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先哲叢談 漢文選

最初の公開2012-11-15 最新の更新2014-8-13
[陳元贇] [朱之瑜(朱舜水)] [山崎嘉(山崎闇斎)]  [佐藤直方]  [物茂卿(荻生徂徠)]  [源君美(新井白石)]  [雨森東(雨森芳洲)]
【参考】卒賦一律呈成学士  木下順庵
卓犖高標挙彩霞。 英才況又玉無瑕。 登科蚤折三秋桂、 随使遙浮八月槎。 筆下談論通地脈、 胸中妙思吐天葩。 相逢何恨方言異、 四海斯文自一家。
――『錦里文集』巻十二「対韓稿」(『詩集 日本漢詩』第十三巻、汲古書院、昭和六十三年十月)

巻之二 陳元贇
【原文】
 元贇能嫻此邦語、故常不用唐語。元政詩有「人無世事交常淡、客慣方言譚毎諧」。又「君能言和語、郷音舌尚在。久狎十知九、傍人猶未解」句。
【書き下し】
 元贇、能く此の邦の語に嫻る。故に常に唐語を用ひず。元政の詩に「人は世事無く、交り常に淡し。客、方言に慣れて、譚、毎に諧ふ」と、又「君、能く和語を言ふも、郷音、舌に尚在り。久しく狎れて十に九を知る。傍人、猶、未だ解せず」との句、有り。
【大意】
 陳元贇は、わが国の言葉(日本語)を習得し、ふだん中国語は使わなかった。日蓮宗の僧で、陳元贇と親交を結んだ元政が書いた漢詩の中に「あなたは、俗世間の雑事から自由で、人との交際も水のように淡い君子の交わりだ。異郷の地に身を寄せるあなたは、外国語に慣れて、会話の話題はすべて適切だ」また「あなたは日本語ができますが、故郷のなまりがまだ舌に残っています。私はおつきあいして久しいので、あなたの中国なまりの日本語も九割がた理解できますが、はたで聞いている人にはあなたの日本語がわかりません」という句がある。
※漢文では、中国語の文語を「文」「漢文」、中国語の口語を「唐語」「唐話」と呼ぶ。
※「方言」=中国の中央部から見て、四方の遠隔地の言葉。中国語の方言だけでなく、日本語や朝鮮語など外国語も含む。

【原文】
 元贇善拳法、当時世未有此技、元贇創伝之、故此邦拳法以元贇為開祖、正保中、於江戸城南、西久保国正寺教徒。(以下略)
【書き下し】
元贇、拳法を善くす。当時、世に未だ此の技有らず。元贇、創めて之を伝ふ。故に此の邦の拳法は、元贇を以て開祖と為す。正保中、江戸の城南、西久保の国正寺に於て徒に教ゆ。(以下略)
【大意】
 陳元贇は拳法がうまかった。当時、日本にまだこの武技はなく、彼が中国から初めて伝えた。わが国の拳法は、陳元贇を開祖としている。彼は正保年間、江戸城の南、西久保にあった国昌寺で、日本人の生徒たちに拳法を教えた。(以下略)
※陳元贇の死後、彼を日本の柔術(柔道の源流)の開祖とする言説が広まった。しかし、史実では、陳元贇が本当に中国拳法の達人だったかどうか、彼が日本に拳法を伝えたのかどうかは、不明である。
※西久保は、現在の東京都港区虎ノ門一帯。国正寺は「国昌寺」で、明暦の大火で焼失し、下高輪に移転したが、昭和初年に廃寺となった。

