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中国歴史人物列伝 11
最新の更新2025年10月20日 最初の公開2025年10月7日
- 褒姒(ほうじ) 微笑みで国を滅ぼしたファム・ファタール 前790年代?-前771?
- 韓非子(かんぴし) 故事成語の宝庫は中国のマキャヴェリ 前280頃-前233
- 関羽(かんう) 道教の神として祭られる三国志の義の武将 160頃-220
- 楊貴妃(ようきひ) 史上まれな美女の知られざる真実とは 719-756
- マテオ・リッチ 西洋から中国に渡来したイタリア人宣教師 1552-1610
- 梁啓超(りょうけいちょう) 日本とも縁が深い近代言論人 1873-1929
- 参考 今までとりあげた人物 実施順 時代順
以下、朝日カルチャーセンター公式サイトのhttps://www.asahiculture.com/asahiculture/asp-webapp/web/WWebKozaShosaiNyuryoku.do?kozaId=8399844より引用。
講座番号:4584576 新宿教室 教室・オンライン自由講座 見逃し配信あり 中国歴史人物列伝 加藤 徹/明治大学教授
木2025/10/9, 10/23, 11/13, 11/27, 12/11, 12/25 指定木曜日 10:30〜12:00
歴史を理解することは、人間を理解すること。ヒストリー(歴史)とストーリー(物語)は、もとは同じ言葉でした。中国の伝統的な「紀伝体」の歴史書も、個々人の伝記を中心とした文学作品でした。
本講座では、日本にも大きな影響を残した中国史上の人物をとりあげ、運や縁といった個人の一回性の生きざまと、社会学的な法則や理論など普遍的な見地の両面から、人生を紹介します。豊富な図像を使い、予備知識のないかたにもわかりやすく解説します。(講師・記)
褒姒(ほうじ) 微笑みで国を滅ぼしたファム・ファタール
YouTube https://www.youtube.com/playlist?list=PL6QLFvIY3e-ns3Y25DFA3dmswxstXRKCo
○ポイント、キーワード
- ファム・ファタール 仏: femme fatale
男にとっての運命の女。男を破滅させる魔性の女。ファム・ファタル。中国の「傾国の美女」もこの一種。
- 褒姒の一笑国を傾く ほうじのいっしょうくにをかたむく
美女が国の衰亡をもたらす、ということわざ。cf.https://kotowaza.jitenon.jp/kotowaza/1392.php
- 烽火戯諸侯
中国語の故事成語。烽火もて諸侯を戯(もてあそ)ぶ。イソップ寓話「オオカミ少年」の中国版。
- 歴史時代
先史時代の対概念。有史時代とも。文字が発明され文献資料で歴史事象を検証できる時代のこと。
現在確認されている限りで中国最古の文字記録は殷王朝後期の甲骨文(前1300年ごろ-前1100年ごろ)であるが、当時の事件の年次は諸説あり未確定である。
司馬遷『史記』に記されている最古の年次は、十二諸侯年表の共和元年(紀元前841年)で、それ以前の年次について司馬遷は不詳として記録しなかった。
中華人民共和国の「夏商周断代工程」(夏商周年表プロジェクト)では、共和元年からさかのぼって年次を確定したが、外国の学界では定説となっていない。
狭義での歴史時代は、西周中期の共和元年に始まる。褒姒は、狭義の歴史時代の最初期の人物であり、いまだ神話的な色彩が強い。
- 春秋時代 しゅんじゅうじだい
周の平王が首都を東に遷した(東周)紀元前770年から、周の平王が王に即位した紀元前770年から、韓・魏・趙の独立が公認された紀元前403年まで(終わりについては諸説ある)。
春秋時代の乱世が始まるきっかけを作ったのが、褒姒である。
- 五等爵 ごとうしゃく
公爵、侯爵、伯爵、子爵、男爵の五等級に分けた爵位。
褒姒を溺愛した幽王は、正妻である申后の父親・申侯(申=現在の陝西省宝鶏市眉県に封ぜられた侯爵)に殺された。
「申侯の乱」は、外戚(がいせき)が起こした最古の反乱の一つ。
○辞書的な説明
- 『日本大百科全書(ニッポニカ) 』より引用
褒姒
ほうじ
中国古代の伝説上の女性。西周王朝最後の王である幽王の愛妾(あいしょう)。
夏(か)王朝末期、朝廷に二匹の竜が現れてよだれを残して去ったが、このよだれは長く櫃(ひつ)の中にしまわれて西周王朝の(れい)王のときに開かれた。
するとそのよだれはいつのまにか黒い亀(かめ)と化し、これに出会った幼女が妊娠してやがて生まれたのが褒姒であると伝えられている。
のちに幽王の寵愛(ちょうあい)を受けるようになった彼女は、一度も笑ったことがないため、幽王は彼女を笑わせようと八方に手を尽くした。
ところが褒姒は、あるとき敵の来襲を知らせるのろしがあがるのを見た諸侯が息せききって駆けつけるようすを見て、初めて笑った。
このため王は、彼女を笑わせるためにたびたび嘘(うそ)ののろしをあげたので、ついに諸侯はこれを信じなくなり、本当に外敵が攻めてきたときにはひとたまりもなく西周王朝は滅んでしまった。
そして幽王は驪山(りざん)の麓(ふもと)で殺され、褒姒は敵に連れ去られたという。
紀元前771年の事件とされているこのエピソードは、夏王朝の妹喜(ばっき)や殷(いん)王朝の妲己(だっき)と並んで、女性が国を滅ぼすという考え方を伝説の形で表現したものであり、歴史的な事実と断定することはできない。
[桐本東太]
- 『改訂新版 世界大百科事典 』より引用
幽王 (ゆうおう)
Yōu wáng
中国,西周の末王。在位,前781-前771年。
本名は姫宮涅(ききゆうでつ)。
父の宣王の中興のあとをうけて即位したが,地主化した貴族層の勢力があなどりがたく,周辺民族の進攻もあって,
王権は昔日の勢いを失っていた。即位以来,天変地異が重なり,とくに褒姒(ほうじ)を寵愛して皇后の申后を追ったことが貴族層の背反を決定的にした。
申后の父の申侯が異民族犬戎の援助を得て王を攻め,幽王は驪山(りざん)で殺されたとされる。
貴族たちはその太子の平王を立てて東周王朝を開くことになる。
執筆者:小南 一郎
- 『改訂新版 世界大百科事典 』より引用
東周 (とうしゅう)
Dōng Zhōu
中国古代の周王朝が前770年,都を東の成周(河南省洛陽市)にうつしてから,前256年秦に滅ぼされるまでをいう。
前221年秦始皇帝が中国を統一するまでを東周時代と概括することもある。
→周
執筆者:伊藤 道治
○略年表
- 前842年、周の首都・鎬京(こうけい 現在の中国陝西省西安市)で国人暴動が発生。
脂、(れいおう 第10代王 在位前877-前841)は逃げた。
- 前841年、王が不在の状態で、諸侯の合議で国政を運営する「共和」時代(前841年-前828年)が始まる。
司馬遷『史記』十二諸侯年表は、この共和元年前841年)から始まる。中国史で年次が確定している最古の時代(これ以前の年次は推定で諸説が分かれる)。
- 前828年(共和14年)、脂、が亡命先で死去。息子の第11代宣王が即位。「宣王中興」により周の国力回復を図る。
- 前781年、宣王が死去。『墨子』明鬼篇下によると杜伯の怨霊が白昼あらわれて射殺したのだと言う。
周の宣王はかつて臣下である杜伯を無実の罪で殺した。
杜伯は殺される前に呪って言った。
「もし死者に知覚がないならそれまで。しかし、もし死者に知覚があるなら、三年後に必ず復讐する」
三年後。宣王は諸侯を集めて、軍事演習を兼ねた巻き狩りを行った。
馬車は数百台、従者は数千人にのぼり、人々は山野に満ちた。
正午、死んだ杜伯が白昼堂々とあらわれた。彼は白馬の白い車に乗り、紅衣を着て、紅の弓を手にして宣王を追いかけ、車上から矢を放った。
矢は宣王の心臓に命中し、脊骨をポキリと折った。王は弓袋の上に倒れて死んだ。
従者たちは全員これを目撃し、遠くの者も聞き漏らさなかった。
(以上は、墨子が「幽霊は実在する」という証拠としてあげた話。衆人環視下の超常現象としては、杜伯とダニエル・ダングラス・ヒュームが世界史上の双璧)
