講座番号:4584576 新宿教室 教室・オンライン自由講座 見逃し配信あり 中国歴史人物列伝 加藤 徹/明治大学教授
木2025/10/9, 10/23, 11/13, 11/27, 12/11, 12/25 指定木曜日 10:30〜12:00
歴史を理解することは、人間を理解すること。ヒストリー(歴史)とストーリー(物語)は、もとは同じ言葉でした。中国の伝統的な「紀伝体」の歴史書も、個々人の伝記を中心とした文学作品でした。
本講座では、日本にも大きな影響を残した中国史上の人物をとりあげ、運や縁といった個人の一回性の生きざまと、社会学的な法則や理論など普遍的な見地の両面から、人生を紹介します。豊富な図像を使い、予備知識のないかたにもわかりやすく解説します。(講師・記)
褒姒(ほうじ) 微笑みで国を滅ぼしたファム・ファタール
褒姒 ほうじ
中国古代の伝説上の女性。西周王朝最後の王である幽王の愛妾(あいしょう)。 夏(か)王朝末期、朝廷に二匹の竜が現れてよだれを残して去ったが、このよだれは長く櫃(ひつ)の中にしまわれて西周王朝の(れい)王のときに開かれた。 するとそのよだれはいつのまにか黒い亀(かめ)と化し、これに出会った幼女が妊娠してやがて生まれたのが褒姒であると伝えられている。 のちに幽王の寵愛(ちょうあい)を受けるようになった彼女は、一度も笑ったことがないため、幽王は彼女を笑わせようと八方に手を尽くした。 ところが褒姒は、あるとき敵の来襲を知らせるのろしがあがるのを見た諸侯が息せききって駆けつけるようすを見て、初めて笑った。 このため王は、彼女を笑わせるためにたびたび嘘(うそ)ののろしをあげたので、ついに諸侯はこれを信じなくなり、本当に外敵が攻めてきたときにはひとたまりもなく西周王朝は滅んでしまった。 そして幽王は驪山(りざん)の麓(ふもと)で殺され、褒姒は敵に連れ去られたという。 紀元前771年の事件とされているこのエピソードは、夏王朝の妹喜(ばっき)や殷(いん)王朝の妲己(だっき)と並んで、女性が国を滅ぼすという考え方を伝説の形で表現したものであり、歴史的な事実と断定することはできない。
[桐本東太]
幽王 (ゆうおう) Yōu wáng
中国,西周の末王。在位,前781-前771年。 本名は姫宮涅(ききゆうでつ)。 父の宣王の中興のあとをうけて即位したが,地主化した貴族層の勢力があなどりがたく,周辺民族の進攻もあって, 王権は昔日の勢いを失っていた。即位以来,天変地異が重なり,とくに褒姒(ほうじ)を寵愛して皇后の申后を追ったことが貴族層の背反を決定的にした。 申后の父の申侯が異民族犬戎の援助を得て王を攻め,幽王は驪山(りざん)で殺されたとされる。 貴族たちはその太子の平王を立てて東周王朝を開くことになる。
執筆者:小南 一郎
東周 (とうしゅう) Dōng Zhōu
中国古代の周王朝が前770年,都を東の成周(河南省洛陽市)にうつしてから,前256年秦に滅ぼされるまでをいう。 前221年秦始皇帝が中国を統一するまでを東周時代と概括することもある。
→周
執筆者:伊藤 道治
周の宣王はかつて臣下である杜伯を無実の罪で殺した。 杜伯は殺される前に呪って言った。 「もし死者に知覚がないならそれまで。しかし、もし死者に知覚があるなら、三年後に必ず復讐する」息子の幽王(前795-前771)が即位。満年齢で14歳という若さだった。
三年後。宣王は諸侯を集めて、軍事演習を兼ねた巻き狩りを行った。 馬車は数百台、従者は数千人にのぼり、人々は山野に満ちた。 正午、死んだ杜伯が白昼堂々とあらわれた。彼は白馬の白い車に乗り、紅衣を着て、紅の弓を手にして宣王を追いかけ、車上から矢を放った。 矢は宣王の心臓に命中し、脊骨をポキリと折った。王は弓袋の上に倒れて死んだ。 従者たちは全員これを目撃し、遠くの者も聞き漏らさなかった。
(以上は、墨子が「幽霊は実在する」という証拠としてあげた話。衆人環視下の超常現象としては、杜伯とダニエル・ダングラス・ヒュームが世界史上の双璧)
【原漢文】四十六年、宣王崩、子幽王宮湦立。幽王二年、西周三川皆震。伯陽甫曰、 「周将亡矣。夫天地之気、不失其序。若過其序、民乱之也。陽伏而不能出、陰迫而不能蒸、於是有地震。今三川実震、是陽失其所而填陰也。陽失而在陰、原必塞。 原塞、国必亡。夫水土演而民用也。土無所演、民乏財用、不亡何待!昔伊洛竭而夏亡、河竭而商亡。 今周徳若二代之季矣、其川原又塞、塞必竭。夫国必依山川、山崩川竭、亡国之徴也。川竭必山崩。若国亡不過十年、数之紀也。天之所棄、不過其紀。」 是歳也、三川竭、岐山崩。以下は訳である。
三年、幽王嬖愛褒姒。褒姒生子伯服、幽王欲廃太子。太子母申侯女、而為后。 後幽王得褒姒、愛之、欲廃申后、并去太子宜臼、以褒姒為后、以伯服為太子。周太史伯陽読史記曰、「周亡矣。」
昔自夏后氏之衰也、有二神龍止於夏帝庭而言曰、「余、褒之二君。」夏帝卜殺之与去之与止之、莫吉。 卜請其漦而藏之、乃吉。於是布幣而策告之、龍亡而漦在、櫝而去之。夏亡、伝此器殷。殷亡、又伝此器周。比三代、莫敢発之。 至脂、之末、発而観之。漦流于庭、不可除。脂、使婦人裸而譟之。漦化為玄黿、以入王後宮。 後宮之童妾既齔而遭之、既笄而孕、無夫而生子、懼而棄之。宣王之時童女謠曰、「檿弧箕服、実亡周国。」於是宣王聞之、有夫婦売是器者、宣王使執而戮之。逃於道、而見郷者後宮童妾所棄妖子出於路者、聞其夜啼、哀而収之、夫婦遂亡、奔於褒。褒人有罪、請入童妾所棄女子者於王以贖罪。棄女子出於褒、是為褒姒。
当幽王三年、王之後宮見而愛之、生子伯服、竟廃申后及太子、以褒姒為后、伯服為太子。太史伯陽曰、「禍成矣、無可奈何!」
