司馬遷『史記』より。訳文は下のほうに。 使聖人預知微,能使良醫得蚤從事,則疾可已,身可活也。 人之所病,病疾多;而醫之所病,病道少。 故病有六不治: 驕恣不論於理,一不治也; 輕身重財,二不治也; 衣食不能適,三不治也; 陰陽并,藏氣不定,四不治也; 形羸不能服藥,五不治也; 信巫不信醫,六不治也。 有此一者,則重難治也。 |
ぎば‐へんじゃく【耆婆扁鵲】
(名) (「耆婆」は古代インドの五舎城の名医、「扁鵲」は中国、春秋時代の名医) 世にもまれな名医。すぐれた医者。
へんじゃく【扁鵲】
中国古代の伝説的名医。河南省の人。姓は秦、名は越人。その事績が紀元前八世紀から前四世紀に及ぶところから、名医の逸話が扁鵲一人に吸収され伝えられたと考えられる。→耆婆扁鵲(ぎばへんじゃく)。
※曾我物語(南北朝頃)一二「病きはめておもき者の、薬ばかりにてはとうたがひて、服(ぶく)せずは、耆婆(ぎば)が医術も、へんじゃくが医方も、益あるべからず」
孟子 もうし
前372ごろ〜前289
戦国時代の儒家
鄒 (すう) の人で名は軻 (か) ,字 (あざな) は子輿。孔子の孫の子思の門人に学び,梁 (りよう) ・斉 (せい) ・宋などを遊説したが志を得ず,晩年故郷で門人の教育にあたった。彼の言論を記した『孟子』は『論語』『中庸』『大学』とともに四書といわれる。孔子と同じく仁 (じん) ・孝悌 (こうてい) を重んじ,さらに性善説にもとづいて王道論を説き,易姓 (えきせい) 革命を認めた。また,経済政策として井田 (せいでん) 法を提唱した。
あ‐せい【亜聖】
《「亜」は次ぐ意》
1 聖人に次ぐりっぱな人。大賢人。
2 《聖人とされる孔子に次ぐ人として》孟子(もうし)または顔回(がんかい)をいう。
太史公曰く。私・司馬遷は孟子の書物『孟子』を読み、梁(魏)の恵王が孟子に「わが国にどんな利益をもたらしてくださるのか」とたずねるくだりを読むたびに、本を脇に置いて「ああ」とため息をもらす。ああ、利益こそ、まことに乱のはじめである。『論語』によると、夫子(ふうし,孔子)も利はごくまれにしか口にされなかったというが、その理由は、常に乱の原因を防ぐためだったのだ。だから孔子は「利に放りて行えば、怨多し(自分の利益ばかりを考えて行動すると、人から恨まれることが多い。『論語』里仁第四-12)」とおっしゃられた。天子から庶民に至るまで、利益を好む弊害に何の違いがあろうか。いや、ない。孔子は春秋時代の人だったが、孟子は戦国時代の人で遊説家の黄金時代だった。
孟軻は、鄒の人である。学業を子思(しし)の門人から受けた。道に通じてから、遊説して斉の宣王に仕えた。宣王は孟子を用いることができなかった。梁(魏)に行ったが、梁の恵王は、孟子の主張は迂遠で戦国時代の現実社会から隔たっていると思い、孟子の意見を採用しなかった。
当時、秦は法家の商君を用い富国強兵を進めていた。楚や魏は兵法家の呉起を用い、戦いに勝って敵国を弱めた。斉の威王と宣王は、兵法家の孫子や田忌の徒を用い、東の強国となった斉にむかって天下の諸侯は入朝した。当時の天下の情勢は、まさに合従連衡(がっしょうれんこう)にあけくれ、敵国を攻めることがクレバーであるとされていた。そんななかで、孟子は、いにしえの堯・舜・三代(夏・殷・周)の徳を述べたてた。そういうわけで、どこに行っても受け入れられなかった。引退したあとは、万章(ばんしょう)ら弟子たちとともに、儒教の古典である『詩経』や『書経』を整理して孔子の本意を明らかにしたうえで、みずからの言行録『孟子』七篇を作ったのである。
