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中国歴史人物列伝 11

最新の更新2025年10月20日   最初の公開2025年10月7日

  1. 褒姒(ほうじ) 微笑みで国を滅ぼしたファム・ファタール 前790年代?-前771?
  2. 韓非子(かんぴし) 故事成語の宝庫は中国のマキャヴェリ 前280頃-前233
  3. 関羽(かんう) 道教の神として祭られる三国志の義の武将 160頃-220
  4. 楊貴妃(ようきひ) 史上まれな美女の知られざる真実とは 719-756
  5. マテオ・リッチ 西洋から中国に渡来したイタリア人宣教師 1552-1610
  6. 梁啓超(りょうけいちょう) 日本とも縁が深い近代言論人 1873-1929
  7. 参考 今までとりあげた人物 実施順 時代順

以下、朝日カルチャーセンター公式サイトのhttps://www.asahiculture.com/asahiculture/asp-webapp/web/WWebKozaShosaiNyuryoku.do?kozaId=8399844より引用。
講座番号:4584576 新宿教室 教室・オンライン自由講座 見逃し配信あり 中国歴史人物列伝 加藤 徹/明治大学教授
木2025/10/9, 10/23, 11/13, 11/27, 12/11, 12/25 指定木曜日 10:30〜12:00
 歴史を理解することは、人間を理解すること。ヒストリー(歴史)とストーリー(物語)は、もとは同じ言葉でした。中国の伝統的な「紀伝体」の歴史書も、個々人の伝記を中心とした文学作品でした。
 本講座では、日本にも大きな影響を残した中国史上の人物をとりあげ、運や縁といった個人の一回性の生きざまと、社会学的な法則や理論など普遍的な見地の両面から、人生を紹介します。豊富な図像を使い、予備知識のないかたにもわかりやすく解説します。(講師・記)


褒姒(ほうじ) 微笑みで国を滅ぼしたファム・ファタール
YouTube https://www.youtube.com/playlist?list=PL6QLFvIY3e-ns3Y25DFA3dmswxstXRKCo

○ポイント、キーワード
○辞書的な説明

○略年表 以下は、司馬遷『史記』周本紀の記載である。
【原漢文】四十六年、宣王崩、子幽王宮湦立。幽王二年、西周三川皆震。伯陽甫曰、 「周将亡矣。夫天地之気、不失其序。若過其序、民乱之也。陽伏而不能出、陰迫而不能蒸、於是有地震。今三川実震、是陽失其所而填陰也。陽失而在陰、原必塞。 原塞、国必亡。夫水土演而民用也。土無所演、民乏財用、不亡何待!昔伊洛竭而夏亡、河竭而商亡。 今周徳若二代之季矣、其川原又塞、塞必竭。夫国必依山川、山崩川竭、亡国之徴也。川竭必山崩。若国亡不過十年、数之紀也。天之所棄、不過其紀。」 是歳也、三川竭、岐山崩。
 三年、幽王嬖愛褒姒。褒姒生子伯服、幽王欲廃太子。太子母申侯女、而為后。 後幽王得褒姒、愛之、欲廃申后、并去太子宜臼、以褒姒為后、以伯服為太子。周太史伯陽読史記曰、「周亡矣。」
 昔自夏后氏之衰也、有二神龍止於夏帝庭而言曰、「余、褒之二君。」夏帝卜殺之与去之与止之、莫吉。 卜請其漦而藏之、乃吉。於是布幣而策告之、龍亡而漦在、櫝而去之。夏亡、伝此器殷。殷亡、又伝此器周。比三代、莫敢発之。 至脂、之末、発而観之。漦流于庭、不可除。脂、使婦人裸而譟之。漦化為玄黿、以入王後宮。 後宮之童妾既齔而遭之、既笄而孕、無夫而生子、懼而棄之。宣王之時童女謠曰、「檿弧箕服、実亡周国。」於是宣王聞之、有夫婦売是器者、宣王使執而戮之。逃於道、而見郷者後宮童妾所棄妖子出於路者、聞其夜啼、哀而収之、夫婦遂亡、奔於褒。褒人有罪、請入童妾所棄女子者於王以贖罪。棄女子出於褒、是為褒姒。
 当幽王三年、王之後宮見而愛之、生子伯服、竟廃申后及太子、以褒姒為后、伯服為太子。太史伯陽曰、「禍成矣、無可奈何!」
 褒姒不好笑、幽王欲其笑万方、故不笑。幽王為烽燧大鼓、有寇至則挙烽火。諸侯悉至、至而無寇、褒姒乃大笑。幽王説之、為数挙烽火。其後不信、諸侯益亦不至。
 幽王以虢石父為卿、用事、国人皆怨。石父為人佞巧善諛好利、王用之。又廃申后、去太子也。申侯怒、与署シ夷犬戎攻幽王。幽王挙烽火徴兵、兵莫至。遂殺幽王驪山下、虜褒姒、尽取周賂而去。於是諸侯乃即申侯而共立故幽王太子宜臼、是為平王、以奉周祀。
以下は訳である。
 周の宣王46年(紀元前782年)、第11代宣王(在位前828年 - 前782年)が死去し、息子の幽王が即位した。
 幽王の二年、洛河流域の三つの川がすべて枯渇した。伯陽甫は予言した。
「周は滅びるであろう。天地の気には順序があり、それが乱れると民が乱れる。今、陽の気が陰の気に閉じ込められ、蒸発できずにいる。そのため地震が起きる。 今の三川の枯渇は、陽の気が本来あるべき場所を離れて陰の気の中に閉じ込められている状態だ。陽の気が陰の中に閉じ込められれば、川の源も塞がれてしまう。 川の源が塞がれれば、国土も滅びる。水と土は民の生活を支えるもの。土が水を支えなければ民の財力は尽き、滅亡を待つだけだ。 昔、伊洛の川が枯渇して夏が滅び、黄河が枯渇して殷が滅んだ。今の周の衰えは二つの時代の末期に似ている。 そして三つの川も再び塞がれ、必ず枯渇するであろう。国家は山川に依存する。山崩れと川の枯渇は、滅亡の兆候である。 川が枯渇すれば、必ず山が崩れる。このままでは、十数年以内に国は滅亡する。天に見捨てられるまで、それほど年月はなかろう」
 この年、三つの川は枯渇し、岐山は崩れた。
 幽王の三年、幽王は褒姒を寵愛した。褒姒は王子・伯服を産んだ。 幽王は太子を廃しようと考えた。太子・宜臼(ぎきゅう)の母は申侯(しんこう)の娘で、王后であった。 幽王はあとから迎えた褒姒を寵愛するあまり、申后と太子の宜臼を退け、褒姒を王后とし伯服を太子にしようとした。 周の太史(たいし)である伯陽は歴史書を読んで予言した。「周は滅ぶ」と。
 その昔、夏(か)王朝の末(紀元前17世紀の末頃)。二匹の神龍が夏の帝の庭に降りてきて、「我々は褒の二人の君主である」と言った。 夏の帝は、龍を殺すか、立ち去らせるか、留まらせるかを占ったが、どれも不吉だった。 龍の流した唾液(つばき)を箱に納めて保存する、と占うと、ようやく吉と出た。 そこで夏の帝は幣帛(へいはく)を供えて龍に告げたところ、龍は姿を消したが、その唾液の泡は残ったので、箱に納めて保管した。 夏の滅亡後、この箱は殷(いん)に伝えられた。殷が滅びると、この箱は周に伝わった。三代にわたり誰もあえてこの箱を開けなかった。 周の脂、(れいおう 第10代周王 在位前877年 - 前841年)の末年、この箱を開けてしまった。 龍の泡は庭に流れ出し、取り除けなくなった。 脂、は女官たちに裸にして叫び騒がせた。すると、その唾液は黒いイモリ(黒い亀、ないし黒いスッポンという説もある)になって、王の後宮に入り込んでいった。 後宮にいた、ちょうど歯が生え替わったばかりの幼女の召使いが、イモリに触れた。 彼女は笄(かんざし)を挿す年頃になると妊娠し、夫がいないまま子を産んだ。 恐れてその子を捨ててしまった。 宣王(せんおう)の時代に、童女たちのあいだで不思議なわらべうたか流行した。
「檿弧箕服(えんこきふく。ヤマグワで作った弓と箕という竹で作った四角い箙=えびら)で周は滅びる」
 この歌を知った宣王が調べさせると、民間人の中に、ヤマグワの弓と箕の矢筒を売る夫婦がいた。役人に命じて夫婦を捕らえて殺そうとした。 夫婦は夜道を逃げた。道ばたで泣いている捨て子を見つけた。後宮の召使いの娘が捨てた子だった。夫婦は哀れに思ってこの子を拾い、そのまま褒の地に逃げ込んだ。 その後、褒のある人物が罪を犯した。 彼は罪を償うために、捨て子だった美しい女の子を王に差し出すことを願い出た。 褒の出身なので名を「褒姒(ほうじ)」と呼ばれた。
 幽王の三年。幽王は後宮に来た褒姒を寵愛した。伯服(はくふく) という男児が生まれた。 幽王は、正妻である申后(しんこう)と太子(宜臼)を廃位して、 褒姒を王后に、伯服を太子とした。 太史の 伯陽 は言った。「もはやこの災いは、いかんともしがたくなった」
 褒姒はついぞ笑わなかった。幽王はあの手この手で彼女を笑わせようとした。それでも褒姒は笑わない。 あるとき、幽王は敵襲の狼煙(のろし)をあげた。 諸侯はみな駆けつけた。到着してみると敵はいなかった。褒姒は初めて笑った。 幽王は喜んだ。その後、何度も敵襲の烽火を上げた。諸侯は信用しなくなり、駆けつける者は減っていった。
 幽王は虢石父(かくせきほ)を 卿(けい。大臣) に任命して政務を行わせた。 国中の人々 はみな彼を恨んだ。 虢石父は、へつらい がうまく利欲を貪る小人だったが、王は彼を用いた。
 申后の父である申侯は、自分の娘と孫を廃位されて激怒した。 申侯は反乱を起こして、曙(そうこう)と、西方の異民族である 犬戎(けんじゅう) とともに幽王を攻めた。 幽王は狼煙をあげて諸侯の兵を招集したが、 誰も駆けつけなかった 。 反乱軍は驪山(りざん) のふもとで 幽王を殺害 し、褒姒を捕虜とし、周の財宝を ことごとく奪って 去った。
 こうして諸侯は申侯のもとに集まり、幽王の元太子であった宜臼を天子として擁立した。 これが平王(へいおう 第13代王 生年不詳。在位前771 - 前720)で、彼が周の祭祀を継承した。


