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紅雷紋紅雷紋

2017 東アジア芸術論A・B
School of Global Japanese Studies
East Asian Arts (A & B) by KATO Toru

This webpage is my teaching materials for the students who take my Lectue on Art in East Asia,
at The School of Global Japanese Studies,Nakano Campus, Meiji University.
[FAQ For International Students]
最初の公開 2014-4-5(5th April 2014) Last Updated 2017-1-12
この頁は、国際日本学部・前後期兼用、授業用プラットフォーム (platform) 的な頁です。
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めいじろう,meijiro,meijirou,japan,ethnic めいじろう,meijiro,meijirou,korea,ethnic めいじろう,meijiro,meijirou,china,chinese,ethnic めいじろう,meijiro,meijirou,snake,asian,ethnic
開講場所 明治大学 中野キャンパス 国際日本学部
金曜2限(10:50-12:30) 516教室
担当 加藤徹(法学部教授・和泉) 
加藤の授業はペーパーレスです。随時、こちらに授業関連の内容をアップしてゆきます。
[シラバス] [レポートについて] [FAQ] [用語・術語] [教材リンク] [備忘録] [ミニリンク]
[http://www.youtube.com/playlist?list=PLD809ED20DCE2FCAA]


「芸術」の本質を一言で言うと・・・
うつくしや障子の穴の天の川
この俳句についての[説明はこちら]

和泉キャンパスの芸術作品。「START LINE」「GOAL 40,000,000M-1M」
明治大学,和泉,スタートライン
[こちらの頁も]
meiji,seele,monolith,ゼーレ,モノリス,明治大学
"The beginning and ending share the same moment. Good. Everything's going well." Keel Lorenz
「始まりと終わりは同じところにある。良い。全てはこれで良い」

生田キャンパスの芸術作品(記念碑)


駿河台キャンパスの芸術作品。
 人間讃歌
    一九九八年 松井康成 作
アシュラよ
アシュラ。
アシュラは君の仮(かり)の像(すがた)。
天空に大きく広げた上段の手は
<知>の宏遠なるを示し
中段は<情>の豊かさと優しさを
下段の合掌は
<意>の強固なることをあらわしている。
ひそめたるその眉は
大いなる希望と理想に向かって
一途に進んでゆく真摯な君の姿
大きく、
大きく
この宇宙を生きて欲しい。
その志(こころざし) 弥(いや)高鳴れば
必ず月光菩薩の冷静にして
沈思の想(おもい)に到(いた)り
多聞の広く求めた智識は
君に勇気と決断を与えてくれることだろう。
この世は
無畏(むい)にして自由
アシュラはだから
今、現在と未来の
君の像(すがた)である。



肝心な点は感動すること、
愛すること、
望むこと、
身ぶるいすること、
生きることです。
  ロダン
明治大学,芸術
明治大学,芸術
明治大学,芸術



シラバス 参考 [
Oh-o! Meiji]の授業シラバス検索機能
 [東アジア芸術論A(前期=春学期)] [東アジア芸術論B(後期=秋学期)]
前期・後期とも、金曜2限(10:50-12:30)・中野キャンパスでの開講です。

明治大学国際日本学部 東アジア芸術論A(春学期)

★授業の概要・到達目標★
≪授業の到達目標及びテーマ≫
テーマ:東アジア芸術を理解するための理論と術語
キーワード:エスニシティ,社会階層,呪術,東アジア,表象芸術
≪授業の概要≫
この授業では,「下学上達」 (身近なことの再考から出発して,真理の高みに到達すること) をモットーに,アニメ作品やアニソンなどから出発して,日本と東アジアの古典芸術にも通じる普遍的な要素を抽出し,日本を含む東アジアの芸術文化を理解するために必要となる基本概念を学習する。
具体的には,まず,20歳代の日本人にもなじみ深いと思われる映画,音楽,アニメ,漫画等の作品を取り上げ,作品の社会的背景を分析するのに有用な概念を抽出し,解説する。
次に,それらの概念による作品分析の実践例として,具体的な作品を取り上げ,作品の背後にある暗黙知的なソースコードを分析する。筆者の専門は京劇 (中国の伝統演劇の一つ) であるので,京劇についても言及する。
授業は日本語で行うが,日本語を母語としない日本語話者 (non-native Japanese speakers) の受講生にも配慮し,重要なキーワードについては英語訳を示すほか,インターネットやDVD等の視聴覚教材も多用する。
≪到達目標≫
各学生が自分の専門を研究する上でヒントを得ることを目標とする。

★授業内容★
アニメから古典芸能まで,パフォーマンス系の芸術を中心に取り上げ,日本と東アジア,そして世界の芸術の特徴を比較する。
第1回a:イントロダクション
第1回b:イントロダクション
第2回:エスニシティethnicityと胎内記憶intrauterine memory
第3回:形式知explicit knowledgeと暗黙知tacit knowledge
第4回:大伝統great traditionと小伝統little tradition
第5回:2.5次元芸術2.5D art
第6回:グローカルglocalな芸術とは
第7回:論理思考logical thinkingと類比思考analogical thinking
第8回:模倣呪術imitative magicと感染呪術contagious magic
第9回:明在系explicate orderと暗在系implicate order
第10回:芸術におけるニーズneedsウォンツwantsシーズseeds
第11回:世代差generation gap
第12回:基層文化fundamental culture
第13回:東アジアにおける芸術の起源origin of art in East Asia
第14回:明治大学と芸術Meiji University and art

★履修上の注意★
「授業内容」は,必要に応じて変更することがあります。
準備学習(予習・復習等)の内容
授業用のwebpageを作成して公開するので,予習・復習に活用してください。
http://www.geocities.jp/cato1963/higashiajia.html
★教科書★
無し (プリント等を随時配布)
★参考書★
授業時に指定。
★成績評価の方法★
平常点 (毎回の授業後にリアクションペーパーを回収し,その記述も成績評価の対象とする) 50%
期末レポート50%
(予定)
★その他★
特にありません。

明治大学国際日本学部 東アジア芸術論B(秋学期)

〇授業の概要・到達目標〇
≪授業の到達目標及びテーマ≫
テーマ:東アジアの芸能と芸術
キーワード:エスニシティ,社会階層,呪術,東アジア,表象芸術
≪授業の概要≫
concertina この授業では,「下学上達」 (身近なことの再考から出発して,真理の高みに到達すること) をモットーに,アニメ作品やテレビドラマなどから出発して,日本と東アジアの古典芸術にも通じる普遍的な要素を抽出し,日本を含む東アジアの芸術文化を理解するために必要となる基本概念を学習する。
具体的には,まず,20歳代の日本人にもなじみ深いと思われる映画,音楽,アニメ,テレビドラマ〈漫画等の作品を取り上げ,作品の社会的背景を分析するのに有用な概念を抽出し,解説する。
次に,それらの概念による作品分析の実践例として,具体的な作品を取り上げ,作品の背後にある暗黙知的なソースコードを分析する。筆者の専門は京劇 (中国の伝統演劇の一つ) であるので,京劇についても言及する。
授業は日本語で行うが,日本語を母語としない日本語話者 (non-native Japanese speakers) の受講生にも配慮し,重要なキーワードについては英語訳を示すほか,インターネットやDVD等の視聴覚教材も多用する。
春学期と秋学期は独立した授業であるので,両方受講しても,片方だけ受講してもかまわない。授業にあたっては秋学期だけ受講する学生が不利にならぬよう配慮する。
≪到達目標≫
各学生が自分の専門を研究する上でヒントを得ることを目標とする。
〇授業内容〇
現代のアニメから伝統的な古典劇まで,東アジアの作品を鑑賞しつつ,その背後にある概念や知恵を分析し,それらを現代のサブカルチャーにも生かせるかどうかを検討する。
第1回a:イントロダクション
第1回b:イントロダクション
第2回:playの本質 再生,演劇,演奏,遊ぶ,・・・
第3回:天地大舞台 All the world's a stage
第4回:物語の類型 motif index
第5回:中国の戦闘妊婦 expectant mothers in China
第6回:日本の稚児灌頂 hidden ritual of young boy in Japan
第7回:機械仕掛けの神 deus ex machina
第8回:コードとタブー codes and taboos
第9回:楽器の設計思想 concepts of musical instruments
第10回:ペイガニズムの逆襲 return of paganism
第11回:一望監視塔 panopticon
第12回:サンスクリタイゼイション Sanskritization
第13回:異化効果 verfremdungseffekt
第14回:ルーツリバイバル roots revival

〇履修上の注意〇
「授業内容」は,必要に応じて変更することがあります。
〇準備学習(予習・復習等)の内容〇
授業用のwebpageを作成して公開するので,予習・復習に活用してください。
http://www.geocities.jp/cato1963/higashiajia.html
〇教科書〇
無し (プリント等を随時配布)
〇参考書〇
開講時に指定。
〇成績評価の方法〇
平常点 (毎回の授業後にリアクションペーパーを回収し,その記述も成績評価の対象とする) 50%
期末レポート50%
(予定)
〇その他〇
特にありません。


レポートについて
  1. レポートの提出について
    [
    Oh-o! Meiji]を使って提出してください。
      春学期(前期)は提出期間 2017/07/21 ~ 2017/07/28
      秋学期(後期)は提出期間 2018/01/18(木)朝9:00 ~ 2018/01/25(木)午後5時
     念のため、手元にパックアップ(電子テキスト、紙にプリントアウトした控え、等)を保存してください。 めいじろう,ゼーレ,モノリス,seele,monolith
  2. 内容・テーマについて
     授業で取り上げた事項の中からテーマを一つ選び、それについて自分で他の文献等の資料も調べたうえで、自分の考えを論理的に述べてください。
     日本語によるレポート作成を推奨しますが、日本語を書くのが苦手な学生は、英語ないし中国語(簡体字、繁体字都可以)でレポートを作成してもOKです(cf.[FAQ For International Students])
  3. 書式について
    提出するレポートは必ず「Microsoft Word(ワード)」「一太郎」「PDF」のうちのどれかで提出してください。
     総字数は「1,600字以上、6,000字以下」を目安としますが、必要に応じて多少増減しても構いません(内容本意で採点します)。
     文章のレイアウトは自由とします。ただし、採点の便宜上、必ず以下の項目を明示してお書き下さい。
    【氏名等 your name,your student number,etc】学生番号、学部・学年・組、氏名、提出日
    【標 題 title】わかりやすいタイトルをつけてください。もし必要があれば副題もつけてもかまいません。
    【要 旨 summary】40字以上120字以内で、簡潔に記述してください。
    【本 文 the text of the report】自由にお書き下さい。
    【参考文献等 reference documents,source books,etc】少なくとも3点以上挙げてください。ウェブサイトを参照した場合はURL等を明記してください。