褒姒不好笑、幽王欲其笑万方、故不笑。幽王為烽燧大鼓、有寇至則挙烽火。諸侯悉至、至而無寇、褒姒乃大笑。幽王説之、為数挙烽火。其後不信、諸侯益亦不至。
幽王以虢石父為卿、用事、国人皆怨。石父為人佞巧善諛好利、王用之。又廃申后、去太子也。申侯怒、与署シ夷犬戎攻幽王。幽王挙烽火徴兵、兵莫至。遂殺幽王驪山下、虜褒姒、尽取周賂而去。於是諸侯乃即申侯而共立故幽王太子宜臼、是為平王、以奉周祀。
周の宣王46年(紀元前782年)、第11代宣王(在位前828年 - 前782年)が死去し、息子の幽王が即位した。
幽王の二年、洛河流域の三つの川がすべて枯渇した。伯陽甫は予言した。
「周は滅びるであろう。天地の気には順序があり、それが乱れると民が乱れる。今、陽の気が陰の気に閉じ込められ、蒸発できずにいる。そのため地震が起きる。 今の三川の枯渇は、陽の気が本来あるべき場所を離れて陰の気の中に閉じ込められている状態だ。陽の気が陰の中に閉じ込められれば、川の源も塞がれてしまう。 川の源が塞がれれば、国土も滅びる。水と土は民の生活を支えるもの。土が水を支えなければ民の財力は尽き、滅亡を待つだけだ。 昔、伊洛の川が枯渇して夏が滅び、黄河が枯渇して殷が滅んだ。今の周の衰えは二つの時代の末期に似ている。 そして三つの川も再び塞がれ、必ず枯渇するであろう。国家は山川に依存する。山崩れと川の枯渇は、滅亡の兆候である。 川が枯渇すれば、必ず山が崩れる。このままでは、十数年以内に国は滅亡する。天に見捨てられるまで、それほど年月はなかろう」
この年、三つの川は枯渇し、岐山は崩れた。
幽王の三年、幽王は褒姒を寵愛した。褒姒は王子・伯服を産んだ。 幽王は太子を廃しようと考えた。太子・宜臼(ぎきゅう)の母は申侯(しんこう)の娘で、王后であった。 幽王はあとから迎えた褒姒を寵愛するあまり、申后と太子の宜臼を退け、褒姒を王后とし伯服を太子にしようとした。 周の太史(たいし)である伯陽は歴史書を読んで予言した。「周は滅ぶ」と。
その昔、夏(か)王朝の末(紀元前17世紀の末頃)。二匹の神龍が夏の帝の庭に降りてきて、「我々は褒の二人の君主である」と言った。 夏の帝は、龍を殺すか、立ち去らせるか、留まらせるかを占ったが、どれも不吉だった。 龍の流した唾液(つばき)を箱に納めて保存する、と占うと、ようやく吉と出た。 そこで夏の帝は幣帛(へいはく)を供えて龍に告げたところ、龍は姿を消したが、その唾液の泡は残ったので、箱に納めて保管した。 夏の滅亡後、この箱は殷(いん)に伝えられた。殷が滅びると、この箱は周に伝わった。三代にわたり誰もあえてこの箱を開けなかった。 周の脂、(れいおう 第10代周王 在位前877年 - 前841年)の末年、この箱を開けてしまった。 龍の泡は庭に流れ出し、取り除けなくなった。 脂、は女官たちに裸にして叫び騒がせた。すると、その唾液は黒いイモリ(黒い亀、ないし黒いスッポンという説もある)になって、王の後宮に入り込んでいった。 後宮にいた、ちょうど歯が生え替わったばかりの幼女の召使いが、イモリに触れた。 彼女は笄(かんざし)を挿す年頃になると妊娠し、夫がいないまま子を産んだ。 恐れてその子を捨ててしまった。 宣王(せんおう)の時代に、童女たちのあいだで不思議なわらべうたか流行した。
「檿弧箕服(えんこきふく。ヤマグワで作った弓と箕という竹で作った四角い箙=えびら)で周は滅びる」
この歌を知った宣王が調べさせると、民間人の中に、ヤマグワの弓と箕の矢筒を売る夫婦がいた。役人に命じて夫婦を捕らえて殺そうとした。 夫婦は夜道を逃げた。道ばたで泣いている捨て子を見つけた。後宮の召使いの娘が捨てた子だった。夫婦は哀れに思ってこの子を拾い、そのまま褒の地に逃げ込んだ。 その後、褒のある人物が罪を犯した。 彼は罪を償うために、捨て子だった美しい女の子を王に差し出すことを願い出た。 褒の出身なので名を「褒姒(ほうじ)」と呼ばれた。
幽王の三年。幽王は後宮に来た褒姒を寵愛した。伯服(はくふく) という男児が生まれた。 幽王は、正妻である申后(しんこう)と太子(宜臼)を廃位して、 褒姒を王后に、伯服を太子とした。 太史の 伯陽 は言った。「もはやこの災いは、いかんともしがたくなった」
褒姒はついぞ笑わなかった。幽王はあの手この手で彼女を笑わせようとした。それでも褒姒は笑わない。 あるとき、幽王は敵襲の狼煙(のろし)をあげた。 諸侯はみな駆けつけた。到着してみると敵はいなかった。褒姒は初めて笑った。 幽王は喜んだ。その後、何度も敵襲の烽火を上げた。諸侯は信用しなくなり、駆けつける者は減っていった。
幽王は虢石父(かくせきほ)を 卿(けい。大臣) に任命して政務を行わせた。 国中の人々 はみな彼を恨んだ。 虢石父は、へつらい がうまく利欲を貪る小人だったが、王は彼を用いた。
申后の父である申侯は、自分の娘と孫を廃位されて激怒した。 申侯は反乱を起こして、曙(そうこう)と、西方の異民族である 犬戎(けんじゅう) とともに幽王を攻めた。 幽王は狼煙をあげて諸侯の兵を招集したが、 誰も駆けつけなかった 。 反乱軍は驪山(りざん) のふもとで 幽王を殺害 し、褒姒を捕虜とし、周の財宝を ことごとく奪って 去った。
こうして諸侯は申侯のもとに集まり、幽王の元太子であった宜臼を天子として擁立した。 これが平王(へいおう 第13代王 生年不詳。在位前771 - 前720)で、彼が周の祭祀を継承した。