○その他
[一番上]


韓非子(かんぴし) 故事成語の宝庫は中国のマキャヴェリ
YouTube https://www.youtube.com/playlist?list=PL6QLFvIY3e-meCF7CKFxFEY75I5FBZCbN

○ポイント、キーワード

○辞書的な説明

○略年表

○その他
[一番上]


関羽(かんう) 道教の神として祭られる三国志の義の武将
YouTube https://www.youtube.com/playlist?list=PL6QLFvIY3e-nujBf8dJGqem7ysf7MwRGk

○ポイント、キーワード
○辞書的な説明
○略年表 ○その他

正史『三国志』巻36・関張馬黄趙伝
参考 https://zh.wikisource.org/wiki/三國志/卷36

 関羽、字(あざな)は雲長、本字は長生。河東の解(かい)の人である。 かつて罪を得て亡命し、涿郡(たくぐん)に奔った。 先主(=劉備)は郷里で兵を募って徒衆を集め、関羽と張飛は彼のために侮りを防いだ(=共に戦った)。 先主が平原の相(長官)となると、関羽と張飛を別部司馬に任じ、それぞれ部隊を分けて統率させた。 先主はこの二人と寝るときは同じ床に寝、情誼は兄弟のようであった。 また、人の多い座席にあっても、関羽と張飛は一日中立って侍り、常に先主に従って行動し、艱難や危険を避けることがなかった。
 『蜀記』に曰く。 曹公(曹操)が劉備とともに呂布を下邳(かひ)に囲んだとき、関羽が曹公に申し出た。 「呂布は秦宜祿(しんぎろく)を遣わして救援を求めにやっています。私はその妻を娶りたい(妻にしたい)と思います」と。 曹公はこれを許した。 しかし、いざ呂布を攻め滅ぼす段になって、関羽はたびたび曹公にその件を申し出た。 曹公は「その女は容姿が並々ならぬのではないか」と疑い、先に人を遣わして見に行かせたところ、果たして美しい女であったため、自らのもとに留め置いた。 このことにより、関羽の心は安らかでなかった。 この話は『魏氏春秋』の記述とも異なるところがない。
 先主(劉備)が徐州刺史の車胄(しゃちゅう)を襲って殺したとき、関羽に下邳(かひ)の城を守らせ、太守の職務を代行させた。 (『魏書』には「関羽に徐州を統べさせた」とある。) その間、劉備自身は小沛(しょうはい)へ帰った。
 建安5年(200年)、曹公(曹操)が東征を行ったとき、先主(劉備)は袁紹のもとへ逃れた。 曹公は関羽を捕らえて連れ帰り、偏将軍に任じて、非常に厚く礼遇した。 そのころ、袁紹は大将軍・顔良を遣わし、東郡太守・劉延を白馬に攻めさせた。 曹公は張遼と関羽を先鋒として差し向けた。 関羽は遠くに顔良の旗印を見つけると、馬にむち打って敵陣の真っ只中に突入し、一撃で顔良を突き刺して首を斬り取り、引き返した。 袁紹の諸将のうち、これに敵する者はなく、こうして白馬の包囲は解かれた。 曹公はすぐに奏上して、関羽を漢寿亭侯(かんじゅていこう)に封じた。 もとより、曹公は関羽の人物を壮烈と見ていたが、その心に長く自分のもとに留まる意思がないことを察していた。 そこで張遼に言った。 「お前、情をもって試みに尋ねてみよ。」 やがて張遼がそのことを関羽に尋ねると、関羽は嘆息して言った。 「私は曹公が自分を厚く遇してくださっていることを、よくわかっている。 だが、私は劉将軍(劉備)から深い恩義を受け、共に死ぬと誓った身だ。これを裏切ることはできない。 私はついには留まらぬ。ただ、曹公に報いるために必ず功を立ててから去るつもりだ。」 張遼はこの言葉を曹公に伝え、曹公はその義を重んじた。
『傅子(ふし)』に曰く。 張遼はこのこと(=関羽がいずれ劉備のもとへ戻ると語ったこと)を太祖(=曹操)に報告しようと思ったが、 太祖が関羽を殺してしまうのではないかと恐れ、ためらった。 しかし、「これを報告しないのは、君に仕える道に反する」と考え、嘆いて言った。 「曹公は君父(君主)であり、関羽はただの兄弟にすぎない。」 そこでついに太祖に報告した。 太祖はこれを聞いて言った。 「主君に仕えながら、その本(=かつての恩義)を忘れぬとは、天下の義士である。 では、いつごろ去ると見込むか?」 張遼が答えた。 「関羽は公(あなた)から受けた恩に報いるため、必ず功績を立ててから去るでしょう。」
関羽が顔良を討ち取ったとき、曹公(曹操)は「関羽は必ず去る」と悟り、 さらに重ねて褒美を与えた。 しかし関羽は、賜ったものをすべて封じて残し、 辞別の手紙を捧げてから、袁紹の軍中にいた先主(劉備)のもとへ奔った。 家臣たちは追撃しようとしたが、曹公は言った。 「彼(関羽)はそれぞれ自分の主君のために行動しているのだ。追うな。」
臣・松之は思うに、 曹公(曹操)は関羽が自分のもとに留まらぬことを知りながら、その志を嘉(よみ)し、 去るのを追わせず、その義を成させた。 これ、もし王者・覇者の度量をもたぬ者であれば、 どうしてこのようなことができようか。 まことに、これは曹公の美徳・名誉というべきことである。
関羽は先主(劉備)に従って劉表のもとへ赴いた。 やがて劉表が死に、曹公(曹操)が荊州を平定すると、 先主は樊(はん)から南へ江を渡ろうとした。 その際、関羽を別に遣わし、数百隻の船を率いて江陵で合流するよう命じた。 曹公はこれを追って当陽の長阪にまで至ったが、 先主は進路を変えて漢津(かんしん)へ向かい、ちょうど関羽の船団と行き会い、 ともに夏口へと至った。
 『蜀記』に曰く。 はじめ、劉備が許(きょ)にいたころ、曹公(曹操)とともに狩りをした。 狩りの最中、人々が散じたとき、関羽は劉備に「いま曹公を殺すべし」と勧めたが、 劉備はこれに従わなかった。 のちに夏口にいたとき、江の中洲を漂う身となり、関羽は怒って言った。 「あの日、狩りのときに私の言葉に従っていれば、今日のこの苦境はなかったものを!」 劉備は答えた。 「そのときは国家のために、あえて曹公を惜しんだのだ。 もし天道が正しきを助けるならば、これが福とならぬとは限らぬではないか。」
 臣・松之はこれを評して言う。 劉備はのちに董承らと謀を結んだが、事が漏れてうまくいかなかった。 もし本当に「国家のために曹公を惜しんだ」のであれば、 どうして後にそのような謀反を企てたのか。 もし関羽が実際にこのような勧めをしたのに、劉備が従わなかったのだとすれば、 それは曹公の腹心や親族が多く、兵も大勢で、 あらかじめ入念な計画なしには成功しないと判断したからであり、 殺すことはできても、自分の身は助からぬ。 ゆえに策略としてやめたのであって、「惜しんだ」わけではない。 すでに過ぎたことなので、のちに体裁を繕って「高尚な言葉」にしたにすぎぬ。