術語・用語
 この授業では、受講生が以下の概念や発想法を理解し、自分の専攻分野に応用できるようになることを目的とする。
赤字は加藤徹独特の用語や概念。



芸術のジャンル(genre)について
「芸術として一般に認知されているジャンル」と、「人によっては芸術として認知されるジャンル」がある。例えば、絵画や音楽は芸術のジャンルとして認知されているが、アニメや料理を「芸術」と見なさない人もいる。
東京藝術大学(Tokyo University of the Arts)の学部・学科・研究科、等
【学部】2学部14学科
美術学部(絵画科・彫刻科・工芸科・デザイン科・建築科・先端芸術表現科・芸術学科)
音楽学部(作曲科・声楽科・器楽科・指揮科・邦楽科・楽理科・音楽環境創造科)
【大学院】4研究科
美術研究科・音楽研究科・映像研究科(映画専攻・メディア映像専攻・アニメーション専攻・映像メディア学専攻)・国際芸術創造研究科(新設)
典拠:東京藝術大学のHP http://www.geidai.ac.jp/ 2017-4-14閲覧
※東京藝術大学には「言語芸術(文学、他)学科」や「舞台芸術学科」はない。その理由はなぜか? 考えてみよう。
※大学院には「アニメーション」を含む映像芸術の研究科があるが、学部には「映像学部」は(2017年時点ではまだ)ない。その理由を考えてみよう。




3つの座標軸
座標軸
地域軸、時代軸、社会軸。
例えば、x軸は地域軸(南北・都鄙・内陸か沿海部か…)。y軸は時代軸(世代・年代…)。z軸は社会軸(身分・階層・雅俗…)。cf.
特別講演「学問のネタは日常のなかにある」


「芸術的射程距離」「離俗」の感覚と、「アナ雪」Let It Goの「some distance」
【Idina Menzel】
It's how funny some distance
Makes everything seem small
And the fears that once controlled me
Can't get to me at all
【訳詞】
遠くから眺めるとすべてが砂粒のよう
恐れは遠く去り
もう私を苦しめない
【松たか子】
悩んでたことが嘘みたいね
だってもう自由よ
なんでもできる
めいじろう,meijirou,meijiro 北宋・蘇軾(そしょく 1037~1101)の漢詩、二首。
 題西林壁
横看成嶺側成峰  横より看れば嶺と成り 側よりは峰と成る
遠近高低無一同  遠近 高低 一として同じきは無し
不識廬山真面目  廬山の真面目を識らざるは
只縁身在此山中  只だ身の此の山中に在るに縁る

 廬山煙雨
廬山煙雨浙江潮  廬山は煙雨 浙江は潮
未到千般恨不消  未だ到らざれば 千般 恨み消えず
到得還来無別事  到り得て 還り来れば 別事無し
廬山烟雨浙江潮  廬山は煙雨 浙江は潮

参考(PDF) http://www.geocities.jp/cato1963/pdf/20150424katotoru.pdf


「外来生物」的な芸術
 ある種の芸術作品が、自国で評価されぬものの、他国で高い評価を受けることは、珍しくない。
例:江戸時代の浮世絵は、ヨーロッパで芸術として評価された。
cf.“L'Art de l'amour au temps des Geishas à la Pinacothèque de Paris”Du 06/11/14 au 15/02/15
パリで浮世絵の「春画」美術展開催(2014年11月6日-2015年2月15日)
「預言者、故郷に容(い)れられず」
またのたまはく「誠に汝らに告ぐ。預言者は己が故郷に容れられず」と。(『新約聖書』「ルカ伝」4:24)
And he said, Verily I say to you, No prophet is accepted in his own country.(Luke 4:24,Webster's Bible Translation)
cf.加藤徹「グローバル化と京劇と「クレヨンしんちゃん」の関係」
『明治大学リベラル・アーツ・フォーラム』第20号(明治大学和泉委員会、2017年3月)、pp.7-9 [
PDF (723kb)]

魯迅(1881ー1936)の小説「藤野先生」より
大概是物以希为贵罢。北京的白菜运往浙江,便用红头绳系住菜根,倒挂在水果店头,尊为“胶菜”;福建野生着的芦荟,一到北京就请进温室,且美其名曰“龙舌兰”。我到仙台也颇受了这样的优待,不但学校不收学费,几个职员还为我的食宿操心。
 おそらく、物は稀(まれ)なるをもって貴(たっと)しとなすのであろう。北京の白菜は、浙江省に運ばれると、赤い紐で根もとを縛られ果物屋の店先につりさげられ、「膠菜」としてもてはやされる。福建の野生のアロエは、北京に運ばれるや温室に請じ入れられ、「龍舌蘭」という美名をつけられる。仙台に着いた私も、すこぶるこのような優遇を受けた。学校が学費を免除してくれたのみならず、私の住居や食事の心配をしてくれる職員も何人かいた。



経営資源
ヒト。人材、人脈。
モノ。商品、設備。
カネ。資金、資本。
情報知識、技術、ノウハウ。
時間プライオリティー(priority)。Time is money.


呪術
類比的思考 アナロジカル・シンキング analogical thinking
呪術の根底にある「宗教的世界観」
・人間は「失敗作」である。
 自分で自分の体や心すらコントロールできない。死、病気、憎悪など。
・「この世」は、目に見えない普遍的世界と接している。
・似ているモノやコトは、不思議なパワーによって繋がっている。
 時間のサイクルの自己相同性。個体発生(個人)は系統発生(人類、生物)を繰り返す。
[京劇と呪術] [死と再生の儀礼と演劇の起源] [宗教から初期演劇へ]
[ペイガニズムの逆襲] [漢字の字源と死生観(ワード doc)] [音楽と科学・呪術]
呪術的な世界観は、現代人をも魅了する。
「おとぎ話」を、英語で「フェアリーテイル」(fairy tale 妖精の話)と呼ぶ理由。
神話、民話、童話、都市伝説、ファンタジーの根底にある「世界観」。
cf.基層文化、ペイガニズム、神殺し、……

顰像,しかみ像,徳川家康,弥勒菩薩半跏思惟像,半跏思惟,広隆寺,煩悩即菩提,生死即涅槃,宝冠弥勒,考える人 cf.「見立絵(みたてえ)」
 徳川家康を描いた「顰像(しかみぞう)」や、英一蝶(はなぶさ・いっちょう)が描いた「見立業平涅槃図(みたてなりひらねはんず)」など。「時空のうえではかけ離れていても、姿形を似せることで、霊的な意味づけやパワーのつながりを持たせることができる」という類感呪術のテイストを生かした芸術作品。
 右の写真は「顰像」と「広隆寺の宝冠弥勒(ほうかんみろく)」の比較。
 「煩悩即菩提、生死即涅槃」

cf.「本地垂迹(ほんじすいじゃく)」という発想
 宗教における神仏習合。江戸時代の歌舞伎十八番の一つ「関羽」や、現代のサブカル文化の「関羽ガンダム」や、塩崎雄二の漫画「一騎当千」のヒロイン「関羽雲長」にも見られる趣向。



「弱喪」「其の真宅に帰す」
 ★芸術作品において、幼児の童話的・ファンタジー的世界観が、大人の心をもつかむのは、なぜか?
 漢文古典の人生観・世界観。「弱喪者」は、若くして故郷を失った人。「真宅」(本当のホーム)は、命ある者がいつか帰るところ(あの世)。
 『荘子』斉物論「予悪乎知悪死之非弱喪而不知帰者邪」=予れ悪くんぞ、死を悪むことの弱喪して帰るを知らざる者に非ざるを知らんや。(ワれイズくんぞ、シをニクむことのジャクソウ してカエるをシらざるモノにアラざるをシらんや)。郭象(かくしょう)注「少而失其故居、名為弱喪。夫弱喪者、遂安於所在而不知帰於故郷也」。cf.弱(じゃく)と若(じゃく)、弱冠
 『列子』天瑞「鬼、帰也。帰其真宅也」=鬼は帰なり。其の真宅に帰るなり。(キはキなり。ソのシンタクにカエるなり)。
真宅=本当の家。→ "The Place I'll Return To Someday" (いつか帰るところ)
[YouTube
"The Place I'll Return To Someday", listed by KATO Toru]
 「幼児退行」の重要性
『老子』第十章:載營魄抱一、能無離。專氣致柔、能孾兒。滌除玄覽、能無疵。愛民治國、能無爲。天門開闔、能爲雌。明白四達、能無知。生之畜之。生而不有、爲而不恃、長而不宰。是謂玄徳。
『老子』第五十五章:含徳之厚、比於赤子。蜂蠆虺蛇不螫、猛獸不據、攫鳥不搏。骨弱筋柔而握固。未知牝牡之合而全作、精之至也。終日號而不嗄、和之至也。知和曰常、知常曰明。益生曰祥、心使氣曰強。物壯則老。謂之不道。不道早已。
『(旧約)聖書』詩篇 131章2節:わたしは魂を沈黙させます。わたしの魂を、幼子のように/母の胸にいる幼子のようにします。
『新約聖書』マタイによる福音書18-1そのとき、弟子たちがイエスのところに来て、「いったいだれが、天の国でいちばん偉いのでしょうか」と言った。18-2そこで、イエスは一人の子供を呼び寄せ、彼らの中に立たせて、18-3言われた。「はっきり言っておく。心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない(以下略)
遠藤周作『万華鏡』(朝日新聞社,1993)「命のぬくもり」p.96-p.97より引用
 どなたかが書いておられた。
「夜なかに街では街路樹がたがいに連絡しあったり、話しあったりしています」
 それを読んだ日から私は夜ふけの静寂な路(みち)をポケットに手を入れて歩きながら、昼の排気ガスや乾いた地面で痛めつけられた街路樹や邸宅の庭の樹々が話しあっているのを感じた。
 幼年の頃に信じていたこと、動物も樹々も話をするという童話の世界は、少年になって失われ、それが長く続いた。そして老いた今、ふたたびそのように失った世界を私はせつに欲している。なぜだろう。
 シュタイナーという思想家がこう言っていた。人間は青年時代は肉体で世界を捉(とら)え、壮年の時は心と知で世界を捉えるが――老年になると魂で世界をつかまえようとすると。そして私もその三番目の魂の年齢になったからだ。