巻之二 朱之瑜
【原文】
 舜水、冒難而輾転落魄者十数年。其来居此邦、初窮困不能支。柳河安東省庵、師事之、贈禄一半。 久之、水戸義公、聘為賓師。寵待甚厚、歳致饒裕。然、倹節自奉、無所費、至人或詬笑其嗇也。遂儲三千余金。 臨終、尽納之水戸庫内。嘗謂曰「中国乏黄金。若用此于彼、一以当百矣」。新井白石謂「舜水縮節積余財。 非苟而然矣。其意蓋在充挙義兵以図恢復之用也。然、時不至而終。可憫哉」。
【書き下し】
 舜水、難を冒して輾転落魄すること十数年。其の来りて此の邦に居るや、初め窮困して支ふること能はず。 柳河の安東省庵、之に師事し、禄の一半を贈る。之を久くして、水戸の義公、聘して賓師と為す。寵待甚だ厚く、歳〻饒裕を致す。然るに倹節自ら奉じ、費す所無し。人、或は其の嗇を詬笑するに至る。遂に三千余金を儲ふ。臨終に尽く之を水戸の庫内に納る。嘗て謂ひて曰く「中国、黄金に乏し。若し此れを彼に用ひば、一以て百に当らん」と。新井白石、謂ふ「舜水、縮節して余財を積む。苟もして然るに非ず。其の意、蓋し義兵を挙げ、以て恢復を図るの用に充つるに在り。然るに、時至らずして終る。憫むべきかな」と。
【大意】
 明末清初の動乱期に日本に亡命してきた学者の朱舜水は、命の危険を冒してアジア各国を転々として、苦労を重ねること十数年。わが国の長崎に来た当初は、金銭的に困窮し、生活ができなかった。筑後の柳河藩(柳川藩とも書く)の儒者であった安東省菴(安東省庵)は、朱舜水の弟子となり、自分がもらっていた俸禄二百石の半分を師である朱舜水に贈った。その後しばらくして、水戸藩主の徳川光圀(諡は義公。いわゆる「水戸黄門」)が朱舜水を招聘し、客員教授とした。光圀は、朱舜水を大切にもてなし、毎年、相当な金額を与えた。朱舜水は金銭的に豊かになったが、自ら質素倹約を実行し、お金を使わなかった。そのため、朱舜水はケチだ、とあざ笑う者もいた。結局、朱舜水は三千両もの大金を貯めたが、自分では使わず、亡くなる直前に貯金の全額を水戸藩に返納した。朱舜水は生前「中国は、黄金が乏しい。もし、日本で得た黄金を中国で使えば、百倍の効果があろう」と語っていた。後世、儒者の新井白石はこう述べた。「朱舜水が節約して財産を貯めたのは、蓄財を図ってそうしたのではあるまい。たぶん彼は、中国の明王朝を復興するための義勇軍を挙兵するため、その軍資金として貯金したのだろう。だが結局、そのチャンスが来ないまま、彼は死んだ。憐れむべきである」

 朱舜水の漢詩 「述懐」
【原文】 【書き下し文】
九州如瓦解  九州 瓦の如く解し
忠信苟偸生  忠信 苟くも生を偸む
受詔蒙塵際  詔を受く 蒙塵の際
晦跡到東瀛  跡を晦して東瀛に到る
回天謀未就  回天 謀 未だ就らず
長星夜夜明  長星 夜夜 明らかなり
単身寄孤島  単身 孤島に寄せ
抱節比田横  節を抱きて田横に比す
已聞鼎命変  已に鼎命の変を聞き
西望独呑声  西を望みて独り声を呑む
【大意】中国は瓦解した。忠と信の心を抱く私は、殉死せず、いたずらに生きながらえている。わが明王朝の皇帝陛下が、清軍の猛攻を受けて、逃げられた時、海外の援軍を求める詔を発せられた。その詔を受けた私は、中国から姿を消し、日本にやってきた。天下の形勢を逆転して、清軍を北へ押し戻すという計画は、まだ成功していない。天を見上げると、不吉の予兆である彗星が、毎夜、長い尾を光らせている。昔、斉王の田横は、漢の劉邦に敗れ、海の島に逃げたが、その後、生き恥をさらすことを嫌って自決した。今、私も遠い海の島で、単身、亡命生活を送っている。聞けば、海の向こうの祖国では、王朝が交替したという。西のほう、遠い海の向こうの故郷を向き、慟哭の声を飲み込む。

【原文】
 舜水帰化歴年所。能倭語。然及其病革也、遂復郷語。則侍人不能了解。
【書き下し】
 舜水、帰化して年所を歴る。倭語を能くす。然るに、其の病、革まるに及ぶや、遂に郷語に復す。則ち侍人、了解する能はず。
【大意】
 朱舜水は、日本に帰化して長く暮らしたので、日本語ができるようになった。しかし晩年、病気が重くなって危篤状態になると、中国の故郷の言葉に戻ってしまった。仕えていた人は、理解できなくなった。
※「郷語」=朱舜水の故郷は現在の浙江省余姚市で、地元の方言は、中国語の標準語とはかなり違う。

