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ビジネスパーソンの教養 漢文古典の人間学

  NHKカルチャーセンター青山教室  講師 明治大学教授 加藤徹
最初の公開2019-01-10 最新の更新2019-02-28

今後の予定
  1. 第一回】一月十日 「論語」 孔子が作った中国文明のプロトコル
    古代中国の人間関係ネットワークは、血縁、地縁、職縁など、他国と大差がないものだった。孔子は「学縁」を提唱し、「志縁」を創造した。後世の科挙や士大夫階層の興隆、現在の中国共産党の「同志」による統治など、中国文明のグランドデザインを描いたのは、孔子であった。日本人は『論語』を個人的な修養の書として読みたがる傾向があるが、志縁社会の提唱、という側面から読むと、孔子や『論語』の別の側面と、中国人の本質が見えてくる。
  2. 第二回】一月二十四日 『孫子』 最終兵器は人間の心
     中国文明の「文」を設計したのが孔子なら、「武」を大成したのは孫子(孫武)である。戦争の本質は心理戦であり、最良の勝利は不戦必勝、つまり、そもそも敵に戦争を起こす気を起こさせぬことだ、と喝破する孫子の軍事思想は、歴代の中国に受け継がれた。『三国志』にも「用兵之道、攻心為上、攻城為下」という言葉が出てくる。現代中国の宣伝戦や「歴史戦」も、孫子の延長上にある。日本人の伝統的な軍事思想と比較しつつ、『孫子』の本質を分析する。
  3. 第三回】二月十四日 『老子』 無為自然により相手を支配する方法
     日本人は『老子』を、世捨て人的な心の安らぎを説く本だと誤解している。しかし、すなおに『老子』を読めば、玄妙な哲学を織りまぜつつ、「弱者が強者に負けない方法」を説く処世術や、無為自然による政治の有効性を主張する人間くさい書物であることがわかる。古来、中国人は、庶民も権力者も、建前では『論語』的な繁文縟礼を尊びつつ、本音では「老子の兵法」にあこがれ、これを実践してきた。『論語』と並ぶ世界的な古典である『老子』の人間関係学的側面に光をあてる。
  4. 第四回】二月二十八日 『三国志』 自己研鑽しない英雄たち
     『三国志』には、漢文古典の『正史三国志』と通俗小説の『三国志演義』の二種類がある。後者は従来の日本文学には全くないタイプの人間関係学的物語だったため、江戸時代から今日まで日本でも大人気である。ただし、日本と中国の英雄豪傑には、重大な違いがある。日本人は宮本武蔵でも星飛雄馬でも、自己研鑽型の英雄豪傑を好む。一方、中国人は関羽にせよ諸葛孔明にせよ、生来の超人や天才を好む。関羽や孔明の才能の発現は、彼ら古人の修養ではなく、どんな主人に仕えるか、という人間関係のフォーマットによって決まる。中国の新入社員がすぐ転職する理由も、中国人が祖国にこだわらずすぐ移住する理由も、同様である。「木は移すと枯れる。人は移ってこそ生きる」という中国人の 暗黙知的な信仰の特長と欠点を、『三国志』をもとに分析する。
  5. 第五回】三月十四日 『西遊記』 なぜ中国人は予定調和の世界を好むのか
     日本人は『西遊記』を、孫悟空、猪八戒、沙悟浄が三蔵法師のお供をして天竺にお経を取りに行くファンタジー物語だと思っている。間違いではないが、『西遊記』の背景には、中国文明の限界を示す歴史的事実や、中国人の伝統的な宇宙観・世界観の特長と欠点、そして中国人が理想とする人間関係など、複雑な要素がある。日本でも中国でも、子供のころから親しまれている『西遊記』の世界観とキャラクターを、あえて大人の視点から再分析し、日本人の暗黙知的な思想と比較する。

第一回 「論語」 孔子が作った中国文明のプロトコル
キーワード 孔子 儒教 古典 志縁 学縁 士大夫
『精選版 日本国語大辞典』の説明
こう‐し【孔子】 中国、春秋時代の学者、思想家。名は丘(きゅう)。字(あざな)は仲尼(ちゅうじ)。儒教の開祖。魯の昌平郷陬邑(すうゆう)(=山東省曲阜県)に生まれる。大司寇(だいしこう)として魯に仕えたが、いれられず、辞して祖国を去り、多くの門人を引き連れて、約一四年間、七十余国を歴訪、遊説。聖王の道を総合大成し、仁を理想とする道徳主義を説いて、徳治政治を強調した。晩年、教育と著述に専念し、六経(りくけい)、すなわち易、書、詩、礼、楽、春秋を選択編定したとされる。後世、文宣王と諡(おくりな)され、至聖として孔子廟(文廟ともいう)にまつられ、近代に至るまで非常な尊敬を受けた。呉音で読んで「くじ」ともいう。また、折目正しい態度、堅苦しい人物や物事などのたとえにいう。(前五五一頃‐前四七九)
 一言で言うと、孔子は中国文明の「古典」と「伝統」という発想を作った人。
サイト内リンク[伝統と現代、それぞれの『論語』の読み方]

〇西洋の「クラシック」と東洋の「古典」
 クラシック(classic)の語源は、古代ローマのラテン語のクラシクス(classicus)で、「艦隊」を意味するクラシスの派生語。古代ローマでは、国家有事の際に艦隊を提供できる有力な階層の人々のこともクラシスと呼んだ。転じて、国家であれ個人であれ危機に瀕したときにそれを乗り越える力(教養、書物、芸術的作品、等々)を与えてくれるものをクラシクス(クラシック)と呼ぶようになった。「古さ」は無関係である。
cf.今道友信 ダンテ『神曲』 連続講義 第1回 序とホメ−ロス

〇古典
 「古」は「固」「個」の同系語。
 「典」は、机の上に置いた「冊」を描いた漢字。「典」のコアイメージは「ずっしりと重々しい」で、殿・敦と同系。また奠・鎮・定とも近縁。
 
〇中国文明の特徴は「繁文縟礼」
 富永仲基の指摘「中国は文、インドは幻、日本は絞」。
 孔子の実像は不詳。cf.ソクラテス以前の哲学者 Pre-Socratic philosophy
 本格的な中国史は「戦国時代」から。
 「伝統」の再創造を活用した。cf.『創られた伝統』ホブズボウム,エリック〈Hobsbawm,Eric〉/レンジャー,テレンス【編】〈Ranger,Terence〉/前川 啓治/梶原 景昭【ほか訳】、 藤井青銅『「日本の伝統」の正体 』

〇『論語』という書物の古代的性格
 近代的な書物と、古代的な書物の性格の違い。
 個人著作←→世代累積型集団著作
 自己完結書籍←→講師、註疏の存在を前提とする不完全書籍
 著作権←→仮託と偽作とオマージュの区別が曖昧
『論語』は孔子の言行録だが、孔子自信の著作ではない。それぞれの言葉は「いつ・どこで」という基本情報が欠落しており、文体も古拙で、「寸劇の台本」に近い。
〇『論語』というタイトルの謎
 通常なら『老子』『孫子』と同じく『孔子』となるはず。孔子の死後、門人たちが師の「語」を「論纂」してできた書物だから、という説もあるが、真相は不明。

〇原稿の『論語』は2世紀ごろに成立か
 『論語』は孔子の死後、数百年をかけて出来上がった。オリジナルの『論語』は今とは内容が少し違っていた。今の形の『論語』は2世紀の末に学者の鄭玄(じょうげん)がまとめたものである。ちょうど、三国志の劉備や曹操が若いころである。