『日本書紀』神代下・第九段:然、彼地多有螢火光神及蠅聲邪神、復有草木咸能言語。「くさきことごとくよくものいう」


障がい者と芸術
cf.「障害者」→「障がい者」「障碍者」「障礙者」
 身体障害者、知的障害者、精神障害者、発達障害者
 英語では「disability」あるいは「disabled person」。一昔前の英語でよく使われた「handicapped」は、語源的に「帽子を手にしてお金を乞う人」という意味であるため、近年は避ける。
【日本の例(ごく一部)】
蝉丸(せみまる)、宮城道雄(みやぎ・みちお)、高橋竹山(たかはし・ちくざん)、山下清(やました・きよし)、大石順教(おおいし・じゅんきょう)、金澤翔子(かなざわ・しょうこ)、……
〇音楽・詩歌・絵画・書道……
△陶芸・彫塑・彫刻・建築・映画……
 cf.能「蝉丸」:視覚障害者である弟と、精神障害者である姉。
YouTube「明治大学能楽研究部観世会 蝉丸道行」
https://youtu.be/OevPxXYX9to 2015/07/29 に公開 第7回全国学生能楽コンクール 日時:平成27年7月26日(日)午前10時から 場所:名古屋能楽堂


基層文化 fundamental culture, deep culture, basic culture
←→表層文化 surface culture ←→
 cf.
アジア基層文化研究会

iceberg,氷山
氷山の一角:形式知と暗黙知、意識と無意識、表層文化と基層文化、……
都会、支配層
征服者、普遍的、
大伝統

deep culture,基層文化

田舎、被支配層
被征服者、土俗的、
小伝統
東アジアの芸術における、表層文化的なものと、基層文化的なもの
→欧米の文化を研究した日本人が、日本やアジアに回帰して新しい美意識を提唱する、という例が多い。
→本来は純粋に芸術文化の範疇であるはずだが、日本社会においては、近代天皇制や脱亜入欧政策への批判、アジア主義など、芸術以外の主張(いわゆる左翼的、右翼的な主張)とも結びつきやすい。
→現代のサブカルチャーの趣向の一つに、「基層文化インスパイア系」とも呼ぶべきジャンルがある。
【知識人】

 ドイツのグリム兄弟、日本の本居宣長(1730-1801)、朝鮮(李氏朝鮮/朝鮮王朝 조선 왕조)の
金万重(김만중 1637―1692 / きん・まんじゅう / キム・マンジュン / Gim Manjung / Kim Manchung)
は、それぞれ時代も国も違うが、自国の文芸のオリジナル性をどこに求めるか、というナショナリズム的な発想においては、似たところがあった。
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↑画像は徐首生・徐元燮燮・金光淳(編)『精選大学漢文』
(蛍雪出版社、1979/2/25発行、韓国・ソウル)より引用。
金万重(김만중)『西浦漫筆(서포만필)』
【原漢文】人心之発於口者為言、言之有節奏者為歌詩文賦、四方之言雖不同、苟有能言者各因其言而節奏之、則皆足以動天地通鬼神、不独中華也。今我国詩文、捨其言而学他国之言、仮令十分相似、只是鸚鵡之人言。而閭巷間樵童汲婦咿啞而相和者、雖曰鄙俚、若論真贋、則固不可与学士大夫所謂詩賦者、同日而論。況此三別曲者、有天機之自発、而無夷俗之鄙俚。自古左海真文章、只此三篇。
【漢文訓読・読み下し】人心の口に発する者は言と為る。言の節奏有る者は歌詩文賦と為る。四方の言、同じからずと雖も、苟しくも能く言ふ者、各おの其の言に因りて之を節奏する有らば、則ち皆、以て天地を動かし鬼神に通ずるに足らん。独り中華のみならざるなり。今、我が国の詩文、其の言を捨てて他国の言を学ぶ。仮令ひ十分に相似たれども、只だ是れ鸚鵡の人言なるのみ。而して閭巷の間、樵童・汲婦の咿啞として相和する者は、鄙俚なりと曰ふと雖も、若し真贋を論ぜば、則ち固より学士大夫の所謂詩賦なる者と同日に論ずべからず。況んや此の三別曲は、天機の自発有りて、夷俗の鄙俚無し。古より左海の真文章は、只だ此の三篇のみ。
【大意】人間の心が口に出ると、言葉になる。言葉がリズムに乗ると、歌や詩になる。言葉は国それぞれに違う。自分の国の言葉でいい。リズムに乗せれば、どの国の言葉も、鳥肌がたつくらい感動的な詩や歌になるんだ。漢詩や漢文だけが文学じゃない。自分の国の言葉はダサくて頭悪そう、だって? 外国語はカッコよくて頭が良さそう、だって? あわれだね、そう信じてるアホは。いま、わが国のインテリは、自分の母語で詩を書かず、外国語である漢文で詩を書き、それを自慢する。たとえ中国人そっくりに漢詩や漢文を書けたところで、しょせん、オウムの口マネにすぎないのに。……それにくらべれば、ちまたの無学な庶民の男女がかわす口語体の歌のほうが、ずっとすごい。たしかに卑俗だ。でも、まぎれもなく、我が国のオリジナルはこっちだ。これにくらべたら、わが国のインテリが書く漢詩や漢文なんて、ゴミくずさ。ましてや、ここで紹介する「三別曲」は、意図的に作ろうとしても作れないほどごく自然に、人間の真実を詠み込んだ傑作だ。卑俗さは少しもない。あえて言おう。わが国オリジナルの本物の文学作品は、歴史上、この三篇だけだ、と。(以上、加藤徹がテキトーに望文生義的に解釈した箇所も多いので、アテにしないでください(^^;;)
☆参考・韓国語訳( http://www.seelotus.com/gojeon/gojeon/su-pil-bi-pyeong/seo-po-man-pil.htm より引用。2017/12/15閲覧)
사람의 마음이 입으로 표현된 것이 말이요, 말의 가락에 있는 것이 시가문부(詩歌文賦)이다. 사방(四方)의 말이 비록 같지는 않더라도 진실로 말할 수 있는 사람이 각각 그 말에 따라 가락을 맞춘다면, 다같이 천지를 감동시키고 귀신을 통할 수가 있는 것은 유독 중국만이 그런 것은 아니다. 지금 우리나라의 시문(詩文)은 자기말을 버려 두고 다른 나라말을 배워서 표현한 것이니, 설사 아주 비슷하다 하더라도 이는 단지 앵무새가 사람의 말을 하는 것과 같다. 여염집 골목길에서 나뭇꾼이나 물 긷는 아낙네들이 에야디야 하며 서로 주고 받는 노래가 비록 저속하다 하여도 그 진가(眞價)를 따진다면, 정녕 학사대부(學士大夫)들의 이른바 시부(詩賦)라고 하는 것과 같은 입장에서 논할 수는 없다. - 국어로 쓴 시문(詩文)의 참됨 하물며 이 삼별곡(三別曲)은 천기(天機)의 자발(自發)함이 있고, 이속(夷俗)의 비리(鄙俚)함도 없으니, 자고로 좌해(左海)의 진문장(眞文章)은 이 세 편뿐이다.

cf.金万重の小説作品『九雲夢』(구운몽)

【実作者】

【関連する概念】ペイガニズム、エスニシティ、小伝統、マイノリティー、周圏論、民俗学、「みやび(雅び)」と「ひなび(鄙び)」、・・・・・・
cf.primitive art(プリミティブ・アート 原始芸術)の二つの意味
meijiro,sake,めいじろう,飲酒,イッキ,ハラスメント
世界大百科事典 第2版の解説
げんしびじゅつ【原始美術】
プリミティブ・アートprimitive artの訳語。プリミティブという語には二つの意味があり,一つには初期,古風,始原を,二つには開化に対する未開や素朴をさす。 美術史上プリミティブという語は,先史時代の美術,現存部族社会の美術,児童画,ルネサンス直前の美術,近代の素朴派(素朴画家)などに冠して用いられる。狭義に用いられる場合は,先史時代の美術と,部族社会の美術をさす。先史美術 部族美術【木村 重信】
→先史美術 prehistoric art、部族美術 tribal art、素朴派 Naïve Art/Peintre Naïf cf.丸木スマ(1875-1956)の絵

cf.2015.5.13にロンドンで行われたサザビーズのオークションで縄文時代の土偶(井上恒一コレクション)が約101万3千ポンド(約1億9千万円)で落札された。 事前の落札予想価格は7万~9万ポンドで、11倍以上の高値がついた。
[Sotheby's webpage](2015.5.15閲覧) The Soul of Japanese Aesthetics – The Tsuneichi Inoue Collection,69 A PAINTED EARTHENWARE FIGURE BUST, DOGŪ JAPAN, JŌMON PERIOD Estimate 70,000 — 90,000 GBPLOT SOLD. 1,013,000 GBP (Hammer Price with Buyer's Premium)