【原文】
 舜水文集二十八巻、義公与世子、共所編輯也。毎巻署名、冠以「門人」二字。安東省庵、称為「公侯之尊、尊師如此。真百世之美事」。誠然。
【書き下し】
 『舜水文集』二十八巻、義公、世子と共に編輯する所なり。毎巻、名を署し、冠するに「門人」の二字を以てす。安東省庵、称して「公侯の尊、師を尊ぶこと此の如きは、真に百世の美事なり」と為す。誠に然り。
【大意】
 朱舜水の死後、出版された『舜水先生文集』二十八巻は、水戸光圀が、水戸藩の後継者と共同で編集した本である。巻ごとに、朱舜水の「門人」である光圀が編集した、と署名してある。儒者の安東省庵は「徳川光圀ほどの高い位にある大名が、師への敬意をこのように表したのは、歴史に残る美談である」とほめたたえた。まことに、そのとおりである。
※『舜水先生文集』巻頭の署名は「門人権中納言従三位源光圀輯」。権中納言は、日本の律令における官職名で、唐名は「黄門」。徳川氏は、名字は「徳川」だが、本姓は「源」なので、正式の場での姓名は「源光圀」である。光圀は明治時代に「正一位」を追贈されたが、生前の官位は「従三位」だった。

巻之三 山崎嘉
【原文】
 嘗問羣弟子曰「方今彼邦、以孔子為大将、孟子為副将、率騎数万、来攻我邦、則吾党学孔孟之道者、為之如何」。弟子咸不能答曰「小子不知所為。願聞其説」。曰「不幸若逢此厄、則吾党、身被堅、手執鋭、与之一戦擒孔孟、以報国恩。此即孔孟之道也」。
 後弟子見伊藤東涯、告以此言、且曰「如吾闇斎先生、可謂通聖人之旨矣。不然、安得能明此深義而為之説乎」。東涯微笑曰「子幸不以孔孟之攻我邦為念。予保其無之」。
【書き下し文】
 嘗て羣弟子に問ひて曰く「方今、彼の邦、孔子を以て大将と為し、孟子を副将と為して騎数万を率ゐ、来りて我が邦を攻めば、則ち吾が党の孔孟の道を学ぶ者、之を如何と為す」と。弟子、咸(みな)、答ふる能はず。曰く「小子為す所を知らず。願くは其の説を聞かん」と。曰く「不幸にして若し此の厄(やく)に逢はば、則ち吾が党、身に堅を被り、手に鋭を執り、之と一戦して孔孟を擒にし、以て国恩に報ぜん。此れ即ち孔孟の道なり」と。
 後、弟子、伊藤東涯に見え、告ぐるに此の言を以てし、且つ曰く「吾が闇斎先生の如きは聖人の旨に通ずと謂ふべし。然らずんば、安んぞ能く此の深義を明らかにして之が説を為すことを得んや」と。東涯、微笑して曰く「子、幸ひにして孔孟の我が邦を攻むるを以て念と為さざれ。予、其れ之無きを保す」と。
【大意】
 山崎闇斎はかつて弟子たちに訊いた。「もし今、かの国が、孔子を大将とし、孟子を副将として、数万の騎兵を率いてわが国に攻めてきたとする。その場合、われら孔孟の道を学ぶ者は、どうすべきか」。弟子は誰も答えられず、「私どもは、どうすべきかわかりません。先生のお考えをお聞かせください」と言った。闇斎は「もし不幸にしてこのような災厄に逢ってしまったら、われわれは身に甲冑をまとい、手に武器を取り、敵と一戦して孔子と孟子を捕虜にして、祖国の恩に報いるのだ。これが孔孟の道だ」と言った。
 後に弟子は、伊藤東涯に会い、闇斎のこの言葉を伝えた上で「われらの闇斎先生のような方こそ、聖人の教えの本質に通じていると言えましょう。だからこそ、孔孟の教えの深い意味を明らかにして、このように優れたお考えをおっしゃることができたのです」と述べた。東涯はほほえんで「きみ、心配することはないよ。幸い、孔子や孟子がわが国に攻めてくることは、ない。私が、ないことを保障する」と言った。