「日来(ひごろ)の契約をたがへず、参りたるこそ神妙(しんべう)なれ。 異国にさるためしあり。周(しう)の幽王(いうわう)、褒姒(ほうじ)と云ふ最愛(さいあい)の后(きさき)をもち給へり、天下第一の美人なり。 されども幽王の心にかなはざりける事は、褒姒咲(ゑみ)をふくまずとて、すべて此后(このきさき)わらふ事をし給はず。 異国の習(ならひ)には、天下に兵革(ひやうがく)おこる時、所々(しよしよ)に火をあげ、太鼓(たいこ)をうツて兵(つはもの)を召すはかり事(こと)あり。 是(これ)を烽火(ほうくわ)と名づけたり。 或時(あるとき)天下に兵乱(ひやうらん)おこツて、烽火をあげたりければ、后(きさき)これを見給ひて、 『あなふしぎ、火もあれ程(ほど)おほかりけるな』とて、其時(そのとき)初めてわらひ給へり。 この后、一たびゑめば、百(もも)の媚(こび)ありけり。 幽王(いうわう)うれしき事にして、其事となう、常に烽火をあげ給ふ。諸侯来(きた)るにあたなし。 あたなければ則(すなは)ちさんぬ。かやうにする事度々(どど)に及べば、参る者もなかりけり。 或時隣国より凶賊おこツて、幽王の都をせめけるに、烽火をあぐれども、例の后の火にならツて、兵(つはもの)も参らず。 其時都かたむいて、幽王つひに亡びにき。 さてこの后は、野干(やかん)となツてはしりうせけるぞおそろしき。 か様(やう)の事がある時は、自今(じごん)以後もこれより召さんには、かくのごとく参るべし。 重盛(しげもり)不思議の事を聞き出(いだ)して、召しつるなり。 されども其事聞きなほしつ、僻事(ひがごと)にてありけり。とうとう帰れ」とて、皆帰されけり。 実(まこと)にはさせる事をも聞き出されざりけれども、父をいさめ申されつる詞(ことば)にしたがひ、 我身に勢(せい)のつくかつかぬかの程(ほど)をも知り、又父子軍(いくさ)をせんとにはあらねども、 かうして入道相国の、謀反(むほん)の心をもややはらげ給ふとの策(はかりこと)なり。
韓非子(かんぴし) 故事成語の宝庫は中国のマキャヴェリ
法家(ほうか)
諸子百家の一つ。諸家の空疎に走る思想を排し,法を重んじて信賞必罰を期し,権力を君主に集中して国を治めることを説いた。 管仲(かんちゅう)が祖と仰がれ,申不害(しんふがい),商鞅(しょうおう)らがその代表で,韓非(かんぴ)によって大成された。 これを秦の統一政策に実施したのが李斯(りし)である。この法治主義は漢初まで受け継がれたが,儒家の徳治主義が政治原理となるに及んで衰微した。
韓非子 (かんびし) Hán Fēi zǐ
中国,戦国末の思想家韓非(?-前234?)の言説を集めた書。20巻55編。 すべてが韓非の自著ではなく,後学のものも含まれているが,孤憤・説難(ぜいなん)・和氏(かし)・姦劫弑臣(かんきようししん)・五蠹(ごと)・顕学の諸篇はもっとも真に近い。 秦の始皇帝は孤憤・五蠹の篇を読んで,いたく感激し,この人に会って交際を結ぶことができたら,死んでも思い残すことはない,と漏らしたという。 《韓非子》では,人民は支配と搾取の対象であり,君主に奉仕すべきものとされる。 〈君主と人民の利害は相反する〉として,この観点から,厳格な法で人民を規制すべきを説くが,そのいわゆる法治主義は,法と術と勢の三者を強調する。 君主たる者は臣下を統御しうる勢を利用し,客観的な法と,胸中にかくす術とを兼ね用いれば,臣下を自由自在に操縦することができる。その際には,賞と罰の二柄(にへい)が有効な要具となる。
その法治主義は法の権威を確保するために,いっさいの批判を封ずる。現在の法を批判する者は,多くの場合先王の法をもちきたって,両者を対置して論評する。韓非にとってまず抹殺さるべきは先王の法であった。先王主義を否定する論拠は,顕学篇に詳しい。
法治の妨害者として五蠹をあげ,その撲滅をはかる。蠹は木を食う虫で,五蠹は,五種の社会を害する者の意。 その第1は,学者−道徳を唱えて法を批判し,無用の弁説をもてあそぶ。 第2は,言談者−デリケートな国際関係を利用して,詭弁を弄し君主をまどわす。 第3は,俠客−私の節義のために法禁を犯し,然諾を重んじて死を軽んずる。 第4は,君主の側近。 第5は,商工業者。 保護育成すべきものとして,軍人と農民をあげる。それは国力の増強に直接寄与し,知能が低く単純なので,権威に弱く御しやすい。 つまり,知的な面での愚民と経済の面での弱民とは,君主の支配が容易なので,国家主義の歓迎するところである,という。
執筆者:日原 利国
韓非は、韓の君主の一族(諸公子)の一人である。彼は刑名(刑罰と名分)、法術(法と君主の術)の学問を好み、その根本は黄老(黄帝と老子の思想、つまり道家思想)に帰していた。 彼は生まれつき吃音で、話すことは得意ではなかったが、文章を書くのは巧みだった。
彼は李斯と共に荀卿(荀子)に師事したが、李斯は自分は韓非には及ばないと考えていた。
韓非は韓の国力が衰弱していくのを見て、たびたび書物で韓王(韓の君主)を諫めたが、韓王は彼の進言を用いなかった。 そこで韓非は、国を治める者が、法制度を整え、権勢を握って臣下を統御し、国を富ませ兵を強くして、それによって人を選び賢者を任用するという務めを怠り、逆に(国にとっての)浮ついた、あるいは悪性の害虫のような者を推挙して、功績や実力の持主に勝る地位に置くことを深く憂えた。
彼は、儒学者(儒者)は文飾をもって法を乱し、遊侠者は武力をもって禁令を犯すと考えた。(君主が)寛大な時は名誉を重んじる者を寵愛し、非常事態の時は武具を身につけた兵士を用いる。今、養っている者(名誉を重んじる者)は用いる者(兵士)ではなく、用いる者(兵士)は養っている者(名誉を重んじる者)ではないと批判した。
