【参考】卒賦一律呈成学士 木下順庵 卓犖高標挙彩霞。 英才況又玉無瑕。 登科蚤折三秋桂、 随使遙浮八月槎。 筆下談論通地脈、 胸中妙思吐天葩。 相逢何恨方言異、 四海斯文自一家。 ――『錦里文集』巻十二「対韓稿」(『詩集 日本漢詩』第十三巻、汲古書院、昭和六十三年十月) |
※参考・・・荻生徂徠は、孔子を生んだ古代中国の文化を崇拝したが、同時代の中国人を尊敬することはなかった。また物質文明で言えば、 中国より日本のほうが豊かであるという冷めた認識をもっていた(付録を参照)。以下、荻生徂徠自信が書いた漢文の手紙より抜粋。手紙全体の趣旨は---徳川光圀が始めた漢文の歴史書『大日本史』編纂事業の部署が、江戸の水戸藩邸から、常陸の水戸に移ることになった。 編纂事業に加わっていた岡井孝先(あざなは仲錫)も、江戸を離れ、水戸に引っ越すことになった。岡井の旧知の者たちは別れを惜しんだ。ひとり荻生徂徠だけは、岡井が江戸を離れることを喜んだ。 徂徠自身、南総の静かな田舎で育ったおかげで、幼児からたっぷり漢文の書籍に親しみ、学問を積み、学者として名を知られるようになった。江戸は、中国の都市をも凌駕する世界最大の都会だが、 それだけに誘惑や邪魔も多い。静かに学問をするには、水戸くらいの場所がちょうどよい。最適とは言えない。 | |
岩波・日本思想大系36『荻生徂徠』1973/1980 p.493-p.495
送岡仲錫徙常序 夫東都者、天下大都会也。古者虞夏之陋、亡論已。周諸侯八千、雖夥乎、各家其国、十二年一述職、竣事則還。其間聘問之如織、未聞淹乎周焉者。故宗周成周、自今観之、亦曰王畿之都已。(中略)亦惟万貨輻湊、五民之坌集、乃陸運難哉。以此言之、書籍所紀載、其言雖泰乎、長安、洛陽、南北京、可以知已。是何若吾東都之富、諸侯所家焉。 岡仲錫の常に徙るを送る序 夫れ東都なる者は、天下の大都会なり。古者の虞夏の陋、論亡きのみ。周の諸侯は八千、夥しと雖も各おの其の国に家し、十二年に一たび述職し、事竣れば則ち還る。其の間、聘問の織るが如くなれども、未だ周に淹まる者を聞かず。故に宗周・成周は、今より之を観れば、亦た王畿の都と 曰はんのみ。(中略)亦た惟だ万貨輻湊し、五民の坌集するは、乃ち陸運にては難きかな。此を以て之を言へば、書籍の紀載する所は、其の言、泰なりと雖も、長安・洛陽・南北京は、以て知るべきのみ。是れ何ぞ吾が東都の富、諸侯の家する所に若かんや。 |
岡仲錫が常陸に引っ越すのを送るにあたっての漢文 わが東都(江戸)は、世界的な大都会である。今日の江戸の規模にくらべれば、古代中国の都市は小くて貧弱だった。太古の夏王朝の都など、問題にならない。今日の日本には三百の大名がいるが、理想的な古典時代とされる周王朝には、八千諸侯がいた。周の諸侯は、数こそ多いものの、それぞれ地方の領国に住み、十二年に一度だけ中央の周王にお目見えし、終わるとすぐ地方の領国に戻った。周の都と地方を結ぶ道を諸侯 が上り下りする様は、まるで機織りの糸のように頻繁だったが、諸侯は周の都に定住はしなかった。わが江戸に、立派な大名屋敷がたくさんあるのとは、大違いである。古代の周は、たしかに文化的には偉大な古典時代だった。しかし今日の視点から見れば、周はこぢんまりとした王都にすぎないと言える。 (中略) 都会とは、膨大な物材がそこに集まり、そこからまた散ってゆく場所であり、さまざまな職業の人民が住んでいる。わが国の海に面した大都会の物流は、海運によって支えられている。しかし中国の内陸の都市は、陸運しかないので、おのずと限界がある。そこから考えると、昔の本に書いてある中国の都会の繁栄ぶりはすごいものの、実際には、中国の長安も洛陽も、南京も北京も、わが江戸の 繁栄ぶりと日本の大名の豊かさには、たいしたことはなかったろう。及ばないだろう。 |