【参考】河上肇舌禍事件(かわかみ はじめ ぜっか じけん)
以下、琉球新報のHPの中の頁より引用
 1911(明治44)年4月3日、来沖した京都帝国大学助教授の河上が「新時代来る」と講演。その中で、日本の歴史に対する沖縄の歴史・文化の独自性を強調。沖縄の非国家主義的性格を賞賛し、思想的事件に発展した。
 「中央」の文化人が「辺境」の独自性を褒めたつもりが、かえって現地人の反感を招いてしまった、という事例。「基層文化」という概念は、実は「中央」の知識人による上から目線の概念であり、 基層文化の担い手にとってはしばしば「ありがた迷惑」になりかねない。
 河上肇は「余が沖縄を観察するに沖縄は言語・風俗・習慣・信仰・思想その他あらゆる点において内地とその歴史を異にするがごとし。 而してあるいは本県人を以って忠君愛国の思想に乏しという。然れどもこれは決して嘆ずべきにあらず。余はこれなる為に、却って沖縄人に期待するところ多大なると同時にまた最も興味多く感ずるものなり」 云々と述べ、現地のマスコミから猛反発を受けた。
 河上は沖縄の「基層文化」を述べた訳ではないが、日本本土の知識人が生半可な知識で沖縄の基層文化を褒めると、しばしば現地の人々の反発を買うという状況は、21世紀の今日も存在する。
以下、上里隆史『目からウロコの琉球・沖縄史』「東郷平八郎と為朝伝説(3)」より引用
 野蛮で遅れた地域とされた沖縄は、戦前、様々な差別的待遇を受けました。沖縄にとっての近代化とは、=日本化でもありました。沖縄の人々は旧来の価値を否定し「日本人」となることで、差別的な待遇を解消しようとしたのです。 例えば経済学者で後に日本共産党にも入党した河上肇が講演で、「沖縄には独自性があり、本土と違って忠君愛国の思想が薄い。歴史を見るとこのような場所から偉人が誕生する」と指摘したのに対し、 県内マスコミは河上に非難の集中砲火を浴びせます。いわゆる“河上肇舌禍事件”です。河上肇は沖縄の持つ可能性を評価したつもりだったのですが、皇国日本への同化に力をそそいでいた沖縄社会のリーダーたちにとっては、 県民の「忠君愛国」思想を否定する彼の発言は許しがたいものだったのです。
cf.映画「ウンタマギルー」(1898)、「ナビィの恋」(1999)に対する沖縄県人の賛否両論。日本映画「ビルマの竪琴」を見たミャンマー人の感想。


「芸術に国境はない」(Art has no borders)は本当か?
cf.ヴェネツィア・ビエンナーレ(Biennale di Venezia, 英語: Venice Biennale / Venice Biennial) 国どうしが賞を競いあう「美術のオリンピック」。隔年開催。
cf.BESETOライン、BESETO美術祭、BeSeTo演劇祭、……
cf.ドイツのオーバーアマガウ村の「オーバーアマガウ・キリスト受難劇」に対するユダヤ系団体の抗議
 関連記事 [
한ㆍ일, 외교전 이어 문화전쟁…엑스포ㆍ비엔날레 국가관 경쟁, 문화유산등재 정면 충돌](韓国語、2015.5.15閲覧)

“Music has no borders.”(音楽に国境はない)
塚田健一『世界は音に満ちている 音楽人類学の冒険』新書舘、2001、pp58-59より引用
 問題となったのは、ぼくが書いた次のようなくだりだった。「音楽と政治的権力」という見出しのもとに、音楽がさまざまな政治的しがらみのなかで創造されているということを指摘したあとで、ある洋書からこんな事例を引いたのである。
 それは、カトリック教徒とプロテスタント教徒のあいだで紛争の続く北アイルランドでの出来事。ある日、ゲール・スポーツ・クラブでアイルランドの伝統音楽を演奏する集いが開かれた。その集いではいろいろな楽器が演奏されたけれども、ギターはアイルランドの楽器ではないという理由で演奏からはずされた。ギターはむしろイギリス文化と関わりの深い楽器だ。ところが、そこへギター奏者が演奏に加わろうとやってきた。かれはほかの演奏家から立ち去るように言われたが、なかなか出ていこうとしない。最後にとうとうあきらめてかれはその場を去るが、すでに遅し。後にかれにたいへんなことが降りかかる。翌日、このギター奏者は仮面をつけた何者かに襲われ、斧で左手を切断されたのだった。
(中略)
 ところが、出版社はこの部分が気に入らなかったとみえる。心配したようなのである。何を心配したかといえば、この話が誇張のない本当の話なのか、と。(以下、略)
↑拓植 元一/塚田 健一【編】『はじめての世界音楽―諸民族の伝統音楽からポップスまで』(音楽之友社、1999)、序章、6.音楽と政治的権力

One Piece censoring comparison
[https://youtu.be/aFpYrEkEiNY]
cf.文化財返還問題(Art repatriation,문화재 반환)、海外におけるアニメ規制、etc


ルーツ・リバイバル
https://en.wikipedia.org/wiki/Roots_revival 2016-11-18閲覧

A roots revival (folk revival) is a trend which includes young performers popularizing the traditional musical styles of their ancestors. Often, roots revivals include an addition of newly composed songs with socially and politically aware lyrics, as well as a general modernization of the folk sound.
The term roots revival is vague, and may not always refer to identical events.

cf.
地球を旅する楽器 ルーツ・ミュージックの世界

ルーツ・ミュージックのキーワード
 祖先、小伝統、民衆、エスニシティ、若者、反骨精神or在野精神、身体感覚、地方、大地、魂、・・・・・・

日本:和太鼓の鼓童、民謡歌手の伊藤多喜雄(とTAKiO BAND)、津軽三味線の初代・高橋竹山(たかはし ちくざん)や吉田兄弟、沖縄音楽のりんけんバンドやビギン、アイヌ音楽のOKI(オキ、加納沖)やAINU REBELS(アイヌレブルズ)、・・・・・・
韓国:サムルノリ(사물놀이)、歌手のチョー・ヨンピル(조용필、趙容弼)
中国:モンゴル系歌手の騰格爾(ᠲᠡᠨᠭᠷᠢ,Tengri,腾格尔)

理解するうえで参考になるかもしれない映画

芸術・文化における長期的な変化のサイクル  時代と世代の差
漢字「世」の字源は「三十年」
 人類の1世代は約30年サイクル→ 東洋の「六十干支」  半還暦(30周年)、還暦(60周年)、大還暦(120周年)、・・・
【参考】『論語』為政第二:子張問「十世可知也?」。子曰「殷因於夏礼、所損益、可知也。周因於殷礼、所損益、可知也。其或継周者、雖百世可知也。」
【参考】中国語のことわざ「三十年河東、三十年河西。」

「千年紀」単位の変化。文明の変遷と対応。
原始古代中世近世
・近代
現代・
近未来
写実的
様式的

時代区分の考え方の一例。時代区分については定説はなく、下記はあくまでも一例にすぎない。
「文化史」と「政治史」の境界線はイコールではなく多少ずれるのが常だが、下記の表ではずれを無視している。
時代区分 periodization日本文化史(日本政治史)中国大陸朝鮮半島
先史時代 prehistory (原時代 primitive ages)旧石器時代・縄文時代
時代 protohistory弥生時代・古墳時代夏・殷(商)古朝鮮時代
有史時代
recorded history
古代古代 antiquity上代飛鳥時代・奈良時代西周・春秋・戦国三国時代
中古平安時代秦・漢南北国時代
中世中世 middle ages 中世鎌倉時代・室町時代三国~唐末五代高麗
近代近世 early modern period 近世安土桃山時代・江戸時代宋・元・明・清李朝(朝鮮王朝)
近代 modern history近代明治・大正中華民国大韓帝国・日韓併合
現代 contemporary history 現代昭和・平成中華人民共和国南北分断
※明治時代・大正時代・昭和時代・平成時代を総称して「東京時代」と呼ぶ人もいるが、まだ公式的な時代区分名となっていない。

六十干支(1周期は60年)単位の変化。国家・政権の盛衰と対応。
江戸時代の文化唐の文化クラシック音楽
前史桃山文化六朝文化中世・ルネサンス音楽
建国期寛永文化初唐バロック音楽
成長期元禄文化盛唐古典派音楽
完成期宝暦・天明文化
化政文化
中唐ロマン派音楽
国民楽派
爛熟期 (幕末)晩唐近・現代音楽

十年単位の変化=個人の年齢と対応。流行。
 昔 子供→大人    今 子供→ヤングアダルト(Young Adulthood)→大人
【参考】発達心理学 エリク・H・エリクソンによる発達段階
  乳児期0-2、幼児前期2-4、幼児後期4-5、児童期5-12、青年期13-19、 初期成年期20-39、成年期40-64、成熟期65-
  →乳幼児、児童、青年、成年、老年
【参考】シェークスピア「お気に召すまま」“And one man in his time plays many parts,/ His acts being seven ages. ”→
こちらを参照
【参考】厚生労働省による区分
 幼年期0~5歳、少年期6~14歳、青年期15~30歳、壮年期31~44歳、中年期45~64歳、前期高年期65~74歳、中後期高年期75歳~
【参考】映画のレイティングシステム
 G(General Audience)、PG12(12歳未満はParental Guidanceが必要)、R15+(15歳未満はrestricted)、R18+(いわゆる18禁)
 ※国ごとに基準が違う。
【参考】[日本のアニメソング参照]


うつくしや障子の穴の天の川
utukusi ya shouji no ana no ama no gawa
芸術の本質とは、mortality(モータリティ)の中にimmortality(インモータリティ)を垣間見る、一瞬の美意識である。
この俳句出典 小林一茶(1763年 - 1827年)『七番日記』文化十年(1813)七月の条。
【いつ】1813年の七夕のころの夜 【どこで】病床で 【誰が】癰(よう)を病んだ作者が 【何を】夜空の天の川を 【どのように】障子の破れ穴から見て感動した。
 cf.癰(よう)は、昔は死亡率が高い難病だった。
 『七番日記』文化十年七月
  二 晴 仙六来 ソバ一袋
  七 晴 癰大膿出
  八 晴 夜桂国ヨリ金二両宏海持参