彼は、廉潔で正直な者が、不正で曲がった臣下の中に容れられないことを悲しみ、過去の国家の盛衰の移り変わりを観察した。 それ故に、『孤憤』、『五蠹』、『内外儲説』、『説林』、『説難』などの十数万言に及ぶ著作を著した。
しかし、韓非は遊説の困難さを知っており、『説難』という書物でその困難さを詳しく論じたにもかかわらず、結局は秦で命を落とし、自ら窮地を脱することはできなかった。
『説難』にはこうある。
およそ説得の困難さは、私の知識が不足しているからではない。また、私の弁舌が拙くて私の意図を明確に伝えられないからでもない。さらに、私が思い切って自由に発言できないからでもない。およそ説得の困難さは、説得する相手の心を知り、私の主張をその心に合致させられるかにある。
説得する相手が名声を重んじるタイプであるのに、厚い利益を説くと、(相手は)品性の低い者と見なし、卑しい者として遇し、必ず遠ざけてしまうだろう。説得する相手が厚い利益を重んじるタイプであるのに、名声を説くと、(相手は)心がない、世情に疎い者と見なし、必ず受け入れないだろう。
説得する相手が実際は厚い利益を求めているが、表面上は名声を重んじているタイプである場合、名声を説くと、表面上は受け入れるが、実際は疎遠にする。もし厚い利益を説くと、密かにその意見を採用するが、表面上は彼を排斥する。この機微を知らないではいけない。
そもそも、物事は秘密にすることで成功し、言葉は漏れることで失敗する。(秘密を)必ずしも(説得される)本人が漏らすわけではないが、(説得者が)その人が隠している事に触れるような発言をすると、このような場合は身が危うくなる。
貴人に過ちがありそうな兆候があるのに、説得する者が明確な言葉や立派な議論でその悪行を突き止めようとすると、身が危うくなる。(君主の)寵愛がまだ深くないうちに、極端に賢明な意見を述べる。その意見が採用されて功績があっても、寵愛は失われ、採用されず失敗に終われば、疑われる。このような場合も身が危うくなる。
貴人が(自ら)考えた計略を、自分の手柄にしたいと思っているのに、説得する者がそれに知恵を貸したとなると、身が危うくなる。
貴人が公然と実行したことについて、実は別の理由があったのに、説得する者がその裏事情を知っていると、身が危うくなる。
貴人がどうしてもやろうとしない事を強要したり、貴人がどうしても止められない事を止めさせようとしたりすると、身が危うくなる。
だから言うのだ。彼と偉い人物について議論すると、自分を邪魔していると思い、取るに足らない人物について議論すると、権力を売ろうとしていると思う。彼が愛する人物について議論すると、自分の地位を利用しようとしていると思い、彼が憎む人物について議論すると、自分を試そうとしていると思う。
話を簡潔にまとめすぎると、無知な者として切り捨てられ、話を広げ、文章を飾り立てると、話が多すぎ長すぎるとされる。事実に基づいて順序よく考えを述べると、気が弱くて遠慮していると言われ、考えを巡らせ、大胆に発言すると、粗野で傲慢だと言われる。これらが遊説の難しさであり、知らずにはいられない。
およそ遊説の肝心な点は、説得する相手が得意としていることを飾り立て、相手が恥じていることを隠す点にある。
相手が自分の計略に自信を持っているなら、その失敗を指摘して追いつめるな。相手が自分の決断に自信を持っているなら、その敵対者を怒らせるな。相手が自分の力を誇りに思っているなら、その困難さを挙げて打ち砕くな。
(貴人の)やっていることと異なることを提案する場合は、貴人の(現在の)計略と同じ目的で提案しているように見せかけ、貴人の行動と異なる人物を褒める場合も、貴人と同類と見せかけるように飾り立てれば、差し障りはない。
貴人と同じ欠点を持っている者がいるならば、その欠点が実は欠点ではないと大いに飾り立てるべきだ。
大きな忠誠心は、(貴人の意向に)逆らったり、悟らせたりすることがなく、言葉には(貴人を)攻撃したり排斥したりする要素がない。その後に初めて、自分の知恵や弁舌を伸ばして述べるのだ。これが親密になり、疑われないようにする方法であり、自分の知恵を尽くすことの難しさである。
長い月日を経て、(貴人からの)恩寵が深くなり、深い計略を立てても疑われず、互いに(意見を)争っても罪に問われないようになって、初めて、利害を明確に説き、それによって功績を達成させ、(貴人の)是非を直に指摘して、その立場を飾る。このようにして関係を維持する、これが遊説の成功である。
伊尹は料理人となり、百里奚は捕虜となったが、どちらもそれらの地位を経由して、上に仕えた。(つまり、君主に近づくために低い地位から始めたということである。)この二人はどちらも聖人であったが、それでも自ら身を卑しくして世を渡らざるを得なかったのだから、これは有能な臣下が(必ずしも高い地位から始められるわけではないという)定めに従わざるを得ないことである。
宋の国に金持ちがいた。雨が降ってその家の塀が壊れた。その息子が「塀を直さないと泥棒が入りますよ」と言い、その隣人の父親も同じことを言った。その日の夕方、案の定、泥棒に入られ財産をひどく失った。この家の人々は、息子を非常に賢いと思い、隣人の父親を疑った。
昔、鄭の武公は胡を討伐しようと考え、あえて自分の娘を胡の君主に嫁がせた。そして群臣に尋ねて言った。「私は軍を起こしたいのだが、誰を討伐するのが良いか?」関其思という者が「胡を討伐できます」と言った。すると武公は関其思を処刑し、「胡は兄弟の国であるのに、お前はこれを討伐せよと言う。どういうつもりだ」と言った。胡の君主はこれを聞き、鄭が自分に親愛の情を抱いていると思い、鄭に対する備えを怠った。鄭は胡を襲撃し、これを奪い取った。