〇意外に低かった『論語』のステイタス
 『論語』は東洋人のバイブルであると言う人もいるが、『聖書』と違い、儒教における『論語』の地位は意外に低かった。孔子自身の筆ではなく、門人の筆になる書物だから、というのがその理由である。それゆえ「五経」のうちには『論語』は入っていない。経典の数を拡大した「十三経」では『論語』も数のうちに入れてもらえるが、その序列は十三種類中の十番目、と後ろから数えたほうが早い。

〇儒教の「バイブル」は『書経』
 世界各地の文明では、「本」という普通名詞を固有名詞化すると、その文明の根本を支配する最も神聖な書物のタイトルとなることがある。ユダヤ教やキリスト教、イスラム教の文明圏で単に「本」と言えば、聖書やコーランを指す。いっぽう中国で単に「書」(漢文では、本のことを「書」と呼ぶ)と言えば、『書』別名『尚書』『書経』を指す。この意味で儒教の「バイブル」は『書』であり、『論語』ではない。

〇800年前から『論語』がナンバーツーに
 宋の朱子(1130-1200)は、儒教の数ある経典のうち、『大学』『論語』『孟子』『中庸』の四種類の書物を「四書」に指定した。いわゆる「四書五経」の書物の顔ぶれは、この朱子学において確定した。『論語』は晴れてナンバーツーの書物となった。ただし朱子は学習の順番を指定しただけで、『論語』を含む四書の格付けを逆転させたわけではない。
 しかし後世、特に日本の庶民層において、四書は五経より格上であるという誤解が広まった。同時に日本では『論語』を四書の筆頭に置くという誤認も広まっている。
 四書は『大学』『論語』『孟子』『中庸』
 五経は『易経』『書経』『詩経』『礼記』『春秋』

〇日本には応神天皇のころに伝わった?
 『古事記』によると、応神天皇(5世紀ごろ?)の時代に、百済(くだら)の学者・王仁(わに)が日本に『論語』と『千字文』を伝えたとされる。史実かどうかは怪しい。ただし東アジア各国において、『論語』と『千字文』が長いあいだ子供の手習いの入門書であったことは史実である。

〇近代西洋にも影響を与えた
 『論語』を含む儒教思想は、イエズス会のマテオ・リッチ(1552-1610)のころから西洋に紹介され、近代西洋の啓蒙思想家たちにも大きな影響を与えた。西洋人は孔子をConfuciusと呼ぶが、これは「孔夫子」の中国語の発音をラテン語化したものである。また『論語』の英訳タイトルは伝統的にAnalectsもしくは the Analects of Confuciusである。

〇『論語』は「リンギョ」、孔子は「クジ」と読まれていた
 普通の日本人が『論語』に親しむようになったのは、400年前の江戸時代からである。日本語では、仏教の漢字は呉音読みし、儒教の漢字は漢音読みする、という習慣がある。江戸時代の日本人は「論語」を漢音で「リンギョ」と読んだ(現代日本語では、論の漢音はロン)が、呉音で「ロンゴ」と読む場合もあった。また「孔子」を呉音で「クジ」と読むこともあった。
 日本語で「ロンゴ」「コウシ」という読み方に一本化するのは意外に新しく、100年あまり前の明治時代からである。

【選読】孔子は典型的な中国人だった。人生を楽しむ現実主義者で、食通だった。
学而第一  子曰、学而時習之、不亦説乎、有朋自遠方来、不亦楽乎、人不知而不慍、不亦君子乎。
 子曰く、学びて時に之を習う、また説ばしからずや。朋遠方より来たる有り、また楽しからずや。人知らずして慍みず、また君子ならずや。 (先生は言われた。「学んだことを後で実習する。なんと楽しいじゃないか。友達が遠くから来る。なんと嬉しいじゃないか。他人に認めてもらえなくても恨まない。まことに君子じゃないか」)

雍也第六
子曰、知之者、不如好之者。好之者、不如楽之者。
子曰く「之を知る者は之を好む者に如かず。之を好む者は之を楽しむ者に如かず」と。

雍也第六
 伯牛有疾、子問之、自牖執其手、曰、亡之、命矣夫、斯人也而有斯疾也、斯人也而有斯疾也。
 伯牛(はくぎゅう)、疾(やまい)あり。子、これを問う。牖(まど)より其の手を執(と)りて曰く「之を亡(ほろ)ぼせり、命(めい)なるかな。斯(こ)の人にして斯の疾あること、斯の人にして斯の疾あること」と。

雍也第六
 樊遅問知、子曰、務民之義、敬鬼神而遠之、可謂知矣、問仁、子曰、仁者先難而後獲、可謂仁矣。
 樊遅(はんち)、知を問う。子曰く「民の義を務め、鬼神(きしん)を敬してこれを遠ざく、知と謂うべし」と。仁を問う。曰く「仁者は難(かた)きを先にして獲(と)るを後にす。仁と謂うべし」と。

先進第十一
 季路問事鬼神。子曰。未能事人。焉能事鬼。曰。敢問死。曰。未知生。焉知死。
 季路(きろ)、鬼神に事(つか)うることを問う。子曰く「未だ人に事うること能(あた)わず、焉(いずく)んぞ能(よ)く鬼(き)に事えん」と。曰く「敢えて死を問う」と。曰く「未だ生(せい)を知らず、焉んぞ死を知らん」と。

述而第七
子在斉、聞韶、三月不知肉味、曰、不図為楽之至於斯也。
子、斉に在(いま)して韶(しょう)を聞く。三月(さんげつ)肉の味を知らず。曰く「図らざりき、楽(がく)を為すことの斯(ここ)に至らんや」と。

郷党第十
食不厭精、膾不厭細、食饐而餲、魚餒而肉敗不食、色惡不食、臭惡不食、失飪不食、不時不食、割不正不食、不得其醤不食、肉雖多不使勝食氣、唯酒無量、 不及亂、沽酒市脯不食、不撤薑食、不多食、祭於公不宿肉、祭肉不出三日、出三日不食之矣、……
食(いい)は精(しらげ)を厭(いと)わず。膾(なます)は細きを厭わず。食の饐(い)して餲(あい)せると魚の餒(あさ)れて肉の敗(やぶ)れたるは食(く)らわず。色の悪(あ)しきは食らわず。臭いの悪しきは食らわず。飪(じん)を失えるは食らわず。時ならざるは食らわず。割(きりめ)正しからざれば食らわず。其の醤(しょう)を得ざれば食らわず。肉は多しと雖(いえど)も、食(し)の気に勝たしめず。唯だ酒は量なく、乱に及ばず。沽(か)う酒と市(か)う脯(ほじし)は食らわず。薑(はじかみ)を撤(す)てずして食らう、多くは食らわず。公に祭れば肉を宿(よべ)にせず。祭の肉は三日を出ださず。三日を出ずればこれを食らわず。……

【参考図書】金谷治『論語』岩波文庫 改版版(1999/11) 840円
      加藤徹『貝と羊の中国人』『本当は危ない『論語』』『漢文力』『怪力乱神』


第二回 『孫子』 最終兵器は人間の心
〇歴史上「孫子」(孫先生、の意)と呼ばれる人物は二人いる。孫武(紀元前535年? - 没年不詳)と、彼の子孫の孫臏(そんぴん)である。
 兵法書の古典『孫子』は孫武の著と伝えられ、これとは別に『孫臏兵法』という書物もある。孫武については非実在説もあったが、1972年に山東省臨沂(りんぎ)県で出土した銀雀山漢簡の中に『孫子兵法』と『孫臏兵法』の竹簡があったことから、現在では、孫武と孫臏はそれぞれ実在した人物であるという説が有力である。
 ただし、現在のいわゆる『孫子』のうち、どこまでが孫武自身の思想で、どの部分が後世の付会や仮託であるのかについては、研究者の説は分かれる。