巻之五 佐藤直方
【原文】
 直方無字号。或謂曰「山崎闇斎、子之師也。浅見絅斎、三宅尚斎、則子友也。而皆以号称。子、独無可尊称者。不知有何説」。直方曰「余従邦俗耳。此邦自古無字号。何必背邦俗之為。仮令余之彼西之邦、亦以名直方通称五郎左衛門居」。故雖弟子、直称曰「直方先生」。(以下略)
【書き下し】
 直方、字号無し。或ひと謂ひて曰く「山崎闇斎は子の師なり。浅見絅斎、三宅尚斎は則ち子の友なり。而して皆、号を以て称せらる。子、独り尊称すべき者無し。知らず、何の説有りや」と。直方曰く「余は邦俗に従ふのみ。此の邦、古より字号無し。何ぞ必ずしも邦俗に背くことを之れ為さんや。仮令ひ余、西の邦に之くも、亦た名は直方、通称は五郎左衛門を以て居らんとす」と。故に弟子と雖も直に称して「直方先生」と曰ふ。(以下略)
【大意】
 佐藤直方は、漢学者にしては珍しく、漢文風の号を名乗らなかった。ある人が質問した。「あなたの学問の師である山崎『闇斎』先生も、あなたの同門である浅見『絅斎』先生も三宅『尚斎』先生も、みな、漢文風の号を名乗り、世間からもそう尊称されています。でも、あなただけは、師や学友と違い、号をお持ちではない。何か理由があるのですか」。直方は言った。「私は、自国の風習に従っているだけだ。もともとわが国は、西の国(中国)とは違い、字や号を名乗る習慣は昔から無い。もし仮に、私が西の国に行くことがあっても、私は日本いる時と同じく、名前は直方、通称は五郎左衛門で済ませるつもりだ」。こういうわけで、佐藤直方の弟子であっても、ただ「直方先生」と、師の本名をじかに使って呼んだのである。
※佐藤直方は、山崎闇斎の弟子となり、浅見絅斎・三宅尚斎とあわせて「崎門の三傑」と称されるほど学問を究めたが、後に師の説を批判して袂を分かった。

巻之六 物茂卿
【原文】
 徂徠毎自言「熊沢之智、伊藤之行、加之以我之学、則東海始出一聖人」。
【書き下し】
 徂徠毎に自ら言ふ。「熊沢の智、伊藤の行、之に加ふるに我の学を以てせば、則ち東海始めて一聖人を出ださん」と。
【大意】
 荻生徂徠は、いつも独り言のように言っていた。「もし、熊沢蕃山の知恵と、伊藤仁斎の徳行、それに私の学問が加われば、わが国にもようやく聖人が一人、あらわれるのだが」。