孫権は兵を遣わして先主(劉備)を助け、曹公(曹操)を防がせた。 曹公は軍を引いて退却した。 先主は江南の諸郡を収め、勲功ある者たちを封じて任命した。 関羽を襄陽太守・蕩寇将軍(とうこうしょうぐん)に任じ、江の北に駐屯させた。 のちに先主が西方の益州を平定すると、関羽を任じて荊州の政務を総督させた。 そのころ、関羽は馬超が降ってきた(劉備に帰順した)と聞いた。 馬超とはもともと旧知ではなかったため、関羽は諸葛亮に手紙を送り、 「馬超の人物は、誰に比べられるだろうか」と問うた。 諸葛亮は関羽の自尊心を察し、彼の面子を立てるためにこう答えた。 「孟起(もうき=馬超)は文武の才を兼ね備え、雄烈さは人に勝り、一世の英傑である。 黥布・彭越の類であり、益徳(張飛)と並んで先を競うほどだ。 だが、髯(ぜん=関羽)のように絶倫にして群を抜く存在には、なお及ばぬ。」 関羽は立派な鬚髯を誇っていたので、諸葛亮はあえて彼を「髯」と呼んだのである。 関羽はこの手紙を読んで大いに喜び、賓客たちに見せびらかした。
 関羽はかつて流れ矢に当たり、左腕を貫かれたことがあった。 その後、傷は癒えたものの、陰雨のたびに骨が常に痛んだ。 医者は言った。 「矢の鏃(やじり)には毒があり、その毒は骨に入っております。 腕を切り開いて傷を作り、骨を削って毒を取り去ってはじめて、この苦しみはなくなります。」 関羽は腕を差し出し、医者に切開させた。 ちょうどその時、関羽は諸将を呼んで食事を共にしていた。 腕から血が流れ出して皿や器にあふれる中、関羽は肉を切って酒をつぎ、笑いながら平然と食事を続けた。
 建安24年(219年)、先主(劉備)が漢中王に即位すると、関羽を前将軍に任じ、節鉞(軍令を示す権威ある印)を仮に授けた。 同年、関羽は軍を率いて樊(はん)で曹仁を攻めた。 曹公(曹操)は于禁を派遣して曹仁を助けさせた。 秋、豪雨が続き、漢水が氾濫したため、于禁が指揮する七軍はすべて壊滅した。 于禁は関羽に降伏し、関羽はさらに将軍・龐徳を斬った。 梁・郟・陸渾の群盗の一部は遠方から関羽の印綬を受け、彼の傘下となり、 関羽の威名は華夏に震え渡った。 曹公は都を許(きょ)に移そうと議したが、 司馬宣王・蒋済らは「関羽が勢いに乗れば、孫権は必ず黙っていない。 人を遣わして権を説き、後を抑えさせ、許の江南を割いて権に封じれば、樊の包囲は自然に解ける」と進言した。 曹公はこれに従った。 その以前、孫権は使者を遣わして自分の子に関羽の娘を求めたが、 関羽は使者を罵り辱めて婚姻を許さなかった。 これに孫権は大いに怒った。
 『典略』に曰く。 関羽が樊(はん)を包囲しているとき、孫権は使者を遣わして助力を求めた。 しかし、命じて「急いで進めるな」とさせ、さらに主簿を先にして関羽に命を伝えさせた。 関羽はその遅延に怒り、また自ら于禁らを打ち破ったことから、こう罵った。 「鰂子(=孫権)よ、よくもそんなことを! もし樊城が陥落しても、我が汝を滅ぼせぬと思うか!」 このことを孫権が聞き、関羽が自分を軽んじていると知ると、 わざと手紙を送って謝罪し、自ら赴くことを許すと伝えた。 臣・松之はこれを評して言う。 荊州と呉は表向きは友好であったが、内心では互いに猜疑と警戒を抱いていた。 ゆえに孫権が関羽を襲おうとする際には、密かに兵を動かしたのである。 『呂蒙伝』には「伏兵を密かに樹林の中に潜ませ、白衣の者に櫓を揺らさせ、商人の服装をさせた」とある。 これに照らすと、関羽は孫権に助けを求めなかったが、 もし孫権が本当に援助するつもりであったなら、 なぜその兵の行動や姿を隠す必要があったのか、ということになる。
また、南郡太守・麋芳(びほう)は江陵に、将軍・士仁(しじん)は公安に駐屯しており、もともと関羽を軽んじることを嫌っていた。 関羽が軍を出すと、麋芳・士仁は軍資を供給したものの、互いに助け合おうとはせず、十分な援護はしなかった。 関羽は「必ずこれを咎める」と言い、麋芳・士仁は皆、恐れ不安に思った。 こうして孫権は陰に麋芳・士仁を誘い、二人は人を遣わして孫権を迎え入れた。 その間、曹公(曹操)は徐晃を遣わして曹仁を救援させた。
 『蜀記』に曰く。 関羽と徐晃(じょこう)は以前から互いに親しく、宿縁のある仲であった。 遠くから互いに言葉を交わしても、もっぱら平生のことを話すだけで、軍事については及ばなかった。 しばらくすると、徐晃は馬を下りて命令を告げた。 「関羽の首を取れば、賞金千斤(せんきん)を与える。」 関羽は驚き、恐れて徐晃に言った。 「大兄、これは何という言葉か!」 徐晃は答えた。 「これは国家の事にすぎぬ。」
関羽は敵を打ち破ることができず、軍を引いて退いた。 孫権はすでに江陵を占領し、関羽の兵士やその妻子をことごとく捕虜としたため、関羽の軍は散り散りになった。 その後、孫権は将兵を遣って関羽を迎え撃ち、関羽とその子・平を臨沮(りんそ)で斬った。
 『蜀記』に曰く。孫権は将軍を遣わして関羽を討ち取り、関羽とその子・平を捕らえた。 孫権は関羽を生かして劉備や曹操に対抗させようと考えたが、左右の者は言った。 「狼の子は養うべきでない。後に必ず害をなす。もし曹公がすぐにこれを除かねば、自ら大患を招くことになる。それゆえ都を移そうと議したのだ。今、生かすわけにはいかぬ。」 そこで関羽を斬った。 臣・松之の考えによれば、『呉書』には、 孫権が将軍・潘璋を遣わして関羽の逃路を遮断させ、関羽が到達したところで斬ったとある。 また、臨沮は江陵から二三百里離れており、どうして関羽の生死を論じる余地などあったであろうか。 また『蜀記』に「権は関羽を生かして劉・曹に対抗させようとした」とあるが、これは正しくない。智者の口を借りた誇張である。 『呉歴』には、孫権は関羽の首を曹公(曹操)に送り、諸侯の礼をもってその屍骸を葬った、と記されている。
関羽に追贈の諡号を与え、「壯繆侯」とした。
『蜀記』に曰く。 関羽が初めて軍を率いて樊(はん)を包囲したとき、夢に猪がその足をかじるのを見た。 関羽は子・平に語って言った。 「私は今年、衰えるだろう。しかし、帰ることはできぬであろう。」 『江表伝』には、関羽は『左氏伝』を好み、諷誦(暗誦して意味を解説すること)もすべてすらすらと口にしていた、とある。
関羽の子・興が嗣いだ。 興の字は安国。幼少のころから才知が優れており、丞相・諸葛亮も深くその才を評価した。 弱冠(20歳前後)で侍中・中監軍に任じられ、数年後に卒した。 その子・統が嗣ぎ、公主に尚(めと)られ、官は虎賁中郎将に至った。 統は卒して子がなかったため、興の庶子・彝が封を継いだ。
 『蜀記』に曰く。 龐徳の子・会は、鍾離・ケ道らに従って蜀を討った。 蜀が破れると、関氏の家はことごとく滅ぼされた。