この二つの話で述べられた知恵(意見)は、どちらも道理に適っている。しかし、(宋の隣人の父は)深刻に疑われ、(関其思は)処刑された。知恵があること自体は難しくないが、その知恵をどのように活かすか(処知)が難しいのである。
昔、弥子瑕は衛の君主に寵愛されていた。衛の国の法律では、こっそり君主の車を運転した者は、足を切られる刑罰に処せられた。弥子瑕の母が病気になったと聞き、誰かが夜中に密かに彼に知らせたので、弥子瑕は君主の車を偽って運転して外出した。君主はこれを聞いて彼を賢いと言い、「なんと孝行なことか。母のためなら足切りの罪を犯すことも忘れるほどだ!」と言った。
君主と果樹園で遊んだ際、弥子瑕が桃を食べてみて美味しかったので、食べきらずに君主に献上した。君主は「私を愛してくれているのだな。自分の口に美味しいのを忘れて、私のことを思ってくれた!」と言った。
しかし、弥子瑕の容色が衰え、君主の寵愛が薄れた時、彼は君主の怒りを買った。君主は「あの者は、かつて私の車を偽って運転し、また、かつて食べ残しの桃を私に食べさせた」と言った。
このように、弥子瑕の行動は最初と変わっていないのに、以前は賢いと見なされ、後には罪に問われたのは、愛憎の極端な変化によるものである。それ故に、主君に愛されている時は、たとえ知恵が適切でなくても、かえって親密さが増し、主君に憎まれている時は、たとえ罪に当たらない行動でも、かえって疎遠にされる。だから、諫言や遊説をする者は、主君の愛憎をよく観察してから説得すべきである。
龍という生き物は、飼い慣らして乗ることができる。しかし、その喉の下には一尺ほどの逆鱗(逆向きに生えた鱗)があり、人がこれに触れると、必ず人を殺す。人主(君主)にもまた逆鱗がある。説得する者が、人主の逆鱗に触れることさえなければ、成功に近いと言える。
ある人が、韓非の書物を秦に伝えた。秦王(後の始皇帝)は『孤憤』や『五蠹』の書物を読んで、「ああ、私がこの人物に会って彼と共に語り合えるなら、死んでも恨みはない!」と言った。李斯が「これは韓非が著した書物です」と言った。秦王はそれにより、すぐに韓を攻めさせた。
韓王は最初、韓非を用いなかったが、事態が切迫して、ついに韓非を秦へ使者として送った。秦王は彼を喜んだが、まだ信用して用いなかった。
李斯と姚賈は彼を妬み、中傷して言った。
「韓非は韓の諸公子です。今、王は諸侯を併合しようとしています。韓非は最終的には韓のためを思い、秦のためにはならないでしょう。これは人情というものです。今、王が彼を用いないのであれば、長く留めてから帰国させるのは、自ら患いを残すことになります。いっそ罪に問うて誅殺するに越したことはありません。」
秦王はそれをその通りだと思い、役人に命じて韓非を逮捕させた。李斯は人に頼んで韓非に毒薬を贈り、自殺させた。韓非は自ら弁明しようとしたが、面会を許されなかった。
秦王は後に後悔し、人をやって彼を赦そうとしたが、韓非はすでに死んでいた。
申子(申不害)と韓子(韓非)はどちらも書物を著し、後世に伝えられ、学ぶ者が多い。私はただ、韓非が『説難』を著しながら、自ら(その難しさから)抜け出せなかったことを悲しむだけである。
関羽(かんう) 道教の神として祭られる三国志の義の武将
関羽 かんう (?―219)
中国、三国蜀(しょく)の武将。河東解(山西省臨晋(りんしん)県)の人。字(あざな)は雲長。諡(おくりな)は忠義侯。 解には塩池があるから、塩業関係の仕事に従事していたのかもしれない。 亡命して涿(たく)郡(河北省)にきて、劉備(りゅうび)や張飛(ちょうひ)と知り合った。 桃園で3人が義兄弟の約束を結んだことが小説『三国志演義』にみえるが、それに近いことはあったろう。 劉備が起兵すると羽も参加し、寝食をともにした。200年、曹操(そうそう)と劉備が戦い、備は敗れ、羽は操に捕らえられた。 操は羽を礼遇して帰順を勧めたが、羽は操と袁紹(えんしょう)との戦いに、紹の将である顔良の首を斬(き)って、これを置き土産(みやげ)に備の所に帰った。 やがて備とともに荊州(けいしゅう)に赴き、曹操が南下してくると、ここを逃れたが、ついで起こった赤壁(せきへき)の戦い(208)では、水戦で敗れた操の軍を陸上に待ち受けて撃ち破った。 劉備が諸葛亮(しょかつりょう)や張飛らと蜀に入ったのちも、彼は荊州の留守(りゅうしゅ)を命ぜられ、江陵を基地とした。 219年、劉備が漢中王になったのを機に、北上して曹操の部将である曹仁を攻めて樊城(はんじょう)(河南省襄樊(じょうはん)市)を囲んだ。 しかし、荊州領有をもくろむ孫権(そんけん)が、操と同盟して背後を襲ったので、樊城陥落を目前に南に引き揚げたが、ついに臨沮(りんしょ)(湖北省南漳(なんしょう)県)において、子の関平とともに戦死した。
関羽は美しい髯(ひげ)の持ち主で、諸葛亮も彼を髯の愛称でよんだ。また彼は武勇に優れていたばかりでなく、好んで『春秋左氏伝』を読んだ。しかし人を見下すことがあり、人の恨みを買うこともあった。死後、軍神、財神として祀(まつ)られている。
[狩野直禎]
『宮川尚志著『諸葛亮』(1940・冨山房)』▽『狩野直禎著『諸葛孔明』(1966・新人物往来社)』
かん‐う〔クワン‐〕【関羽】
(1)[?〜219]中国、三国時代の蜀(しょく)の武将。 河東(山西省)の人。 字(あざな)は雲長。張飛とともに劉備(りゅうび)を助け、赤壁の戦いに大功をたてたが、のち呉に捕らえられて死んだ。 後世、軍神として各地の関帝廟(かんていびょう)に祭られた。