『黄金の日々』第34話「大洪水」(初回放送1978年8月27日)の台詞より。 孫七(常田富士男):『孟子』か。 呂宋助左衛門(市川染五郎。当時):へえ。 孫七:孟子は評判が悪かけんねえ。 助左:いや、あの、堺までの船賃と飯代に少々、色をつけてくれれば、それでいいんで。 なんとかしてつかわさい。 孫七:どこで手に入れたと、こげん難しか書物ば。 助左:かたみで。父親の。 孫七:かたみねえ。ま、五百文だったら引き受けてもいいが、それ以上、出せんね。 助左:いや、それでけっこうです。それで、けっこうです。 |
禅 ぜん zen
サンスクリット語dhyānaの音写で禅那とも書かれる。「禅」の原義は,(天子が) 神を祀る,(位を) 譲る,などで,これを仏教がかりたのである。 姿勢を正して坐して心を一つに集中する宗教的修行法の一つ。インドでは古くから行われていたが,仏教の基本的修行法に取入れられて中国に伝わり,禅宗として一宗派を形成した。 宗祖はインド僧菩提達磨とされるが,宗派として成立したのは6祖慧能からで,その跡を継ぎ中国禅宗五家が成立。 このうち宋代には臨済,雲門の2宗が栄え,臨済宗は公案を手段とする看話禅を鼓舞し,雲門の系統をひく曹洞宗は正身端坐の坐禅を重視する黙照禅を説いた。 日本には鎌倉時代に栄西により臨済宗,道元により曹洞宗が伝えられ,江戸時代には中国僧隠元により明代の念仏禅,黄檗宗が伝えられた。 また江戸時代の白隠は公案を整理し,現在の臨済宗諸派の修行の基礎を築いた。 禅思想はインド仏教の般若,空の思想が老荘思想を精神的風土とする中国で変容され定着したもので,坐禅の実践による人間の本性の直観的な把握を主張し,華道,茶道,書道,絵画,造園,武芸などの日本文化にも影響を与え,さらに最近は急速に海外からの関心を集めつつある。
達磨 だるま [生]? [没]大通2 (528)
禅宗の初祖。6世紀初頭にインドから中国に渡り,『楞伽経(りょうがきょう)』を広めた菩提達摩 Bodhidharmaと同一人物とされているが,伝記中の事跡はかなり潤色,神秘化され,その実在すら疑われている。 しかし現代では敦煌出土(→敦煌莫高窟)の資料から『二入四行論』ほかを説いたことなどが明らかにされている。 『続高僧伝』によれば,達磨は南インドのバラモンの家に生まれ,大乗仏教に志し,海路から中国に渡り,北方の魏に行った。梁の武帝に召されて金陵に赴き,禅を教えたが,機縁がまだ熟していないのを知ってただちに去り, 洛陽東方の嵩山の少林寺に入り,壁に向かって坐禅した(壁観)。 慧可が来て教えを求め,腕を切り取ってその誠を示したので,ついに一宗の心印を授けたという伝説がある。 壁観の面壁九年の伝説から,後世日本では手足のないだるま像がつくられ,七転び八起きの諺となった。
『伝灯録』の原漢文 帝問曰:「朕即位已來。造寺寫經度僧不可勝紀。有何功德。」師曰:「並無功德。」帝曰:「何以無功德。」師曰:「此但人天小果有漏之因。如影隨形,雖有非實。」帝曰:「如何是真功德。」答曰:「淨智妙圓,體自空寂。如是功德,不以世求。」帝又問:「如何是聖諦第一義。」師曰:「廓然無聖。」帝曰:「對朕者誰。」師曰:「不識。」帝不領悟。 |
達磨安心 だるまあんじん 無門関 第四十一則 達磨面壁。二祖立雪。断臂云、弟子心未安、乞師安心。磨云、將心来為汝安。祖云、覓心了不可得。磨云、為汝安心竟。 【読み下し】 達磨、面壁す。二祖、雪に立つ。斷臂(だんぴ)して云く「弟子、心、未だ安んぜず、乞う、師、安心せしめよ。」と。磨云く「心を將(も)ち來れ、汝の爲に安(やす)んぜん。」と。祖云く「心を覓(もと)むるも了(つひ)に得べからず」と。磨云く「汝の爲に、安心、竟(をは)んぬ。」と。 【訳】 達磨は、岩の壁にむかって座禅した。二祖、すなわち中国禅の第二代目の高僧となる慧可(えか)が、雪の中に立ち、自分の腕を切断して言った。 「先生、わたしの心は不安でどうしようもないのです。どうか、私の心を安んじてくださいますよう」 「では、心をここに出しなさい。安んじてやろう」 「え? 心? ・・・心を探しましたが、取り出せません」 「ほれ、おまえさんの心を安んじてやったぞ」 |