[一番上]


楊貴妃(ようきひ) 史上まれな美女の知られざる真実とは
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○ポイント、キーワード

○辞書的な説明

○略年表

同時代人


○加藤徹『後宮 殷から唐・五代十国まで』角川新書より要約

 『長恨歌』は、楊貴妃が死んで五十年後の八〇六年、当時、数え三十五歳だった白楽天が詠んだ「七言古詩」である。毎行七字、全部で百二十行に及ぶ長編の叙事詩だ。最初の六行は以下のとおり。

   漢皇重色思傾国  漢皇、色を重んじて傾国を思い
   御宇多年求不得  御宇 多年 求むれども得ず
   楊家有女初長成  楊家に女、有り 初めて長成す
   養在深閨人未識  養われて深閨に在り 人 未だ識らず
   天生麗質難自棄  天生の麗質 自ら棄て難く
   一朝選在君王側  一朝 選ばれて君王の側に在り

 白楽天の『長恨歌』は最初から史実を曲げた脚色をしている。 まず冒頭で「これは唐の時代の話ではありません。今から九百年前の、前漢の話です」とほのめかす。「傾国」という語は、前漢の武帝(前一五六年―前八七年)が李夫人を寵愛した故事をふまえる。
 史実では、楊貴妃こと楊玉環は七一九年、蜀州(現在の四川省成都市の近く)の司戸・楊玄琰の四女として生まれた。 父親は司戸参軍だった。今風に言うと、地方都市の軍警察で戸籍を管理する役人だった。楊家は名門でも有名人でもなく、ありふれた家庭だった。 楊玉環は成長して美少女となり、七三五年、数え十七歳で、玄宗皇帝の第十八子・寿王こと李瑁の妃となった。 李瑁の生母は、玄宗の寵愛を独占した武恵妃である。
 武恵妃は玄宗の息子や娘を次々と産み、皇后と同等の待遇を受けた。玄宗は、愛する武恵妃を皇后にしてやりたかった。が、問題があった。 武恵妃を皇后に格上げしたら「武后」になってしまう。則天武后が唐王朝を簒奪した記憶は、まだ生々しかった。武恵妃は、則天武后の武氏の縁戚でもあった。 彼女は七三八年に病死。最愛の武恵妃を失った玄宗は、深く悲しんだ。
 武恵妃をしのんで悲嘆にくれる玄宗に対して、高力士は、絶世の美女の存在を伝えた。寿王こと李瑁の妃、楊玉環である。 宗は息子の嫁の美貌を見て驚喜し、内縁関係を結んだ。 その後、楊玉環は一時的に「女冠」すなわち女性の道士になり、「太真」という道号を名乗った。玄宗が息子の嫁を略奪した形をごまかすため、彼女が道教の修行のため自発的に家を出た、という体裁を整えたのである。かつて高宗が、亡き父の側室だった武則天を自分の後宮に入れる前にワンクッション置いたのと、同様の措置だった。
 七四〇年、二十二歳の楊玉環が初めて玄宗の寵愛を受けたときの様子を、『長恨歌』は次のように詠んでいる。

   春寒賜浴華清池  春寒くして浴を賜う 華清の池
   温泉水滑洗凝脂  温泉 水滑らかにして凝脂を洗う
   侍児扶起嬌無力  侍児 扶け起こすに 嬌として力無し
   始是新承恩沢時  始めて是れ 新たに恩沢を承くるの時

 江戸時代の古川柳にいわく

   楊貴妃を 湯女に仕立てる 驪山宮 (九・14)
   湯あがりは 玄宗以来 賞美する (柳籠裏三・21)
   玄宗はお無垢 紂王はきゃんが好き (八・14)
 七四五年、楊玉環は貴妃に冊立された。彼女は寵愛の度合いはナンバー1だったが、地位も皇后に次ぐナンバー2となった。

   姉妹弟兄皆列土  姉妹弟兄 皆な土に列す
   可憐光彩生門戸  憐む可し 光彩 門戸に生ず
   遂令天下父母心  遂に天下の父母の心をして
   不重生男重生女  男を生むを重んぜず 女を生むを重んぜしむ

 楊家の出世頭は、楊貴妃のまたいとこの楊国忠である。楊国忠は無学で、酒やばくちを好み、女癖も悪かった。若いころは、ごろつき同然だった。が、頭の回転は速く、口先は達者だった。玄宗はなぜか楊国忠を重用した。「国忠」という立派な名前は、七五〇年に玄宗みずからが彼に与えたものである。
 楊貴妃じしんは、呂后や則天武后などと違い、政治的野心をもたなかった。彼女は玄宗におねだりをしたが、自分の好物である新鮮な茘枝(ライチー)を南から早馬で長安まで送らせる、など、ぜいたくをおねだりしただけだった。

   飛燕すうわりに 楊貴妃はむっちり (柳筥一・8)
   美しい 顔で楊貴妃 豚を食い (四・23、拾遺四・18)
   美しい 顔で茘枝を やたら食い (十二・31)
   楊貴妃は ろくな一家は 持たぬなり(十八・23)
   一女 出世して九族 浮かむなり(十四・20)

 楊貴妃は玄宗の寵愛を一身に受けたが、多少の波風はあった。正史『旧唐書』によると、七四六年と七五〇年の二回にわたり、楊貴妃が一時的に宮中から追い出され、楊家の屋敷にさがったことがある。二回とも、玄宗はすぐに楊貴妃を呼び戻して仲直りしたが、喧嘩の原因は謎である。
 崑曲や京劇の名作『長生殿』は、喧嘩した玄宗と楊貴妃が仲直りする場面が見せ場となっている。七月七日、牽牛と織女が年に一度いっしょになるというロマンチックな説話をもつ七夕の夜。宮廷の奥深くで、高力士のお膳立てで仲直りした玄宗と楊貴妃は、ふたりだけの愛の秘密の合い言葉を決める。

   在天願作比翼鳥  天にありては 願わくば 比翼の鳥となり
   在地願為連理枝  地にありては 願わくば 連理の枝とならん
 今の日本語でも故事成語「比翼連理」として使われる。古川柳にいわく。