息子の幽王(前795-前771)が即位。満年齢で14歳という若さだった。
- 前780年、幽王3年、褒姒が幽王の後宮に入る。
褒姒は「褒(地名)のお姉さん」の意。
褒姒は寵愛を受け、伯服(伯盤)という男児を産んだ。
- 前771年、申侯の乱。申侯が曙・犬戎(けんじゅう)の加勢を受けて反乱を起こし、周の首都・鎬京を攻略。
周の幽王は殺害され、「西周」時代が終了。
申侯の孫で幽王の息子でもある平王が即位。
- 前770年、洛邑(現在の河南省洛陽市)に遷都。「東周」の時代の始まり(春秋時代の始まりでもある)。
以下は、司馬遷『史記』周本紀の記載である。
【原漢文】四十六年、宣王崩、子幽王宮湦立。幽王二年、西周三川皆震。伯陽甫曰、
「周将亡矣。夫天地之気、不失其序。若過其序、民乱之也。陽伏而不能出、陰迫而不能蒸、於是有地震。今三川実震、是陽失其所而填陰也。陽失而在陰、原必塞。
原塞、国必亡。夫水土演而民用也。土無所演、民乏財用、不亡何待!昔伊洛竭而夏亡、河竭而商亡。
今周徳若二代之季矣、其川原又塞、塞必竭。夫国必依山川、山崩川竭、亡国之徴也。川竭必山崩。若国亡不過十年、数之紀也。天之所棄、不過其紀。」
是歳也、三川竭、岐山崩。
三年、幽王嬖愛褒姒。褒姒生子伯服、幽王欲廃太子。太子母申侯女、而為后。
後幽王得褒姒、愛之、欲廃申后、并去太子宜臼、以褒姒為后、以伯服為太子。周太史伯陽読史記曰、「周亡矣。」
昔自夏后氏之衰也、有二神龍止於夏帝庭而言曰、「余、褒之二君。」夏帝卜殺之与去之与止之、莫吉。
卜請其漦而藏之、乃吉。於是布幣而策告之、龍亡而漦在、櫝而去之。夏亡、伝此器殷。殷亡、又伝此器周。比三代、莫敢発之。
至脂、之末、発而観之。漦流于庭、不可除。脂、使婦人裸而譟之。漦化為玄黿、以入王後宮。
後宮之童妾既齔而遭之、既笄而孕、無夫而生子、懼而棄之。宣王之時童女謠曰、「檿弧箕服、実亡周国。」於是宣王聞之、有夫婦売是器者、宣王使執而戮之。逃於道、而見郷者後宮童妾所棄妖子出於路者、聞其夜啼、哀而収之、夫婦遂亡、奔於褒。褒人有罪、請入童妾所棄女子者於王以贖罪。棄女子出於褒、是為褒姒。
当幽王三年、王之後宮見而愛之、生子伯服、竟廃申后及太子、以褒姒為后、伯服為太子。太史伯陽曰、「禍成矣、無可奈何!」
褒姒不好笑、幽王欲其笑万方、故不笑。幽王為烽燧大鼓、有寇至則挙烽火。諸侯悉至、至而無寇、褒姒乃大笑。幽王説之、為数挙烽火。其後不信、諸侯益亦不至。
幽王以虢石父為卿、用事、国人皆怨。石父為人佞巧善諛好利、王用之。又廃申后、去太子也。申侯怒、与署シ夷犬戎攻幽王。幽王挙烽火徴兵、兵莫至。遂殺幽王驪山下、虜褒姒、尽取周賂而去。於是諸侯乃即申侯而共立故幽王太子宜臼、是為平王、以奉周祀。
以下は訳である。
周の宣王46年(紀元前782年)、第11代宣王(在位前828年 - 前782年)が死去し、息子の幽王が即位した。
幽王の二年、洛河流域の三つの川がすべて枯渇した。伯陽甫は予言した。
「周は滅びるであろう。天地の気には順序があり、それが乱れると民が乱れる。今、陽の気が陰の気に閉じ込められ、蒸発できずにいる。そのため地震が起きる。
今の三川の枯渇は、陽の気が本来あるべき場所を離れて陰の気の中に閉じ込められている状態だ。陽の気が陰の中に閉じ込められれば、川の源も塞がれてしまう。
川の源が塞がれれば、国土も滅びる。水と土は民の生活を支えるもの。土が水を支えなければ民の財力は尽き、滅亡を待つだけだ。
昔、伊洛の川が枯渇して夏が滅び、黄河が枯渇して殷が滅んだ。今の周の衰えは二つの時代の末期に似ている。
そして三つの川も再び塞がれ、必ず枯渇するであろう。国家は山川に依存する。山崩れと川の枯渇は、滅亡の兆候である。
川が枯渇すれば、必ず山が崩れる。このままでは、十数年以内に国は滅亡する。天に見捨てられるまで、それほど年月はなかろう」
この年、三つの川は枯渇し、岐山は崩れた。
幽王の三年、幽王は褒姒を寵愛した。褒姒は王子・伯服を産んだ。
幽王は太子を廃しようと考えた。太子・宜臼(ぎきゅう)の母は申侯(しんこう)の娘で、王后であった。
幽王はあとから迎えた褒姒を寵愛するあまり、申后と太子の宜臼を退け、褒姒を王后とし伯服を太子にしようとした。
周の太史(たいし)である伯陽は歴史書を読んで予言した。「周は滅ぶ」と。
その昔、夏(か)王朝の末(紀元前17世紀の末頃)。二匹の神龍が夏の帝の庭に降りてきて、「我々は褒の二人の君主である」と言った。
夏の帝は、龍を殺すか、立ち去らせるか、留まらせるかを占ったが、どれも不吉だった。
龍の流した唾液(つばき)を箱に納めて保存する、と占うと、ようやく吉と出た。
そこで夏の帝は幣帛(へいはく)を供えて龍に告げたところ、龍は姿を消したが、その唾液の泡は残ったので、箱に納めて保管した。
夏の滅亡後、この箱は殷(いん)に伝えられた。殷が滅びると、この箱は周に伝わった。三代にわたり誰もあえてこの箱を開けなかった。
周の脂、(れいおう 第10代周王 在位前877年 - 前841年)の末年、この箱を開けてしまった。
龍の泡は庭に流れ出し、取り除けなくなった。
脂、は女官たちに裸にして叫び騒がせた。すると、その唾液は黒いイモリ(黒い亀、ないし黒いスッポンという説もある)になって、王の後宮に入り込んでいった。
後宮にいた、ちょうど歯が生え替わったばかりの幼女の召使いが、イモリに触れた。
彼女は笄(かんざし)を挿す年頃になると妊娠し、夫がいないまま子を産んだ。
恐れてその子を捨ててしまった。
宣王(せんおう)の時代に、童女たちのあいだで不思議なわらべうたか流行した。
「檿弧箕服(えんこきふく。ヤマグワで作った弓と箕という竹で作った四角い箙=えびら)で周は滅びる」
この歌を知った宣王が調べさせると、民間人の中に、ヤマグワの弓と箕の矢筒を売る夫婦がいた。役人に命じて夫婦を捕らえて殺そうとした。
夫婦は夜道を逃げた。道ばたで泣いている捨て子を見つけた。後宮の召使いの娘が捨てた子だった。夫婦は哀れに思ってこの子を拾い、そのまま褒の地に逃げ込んだ。
その後、褒のある人物が罪を犯した。
彼は罪を償うために、捨て子だった美しい女の子を王に差し出すことを願い出た。
褒の出身なので名を「褒姒(ほうじ)」と呼ばれた。
幽王の三年。幽王は後宮に来た褒姒を寵愛した。伯服(はくふく) という男児が生まれた。
幽王は、正妻である申后(しんこう)と太子(宜臼)を廃位して、 褒姒を王后に、伯服を太子とした。
太史の 伯陽 は言った。「もはやこの災いは、いかんともしがたくなった」
褒姒はついぞ笑わなかった。幽王はあの手この手で彼女を笑わせようとした。それでも褒姒は笑わない。
あるとき、幽王は敵襲の狼煙(のろし)をあげた。
諸侯はみな駆けつけた。到着してみると敵はいなかった。褒姒は初めて笑った。
幽王は喜んだ。その後、何度も敵襲の烽火を上げた。諸侯は信用しなくなり、駆けつける者は減っていった。
幽王は虢石父(かくせきほ)を 卿(けい。大臣) に任命して政務を行わせた。 国中の人々 はみな彼を恨んだ。
虢石父は、へつらい がうまく利欲を貪る小人だったが、王は彼を用いた。
申后の父である申侯は、自分の娘と孫を廃位されて激怒した。
申侯は反乱を起こして、曙(そうこう)と、西方の異民族である 犬戎(けんじゅう) とともに幽王を攻めた。
幽王は狼煙をあげて諸侯の兵を招集したが、 誰も駆けつけなかった 。
反乱軍は驪山(りざん) のふもとで 幽王を殺害 し、褒姒を捕虜とし、周の財宝を ことごとく奪って 去った。
こうして諸侯は申侯のもとに集まり、幽王の元太子であった宜臼を天子として擁立した。
これが平王(へいおう 第13代王 生年不詳。在位前771 - 前720)で、彼が周の祭祀を継承した。
○その他
- 褒姒は日本でも昔から人気があった。
九尾の狐は、殷の妲己、天竺の斑足太子(はんぞくたいし)の妃・華陽夫人、周の褒姒を経て、唐の時代に吉備真備が乗る遣唐使船に同乗して来日し、玉藻前(たまものまえ)となった。
- 『平家物語』巻第ニの「烽火之沙汰(ほうかのさた)」では、褒姒は狐の姿に変身して逃げ去った、とする。
以下、平重盛が、部下の武士たちに褒姒の故事を語り聞かせる言葉。