【原文】
徂徠所著之書、字傍不施訓訳。僧大典「萍過録」載、朝鮮成龍淵曰「貴邦書冊、行傍皆有訳音、此只可行於一国、非万国通行之法也。惟物茂卿文集無訳音。即此一事、可知茂卿為豪傑之士也」。
【書き下し】
 徂徠の著す所の書、字傍に訓訳を施さず。僧大典の「萍過録」に載す。朝鮮の成龍淵曰く「貴邦の書冊は皆行傍に訳音有り。此れ只一国に行ふべく、万国通行の法に非ず。惟、物茂卿の文集は訳音無し。即ち此の一事、茂卿の豪傑の士為るを知るべきなり」と。
【大意】
 荻生徂徠は、聖人の本質に近づくため、漢文を中国語で音読することを主張し、漢文訓読を否定した。彼の漢文の著書は、他の日本人の本と違い、訓読のための返り点も送りガナも振っていなかった。僧大典の「萍過録」の記載によると、朝鮮通信使の正使書記として来日した成龍淵は、こう述べたという。「貴国の書物は、みな漢文の原文の脇に読みがなや送りガナがふってある。これは、日本一国においてだけ行われている方法であり、朝鮮や中国など諸外国では行われていない。日本でもただ、荻生徂徠の漢文の本だけには、読み方がふってない。この一事だけをもってしても、荻生徂徠が傑出した人物であることがわかる」。
※参考・・・荻生徂徠は、孔子を生んだ古代中国の文化を崇拝したが、同時代の中国人を尊敬することはなかった。また物質文明で言えば、 中国より日本のほうが豊かであるという冷めた認識をもっていた(付録を参照)。以下、荻生徂徠自信が書いた漢文の手紙より抜粋。手紙全体の趣旨は---徳川光圀が始めた漢文の歴史書『大日本史』編纂事業の部署が、江戸の水戸藩邸から、常陸の水戸に移ることになった。 編纂事業に加わっていた岡井孝先(あざなは仲錫)も、江戸を離れ、水戸に引っ越すことになった。岡井の旧知の者たちは別れを惜しんだ。ひとり荻生徂徠だけは、岡井が江戸を離れることを喜んだ。 徂徠自身、南総の静かな田舎で育ったおかげで、幼児からたっぷり漢文の書籍に親しみ、学問を積み、学者として名を知られるようになった。江戸は、中国の都市をも凌駕する世界最大の都会だが、 それだけに誘惑や邪魔も多い。静かに学問をするには、水戸くらいの場所がちょうどよい。最適とは言えない。
岩波・日本思想大系36『荻生徂徠』1973/1980 p.493-p.495
送岡仲錫徙常序
 夫東都者、天下大都会也。古者虞夏之陋、亡論已。周諸侯八千、雖夥乎、各家其国、十二年一述職、竣事則還。其間聘問之如織、未聞淹乎周焉者。故宗周成周、自今観之、亦曰王畿之都已。(中略)亦惟万貨輻湊、五民之坌集、乃陸運難哉。以此言之、書籍所紀載、其言雖泰乎、長安、洛陽、南北京、可以知已。是何若吾東都之富、諸侯所家焉。
岡仲錫の常に徙るを送る序
 夫れ東都なる者は、天下の大都会なり。古者の虞夏の陋、論亡きのみ。周の諸侯は八千、夥しと雖も各おの其の国に家し、十二年に一たび述職し、事竣れば則ち還る。其の間、聘問の織るが如くなれども、未だ周に淹まる者を聞かず。故に宗周・成周は、今より之を観れば、亦た王畿の都と 曰はんのみ。(中略)亦た惟だ万貨輻湊し、五民の坌集するは、乃ち陸運にては難きかな。此を以て之を言へば、書籍の紀載する所は、其の言、泰なりと雖も、長安・洛陽・南北京は、以て知るべきのみ。是れ何ぞ吾が東都の富、諸侯の家する所に若かんや。
岡仲錫が常陸に引っ越すのを送るにあたっての漢文
 わが東都(江戸)は、世界的な大都会である。今日の江戸の規模にくらべれば、古代中国の都市は小くて貧弱だった。太古の夏王朝の都など、問題にならない。今日の日本には三百の大名がいるが、理想的な古典時代とされる周王朝には、八千諸侯がいた。周の諸侯は、数こそ多いものの、それぞれ地方の領国に住み、十二年に一度だけ中央の周王にお目見えし、終わるとすぐ地方の領国に戻った。周の都と地方を結ぶ道を諸侯 が上り下りする様は、まるで機織りの糸のように頻繁だったが、諸侯は周の都に定住はしなかった。わが江戸に、立派な大名屋敷がたくさんあるのとは、大違いである。古代の周は、たしかに文化的には偉大な古典時代だった。しかし今日の視点から見れば、周はこぢんまりとした王都にすぎないと言える。
(中略)
 都会とは、膨大な物材がそこに集まり、そこからまた散ってゆく場所であり、さまざまな職業の人民が住んでいる。わが国の海に面した大都会の物流は、海運によって支えられている。しかし中国の内陸の都市は、陸運しかないので、おのずと限界がある。そこから考えると、昔の本に書いてある中国の都会の繁栄ぶりはすごいものの、実際には、中国の長安も洛陽も、南京も北京も、わが江戸の 繁栄ぶりと日本の大名の豊かさには、たいしたことはなかったろう。及ばないだろう。

巻之五 源君美
【原文】
 白石、与対馬西山健甫(名順泰)為旧友。年十六、録所作詩一万首、因健甫求韓客為之評。則客請而接見、遂作序、褒揚之。後入木下順庵門。健甫又為之介。(以下略)
【書き下し】
 白石、対馬の西山健甫(名は順泰)と旧友為り。年十六、作る所の詩一万首を録し、健甫に因りて韓客に之が評を為さんことを求む。則ち客請ひて接見し、遂に序を作りて之を褒揚す。後、木下順庵の門に入る。健甫、又、之が介を為す。(以下略)
【大意】
 漢学者で政治家にもなった新井白石は、もともと対馬の西山健甫(原漢文の割注に「名は順泰」とある)と旧友であった。十六歳のとき、自分が作った漢詩一万首を集め、西山健甫を通じて、来日した朝鮮人に批評を頼んだ。朝鮮人は、白石の漢詩の出来ばえに感心し、白石に会うことを申し出た。その上、詩集の序文を書いて、白石の文才を褒めた。後に白石は、木下順庵の門下に入ったが、これも西山健甫の紹介によるものであった。(以下略)