『伝灯録』より 迄九年已,欲西返天竺。乃命門人曰:「時將至矣。汝等蓋各言所得乎。」時門人道副對曰:「如我所見。不執文字不離文字而為道用。」師曰:「汝得吾皮。」尼總持曰:「我今所解。如慶喜見阿閦佛國。一見更不再見。」師曰:「汝得吾肉。」道育曰:「四大本空,五陰非有。而我見處無一法可得。」師曰:「汝得吾骨。」最後慧可禮拜後依位而立。師曰:「汝得吾髓。」 |
『日本書紀』によると、推古天皇21年(613年)12月、聖徳太子が道のほとりに伏せっていた飢人を見つけ、飲み物と食べ物、それに衣服を与えて助けましたが、飢人は亡くなりました。そのことを大いに悲しんだ聖徳太子は、飢人の墓をつくり、厚く葬りましたが、数日後に墓を確認してみると、埋葬したはずの飢人の遺体が消えてなくなっていました。
この飢人が、のちの達磨大師の化身と考えられるようになり、達磨寺は生まれました。
このように、聖徳太子と達磨大師の出会いからはじまった達磨寺には、今も本堂の下に達磨寺3号墳とよばれる古墳時代後期の円墳があります。
これが、聖徳太子が飢人のためにつくったお墓、すなわち達磨大師の墓とされ、鎌倉時代にその上にお堂が建てられて、本尊として道内に聖徳太子像と達磨大師像が安置されました。
百九十七段「文集」(もんじゅう)は、白居易の全集である『白氏文集』のこと。
ふみは、文集、文選、新賦、史記、五帝本紀、願文、表、はかせの申文。
第十三段 ひとり灯のもとに文をひろげて
ひとり灯(ともしび)のもとに文(ふみ)をひろげて、見ぬ世の人を友とするぞ、こよなう慰むわざなる。
文は文選(もんぜん)のあはれなる巻々、白氏文集(はくしもんじゅう)、老子のことば、南華の篇。此(こ)の国の博士どもの書ける物も、いにしへのは、あはれなること多かり。
しかし敗戦後の今日、新憲法の下に於ては、平和の詩、徴兵反對、共に自由であり保障されそらている筈である故、今こそ、白樂天の平和の詩を、大衆生活詩を、誦んずる程、よく読んで貰いたいことを、私はわが勤勞大衆にすすめるものである。
はく‐きょい【白居易】
中国、中唐の詩人。字は楽天。号は香山居士。太原(山西省)の人。官は武宗の時、刑部尚書に至る。その詩は平易通俗なことばに巧みに風刺をもりこみ、代表作「新楽府」「長恨歌」「琵琶行」などは多くの愛読者をもった。その詩文集「文集(白氏文集)」は存命中に日本に伝来し、「文選」とともに、もっとも広く読まれた。(七七二‐八四六)
春中、盧四周諒と華陽観に同居すこの漢詩については、https://www5a.biglobe.ne.jp/~shici/shi4_08/rs507.htmやhttp://yamatouta.asablo.jp/blog/2010/04/07/5003332なども参照。
性情懶慢好相親 性情 ランマンにして よく相親しみ
門巷蕭條稱作鄰 門巷 ショウジョウとして 隣をなすにかなう
背燭共憐深夜月 ともしびにせをむけては ともにあわれむ 深夜の月
蹋花同惜少年春 花をふんでは同じく惜しむ 少年の春
杏壇住僻雖宜病 杏壇はジュウ、ヘキにして、やまいによろしといえども
芸閣官微不救貧 ウンカクは官、微にして、貧しきを救わず
文行如君尚憔悴 文行、君のごときすらなおショウスイす
不知霄漢待何人 知らず、ショウカンはなんぴとをか待つ
大意―ボクは勉強がきらいなので、君とはウマがあう。このあたりの路地はひとけがないので、濃密なとなりづきあいにはぴったりだ。勉強そっちのけで、書物をよむともしびに背をむけて、深夜の月がきれいだ、とながめたり…。いちめんの地面に散りしいた春の花をふみしめながら散歩して、あたらすぎゆく青春を惜しんだり…。まあ、この学問所は、人家から遠いから、病人の療養にはもってこいの場所だけど、咲くこの館は僻遠の地にあり、療養には持って来いなのだが、秘書省の給料は安いので貧乏生活はすくわれない。きみほどの、文才と徳行をかねそなえた人物すら、なお憔悴しているとはね。雲の上の人たちは、いったい、どんな人材を待ち望んでいるのかねえ。