   七月の 八日 玄宗 頭痛する (十二・37)
   八日には 楊国忠へ 加増なり (十三・36)
 玄宗の後宮の風紀は乱れていた。後に反乱を起こすことになる安禄山(七〇三年−七五七年)は、玄宗の許可を得て自由に後宮に出入りし、心ある人々の顰蹙を買った。 玄宗は、安禄山と楊貴妃の従兄らに義兄弟のちぎりを結ばせた。安禄山はみずから願い出て、十六歳も年下の楊貴妃の養子になった。
 北宋時代に編纂された歴史書『資治通鑑』巻二百十六には、後宮での「赤ちゃんプレイ」の乱痴気騒ぎの記事を載せる。 安禄山の誕生日、玄宗と楊貴妃は、祝いの品物を贈った。その三日後、安禄山は禁中に召された。昔の中国には、新生児の誕生三日目にお祝いをする「三朝礼」という習俗があった。 楊貴妃は高価な錦の布のおむつを安禄山にはかせたうえ、彼をカラフルな輿に乗せて、宮女たちにかつがせた。 後宮からの笑い声を聞いた玄宗は、左右の者に、あれは何か、と聞いた。左右の者は「貴妃さまは、誕生三日目の禄ちゃんを沐浴なさっているのです」 と答えた。玄宗はみずから後宮に行き、その様子を見て、喜んだ。
 右の「赤ちゃんプレイ事件」は、子供むけの漢文学習書『十八史略』にも収録されており、日本でも有名である。


   「お母さん」などと禄山 貴妃に言い (十五・13)
   国忠を「伯父さん」と禄山は言い (十九・17)
 七五三年、宗室のやり手政治家の李林甫が病死すると、楊貴妃のいとこの楊国忠が宰相となり、権力を握った。
 老齢の玄宗は政治に倦み、みずから歌舞の曲を作曲して「梨園」の芸人たちに演じさせた。 玄宗の代表曲は「霓裳羽衣曲」(げいしょうういきょく)で、楊貴妃に歌い踊らせて、楽しんだ。


   驪宮高処入青雲  驪宮の高き処 青雲に入る
   仙楽風飄処処聞  仙楽 風に飄りて処処に聞こゆ
   緩歌慢舞凝糸竹  緩歌 慢舞 糸竹を凝らし
   尽日君王看不足  尽日 君王 看れども足らず
   漁陽?鼓動地来  漁陽の?鼓 地を動かして来たり
   驚破霓裳羽衣曲  驚破す 霓裳羽衣の曲
 七五五年、安禄山は、唐の政治を乱している楊国忠を除くことを大義名分として挙兵。反乱軍は挙兵からわずか一ヶ月で洛陽を陥落させた。 玄宗は六月、長安を脱出し、近衛軍とともに、西の蜀(現在の四川省)へ蒙塵した。 一行が街道を進み、馬嵬の駅にさしかかったとき、近衛軍の将兵は反乱を起こし、楊国忠をその息子たちともども殺した。 玄宗はやむをえず、楊貴妃にも死を賜った。彼女は、仏をまつる部屋で縊死した。数え三十八歳。遺体は道ばたに埋められた。

 楊貴妃は死後も、数々の漢詩に詠まれた。
 白居易の「長恨歌」では、玄宗は長安の宮殿に戻ったあとも楊貴妃をしのんで悲嘆にくれた。 それに同情した道士が楊貴妃の霊魂の行方を探し求め、天上の碧落、地の底の黄泉までくまなく捜索した末、 東海の仙山で楊貴妃を発見した。彼女は涙ながらに「これを陛下にお渡しください」と述べ、思い出の品と、愛の秘密の合言葉「在天願作比翼鳥、在地願為連理枝」を言付けたという。 これはフィクションだが、これをもとに「楊貴妃は実は日本に亡命した」という伝説が生まれ、さらに「楊貴妃の正体は実は熱田神宮の女神だった」という説話まで作られた。
 
   惨い死に様 楊貴妃と 高尾なり (二十二・15)
   唐の人 魂を日本で 見つけ出し (拾遺四・31)
   吉原に 居るのに碧落 まで尋ね (拾遺四・30)
   あっちからは玉藻 こっちからは貴妃 (二十・8)
   「日本には構いなさるな」と貴妃は言い (二十・25)
   三千の 一は日本の 回し者 (柳筥二・24)
 山口県長門市の二尊院には「楊貴妃の墓」が現存する。 今も熱田神宮には、目立たぬところにひっそりと「楊貴妃の墓」と称される場所がある。


