こちらは旧版です。[新版をご覧ください]。また[PDFはこちらです]。2021年5月21日 Please view NEW VERSION or PDF. 21 May, 2021 |
目次
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要旨 前半部では「初期演劇の母胎は宗教であり、その本質は擬似再出生体験であった」という説を、中国を中心に、世界各地の初期演劇をもとに検証する。 後半部では、初期演劇の音楽的演出には世界的に見て「弦鳴楽器排除の傾向」があることを検証し、その謎に考察のメスを入れる。 筆者より一言 インターネット上の本稿は、縦書きと横書きの違いをのぞけば、ほぼオリジナル原稿(晃洋書房『演劇と映画』掲載)のままです。ただし、パソコン画面上での読みやすさを考えて、各所に「色」を付けました。また「注」も文中に分散配置するよう変更しました。 |
注1:イスラム教シーア派は、ムハッラム月の十日に「フセイン受難」を悼む祭りを行う。この祭りで、半裸になった信者たちは自分の体を鞭や鎖で打ちながら行進し、最後に、野原や広場でフセイン受難の場面を再現する。夜になると子供たちは悲しみの歌を合唱して歩き回り、大人たちは家に閉じこもって忍び泣きし続ける。いつ始まったのか定かではないほど、古い伝統を持つ祭りである。多数派であるスンニー派は、この流血凄惨な自鞭行進を狂信行為であると言い、冷ややかに眺めるだけである。 ちなみに中国にも、宗教儀礼としての流血を伴う行列行進があり、やはり演劇と密接な関係を持っている。田仲一成『中国郷村祭祀研究』(東京大学出版会、一九八九)二五八ー二五九頁参照。 |
注2:聖職者はペスト患者の介護や埋葬に立ち会うため、感染の危険が大きかった。当時の記録によれば、例えば、イングランドでは短期間のうち聖職者総数のほぼ半数がペストで死亡したという。村上陽一郎『ペスト大流行』(岩波書店、一九八三)一三一頁。 |
注3:上掲『ペスト大流行』一五二頁 |
注4:西郷信綱『古事記の世界』(岩波書店、一九六七)八三頁 |
筆者の専攻は中国の伝統演劇である。いささか前置きが長すぎたが、以下、中国において宗教から演劇が成立した過程を、他国の事例も参考にしながら概観してみたい。
中国は昔から人間中心主義の文明であり、一神教圏と比較すると、宗教の力は弱いように見える。が、それでも、宗教の演劇に対する拘束力には驚くべきものがあった。近世に入ってからでさえ、儒教の祖・孔子を俳優が演ずることは忌避された(5)。
注5:
清朝のころまで、役者が孔子を演ずることは法律で禁止されていた。この規定に違反し役者が孔子に扮したため、劇団長が官から厳罰を受けた事例もある(焦循『劇説』巻六)。伝統中国では、役者は一種の賤民とみなされており、また演劇というジャンル自体も、芸術としての地位を認知されていなかった。役者が古しえの帝王聖賢を演ずる不敬をどの程度目こぼししてやるかは、時代の権力者の腹ひとつだったのである。 余談ながら、「文化大革命」終了まで役者が毛沢東を演ずることが厳禁されていた事実は、こうした伝統の延長ともとらえることができる。当時、日本の劇団「文学座」が日本での公演の直前に、中国大使館から公演中止を要請されるという事件があった。劇中、青年期の毛沢東が登場する場面があるから、というのが主な理由であった(「中央公論」昭和五一年四月号に、当事者の手記がある)。 |
注6:『三国志』の英雄・関羽は、道教において、無数の「関帝廟」が建てられるほど有力な神となった。京劇の役者が関羽を演ずる場合、「点破」ないし「破臉」(はれん)と言って、化粧の最後にわざと顔に墨を一点はね、化粧の完璧さをそこなう習慣があった。この墨は一種の「ダッシュ」であり、神・関羽への畏敬の念のあらわれである。曹国麟『国劇臉譜芸術』(漢光文化事業、民国七三年、台北)一一三頁参照。 また関羽の非業の最期を描いた演目「走麦城」も、同様の宗教的配慮から、滅多に上演されない。同じ『三国志』の英雄でも、神ではない張飛や諸葛孔明については、この種の配慮はなされない。 |
注7:唐の玄宗皇帝は、道教では梨園(芸能界)の祖神とされる。そのため、玄宗と楊貴妃の故事を描いた長編演目『長生殿』の全劇を演ずると、その劇団は必ず解散に追い込まれる、という迷信があった。清の乾隆三十何年かに、ある大官が試みに『長生殿』全劇を春台班という劇団に上演させてみたところ、春台班は、別の理由によってではあるが、確かにその年のうちに解散してしまったという(焦循『劇説』巻六稿本)。 |
