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北方謙三(作家)  加藤 徹(広島大学助教授)
対談 楊家将
「三国志」にはない民族興亡の物語
祝 北方謙三先生作『楊家将』 第38回吉川英治文学賞受賞!! 受賞を記念してPHP研究所のHP内にも、下の対談記事がアップされました。ここをクリック

 本頁は、PHP研究所の月刊誌『歴史街道』2004年3月号61頁−69頁に掲載された対談記事です。
 対談のなかで、当時発刊まもない北方謙三先生の小説『楊家将』(PHP研究所 第38回吉川英治文学賞受賞作品)と、中国の小説・芸能における楊家将説話、史実における楊一族、などを取り上げています。
 原版にはカラー印刷で、対談者ふたりの写真と略歴、中国歴史地図、「楊家将」の連環画が挿絵として挿入されています。
 また、フリガナも豊富に振ってあります。
 今回アップロードするにあたり、挿絵とフリガナは全て省略し、本文のみとしました。
 無断転載はご遠慮ください。

一番下に、楊家将関連のサイト内ミニリンクがあります。


2004年2月8日 加藤 徹
最新の更新 2004.3.28

↓以下、雑誌に掲載された文章

人々の心を捉えてやまない忠君愛国の物語「楊家将」。
伝説の英雄に書けと命じられた作家と、
「三国志」「水滸伝」にはない魅力の虜になった学者が、
壮大なスケール、民族興亡の物語の魅力を語り尽くす。

北方謙三◎作家◎
加藤 徹◎広島大学助教授◎



北の軍閥・楊一族

北方 今日は先生を質問攻めにするつもりでやってきました。
加藤 「楊家将」のヒーローたちと違って、私は攻められるとすぐ陥落しますので、お手柔らかにお願いいたします(笑)。
北方 楊家将といっても、日本ではほとんど知られていないので、その魅力を語っていただく前に、物語の概要について、お話いただきましょうか。
加藤 わかりました。「楊家将」というのは、宋の時代(九六○〜一二七九)の初めに北中国で活躍した軍閥・楊一族の物語です。
 宋は、不運な王朝でした。唐が滅んだあと、群雄が割拠し小国が乱立する「五代十国」の乱世が半世紀ほど続き、最後は宋が天下を統一します。
 ふつう、天下統一を果たした王朝は、「小さな政府」のもとで民衆を休ませ、国力を養うものです。が、宋の場合、建国後まもなく外国との全面戦争に直面します。相手は、契丹民族が築いた帝国「遼」(九一六〜一一二五)でした。
 宋は経済大国で、膨大な人数の軍隊をもっていましたが、徒歩歩兵が中心でした。対する遼の騎馬軍団は、北方遊牧民族の精鋭。宋は、苦戦を余儀なくされます。
 宋軍のなかで、遼に対して最も善戦し、宋の対遼戦争に一筋の光明を与えたのが、武人・楊業と息子たちによる「楊家軍」でした。彼ら楊一族は、実に五世代にわたって、苛烈な対異民族戦争を戦い抜きます。
 第一世代の主人公・楊業は、もともと、五代十国の一つである北漢の皇帝に仕えていましたが、宋に降り、二代皇帝である太宗(趙光義)に仕えます。楊家軍いわば「外様」であり、「二級市民」でした。彼らは勇猛で優秀なだけに、宋軍部内で嫉視を受けるなど、軋轢にも苦しみます。しかし、宋のため、皇帝のために、命を惜しまず戦います。
 中国では、「楊家将」は、昔から「三国志」「水滸伝」などと並ぶ絶大な人気を誇っています。しかし日本では、楊家将の物語はほとんど知られていませんでした。小説も、北方謙三先生の『楊家将』が本邦初となります。
 なぜ、中国人がこれほど楊家将を愛し、日本では知られていなかったのか。その理由も、おいおいお話ししてゆきたいと思います。