cf.https://roudokus.com/Heike/HK023.htmlより引用。引用開始
「日来(ひごろ)の契約をたがへず、参りたるこそ神妙(しんべう)なれ。
異国にさるためしあり。周(しう)の幽王(いうわう)、褒姒(ほうじ)と云ふ最愛(さいあい)の后(きさき)をもち給へり、天下第一の美人なり。
されども幽王の心にかなはざりける事は、褒姒咲(ゑみ)をふくまずとて、すべて此后(このきさき)わらふ事をし給はず。
異国の習(ならひ)には、天下に兵革(ひやうがく)おこる時、所々(しよしよ)に火をあげ、太鼓(たいこ)をうツて兵(つはもの)を召すはかり事(こと)あり。
是(これ)を烽火(ほうくわ)と名づけたり。
或時(あるとき)天下に兵乱(ひやうらん)おこツて、烽火をあげたりければ、后(きさき)これを見給ひて、
『あなふしぎ、火もあれ程(ほど)おほかりけるな』とて、其時(そのとき)初めてわらひ給へり。
この后、一たびゑめば、百(もも)の媚(こび)ありけり。
幽王(いうわう)うれしき事にして、其事となう、常に烽火をあげ給ふ。諸侯来(きた)るにあたなし。
あたなければ則(すなは)ちさんぬ。かやうにする事度々(どど)に及べば、参る者もなかりけり。
或時隣国より凶賊おこツて、幽王の都をせめけるに、烽火をあぐれども、例の后の火にならツて、兵(つはもの)も参らず。
其時都かたむいて、幽王つひに亡びにき。
さてこの后は、野干(やかん)となツてはしりうせけるぞおそろしき。
か様(やう)の事がある時は、自今(じごん)以後もこれより召さんには、かくのごとく参るべし。
重盛(しげもり)不思議の事を聞き出(いだ)して、召しつるなり。
されども其事聞きなほしつ、僻事(ひがごと)にてありけり。とうとう帰れ」とて、皆帰されけり。
実(まこと)にはさせる事をも聞き出されざりけれども、父をいさめ申されつる詞(ことば)にしたがひ、
我身に勢(せい)のつくかつかぬかの程(ほど)をも知り、又父子軍(いくさ)をせんとにはあらねども、
かうして入道相国の、謀反(むほん)の心をもややはらげ給ふとの策(はかりこと)なり。
- 井上靖は中学時代に漢文の授業で褒姒の故事を読んで感銘を受け、小説家となったあと短編小説「褒姒の笑い」を発表した。
- 褒姒については、加藤徹著『後宮 殷から唐・五代十国まで』角川新書
(book.html#koukyuu)でも63頁から70頁にかけて解説しています。
試し読み https://drive.google.com/file/d/1l1ipZo4mmnbDfvPMbehzX9rDZv1ACmTs/view?usp=sharing
[一番上]
韓非子(かんぴし) 故事成語の宝庫は中国のマキャヴェリ
YouTube https://www.youtube.com/playlist?list=PL6QLFvIY3e-meCF7CKFxFEY75I5FBZCbN
○ポイント、キーワード
- 韓非子と韓子
「韓非子」の「子」は「先生」の意。古代中国の諸子百家の思想家は孫子、老子、孟子、荘子、などと呼ばれ、
それぞれの書物も『孫子』、『老子』、『孟子』、『荘子』と呼ばれた。
韓非も、当初は韓子と呼ばれ、その著書の名前は『韓子』だった。
唐の時代の韓愈(かん ゆ 768-824)が「韓子」と尊んで呼ばれるようになると、韓非のほうは「韓非子」と呼びかたが変更され、今日に至る。
- マキャヴェリズム Machiavellianism
国益という至上の目的のためには、非情な権謀術数も含めて手段を選ばない、というやり方を指す。
ルネサンス期のフィレンツェの外交官であったニッコロ・マキャヴェッリ(1469−1527)は、
著書『君主論』で、宗教や道徳から離れた現実主義的な政治理論を展開し、
君主たる者は「獅子の勇猛さと狐の狡知」が必要だ、と説いた。
cf.https://www.y-history.net/appendix/wh0902-033.html
- 韓 かん
中国戦国時代の七大強国「戦国の七雄」の一つ。文化的には先進国だったが、周囲を強国に囲まれ軍事的には苦労の連続だった。
韓非は、韓の王族であった。
cf.asahi20241001.html#02
○辞書的な説明
- 『山川 世界史小辞典 改訂新版』より引用
法家(ほうか)
諸子百家の一つ。諸家の空疎に走る思想を排し,法を重んじて信賞必罰を期し,権力を君主に集中して国を治めることを説いた。
管仲(かんちゅう)が祖と仰がれ,申不害(しんふがい),商鞅(しょうおう)らがその代表で,韓非(かんぴ)によって大成された。
これを秦の統一政策に実施したのが李斯(りし)である。この法治主義は漢初まで受け継がれたが,儒家の徳治主義が政治原理となるに及んで衰微した。
- 『改訂新版 世界大百科事典 』より引用
韓非子 (かんびし)
Hán Fēi zǐ
中国,戦国末の思想家韓非(?-前234?)の言説を集めた書。20巻55編。
すべてが韓非の自著ではなく,後学のものも含まれているが,孤憤・説難(ぜいなん)・和氏(かし)・姦劫弑臣(かんきようししん)・五蠹(ごと)・顕学の諸篇はもっとも真に近い。
秦の始皇帝は孤憤・五蠹の篇を読んで,いたく感激し,この人に会って交際を結ぶことができたら,死んでも思い残すことはない,と漏らしたという。
《韓非子》では,人民は支配と搾取の対象であり,君主に奉仕すべきものとされる。
〈君主と人民の利害は相反する〉として,この観点から,厳格な法で人民を規制すべきを説くが,そのいわゆる法治主義は,法と術と勢の三者を強調する。
君主たる者は臣下を統御しうる勢を利用し,客観的な法と,胸中にかくす術とを兼ね用いれば,臣下を自由自在に操縦することができる。その際には,賞と罰の二柄(にへい)が有効な要具となる。
その法治主義は法の権威を確保するために,いっさいの批判を封ずる。現在の法を批判する者は,多くの場合先王の法をもちきたって,両者を対置して論評する。韓非にとってまず抹殺さるべきは先王の法であった。先王主義を否定する論拠は,顕学篇に詳しい。
法治の妨害者として五蠹をあげ,その撲滅をはかる。蠹は木を食う虫で,五蠹は,五種の社会を害する者の意。
その第1は,学者−道徳を唱えて法を批判し,無用の弁説をもてあそぶ。
第2は,言談者−デリケートな国際関係を利用して,詭弁を弄し君主をまどわす。
第3は,俠客−私の節義のために法禁を犯し,然諾を重んじて死を軽んずる。
第4は,君主の側近。
第5は,商工業者。
保護育成すべきものとして,軍人と農民をあげる。それは国力の増強に直接寄与し,知能が低く単純なので,権威に弱く御しやすい。
つまり,知的な面での愚民と経済の面での弱民とは,君主の支配が容易なので,国家主義の歓迎するところである,という。
執筆者:日原 利国
○略年表
- 前355年、韓の釐侯(きこう)は、法家思想家・申不害を韓の宰相とした。
申不害は鄭国の出身の法家思想家で、富国強兵策を進めた。
- 前323年、韓の宣恵王 (釐侯の子)が王号を自称するようになる。
- 前280年ごろ、韓の公子(王族の子)として韓非が生まれる。
若いころ、儒学者の荀子(じゅんし 前298?/前313?- ?)のもとで学ぶ。同門に、後に秦王政(秦の始皇帝)に仕えることとなる李斯(りし ?-前208)がいた。
- 前259年、後に「秦の始皇帝」となる嬴政(えいせい)が、趙の首都・邯鄲で誕生。cf.#NHK20231101.html#01
- 前250年以前、韓の代々の宰相をつとめた名族の家に、張良(ちょうりょう。?-前186年)が誕生。
張良は後に、前漢の初代皇帝・劉邦を支える人物。 -
- 前246年、韓が謀略で秦に送り込んだ水利技術者・鄭国(生没年不明)が秦王政(後の始皇帝)を説得し、灌漑水路「鄭国渠(ていこくきょ)」の造成を開始。
- 前233年、韓の公子で『韓非子』(#waseda20221115.html#02)の著者である韓非が、秦で横死。
- 前230年、韓は首都・新鄭を秦軍の侵攻によって占領され、「六国」の中で最初に滅亡した。
- 前221年、秦王政が「始皇帝」となり、秦帝国が成立。戦国時代が終わる。
○その他