【原文】
 正徳辛卯、韓使来聘。白石建議、饗使者止申楽、奏雅楽等、多革旧例。或与使者廷論礼法、使者遂被摧折。
 祇南海賀白石六十七言古詩有「韓之使者執玉帛、血面争礼頑如石、公歴西階樞衣升、軒軒如霞挙屋額、腰帯紫陽太守印、眼如紫電髯如戟、按剣叱叱殿柱震、使者胆竦喪其魄、撃剣歌成血吹霧、機鋒触処皆辟易、礼成楽奏賓主歓、王家宝典与日赫」句。 (南海自註云「韓客謂公曰『嘗聞貴国多長於撃剣之技者。今可得幸一観』。公曰『観之不可遽辨。吾今為客説其涯略』。席上作『撃剣歌』一篇、以示」)
【書き下し】
 正徳辛卯、韓使、来聘す。白石、建議して、使者を饗するに申楽を止め雅楽を奏する等、多く旧例を革む。或ひは使者と礼法を廷論し、使者遂に摧折せらる。
 祇南海が白石の六十を賀する七言古詩に「韓の使者、玉帛を執る。血面、礼を争ひて頑として石の如し。公、西階を歴て衣を樞げて升れば、軒軒、霞の如く、屋額に挙る。腰に帯ぶ、紫陽太守の印。眼は紫電の如く、髯は戟の如し。剣を按じて叱叱すれば殿柱震へ、使者の胆は竦みて其の魄を喪ふ。撃剣、歌成りて、血、霧を吹き、機鋒触るる処、皆辟易す。礼成り、楽奏して賓主歓び、王家の宝典、日と赫く」の句有り。(南海の自註に云ふ「韓客、公に謂つて曰く『嘗て聞く、貴国には撃剣の技に長ずる者多し、と。今、幸ひに一たび観ることを得べきや』と。公曰く『之を観ること、遽には辨ずべからず。吾、今、客の為に其の涯略を説かん』と。席上、『撃剣歌』一篇を作りて以て示す」と)
【大意】
 正徳年間の辛卯の年(正徳元年=一七一一年)、朝鮮通信使が日本にやって来た。新井白石は、莫大な経費を要する通信使のもてなしを簡略化した。江戸城での歓迎の宴会では、それまでは猿楽(能楽のこと)を上演していたが、白石は雅楽を上演した。徳川将軍の称号をそれまでの「日本国大君」から「日本国王」に変更し、幕府の将軍が朝鮮国王が対等であることを強調した。白石が旧来の外交慣行を大幅に改めたため、朝鮮通信使の側は反発し、礼儀や書式について江戸城で論争をくりひろげた。結局、朝鮮の使者が折れた。
 白石の同門で、有名な漢詩人である祇園南海は、白石が六十歳になったとき、お祝いの漢詩を作った。その七言古詩の中に、このような詩句がある。「朝鮮半島から、一国を代表する使節が来日した。顔を血のように真っ赤にして、礼を争い、石のように頑固で譲らなかった。あなたは、西の階から服のすそをかかげて上り、軽々と霞のように、余裕たっぷりの態度で壇上に上がった。あなたは腰に「紫陽太守」(白石の別の号は「紫陽」で、彼の官は筑後守であった)の印を帯び、眼は稲妻のごとく輝き、ひげは武器のほこのように威圧感があった。あなたが腰の刀に手を掛けて大声をあげると、江戸城の建物の中の柱は震動した。朝鮮国の使者も、恐怖のあまり震え上がった。あなたは、朝鮮の使者の求めに応じて、その場で「撃剣の歌」を作って示したが、その詩句の言葉は、まるで血煙を吹くように激烈だったので、みな、身をすくめてしまった。朝鮮通信使と日本側の礼の改訂についての話がまとまり、宴会の雅楽の演奏が始まると、朝鮮側も日本側も喜びを分かちあった。日本の王家の威儀は、太陽のように輝いた」。(原漢文の割り注。祇園南海の自註に、こうある。「朝鮮通信使は、白石公に『貴国には撃剣の技の達人が多いと、昔から聞いております。今、見ることができるでしょうか』と言った。白石公は『いますぐこの場で見たい、とおっしゃられても、にわかにはご用意できません。私がこの場で、はるばるいらした皆さんのために、概略をお話ししましょう』と言い、その場の席上で『撃剣歌』一篇を作り、朝鮮通信使の一行に示した)。
※朝鮮通信使と白石のやりとりについては[
こちらの頁も参照]
【原文】
 入貢琉球人得『白石詩草』帰、遂致之清。、清翰林鄭任鑰、自写作之序。此本復経琉球至日本、終落白石手。白石珍蔵之。而序中指白石書「新堪」。此勘堪音相近。蓋誤伝新井勘解由、略称之云。
【書き下し】
 入貢の琉球人、『白石詩草』を得て帰り、遂に之を清に致す、清の翰林・鄭任鑰、自ら写して之が序を作る。此の本、復た琉球を経て日本に至り、終に白石の手に落つ。白石、之を珍蔵す。而して序中、白石を指して「新堪」と書す。此れ「勘」「堪」音相近し。蓋し新井勘解由を誤り伝へ、之を略称すと云ふ。
【大意】
 「江戸上り」の使節でやってきた琉球人が、新井白石の漢詩集『白石詩草』を入手し、琉球に持ち帰った。その後、この漢詩集の本を清国人に渡した。清の翰林・鄭任鑰は、白石の漢詩集を自ら筆写して、序文まで書いた。この写本はまた琉球を経て、日本に戻ってきて、新井白石の手に届いた。白石はこの本を大切に保存した。ただ、鄭任鑰が書いた序文の中で、白石のことを、なぜか「新堪」と書いてある。新井白石の受領名(武士が習慣的に名乗った非公式の官職名)は「勘解由」だったので、日本人は彼を「新井勘解由」とも呼んだ。中国には、受領名という習慣も、「勘解由使」という官名も無い。「勘」と「堪」の発音は似ているので、おそらく、中国人である鄭任鑰は、「新井勘解由」という日本的呼称を勝手に省略して中国の人名風に二文字に縮め、しかも「勘」を「堪」と間違えてしまった、ということらしい。
※鄭任鑰が書いた、白石を激賞する文章は[こちらを参照]。
巻之六 雨森東
【原文】
 芳洲通象胥之言、其毎与韓人相説話、不仮譯者、韓人甞戯謂曰「君善操諸邦音、而殊熟日本」。
【書き下し】
芳洲、象胥の言に通ず。其の毎に韓人と相ひ説話するに、譯者を仮らず。韓人、甞て戲に謂ひて曰く「君、善く諸邦の音を操る。殊に日本に熟す」と。
【大意】
 雨森芳洲は、中国語や朝鮮語にも通じていた。朝鮮人と会話するときは、いつも通訳を通さず、直接話した。あるとき朝鮮人が冗談を言った。「あなたは、いろいろな国の言葉がお上手ですね。特に、日本語がお上手です」