(2)歌舞伎十八番の一。藤本斗文作。 元文2年(1737)江戸河原崎座の「閏月仁景清(うるうづきににんかげきよ)」一番目大詰めで2世市川団十郎が初演。現在、脚本は廃滅。
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吉川英治『三国志』「桃園の巻」より
張飛は、すこし酔うてきたとみえて、声を大にし、杯を高く挙げて、 「ああ、こんな吉日はない。実に愉快だ。再び天にいう。われらここにあるの三名。同年同月同日に生まるるを希ねがわず、願わくば同年同月同日に死なん」 と、呶鳴った。そして、 「飲もう。大いに、きょうは飲もう――ではありませんか」 などと、劉備の杯へも、やたらに酒をついだ。そうかと思うと、自分の頭を、ひとりで叩きながら、「愉快だ。実に愉快だ」と、子供みたいにさけんだ。 あまり彼の酒が、上機嫌に発しすぎる傾きが見えたので、関羽は、 「おいおい、張飛。今日のことを、そんなに歓喜してしまっては、先の歓びは、どうするのだ。今日は、われら三名の義盟ができただけで、大事の成功不成功は、これから後のことじゃないか。少し有頂天になるのが早すぎるぞ」と、たしなめた。 |
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吉川英治『三国志』「孔明の巻」
ついに関羽は去った! 自分【曹操を指す。加藤】をすてて玄徳のもとへ帰った! 辛いかな大丈夫の恋。――恋ならぬ男と男との義恋。 「……ああ、生涯もう二度と、ああいう真の義士と語れないかもしれない」 憎悪。そんなものは今、曹操の胸には、みじんもなかった。 来るも明白、去ることも明白な関羽のきれいな行動にたいして、そんな小人の怒りは抱こうとしても抱けなかったのである。 「…………」 けれど彼の淋しげな眸は、北の空を見まもったまま、如何(いかん)ともなし難かった。涙々、頬に白いすじを描いた。睫毛(まつげ)は、胸中の苦悶をしばだたいた。 |
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吉川英治『三国志』「望蜀の巻」
――ふと見れば、曹操のうしろには、敗残の姿も傷いたましい彼の部下が、みな馬を降り、大地にひざまずき、涙を流して関羽のほうを伏し拝んでいた。 「あわれや、主従の情。……どうしてこの者どもを討つに忍びよう」 ついに、関羽は情に負けた。 無言のまま、駒を取って返し、わざと味方の中へまじって、何か声高に命令していた。 曹操は、はっと我にかえって、 「さては、この間に逃げよとのことか」 と、士卒と共に、あわただしくここの峠から駈け降って行った。 |
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吉川英治『三国志』「出師の巻」
「華陀とやら、どうするのか」 と、訊いた。華陀は答えて、 「医刀をもって肉を裂き、 「何かと思えば、そんな用意か。大事ない、存分に療治してくれい」 鉄環を 華陀は ようやく終ると、酒をもって洗い、糸をもって瘡口を縫う。華陀の額にもあぶら汗が浮いていた。 (略) 手術をおえて退がると、 「将軍。昨夜は如何でした」 「いや、ゆうべは熟睡した。今朝さめてみれば、痛みも忘れておる。御身は実に天下の名医だ」 「いや、てまえも随分今日まで、多くの患者に接しましたが、まだ将軍のような病人には出会ったことがありません。あなたは実に天下の名患者でいらっしゃる」 「ははは。名医と名患者か。それでは病根も陥落せずにおられまい。予後の養生はいかにしたらよいか」 「怒らないことですな。 「かたじけない。よく守ろう」 関羽は百金を包んで華陀に贈った。華陀は手にも取らない。 「大医は国を医し、仁医は人を医す。てまえには国を医するほどな神異もないので、せめて義人のお体でも癒してあげたいと、遥々これへ来たものです。金儲けに来たわけではありません」 飄然とまた小舟に乗って、江上へ去ってしまった。 |
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吉川英治『三国志』「出師の巻」
やがて呉使が引き揚げると、曹操は 「 と、贈位の沙汰まであった。 呉は、禍いを魏へうつし、魏は禍いを転じて、蜀へ恩を売った。 三国間の戦いは、ただその |
『蜀記』に曰く。 曹公(曹操)が劉備とともに呂布を下邳(かひ)に囲んだとき、関羽が曹公に申し出た。 「呂布は秦宜祿(しんぎろく)を遣わして救援を求めにやっています。私はその妻を娶りたい(妻にしたい)と思います」と。 曹公はこれを許した。 しかし、いざ呂布を攻め滅ぼす段になって、関羽はたびたび曹公にその件を申し出た。 曹公は「その女は容姿が並々ならぬのではないか」と疑い、先に人を遣わして見に行かせたところ、果たして美しい女であったため、自らのもとに留め置いた。 このことにより、関羽の心は安らかでなかった。 この話は『魏氏春秋』の記述とも異なるところがない。先主(劉備)が徐州刺史の車胄(しゃちゅう)を襲って殺したとき、関羽に下邳(かひ)の城を守らせ、太守の職務を代行させた。 (『魏書』には「関羽に徐州を統べさせた」とある。) その間、劉備自身は小沛(しょうはい)へ帰った。