〇武経七書(ぶけいしちしょ)『孫子』『呉子』『尉繚子(うつりょうし)』『六韜(りくとう)』『三略』『司馬法』『李衛公問対』
 現在は『孫子』だけが突出して有名だが、昔の日本語では「孫呉」「六韜三略」などもよく使った。
cf.芥川龍之介『侏儒の言葉』「のみならず「戯考」は「虹霓関」の外にも、女の男を捉へるのに孫呉の兵機と剣戟とを用ひた幾多の物語を伝へてゐる。」
 芥川龍之介『島木赤彦氏』「僕はその日の夕飯を斎藤さんの御馳走になり、六韜三略の話だの早発性痴呆の話だのをした。」

〇孫子の兵法は世界的にも評価が高い。
Sun Tzu's The Art of War』(一九六三年) =英訳『孫子』に、リデル・ハート(B.H. Liddell Hart)が寄せた序文より。
 Sun Tzu's essays on The Art of War form the earliest of known treatises on the subject, but have never been surpassed in comprehensiveness and depth of understanding. They might well be termed the concentrated essence of wisdom on the conduct of war. Among all the military thinkers of the past, only Clausewitz is comparable, and even he is more `dated' than Sun Tzu, and in part antiquated, although he was writing more than two thousand years later. Sun Tzu has clearer vision, more profound insight, and eternal freshness.
[注] 〇The Art of War=「(孫子の)兵法」の英訳名 〇Sun Tzu=孫子 〇Clausewitz=『戦争論』の著者、クラウゼヴィッツ。


〇田忌賽馬(でんき さいば)の故事 『史記』「孫子・呉子列伝」より。これは、子孫の孫臏の話。
 斉使者如梁。孫臏以刑徒陰見、説斉使。斉使以為奇、窃載与之斉。斉将田忌善而客待之。忌、数与斉諸公子馳逐重射。孫子見其馬足、不甚相遠。馬有上、中、下輩。於是、孫子謂田忌曰「君弟重射。臣能令君勝」。田忌信然之、与王及諸公子逐射千金。及臨質、孫子曰「今以君之下駟与彼上駟、取君上駟与彼中駟、取君中駟与彼下駟」。既馳三輩畢、而田忌一不勝而再勝、卒得王千金。於是、忌進孫子於威王。威王問兵法、遂以為師。
 斉(せい)の使者、梁(りょう)に如(ゆ)く。孫臏(そんぴん)、刑徒を以(もっ)て陰(ひそ)かに見(まみ)え、斉使に説く。斉使、以(もっ)て奇と為(な)し、窃(ひそ)かに載せて与(とも)に斉に之(ゆ)く。斉将田忌(でんき)、善(よみ)して之(これ)を客待す。
 忌(き)、数(しば)しば斉の諸公子と与に馳逐重射(ちちくちょうしゃ)す。孫子、其(そ)の馬足を見るに、甚(はなは)だしくは相(あひ)遠からず。馬は上、中、下輩有り。是(ここ)に於(おい)て、孫子、田忌に謂(い)ひて曰(いは)く「君、弟(ひとへ)に重射(ちょうしゃ)せよ。臣、能(よ)く君をして勝たしめん」と。田忌、信じて之(これ)を然(しか)りとし、王及び諸公子と千金を逐射(ちくしゃ)す。質に臨むに及び、孫子曰(いは)く「今、君の下駟を以(もっ)て彼の上駟に与て、君の上駟を取りて彼の中駟に与て、君の中駟を取りて彼の下駟に与てよ」と。既(すで)に三輩を馳せ畢(おは)りて、田忌、一は勝たずして再勝し、卒(つひ)に王の千金を得(う)。  是(ここ)に於(おい)て、忌、孫子を威王に進む。威王、兵法を問ひ、遂(つひ)に以(もっ)て師と為(な)す。
 斉の国の使者が、魏の都・梁に行った。孫子(孫武)の孫で兵法家の孫臏(そんぴん)は、当時、受刑者の身分だったが、こっそり使者と会見して、自説を披露した。斉の使者は彼を「奇才だ」と評価して、こっそり自分の馬車に乗せて斉に帰った。斉の将軍・田忌も彼の才能を評価し、優遇した。  田忌はよく、斉の王族の子弟たちと大金をかけて馬車競走をした。孫子(孫臏(そんぴん))が馬車のスピードを調べてみると、互いにそれほどの大差はなく、上中下の三ランクに分かれることがわかった。そこで孫子は田忌にアドバイスした。「今日はひたすら大金をかけてください。殿を勝たせてさしあげます」。田忌は信頼して、斉王(威王)とその子弟たちとの勝負に千金をかけた。(レースは、王族側と田忌側の馬車が三回対戦し、勝つ数をきそうものだった)。試合開始の直前、孫子は言った。「三回あるレースのうち、第一回は殿の最低の馬車を、相手の最高の馬車にぶつけてください。第二回は、殿の最高の馬車を、相手の二番目の馬車にぶつけてください。第三回は、殿の中堅の馬車を、相手の最低の馬車にぶつけてください」。三回のレースが終わった結果は、田忌は一回捨て石的に負けただけで二回勝つことができ、とうとう王の千金をせしめた。
 これを機に、田忌は孫子を威王に推薦した。威王は彼に兵法についてたずね、軍師とした。

〇孫臏にはこの他「囲魏救趙(いぎきゅうちょう)の計」や「増兵減竈(げんそう)の計」などの話が伝わる。

〇日本人で孫子を学んだ有名な例。
 吉備真備・・・遣唐使として唐に渡り、『孫子』などの兵法も学び、帰国後、藤原仲麻呂の乱でその知識を生かした。
 源義家(おおえのまさふさ)・・・大江匡房から『孫子』を伝授され、前九年・後三年の役でその知識を生かした。『孫子』行軍篇の「鳥起者、伏也」という文章をもとに、鳥の飛び方の乱れから伏兵がいることを察知し、勝利を得た、と『古今著聞集』などに伝わる。
 武田信玄・・・『孫子』軍争篇第七の漢文
「故其疾如風、其徐如林、侵掠如火、難知如陰、不動如山、動如雷霆。」
 故に其の疾きこと風の如く、其の徐(しず)かなること林の如く、侵掠(しんりゃく)すること火の如く、知りがたきこと陰の如く、動かざること山の如く、動くこと雷霆(らいてい)の如し。
 をもとに、「疾如風、徐如林、侵掠如火、不動如山」という「孫子四如」の旗指物を作った。
 なお「孫子四如」の旗指物を「風林火山」と呼ぶのは、作家の井上靖の創作である。
 吉田松陰・・・江戸時代には『孫子』がブームになり、林羅山、山鹿素行、新井白石、荻生徂徠、佐藤一斎、吉田松陰はじめ歴代の知識人が孫子の注釈書を刊行した。吉田松陰の本業は兵学家だった。大河ドラマの影響などで松下村塾のイメージが強いが、叔父で山鹿流兵学師範である吉田大助の養子で、九歳で明倫館の兵学師範に就任するなど、『孫子』の専門家だった。