巻之六 服元喬
【原文】
 南郭称唐土、以「海外」或「彼邦」「彼方」、未嘗称「中華」「中国」。与徂徠自題東夷物茂卿大庭逕。知不足斎叢書中収論語皇疏、而南郭序中有「中華」字。此鮑以文改易「海外」耳。
【書き下し】
 南郭、唐土を称するに、「海外」或は「彼の邦」「彼の方」を以てし、未だ嘗て「中華」「中国」と称せず。徂徠が自ら東夷の物茂卿と題するとは大いに庭逕あり。「知不足斎叢書」中、『論語』皇疏を収む。而して南郭が序中に「中華」の字、有り。此れ、鮑以文が「海外」を改易せるのみ。
【大意】
 服部南郭は、唐土を指して言うときは、必ず「海外」とか「かの国」「かの領域」などの語を使い、一度も「中華」「中国」という呼称は使わなかった。南郭の師であった荻生徂徠が、中国文明を崇拝するあまり、自分を卑下して「東夷(東の未開人)」の「物茂卿」(中国人風に作った名前)と名乗ったのとは、たいへんな違いであった。
 清国の鮑以文(鮑廷博)が編んだ「知不足斎叢書」には、『論語義疏』も収録されている(『論語義疏』は、梁の皇侃が書いた『論語』の注釈書。学問の上で重要な本だったが、中国本土では一冊残らず散逸し、日本にのみ伝わっていた。その本を江戸時代の日本で校刻・出版され、それが長崎経由で中国にも逆輸出され、中国の学界を驚かせた)。「知不足斎叢書」に収録されている『論語義疏』を見ると、服部南郭が書いた序文に「中華」という文字がある。これは、南郭が書いた原文は「海外」だったのに、清国人である鮑以文が、勝手に「中華」と書き直してしまったのだ。
付録 日本を見た外国人の評価
 荻生徂徠は、日本の江戸は世界的な大都会だ、という認識をもっていた。外国人も、同様の見解をもっていた。