(I)1763年から1764年にかけて来日した第11次朝鮮通信使の書記、金仁謙(きんじんけん/キム・インギョム)がハングルで書いた私的な旅行記録より。日本の都市文明の繁栄ぶりや女性の美しさに目を見張る一方、繁栄の背後にある要因については何の考慮も加えず、「倭人」を蔑視している。 高嶋淑郎訳注『日東壮遊歌』東洋文庫662(1999年), p241-p243 「一月二十二日 大坂城」の記述より (前略) 美濃太守の宿所の傍らの 高殿にのぼり 四方を眺める 地形は変化に富み 人家もまた多く 百万戸ほどもありそうだ 我が国の都城の内は 東から西に至るまで 一里といわれているが 実際は一里に及ばない 富貴な宰相らでも 百間をもつ邸を建てることは御法度 屋根をすべて瓦葺きにしていることに 感心しているのに 大したものよ倭人らは 千間もある邸を建て 中でも富豪の輩は 銅を以って屋根を葺き 黄金をもって家を飾りたてている その奢侈は異常なほどだ 南から北に至るまで ほぼ十里といわれる 土地はすべて利用され 人家、商店が軒を連ねて立ち並び 中央に浪華江[淀川]が 南北を貫いて流れている 天下広しといえこのような眺め またいずこの地で見られようか 北京を見たという訳官が 一行に加わっているが かの中原[中国]の壮麗さも この地には及ばないという この良き世界も 海の向こうより渡ってきた 穢れた愚かな血を持つ 獣のような人間が 周の平王のときにこの地に入り 今日まで二千年の間 世の興亡と関わりなく ひとつの姓を伝えきて 人民も次第に増え このように富み栄えているが 知らぬは天ばかり 嘆くべし恨むべしである この国では高貴な家の婦女子が 厠へ行くときは パジを着用していないため 立ったまま排尿するという お供の者が後ろで 絹の手拭きを持って待ち 寄こせと言われれば渡すとのこと 聞いて驚き呆れた次第 (以下略) 同上『日東壮遊歌』東洋文庫662, p281-p282 「二月十六日 品川→江戸」の記述より(1764年) 十六日、雨支度で 江戸に入る 左側には家が連なり 右側は大海に臨む 見渡す限り山はなく 沃野千里をなしている 楼閣屋敷の贅沢な造り 人々の賑わい男女の華やかさ 城壁の整然たる様 橋や舟にいたるまで 大坂城[大阪]、西京[京都]より 三倍は勝って見える 左右にひしめく見物人の 数の多さにも目を見張る 拙い我が筆先では とても書き表せない 三里ばかりの間は 人の群れで埋め尽くされ その数ざっと数えても 百万にはのぼりそうだ 女人のあでやかなること 鳴護屋[名古屋]に匹敵する (以下略) (II)江戸時代の最後、1865年に日本の江戸を訪れたハインリッヒ・シュリーマンは、日本の都市文明の繁栄ぶりと清潔さ、民度の高さを激賞しつつも、日本の政治と社会が封建的で、日本人が人権や自由の思想を知らないことを惜しんでいる。 ハインリッヒ・シュリーマン、石井和子訳『シュリーマン旅行記 清国・日本』講談社学術文庫1325(1998年/2009年)、p167-p168 (前略)もし文明という言葉が物質文明を指すなら、日本人はきわめて文明化されていると答えられるだろう。なぜなら日本人は、工芸品において蒸気機関を使わずに達することのできる最高の完成度に達しているからである。それに教育はヨーロッパの文明国家以上にも行き渡っている。シナをも含めてアジアの他の国では女たちが完全な無知のなかに放置されているのに対して、日本では、男も女もみな仮名と漢字で読み書きができる。だがもし文明という言葉が次のことを意味するならば、すなわち心の最も高邁な憧憬と知性の最も高貴な理解力をかきたてるために、また迷信を打破し、寛容の精神を植えつけるために、宗教――キリスト教徒が理解しているような意味での宗教の中にある最も重要なことを広め、定着させることを意味するならば、確かに、日本国民は少しも文明化されていないと言わざるを得ない。(中略)それは第一に、民衆の自由な活力を妨げ、むしろ抹殺する封建体制の抑圧的な傾向があげられる。公然であろうと隠密裡であろうとを問わず忌まわしい諜報機構が存在し、しかもそれが大君の政府を支えている。実際、密告は、この政府のもっとも強力な武器である。(以下略) |