- 司馬遷『史記』巻63・老子韓非列伝第三の韓非の伝を、AIを使って現代語訳。cf.https://ja.wikisource.org/wiki/史記/卷063
韓非は、韓の君主の一族(諸公子)の一人である。彼は刑名(刑罰と名分)、法術(法と君主の術)の学問を好み、その根本は黄老(黄帝と老子の思想、つまり道家思想)に帰していた。
彼は生まれつき吃音で、話すことは得意ではなかったが、文章を書くのは巧みだった。
彼は李斯と共に荀卿(荀子)に師事したが、李斯は自分は韓非には及ばないと考えていた。
韓非は韓の国力が衰弱していくのを見て、たびたび書物で韓王(韓の君主)を諫めたが、韓王は彼の進言を用いなかった。
そこで韓非は、国を治める者が、法制度を整え、権勢を握って臣下を統御し、国を富ませ兵を強くして、それによって人を選び賢者を任用するという務めを怠り、逆に(国にとっての)浮ついた、あるいは悪性の害虫のような者を推挙して、功績や実力の持主に勝る地位に置くことを深く憂えた。
彼は、儒学者(儒者)は文飾をもって法を乱し、遊侠者は武力をもって禁令を犯すと考えた。(君主が)寛大な時は名誉を重んじる者を寵愛し、非常事態の時は武具を身につけた兵士を用いる。今、養っている者(名誉を重んじる者)は用いる者(兵士)ではなく、用いる者(兵士)は養っている者(名誉を重んじる者)ではないと批判した。
彼は、廉潔で正直な者が、不正で曲がった臣下の中に容れられないことを悲しみ、過去の国家の盛衰の移り変わりを観察した。
それ故に、『孤憤』、『五蠹』、『内外儲説』、『説林』、『説難』などの十数万言に及ぶ著作を著した。
しかし、韓非は遊説の困難さを知っており、『説難』という書物でその困難さを詳しく論じたにもかかわらず、結局は秦で命を落とし、自ら窮地を脱することはできなかった。
『説難』にはこうある。
およそ説得の困難さは、私の知識が不足しているからではない。また、私の弁舌が拙くて私の意図を明確に伝えられないからでもない。さらに、私が思い切って自由に発言できないからでもない。およそ説得の困難さは、説得する相手の心を知り、私の主張をその心に合致させられるかにある。
説得する相手が名声を重んじるタイプであるのに、厚い利益を説くと、(相手は)品性の低い者と見なし、卑しい者として遇し、必ず遠ざけてしまうだろう。説得する相手が厚い利益を重んじるタイプであるのに、名声を説くと、(相手は)心がない、世情に疎い者と見なし、必ず受け入れないだろう。
説得する相手が実際は厚い利益を求めているが、表面上は名声を重んじているタイプである場合、名声を説くと、表面上は受け入れるが、実際は疎遠にする。もし厚い利益を説くと、密かにその意見を採用するが、表面上は彼を排斥する。この機微を知らないではいけない。
そもそも、物事は秘密にすることで成功し、言葉は漏れることで失敗する。(秘密を)必ずしも(説得される)本人が漏らすわけではないが、(説得者が)その人が隠している事に触れるような発言をすると、このような場合は身が危うくなる。
貴人に過ちがありそうな兆候があるのに、説得する者が明確な言葉や立派な議論でその悪行を突き止めようとすると、身が危うくなる。(君主の)寵愛がまだ深くないうちに、極端に賢明な意見を述べる。その意見が採用されて功績があっても、寵愛は失われ、採用されず失敗に終われば、疑われる。このような場合も身が危うくなる。
貴人が(自ら)考えた計略を、自分の手柄にしたいと思っているのに、説得する者がそれに知恵を貸したとなると、身が危うくなる。
貴人が公然と実行したことについて、実は別の理由があったのに、説得する者がその裏事情を知っていると、身が危うくなる。
貴人がどうしてもやろうとしない事を強要したり、貴人がどうしても止められない事を止めさせようとしたりすると、身が危うくなる。
だから言うのだ。彼と偉い人物について議論すると、自分を邪魔していると思い、取るに足らない人物について議論すると、権力を売ろうとしていると思う。彼が愛する人物について議論すると、自分の地位を利用しようとしていると思い、彼が憎む人物について議論すると、自分を試そうとしていると思う。
話を簡潔にまとめすぎると、無知な者として切り捨てられ、話を広げ、文章を飾り立てると、話が多すぎ長すぎるとされる。事実に基づいて順序よく考えを述べると、気が弱くて遠慮していると言われ、考えを巡らせ、大胆に発言すると、粗野で傲慢だと言われる。これらが遊説の難しさであり、知らずにはいられない。
およそ遊説の肝心な点は、説得する相手が得意としていることを飾り立て、相手が恥じていることを隠す点にある。
相手が自分の計略に自信を持っているなら、その失敗を指摘して追いつめるな。相手が自分の決断に自信を持っているなら、その敵対者を怒らせるな。相手が自分の力を誇りに思っているなら、その困難さを挙げて打ち砕くな。
(貴人の)やっていることと異なることを提案する場合は、貴人の(現在の)計略と同じ目的で提案しているように見せかけ、貴人の行動と異なる人物を褒める場合も、貴人と同類と見せかけるように飾り立てれば、差し障りはない。
貴人と同じ欠点を持っている者がいるならば、その欠点が実は欠点ではないと大いに飾り立てるべきだ。
大きな忠誠心は、(貴人の意向に)逆らったり、悟らせたりすることがなく、言葉には(貴人を)攻撃したり排斥したりする要素がない。その後に初めて、自分の知恵や弁舌を伸ばして述べるのだ。これが親密になり、疑われないようにする方法であり、自分の知恵を尽くすことの難しさである。
長い月日を経て、(貴人からの)恩寵が深くなり、深い計略を立てても疑われず、互いに(意見を)争っても罪に問われないようになって、初めて、利害を明確に説き、それによって功績を達成させ、(貴人の)是非を直に指摘して、その立場を飾る。このようにして関係を維持する、これが遊説の成功である。
伊尹は料理人となり、百里奚は捕虜となったが、どちらもそれらの地位を経由して、上に仕えた。(つまり、君主に近づくために低い地位から始めたということである。)この二人はどちらも聖人であったが、それでも自ら身を卑しくして世を渡らざるを得なかったのだから、これは有能な臣下が(必ずしも高い地位から始められるわけではないという)定めに従わざるを得ないことである。
宋の国に金持ちがいた。雨が降ってその家の塀が壊れた。その息子が「塀を直さないと泥棒が入りますよ」と言い、その隣人の父親も同じことを言った。その日の夕方、案の定、泥棒に入られ財産をひどく失った。この家の人々は、息子を非常に賢いと思い、隣人の父親を疑った。
昔、鄭の武公は胡を討伐しようと考え、あえて自分の娘を胡の君主に嫁がせた。そして群臣に尋ねて言った。「私は軍を起こしたいのだが、誰を討伐するのが良いか?」関其思という者が「胡を討伐できます」と言った。すると武公は関其思を処刑し、「胡は兄弟の国であるのに、お前はこれを討伐せよと言う。どういうつもりだ」と言った。胡の君主はこれを聞き、鄭が自分に親愛の情を抱いていると思い、鄭に対する備えを怠った。鄭は胡を襲撃し、これを奪い取った。
この二つの話で述べられた知恵(意見)は、どちらも道理に適っている。しかし、(宋の隣人の父は)深刻に疑われ、(関其思は)処刑された。知恵があること自体は難しくないが、その知恵をどのように活かすか(処知)が難しいのである。
昔、弥子瑕は衛の君主に寵愛されていた。衛の国の法律では、こっそり君主の車を運転した者は、足を切られる刑罰に処せられた。弥子瑕の母が病気になったと聞き、誰かが夜中に密かに彼に知らせたので、弥子瑕は君主の車を偽って運転して外出した。君主はこれを聞いて彼を賢いと言い、「なんと孝行なことか。母のためなら足切りの罪を犯すことも忘れるほどだ!」と言った。
君主と果樹園で遊んだ際、弥子瑕が桃を食べてみて美味しかったので、食べきらずに君主に献上した。君主は「私を愛してくれているのだな。自分の口に美味しいのを忘れて、私のことを思ってくれた!」と言った。
しかし、弥子瑕の容色が衰え、君主の寵愛が薄れた時、彼は君主の怒りを買った。君主は「あの者は、かつて私の車を偽って運転し、また、かつて食べ残しの桃を私に食べさせた」と言った。