「うつくし」や単純に「美しい」ではない。古語「愛(うつく)し」「厳(いつく)し」「現(うつ)し・顕(うつ)し」等のイメージも重なっている。
「障子の穴」の障子に穴があいているような、わびしい住居。定命(じょうみょう)の人間や生き物など「mortal」たちが住む「此岸」の象徴。 死ぬかもしれない病気にかかるのは、平凡な日常生活に突如「穴」があくようなものである。
「天の川」「穴」の向こうには、星や神仏などの「immortal」たちが住む永劫の「彼岸」が広がっている。
 病気で死を覚悟した作者(この時は生還できた)は、障子(此岸)と天の川(彼岸)が接していることに気づき、「うつくしや」と感じた。
 天の川は、美しい。障子の穴も、愛(うつく)しい。もうすぐ死んで見られなくなる、と思えば、何もかも「うつくしい」。

めいじろう,meijiro,眠る 和語「ウツシ」 移し・遷し、写し・映し → ウツシヨ(現世)
cf.『岩波 古語辞典 補訂版』(1992年補訂版第3刷)より
うつ-し【写し・移し】(一)[四段]<ウツリの他動詞形。物の形や内容そのままを、他のところにあらわれさせる意。ウツはアクセントも考慮すると、ウツシ(顕)・ウツツ(現) のウツと同根。この世にはっきり形を見せ、存在する意。(以下略)>
和語「うつくし」 ← ウツ(内、空・虚、現・映)+クシ(奇し)
和語「トキ」 溶き・解き → 時  和語「ツキ」 → 月・尽き
 日常と非日常、褻(け)と晴(はれ)
cf.この世←→あの世、此岸←→彼岸、顕界←→幽界(幽冥界)、モータル(「定命」mortal)←→インモータル(不死 immortal)、諸行無常←→常住不滅、・・・


離俗の芸術論
 離俗と、その類義語との微妙なニュアンスの違いに注意。
(世界大百科事典 第2版の解説) りぞく【離俗】
俳諧用語。蕪村は門弟召波の《春泥句集》(1777)に寄せた序文の中で, 〈俳諧は俗語を用ひて俗を離るるを尚ぶ。俗を離れて俗を用ゆ。離俗の法最もかたし〉としるしている。 俳諧に用いられる言葉は,ことさらにあらたまった雅語のようなものではなく,だれもが日常に使う平易な俗語でなければならず, しかも俗から離れなければならないという。これは蕪村の俳諧の基本的な態度,方法をあらわすものである。 俗と離俗と同時におこなおうとすることは,芭蕉の〈高く悟りて俗に帰るべし〉につながるものであろうが,蕪村の場合,俗に〈帰る〉よりも,俗から〈離れる〉ことが強調されている。
『春泥発句選』安永丁酉[安永六年]冬十二月七日(1778年1月5日)、蕪村序。[ ]内は加藤徹の注
←原文の画像は、愛知県立大学図書館のHPの中の[こちらの頁]で閲覧可能。
柳維駒[召波の子]、父の遺稿を編集して余に序を乞(こふ)。序して曰。
「余曾テ春泥舎召波に洛西の別業(べつげふ)に会す。
波すなはち余に俳諧を問。
答曰。俳諧は俗語を用て俗を離るゝを尚(たつと)ぶ。俗を離れて俗を用ゆ、離俗ノ法最かたし。かの何がしの禅師が、隻手の声を聞ケといふもの[白隠の「隻手音声(せきしゅおんじょう)」の公案]、則俳諧禅にして離俗ノ則也。
波頓悟(とんご)す。却(かへつて)問。叟が示すところの離俗の説、其旨(そのむね)(げん)なりといへども、なを(ほ)是工案をこらして我よりしてもとむるものにあらずや。し(若)かじ彼もしらず、我もしらず、自然に化して俗を離るゝの捷径(せふけい)ありや。
答曰。あり。詩[漢詩]を語るべし。子もとより詩を能(よく)す。他にもとむべからず。
波疑(うたがつて)(あへて)問。夫(それ)詩と俳諧といささか其致を異にす。さるを俳諧をすてて詩を語れと云。迂遠(うゑん)なるにあらずや。
答曰。画家ニ去俗論あり[芥子園画伝・初集]。曰。画、俗ヲ去ルコト無他ノ法。多読書則書巻之気上升、市俗之気下降矣。学者其(それ)慎旃哉(これをつゝしまんや)。それ画の俗を去だも筆を投じて書を読(よま)しむ。況(いはんや)詩と俳諧と何の遠しとする事あらんや。
(以下、略)
 芸術の本質は「一瞬の救い」(駒田信二の言説)にあるという主張。
 夏目漱石の小説『草枕』冒頭部の芸術論 小説ではあるが、蕪村の「離俗」のセオリーを述べたものとしても読める。
 [青空文庫版・夏目漱石『草枕』]より引用
 山路やまみちを登りながら、こう考えた。
 に働けばかどが立つ。じょうさおさせば流される。意地をとおせば窮屈きゅうくつだ。とかくに人の世は住みにくい。
 住みにくさがこうじると、安い所へ引き越したくなる。どこへ越しても住みにくいとさとった時、詩が生れて、が出来る。
 人の世を作ったものは神でもなければ鬼でもない。やはり向う三軒両隣りょうどなりにちらちらするただの人である。ただの人が作った人の世が住みにくいからとて、越す国はあるまい。あれば人でなしの国へ行くばかりだ。人でなしの国は人の世よりもなお住みにくかろう。
 越す事のならぬ世が住みにくければ、住みにくい所をどれほどか、寛容くつろげて、つかの命を、束の間でも住みよくせねばならぬ。ここに詩人という天職が出来て、ここに画家という使命がくだる。あらゆる芸術の士は人の世を長閑のどかにし、人の心を豊かにするがゆえたっとい
 住みにくき世から、住みにくきわずらいを引き抜いて、ありがたい世界をまのあたりに写すのが詩である、である。あるは音楽と彫刻である。こまかにえば写さないでもよい。ただまのあたりに見れば、そこに詩も生き、歌もく。着想を紙に落さぬとも璆鏘きゅうそうおん胸裏きょうりおこる。丹青たんせい画架がかに向って塗抹とまつせんでも五彩ごさい絢爛けんらんおのずから心眼しんがんに映る。ただおのが住む世を、かくかんじ得て、霊台方寸れいだいほうすんのカメラに澆季溷濁ぎょうきこんだくの俗界を清くうららかに収めればる。この故に無声むせいの詩人には一句なく、無色むしょくの画家には尺縑せっけんなきも、かく人世じんせいを観じ得るの点において、かく煩悩ぼんのう解脱げだつするの点において、かく清浄界しょうじょうかい出入しゅつにゅうし得るの点において、またこの不同不二ふどうふじ乾坤けんこん建立こんりゅうし得るの点において、我利私慾がりしよく覊絆きはん掃蕩そうとうするの点において、――千金せんきんの子よりも、万乗ばんじょうの君よりも、あらゆる俗界の寵児ちょうじよりも幸福である。

中島恵『なぜ中国人は日本のトイレの虜になるのか?』中公新書ラクレ、2015
 その頃、よく布団にくるまって泣きながら一人でこっそり見ていたのは 『Angel Beats!』というアニメでした。 布団がゴソゴソするなと思ったら、 なんとネズミが這い回っているんですよ。 そんなに汚い環境でも、好きなアニメを見ている時間だけはとても幸せで、 ほんの一瞬ですが、辛いことを忘れられました。 日本のアニメは温い日本人の人間性が凝縮されていると思いました。 いつか、好きなアニメを山ほど買って、コスプレもたくさんして、 日本旅行に行きたいと思って、 それで今日まで歯を食いしばってがんばってきたんです。 (中略)
 中国人は誰でも明日のことはわからないんです。 今はとても豊かになって、多少のお金を持てるようになったとはいっても、 みんな心の中では明日のことをとても心配し、 殺伐としているんです。 中国のような国では、どこにどんな落とし穴があって、 これから先も順調に生きていけるかどうかわからない。 誰に足を引っ張られるかも、裏切られるかもわかりません。 口に出さなくても、みな、そんな不安をいつも抱えています。
 でも、日本人は違う。(中略)お金以外に価値を置いて精神的に豊かな暮らしをしている人も多い。 そういう姿は本当にうらやましいんです。 少なくとも、僕の目にはそう映ります。
参考
坂口安吾の「日本文化私観」 →原文は[
青空文庫のこちらの頁]
相田みつを
宮沢賢治「雨ニモ負ケズ」 →[青空文庫]


「プロ」とは何か?
ラテン語のpro 前で、前へ、人前=公の、・・・ 作家の一次創作と評論家の二次創作の例


――当時、「ジョーは死んだのか」という論争まで起こりました。ちばさんの中でも定まっていなかったのでしょうか。
ちば そういうことは全然考えていなかったですね。ただ自分の力を出し切って、持てるエネルギーのすべてを使い尽くして、真っ白に、抜け殻のようになっているという、そう考えながら描いたシーンですね。ある時たまたまテレビで見たのですが、上野正彦さんという監察医があの絵を見て、「生きているか死んでいるか」と訊かれて、「こういう微笑みや、肘で身体を支える姿勢は、死んでいたらできないから、この人は生きている」と断言してくれて、「ああ、そうだったのか。やっぱり生きているのか」とホッとした記憶があります。

月刊『新潮45』2013年10月号、ちばてつや「あしたのジョーは生きている」(インタビュー)、聞き手・里中高志、p.149-p.150より引用


〇ちばてつや(1939-)漫画家。「あしたのジョー」の作画担当。梶原一騎の原作のラストにあきたらず、原作者や担当編集者と話した末、主人公が真っ白になってリングサイドに座っている絵、という後に伝説化したラストを創作した。
〇上野正彦(1929-)法医学者、医事評論家。著書多数。『死体の嘘 世田谷一家殺人事件から『あしたのジョー』まで』(アスキー, 2001.10)など