漢皇重色思傾国 カンコウ、色を重んじてケイコクを思い、長恨歌については、https://ja.wikipedia.org/wiki/長恨歌やhttp://chugokugo-script.net/kanshi/chougonka.htmlなどを参考のこと。
御宇多年求不得 ギョウ、タネン、求むれども得ず。
楊家有女初長成 ヨウケにむすめあり、はじめて長成す。
養在深閨人未識 養われてシンケイにあり、人、いまだしらず。
天生麗質難自棄 天生のレイシツは、おのずから棄てがたく、
一朝選在君王側 一朝、選ばれて君王のかたらわにあり。
迴眸一笑百媚生 ひとみをめぐらせて一笑すれば百媚、生じ、
六宮粉黛無顔色 リクキュウのフンタイ、顔色なし。
(以下略。全120句)
新豊折臂翁 シンポウのうでを折りしおきなこの漢詩については、http://www5a.biglobe.ne.jp/~shici/rs48.htmやhttp://yoshiro.tea-nifty.com/yoshiroteaniftycom/2013/07/post-3b5c.html、などを参照のこと。
新豊老翁八十八 シンポウの老翁は八十八
頭鬢眉鬚皆似雪 頭のビンも眉もあごひげも みな雪に似たり
玄孫扶向店前行 やしゃごにたすけられて店前に向かいて行く
左臂憑肩右臂折 左のうでは肩により、右のうでは折れたり
問翁臂折來幾年 翁に問う「臂、折れてより幾年ぞ?」と。
兼問致折何因縁 兼ねて問う「折るを致せしは何の因縁ぞ?」と。 翁云貫屬新豊縣 翁はいう「貫は新豊県に属し、
生逢聖代無征戦 生れては聖代に逢い、征戦は無し。
慣聴梨園歌管聲 梨園の歌管の声を聴くに慣れて、
不識旗槍与弓箭 旗、槍、弓と箭(や)をしらず。
無何天寶大徴兵 いくばくもなくして、天宝のとき、大徴兵あり。
戸有三丁點一丁 戸に三丁があれば、一丁を点ず。
點得驅將何處去 点じ得て、駆られてもっていずくにかゆく?
五月萬里雲南行 五月、万里、雲南に行く。
聞道雲南有瀘水 きくならく『雲南にはロ水(川の名前)ありて、
淑花落時瘴煙起 ショウの花が落つるときには瘴煙(しょうえん)起こりて、
大軍徒渉水如湯 大軍が徒渉(としょう)するに水は湯のごとくなりて、
未過十人二三死 いまだ過ぎざるに十人に二、三は死すなり』と。
村南村北哭聲哀 村南村北、哭(な)く声は哀し。
兒別爺嬢夫別妻 児(こ)はちちとははに別れ、夫は妻と別る。 皆云前後征蠻者 皆いう『前後、蛮に征く者は、
千萬人行無一廻 千万人行きて、ひとりも廻るなし!』と。
是時翁年二十四 このとき、翁の年は二十四。
兵部牃中有名字 兵部のチョウのうちに名の字あり。
夜深不敢使人知 夜ふけ、あえて人をして知らしめず、
偸將大石縋折臂 ひそかに大いなる石をもて、たたきて臂を折れり。
張弓簸旗倶不堪 弓を張ることも、旗をふりあぐることも、ともにたえず。
従茲始免征雲南 これより、はじめて、雲南に征くをまぬかる。
骨砕筋傷非不苦 骨は砕け、筋はやぶる。苦しからざるにあらざるも、
且圖揀退歸郷土 まずは図る、えらびしりぞけられて、郷土に帰らんことを。
臂折來來六十年 臂の折れてよりこのかた、六十年。
一肢雖癈一身全 一肢は廃すといえども、一身は全し。
至今風雨陰寒夜 今に至るも、風や雨の陰寒なる夜は、
直到天明痛不眠 直ちに天明に到るまで痛みて眠れず。
痛不眠 痛みて眠られざるも、
終不悔 ついに悔いず。
且喜老身今獨在 かつ喜ぶ、老いたる身の今、独り在るを。