付録 正史『新唐書』巻76・列伝第一・后妃上より
cf.https://zh.wikisource.org/wiki/新唐書/卷076

 玄宗の貴妃楊氏は、隋の梁郡通守・汪氏の四世の孫にあたる。家は蒲州に移り住み、永楽の人となった。幼いころに孤児となり、叔父の家で育てられた。はじめ寿王(玄宗の息子)の妃となった。
 開元24年(736)、武恵妃が亡くなり、後宮に帝の意にかなう者がいなくなった。ある者が「寿王妃は天性の美貌を備えており、後宮にふさわしい」と言上したので、宮中に召された。玄宗は彼女を一目見て驚き、自ら望んで後宮に入れた者として女官の籍を与え、「太真」と号した。そして寿王には改めて韋昭訓の娘を妻に迎えさせ、太真は玄宗の寵愛を得た。歌舞に優れ、音律にも通じ、また聡明で気の利く才覚があり、帝の心を即座に察した。玄宗は大いに喜び、ついに彼女のもとばかりで宴を催した。宮中では「娘子」と呼ばれ、その礼遇は皇后に並んだ。
 天宝初年(742)、貴妃に冊立された。父玄琰には太尉・斉国公を追贈し、叔父玄珪は光禄卿に、宗族の兄銛は鴻臚卿に、リは侍御史となり、太華公主を娶らせた。 太華公主は武恵妃の娘で、最も寵愛されていた。また国忠(楊サ)も次第に顕要となった。 三人の姉妹はいずれも美しく、玄宗は彼女たちを「姨(おば)」と呼び、韓国夫人・虢国夫人・秦国夫人に封じた。三夫人は宮中を自由に出入りし、その恩寵と権勢は天下を震わせた。 命婦が列に並ぶと、盈公主らは席を譲って位に就こうともしなかった。台省や州県の者たちは請託に奔走し、詔敕以上の勢いであった。 四方からの献物は絶えず、その門前は市のように賑わった。建平・信成の二公主は楊氏一族と合わず、ついに与えられた物を取り上げられ、駙馬都尉独孤明は官を失った。
 ある日、貴妃が叱責されて銛(楊銛)の邸に返された時、玄宗は狭い部屋に一人で座り、食事すら取らず、左右を鞭打って怒りを示した。高力士は帝の真意を確かめようとして、「殿中の供帳、司農の酒と食料百余車を貴妃のもとへ送りましょう」と申し上げた。玄宗はすぐに御膳を分けて与えたので、力士は帝の気持ちを悟った。その夜、貴妃を召し戻すよう請い、安興坊門を開いて馬を走らせた。貴妃が玄宗に会って地に伏して謝罪すると、玄宗の機嫌は和らぎ、厚く慰めた。翌日、姨たちに飲食を賜い、楽を奏させ、玄宗は左右に惜しみなく金品を与えた。こうして一族はいよいよ寵を受け、姨たちには毎年百万銭が化粧の費用として与えられた。楊家の五つの邸宅は柱国の門に列戟を立て、皇宮に並ぶ壮麗さで、一つの堂の費用が千万円にも及んだ。他家の邸が自邸に勝ると聞けば、すぐ壊して作り直し、奢侈を競った。玄宗が得た珍宝や献物も分け与えられ、使者が列をなしたので、五家はまるで一つの家のようであった。
 貴妃が遊幸に随う時は、馬に乗れば高力士が手綱を取った。錦繍官や金玉細工の職人は千人ほどおり、注文に応じて奇服秘宝を作り、まるで神が変化させるようであった。 四方が競って珍品を献上し、耳目を驚かせた。 とくに嶺南節度使張九章と広陵長史王翼の献物が優れていたので、張九章は銀青階を加えられ、王翼は戸部侍郎に抜擢され、天下がこれに倣った。 貴妃はライチを好み、生のまま京師に届けさせたが、特別の駅伝を置き、数千里を走らせても味が変わらず届いた。
 天宝9載(750)、貴妃は再び叱責されて外の邸に追われた。国忠は吉温と相談した。吉温は玄宗に会い、「婦人が過ちを犯せば死罪です。 なのに宮中での一席を惜しんで罪を鈇鑕の地へ広げ、外で辱められることになるのは、何ともお気の毒です」と言った。 玄宗は心動かされ、食を断ち、中人の張韜光に賜死の詔を持たせた。貴妃は韜光を通して帝に言った。「妾の罪は万死にも当たります。しかし肌も髪もすべて陛下の賜ったもの。今死ねば報いる道がありません」。そして刀で髪を一束切り、「これを別れのしるしに」と差し出した。玄宗はこれを見て驚き涙し、急ぎ召し入れ、以前のように遇した。その後秦国夫人や国忠の邸を訪ね、莫大な賜物を与えた。
 国忠が剣南の長官を遠隔で兼ねていたころ、毎年十月、玄宗は華清宮に行幸した。 楊氏の五家の車騎がすべて従い、それぞれが隊を作り、隊ごとに揃いの装いで、五隊が合わさると万花のように輝き、谷は錦繍のようであった。 国忠は剣南の旗節で先導した。道には装身具が落ち散り、香気は数十里にまで漂った。
 天宝10載(751)正月望夜、貴妃の家の僮と広寧公主の騎馬が門前で争い、鞭棒で騒いで、公主が落馬し、やっと逃れた。 公主は玄宗に泣いて訴え、楊氏の奴を殺し、駙馬都尉程昌裔を左遷した。国忠が政を助けるころ、子の昢は万春公主を、暄は延和郡主を娶り、弟の鑑は承栄郡主を娶った。 玄琰の家廟を建てる詔が出され、玄宗自ら碑文を書いた。銛と秦国夫人は早く亡くなり、韓国・虢国と国忠が最も長く栄えた。 虢国夫人はもとより国忠と乱れていると知られていたが、恥じなかった。参内の際は二人並んで進み、侍女百余騎を従え、街は華やかな化粧で満ちた。幃帳を使わず、人は彼女を「雄狐」と呼んだ。王族や貴族の婚礼は必ず韓国・虢国に取り次ぎを頼み、成功すれば金数百千を謝した。
 はじめ安禄山は辺疆の功により玄宗に寵され、貴妃の三姨とも兄弟の契りを結ばされ、安禄山の母は貴妃を母のように扱った。来朝すれば宴を開いて歓を結んだ。安禄山が反乱を起こすと、国忠討伐を名目とし、貴妃と三姨の罪も挙げた。玄宗は太子に軍を統率させ、自らは禅位しようとしたので、楊氏一族は大いに恐れ、廷で泣いた。国忠が貴妃に告げると、貴妃は土を口に含んで死を乞い、玄宗の意は気落ちして、この策はやめた。
 西へ逃れて馬嵬に至った時、陳玄禮らは天下のため国忠を誅し、既に殺したが、軍はなお解散しなかった。玄宗が高力士に理由を問わせると、「禍の根がまだ残っております!」と答えた。玄宗はやむなく貴妃と別れ、彼女は引かれて去り、路傍の祠で縊れた。紫の茵で包まれ、道の側に葬られた。三十八歳であった。
 玄宗が蜀から戻る途中、彼女の葬られた場所を通り、祭を行わせ、改葬を命じた。 礼部侍郎李揆は「龍武軍の将士は国忠が乱を招いたために殺しました。今貴妃を改葬すれば、兵が疑念を持ちましょう」と言ったので、玄宗はやめた。 密かに中使を遣わし、棺槨を備えて別の場所に葬らせた。墓を開くと香嚢がそのまま残っており、中使が献じた。玄宗はこれを見て涙し、別殿に貴妃の像を作らせ、朝夕に訪れては必ず嗚咽した。
 馬嵬の変の時、虢国夫人と国忠の妻裴柔らは陳倉に逃げたが、県令が役人を率いて追跡し、賊と勘違いされ、馬を捨てて林に走った。虢国夫人はまず二人の子を殺し、裴柔が「私も殺してください」と言い、娘とともに刺し殺した。そして夫人は自ら喉を切ったが死にきれず、役人が牢に運んだ。役人が「国家の者か、賊か」と問うと、「どちらでもある」と答え、ついに死に、陳倉東郭の外に葬られた。
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マテオ・リッチ 西洋から中国に渡来したイタリア人宣教師
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梁啓超(りょうけいちょう) 日本とも縁が深い近代言論人
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【参考】 今まで取り上げた人物
★講座の実施日順