〇『孫子』選読
兵とは詭道(きどう)なり 『孫子』計篇第一
 兵者詭道也。故能而示之不能、用而示之不用、近而示之遠、遠而示之近、利而誘之、乱而取之、実而備之、強而避之、怒而撓之、卑而驕之、佚而労之、親而離之。攻其無備、出其不意。此兵家之勢、不可先伝也。
 兵とは詭道(きどう)なり。ゆえに能(のう)なるもこれに不能を示し、用(よう)なるもこれに不用を示し、近くともこれに遠きを示し、遠くともこれに近きを示し、利(り)にしてこれを誘い、乱(らん)にしてこれを取り、実(じつ)にしてこれに備え、強(きょう)にしてこれを避け、怒(ど)にしてこれを撓(みだ)し、卑(ひ)にしてこれを驕(おご)らせ、佚(いつ)にしてこれを労し、親(しん)にしてこれを離す。その無備(むび)を攻め、その不意に出(い)ず。これ兵家の勢(せい)、先(さき)には伝うべからざるなり。
 戦争とはペテンの道である。ゆえに、本当はできる時はできぬように見せかけ、必要な時は必要としないように見せかけ、実は近づく時は遠ざかるように見せかけ、遠ざかる時は近づくかのように見せかける。敵が利益を欲する時は利益を餌におびきだし、敵が乱れていればそのすきをつき、敵が充実している時は防禦を固める。敵が強い時は戦いを避け、敵が感情的な時はわざと挑発して乱し、敵が謙虚ならこちらはもっと下手(したで)に出て相手を驕らせ、敵が休んでいたら疲労させ、 敵どうしの仲が良いなら仲違いさせる。敵の無防備なところをつき、敵の意表をつくのだ。兵家の作戦は臨機応変で千変万化なので、あらかじめ伝授することはできない。

敵を知り己(おのれ)を知らば・・・ 『孫子』謀攻篇第三
 知彼知己者、百戦不殆。不知彼而知己、一勝一負。不知彼不知己、毎戦必殆。
 彼(かれ)を知り己(おのれ)を知る者(もの)は、百戦、殆(あや)ふからず。彼を知らず己(おのれ)を知れば、一勝一負す。彼を知らず己(おのれ)を知らずんば、戦ふ毎(ごと)に必ず殆ふし。
 戦争するとき、相手のことも自分のこともよく知っている者は、百回戦っても危なくない。相手のことはよく知らぬが、自分のことは知っている場合は、勝敗の率は半々だ。相手を知らず、自分のことも知らぬなら、戦うごとに危険である。

算(さん)少(すくな)きは敗(やぶ)る 『孫子』計篇第一
 夫未戦而廟算勝者、得算多也。未戦而廟算不勝者、得算少也。多算勝、少算敗。況無算乎。吾以此観之、勝負見矣。
 夫(そ)れ未(いま)だ戦はずして廟算(びょうさん)して勝つ者(もの)は、算を得(う)ること多ければなり。未(いま)だ戦はずして廟算して勝たざる者(もの)は、算を得ること少ければなり。算多きは勝ち、算少きは勝たず。況(いはん)んや算無きをや。吾(われ)此(こ)れを以(もっ)て之(これ)を観るに、勝負見(あら)はる。
 実戦の前に彼我の能力を冷徹に計算するシミュレーション能力がすぐれている者は、実戦でも勝利する。シミュレーション能力が弱い者は、実戦の前にすでに敗北している。シミュレーション能力が優れている者は勝ち、劣っている者は勝てない。まして、シミュレーション能力がゼロの者の運命にいたっては、言うまでもない。私はシミュレーションにより、戦争の勝敗を予測することができる。

其(そ)の下(げ)は城(しろ)を攻(せ)む 『孫子』謀攻第三
 故上兵伐謀、其次伐交、其次伐兵、其下攻城。
 故(ゆゑ)に上兵は謀を伐(う)ち、其(そ)の次は交を伐ち、其(そ)の次は兵を伐ち、其(そ)の下は城を攻む。
 最高の戦略とは、敵にそもそも戦争する気を起こさせぬことである。次善の上策は、敵を外交的に抑えることである。その次の策は、敵の軍事力を叩くことである。最低の下策は、敵の本拠地を攻撃することである。

百戦百勝よりも不戦必勝を 『孫子』謀攻第三
 孫子曰、凡用兵之法、全国為上、破国次之。全軍為上、破軍次之。全旅為上、破旅次之。全卒為上、破卒次之。全伍為上、破伍次之。是故百戦百勝、非善之善者也。不戦而屈人之兵、善之善者也。
 孫子曰(いは)く、凡(おほよ)そ用兵の法は、国(くに)を全(まった)うするを上(じょう)と為(な)し、国を破るは之(これ)に次(つ)ぐ。軍を全うするを上と無し、軍を破るは之(これ)に次ぐ。旅(りょ)を全うするを上と無し、旅を破るは之(これ)に次ぐ。卒(そつ)を全うするを上と為(な)し、卒を破るは之(これ)に次ぐ。伍(ご)を全うするを上と無し、伍を破るは之(これ)に次ぐ。是(こ)の故(ゆゑ)に、百戦百勝は、善の善なる者(もの)に非(あら)ざるなり。戦はずして人の兵を屈す、善の善なるものなり。
 戦争の原則。国の保全が最高で、国を破るのは二番目である。軍(軍隊の編成単位。周の制度では兵力一万二千五百人)の保全が最高で、軍を破るのは二番目である。旅(五百人)の保全が最高で、旅を破るのは二番目である。卒(百人)の保全が最高で、卒を破るのは二番目である。伍(五人)の保全が最高で、伍を破るのは二番目である。それゆえ、百戦百勝は最高の勝利とはいえない。戦わずに敵の戦意をねじふせることこそ、最高の勝利である。

囲師(いし)には必ず闕(か)く 『孫子』軍争篇第七
故用衆之法、高陵勿向、倍丘勿迎、佯北勿従、囲師遺闕、帰師勿遏。此用衆之法也。
 故(ゆゑ)に衆(しゅう)を用(もち)うるの法(ほう)は、高陵(こうりょう)には向(むか)ふ勿(なか)れ、倍丘(ばいきゅう)には迎(むか)ふる勿(なか)れ、佯(いつは)り北(に)ぐるには従(したが)ふ勿(なか)れ、囲師(いし)には闕(か)くるを遺(のこ)し、帰師(きし)には遏(とど)むる勿(なか)れ。此(こ)れ衆を用うるの法なり。
 軍隊を動かすときの原則。高地に陣取る敵は攻撃するな。高地を背に陣取る敵は迎撃するな。敗走するふりをする敵を追撃するな。敵を包囲するときは、わざと敵に逃げ道を残しておけ。帰国途上の敵を阻止しようとするな。これらが、軍隊を動かす原則である。

〇おまけ 『三国志・蜀書』馬謖伝より
 用兵之道、攻心為上、攻城為下。心戦為上、兵戦為下。
 用兵の道は、心を攻むるを上となし、城を攻むるを下となす。心戦を上となし、兵戦を下となす。
 用兵の道は、相手の心を攻めるのが上策で、城を攻めるのは下策。心を動かす戦いは上策で、軍を動かす戦いは下策である。
 諸葛孔明が南征したとき、馬謖が述べた意見。


第三回 『老子』 無為自然により相手を支配する方法
キーワード 老荘思想 道家思想 黄老の術

 老子は姓は李、名は耳(じ)、字(あざな)は耼(たん)ないし伯陽。実在説と非実在説があり、仮に前者であっても複数の説がある。
 ある説話によると、老子は前六世紀の末ごろ、春秋時代の周の王室図書館の役人であった。若き日の孔子も老子に面会し、教えをこうたことがある。後に老子は、乱世を避けて中国を去り、隠遁することを決意した。関所を通過するとき、関所役人の尹喜(いんき)に請われ『老子道徳経』二巻、略して『老子』を書き残して去った。
 老子のその後の消息は不明だが、一説に、インドに行き現地の人々のために仏教を創始したと主張する人もいた(老子化胡説)。
 思想家としての老子は、中国の道教では「太上老君」として神格化された。『西遊記』の始めのほうで孫悟空と絡んだりしている。