遼と日本の意外な類似性

北方 楊業とその息子たちは、とにかく強く、胸のすくような戦を展開していますよね。宋と敵対した遼も、恐ろしく強い。遼は、国家体制からして宋と違う。
加藤 史家は、遼を史上初の「征服王朝」と呼びます。遼より前の北方民族は、武力で中国の一部を征服すると、中国文化に心酔して自ら漢民族に同化し、結局は中国に吸収され消滅しました。中国は、軍事力で負けても、最後は必ず文化力と経済力で勝ったのです。
 このパターンを変えたのが、遼でした。遼は、自らの漢民族化を拒否し、北方遊牧文明のアイデンティティーを保持しつつ漢民族を統治した史上最初の王朝でした。
北方 その遼を支配していた王族が耶律氏。ジンギスカンに仕えた名宰相の耶律楚材も、遼の子孫でしたね。
加藤 はい。耶律楚材は一例ですが、遼による中国経略のノウハウの蓄積がなければ、数百年後のモンゴル人による世界征服や、満州人の中国支配(金・清)もありえなかった、と言われます。
北方 なるほど、中国で楊家将が人気のある理由の一半も、そこにあるわけですね。
加藤 遼の支配民族だった契丹人は、いわゆるアルタイ語族系の民族で、漢民族よりもむしろ日本人に近い面があるんですよ。
 日本人が民族独自の仮名文字を作ったように、契丹人も独自の契丹文字を創作しました。契丹の男子には尚武の気風があり、髪型も日本の月代に似ていました。
 また、宋の太宗が遼に戦いを挑んだ頃、遼は幼帝だったため、政治の実権は、幼帝の母親にあたる蕭太后が握っていました。遼の王室は代々、蕭氏から皇后をめとる慣例でした。これも、日本の皇室と藤原氏の関係を連想させます。
 北方先生の『楊家将』は、宋だけでなく、遼の側の人物も魅力たっぷりに描かれています。これは、中国の原典版にも勝る特長だと思います。
北方 北方騎馬民族の女性は強いですから、太宗も大変だったでしょう。しかも楊業の敵は、遼だけではなかったのですからね。宋軍には生え抜きの将軍が幅をきかせていました。敵は眼前だけでなく、背後にもいる。
 組織で生き残っていくためには、八方の敵と戦わなくてはいけないんですね。

「楊家将」の魅力

北方 ところで先生は、いつから「楊家将」に魅せられたのですか。
加藤 学生時代に、京劇の楊家将ものを観て以来です。「三国志」や「水滸伝」にはないエキスがたっぷり入った「楊家将」の物語は、とても新鮮でした。「三国志」「水滸伝」の戦争は内戦ですが、「楊家将」の戦争は、民族の興亡であり、文明の衝突です。また、「楊家将」には女性の愛国英雄が多数登場し、親子兄弟といった家族の情愛も細かく描かれています。
 「楊家将」は、史実を核としつつも、中国の民衆が何世代にも渡って芝居や講談で練り上げてきた「世代累積型集団創作」の作品です。それだけに、「楊家将」は、中国の民衆が「三国志」「水滸伝」に盛り込めなかったエッセンスをぶち込んで煮込んだゴッタ煮のような性格も持っています。
北方 私は、初めて「楊家将」の原典の翻訳を読んだとき、戦争をするためだけに生まれてきたのではないかと思える楊業という男に呼び止められ、書けと命じられているような気がしたんです。
加藤 史実の楊業も生粋の軍人で、「楊無敵」と称されました。結局、彼は味方である宋軍の内訌と不手際のせいで、西暦九八六年の宋遼戦争で、善戦の末に敗れます。  史実では、楊業は遼兵多数を倒した末に捕まりますが、虜囚の屈辱を潔しとせず、絶食死します。楊業の最期に同情した民衆は、小説や芝居の中で、楊業は「李陵の碑」に自らの頭を打ち付けて自決する、という芝居がかった最期を創作しました。そして北方先生の小説『楊家将』では・・・・・・それは読んでのお楽しみですね。
 楊業の生年は不明で、その享年も五十二歳説から六十五歳説まで諸説があります。
北方 中国で楊業は今も人気があるのに、日本では諸葛孔明とか岳飛ほどの知名度はない。楊業の最終軍歴は、宋の一方面軍の副司令官で、いわば少将クラス。また楊業は、自らの肉声を詩や文章で書き残すこともなかった。生粋の軍人だったんですね。宋は徹底した文治主義を国是としていたから、楊業は不遇だったが、それでもあれほど輝いた。すごい男だと思う。

味方に裏切られた無念の死

加藤 楊業が「二級市民」から生まれた英雄だった、ということも、人気に拍車をかけていると思います。
北方 北辺にいた楊家は、純粋な漢民族ではなかったのですよね。
加藤 はい。史書にははっきり書いてありませんが、まあ、あれだけの騎馬軍団を作った楊一族に、北方民族との混血が無かったと考えるほうが不自然です。また楊業がはじめ仕えていた北漢の皇帝は、トルコ系でした。楊業は、このトルコ系の皇帝から劉姓を賜り「劉継業」と名乗っていたこともあるほど、濃密な君臣関係にありました。
北方 だからよけい、漢民族の誇り高き将軍たちから疎まれた。しかも、北漢の武将だったのが宋に降ったわけですから、楊業は生え抜きの将軍たち以上に宋への忠誠心を示さなければならなかったわけですね。
加藤 歴史をふりかえると、どこの国でも「二級市民」のほうが、最後まで忠誠を尽くすようです。明王朝に忠誠を尽くした鄭成功も、半分日本人の血を引いています。幕末の日本でも、幕府に最後まで忠誠を尽くしたのは、農民出身の近藤勇や土方歳三、外様の会津藩などでした。
北方 楊業も、あれだけ身を捨てて勇敢に戦ったのに、背後に控えていた味方に裏切られて無念の死を遂げる。そこに後世の大衆の同情が集まり、ますます人気が高まったのでしょうね。
 楊業もすばらしい武将ですが、私は敵将・耶律休哥にも、大いに心魅かれました。荒涼とした大地を駆け抜ける騎馬民族の軍団を想像しただけで、胸が躍ります。「楊家将」は魅力的な英雄の宝庫です。
 「水滸伝」に出てくる人物たちの祖先が「楊家将」に登場していることも、私の場合、執筆の動機になりました。
加藤 「楊家将」は「水滸伝」とリンクしていますから。中国では、「水滸伝」を読む人は、だいたい「楊家将」のあらすじくらいは知っているんです。