注8:この字形を「頭の大きな幽霊の姿そのもの」と解釈する説もある。 |
注9:田仲一成『中国祭祀演劇研究』(東京大学出版会、一九八一)三頁 |
(尸、大司命の神に扮して登場、歌う)
広開兮天門 天の扉を広く開いて
紛吾乗兮玄雲 われは黒いむら雲に乗る
令飄風兮先駆 つむじ風に命じて先駆けをさせ
使[水東]雨兮灑塵 夕立に命じて塵を洗い清めさせよう
([水東]は「サンズイの右に東」という 字の代わり)
(巫、神を見上げながら伴唱)
君廻翔兮以下 神は飛び舞い、下りたもう
踰空桑兮従女 空桑の山を越え、あなたについて行こう
(尸、下界を見おろしながら歌う)
紛総総兮九州 世界にひしめく人間たち
何寿夭兮在予 いかで、一人一人の寿命を予が関知しきれよう
大司命は星の名で、古代中国では人間の寿命を司る神とされた。夕暮どき、天空を飛翔しはじめた星(神)と、自分の長寿を祈ろうとする人間の、二人の対唱。人間は必死で神なる星を追いかける。
(巫、神を見上げながら伴唱)
高飛兮安翔 高く飛び、安らかに翔け
乗清気兮御陰陽 清らかな風に乗り、陰陽を統御したもう
吾与君兮斉速 私はあなたと同じ速さで走り
導帝之兮九坑 天帝を九坑の山にご案内したい
(尸、飛翔のしぐさを舞いつつ歌う)
霊衣兮被被 神の衣はひらめき
玉佩兮陸離 身に佩びた宝石はきらめく
壹陰兮壹陽 個々人の寿命でなく、大自然の陰と陽の循環こそが
衆莫知兮余所為 余の職掌であることを、人間どもは知らぬ
(巫、神を見上げながら伴唱)
折疏麻兮瑤華 聖なる疏麻の美しい花を手折り
将以遺兮離居 離れゆく神に贈ろうとしたのに……
老冉冉兮既極 老いはじわじわ忍びより、もう限界だ
不[宀/浸]近兮愈疏 なのに祈るべき神は、近づくどころか離れてゆく
([宀/浸]は「うかんむりの下に浸」という 字の代わり)
(尸、舞いつつ歌う)
乗龍兮[車米/舛][車米/舛] 竜車に乗ってリンリンと
([車米/舛]は「車へんに、隣の右半分」という 字の代わり)
高馳兮沖天 天頂たかく馳せのぼる
(尸、退場。巫、ひとり佇み、歌う)
結桂枝兮延佇 捧げものの香木の束を手に、佇むばかり
羌愈思兮愁人 ああ、思えば思うほど切ない
愁人兮奈何 でも、はかなんで、どうなるのだ
願若今兮無虧 せめて今この瞬間が完全であれと願おう
固人命兮有当 もとより人の寿命は天命だ
孰離合兮可為 霊肉の離合を、誰が自由に作為できよう
こうした巫尸の歌舞対唱が順調に発展すれば、そのまま初期演劇の演出の祖型となりうる。ギリシア悲劇「ペルシアの人々」では、巫は舞唱隊に、尸はダレイオス王の亡霊になる。日本の夢幻能では、巫は旅僧を演ずるワキに、尸は幽霊を演ずるシテになる。
中国では巫尸の歌舞対唱が宗教の範疇にとどまった期間が長く、なかなか演劇に開花できなかった。強力な宗族支配の存在という社会的構造が、宗教儀礼の演劇化を阻んでいたのである。古代の演劇の萌芽は、早い段階で有力宗族の「廟祭」に吸収されてしまい、有力宗族による村落支配の道具として秘儀化されてしまった(10)。ちょうど、古代日本で「天の岩戸」のドラマが鎮魂祭に吸収され秘儀化した経緯を想起させる。
注:10上掲『中国祭祀演劇研究』一二頁 |
注11:本節の記述は、ほぼ上掲『中国祭祀演劇研究』一四ー三一頁の説を踏襲する。 |
注12:范成大『石湖集』巻二六「詠河市歌者」 |
と詠まれているように、下級遍歴俳優が集まる場所であった。
こうした「市」で芸能化した社の祭りは、再び農村に帰り、村落演劇となった。村落の祭りの日、小市場地の寺廟で演じられていた当時の演劇については、脚本も残っていない。ただ、演劇上演に対して役所が出した禁令とか、当時の村落演劇を観劇した文人が書いた随筆や詩などの文献資料が残っている。これらを総合するに、当時の演劇は、現在でも中国の辺境や朝鮮半島で演じられているような仮面劇であった。
楊万里(一一二四ー一二〇六)は、当時の農村の祭りにおける村落演劇の様子を、
作社朝祠有足観 祠に向かって献ずる社の祭りは見ごたえがある
山農祈福更迎年 片田舎の農夫は福を祈り、豊かな実りを迎えた
忽然簫鼓来何処 突然、どこからか笛と鼓の音が聞こえてくると
走殺児童最可憐 子供たちが駆けて行くのも可愛らしい
虎面豹頭時自顧 虎や豹の仮面をかぶった者たちは時おり互いに見かわし
野謳市舞各争妍 農夫の歌と市の俳優の舞が互いに妍を競いあっている
王侯将相饒尊貴 王侯貴族は上流の生活に飽食しているが
不博渠儂一餉癲 彼や私のようなお祭り騒ぎの醍醐味は味わえまい
と詠じている(13)。
注13:楊万里『誠斎集』巻三七「観社」 |