このように、弥子瑕の行動は最初と変わっていないのに、以前は賢いと見なされ、後には罪に問われたのは、愛憎の極端な変化によるものである。それ故に、主君に愛されている時は、たとえ知恵が適切でなくても、かえって親密さが増し、主君に憎まれている時は、たとえ罪に当たらない行動でも、かえって疎遠にされる。だから、諫言や遊説をする者は、主君の愛憎をよく観察してから説得すべきである。
龍という生き物は、飼い慣らして乗ることができる。しかし、その喉の下には一尺ほどの逆鱗(逆向きに生えた鱗)があり、人がこれに触れると、必ず人を殺す。人主(君主)にもまた逆鱗がある。説得する者が、人主の逆鱗に触れることさえなければ、成功に近いと言える。
ある人が、韓非の書物を秦に伝えた。秦王(後の始皇帝)は『孤憤』や『五蠹』の書物を読んで、「ああ、私がこの人物に会って彼と共に語り合えるなら、死んでも恨みはない!」と言った。李斯が「これは韓非が著した書物です」と言った。秦王はそれにより、すぐに韓を攻めさせた。
韓王は最初、韓非を用いなかったが、事態が切迫して、ついに韓非を秦へ使者として送った。秦王は彼を喜んだが、まだ信用して用いなかった。
李斯と姚賈は彼を妬み、中傷して言った。
「韓非は韓の諸公子です。今、王は諸侯を併合しようとしています。韓非は最終的には韓のためを思い、秦のためにはならないでしょう。これは人情というものです。今、王が彼を用いないのであれば、長く留めてから帰国させるのは、自ら患いを残すことになります。いっそ罪に問うて誅殺するに越したことはありません。」
秦王はそれをその通りだと思い、役人に命じて韓非を逮捕させた。李斯は人に頼んで韓非に毒薬を贈り、自殺させた。韓非は自ら弁明しようとしたが、面会を許されなかった。
秦王は後に後悔し、人をやって彼を赦そうとしたが、韓非はすでに死んでいた。
申子(申不害)と韓子(韓非)はどちらも書物を著し、後世に伝えられ、学ぶ者が多い。私はただ、韓非が『説難』を著しながら、自ら(その難しさから)抜け出せなかったことを悲しむだけである。
- 個人著作
古代中国の書物は「世代累積型集団操作」が普通であった。孔子の言行録『論語』はその典型。
自己完結型の個人著作は戦国時代の後期から始まる。
現行の『韓非子』は、著者・韓非の個人著作部分と、後世のエディターシップによる職務著作的部分からなる。
- 『韓非子』は故事成語の宝庫でもある。以下は、この本に由来する成語や熟語の例
- 【あ行】蟻の穴から堤も崩れる 郢書燕説(えいしょえんせつ) 遠水は近火を救わず
- 【か行】画鬼最易 和氏の璧 株を守る(守株待兎) 魏民習射 逆鱗に触れる 毛を吹いて疵を求む 巧詐は拙誠に如かず 口中の虱
- 【さ行】三人虎を成す 崇門の巷人 吮疽の仁
- 【た行】玉の杯底無きが如し 長夜の飲 虎に翼 駑馬(どば)をみるを教う
- 【は行】百束の布を祷る(祷百束布) 茅茨剪らず采椽削らず
- 【ま行】矛盾
- 【や行】余桃の罪
- 【ら・わ行】濫竽充数 老馬の智
参考 四字熟語集
- 選読
- 漢間の地を請う かんかんのちをこう 喩老第二十一
楚の荘王は、敵国との戦いに勝利した褒美として、楚の公族で宰相だった孫叔敖に土地を与えることにした。孫叔敖はわざと、砂や石が多い荒れ地をもらった。
楚の法では土地は二代で国に返納するきまりだったが、孫叔敖がもらった土地は荒れ地だったのでお目こぼしとなり、九代のちの子孫まで孫叔敖の祭祀は絶えることがなかった。
【関連項目】 足るを知る
- 象牙の箸 ぞうげのはし 喩老第二十一
殷の紂王が、象牙の箸を作らせた。賢臣である箕子(きし)は心配した。「象牙の箸に素焼きの土器は似合わない。きっと犀の角や玉で作った豪華な食器が欲しくなる。食器が豪華になれば、質素な食事をやめて、豪華な山海の珍味が欲しくなる。
そんな生活になれば、建物や衣服もぜいたくになる」。箕子の予見どおり、紂王はその後、酒池肉林のぜいたくを行い、殷は滅亡した。
【関連項目】 酒池肉林
- 子罕、玉を辞す しかん、ぎょくをじす 喩老第二十一
宋の田舎の男が、宝玉の原石を見つけて、子罕(しかん)という人物に献上しようとした。
子罕は断った。男が「これはすばらしい宝物です。
あなたのような人物がもつべきです」と言うと、「きみにとっては、それが宝物なのだろう。でも私にとっては、他人からむやみに宝物をもらわないことが、宝物なのだ」。
【関連項目】 清廉潔白
- 蚤蝨 そうしつ 説林上第二十二
孔子が仕官を求めて諸国をめぐっていたころの話。
宋の国で、子圉(しぎょ)という人物が、孔子を宋の宰相とひきあわせた。
孔子が退出すると、宰相は子圉に「孔子はすばらしい。孔子に会ったあとでそなたを見ると、まるでノミかシラミみたいに見える。さっそくわが君に孔子を引見していただこう」と言った。
子圉は「わが君が孔子をごらんになられたら、きっと、あなたさまがノミかシラミみたいに見えることでしょうねえ」と言った。
結局、孔子は宋でも就職に失敗した。
【関連項目】 採用人事
- 涸沢の蛇 こたくのへび 説林上第二十二
越王句践(こうせん)の臣下であった范蠡(はんれい)は、鴟夷子皮(しいしひ)と改名して斉の国で富豪となった。
斉の貴族であった田成子が、燕に亡命した。鴟夷子皮は田成子につき従った。彼は言った。
「ここは、涸沢の蛇の知恵で乗り切りましょう。昔々、ある沢の水がかれはてました。住んでいた蛇たちは引越しをしました。
小さな蛇が、大きな蛇にむかって言いました。『ふつうに道を進んで人間どもに見つかったら、みんな殺されちまうぞ。ここはひとつ、芝居をしよう』。
蛇たちは互いの尻尾を加えあい、小さな蛇はその上にチョコンと乗り、堂々と進みました。
それを見た人間は、てっきり『これは神さまの使いに違いない』と思い、道をゆずりました。――さて、あなたさまは貴族です。私は富豪ですが、身分は庶民です」
鴟夷子皮は主人を、田成子は下男を演じながら、亡命の旅を続けた。
宿泊先の旅館はどこも「この主人はきっと、ただものではない。もしや、どこぞの王様がおしのびで旅行しているのか」とかんぐり、酒や肉でていちょうにもてなした。
【関連項目】 無中に有を生ず
- 老馬の智 ろうばのち 説林上第二十二
斉の桓公が、孤竹国に遠征した。行きと帰りで季節が違い、道に迷った。臣下の管仲は、年老いた馬を放した。馬のあとを遠征軍がついてゆくと、正しい道が見つかった。
山中を行軍していると、水がなくなった。臣下の隰朋(しっぽう)は、蟻塚の下には地下水があるはず、という故知を使い、地面を掘って水を得た。
管仲や隰朋のような賢い人さえ、ウマやアリを先生とすることをはばからなかった。今の人々が、聖人の知恵を尊重しないのは、おかしい。
【関連項目】 暗黙知
- 巧詐は拙誠に如かず こうさはせっせいにしかず 説林上第二十二
魏の将軍・楽羊(がくよう)が、中山国を攻めた。楽羊の息子は、たまたま中山国にいた。中山国の君主は、楽羊の息子を殺して肉汁にしたうえ、それを楽羊に贈った。
楽羊は陣地でそれをすすって食べてみせた。
魏の文侯が感心して臣下に「楽羊はわしのために、自分の子の肉を食べよった」と言った。
臣下は「自分の子の肉すら食べるのですが、いざとなったら、誰の肉でも食べるでしょうね」と言った。
楽羊が凱旋すると、文侯は賞を与えたが、楽羊の心の底を疑った。
これと対照的な話。魯の大夫・孟孫は、狩猟で子鹿をつかまえた。家臣の秦西巴に、先に車で持ち帰らせた。
母鹿が追って、悲しげに鳴いた。秦西巴は同情して、独断で子鹿を逃がしてやった。あとでそれを知った孟孫は激怒し、秦西巴を追い出した。
それから3ヶ月後、孟孫は秦西巴を呼び戻し、自分の息子の守り役にした。「あいつは、子鹿にさえやさしいやつだ。俺の子にも、やさしくしてくれるはずだ」。
巧みな詐術は、結局のところ、不器用な真心には及ばない。親の自然の情を押し殺してわが子の肉汁をすすって見せた楽羊は、功績をあげたのに、主君に疑われた。人間の自然の情にしたがった秦西巴は、いったんは主君に嫌われたが、結局は信用をかちとった。
【関連項目】 陸軍中野学校の教え「謀略は誠なり」