経済と芸術
めいじろう,meijiro 用語 needs seeds wants
ニーズ(顕在的需用)、シーズ(技術革新による供給能力創造)、ウォンツ(定義は未定。潜在的需用)
通貨←→疑似通貨
 近代経済における銀行の「信用創造」と、歴史における美術・芸術による「価値創造」の類似性
cf.集中・蓄積・展開
「芸術バブル」と、疑似通貨としての芸術作品・美術工芸作品
★ミケランジェロの大作「最後の審判」とバチカンの富
★松永久秀の「平蜘蛛茶釜」「九十九髪茄子」、織田信長の「曜変天目茶碗」、茶道の「天目茶碗」「高麗茶碗」「楽茶碗」。
★村上隆氏のアートと「Qatar Japan 2012」cf.TOKYO MXのニュース番組で「カタール・ドーハで村上隆展」 http://youtu.be/dglsn09kRdU
★美術商・画商と政財界の裏側 (参考)七尾和晃『銀座の怪人』(講談社BIZ、2006年)ISBN-13: 978-4062820141


五感
『般若心経』「眼耳鼻舌身意、色声香味触法」
 アリストテレス的な「五感」 視覚、聴覚、触覚、味覚、嗅覚

ヒトの感覚分類
 体性感覚:表在感覚(皮膚感覚)、深部感覚
 内臓感覚:臓器感覚、内臓痛
 特殊感覚:視覚、聴覚、味覚、嗅覚、前庭感覚(平衡感覚)

アルチュール・ランボーの詩「母音」(中原中也訳)
Aは黒、Eは白、Iは赤、Uは緑、Oは青、母音たち、
おまへたちの穏密な誕生をいつの日か私は語らう。
A、眩(まば)ゆいやうな蠅たちの毛むくぢやらの黒い胸衣(むなぎ)は
むごたらしい悪臭の周囲を飛びまはる、暗い入江。(以下略)
共感覚(シナスタジア、synesthesia)
 cf.暖色、寒色、堅い音、甘い香り、・・・
 cf.東洋の「
五行配当
 cf.聴覚の特異性   「低い声」「うるおいのある声」「ガサガサした音」「硬い音」・・・
   絶対音感(absolute pitch)、相対音感(relative pitch) [絶対音感の無料テストのサイト]

一色型色覚monochromacy全色盲。「白黒」
二色型色覚dichromacy部分色盲。赤緑色盲、青黄色盲、・・・。霊長類を除く哺乳類
三色型色覚trichromacyヒトの大部分。「カラー」「三原色」
四色型色覚tetrachromacy鳥類、有袋類。ごく一部のヒトの女性

科学的な「五基本味」 甘味、酸味、塩味、苦味、旨味
伝統的な「五味」(五行思想) 酸 苦 甘 辛 鹹
  「辛味」は、文化的には味覚だが、科学的には痛覚的刺激であり味覚ではない。
   cf.「麻婆豆腐」「麻辣豆腐」「麻辣味(マーラーあじ)」
 


モチーフ・インデックス(motif index)
 物語の類型 cf.神山重彦
『物語要素事典』(外部リンク)
  例えば「犠牲」「自己犠牲」のモチーフ 「みんな」のために「一人」は死ぬべきか?
   日本の能(謡曲)『谷行(たにこう)』 松若(まつわか)という少年が、山伏(やまぶし)たちの修行の旅で犠牲になる。
    →これを原作とする、ドイツ人の劇作家ブレヒトの作品 [Der Jasager, Der Neinsager]
参考 [英訳「谷行」と原文、学校オペラの比較]
 日本人の作るドラマは、六百年前の能楽も、千年前の源氏物語も、現代のアニメ作品に通ずる趣向を共有している。
スサノオ(素戔嗚尊。「妣(はは)の国に行きたい、と泣く)、光源氏(母の死。亡母の面影の女性を父帝と「共有」)、松若(母子家庭。母=伎楽鬼神)、碇シンジ(母不在。父との葛藤。ユイとレイ)…

土屋恵一郎『能、ドラマが立ち現れるとき』(角川選書、 2014/1/24)より引用
p6-p7
「能」という言葉は、世阿弥(ぜあみ)がその言葉を使うまでは、かならずしも芸能の一つのジャンルをあらわす言葉ではなかった。世阿弥は「申楽(さるがく)」とい う言葉も使っているが、ジャンルとしては、「猿楽の能」「田楽(でんがく)の能」というものがあって、「能」という言葉は芸能のさまざまな領域につけられていて、むしろ身体芸をあらわす一般名詞であった。それを、世阿弥は自分たちの「申楽」に固有な芸能の名称にしたのである。
 (中略)
 世阿弥は(中略)近年のポップカルチャー批評の用語を使えば、第一次作品群である「文学」を、世阿弥は「能」という身体芸のうちに解体・再構築して第二次作品群としての能の作品群を作ったということができる。
 世阿弥を中心とする能作家たちの先進性は、この第二次作品群としての「能」を作るために、能独自の装置を考案したことにある。つまり、「文学」をそのまま身体芸のうちに物語として導入したのではない。能という装置のうちに解体して、再構築しているのだ。
 それがどのように行われたのかを、この本は分析する。映画やアニメ、コミック、ゲーム、フィギュアにおいて今日までつづく物語の解体、複製、再構築の歴史上の出発点に立ち戻って、その革新的手法を分析したい。

p237
 能は、世界の演劇のなかでも、もっとも子供の問題に関心をもった演劇であった。『丹後物狂』だけでなく、多くの能の作品が、子供を中心においている。女物狂は母と子の問題であるからわかりやすい。それ以外にも、やはり子供が中心にいる場合が多い。
土屋恵一郎『能 現在の芸術のために』(新曜社、1989年)p.209-p.210
 能を現在の芸術として考えてみるということは、けっして、能の歴史と伝統を無視するということではない。逆である。能と世阿弥のことを追っていくと、そこに見えてくるのは、世阿弥がいかにはっきりと「現在」のものとして能をとらえていたかということである。世阿弥にとって伝統というものはそもそも存在しない。いつでも、ここで今、ということが問題であった。その「現在」の試練に耐えうるものでなければならかった。そのことが、能の劇作術に革新をもたらし、その身体論に具体的なイメージと思想をあたえることになった。安定した人気にすらたよることのできないものであった。たとえ名人芸であろうとその芸になれてしまえば観客はあきてしまうことを知っていた。だからいつもあたらしさが問題であった。テキストも芸もあたらしくなければならない。観客の感覚をそのあたらしさによって蘇らさなければならなかったのだ。
 この過酷な試練によって能は「現在」の芸術となった。世阿弥の時代から六世紀をへてなお能がその生命を維持できているとするならば、その「現在」の試練に耐えようとする者たちが、つねに能の表現を更新してきたからである。

能楽「谷行(たにこう)」(15世紀)エヴァンゲリオン(20世紀)
作者金春禅竹(?)
こんぱる・ぜんちく
1405~?
庵野秀明(監督)
あんの・ひであき
1960~
通過儀礼
Initiation
稚児→山伏人類補完計画、
(中二病,14歳)
「おめでとう」
母胎回帰入山、谷(女性器の象徴)への投げ込み、
「衆生一子」
L.C.L、エヴァの秘密
♫私に還りなさい…(「魂のルフラン」)
BLテイスト松若(稚児)と師(山伏)シンジと渚カヲル
示現役行者、伎楽鬼神使徒、エヴァ
少年松若
母子家庭
シンジ
父子家庭
母親前シテ(母)→後シテ(伎楽鬼神)※ユイ→エヴァ初号機
機械仕掛けの神
Deus ex machina
伎楽鬼神
「アヤナミリリス」(旧劇版)

参考 「示現」と「衆生一子」について
『和英対照仏教聖典』(仏教伝道教会、平成26年第1352版)より引用
p.67 仏はただ仏として現われるだけでなく、あるときは悪魔となり、あるときは神のすがたをとり、あるいは男のすがた、女のすがたとして現われる。
p.66 Buddha does not always appear as a Buddha.Sometimes He appears as an incarnation of evil, sometimes as a woman, a god, a king, or a statesman; sometimes He appears in a brothel or in a gambling house.
p.491典拠:法華経第3、普門品
cf.普門品 fumonbon
=観音経 kannonkyoo
=妙法蓮華経 觀世音菩薩 普門品 第二十五
みょうほうれげきょう かんぜおんぼさつ ふもんぼん だいにじゅうご
具足神通力 guu soku jinnzuu riki
広修智方便 koo shuu chii hoo ben
十方諸国土 jippoo shoo koku doo
無刹不現身 muu setsu fuu gen shin
p65 この仏はすべての人びとの父母である。子が生まれて十六か月の間、父母は子の声に合わせて赤子のように語り、それからおもむろにことばを教えるように、仏もまた、人びとのことばに従って教えを説き、その見るところに従って相(すがた)を現わし、人びとをして安らかな揺らぎのない境地に住まわせる。
p64 Buddha is both father and mother to the people of the world. For sixteen months after a child is born the faher and mother have to speak to him in babyish words; then gradually they teach him to speak as an adult. Like earthly parents, Buddha first takes care of the people and then leaves them to care for themselves. He first brings things to pass according to their desires and then He brings them to a peaceful and safe shelter.
p.491典拠:大般涅槃経(だいはねはんぎょう)
※流派や舞台によって、
  松若の母(前シテ)→伎楽鬼神(後シテ)、役の行者(ツレ)
  松若の母(ツレ)→伎楽鬼神(シテ)、役の行者(ツレ)
  松若の母(前シテ)→伎楽鬼神(ツレ)、役の行者(後シテ)
その他の、さまざまな演出がある。
[異色のコラボレーション! 「能舞エヴァンゲリオン」上演 演劇ニュース・2006/11/21]