不然當時瀘水頭 然らずんば当時、ロ水のほとりに、
身死魂孤骨不収 身は死して魂はひとりとなり、骨も収められざらん。
應作雲南望郷鬼 まさに雲南に望郷の鬼となりて、
萬人冢上哭呦呦 万人冢のうえに哭くことユウユウたるべし」と。
老人言 老人の言、
君聴取 君、聴取せよ。
君不聞 君、聞かずや
開元宰相宋開府 開元の宰相たりし宋開府は
不賞邊功防黷武 辺功を賞せず、武をけがすことを防ぐ。
又不聞 また聞かずや
天寶宰相楊國忠 天宝の宰相たりし楊国忠は、
欲求恩幸立邊功 恩幸を求めて、辺功を立てんと欲す。
邊功未立生人怨 辺功はいまだ立たざるに、人の怨みを生ず。
請問新豊折臂翁 請う、問え、新豊の臂を折りし翁に。
村夜参考 https://kanbun.info/syubu/sonya.html http://www.shinkanren.sakura.ne.jp/html/kanshikansyohakukyoi1610.html
霜草蒼蒼蟲切切 霜草、ソウソウとして虫、セツセツ
村南村北行人絶 村南村北、行人絶ゆ
獨出門前望野田 ひとり門前に出でて野田を望めば
月明蕎麦花如雪 月明らかにして キョウバク 花 雪のごとし
夜雨
早蛩啼復歇 ソウキョウ、ナいてマたヤむ。
残灯滅又明 ザントウ、メツ、マタ、メイ。
隔窗知夜雨 マドをヘダてて、ヤウをシる。
芭蕉先有声 バショウ、マずコエ、アり。
香炉峰下新卜山居草堂初成偶題東壁参考 https://ja.wikibooks.org/wiki/高等学校古文/漢詩/香炉峰下、新卜山居、草堂初成、偶題東壁
コウロホウのもと、あらたに山居をボクし 草堂はじめて成り、たまたま東壁に題す
日高睡足猶慵起 日高く睡(ねむ)り足りて なお起くるに慵(ものう)し
小閣重衾不怕寒 小閣に衾(しとね)を重ねて 寒きを怕(おそ)れず
遺愛寺鐘欹枕聴 遺愛寺の鐘は 枕を欹(そばだ)てて聴き
香炉峰雪撥簾看 香炉峰の雪は 簾(すだれ)を撥(かか)げて看る
匡廬便是逃名地 匡廬(きょうろ)は便ち是れ 名を逃るるの地
司馬仍為送老官 司馬はなお 老(おい)を送るの官為(た)り
心泰身寧是帰処 心泰く 身寧きは 是れ 帰する処
故郷何独在長安 故郷 何ぞ独り 長安に在るのみならんや
山泉煎茶有懐 山泉にて茶を煎ておもい有り
坐酌泠泠水 坐してくむ、レイレイたる水
看煎瑟瑟塵 みるみる煎る、シツシツたる塵
無由持一碗 一碗を持して
寄与愛茶人 寄せて茶を愛する人に与うるによし無し
其日本、新羅諸国、及両京人家伝写者、不在此記。と明言している。
其の日本、新羅の諸国、及び両京の人家に伝写せる者は、此の記に在らず。
(日本や新羅などの外国の国々、および、長安と洛陽の人々の家に伝わっている写本は、この本とは別物である。)
サムエル・バトラアの説に云ふ。「モリエルが無智の老嫗(らうう)に自作の台本を読み聞かせたと云ふは、何も老嫗の批評を正しとしたのではない。唯自ら朗読する間に、自ら台本の瑕疵を見出すが為である。かかる場合聴き手を勤むるものは、無智の老嫗に若しくものはあるまい」と。まことに一理ある説である。白居易などが老嫗に自作の詩を読み聴きかせたと云ふのも、同じやうな心があつたのかも知れぬ。
てい‐わ【鄭和】
(一)[1371〜1434ころ]中国、明の武将。昆陽(雲南省)の人。本姓は馬。イスラム教徒。明初、宦官として燕王(永楽帝)に仕え、鄭姓を賜った。1405年以降、7回にわたり大船団を率いて西方に遠征し、アフリカ東岸や紅海にまで足跡を残した。
(二)中国の小惑星探査機。地球の周囲を月のように公転しているように見える準衛星カモオアレワのサンプルリターンを計画。2024年に打ち上げ予定。