 『老子』は、『荘子』『列子』と並ぶ道家思想の古典。二巻、八一章、約五〇〇〇字で、それほど長くない。語彙も文体もやさしいが思想的には深い。また、南方の大河を示す「江」という単語を除き、固有名詞が出てこないのも特徴である。
 説話では老子の著とされるが、実際には、戦国時代の世代累積型集団創作的な道家思想の言説を、前漢の始めのころにまとめたものとされる。
 内容理解の鍵となる言葉は、以下のとおりである。形而上学的な思考と、世俗的な処世術がつながっているのが特徴である。
道・・・英語ではTaoと言う。日本語では「みち」。老子の「道」は、宇宙的な天然自然の理法であり、自然の一部である人間もそれに従うべきだ、と考えられている。
足るを知る・・・欲望に歯止めをかけ、自分を他人と比較せず、世の中に絶対的なものはなく相対的なものばかりであることを諦観する。
無為自然・・・「有為」や「人工」の対概念。あるがままがよい、人間の浅知恵や作為で介入するのはよくない、という考え方。
処世術・・・「韜光養晦(とうこうようかい)」「卑弱謙下」を旨とし、水のように柔軟でへりくだる処世術を推奨する。
逆説・・・しばしば逆説的なレトリックを好む。
小国寡民・・・大きな政府を否定し、原始的で素朴な小規模村落共同体を理想とする。

 一般的には、孔子の儒教はエリート主義的・現実主義的だが、老子は弱者に寄り添う隠遁者的だ、と思われている。しかし、よく読むと『老子』も非常に中国的であり、以下の点では『論語』と共通する。
・「神」ではなく「聖人」が出てくる
・死後の世界や宇宙論への関心は薄い
・形式論理よりも具体的な比喩を多用
・政治のあり方について積極的に提言
・レトリック的には『荘子』や『韓非子』ほどには巧みではない。

〇『老子』選読
第一章
 道可道、非常道。名可名、非常名。無名天地之始、有名萬物之母。故常無欲以觀其妙、常有欲以觀其徼。此兩者同出而異名。同謂之玄。玄之又玄、衆妙之門。
 道(みち)の道とすべきは、常(つね)の道に非(あら)ず。名(な)の名とすべきは、常の名に非ず。名無きは天地の始めにして、名有るは万物(ばんぶつ)の母なり。故に常に無(む)は以(もっ)て其(そ)の妙(みょう)を観(み)んと欲(ほっ)し、常に有は以て其の徼(きょう)を観んと欲す。此の両者、同じきより出(い)でて名を異(こと)にす。同じきは之を玄(げん)と謂(い)う。玄の又玄、衆妙の門なり。
 「道」とみなせる道は、本当の道ではない。名づけることのできる「名」は、本当の名ではない。名が無い状態が天地の始めであり、名が有る状態が万物の母である。まことに「永遠に欲望が無い者には『妙』が見えるが、永遠に欲望にしばられる者には末端しか見えない」。この両者は同じものから出てくるにもかかわらず、名を異にする。この同じものを「玄」と言う。玄のまた玄なるものは、衆妙の門である。
cf.Taoism、非即の論理・即非の論理

第二章
 天下皆知美之爲美、斯惡已。皆知善之爲善、斯不善已。故有無相生、難易相成、長短相形、高下相傾、音聲相和、前後相隨。是以聖人、處無爲之事、行不言之教。萬物作焉而不辭、生而不有、爲而不恃、功成而弗居。夫唯弗居、是以不去。
 天下、皆、美(び)の美為(た)るを知る、斯(こ)れ悪(あく)なるのみ。皆、善(ぜん)の善為るを知る、斯れ不善なるのみ。故に有無(うむ)相(あい)生(しょう)じ、難易(なんい)相成り、長短相形(あらわ)れ、高下相傾き、音声相和し、前後相随う。是(ここ)を以て聖人は、無為の事に処(お)り、不言の教えを行なう。万物作(おこ)りて辞せず、生じて有せず、為(な)して恃(たの)まず、功成りて居らず。夫(そ)れ唯(ただ)居らず、是を以て去らず。
 天下の人がみな美が美であることを知る。これこそ、みにくいことだ。みなが、善が善であると知る。これこそ、不善なことだ。まことに、有無は互いに生じ、難易は互いに生まれ、長短は互いにあらわれ、高下は互いにはっきりし、音声は互いに和し、前後は互いにくっついている。それゆえに聖人は、無為の事におり、不言の教えを行うので、万物は働かされても労苦を厭わない。聖人は作っても所有せず、為しても恩を着せず、功を立てても居座らない。そもそもはじめから居座らぬからこそ、その地位を去ることもないのだ。
第六章
 谷神不死。是謂玄牝。玄牝之門。是謂天地根。綿綿若存、用之不勤。
 谷神(こくしん)は死せず。是(こ)れを玄牝(げんぴん)と謂(い)う。玄牝の門、是れを天地の根(こん)と謂う。綿綿として存するが若(ごと)く、之(これ)を用うれども勤(つ)きず。
 谷神(こくしん)は死なない。これを玄牝(げんぴん)と言う。玄牝の門、これを天地の根と言う。綿々と存続するようであり、いくら用いても尽き果てることはない。

第八章
 上善若水。水善利萬物而不爭。處衆人之所惡。故幾於道。居善地、心善淵、與善仁、言善信、正善治、事善能、動善時。夫唯不爭、故無尤。
 上善(じょうぜん)は水の若し。水は善く万物を利して争わず。衆人の悪(にく)む所に処(お)る。故に道に幾(ちか)し。(以下略)
 上級の善は水のようだ。水は万物に利益を与えてくれるが、万物と功を争わない。みながにくむ、低い場所へ、低い場所へと居続ける。だから道に近い存在と言える。

第九章
 持而盈之、不如其已。揣而鋭之、不可長保。金玉滿堂、莫之能守。富貴而驕、自遺其咎。功成名遂身退、天之道。
 持(じ)して之を盈(み)たすは、其の已(や)めんに如(し)かず。揣(きた)えて之を鋭くするは、長く保つべからず。金玉(きんぎょく)堂(どう)に満つれば、之を能(よ)く守る莫(な)し。富貴(ふうき)にして驕れば、自(みずか)ら其の咎(とが)を遺(のこ)す。功成り名遂げて身退くは、天の道なり。
 満ちた状態を持続させるのは、やめた方がよい。刃を鋭くしても、その状態は長くは保てない。黄金や宝玉が堂宇に満ちれば、守りきれない。富貴で傲慢になれば、おのずと咎(とが)を残すことになる。功名を遂げたら身を退けるのが、天の道である。

第十八章 
 大道廢、有仁義。智惠出、有大僞。六親不和、有孝慈。國家昬亂、有忠臣。
 大道(だいどう)廃(すた)れて、仁義有(あ)り。智恵出(い)でて、大偽(たいぎ)有り。六親(りくしん)和(わ)せずして、孝慈有り。国家昏乱して、忠臣有り。
 大道が廃れ、仁義があらわれる。知恵が出て、大偽があらわれる。六親が不和のとき、孝子があらわれる。国家が混乱するとき、忠臣があらわれる。
cf.「英雄がいない国は不幸だ」・・・「違うぞ、英雄を必要とする国が不幸だ」(ブレヒト)