『傅子(ふし)』に曰く。 張遼はこのこと(=関羽がいずれ劉備のもとへ戻ると語ったこと)を太祖(=曹操)に報告しようと思ったが、 太祖が関羽を殺してしまうのではないかと恐れ、ためらった。 しかし、「これを報告しないのは、君に仕える道に反する」と考え、嘆いて言った。 「曹公は君父(君主)であり、関羽はただの兄弟にすぎない。」 そこでついに太祖に報告した。 太祖はこれを聞いて言った。 「主君に仕えながら、その本(=かつての恩義)を忘れぬとは、天下の義士である。 では、いつごろ去ると見込むか?」 張遼が答えた。 「関羽は公(あなた)から受けた恩に報いるため、必ず功績を立ててから去るでしょう。」関羽が顔良を討ち取ったとき、曹公(曹操)は「関羽は必ず去る」と悟り、 さらに重ねて褒美を与えた。 しかし関羽は、賜ったものをすべて封じて残し、 辞別の手紙を捧げてから、袁紹の軍中にいた先主(劉備)のもとへ奔った。 家臣たちは追撃しようとしたが、曹公は言った。 「彼(関羽)はそれぞれ自分の主君のために行動しているのだ。追うな。」
臣・松之は思うに、 曹公(曹操)は関羽が自分のもとに留まらぬことを知りながら、その志を嘉(よみ)し、 去るのを追わせず、その義を成させた。 これ、もし王者・覇者の度量をもたぬ者であれば、 どうしてこのようなことができようか。 まことに、これは曹公の美徳・名誉というべきことである。関羽は先主(劉備)に従って劉表のもとへ赴いた。 やがて劉表が死に、曹公(曹操)が荊州を平定すると、 先主は樊(はん)から南へ江を渡ろうとした。 その際、関羽を別に遣わし、数百隻の船を率いて江陵で合流するよう命じた。 曹公はこれを追って当陽の長阪にまで至ったが、 先主は進路を変えて漢津(かんしん)へ向かい、ちょうど関羽の船団と行き会い、 ともに夏口へと至った。
『蜀記』に曰く。 はじめ、劉備が許(きょ)にいたころ、曹公(曹操)とともに狩りをした。 狩りの最中、人々が散じたとき、関羽は劉備に「いま曹公を殺すべし」と勧めたが、 劉備はこれに従わなかった。 のちに夏口にいたとき、江の中洲を漂う身となり、関羽は怒って言った。 「あの日、狩りのときに私の言葉に従っていれば、今日のこの苦境はなかったものを!」 劉備は答えた。 「そのときは国家のために、あえて曹公を惜しんだのだ。 もし天道が正しきを助けるならば、これが福とならぬとは限らぬではないか。」孫権は兵を遣わして先主(劉備)を助け、曹公(曹操)を防がせた。 曹公は軍を引いて退却した。 先主は江南の諸郡を収め、勲功ある者たちを封じて任命した。 関羽を襄陽太守・蕩寇将軍(とうこうしょうぐん)に任じ、江の北に駐屯させた。 のちに先主が西方の益州を平定すると、関羽を任じて荊州の政務を総督させた。 そのころ、関羽は馬超が降ってきた(劉備に帰順した)と聞いた。 馬超とはもともと旧知ではなかったため、関羽は諸葛亮に手紙を送り、 「馬超の人物は、誰に比べられるだろうか」と問うた。 諸葛亮は関羽の自尊心を察し、彼の面子を立てるためにこう答えた。 「孟起(もうき=馬超)は文武の才を兼ね備え、雄烈さは人に勝り、一世の英傑である。 黥布・彭越の類であり、益徳(張飛)と並んで先を競うほどだ。 だが、髯(ぜん=関羽)のように絶倫にして群を抜く存在には、なお及ばぬ。」 関羽は立派な鬚髯を誇っていたので、諸葛亮はあえて彼を「髯」と呼んだのである。 関羽はこの手紙を読んで大いに喜び、賓客たちに見せびらかした。
臣・松之はこれを評して言う。 劉備はのちに董承らと謀を結んだが、事が漏れてうまくいかなかった。 もし本当に「国家のために曹公を惜しんだ」のであれば、 どうして後にそのような謀反を企てたのか。 もし関羽が実際にこのような勧めをしたのに、劉備が従わなかったのだとすれば、 それは曹公の腹心や親族が多く、兵も大勢で、 あらかじめ入念な計画なしには成功しないと判断したからであり、 殺すことはできても、自分の身は助からぬ。 ゆえに策略としてやめたのであって、「惜しんだ」わけではない。 すでに過ぎたことなので、のちに体裁を繕って「高尚な言葉」にしたにすぎぬ。
『典略』に曰く。 関羽が樊(はん)を包囲しているとき、孫権は使者を遣わして助力を求めた。 しかし、命じて「急いで進めるな」とさせ、さらに主簿を先にして関羽に命を伝えさせた。 関羽はその遅延に怒り、また自ら于禁らを打ち破ったことから、こう罵った。 「鰂子(=孫権)よ、よくもそんなことを! もし樊城が陥落しても、我が汝を滅ぼせぬと思うか!」 このことを孫権が聞き、関羽が自分を軽んじていると知ると、 わざと手紙を送って謝罪し、自ら赴くことを許すと伝えた。 臣・松之はこれを評して言う。 荊州と呉は表向きは友好であったが、内心では互いに猜疑と警戒を抱いていた。 ゆえに孫権が関羽を襲おうとする際には、密かに兵を動かしたのである。 『呂蒙伝』には「伏兵を密かに樹林の中に潜ませ、白衣の者に櫓を揺らさせ、商人の服装をさせた」とある。 これに照らすと、関羽は孫権に助けを求めなかったが、 もし孫権が本当に援助するつもりであったなら、 なぜその兵の行動や姿を隠す必要があったのか、ということになる。また、南郡太守・麋芳(びほう)は江陵に、将軍・士仁(しじん)は公安に駐屯しており、もともと関羽を軽んじることを嫌っていた。 関羽が軍を出すと、麋芳・士仁は軍資を供給したものの、互いに助け合おうとはせず、十分な援護はしなかった。 関羽は「必ずこれを咎める」と言い、麋芳・士仁は皆、恐れ不安に思った。 こうして孫権は陰に麋芳・士仁を誘い、二人は人を遣わして孫権を迎え入れた。 その間、曹公(曹操)は徐晃を遣わして曹仁を救援させた。