中国の鬼門――燕雲十六州の地政学

北方 「楊家将」では、燕雲十六州をめぐる宋と遼の戦争がテーマになってます。燕雲十六州というのは、燕つまり北京を中心とした河北七州と、雲つまり大同を中心にした山西九州よりなる、万里の長城の南側の地域のことです。燕雲十六州は漢民族固有の領土でありながら、遼の版図の一部になっています。
 宋はこの、肥沃とはいえない燕雲十六州の奪回作戦に国力を傾け、失敗します。楊業と息子の一部も戦死する訳です。
 宋の太宗が燕雲十六州の奪回に見せた執念は、異常なほどでしたが、何か理由はあるのですか。
加藤 たぶん太宗は、燕雲十六州の地政学的意味をよく理解していたのだと思います。
 歴史的に見ると、燕雲十六州、つまり中国の東北部は、中国の一番の急所でした。実際、モンゴルも、満州人も、そして近代の大日本帝国も、このルートを通って中国に侵入し、短期間で広大な領土を占領しました。
 これ以外のルート、例えばチベットとかシルクロード、あるいはミャンマーやベトナム方面から中国に侵入し、中国全土を征服することは、地政学的にみて不可能です。近代のイギリスが意外に中国の領土をとれなかったのも、香港や上海など海から侵入を図ったからでした。
北方 なるほど。それで「燕雲十六州」のあたりに万里の長城があったわけか。燕雲十六州自体は豊かではないけれど、中原を守るベルト地帯だった。
加藤 蛇足を付け加えますと、九八六年の戦役で、宋の太宗は、宋軍が燕雲十六州に進撃すれば、現地の漢民族系の住民も呼応して決起してくれる、と期待していた節があります。しかし結局、燕雲十六州では、漢民族の大反乱は起きませんでした。この事実は何を意味するのか・・・・・・中国の史家が触れたがらぬ問題の一つですね。
 「歴史は繰り返す」と申しますが、象徴としての「遼」と「燕雲十六州」は、その後何度も現れました。「大英帝国」と「香港」しかり。「大日本帝国」と「満州国」しかり。・・・・・・
 漢民族にとっては、西暦九八六年の戦争で宋が燕雲十六州の回収に失敗したことは、その後の中国一千年の歴史を決定づけた大事件なのです。
北方 無敵の楊業を、みすみす内訌のせいで敗死させてしまった宋の失敗を、歴代の民衆は痛恨の思いでふりかえり、芝居や講談の世界で楊家将の物語を膨らませていったわけですね。

宋という時代

北方 お話しを聞いていて、中国で楊家将ものが人気を博してきた理由が見えてきました。
 楊家将が宋の時代を舞台にしていることも、物語が面白い理由になっていると思います。  私は『楊家将』で宋の建国期を、『水滸伝』で宋の腐敗を描きましたが、宋という時代は面白いですね。
加藤 中国の近代は宋に始まる、という歴史家もいます。経済も発達し、文化も爛熟しました。「清明上河図」などを見ると、その繁栄ぶりがしのばれますね。都の開封には始終、市が立ち、二十四時間営業のコンビニのような店までありました。
北方 先生はさきほど遼と日本の類似点を指摘されましたが、宋と日本も似ていますね。宋の中期以降に見られた官僚主義の弊害の蔓延とか、経済力で平和を買うという国策とか、現代日本に通じる側面もあるような気がします。
 楊業が活躍した北宋初期は、日本でいうと平安時代で、清少納言がまだ少女だったころ。この時代に、宋では早くも市民階級が生まれ、江戸落語に出てくる熊さん八つぁん、あるいは清水次郎長みたいな人々が生活していた。お茶を飲む習慣が確立し、朱子学の基本ができ、中国文化の基本が固まったのも宋の時代。文明の成熟度から言うと、日本では江戸時代にあたる気がします。
加藤 日本で「時代劇」といえば江戸時代と相場が決まってるように、中国人にとって宋の時代が一番なつかしいんですね。宋より新しい元や清は異民族支配の時代でしたし、明は専政と頽廃の暗いイメージがつきまといますから。
北方 中国は日本に比べてずいぶん、早熟だったのですね。