(I)1763年から1764年にかけて来日した第11次朝鮮通信使の書記、金仁謙(きんじんけん/キム・インギョム)がハングルで書いた私的な旅行記録より。日本の都市文明の繁栄ぶりや女性の美しさに目を見張る一方、繁栄の背後にある要因については何の考慮も加えず、「倭人」を蔑視している。

高嶋淑郎訳注『日東壮遊歌』東洋文庫662(1999年), p241-p243

「一月二十二日 大坂城」の記述より
(前略) 美濃太守の宿所の傍らの 高殿にのぼり
四方を眺める 地形は変化に富み
人家もまた多く 百万戸ほどもありそうだ
我が国の都城の内は 東から西に至るまで
一里といわれているが 実際は一里に及ばない
富貴な宰相らでも 百間をもつ邸を建てることは御法度
屋根をすべて瓦葺きにしていることに 感心しているのに
大したものよ倭人らは 千間もある邸を建て
中でも富豪の輩は 銅を以って屋根を葺き
黄金をもって家を飾りたてている その奢侈は異常なほどだ
南から北に至るまで ほぼ十里といわれる
土地はすべて利用され 人家、商店が軒を連ねて立ち並び
中央に浪華江[淀川]が 南北を貫いて流れている
天下広しといえこのような眺め またいずこの地で見られようか
北京を見たという訳官が 一行に加わっているが
かの中原[中国]の壮麗さも この地には及ばないという

この良き世界も 海の向こうより渡ってきた
穢れた愚かな血を持つ 獣のような人間
周の平王のときにこの地に入り 今日まで二千年の間
世の興亡と関わりなく ひとつの姓を伝えきて
人民も次第に増え このように富み栄えているが
知らぬは天ばかり 嘆くべし恨むべしである
この国では高貴な家の婦女子が 厠へ行くときは
パジを着用していないため 立ったまま排尿するという
お供の者が後ろで 絹の手拭きを持って待ち
寄こせと言われれば渡すとのこと 聞いて驚き呆れた次第
(以下略)

同上『日東壮遊歌』東洋文庫662, p281-p282
「二月十六日 品川→江戸」の記述より(1764年)
十六日、雨支度で 江戸に入る
左側には家が連なり 右側は大海に臨む
見渡す限り山はなく 沃野千里をなしている
楼閣屋敷の贅沢な造り 人々の賑わい男女の華やかさ
城壁の整然たる様 橋や舟にいたるまで
大坂城[大阪]、西京[京都]より 三倍は勝って見える
左右にひしめく見物人の 数の多さにも目を見張る
拙い我が筆先では とても書き表せない
三里ばかりの間は 人の群れで埋め尽くされ
その数ざっと数えても 百万にはのぼりそうだ
女人のあでやかなること 鳴護屋[名古屋]に匹敵する
(以下略)

(II)江戸時代の最後、1865年に日本の江戸を訪れたハインリッヒ・シュリーマンは、日本の都市文明の繁栄ぶりと清潔さ、民度の高さを激賞しつつも、日本の政治と社会が封建的で、日本人が人権や自由の思想を知らないことを惜しんでいる。

ハインリッヒ・シュリーマン、石井和子訳『シュリーマン旅行記 清国・日本』講談社学術文庫1325(1998年/2009年)、p167-p168

(前略)もし文明という言葉が物質文明を指すなら、日本人はきわめて文明化されていると答えられるだろう。なぜなら日本人は、工芸品において蒸気機関を使わずに達することのできる最高の完成度に達しているからである。それに教育はヨーロッパの文明国家以上にも行き渡っている。シナをも含めてアジアの他の国では女たちが完全な無知のなかに放置されているのに対して、日本では、男も女もみな仮名と漢字で読み書きができる。だがもし文明という言葉が次のことを意味するならば、すなわち心の最も高邁な憧憬と知性の最も高貴な理解力をかきたてるために、また迷信を打破し、寛容の精神を植えつけるために、宗教――キリスト教徒が理解しているような意味での宗教の中にある最も重要なことを広め、定着させることを意味するならば、確かに、日本国民は少しも文明化されていないと言わざるを得ない。(中略)それは第一に、民衆の自由な活力を妨げ、むしろ抹殺する封建体制の抑圧的な傾向があげられる。公然であろうと隠密裡であろうとを問わず忌まわしい諜報機構が存在し、しかもそれが大君の政府を支えている。実際、密告は、この政府のもっとも強力な武器である。(以下略)

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