鄭和 ていわ(1371?―1434?) 中国、明(みん)朝の宦官(かんがん)で、七度にわたる南海への航海を指揮した。雲南省昆陽(こんよう)州の生まれで、姓は馬氏。代々のイスラム教徒の家系である。雲南が明朝の支配下に入ったとき、捕らえられて宦官にされた。燕(えん)王(永楽帝)に仕え、その即位とともに、宦官の長官である内官監太監に起用され、鄭姓を賜った。そして1405年から33年の間に、七度の大航海の司令官を務めた。「鄭和の西洋下り」は第1〜3次(1405〜07、1407〜09、1409〜11)がコジコーデ(カリカット)、第4〜7次(1413〜15、1417〜19、1421〜22、1431〜33)がホルムズを最終地としたが、別働隊はアフリカ東岸から紅海沿岸に進出した。彼の率いる船団は宝船、西洋取宝船などとよばれた大型の商船(長さ150メートル、幅62メートル)六十数隻からなり、乗員も二万数千人に上った。このほか第6次と第7次の間の1424年彼はパレンバンに出使している。「鄭和の西洋下り」は中国史上最大の航海事業であったばかりでなく、世界史上にも例のないものであった。その主たる目的は政府直営の海外貿易の促進にあり、中国国内はもちろん、相手国の社会や経済にも大きな影響を及ぼした。
また、随行者の著作である『瀛涯勝覧(えいがいしょうらん)』『星槎(せいさ)勝覧』などにより、中国人の東南アジア方面に関する知識が深まり、華僑(かきょう)の進出の端緒となったことも見逃せない。
[寺田隆信]
『馬歓著、小川博訳注『瀛涯勝覧』(1969・吉川弘文館)』▽『寺田隆信著『中国の大航海者・鄭和』(1984・清水新書)』
※1492年、コロンブスがスペインの港からインドを目指して大西洋へ出航した時の船団は、中型船が3隻で、総乗組員数は約90人にすぎなかった(120人説もある)。航海のルートは、東シナ海、南シナ海、インド洋であった。
※唐の太宗の時代、外交官の王玄策が、インドのヴァルダナ朝の国王「阿羅那順」(Arunasva)を捕らえ、唐の首都まで連行したことがある。
ブルース・リー ぶるーすりー Bruce Lee (1940―1973)
漢字表記李小龍(りしょうりゅう)。香港(ホンコン)の映画俳優。アメリカのサンフランシスコで生まれた。父親は広東(カントン)オペラの俳優だった。生まれてまもなくから香港の映画に出演。大学はアメリカでワシントン大学哲学科に学び、この学生時代に中国拳法の武道を研究して独自の流派を編みだした。そこでハリウッドからアクション指導の依頼を受けて映画界入りし、その模範演技で俳優として認められた。1971年に香港に帰って『ドラゴン危機一発』に出演、これの大ヒットで功夫(カンフー)映画のブームをまき起こす。続いて自分で製作、監督、主演をする一連の作品を連続的にヒットさせ、多くの追随者を伴って香港の功夫映画の世界的な人気をつくり出す。代表作は、ハリウッドとの合作『燃えよドラゴン』(1973)。ストーリーは単純な勧善懲悪だが、京劇のアクロバット演技の伝統を受け継いで映画に生かしたその体技はすばらしく、ファンを興奮させた。1973年、32歳で亡くなった。
[佐藤忠男]
ホンコンえいが【香港映画】
1970年代初めに,《ドラゴン危機一発》(1972)など,ブルース・リーBruce Lee(1940‐73)の一連の主演作に代表される〈クンフー(功夫)映画〉(中国語のウェード式ローマ字表記kung fuを英語読みにして〈カンフー映画〉とも)が世界的なブームを巻き起こして注目を浴びて以来,香港映画は〈クンフー映画〉の代名詞ともなって世界中に知られている。〈クンフー〉とは広東方言で護身用の格闘技のことで,中国拳法による格闘を主体としたアクション映画が〈クンフー映画〉と総称されるが,徒手空拳の闘いだけでなく武器を用いた諸々の中国武術による闘いを描いた映画(すなわち〈武侠片〉。