第二十五章
 有物混成、先天地生。寂兮寥兮。獨立而不改、周行而不殆。可以爲天下母。吾不知其名。字之曰道。強爲之名曰大。大曰逝。逝曰遠。遠曰反。故道大。天大。地大。王亦大。域中有四大、而王居其一焉。人法地、地法天、天法道、道法自然。
 物有り、混成し、天地に先だちて生ず。寂(せき)たり寥(りょう)たり。独立して改めず、周行して殆(とど)まらず。以て天下の母為(た)るべし。吾、其の名を知らず。之に字(あざな)して道という。強(し)いて之に名づけて大と曰(い)う。大を逝(せい)と曰い、逝を遠と曰い、遠を反(はん)と曰う。故に道は大なり。天は大なり。地は大なり。王も亦た大なり。域中に四大あり、而うして王はその一に居る。人は地に法(のっと)り、地は天に法り、天は道に法り、道は自然に法る。
 ある「物」が混成し、天地に先だって生じた。それは寂寞(せきばく)寥々(りょうりょう)として、独立不変、周行しても力が衰えることはなく、この世界の「母」となることができた。私たちはその名前を知らないが、仮に「道」というあざなを付ける。しいて名前をつければ「大」と言う。「大」は「行く」ことであり、「行く」ことは「遠ざかる」ことであり、「遠ざかる」ことは「反る」ことである。それゆえ、道は大、天も大、地も大、「王」も大である。世界に四つの「大」があり、「王」はその一つを占めている。人は地にのっとり、地は天にのっとり、天は道にのっとり、道は「自然」にのっとる。
第四十七章
 不出戸、知天下、不闚牖、見天道。其出彌遠、其知彌少。是以聖人不行而知、不見而名、不爲而成。
 戸を出でずして天下を知り、牖(まど)より闚(うかが)わずして天道を見る。其の出づること弥いよ遠ければ、其の知ること弥いよ少し。是を以て聖人は行かずして知り、見ずして名(あきらか)に、為さずして成る。
 戸外に出ることなく天下を知り、窓からのぞかずに天道を見る。出てゆくことが遠ければ遠いほど、知ることは少なくなる。それゆえ聖人は行かずに知り、見ずして名づけ、為さずして成る。

第六十三章
 爲無爲、事無事、味無味。大小多少、報怨以徳。圖難於其易、爲大於其細。天下難事必作於易、天下大事必作於細。是以聖人終不爲大。故能成其大。夫輕諾必寡信、多易必多難。是以聖人猶難之。故終無難。
 無為を為(な)し、無事(ぶじ)を事とし、無味を味わえ。小を大とし少を多とし、怨(うら)みに報ゆるに徳を以てす。難きを其の易(やす)きに図(はか)り、大を其の細に作(な)す。天下の難事は必ず易きより作(おこ)り、天下の大事は必ず細より作る。是を以て聖人は終(つい)に大を為さず。故に能く其の大を成す。それ軽諾(けいだく)は必ず信寡(すくな)く、易きこと多ければ必ず難きこと多し。是を以て聖人すら猶(なお)之(これ)を難(かた)しとす。故に終に難きこと無し。
 無為を為せ。無事を事とせよ。無味を味わえ。小を大とし少を多とせよ。怨みに報いるのに徳をもってせよ。困難は安易なところで解決を図れ、大事は細部で成し遂げよ。天下の難事は必ず簡単なことから起り、天下の大事は必ず些細なことから始まる。それゆえに聖人は、最後まで大事を為そうとせず、だからこそ大事を成し遂げる。およそ軽々しく承諾する者は必ず信用が少なく、安易に考えることが多いと必ず困難が増す。それゆえ、聖人でさえ困難とすることがらはある。かつ、だからこそ、最後は困難がなくなるのである。

第七十六章
 人之生也柔弱、其死也堅強。草木之生也柔脆、其死也枯槁。故堅強者死之徒、柔弱者生之徒。是以兵強則滅、木強則折。強大處下、柔弱處上。
 人の生(い)くるや柔弱(じゅうじゃく)、其の死するや堅強(けんきょう)。草木(そうもく)の生くるや柔脆(じゅうぜい)、其の死するや枯槁(ここう)。故に堅強は死の徒(と)、柔弱は生の徒なり。是を以て兵強ければ則(すなわ)ち滅び、木強ければ則ち折らる。強大は下に処(お)り、柔弱は上に処る。
 生まれたばかりの人は柔弱であり、死ぬと堅強である。生きている草木は柔脆(じゅうぜい)であり、死ぬと枯れて固まる。ゆえに堅強なものは死の仲間であり、柔弱なものは生の仲間である。これゆえに、兵器は強すぎると勝てないし、木は強すぎると折れる。強大なものは下にあり、柔弱なものは上にある。

第八十章
 小國寡民、使有什伯之器而不用。使民重死而不遠徙。雖有舟轝、無所乗之、雖有甲兵、無所陳之。使民復結繩而用之、甘其食、美其服、安其居、樂其俗。鄰國相望、雞犬之聲相聞、民至老死不相往來。
 小国寡民(しょうこくかみん)には、什伯(じゅうはく)の器(うつわ)ありて而(しか)も用いざらしむ。民をして死を重んじて遠くに徙(うつ)らざらしむ。舟轝(しゅうよ)有りと雖(いえど)も之に乗る所無く、甲兵有りと雖も、之を陳(つらぬ)る所無し。民をして復(ま)た縄を結びて之を用いせしめ、其の食を甘しとし、その服を美とし、その居に安んじ、その俗を楽しましむ。隣国(りんごく)相望み、鶏犬(けいけん)の声相聞(あいき)こゆるも、民は老いて死するに至るまで相往来せず。
 国を小さくし民も少なくしよう。軍隊の兵器はあっても使わないようにさせ、民に死を重んじて遠くに移動させぬようにしよう。舟や車はあっても乗ることがなく、鎧や兵器があっても陳列する機会もないようにしよう。結縄(けつじょう)を復活させ人間を無文字時代に帰らせ、自分の食事をうまいと思い、自分の服を美しいと思い、自分の居場所に満足し、自分の日常を楽しむようにさせ、隣の国どうしが互いに見えて鶏や犬の声が互いに聞こえても、民が死ぬまで国境を往来することがないようにさせよう。
cf.丁抒(著)・森幹夫(訳)『人禍 1958~1962―餓死者2000万人の狂気』(学陽書房、1991)第21章 pp.280-281 安徽省の72歳の老人と、雲南省の中国残留日本人孤児の実例


第四回 『三国志』 自己研鑽しない英雄たち
キーワード 智謀学 知情意 雅俗共賞 男・漢・侠・士

YouTube「三国志 解説用 加藤徹」ビデオリスト
https://www.youtube.com/playlist?list=PL6QLFvIY3e-n0EnGjE8kL9BTngsOSZwA9

こちらの頁も参照[三国志の人間観――古典からサブカルチャーまで――][京劇「三国志」のヒーロー 諸葛孔明と曹操][三国志 個性豊かなヒーローたち][初心者にもわかる「三国志」の世界 日本人と中国人を知るための教養講座][『三国志』の世界を愉しむ――古典からサブカルチャーまで――][『十八史略』の「三国志」の部分][横山三国志と京劇三国志][京劇「三国志」のヒーロー 諸葛孔明と曹操]

〇三つの三国志
正史系:陳寿(233年-297年)が書いた漢文の正史『三国志』
演義系:羅貫中が書いたとされる古典小説『三国志演義』(14世紀ごろ成立)
その他:『三国志演義』以前の作品や、吉川英治の小説『三国志』など
※書籍としての『三国志』と、過去から現代に至るまでのコンテンツの総称としての「三国志」を区別する必要がある。
 現代日本語で単にサンゴクシと言うと、後者の、三国志系コンテンツの総称になる。平成世代はアニメやゲームの三国志から入る人が多い。書籍の『三国志』は、「正史三国志」「三国志演義」「吉川三国志」のように言う。

〇吉川英治(1892-1962)の小説『三国志』
 戦時中に新聞に連載。演義系の三国志を土台に独自のアレンジを数多く加え、日本の三国志文化に多大の影響を与えた。
 現在は、青空文庫でも全文を読める(こちら)