『蜀記』に曰く。 関羽と徐晃(じょこう)は以前から互いに親しく、宿縁のある仲であった。 遠くから互いに言葉を交わしても、もっぱら平生のことを話すだけで、軍事については及ばなかった。 しばらくすると、徐晃は馬を下りて命令を告げた。 「関羽の首を取れば、賞金千斤(せんきん)を与える。」 関羽は驚き、恐れて徐晃に言った。 「大兄、これは何という言葉か!」 徐晃は答えた。 「これは国家の事にすぎぬ。」関羽は敵を打ち破ることができず、軍を引いて退いた。 孫権はすでに江陵を占領し、関羽の兵士やその妻子をことごとく捕虜としたため、関羽の軍は散り散りになった。 その後、孫権は将兵を遣って関羽を迎え撃ち、関羽とその子・平を臨沮(りんそ)で斬った。
『蜀記』に曰く。孫権は将軍を遣わして関羽を討ち取り、関羽とその子・平を捕らえた。 孫権は関羽を生かして劉備や曹操に対抗させようと考えたが、左右の者は言った。 「狼の子は養うべきでない。後に必ず害をなす。もし曹公がすぐにこれを除かねば、自ら大患を招くことになる。それゆえ都を移そうと議したのだ。今、生かすわけにはいかぬ。」 そこで関羽を斬った。 臣・松之の考えによれば、『呉書』には、 孫権が将軍・潘璋を遣わして関羽の逃路を遮断させ、関羽が到達したところで斬ったとある。 また、臨沮は江陵から二三百里離れており、どうして関羽の生死を論じる余地などあったであろうか。 また『蜀記』に「権は関羽を生かして劉・曹に対抗させようとした」とあるが、これは正しくない。智者の口を借りた誇張である。 『呉歴』には、孫権は関羽の首を曹公(曹操)に送り、諸侯の礼をもってその屍骸を葬った、と記されている。関羽に追贈の諡号を与え、「壯繆侯」とした。
『蜀記』に曰く。 関羽が初めて軍を率いて樊(はん)を包囲したとき、夢に猪がその足をかじるのを見た。 関羽は子・平に語って言った。 「私は今年、衰えるだろう。しかし、帰ることはできぬであろう。」 『江表伝』には、関羽は『左氏伝』を好み、諷誦(暗誦して意味を解説すること)もすべてすらすらと口にしていた、とある。関羽の子・興が嗣いだ。 興の字は安国。幼少のころから才知が優れており、丞相・諸葛亮も深くその才を評価した。 弱冠(20歳前後)で侍中・中監軍に任じられ、数年後に卒した。 その子・統が嗣ぎ、公主に尚(めと)られ、官は虎賁中郎将に至った。 統は卒して子がなかったため、興の庶子・彝が封を継いだ。
『蜀記』に曰く。 龐徳の子・会は、鍾離・ケ道らに従って蜀を討った。 蜀が破れると、関氏の家はことごとく滅ぼされた。
楊貴妃(ようきひ) 史上まれな美女の知られざる真実とは
(1)[719〜756]《「貴妃」は女官の位の名》中国、唐の玄宗皇帝の妃。永楽(山西省)の人。 初め玄宗の子寿王の妃。歌舞音曲に通じ、また聡明であったため、玄宗に召されて貴妃となり、寵を一身に集め、楊一族も登用され権勢を誇った。 安禄山の乱で長安を逃れる途中、官兵に殺された。白居易の「長恨歌」をはじめ、多くの文学作品の題材となった。
(2)謡曲。三番目物。金春禅竹作。玄宗皇帝の命を受けた方士(ほうし)が、亡き楊貴妃の霊を仙界の蓬莱宮(ほうらいきゅう)で尋ねあてると、楊貴妃の霊はかつての玄宗との愛などを語る。
楊貴妃(中国) ようきひ (719―756)
中国、唐第6代皇帝玄宗の寵妃(ちょうひ)。蒲州(ほしゅう)永楽(山西省芮城(ぜいじょう)県)出身の父楊玄琰(げんえん)が、蜀(しょく)州(四川(しせん)省崇慶(すうけい)県)司戸参軍として任地にあるとき生まれる。 幼名を玉環(ぎょくかん)という。早く父に死別、叔父の河南府士曹(しそう)参軍楊玄璬(げんきょう)の養女となったとされるが、玄璬の実子とする説もある。 才知あり歌舞に巧みな豊満な美女で、735年玄宗の第18皇子寿王李瑁(りまい)の妃(きさき)となったが、ちょうど寵妃武恵妃と死別した玄宗はこれを愛し、 740年寿王邸から出して女冠(じょかん)(女道士)とし、太真(たいしん)の名を与え、744年宮中に召した。 翌年27歳で正式に貴妃に冊立、政務に飽きた玄宗の心を完全にとらえ、娘子(じょうし)とよばれて皇后に等しい待遇を受けた。 3人の姉は韓国(かんこく)、虢国(かくこく)、秦国(しんこく)夫人の称号を賜り、 族兄楊サ(ようしょう)は国忠の名を賜り、一族みな高官に列し皇族と通婚し、官僚たちはみなこれに取り入ろうと競った。 貴妃の好む南方産のレイシ(茘枝)が早馬で届けられた話は有名。 毎冬帝とともに華清宮温泉に遊び、宦官(かんがん)高力士、安禄山(あんろくざん)らも寵を競い、李白(りはく)らの宮廷詩人たちに囲まれ豪奢(ごうしゃ)な生活を送った。 しかし楊国忠と対立した安禄山がついに反乱し(安史の乱)、756年長安に迫るや、楊国忠の勧めで玄宗は蜀(四川)へ逃亡しようとし、貴妃および楊氏一族と少数の廷臣を引き連れ長安を脱出した。 しかし西方数十キロメートルの馬嵬(ばかい)駅(陝西(せんせい)省興平県)で警固の兵士たちが反乱を起こし、国難を招いた責任者として国忠を殺し、さらに玄宗に迫って貴妃を駅の仏堂で縊殺(いさつ)せしめた。 38歳であった。兵士はようやく鎮まって帝を守って成都へ向かった。 長安奪回後、都へ戻った玄宗は馬嵬に埋められていた屍(しかばね)を棺に収めて改葬させたが、余生は貴妃の画像に朝夕涙を流すのみであったという。 貴妃と玄宗の情愛と悲劇は同時代から文学作品の題材とされ、白居易(はくきょい)(白楽天(はくらくてん))の『長恨歌(ちょうごんか)』をはじめ、後世まで多くの詩、戯曲、小説を生んだ。
[菊池英夫]
『藤善真澄著『安禄山と楊貴妃』(1972・清水書院)』
マテオ・リッチ 西洋から中国に渡来したイタリア人宣教師
梁啓超(りょうけいちょう) 日本とも縁が深い近代言論人