムから伝わり、長江下流域で稲作が発展。
「湖広熟すれば天下足る」
明清時代、湖北省と湖南省の稲作が発展。 長江下流域の江浙地域では綿花や桑の栽培 が発展。

〇中華料理の歴史
古代中国の料理は、日本の料理と似ていた。
「羹に懲りて膾を吹く」「人口に膾炙(かいしゃ)する」→肉や魚の刺身も食べていた。 唐の白楽天も抹茶を飲んでいた。
宋代 石炭による火力
元代 蒸留技術による白酒
明 トウガラシやトウモロコシなどが新大陸から伝播
清 「中華料理」の黄金時代。満漢全席、『随園食単』、・・・・

〇地域による違い
中国の「八大菜系」(「菜」は中国語で料理の意)
山東料理 江蘇料理 浙江料理 安徽料理 福建料理 広東料理 湖南料理 四川料理
「南淡・北鹹・東酸・西辣」「東酸、西辣、南甜、北鹹」
北京料理はしっょぱい。山東料理は酸っぱい。四川料理は辛い。広東料理は甘口。

〇ラーメンから見る日本と中国
映画『ラーメンガール』The Ramen Girl (2009 年)
中国の「日式拉面」
江戸時代の水戸黄門が「ラーメン」の元祖という説。
「ラーメン元年」説。 1910 年、浅草で日本人が中国人料理人 12 名を雇って「来々軒」 を開店。南京そば、支那そば。


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