  1. 秦の始皇帝
  2. 前漢の高祖・劉邦
  3. 宋の太祖・趙匡胤
  4. 清末の西太后
  5. 中華人民共和国の毛沢東
  6. 共通祖先の作り方 黄帝
  7. 東アジアに残した影響 漢の武帝
  8. インフラ化した姓 後漢の光武帝
  9. 汚れた英雄のクリーニング 唐の太宗
  10. 史上最強の引き締めの結末 明の洪武帝
  11. 打ち破れなかった2つのジンクス 蒋介石
  12. パワーゲーマーの栄光と転落 唐の玄宗
  13. 織田信長もあこがれた古代の聖王 周の文王
  14. 「19浪」の苦節をのりこえた覇者 晋の文公
  15. 早すぎた世界帝国 元のクビライ
  16. 中国統治の要道を示した大帝 康煕帝
  17. 21世紀の中国をデザイン ケ小平
  18. 魏の曹操 漢・侠・士の男の人間関係
  19. 殷の紂王 酒池肉林の伝説の虚と実
  20. 斉の桓公 中国史上最初の覇者
  21. 唐の武則天 中国的「藩閥」政治の秘密
  22. 清の乾隆帝 世界の富の三割を握った帝王
  23. 周恩来 失脚知らずの不倒翁
  24. 古代の禹王 中華文明の原体験
  25. 蜀漢の諸葛孔明 士大夫の典範
  26. 宋の徽宗 道楽をきわめた道君皇帝
  27. 明の永楽帝 世界制覇の見果てぬ夢
  28. 清の李鴻章 老大国をささえた大男
  29. 臥薪嘗胆の復讐王・勾践
  30. 始皇帝をつくった男・呂不韋
  31. 劉邦をささえた宰相・蕭何
  32. チンギス・カンの側近・耶律楚材
  33. 大元帥になった国際人・孫文
  34. 清と満洲国の末代皇帝・溥儀
  35. 太古の堯と舜 「昭和」の出典になった伝説の聖天子
  36. 蜀漢の劉備 「負け太り」で勝ち抜いた三国志の英雄
  37. 明の万暦帝 最後の漢民族系王朝の最後の繁栄
  38. 袁世凱 83日間で消えた「中華帝国」の「洪憲皇帝」
  39. 劉少奇 21世紀も終わらない毛沢東と劉少奇の闘争
  40. 楚の荘王――初めは飛ばず鳴かずだった覇者
  41. 斉の孟嘗君――鶏鳴狗盗の食客を活用した戦国の四君
  42. 呉の孫権――六朝時代を創始した三国志の皇帝
  43. 梁の武帝――ダルマにやりこめられた皇帝菩薩
  44. 南唐の李U――李白と並び称せられる詩人皇帝
  45. 台湾の鄭成功――大陸反攻をめざした日中混血の英雄
  46. 趙の藺相如――国を守った刎頸の交わり
  47. 前秦の苻堅――民族融和を信じた帝王の悲劇
  48. 北魏の馮太后――欲深き事実上の女帝
  49. 隋の煬帝――日没する処の天子の真実
  50. 明の劉瑾――帝位をねらった宦官
  51. 林彪――世界の中国観を変えた最期
  52. 項羽――四面楚歌の覇王
  53. 司馬仲達――三国志で最後に笑う者
  54. 太武帝――天下を半分統一した豪腕君主
  55. 憑道――五朝八姓十一君に仕えた不屈の政治家
  56. チンギス・カン――子孫は今も1600万人
  57. 宋美齢――英語とキリスト教と蒋介石
  58. 平原君―食客とともに乱世を戦う
  59. 陳平―漢帝国を作った汚い政治家
  60. 秦檜―最も憎まれた和平主義者
  61. 曽国藩―末世を支えた栄光なき英雄
  62. 汪兆銘―愛国者か売国奴か
  63. 江青―女優から毛沢東夫人へ
  64. 孔子 東洋の文明をデザインした万世の師表
  65. 司馬遷 司馬遼太郎が心の師とした歴史の父
  66. 玄奘 孫悟空の三蔵法師のモデルはタフガイ
  67. 李白 酒と旅を愛した詩人の謎に満ちた横顔
  68. 岳飛 中華愛国主義のシンボルとなった名将
  69. 魯迅 心の近代化をはかった中国の夏目漱石
  70. 扁鵲 超人的な医術を駆使した伝説の名医
  71. 孟子 仁義と王道政治を説いた戦国の亜聖
  72. 達磨 中国禅宗の祖師はインド人の仏教僧
  73. 白居易 清少納言と紫式部の推しの大詩人
  74. 鄭和 大航海時代を開いたムスリムの宦官
  75. 李小龍 哲学と映画に心血を注いだ武術家
  76. 夏姫 衰えぬ美貌で多くの君臣と関係した美魔女
  77. 孫子 戦争哲学を説いた春秋と戦国の二人の孫子
  78. 張騫 武帝の命令で西域を探検した前漢の冒険家
  79. 慧能 日本・中国・韓国・ベトナムの禅僧の源流
  80. 洪秀全 清末の太平天国の乱を起したカルト教祖
  81. 梅蘭芳 毛沢東が「私より有名だ」と言った名優
  82. 趙飛燕 ― 妹とともに皇帝を虜にした舞姫
  83. 阮籍 ― 三国志の乱世を生きた竹林の七賢
  84. 後周の世宗 ― 五代一の名君となった養子
  85. 魏忠賢 ― 明王朝を傾けた史上最悪の宦官
  86. ダライ・ラマ5世 ― チベット統一の英主
  87. 林則徐 ― アヘン戦争で善戦した欽差大臣
  88. 伍子胥――祖国を滅ぼし死屍に鞭打った復讐者
  89. 冒頓単于――東ユーラシアのもう一人の始皇帝
  90. 鳩摩羅什――日本人が読むお経を作った訳経僧
  91. 郭子儀――中国を滅亡から救った遅咲きの名将
  92. 蘇軾――書道と豚の角煮でも有名な文豪政治家
  93. 李徳全――平塚らいてうとも対談した女性大臣
  94. 屈 原 毛沢東が田中角栄に本を渡した意味
  95. 朱全忠 中世と貴族制を終わらせた反逆者
  96. 李清照 戦争に引き裂かれたおしどり夫婦
  97. マルコ・ポーロ 世界史を変えた大旅行家
  98. 王陽明 知識と実行は一体と説いた思想家
  99. 順治帝 中国本土を征服した皇帝の死の謎
  100. 老子 行方知れずになったタオイズムの開祖
  101. 張衡 天文学や地震も研究した古代の科学者
  102. 鑑真 日本に移住した史上初のビッグネーム
  103. 北宋の太宗 日本を羨んだ兄殺し疑惑の皇帝
  104. 朱舜水 水戸黄門が師とあおいだ亡命中国人
  105. 老舎 満州人の世界的作家と文革での謎の死
  106. 張良 劉邦の天下取りをささえた名軍師
  107. 竇皇后 前漢の基礎を確立した影の主役
  108. 杜甫 詩聖とたたえられた社会派の詩人
  109. 朱子 東アジアの官学を創出した儒学者
  110. 張献忠 無差別大量殺人の残虐な反逆者
  111. 張作霖 馬賊あがりの奉天派軍閥の総帥
  112. 晏嬰 孔子と同時代の名宰相だった小男 あんえい
  113. 呂后 三大悪女と称される史上初の皇后 りょこう
  114. 周瑜 孫権を補佐し曹操を破った貴公子 しゅうゆ
  115. 文天祥 歴史を変えた科挙の首席合格者 ぶんてんしょう
  116. 秋瑾 和服と日本刀を愛した女性革命家 しゅうきん
  117. 川島芳子 謀略と謎に満ちた男装の麗人 かわしまよしこ
  118. 蘇秦 舌先三寸だけで戦国を動かす遊説家 ?-前284年
  119. 荊軻 始皇帝暗殺未遂事件の伝説的な刺客 ?-前227年
  120. 阿倍仲麻呂 中国史の一部となった日本人 698−770
  121. 黄巣 唐に引導を渡した科挙落第者の怨念 835ごろ-884
  122. 呉三桂 明清交替戦争の決定票を握る将軍 1612−1678

