このページは、明海大学応用言語学セミナー「語りの世界」(2012/12/15)で発表したとき、レジュメとして会場に投影するために作成したものである。 発表終了後、発表者(加藤徹)が口頭で行った発表の内容を、「発表時のコメントの要旨」として追加記載した。2013-2-4 発表後、内容を文章にまとめた。[一太郎、約73キロバイト] [PDF、312キロバイト] 2013-4-17 |
きょう‐げき〔キヤウ‐〕【京劇】 中国の古典劇の一。清代に南曲が北京に伝わって成立。胡弓(こきゅう)・月琴・銅鑼(どら)などの伴奏で、歌・せりふ・しぐさ・立ち回りによりストーリーを展開する演劇。京戯。けいげき。 ――『大辞泉』>[Yahoo辞書]2012/12/15閲覧 |
(発表時のコメントの要旨=この罫線内のコメントは、発表終了後に追記したもの。以下同じ) 2.5次元(にーてんごじげん、と読む。以下、漢数字で二・五次元と表記する)という言葉は、数学的・科学的に正しい意味用法と、サブカルチャー(以下、サブカルと略す)を説明する時などの比喩的な意味用法の両方で使われる。ここでは後者の用法で「二・五次元」という用語を援用する。サブカル関係の語の常として、二・五次元という言葉の定義も意味用法も現在進行形で変化し続けており、人ごとにこめる含意も違う。発表者(加藤徹)は、京劇などの舞台演劇の本質も「二・五次元」であると考えており、また、ブレヒトの教育劇の本質は二・五次元の三次元化を目指したものであると再定義しているが、これらは発表者独特の意味用法である点を、最初に断っておく。 発表者は、二・五次元の芸術は以下のような特性をもつと考える。 【政治面】二次元と三次元の芸術では「言論の自由」が確保されていない社会においても、二・五次元の芸術については、当局の言論統制が比較的ゆるい傾向がある。 中国社会を例にとると、二次元の活字媒体での言論や、三次元の集会・結社については、今も昔も当局の言論統制が比較的厳しい。例えば、清朝時代には、二次元的な文字媒体の上で満洲人を批判したり、三次元的な現実の世界で反満活動を行うことに対して、当局は死刑や連座制を含む厳しい態度で臨んだ。しかし、二・五次元である京劇の舞台上では、例えば、漢民族の英雄である岳飛が、満洲人の先祖である金国の将兵を殺す芝居を演じ、漢民族の民衆がそれを見て喝采を送るような演目を上演しても、清朝の当局はこれを黙認した(詳細は拙著『京劇 政治の国の俳優群像』参照)。現在の中華人民共和国でも、中国共産党に対する批判が比較的に黙認されているのは、小劇場演劇という二・五次元芸術である。 日本やその他の外国でも、二・五次元芸術は、そのニッチの特殊性のゆえもあり、民衆の不満のガス抜きという社会の安全弁として機能していることが多い。 【経済面】二・五次元芸術はお金がかかる。その作品制作については、初期投資や、恒常的な発表の確保など、一定の経済力が必要である。謡い物や語り物など一次元的な説唱芸術は、場所も選ばず、演者が一人でもできるので、値段が安く済む。絵画など二次元的な芸術も、最低限、紙と筆さえあれば制作できるので、初期投資を抑えることができる。しかし、二・五次元の芸術は、衣装や舞台、小道具など、ある意味で三次元芸術以上の初期投資が必要となる。そのため、本当に貧しい社会や、余裕のない極限状態では、二・五次元芸術を恒常的に維持・運営することは難しい。 現に、収容所や獄中、戦場など、極限状態から生まれた一次元芸術の作品(ナチス時代の絶滅収容所から生まれた小話、日本の特攻隊員が出撃前に残した川柳、など)は多いが、これらの場所から生まれた二・五次元の傑作は、多くない。 【文化面】いわゆる高等宗教や、ハイカルチャーは、往々にして二・五次元的なものを嫌う傾向がある。 