[GAINAX NETの「 EVA AT WORK」]に載っている山井綱雄氏(能楽師)のコメント
「能は「人間の喜怒哀楽を表現し尽した芸術」といわれ、私の金春流(こんぱるりゅう)には一七〇ものレパートリーが伝承されています。私は今回あえて新曲を作詞作曲せず、一七〇曲中からふさわしい場面を選び構成しました。/表現方法も、初号機(の能面)が新作である以外は、全て古巣から能の表現方法を用いました。/「エヴァ初号機」の"母性愛"を斬新な手法を用いず、能の古来から伝承されている手で私なりに表現しました。」

【参考】

playの本質、「演」の字源
playの本質
cf.アニメ「ワンピース」第380話「ビンクスの酒 過去と現在とをつなぐ唄」One Piece ep 380 (Episode 380)
 重層的なplay
=遊び/楽器を演奏/死んだ仲間たちの記憶と音声を再生/アニメの芝居を演ずる
 ブルックのセリフ「どうせ死ぬなら、楽しいほうがいい」 動画・音声・記憶のplay(再生)と、rebirth(再生)、reconstruction(再構成)
内部リンク[
演劇と科学・ビンクスの酒(セリフ、歌詞、他)] 外部リンク[Google"One Piece 380"検索結果]
遠藤周作『万華鏡』(朝日新聞社、1993)「人生の再構成」p.156
 敬愛するわがデーケン神父さんはある時、こんな人生再構成の話をしてくださった。癌で死を前にした一人の母親が、子供たちのために、彼女にとって生涯の思い出だった色々な歌をテープに吹き込み、そして死んでいったという。
 そのテープによって子供たちは母が自分たちのために歌ってくれた幼い頃の童謡、家族のみんなで歌った色々な歌、そして母の好きだった歌をそのままの肉声できくことができた。
 何という美しい、素晴らしい人生の再構成であろう。何という愛情のこもった形見だろう。
 私自身も亡母と亡兄の声のこもったテープを持っている。亡母は今の芸大(当時の上野音楽学校)の卒業生だったので、彼女の歌ったグレゴリアンの古いレコードが残っていて、そのレコードをテープに再生することで私は忘れがたい母の肉声をまだ聴くことができるのだ。
 たった一人の兄弟だった亡兄の声も彼の対談がテープ化されていたお蔭で一人でそっと耳にする夜がある。
 私の経験では実際の声は遺書や写真よりもずっとあざやかに故人を身近に感じさせる。だから自分の歌声を残してくれた末期癌の母親のやさしい心情を子供たちはどんなに感謝しているであろう。母親はそれによって、自分の人生が何であったかを子供たちに再構成してみせたのだ。

★「再生」(rebirth)と「復活」(resurrection,revive)の微妙な違い
 再生は「転生」や「生まれ変わり」など、前とは違う姿形での再生や、アイデンティティーが断絶したうえでの再生も含む。仏教やヒンドゥー教など。
 復活は、原則として前と同じ姿形のままで、自己同一性を保持した状態での再生を指す。天啓教など。

cf.Elena Desserichが遺した絵手紙。Notes Left Behind(2009) http://www.notesleftbehind.com/
 邦訳『パパ、ママ、あいしてる―エレナが残したメッセージ』(早川書房、2010年)ISBN-13:978-4152091130
[「エレナ・デッセリッチ」Yahoo!での検索結果]


世界大百科事典 第2版の解説
もののあわれ【もののあはれ】
 言葉としては10世紀半ば平安中期ごろから用いられ,《源氏物語》には12例を見る。当時の生活意識上の一規範であった。もともと〈あはれ〉は感嘆詞の〈ああ〉と〈はれ〉とがつづまった語であり,また〈もの〉は古くは神異なもの,あるいは霊的存在をさす語であったが,中古には漠然と対象を限定しない形式語となった。〈もののあはれ〉の語はそうした漠然とした主観的感情をさらに客体化し,対象として捉え直したものといえよう。
cf.「あっぱれ」(天晴れ。Well done! Splendid!)は、「あはれ」の促音化から生まれた語。古語の「あはれ」は喜怒哀楽のどれも表現したが、近世以後の日本語では、すばらしいと感嘆するときは「あっぱれ」、悲哀の慨嘆を述べるときは「あわれ」、と使い分けるようになった。

遠藤周作『人間のなかのX』(中公文庫、1981)p14-p19より引用
 我々が死んだあと、この地上に残す自分の存在とはすべて他人の見た自分である。ある人は我我(ママ)をいい奴だと思い、他の人はイヤな男だと思っている。 別の者には嘘つきと考えられ、更に正直だったと懐しがってくれる人もいる。そうした他人の眼にうつったすべてのイメージの集積が死後の我々の存在になってしまう。 だがそれら他人の眼を通したイメージの集積がつくりあげた自分の姿――、その姿をもし我々が墓のなかで知ったとしたならば、どうだろう。我々はきっとこう叫ぶにちがいない、 「自分はそれだけではない。自分にはもっと別のXがあった筈だ」
(略)
 だがそのXとは何だろう。Xとはひょっとすると当の人物も死の直前まで意識しなかった自分の姿であり、まさに息を引きとろうとした時、はじめて自覚するものなのかもしれない。 私はそのことを考える時、たとえば正宗白鳥氏のことを思うのである。人々の眼からは厭世家として無神論者として見られた正宗白鳥氏は自分自身もその臨終に際し、神に祈るとは夢にも考えなかったのかもしれぬ。 しかし氏の意識ではとっくに捨てた筈のXが、まさにこの世から彼が別れようとする瞬間、姿を見せたのである。
 もし正宗氏があの祈りを臨終に際して口にしなければ、それ以後の白鳥伝は相変らず氏を厭世家として無神論者としてだけ書かれていただろう。 だがその行為を見せなくてもXは白鳥氏の意識の奥に生涯ひそんでいたのである。神だけが見抜くことのできるこの魂のX。それを神ではない伝記作家が見通すのは困難である。 しかしこのXを対象の人物とその人生とから見抜けぬような伝記はたんなる史伝にすぎないのだ。
(略)
 限定された資料の大部分は他人の主観で染めあげられたイメージにすぎない。当人が書いた日記や手紙でさえ、必ずしも彼の心の正直な告白とは限らない。 資料のすべては鏡にうつった左右あべこべの当人の顔のようなものである。 それは一見、当人らしく見えるが、本当の顔ではないのだ。そのなかから彼の生涯の底にひそんでいたXを見つけること、それが神にしかできぬとは知っていながら、神に代わろうとすること、それが伝記を書く者の悦びなのかもしれぬ。
加藤注:正宗白鳥(1879-1962)、無神論者。83歳で死去。臨終の際、最後の力をふりしぼって言った言葉は「アーメン!」であった。梶山健『臨終のことば』(明治書院、1973)参照。

本居宣長『紫文要領』(岩波文庫、2010)p.154–p.155より引用
 問ひて云はく、源氏の君をはじめとして、其の外のよき人とても、みな其の心ばへ女童(おんなわらわ)のごとくにて、 何事にも心弱く未練にして、男らしくきつとしたる事はなく、たゞ物はかなくしどけなく愚かなる事多し。いかでかそれをよしとはするや。
 答へて云はく、おほかた人の実(まこと)の情(こころ)といふ物は女童のごとく未練に愚かなる物也。男らしくきつとして賢きは、実の情にはあらず。それはうはべをつくろひ飾りたる物也。実の心の底をさぐりて見れば、いかほど賢き人もみな女童に変はる事なし。それを恥ぢてつゝむとつゝまぬとの違ひめばかり也。もろこしの書籍(ふみ)は、そのうはべのつくろひ飾りて努めたる所をもはら書きて、実の情を書ける事はいとおろそか也。故にうち見るには賢く聞こゆれども、それはみなうはべのつくろひにて実の事にあらず。其のうはべのつくろひたる所ばかり書ける書(ふみ)をのみ見なれて、其の眼(まなこ)をもて見る故にさように思はるゝ也。

紫式部『源氏物語』第二十五帖「蛍」第三章第一段より
玉鬘(たまかずら)と光源氏が「物語」(小説)の本質を語る
「げに、偽り馴れたる人や、さまざまにさも汲みはべらむ。ただいと真のこととこそ思うたまへられけれ」
 とて、硯をおしやりたまへば、
「こちなくも聞こえ落としてけるかな。神代より世にあることを、記しおきけるななり。『日本紀』などは、ただかたそばぞかし。これらにこそ道々しく詳しきことはあらめ」
 とて、笑ひたまふ。


文化・芸術における「先祖返り」と「リバイバル」
先祖返り/先祖帰り(せんぞがえり)は、今あるものに隔世遺伝(atavism)的に昔の特徴があらわれること。
リバイバル(revival)は、昔のものが復活・復興・再生すること。
例 日本の「立ち絵紙芝居」(立絵紙芝居)→いったん絶滅→現代のフラッシュアニメやネット上の「立ち絵」動画
立絵紙芝居→平絵紙芝居(街頭紙芝居と教育紙芝居)→…→「テレビ紙芝居」(アニメ)、現代の「電脳紙芝居」
cf.「蛙男商会」のアニメ作品は「先祖返り」。現代における紙芝居そのものの保存と上演活動は「リバイバル」。


 エン yǎn(yan3) 연 (yeon) diễn
【コアイメージ】長く延びる。
 『釈名』釈言語に「演、延也。言蔓延而広也。(演は延なり。蔓延して広がるを言うなり)」とある。
 『史記』日者列伝に「自伏羲作八卦、周文王演三百八十四爻而天下治。(フッキ八卦を作り、周文王、三百八十四爻を演じしより、天下治まる)」とある。
 「寅(イン)」の字源は、家の中で両手で矢を左右から引っ張る様子。「寅」という字は早い段階で十二支の三番目を示す字に転用されたが、「水」を示すサンズイをつけ増画化した「演」が「寅」の原義を保存している。
 延(エン)・引(イン)・衍(エン。延びて広がる)は同源。
 「演」は、水が長々と延びて流れる様子を暗示する。
 長く引き延ばす意味から、話やしぐさを展開させる意味を派生する。
演義 エンギ=意味を引き延ばして説明する。
演繹 エンエキ=一つのことから次々に押し広める。
演説 エンゼツ=意見を展開させて述べる。
演技 エンギ=技を繰り出して見せる。
参考 加納喜光『常用漢字 コアイメージ辞典』中央公論新社 他