〇三国志の時代の略年表
 三国志の物語の大半は、三国時代が始まる前までの話である。
 後漢末から西晋建国までの約百年の物語。ただし、実質上は諸葛孔明が死ぬまでの前半の五十年間で、しかもその大半はまだ後漢の時代だった。
184年 黄巾の乱。
208年 赤壁の戦い。
220年 後漢、滅亡。三国時代の開始。
234年 蜀の諸葛孔明、五丈原で陣没。
239年 邪馬台国の女王・卑弥呼が、魏に遣使。
280年 西晋が中国を再統一。

〇ことわざや故事成語の宝庫
白波(しらなみ)・・・山西省の白波谷にたてこもった黄巾賊の残党が語源。
月旦(げったん)・・・許劭が曹操を「治世の能臣、乱世の奸雄」と評した話から。
髀肉之嘆(ひにくのたん)・・・荊州の劉表に身を寄せた、不遇時代の劉備の故事から。
三顧の礼・・・劉備が、20歳も年下の諸葛孔明のもとを三度も訪れた故事から。
水魚の交わり・・・劉備が、自分と諸葛孔明の関係をたとえて。
苦肉の策・・・「赤壁の戦い」直前の、周瑜と黄蓋の話から。
危急存亡の秋(とき)・・・出典は諸葛孔明の「出師表(すいしのひょう)」。
泣いて馬謖(ばしょく)を斬る・・・諸葛孔明が馬謖を罰した故事。
死せる孔明、生ける仲達を走らす・・・諸葛孔明の最後の作戦から。

〇人間の分類
階層 リーダー、スタッフ、ライン、フロント、フリーランス
特長 知、情、意
社会 雅、雅俗共賞、俗
※三国志には全てのタイプの人物が登場する。蜀グループについては以下のとおり。
孔明関羽
雅俗劉備
張飛
リーダーは劉備、スタッフは諸葛孔明、ラインは関羽と張飛、フロントは趙雲。劉備の前半生は、国を持たぬ傭兵軍団の長であり、フリーランサー(語源は、槍だけをもって自由に渡り歩く傭兵)であった。
〇「友情、努力、勝利」
 漫画週刊誌『少年ジャンプ』の、昔の「三本柱」。昭和・日本的な価値観。
 三国志も「友情、努力、勝利」の物語であるが、中国版では「努力」の方向性が違う。
 日本のヒーローは、宮本武蔵も星飛雄馬も、自分の心身を鍛えることで運命を切り開く、自己研鑽型である。修行や鍛錬が、物語の面白さになっている。
 中国のヒーローは、自分がすでに持っている才能を引き出してくれる人物を探し求めることで運命を切り開く、転職型である。出会いと流浪が、物語の面白さになっている。
 三国志には、関羽や張飛が武術の修行をするシーンも、諸葛孔明が苦学するシーンもない。関羽や張飛は、最初に登場した時点ですでに超人的な武芸者であったし、孔明も最初から天才である。彼らは、劉備という雅俗共賞型のヒーローと出会ったことで、運命が変わった。

〇三国志の三大勢力
★魏グループ 曹操をリーダーとする。最大勢力だが三国志コンテンツでは曹操は悪役ないしダーティーヒーロー。曹操の父親は宦官の養子で金持ちだった。
★呉グループ 孫権をリーダーとする。孫権は父と兄から地盤を受け継ぐ。
★蜀グループ 劉備をリーダーとする。劉備は前漢の景帝の末裔を自称。三国志コンテンツでは蜀グループを正義の主役とすることが多い。
 「天の時、地の利、人の和」。曹操は天の時を、孫権は地の利を、劉備は人の和をもってリーダーとなった、とされる。

〇主人公になる条件
 
第五回 『西遊記』 なぜ中国人は予定調和の世界を好むのか
キーワード オープンエンド/クローズドエンド セレンディピティ(serendipity) 既知/未知/不可知
https://www.youtube.com/playlist?list=PL6QLFvIY3e-lucCMeWLCNLatGjW1-78kZ

〇略年表

〇『西遊記』の虚構の背後にある史実
 玄宗皇帝等の「道先仏後」と則天武后「仏先道後」。
 玄奘三蔵がインドに向かった本当の理由。単に「お経」を入手するだけなら、必ずしも留学する必要はなかった。中国人は、外向的形式知や内省的暗黙知、外向的暗黙知は得意だったが、インド哲学やギリシア哲学が得意とする「内省的形式知」は不得意だったので、玄奘三蔵もそれを学ぶためにわざわざインドにまで向かった。
 富永仲基(1715〜1746)『出定後語』『翁の文』インドは「幻」、中国は「文」、日本は「絞」と概括した。 cf.[中国人の知恵][中国的思考法の限界と特長]
 昔の日本人が神仏習合であったように、中国の民間信仰も道仏習合であった。
 西洋人はオープンエンドの未知の冒険譚を好むが、中国人はクローズエンドの既知の冒険譚を好む。コロンブスと、鄭和の違い。『ガリバー旅行記』と『西遊記』の違い。
 『西遊記』の世界観では、セレンディピティはありえない。中国で、西洋的な意味での近代科学が誕生しなかった理由と同源である。

〇西遊記の世界観
 宇宙や世界は無限ではなく有限。全ては「お釈迦様の掌」の中。
 「九九八十一難」をクリアすれば目標達成。
 目的地はインド。「セレンディピティ」はありえない。
 西遊記は虚構の作品だが、これらの世界観は、中国人の歴史観や政治観、宗教観とも通底する。
 日本のSF作品は、西遊記インスパイア系が多い。『キャプテンウルトラ』『宇宙戦艦ヤマト』など。

〇西遊記のキャラクター配置 「知・情・意」と「雅・雅俗共賞・俗」で分類。
 三蔵法師は雅知。孫悟空は、最初は知・俗、後に知・雅俗。猪八戒は情俗。沙悟浄は意・雅俗。
 「建前キャラ」と「本音キャラ」で分けると、三蔵法師は建前キャラ。孫悟空は、最初は本音キャラ、後に建前キャラ。孫悟空が建前キャラになったあと、猪八戒が登場して本音キャラを担当する。
 本音キャラは、読者や視聴者と、作品世界の超人的存在のあいだの距離を埋めるキャラクター。

毛沢東(1893-1976)が詠んだ漢詩「和郭沫若同志」一九六一年十一月十日
※毛沢東が、「孫悟空、天宮で大暴れ」と「孫悟空、三たび白骨の精を打つ」の話をふまえ、みずからを孫悟空にたとえ、後の「文化大革命」の発動をほのめかした漢詩。

一従大地起風雷、便有精生白骨堆。
僧是愚氓猶可訓、妖為鬼蜮必成災。
金猴奮起千鈞棒、玉宇澄清万里埃。
今日歓呼孫大聖、只縁妖霧又重来。

一たび大地に風雷の起こりてより
便ち精の白骨の堆きより生ずる有り
僧は是れ愚氓なるも猶ほ訓ふべし
妖は鬼蜮と為りて必ずや災を成さん
金猴 奮起す 千鈞の棒
玉宇 澄清す 万里の埃
今日 孫大聖を歓呼するは
只に妖霧の又重ねて来るに縁る

 ヒトたびダイチにフウライのオコりてより、スナワちセイのハッコツのウズタカきよりショウずるアり。ソウはコれグボウなるもナおオシうべし。ヨウはキイキとナりてカナラずやワザワイをナさん。キンコウ、フンキす、センキンのボウ。ギョクウ、チョウセイす、バンリのホコリ。コンニチ、ソンタイセイをカンコするは、ヒトエにヨウムのマタカサねてキタるにヨる。