例えば、厳密な一神教の宗派(イスラム原理主義や、キリスト教のカルヴァン派など)では、偶像崇拝や演劇を排斥する傾向が強い。 また、大学などの学問研究の対象も、二・五次元というある意味で中途半端な芸術は、研究対象になりにくい傾向がある。演劇についても、大学などでは、一次元的要素(文字脚本を戯曲文学として読む文学研究)や二次元的要素(美術研究)、三次元的要素(上演史の研究、建築学的研究)などは比較的進んでいるが、二・五次元的要素の研究は「好事家」あるいは「オタク」と同一視される傾向もある。 |
『世界大百科事典』内の韻白の言及 【京劇】より …また,隈取をするのは,浄と丑に限られ,観衆はその色合いから劇中人物の正邪善悪をおおよそ見分けることができる。せりふには,韻白と京白の2種類があり,韻白は安徽・湖北地方のなまりをおびた発声をし,リズムにのり韻をふんだもので,これが京劇のせりふの主体となる。京白は日常口語に近い北京語で,道化や小娘,子供の役がこれを用いる。… [コトバンク]2012/12/15閲覧 |
芸術 | 国語 | 弁論 | |
---|---|---|---|
舞台ドイツ語 | ○ | ○ | ○ |
謡曲日本語 | ○ | △ | × |
京劇の韻白 | ○ | × | × |
(発表時のコメントの要旨)
「舞台ドイツ語」は、近代ドイツ国民の「国語」の模範になった。イギリスにおいて、シェークスピアの演劇の言語が、英語の模範とされているのと同様である。実際、古代ギリシャの昔から、俳優の発声法・発語法・レトリックは、そのまま政治家の演説に応用できるものであった。本来、演劇とは、そういうものである。 一方、日本の「芝居」も、中国の「戯」も、演説とは無縁であった。そもそも、福沢諭吉が「演説」という訳語を考案するまで、東洋人に演説という発想そのものがなかった。 シェークスピアの演劇作品は、今から四百年前のものであり、歌舞伎や京劇よりもずっと古い。にもかかわらず、シェークスピアの演劇の言語は、語彙や発音こそ古めかしいものの、その発声法や発語法などは、そのまま現代英語でも通用する。西洋の政治家が、演説のテクニックを勉強する上で、シェークスピアの芝居の言語は、そのまま教材となりうる。 一方、日本の能楽や歌舞伎の発声法や、中国の京劇の声色では、政治家は演説はできない。また、日本でも中国でも、現代劇の俳優は、歌舞伎や京劇ができないのが当たり前である。欧米人は、これを奇妙に感じる。欧米の現代劇や映画の俳優は、その気になれば、現代劇の演技や発声法でシェークスピア劇を上演できるからである。というよりも、欧米の現代劇は、映画やテレビも含め、シェークスピア時代以来、さらに大胆に言えば古代ギリシャ演劇以来、セリフ中心の「演説劇」であるという点で、その本質には断続がないからである。 中国の俳優も、観客に対する「演技の射程距離」によって、射程距離が長い順に戯曲演員、話劇演員、影視演員などに細分化され、それぞれ発語法、発声法、演技の風格、化粧法、顔だち、などが異なる。西洋の俳優の種類と比較すると興味深い異動があるが、ここではその議論に立ち入らない。 舞台ドイツ語は、芸術性もあるが、一昔前まではドイツの「国語」の規範的発音として辞書にも記載され、また、弁論の言語としてもそのまま使うことができる。 日本の能や謡曲の言語は、語彙も発音も日常的な「国語」とは違い、演説や弁論の役にはたたない。例えばもし日本の政治家が、歌舞伎や能の口ぶりで政見放送を行ったら、いわゆる泡沫候補と見なされるか、ふざけていると思われてしまうだろう。ただし、幕末の日本で、薩摩と津軽の武士が方言の差が大きすぎて会話できなかったとき、「謡曲の言葉」を使って意思疎通した、という一種の都市伝説的な説話も残っていることを考えると、謡曲の「国語」性は「×」ではなく「△」くらいはあったと評価することもできる(謡曲共通語説話は、時代小説などには出てくるが、学界では根拠が確認されていない)。 