東アジアの伝統演劇
同じ漢字語でも、国によって意味用法が変わるので注意しよう。
日本語の「国劇」は歌舞伎と能楽(能狂言、「お能」)←→中国語の「国劇」は京劇と昆劇
日本語の「戯曲」は「劇の脚本や台本。および、脚本のスタイルで書かれた文芸作品」←→中国語の「戯曲」は京劇などの伝統的な音楽劇

「天岩戸(あまのいわと)」神話 日本における「俳優」(わざをき/わざおき/わざをぎ/わざおぎ)の起源。
 日本神話では、芸能の開祖は「アメノウズメのミコト」(天鈿女命、天宇受売命)という太古の女神。
『日本書紀』神代上
故、思兼神、深謀遠慮、遂聚常世之長鳴鳥使互長鳴。亦、以手力雄神、立磐戸之側、而中臣連遠祖天兒屋命・忌部遠祖太玉命、掘天香山之五百箇眞坂樹、而上枝懸八坂瓊之五百箇御統、中枝懸八咫鏡(一云、眞經津鏡)、下枝懸靑和幣(和幣、此云尼枳底)・白和幣、相與致其祈禱焉。又、猨女君遠祖天鈿女命、則手持茅纒之矟、立於天石窟戸之前、巧作俳優(タクミにワザヲキをナす)。
『古事記』上巻
天宇受賣命、手次繋天香山之天之日影而、爲𦆅天之眞拆而、手草結天香山之小竹葉而(訓小竹云佐佐)、於天之石屋戸伏汙氣(此二字以音)蹈登杼呂許志(此五字以音)、爲神懸而、掛出胸乳、裳緖忍垂於番登也(カムガカかりしてムナヂかきいで、モヒモをホトにオシタれき)。爾高天原動而、八百萬神共咲。
cf.ボードビリアン(vaudevillian)
「魏志倭人伝」(『三国志』「魏書」第三十巻「烏丸鮮卑東夷伝」倭人条):始死停喪十余日。当時不食肉、喪主哭泣、他人就歌舞飲酒
 倭では、人が死ぬと、喪(も)は十日余りでやめる。喪のあいだは肉は食べず、喪主は声をあげて泣くが、他の人は歌ったり踊ったりして酒を飲む。

 紀元前500年(参考 https://ja.wikipedia.org/wiki/紀元前500年)、古代ギリシャでアイスキュロス(Aischylos 紀元前525年-前456年)が「ギリシャ悲劇」の作品を書いていたころ、 中国の「演劇」の状況はどうだったか?
儒教は演劇が嫌い? 「優倡侏儒」を嫌った孔子
司馬遷『史記』孔子世家の記事より(要約)
 魯の定公十年(前500年)の夏、孔子が五十三歳(五十二歳説もある)のとき、魯は斉の両国は和睦した。両国の君主は、斉の夾谷の地で会見することになった。孔子は、会見の礼を輔佐する役になった。魯の定公は、平和友好の会見なので平時の馬車で行こうとした。孔子は武官を連れてゆくよう進言して、聞き入れられた。
 会見の席上、斉の側は歓迎のため「四方の楽」を演奏した。すると孔子は、階段を小走りに駆け上がり「両国の君主が親睦の会をなさるのに、夷狄の音楽はふさわしくありません」と言い、斉の景公と大臣の晏子を見つめた。景公は恥じて楽人を退去させた。
 続けて斉は、斉の宮中の音楽で歓待した。俳優やこびとの芸人たちが、パフォーマンスをしながら進み出た(原文「優倡侏儒(ゆうしょうしゅじゅ)、戯を為して前(すす)む」)。孔子はまた階段を小走りに駆け上がり「匹夫にして諸侯を惑わす者は、罪はまさに誅殺にあたります。どうか有司に処罰をお命じください」と言った。芸人たちはその場で役人により刑を執行され、手足をバラバラにされた
 斉の景公は、孔子の毅然とした態度に恐懼した。景公は、「義」において自国が魯に及ばないことを知り、占領していた魯の領土を魯に返還し、謝罪した。
『史記』巻47「孔子世家」の原漢文の一部。
…有頃、齊有司趨而進曰「請奏宮中之樂」。景公曰「諾」。優倡侏儒為戲而前。孔子趨而進、歷階而登、不盡一等、曰「匹夫而營惑諸侯者罪當誅、請命有司」。 有司加法焉、手足異處。景公懼而動、知義不若、歸而大恐、告其群臣曰…

 その後の中国の演劇の状況については「
中国の伝統演劇」を参照。
 中国で「ギリシャ悲劇」に匹敵する本格的な演劇作品の名作が誕生するのは、 13世紀の「元の雑劇」からで、ギリシャより千数百年も遅かった。

近代西洋演劇東洋の伝統演劇東洋的な考えかた
理論・哲学形式知暗黙知文字や楽譜などの形式知より、言葉や理屈では説明できない暗黙知的な経験の積み重ねや「勘」を重視。
師匠「俺の芸は教えられない。俺から盗め」。
個性個性は美個性は醜美は古今東西を通じて普遍的なもの、という発想。
面、くまどり、類型的な衣装、など。
著作権個人創作世代累積型集団創作「述べて作らず」(述而不作)
演技の風格自由伝統の型「型破り」と「型知らず」は違う。
型を極めた名優だけが型破りになれる。
写実性写実写意「実写ノイズ」は汚いので排除すべき。
舞台装置は簡素であるべき。
感応の導線一望監視塔的
cf.Panopticon
スクランブル交差点的
cf.pedestrian scramble
観客席は明るいままにしておく。
世界観open endclosed endThere is nothing new under the sun.
新鮮感新奇でもよい。熟成するとよい。「新(シン)」は「辛(シン)」なり。
「新(あら)」は「荒(あら)」なり。
物語の結末未知既知観劇前の予習必要。
ネタバレ大歓迎。
俳優汎用的俳優専門的俳優歌舞伎役者は映画もできる。
ふつうの映画俳優は歌舞伎はできない。
監督監督は必要監督はいなくてもよい「監督」の分際で名優に指図するのは失礼。

演者と観客の「感応の動線(かんのうのどうせん)」の変遷
時代が降るほど観衆の「個人化」が進む。

【1】スクランブル交差点型=騒がしい「観衆」
京劇や、能楽・歌舞伎の本来の(昔の)形。
客席は上演中も明るいまま。客席も長椅子やベンチ、畳、ござなど、客どうしの距離を作らない。
昔の日本語では、観衆を「見物(けんぶつ)」と呼んだ。
演者からも観衆の顔や反応がよく見える。
観衆(audience)どうしは、上演中も互いの顔を見たりお喋りできる。
古代ギリシャの露天の円形劇場、前近代の東洋の劇場の座席配置、
現在のライブ会場、野球場、サッカー場の座席配置、など。

【2】パノプティコン型=静かな「観客」
近代西洋の中・上流階層の上演芸術の形。
クラシック音楽の上演会場など。
客席は上演中暗くし、座席も独立した椅子を並べ、「観衆」を個々の「観客」に分断する。
観客は上演中、騒いだり、演者に声をかけることはできない。
演者も上演中は、観客の個々の顔(特に後部座席の観客の顔の表情)をはっきり見ることはできない。

【3】放送形式=顔の見えない「視聴者」
近現代の映画、テレビ、ネット配信の形。
演者は、ダイレクトに視聴者の顔を見ることはできない。
視聴者(viewer)どうしも、互いの顔や反応はダイレクトに見えない。
映画館よりもテレビ、テレビよりもレンタルビデオ(DVD)、さらにネットと、視聴者の「個人化」は今も進んでいる。

現在は【3】が主流だが、【2】と【1】を好む人もいる。
「観衆の一部になる楽しみ」を知らない人は、京劇や能楽・歌舞伎も楽しめないかもしれない。
「劇場とは、施設や建物のことではなく、劇的出会いが生成されるための「場」のイデオロギ—のことである。どんな場所でも劇場にすることができるし、どんな劇場でも劇が生成されない限りは、日常的な風景の一部にすぎなくなる。」寺山修司の言葉。『寺山修司著作集 第5巻 文学・芸術・映画・演劇評論』p.370(クインテッセンス出版、2009年)

そもそも「古典」って何? 「感応の動線」から見ると……
「古人」の集積知の世界は「サーバ」もしくは「クラウド」的
「今人」の世界は「ブラウザ」もしくは「端末」的
今人は「自然言語」を使うが、クラウドと端末を結ぶのは「html言語」など「人工言語」である。
 例えば東洋の漢文系の古典は、
人工言語 端末 ブラウザやアプリ:漢文訓読、字音直読、黙読、音読、朗読、詠唱、歌唱、・・・
クラウド「古人」による漢詩や漢文の作品
漢文
日本人、中国人、韓国人・朝鮮人、ベトナム人、他

「今人」は、自分が漢文という言語で書いた漢文作品や漢詩作品を、「古人」の世界にアップロードできるし、また逆に「古人」の世界からダウンロードして、自分という「端末」で再生することもできる。
李白「余亦能高詠、斯人不可聞」
頼山陽(1781-1832)「述懐」
「十有三春秋、逝者已如水。天地無始終、人生有生死。安得類古人、千載列青史。」

参考 [
白川文字学公開講座・漢詩の読み方]

参考外部ミニリンク
中国語による「俳優」の5大分類。
日本の「歌舞伎」「能狂言」や、中国の「京劇」などを専門に演ずる「戯曲演員」は世界的に見ると特殊。
中国と日本以外のアジアの国ではどうか、考えて見よう!



歌舞演員オペラ歌手やバレリーナも含む。
話劇演員セリフ中心の舞台劇。「相声演員」(落語家、漫才師)とも近縁。
戯曲演員伝統劇。日本の歌舞伎や中国の京劇など。
影視演員映画(電影)とテレビ(電視)の俳優。
配音演員いわゆる「声優」。