- 衛人嫁女 えいひと、むすめをかす 説林上第二十二
衛の国の父親が、これから嫁ぐ娘に言った。
「ヘソクリは絶対に必要だぞ。離婚は世の常だから、そなえておけ。」
娘は、嫁ぎ先で、せっせとヘソクリをした。しゅうとめに嫌われ、離縁された。実家に戻ってきた娘は、たくさんお金を持っていた。父親は「さすがはわが娘。よくやった」と喜んだ。
いまどきの役人は、みなこの類いである。
【関連項目】 健康のためなら死んでもいい
- 鱣は蛇に似たり、蚕は蠋に似たり せんはへびににたり、かいこはしょくににたり 説林下第二十三
「鱣」つまりウナギ(ウミヘビ説もある)はヘビに似てる。カイコは毛虫に似てる。人は、ヘビもカイコも「気持ち悪い」と思う。なのに、漁師はウナギを手でつかみ、農婦はカイコを指でつまむ。
利益があれば、人はみな勇士になるのだ。
【関連項目】 モチベーション
- 駑馬は日〻に售れ其の利は急なり どばはひびにうれそのりはきゅうなり 説林下第二十三
馬の鑑定人である伯楽は、気に入らない弟子には千里の馬の鑑別法を教えた。気に入った弟子には駑馬つまりふつうの平凡な馬の鑑別法を教えた。
一日に千里をかける名馬はめったにいないから、利益は一時的だ。ふつうの平凡な馬は毎日、確実に売れるから、薄利多売でもうかる。
【関連項目】 薄利多売
- 能く鹿をさえぎる よくしかをさえぎる 説林下第二十三
春秋戦国時代、馬車を馭する技術は重要だった。
馬車を馭するのがうまい男が、楚王に目通りを願った。王に仕える馬飼たちは、男の技術に嫉妬し、取り次がなかった。
そこで男は「自分は鹿を待ち伏せできます」と自分を売り込み、楚王にお目通りした。王が馭者になると鹿には追いつけない。
男が馭者になると鹿に追いつけた。王は男の技を気に入った。
男は、自分は本職は馭者であること、王のまわりの馬飼たちの嫉妬のせいで最初はお目通りができなかったことを打ち明けた。
【関連項目】 からめ手から攻める
- 中立 説林下第二十三
戦国時代の韓と魏と趙の三国は、春秋時代の晋が分裂してできた国である。
韓と趙の関係が険悪になった。韓の君主は、魏の文侯に「援軍を貸してください。趙を討ちたいのです」と申し込んだ。
魏の文侯は「わが国と趙は兄弟の国です。それはできません」と断った。使者は怒って帰国した。
趙も魏に援軍を要請した。文侯は「わが国と韓は兄弟の国です。それはできません」と断った。使者は怒って帰国した。
その後、韓と趙は、魏の文侯がどちらの国との戦争にも反対していたことを知った。韓と趙は、魏の文侯に使いを送って感謝した。
【関連項目】 厳正中立、好意的中立
- 濫竽充数 らんうじゅうすう 内儲説上第三十
斉の宣王は、竽(う)という楽器の合奏を好んだ。いつも三百人の楽隊が合奏した。宣王が亡くなると、子の湣王が即位した。湣王は独奏を好んだ。多くの奏者が逃げ出した。
【関連項目】 嚢中(のうちゅう)の錐
- 鄭袖の讒言 ていしゅうのざんげん 内儲説下第三十一
楚王に鄭袖という名の側室がいた。楚王は新しい美女を手にいれた。鄭袖は美女に「王さまは、女性が口もとを手でおおう姿がお好みです」と教えた。美女は、王の近くによると、手で口をおおった。
楚王は、鄭袖にわけを聞いた。鄭袖は「あの子は、王さまは臭い、と申してましたよ」と答えた。楚王は怒って、美女の鼻を刀で切り落とさせた。
【関連項目】 中傷
- 犬馬最も難し けんばもっともかたし 外儲説左上第三十二
斉王が、絵の得意な食客にきいた。「いちばん描くのが難しいのは、何か」「犬と馬でございます」「いちばん描くのがやさしいのは、何か」
「お化けでございます。犬や馬は毎日、誰もが見慣れておるものなので、リアルに描くの難しいのです。お化けは、見たことがある人は少ないので、描きやすいのです」
【関連項目】 紙幣の顔
- 吮疽の仁 せんしょのじん 外儲説左上第三十二
呉起は、かの孫子とならび称される兵法家だ。呉起が将軍となって敵国を攻めたとき、部下の兵士の背中に、はれものができた。呉起は、その兵士のはれものの膿を吸ってやった。その兵士の母親は、それを聞いて泣いた。まわりの者が「息子さんは、呉起将軍に大事にしてもらって、幸せ者なのに、なぜ悲しむのか」と聞いた。
母親は「あの子の父親も、呉起将軍に背中の膿を吸ってもらって感激し、そのあと戦死しました。きっとあの子も、名誉の戦死をとげてしまうでしょう」
【関連項目】 過労死
- 郢書燕説 えいしょえんせつ 外儲説左上第三十二
郢は、南の楚の都である。燕は、北のさいはての国である。
郢の人が夜、燕の宰相あての手紙を書いた。暗かったので、近侍の者に「あかりを挙げよ(挙燭)」と言ったが、うっかりその言葉を手紙に書いてしまった。手紙を受け取った燕の宰相は「これは、賢い人材を登用せよ、という意味なのだろう」と解釈し、燕王に人材登用を進言した。その結果、燕は栄えた。いまどきの学者の説は、このたぐいが多い。
【関連項目】 瓢箪から駒が出る
- 買履取度 リをかうにドをとる 外儲説左上第三十二
鄭に愚かな男がいた。市場の店に行き、靴を買おうとした。男は、あらかじめ自宅で自分の足のサイズを測って書いておいたのに、そのメモをうっかり自宅に忘れた。自宅に戻ってメモを持って、ふたたび店にきたが、もう閉店していた。
男からその話をきいた人が「自分の足を靴にあわせてみればよかったじゃないか」と言うと、男は「自分の足よりメモのほうが信用できる」と答えた。
【関連項目】 マニュアル至上主義
- 車を釈てて走る くるまをすててはしる 外儲説左上第三十二
斉の景公が海辺に旅行して、遊んだ。都から急使がきて「宰相の晏嬰(あんえい)さまが危篤です」と伝えた。
景公は驚き「急いで名馬と名馭;者で、最速の馬車をしたてよ」と命じた。数百歩の距離を馬車で走ると、馭者の手綱さばきが遅い、と馭者の手から手綱をもぎとって自分で馬車を駆った。
さらに数百歩すすむと、今度は、馬の足が遅い、と言って、馬車を降りて自分の足で駈けだした。
【関連項目】 がんの「標準治療」
- 子皐の徳 しこうのとく 外儲説左下第三十三
孔子の弟子である子皐は、正しい人だった。彼は衛の国で裁判官となった。衛の君主は暗君だった。「孔子と弟子たちは反乱をたくらんでいます」という讒言を信じ、一斉逮捕を命じた。孔子の一門は逃げた。
子皐は逃げ遅れた。都の門はすでに閉まっていた。門番は、かつて子皐が足切りの刑を宣告した男だった。その門番は、子皐を隠し部屋にかくまった。
「私に復讐する絶好のチャンスなのに、なぜ命をかけて私を助けてくれるのか」と子皐がきくと、門番は答えた。
「私はたしかに罪を犯しました。刑罰は当然です。私は覚えています。あなたは裁判で、法律を吟味し、少しでも私の刑を軽くできないか、努力してくださいました。
刑が確定したとき、あなたの顔には、おつらい気持ちがにじみでていました。あなたは、やさしい、徳のあるかたです」
【関連項目】 「星空の上で神は裁く、我等がどう裁いたかを」フリードリヒ・フォン・シラーの詩『歓喜に寄せて』
- 守株待兎 しゅしゅたいと 五蠹第四十九
宋の国の農夫が、畑を耕していた。ウサギが走ってきて、切り株にぶつかり、首の骨を折って死んだ。農夫は鋤を置いて農作業をやめ、次にまたウサギが切り株にぶつかるのを待った。だが、そんな幸運が続くはずもなかった。農夫は国中の笑いものとなった。
いにしえの先王のまつりごとを手本として、現代の人民を治めよ、という考えは、これと同じくらい愚かである。
【関連項目】 ビギナーズラック
○参考図書
- 金谷治訳注『韓非子』岩波文庫、全4冊
- 加藤徹『漢文力』(中公文庫、2007)755円
- 加藤徹『漢文で知る中国 名言が教える人生の知恵』(NHK出版、2021)1870円
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関羽(かんう) 道教の神として祭られる三国志の義の武将
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○ポイント、キーワード
○辞書的な説明
○略年表
○その他