敵をも魅了した楊業という男

加藤 宋は、漢や唐にくらべると地味な王朝というイメージがありますが、実は、経済や文化は漢や唐よりずっと繁栄していたんですよ。ただ、文治至上主義を国是としたこと、宋の周辺の異民族が急速に台頭したこと、などの要因が重なって、軍事的には地味な時代でした。
 楊業は宋軍部内の内訌に足をひっぱられて敗死しますが、その戦いぶりは最後まで見事でした。楊業は英雄の気概を示し、その気を孫子に伝えました。史実でも、楊業の息子(小説の楊六郎)は一〇〇四年の「澶淵の盟」に際して大活躍しています。
 今回、北方先生がお書かきになった『楊家将』は、そんな英雄の気概を描いているという点で、物語の本質を突いていると思います。
北方 ありがとうございます。
 たしかに楊業の気概は、脈々と子孫に受け継がれていますね。「水滸伝」の楊志も、楊業の子孫です。以前、中国の開封に旅行したとき、楊一族の邸宅を復元したテーマパークがあって、中国人の楊家将に対する思いの深さを垣間見たような気がしました。
 楊業は敵国・遼でも英雄として称えられていたんですよね。
加藤 はい。遼の民間信仰では厄よけの神様として楊業の肖像画を祀った、という記録が残っています。「公論は敵讐より出づるにしかず」。敵をも魅了する男だったからこそ、世代を超えて愛されたのだと思います。
北方 余談になりますが、楊業が本拠地を置いていた代州、今の山西省は、「三国志」の英雄・関羽をはじめ、薛仁貴とか、呼延賛(「水滸伝」の呼延灼の先祖)など、伝説の英雄を輩出していますね。
加藤 あそこは内陸部で土地が豊かではないので、志ある人は、軍人か政治家・商売人になって名をあげるしかなかったんですよ。だから必然的に英雄の宝庫になる。
北方 そういうことか。

「楊家将」が日本でマイナーだった理由

北方 日本人はすでに江戸時代のころから、「三国志」とか「水滸伝」など中国の英雄ものに夢中になった。「水滸伝」を下敷きにしてつくった滝沢馬琴の『南総里見八犬伝』もヒットしましたしね。しかし、中国では三国志や水滸伝と並ぶ人気を誇る「楊家将」は、日本ではずっと「知る人ぞ知る」存在だった。なぜでしょう?
加藤 その問題にお答えする前に、中国の「楊家将」の原典について、簡単にご説明します。
 「水滸伝」「三国志」は、それぞれ原典となる古典小説があります。「楊家将」にも、いわゆる『楊家将演義』と呼ぶべき古典小説があるのですが、この小説の出来が、実はあまりよくないのです。
北方 私も読んだことがありますが、原典の小説は筋が通っておらず、後半になると妖術が出てきたりしますし、史実とかけ離れた結末になっていますからね。ですので私の小説『楊家将』は、第一世代で完結させてしまいました。
加藤 おっしゃるとおり、原典は北の説話と南の説話をミックスして、木に竹を継いだようなところがあります。概して、北中国ではリアルな説話が好まれるんですが、南中国では神仙妖怪が出てくるファンタジーを好む。原典版「楊家将」も、前半は北の説話、後半は南の説話を下敷きにしており、ここに破綻があるのです。
 中国でも、「楊家将」人気は小説ではなく、京劇などの芝居や、講談で培われたものなんです。今日では、テレビドラマや連環画の楊家将ものも人気があります。いわばメディアミックス型ですね。
北方 日本で忠臣蔵が歌舞伎で演じられ、人気を得たようなものですね。
加藤 はい。日本でも、大岡越前とか水戸黄門などは、誰でも知っています。しかし、これらを小説で読んで知ったという人は、多くないでしょう。中国における「楊家将」は、こういう物語だったのです。
北方 江戸時代は鎖国していたから、中国文化の摂取は、書籍の輸入が頼りだった。「楊家将」は、小説に恵まれなかったために、日本に紹介されなかった。そういう訳ですね。
加藤 今日の日本の「三国志」「水滸伝」の人気は、江戸時代の蓄積によるところが大きいんです。その意味で、「楊家将」は不運な作品でした。
 今回、北方先生が『楊家将』をお書きになったことで、ようやく日本でもこの物語が一般に知られるようになりました。中国研究者の一人として、とても嬉しく思います。
北方 これほどスケールが大きく、詩情豊かな物語が日本で知られていなかったのは、勿体ない話ですからね。今後も、私は中国の英雄ものをどんどん書いてゆきたいと思います。


(対談原稿 終わり)




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