 大地に嵐と雷が起きてから、白骨の山からとんでもない妖怪が生まれた。三蔵法師は愚かだがまだ再教育できる。妖怪は陰険な化け物なのできっと災厄をもたらすだろう。金色のサルが、千鈞の重さの如意棒を勢いよく振り回す。天上界の神々の宮殿の万里のほこりは、綺麗にはらわれる。今こそ、斉天大聖・孫悟空を歓呼の声で迎えるべきだ。その理由は、妖しい霧がまたぞろただよっているからに他ならない。

吉川英治(1892ー1962)『小説のタネ』「西遊記の面白さ」
 雑誌「文藝春秋」1957(昭和32)年11月号
 僕の読書ですか、読書といっても、くつろぎの気持で手を伸ばす本は、きまって美術書だとか、平易な科学書とか旅行記みたいな物ですね。この頃は怠けぐせになったんでしょうか、勉強のためになんて、読みませんな、ひとの小説もよほどでないとめったに読まない。以前は、暇さえあると、神田、本郷の古本屋街を日課のように歩いては買い集めましたがね、またその当時は片っ端から買って来るとすぐ読んだものですが、近年は買ってもすぐには読まんですな。読まないくせに、古書目録を見るとつい買いこんで、それがだんだん溜っちゃうんで、いまでは書庫に困ってますよ。けれど唯、カードだけは頭にあるんで、必要にせまると、もちろん役に立つわけです。ともかく、雑書雑然というやつです。
 最近、ちょっと思い寄りがあって、「西遊記」に関する本を大分集めましたよ。あの中の、孫悟空ってものは実におもしろい。少年時代から「西遊記」は三、四回ぐらい読んでいますね。今年は軽井沢で暇があったので、孫悟空研究ってほどじゃないけど、ひとつ、おさらいをしてみようと思って、もう一回全編を読んでみました。そして「西遊記」の作者の空想力にあらためて驚嘆したですよ。いかに僕が空想家だと云っても、あれにはとてもかなわない。日本の古典とおなじように、「西遊記」の作者も誰なのか、よく分ってませんが、魯迅の説だと、明代の呉承恩だといってますね、ま、それはとにかく、あの雄大な空想力というものは、島国に生れた作家の小ッさい空想などとはてんでケタが違うんだな。まったく天衣無縫ですよ。
 けれど、あの「西遊記」も、今日読んでみると、おもしろいのは、全編の五分の一ぐらいのところ迄でしょうか。あとはどうも面白くない。然し、その空想力の逞しさは、たとえば今日の科学者が電子、量子へ向って、挑みかけている夢とも匹敵するほどなもんですよ。東洋の四大奇書の一つといわれるわけですね。惜しむらくは、前半以後になると、悪魔外道の出没とおなじ手法のくり返しになっちゃって、退屈を感じ出させますが、少年時分によくも克明にあんな大部な物を読んだもんだと、幼い頃の読書慾にも、われながら、つくづく感心しちゃったな。
 ところで、その「西遊記」は、今日までに幾たびも翻訳翻案されてますが、これを現代にとって書いたらどうなるかなんて、ついまた空想をほしいままにしてみたんです。
 悟空というあの半人半猿の性格は、現代人のたれの中にもいる一種の怪物ですからね。三蔵法師が天竺に経を求めにゆく願望を、今にすれば、さしずめ、人類の浮沈にかかわる原水爆のことになるでしょうな。人類が原水爆を使うか使わないかというのがラストでいいでしょう。悟空がよく駈けつける観世音菩薩は、真理の象徴とか、愛の具現とかになりますね。猪八戒と沙悟浄とは、われわれ仲間の現代人です。そういった仮設で、あの悟空を現代に用いて、二十世紀の三千世界を舞台にする。地球はもちろん、地軸から地上、天上から九天までを大舞台として現代を書けば今のあらゆる世態が書けると思う。思想、政治諷刺、小さくは銀座から汚職までね、飯茶碗の中まで書けるんじゃないですか。僕の空想癖でやれば……いや今は書きはしませんよ、もし書くとすればですね、悟空が自分の毛を抜いて、ふッと吹きさえすれば、変身の術を行うから、彼を用いて、一度は女体の子宮にも入れてみたいなんて思いますね、悟空という半人間の生命を一ぺん精子に戻して、そこから再出発させてみたい。まだ世に出ない子宮の中で、篤と、人間っていうものの出発を考え直さしてみたいような気がしますね。そして現行の政治方式というものやら何々主義などと絶対的に思われているものが、果してほんとに人間の社会の暮し方に好適なものか、どうかなんてことを、悟空に考えさせてみるわけです。
 いや、そんなことを云っても、やっぱり書くのはむずかしいな。一朝一夕にはやれないな。空想ってやつは、孫悟空が何万里を一瞬に駈けるようなもんで、とめどもないが、われに返ッてみたら、如来の手のヒラを駈けていたに過ぎなかったっていうようなもんですな。……しかしこの夏は「西遊記」を手に悟空と共に宏大無辺を遊びましたよ。
 「西遊記」には、後代に書かれた「後西遊記」もあるけれど、「後西遊記」はつまらない。「続金色夜叉」の類で、いけないですね。また、小説の「西遊記」には、史実の種本があるんですよ。千三百年の昔、大唐の長安から、その頃の中央亜細亜を通って、十八年がかりで印度へ行った玄奘三蔵法師の旅行記がそれなんです。その「大唐西域記」は三蔵自身の記録といわれてるから、ほとんど史実ですからね、そんな厳然たる史実をとって、あんな奔放きわまる空想を書いたんですから、じつに自由無礙な想像力です、いわゆる大陸文学というもんでしょう、とても小国作家の頭脳ではありませんね、敬服しますな。

中谷宇吉郎(1900-1962)「『西遊記』の夢」
「文藝春秋」1943(昭和18)年1月1日
 子供の頃読んだ本の中で、一番印象に残っているのは、『西遊記』である。
 もう三十年も前の話であり、特に私たちの育った北陸の片田舎には、その頃は子供のための本などというものはなかった。(中略)
 漸く振仮名を頼りに読めるようになった時に、最初にとっついたのが『西遊記』であった。この頃になって、久しぶりで手にしてみると、劈頭から、南贍部洲(なんせんぶしゅう)とか、傲来(ごうらい)国とかいうようなむつかしい字が一杯出て来る。こういう画(かく)の多い字が一杯並んで、字づらが薄黒く見えるような頁が、何か変化(へんげ)と神秘の国の扉のように、幼い心をそそった。
 面白さは無類であった。学校から帰ると、鞄(かばん)を放り出して、古雑誌だの反故だののうず高くつまれた小さい机の上で『西遊記』に魂をうばわれて、夕暮の時をすごした。昼でも少し薄暗い四畳半の片隅には、夕闇がすぐ訪れた。その訪れにつれて、本を片手にだんだん窓際に移って行った。ふと顔をあげると、疲れた眼に、すぐ前の孟宗籔の緑が鮮やかにうつった。
 仏教の寓意譚であるという『西遊記』が、これほど魅魔的に感ぜられたのは、雰囲気のせいもあった。その頃の加賀の旧い家には、まだ一向一揆時代の仏教の匂いが幾分残っていた。
 一番奥の六畳間(ま)が、仏壇の間になっていた。仏壇の間は昼でも薄暗かった。家に不相応な大きい仏壇は旧くすすけていて、燈明の灯がゆるくゆれると、いぶし金の内陣が、ゆらゆらと光って見えた。(中略)
 時々燈明がぼうっと明るくなると、仏壇の中の仏像だの、色々な金色(こんじき)の仏様の掛軸だのが、浮いて見えた。そして孫悟空のいた時代がそう遠い昔とは感ぜられなかった。
 

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