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楊貴妃(ようきひ) 史上まれな美女の知られざる真実とは
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マテオ・リッチ 西洋から中国に渡来したイタリア人宣教師
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梁啓超(りょうけいちょう) 日本とも縁が深い近代言論人
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○辞書的な説明
○略年表
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【参考】 今まで取り上げた人物
★講座の実施日順
- 秦の始皇帝
- 前漢の高祖・劉邦
- 宋の太祖・趙匡胤
- 清末の西太后
- 中華人民共和国の毛沢東
- 共通祖先の作り方 黄帝
- 東アジアに残した影響 漢の武帝
- インフラ化した姓 後漢の光武帝
- 汚れた英雄のクリーニング 唐の太宗
- 史上最強の引き締めの結末 明の洪武帝
- 打ち破れなかった2つのジンクス 蒋介石
- パワーゲーマーの栄光と転落 唐の玄宗
- 織田信長もあこがれた古代の聖王 周の文王
- 「19浪」の苦節をのりこえた覇者 晋の文公
- 早すぎた世界帝国 元のクビライ
- 中国統治の要道を示した大帝 康煕帝
- 21世紀の中国をデザイン ケ小平
- 魏の曹操 漢・侠・士の男の人間関係
- 殷の紂王 酒池肉林の伝説の虚と実
- 斉の桓公 中国史上最初の覇者
- 唐の武則天 中国的「藩閥」政治の秘密
- 清の乾隆帝 世界の富の三割を握った帝王
- 周恩来 失脚知らずの不倒翁
- 古代の禹王 中華文明の原体験
- 蜀漢の諸葛孔明 士大夫の典範
- 宋の徽宗 道楽をきわめた道君皇帝
- 明の永楽帝 世界制覇の見果てぬ夢
- 清の李鴻章 老大国をささえた大男
- 臥薪嘗胆の復讐王・勾践
- 始皇帝をつくった男・呂不韋
- 劉邦をささえた宰相・蕭何
- チンギス・カンの側近・耶律楚材
- 大元帥になった国際人・孫文
- 清と満洲国の末代皇帝・溥儀
- 太古の堯と舜 「昭和」の出典になった伝説の聖天子
- 蜀漢の劉備 「負け太り」で勝ち抜いた三国志の英雄
- 明の万暦帝 最後の漢民族系王朝の最後の繁栄
- 袁世凱 83日間で消えた「中華帝国」の「洪憲皇帝」
- 劉少奇 21世紀も終わらない毛沢東と劉少奇の闘争
- 楚の荘王――初めは飛ばず鳴かずだった覇者
- 斉の孟嘗君――鶏鳴狗盗の食客を活用した戦国の四君
- 呉の孫権――六朝時代を創始した三国志の皇帝
- 梁の武帝――ダルマにやりこめられた皇帝菩薩
- 南唐の李U――李白と並び称せられる詩人皇帝
- 台湾の鄭成功――大陸反攻をめざした日中混血の英雄
- 趙の藺相如――国を守った刎頸の交わり
- 前秦の苻堅――民族融和を信じた帝王の悲劇
- 北魏の馮太后――欲深き事実上の女帝
- 隋の煬帝――日没する処の天子の真実
- 明の劉瑾――帝位をねらった宦官
- 林彪――世界の中国観を変えた最期
- 項羽――四面楚歌の覇王
- 司馬仲達――三国志で最後に笑う者
- 太武帝――天下を半分統一した豪腕君主
- 憑道――五朝八姓十一君に仕えた不屈の政治家
- チンギス・カン――子孫は今も1600万人
- 宋美齢――英語とキリスト教と蒋介石
- 平原君―食客とともに乱世を戦う
- 陳平―漢帝国を作った汚い政治家
- 秦檜―最も憎まれた和平主義者
- 曽国藩―末世を支えた栄光なき英雄
- 汪兆銘―愛国者か売国奴か
- 江青―女優から毛沢東夫人へ
- 孔子 東洋の文明をデザインした万世の師表
- 司馬遷 司馬遼太郎が心の師とした歴史の父
- 玄奘 孫悟空の三蔵法師のモデルはタフガイ
- 李白 酒と旅を愛した詩人の謎に満ちた横顔
- 岳飛 中華愛国主義のシンボルとなった名将
- 魯迅 心の近代化をはかった中国の夏目漱石
- 扁鵲 超人的な医術を駆使した伝説の名医
- 孟子 仁義と王道政治を説いた戦国の亜聖
- 達磨 中国禅宗の祖師はインド人の仏教僧
- 白居易 清少納言と紫式部の推しの大詩人
- 鄭和 大航海時代を開いたムスリムの宦官
- 李小龍 哲学と映画に心血を注いだ武術家
- 夏姫 衰えぬ美貌で多くの君臣と関係した美魔女
- 孫子 戦争哲学を説いた春秋と戦国の二人の孫子
- 張騫 武帝の命令で西域を探検した前漢の冒険家
- 慧能 日本・中国・韓国・ベトナムの禅僧の源流
- 洪秀全 清末の太平天国の乱を起したカルト教祖
- 梅蘭芳 毛沢東が「私より有名だ」と言った名優
- 趙飛燕 ― 妹とともに皇帝を虜にした舞姫
- 阮籍 ― 三国志の乱世を生きた竹林の七賢
- 後周の世宗 ― 五代一の名君となった養子
- 魏忠賢 ― 明王朝を傾けた史上最悪の宦官
- ダライ・ラマ5世 ― チベット統一の英主
- 林則徐 ― アヘン戦争で善戦した欽差大臣
- 伍子胥――祖国を滅ぼし死屍に鞭打った復讐者
- 冒頓単于――東ユーラシアのもう一人の始皇帝
- 鳩摩羅什――日本人が読むお経を作った訳経僧
- 郭子儀――中国を滅亡から救った遅咲きの名将
- 蘇軾――書道と豚の角煮でも有名な文豪政治家
- 李徳全――平塚らいてうとも対談した女性大臣
- 屈 原 毛沢東が田中角栄に本を渡した意味
- 朱全忠 中世と貴族制を終わらせた反逆者
- 李清照 戦争に引き裂かれたおしどり夫婦
- マルコ・ポーロ 世界史を変えた大旅行家
- 王陽明 知識と実行は一体と説いた思想家
- 順治帝 中国本土を征服した皇帝の死の謎
- 老子 行方知れずになったタオイズムの開祖
- 張衡 天文学や地震も研究した古代の科学者
- 鑑真 日本に移住した史上初のビッグネーム
- 北宋の太宗 日本を羨んだ兄殺し疑惑の皇帝
- 朱舜水 水戸黄門が師とあおいだ亡命中国人
- 老舎 満州人の世界的作家と文革での謎の死
- 張良 劉邦の天下取りをささえた名軍師
- 竇皇后 前漢の基礎を確立した影の主役
- 杜甫 詩聖とたたえられた社会派の詩人
- 朱子 東アジアの官学を創出した儒学者
- 張献忠 無差別大量殺人の残虐な反逆者
- 張作霖 馬賊あがりの奉天派軍閥の総帥
- 晏嬰 孔子と同時代の名宰相だった小男 あんえい
- 呂后 三大悪女と称される史上初の皇后 りょこう
- 周瑜 孫権を補佐し曹操を破った貴公子 しゅうゆ
- 文天祥 歴史を変えた科挙の首席合格者 ぶんてんしょう
- 秋瑾 和服と日本刀を愛した女性革命家 しゅうきん
- 川島芳子 謀略と謎に満ちた男装の麗人 かわしまよしこ
- 蘇秦 舌先三寸だけで戦国を動かす遊説家 ?-前284年
- 荊軻 始皇帝暗殺未遂事件の伝説的な刺客 ?-前227年
- 阿倍仲麻呂 中国史の一部となった日本人 698−770
- 黄巣 唐に引導を渡した科挙落第者の怨念 835ごろ-884
- 呉三桂 明清交替戦争の決定票を握る将軍 1612−1678
★時代順
先秦時代(三皇五帝、夏・殷・周、春秋・戦国)
- 共通祖先の作り方 黄帝 前2717?-前2599?
- 太古の堯と舜 「昭和」の出典になった伝説の聖天子
堯:前2356?-前2255? 舜:前2294?-前2184?
- 古代の禹王 中華文明の原体験 前2123?-前2025?
- 殷の紂王 酒池肉林の伝説の虚と実 前1105?-前1046?
- 織田信長もあこがれた古代の聖王 周の文王 前1152?-前1056?
- 褒姒(ほうじ) 微笑みで国を滅ぼしたファム・ファタール 前790年代?-前771?
- 斉の桓公 中国史上最初の覇者 前716-前643
- 「19浪」の苦節をのりこえた覇者 晋の文公 前697-前628
- 夏姫 衰えぬ美貌で多くの君臣と関係した美魔女 前630頃-?
- 楚の荘王――初めは飛ばず鳴かずだった覇者 前613-前591
- 孫子 戦争哲学を説いた春秋と戦国の二人の孫子
孫武:前544?-前496? 孫臏:前380頃-前320頃
- 老子 行方知れずになったタオイズムの開祖 前571頃?-前471頃?