中国の京劇に至っては、京劇の「才子佳人、帝王宰相」など主要登場人物が使う言葉は、演劇用に作られた人工言語「韻白」であり、発音も語彙も北京語とかけ離れている(京劇の舞台では、北京語は、庶民を演ずる道化役とか、下男下女などが使う)。京劇の言語では、演説や弁論ができないだけではなく、中国語の「国語」とも無関係なのである。 |
(発表時のコメントの要旨)漢文は人工言語であり書記言語であるが、ラテン語は自然言語であり音声言語である。東洋の聖賢は、会話はできたが、弁論や演説はできなかった。
古代ギリシャの「ソクラテスの弁明」も、イエスの「山上の垂訓」も、一個人が群衆と対峙して展開した堂々たる弁論であり演説である。一方、孔子の『論語』は師が気心のしれた弟子たちとぼそぼそと交わした言葉しか載っていない。 劇場の規模を見ても、一目瞭然である。古代ギリシャの円形の石の劇場は、収容人員一万人を越える。古代ギリシャ演劇の俳優は、マイクを使わず、自分の肉声だけで、同時に一万人以上の観衆の耳に、自分の言葉を届けねばならなかった。一方、日本の「芝居小屋」にせよ、中国の「茶楼」にせよ、観客数はせいぜい二百名くらいまでで、いわゆる「ダンバー数」の範囲を出ない。発語の「射程距離」が、そもそも違うのである。 |
(発表時のコメントの要旨)カエサルやナポレオンは、決戦の前にしばしば部下の将兵に対して演説を行った。東洋には演説の伝統がなかったので、諸葛孔明は決戦の前に「出師の表」を書いた。「出師の表」は、形式上は君主に対して提出した公開書簡的な上奏文だが、事実上は天下および後世にむけた檄文である。 漢文は檄文文化の社会、ギリシャ語やラテン語は演説文化の社会の言語である。 西洋では、ギリシャ語やラテン語で、そのまま舞台演劇もできた。しかし中国では、漢文は音声言語ではないため、舞台芸術用の音声言語を人工的に新たに作らねばならなかった。京劇の韻白が、漢文とも現代中国語とも違う理由も、このような社会文化的背景がある。 キリストの受難劇の映画は、その気になれば、前編、古典ラテン語と、古典ヘブライ語、古典アラム語だけでも上演できる。 これらの言語は、古代の当時から音声言語と書記言語の両方の顔をもっており、また、自然言語として日常生活全般の局面全般をカバーする表現力をもっていた。 これに対して、孔子や三国志の映画では、俳優が全編「漢文」でセリフを喋ることは不可能である。 そもそも漢文は自然言語ではなく、日常生活の局面全般をカバーしているわけでもない(例えば幼児が母親に甘える言葉や、 主婦が八百屋に野菜の値段を値切るような会話などは、漢文的表現にそぐわない)ため、 漢文だけでストーリー全体を演じることは不可能なのである。 |
(以下の「参考」の部分は、発表時は時間的制約もあり、あまり言及できなかったが、発表時のままここに掲載しておく) |
例:朝鮮王朝の「燕行録」の記録 ★李海応『薊山紀程』十四日「清簟樓台絳帳垂,城南大路匝胡兒,王風委地求諸野,禮樂衣冠盡在斯。」 |
このビデオは、主演:史依弘 奚中路(上海京劇院) 場面は「四面楚歌」の故事。 18分目くらいから兵士の京白 ↓30分目ぐらいからの韻白 |
虞姫:備得有酒、再与大王対飲幾杯如何? 項羽:如此酒来! 虞姫:大王、請! 項羽:想俺項羽呵! 力抜山兮気蓋世。 時不利兮騅不逝。 騅不逝兮可奈何、 虞兮虞兮奈若何? [詳しくはこちら] |
知(知性) | 情(感情) | 意(意志) | |
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