★時代順
先秦時代(三皇五帝、夏・殷・周、春秋・戦国)
  1. 共通祖先の作り方 黄帝 前2717?-前2599?
  2. 太古の堯と舜 「昭和」の出典になった伝説の聖天子
     堯:前2356?-前2255? 舜:前2294?-前2184?
  3. 古代の禹王 中華文明の原体験 前2123?-前2025?
  4. 殷の紂王 酒池肉林の伝説の虚と実 前1105?-前1046?
  5. 織田信長もあこがれた古代の聖王 周の文王 前1152?-前1056?
  6. 褒姒(ほうじ) 微笑みで国を滅ぼしたファム・ファタール 前790年代?-前771?
  7. 斉の桓公 中国史上最初の覇者 前716-前643
  8. 「19浪」の苦節をのりこえた覇者 晋の文公 前697-前628
  9. 夏姫 衰えぬ美貌で多くの君臣と関係した美魔女 前630頃-?
  10. 楚の荘王――初めは飛ばず鳴かずだった覇者 前613-前591
  11. 孫子 戦争哲学を説いた春秋と戦国の二人の孫子
     孫武:前544?-前496? 孫臏:前380頃-前320頃
  12. 老子 行方知れずになったタオイズムの開祖 前571頃?-前471頃?
  13. 晏嬰 孔子と同時代の名宰相だった小男 前578-前500
  14. 伍子胥――祖国を滅ぼし死屍に鞭打った復讐者 前559?-前484
  15. 孔子 東洋の文明をデザインした万世の師表 前552/551-前479
  16. 扁鵲 超人的な医術を駆使した伝説の名医 前407頃?-前310頃?
  17. 臥薪嘗胆の復讐王・勾践 前520頃-前465頃
  18. 斉の孟嘗君――鶏鳴狗盗の食客を活用した戦国の四君 前391頃-前305頃
  19. 孟子 仁義と王道政治を説いた戦国の亜聖 前372-前289
  20. 蘇秦 舌先三寸だけで戦国を動かす遊説家 ?-前284年
  21. 屈原 毛沢東が田中角栄に本を渡した意味 前340頃-前278頃
  22. 平原君―食客とともに乱世を戦う 前308-前251
  23. 趙の藺相如――国を守った刎頸の交わり 前305頃-前240頃
秦・漢・三国(漢末)
  1. 秦の始皇帝 前259-前210
  2. 始皇帝をつくった男・呂不韋 前292-前235
  3. 韓非子(かんぴし) 故事成語の宝庫は中国のマキャヴェリ 前280頃-前233
  4. 荊軻 始皇帝暗殺未遂事件の伝説的な刺客 ?-前227年
  5. 劉邦をささえた宰相・蕭何 前257?-前193
  6. 前漢の高祖・劉邦 前256/247―前195
  7. 張良 劉邦の天下取りをささえた名軍師 前250頃-前186
  8. 陳平―漢帝国を作った汚い政治家 前250頃-前178
  9. 冒頓単于――東ユーラシアのもう一人の始皇帝 ?-前174
  10. 呂后 三大悪女と称される史上初の皇后 前241?-前180
  11. 項羽――四面楚歌の覇王 前232-前202
  12. 竇皇后 前漢の基礎を確立した影の主役 前205?前135
  13. 張騫 武帝の命令で西域を探検した前漢の冒険家 前164?-前114?
  14. 東アジアに残した影響 漢の武帝 前156-前87
  15. 司馬遷 司馬遼太郎が心の師とした歴史の父 司馬遷:前145?-前86?
  16. 趙飛燕 ― 妹とともに皇帝を虜にした舞姫 趙飛燕:前32?-前1?
  17. インフラ化した姓 後漢の光武帝 5-57
  18. 張衡 天文学や地震も研究した古代の科学者 78-139
  19. 魏の曹操 漢・侠・士の男の人間関係 155-220
  20. 関羽(かんう) 道教の神として祭られる三国志の義の武将 160頃-220
  21. 蜀漢の劉備 「負け太り」で勝ち抜いた三国志の英雄 161-223
  22. 周瑜 孫権を補佐し曹操を破った貴公子 175-210
  23. 司馬仲達――三国志で最後に笑う者 179-251
  24. 蜀漢の諸葛孔明 士大夫の典範 181-234
  25. 呉の孫権――六朝時代を創始した三国志の皇帝 182-252
魏晋南北朝(五胡十六国時代、六朝時代)
  1. 阮籍 ― 三国志の乱世を生きた竹林の七賢 210-263
  2. 鳩摩羅什――日本人が読むお経を作った訳経僧 344-413 (350-409)
  3. 前秦の苻堅――民族融和を信じた帝王の悲劇 338-385
  4. 北魏の太武帝――天下を半分統一した豪腕君主 408-452
  5. 北魏の馮太后――欲深き事実上の女帝 442-490
  6. 梁の武帝――ダルマにやりこめられた皇帝菩薩 464-549
  7. 達磨 中国禅宗の祖師はインド人の仏教僧 ?-532?
隋・唐から宋・元
  1. 隋の煬帝――日没する処の天子の真実 569-618
  2. 汚れた英雄のクリーニング 唐の太宗 598-649
  3. 玄奘 孫悟空の三蔵法師のモデルはタフガイ 602-664
  4. 唐の武則天 中国的「藩閥」政治の秘密 624?-705
  5. 慧能 日本・中国・韓国・ベトナムの禅僧の源流 638-713
  6. パワーゲーマーの栄光と転落 唐の玄宗 685-762
  7. 阿倍仲麻呂 中国史の一部となった日本人 698−770
  8. 鑑真 日本に移住した史上初のビッグネーム 688-763
  9. 郭子儀――中国を滅亡から救った遅咲きの名将 697-781
  10. 李白 酒と旅を愛した詩人の謎に満ちた横顔 701-762
  11. 杜甫 詩聖とたたえられた社会派の詩人 712-770
  12. 楊貴妃(ようきひ) 史上まれな美女の知られざる真実とは 719-756
  13. 白居易 清少納言と紫式部の推しの大詩人 772-846
  14. 黄巣 唐に引導を渡した科挙落第者の怨念 835頃-884
  15. 朱全忠 中世と貴族制を終わらせた反逆者 852-912
  16. 憑道――五朝八姓十一君に仕えた不屈の政治家 882−954
  17. 後周の世宗 ― 五代一の名君となった養子 921-959
  18. 南唐の李U――李白と並び称せられる詩人皇帝 937-978
  19. 宋の太祖・趙匡胤 927-976
  20. 北宋の太宗 日本を羨んだ兄殺し疑惑の皇帝 939-997
  21. 蘇軾――書道と豚の角煮でも有名な文豪政治家 1037-1101
  22. 宋の徽宗 道楽をきわめた道君皇帝 1082-1135
  23. 李清照 戦争に引き裂かれたおしどり夫婦 1084-1155
  24. 秦檜―最も憎まれた和平主義者 1090-1155
  25. 岳飛 中華愛国主義のシンボルとなった名将 1103-1142
  26. 朱子 東アジアの官学を創出した儒学者 1130-1200
  27. チンギス・カン――子孫は今も1600万人 1162-1227
  28. チンギス・カンの側近・耶律楚材 1190-1244
  29. 早すぎた世界帝国 元のクビライ 1215-1294
  30. 文天祥 歴史を変えた科挙の首席合格者 1236-1283
  31. マルコ・ポーロ 世界史を変えた大旅行家 1254-1324
明・清
  1. 史上最強の引き締めの結末 明の洪武帝 1328-1398
  2. 明の永楽帝 世界制覇の見果てぬ夢 1360-1424
  3. 鄭和 大航海時代を開いたムスリムの宦官 1371-1433
  4. 明の劉瑾――帝位をねらった宦官 1451-1510
  5. 王陽明 知識と実行は一体と説いた思想家 1472-1529
  6. マテオ・リッチ 西洋から中国に渡来したイタリア人宣教師 1552-1610
  7. 明の万暦帝 最後の漢民族系王朝の最後の繁栄 1563-1620
  8. 魏忠賢 ― 明王朝を傾けた史上最悪の宦官 1568-1627
  9. 朱舜水 水戸黄門が師とあおいだ亡命中国人 1600-1661
  10. 張献忠 無差別大量殺人の残虐な反逆者 1606-1647
  11. 呉三桂 明清交替戦争の決定票を握る将軍 1612−1678
  12. ダライ・ラマ5世 ― チベット統一の英主 1617-1682
  13. 台湾の鄭成功――大陸反攻をめざした日中混血の英雄 1624-1662
  14. 順治帝 中国本土を征服した皇帝の死の謎 1638-1661
  15. 中国統治の要道を示した大帝 康煕帝 1654-1722
  16. 清の乾隆帝 世界の富の三割を握った帝王 1711-1799
  17. 林則徐 ― アヘン戦争で善戦した欽差大臣 1785-1850
  18. 曽国藩―末世を支えた栄光なき英雄 1811-1872
  19. 洪秀全 清末の太平天国の乱を起したカルト教祖 1814-1864
  20. 清の李鴻章 老大国をささえた大男 1823-1901
  21. 清末の西太后 1835-1908
近現代
  1. 大元帥になった国際人・孫文 1866-1925
  2. 袁世凱 83日間で消えた「中華帝国」の「洪憲皇帝」 1859-1916
  3. 梁啓超(りょうけいちょう) 日本とも縁が深い近代言論人 1873-1929
  4. 張作霖 馬賊あがりの奉天派軍閥の総帥 張作霖:1875-1928
  5. 秋瑾 和服と日本刀を愛した女性革命家 1875-1907
  6. 魯迅 心の近代化をはかった中国の夏目漱石 1881-1936
  7. 汪兆銘―愛国者か売国奴か 1883-1944
  8. 打ち破れなかった2つのジンクス 蒋介石 1887-1975
  9. 中華人民共和国の毛沢東 1893-1976
  10. 梅蘭芳 毛沢東が「私より有名だ」と言った名優 1894-1961
  11. 李徳全――平塚らいてうとも対談した女性大臣 1896−1972
  12. 周恩来 失脚知らずの不倒翁 1898-1976
  13. 劉少奇 21世紀も終わらない毛沢東と劉少奇の闘争 1898-1969
  14. 宋美齢――英語とキリスト教と蒋介石 1898-2003
  15. 老舎 満州人の世界的作家と文革での謎の死 1899-1966
  16. 21世紀の中国をデザイン ケ小平 1904-1997
  17. 清と満洲国の末代皇帝・溥儀 1906-1967
  18. 川島芳子 謀略と謎に満ちた男装の麗人 1907-1948
  19. 林彪――世界の中国観を変えた最期 1907-1971
  20. 江青―女優から毛沢東夫人へ 1914-1991
  21. 李小龍 哲学と映画に心血を注いだ武術家 1940-1973

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