- 晏嬰 孔子と同時代の名宰相だった小男 前578-前500
- 伍子胥――祖国を滅ぼし死屍に鞭打った復讐者 前559?-前484
- 孔子 東洋の文明をデザインした万世の師表 前552/551-前479
- 扁鵲 超人的な医術を駆使した伝説の名医 前407頃?-前310頃?
- 臥薪嘗胆の復讐王・勾践 前520頃-前465頃
- 斉の孟嘗君――鶏鳴狗盗の食客を活用した戦国の四君 前391頃-前305頃
- 孟子 仁義と王道政治を説いた戦国の亜聖 前372-前289
- 蘇秦 舌先三寸だけで戦国を動かす遊説家 ?-前284年
- 屈原 毛沢東が田中角栄に本を渡した意味 前340頃-前278頃
- 平原君―食客とともに乱世を戦う 前308-前251
- 趙の藺相如――国を守った刎頸の交わり 前305頃-前240頃
秦・漢・三国(漢末)
- 秦の始皇帝 前259-前210
- 始皇帝をつくった男・呂不韋 前292-前235
- 韓非子(かんぴし) 故事成語の宝庫は中国のマキャヴェリ 前280頃-前233
- 荊軻 始皇帝暗殺未遂事件の伝説的な刺客 ?-前227年
- 劉邦をささえた宰相・蕭何 前257?-前193
- 前漢の高祖・劉邦 前256/247―前195
- 張良 劉邦の天下取りをささえた名軍師 前250頃-前186
- 陳平―漢帝国を作った汚い政治家 前250頃-前178
- 冒頓単于――東ユーラシアのもう一人の始皇帝 ?-前174
- 呂后 三大悪女と称される史上初の皇后 前241?-前180
- 項羽――四面楚歌の覇王 前232-前202
- 竇皇后 前漢の基礎を確立した影の主役 前205?前135
- 張騫 武帝の命令で西域を探検した前漢の冒険家 前164?-前114?
- 東アジアに残した影響 漢の武帝 前156-前87
- 司馬遷 司馬遼太郎が心の師とした歴史の父 司馬遷:前145?-前86?
- 趙飛燕 ― 妹とともに皇帝を虜にした舞姫 趙飛燕:前32?-前1?
- インフラ化した姓 後漢の光武帝 5-57
- 張衡 天文学や地震も研究した古代の科学者 78-139
- 魏の曹操 漢・侠・士の男の人間関係 155-220
- 関羽(かんう) 道教の神として祭られる三国志の義の武将 160頃-220
- 蜀漢の劉備 「負け太り」で勝ち抜いた三国志の英雄 161-223
- 周瑜 孫権を補佐し曹操を破った貴公子 175-210
- 司馬仲達――三国志で最後に笑う者 179-251
- 蜀漢の諸葛孔明 士大夫の典範 181-234
- 呉の孫権――六朝時代を創始した三国志の皇帝 182-252
魏晋南北朝(五胡十六国時代、六朝時代)
- 阮籍 ― 三国志の乱世を生きた竹林の七賢 210-263
- 鳩摩羅什――日本人が読むお経を作った訳経僧 344-413 (350-409)
- 前秦の苻堅――民族融和を信じた帝王の悲劇 338-385
- 北魏の太武帝――天下を半分統一した豪腕君主 408-452
- 北魏の馮太后――欲深き事実上の女帝 442-490
- 梁の武帝――ダルマにやりこめられた皇帝菩薩 464-549
- 達磨 中国禅宗の祖師はインド人の仏教僧 ?-532?
隋・唐から宋・元
- 隋の煬帝――日没する処の天子の真実 569-618
- 汚れた英雄のクリーニング 唐の太宗 598-649
- 玄奘 孫悟空の三蔵法師のモデルはタフガイ 602-664
- 唐の武則天 中国的「藩閥」政治の秘密 624?-705
- 慧能 日本・中国・韓国・ベトナムの禅僧の源流 638-713
- パワーゲーマーの栄光と転落 唐の玄宗 685-762
- 阿倍仲麻呂 中国史の一部となった日本人 698−770
- 鑑真 日本に移住した史上初のビッグネーム 688-763
- 郭子儀――中国を滅亡から救った遅咲きの名将 697-781
- 李白 酒と旅を愛した詩人の謎に満ちた横顔 701-762
- 杜甫 詩聖とたたえられた社会派の詩人 712-770
- 楊貴妃(ようきひ) 史上まれな美女の知られざる真実とは 719-756
- 白居易 清少納言と紫式部の推しの大詩人 772-846
- 黄巣 唐に引導を渡した科挙落第者の怨念 835頃-884
- 朱全忠 中世と貴族制を終わらせた反逆者 852-912
- 憑道――五朝八姓十一君に仕えた不屈の政治家 882−954
- 後周の世宗 ― 五代一の名君となった養子 921-959
- 南唐の李U――李白と並び称せられる詩人皇帝 937-978
- 宋の太祖・趙匡胤 927-976
- 北宋の太宗 日本を羨んだ兄殺し疑惑の皇帝 939-997
- 蘇軾――書道と豚の角煮でも有名な文豪政治家 1037-1101
- 宋の徽宗 道楽をきわめた道君皇帝 1082-1135
- 李清照 戦争に引き裂かれたおしどり夫婦 1084-1155
- 秦檜―最も憎まれた和平主義者 1090-1155
- 岳飛 中華愛国主義のシンボルとなった名将 1103-1142
- 朱子 東アジアの官学を創出した儒学者 1130-1200
- チンギス・カン――子孫は今も1600万人 1162-1227
- チンギス・カンの側近・耶律楚材 1190-1244
- 早すぎた世界帝国 元のクビライ 1215-1294
- 文天祥 歴史を変えた科挙の首席合格者 1236-1283
- マルコ・ポーロ 世界史を変えた大旅行家 1254-1324
明・清
- 史上最強の引き締めの結末 明の洪武帝 1328-1398
- 明の永楽帝 世界制覇の見果てぬ夢 1360-1424
- 鄭和 大航海時代を開いたムスリムの宦官 1371-1433
- 明の劉瑾――帝位をねらった宦官 1451-1510
- 王陽明 知識と実行は一体と説いた思想家 1472-1529
- マテオ・リッチ 西洋から中国に渡来したイタリア人宣教師 1552-1610
- 明の万暦帝 最後の漢民族系王朝の最後の繁栄 1563-1620
- 魏忠賢 ― 明王朝を傾けた史上最悪の宦官 1568-1627
- 朱舜水 水戸黄門が師とあおいだ亡命中国人 1600-1661
- 張献忠 無差別大量殺人の残虐な反逆者 1606-1647
- 呉三桂 明清交替戦争の決定票を握る将軍 1612−1678
- ダライ・ラマ5世 ― チベット統一の英主 1617-1682
- 台湾の鄭成功――大陸反攻をめざした日中混血の英雄 1624-1662
- 順治帝 中国本土を征服した皇帝の死の謎 1638-1661
- 中国統治の要道を示した大帝 康煕帝 1654-1722
- 清の乾隆帝 世界の富の三割を握った帝王 1711-1799
- 林則徐 ― アヘン戦争で善戦した欽差大臣 1785-1850
- 曽国藩―末世を支えた栄光なき英雄 1811-1872
- 洪秀全 清末の太平天国の乱を起したカルト教祖 1814-1864
- 清の李鴻章 老大国をささえた大男 1823-1901
- 清末の西太后 1835-1908
近現代
- 大元帥になった国際人・孫文 1866-1925
- 袁世凱 83日間で消えた「中華帝国」の「洪憲皇帝」 1859-1916
- 梁啓超(りょうけいちょう) 日本とも縁が深い近代言論人 1873-1929
- 張作霖 馬賊あがりの奉天派軍閥の総帥 張作霖:1875-1928
- 秋瑾 和服と日本刀を愛した女性革命家 1875-1907
- 魯迅 心の近代化をはかった中国の夏目漱石 1881-1936
- 汪兆銘―愛国者か売国奴か 1883-1944
- 打ち破れなかった2つのジンクス 蒋介石 1887-1975
- 中華人民共和国の毛沢東 1893-1976
- 梅蘭芳 毛沢東が「私より有名だ」と言った名優 1894-1961
- 李徳全――平塚らいてうとも対談した女性大臣 1896−1972
- 周恩来 失脚知らずの不倒翁 1898-1976
- 劉少奇 21世紀も終わらない毛沢東と劉少奇の闘争 1898-1969
- 宋美齢――英語とキリスト教と蒋介石 1898-2003
- 老舎 満州人の世界的作家と文革での謎の死 1899-1966
- 21世紀の中国をデザイン ケ小平 1904-1997
- 清と満洲国の末代皇帝・溥儀 1906-1967
- 川島芳子 謀略と謎に満ちた男装の麗人 1907-1948
- 林彪――世界の中国観を変えた最期 1907-1971
- 江青―女優から毛沢東夫人へ 1914-1991
- 李小龍 哲学と映画に心血を注いだ武術家 1940-1973
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