??講演会のお知らせ??
— 中検|中国語検定試験 (@chuken_3611) January 30, 2024
??2/23(金・祝)??
加藤徹先生,内田慶市先生による #中検講演会 を開催します。
申込方法等は後日改めてご案内いたしますので,しばらくお待ちください。
連休初日のイベントとして,ご予定いただけると嬉しいです。#中検 #中国語 #中国語学習 pic.twitter.com/XSGBgzHc9O
推古16年9月発道の遣隋使には8人の留学生・学問僧が随行したが、 『日本書紀』によると、その顔ぶれは倭漠直福困・奈良訳語恵妙・高向漢人玄理・新漢人大国(学生)、新漢人日文・南淵漢人請安・志賀漢人恵隠・新漢人広済(学問僧)より成る。彼らの多くは乗漢氏やその系列下の漢人の出身で、高向漢人玄理は、氏姓を「高向史」とも記すように、東文氏(東漢氏の枝氏)の下で文筆・記録の任にあたったフミヒト(ヤマトノフミヒト)の一員でもある。残る奈良訳語恵妙は己智氏の同族、志賀漢人恵隠は西漠氏系の漢人とみられるが、この2人を含む全員が渡来人である。引用終了
遣惰使の時ほどではないにしても、遣唐使の場合も、渡来系の留学生・学問僧が高い比率を占めていたとみられるのである。引用終了
これに対して、非渡来系の留学生・学問僧は、時期が降るにつれて次第に増加の傾向をたどるものの、養老元年入唐の下道(吉備)朝臣真備・大倭忌寸小乗人(大和相称長岡)、天平勝宝4年の膳臣大丘、同年入唐(?)の善議(俗姓恵賀連)、宝亀8年の永忠(俗姓秋篠朝臣)、延暦23年の空海(俗姓佐伯直) ・義真(俗姓丸子連または丸都連)、承和5年の戒明(俗姓凡直) ・春苑宿祢玉成(前掲表1の注4参照)、承和9年の悪運(俗姓安曇宿祢)のように、一般に中・下級の官人層や地方豪族層(下道真備-備中、空海・戒明-讃岐、義真-相模、春苑宿祢玉成-伯者)の子弟が多い。
○遣唐使も苦労した中国語の舌の動かしかた引用終了
日本人の中国語発音学習のキモは舌である。
中国語の声母(子音)の一覧表を見ると「唇音、舌尖音、舌根音、舌面音、捲舌音、舌歯音」云々とある。b p m f の「唇音」を除きみな「舌」を含む。
中国語の韻母(母音)のうち、日本人が苦手とする e、 ü 、erの3つ単母音も、コツは舌だ。初心者は「外から見える口の形」ばかり気にする。本当は「外からは見えない、口のなかの舌の位置と動かしかた」が秘訣だ。特にeは、教科書には「単母音」などと書いてあるせいで、初心者はてっきり「eの発音の最中は舌を動かさない」と思い込む。本当は、eは「単母音の顔をした事実上の複合母音」だ。eは、発音しながら口の中で舌を口の奥にスライドさせつつ、脱力する。この、口の中の舌の動線は、生徒が教員の口元をいくらジーッと見ても、わからない。
「鼻母音」つまりnとngの区別も、キモは「鼻の穴」ではない。やはり、口のなかの舌の動線だ。leの発音のコツも、zhi chi shi ri のコツも、・・・もうやめるが、とにかく、日本人の中国語学習者にとっての鬼門は、舌である。
今から1200年前の遣唐使の時代も、日本人は舌で苦労した。
日本の書道史上、空海(くうかい)・嵯峨天皇(さがてんのう)・橘逸勢(たちばなのはやなり)の3人を「三筆」と言う。空海と橘逸勢は遣唐使の同期の留学生だった。2人とも804年に唐に渡った。本来は十年以上留学する予定だった。が、2人とも2年で留学を切り上げ、806年に帰国した。空海は中国語の達人で、学ぶべきものを学び尽くした。橘逸勢は中国語の発音で挫折し、将来に見切りをつけた。
空海の詩文集『性霊集』巻5の漢文「為橘学生与本国使啓一首」は、橘逸勢が早期帰国を申請した本国(日本)宛ての文章である。趣旨は「中国語会話で挫折しました。このまま留学を続けても無駄です。語学力が貧弱でもマスターできる琴(きん)と書道は、われながら自信があります。帰国をお認めください」。文中で、
今山川隔両郷之舌、未遑遊槐林。 つまり「日本と中国は地理的に遠く、両国の母語は舌の動かしかたが全然ちがうのです。中国語会話ができず、中国の高等教育を受けられません」と弁解した。
(いま、山川は両郷の舌を隔て、いまだ槐林に遊ぶにいとまあらず。)
ちょっと、橘さん。空海さんは、日本にいたときから努力して中国語をマスターしましたよ。この申請書も、自分で書かずに親友の空海に代筆してもらったとは! 世間を甘くみてませんか? でも、中国語の舌で苦労したのは、わたしたち後世の中国語学習者もよくわかります。中国語力が貧弱でも、琴や書道など学べる中国文化はある。そんな実例を歴史に残してくださったことには、感謝します。
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さて,日本における中国語教育の歴史は古く,例えば,江戸時代には中国との交易のために長崎に設けられた「唐通事」によって中国語が学ばれ,また5代将軍綱吉の時代には黄檗宗との関係で江戸城内でも中国語学習会が催されたことがありました。その後,明治以降は特に民間講習会を中心に中国語教育が展開され,戦後,特に日中国交回復後は中国語ブームが巻き起こったりもしました。現在は,大学等でも履修者数は英語に次いで,他の語種を遥かに凌駕しております。引用終了。 参考動画 https://youtu.be/MjsNhvbETdQ?si=V79loKNsvhJmCWot&t=830 「中国語学概説 第5回 中国語の表音法 - 内田慶市 関西大学外国語学部教授」830秒目から伊沢修二と江戸時代の唐話学習