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中国歴史人物列伝 3

最新の更新2023年12月27日    最初の公開2023年10月10日

以下、https://www.asahiculture.com/asahiculture/asp-webapp/web/WWebKozaShosaiNyuryoku.do?kozaId=1647578より自己引用。引用開始。
講座番号:1647578 教室・オンライン自由講座 見逃し配信あり
 歴史を理解することは、人間を理解すること。ヒストリー(歴史)とストーリー(物語)は、もとは同じ言葉でした。中国の伝統的な「紀伝体」の歴史書も、個々人の伝記を中心とした文学作品でした。
 本講座では、日本にも大きな影響を残した中国史上の人物をとりあげ、運や縁といった個人の一回性の生きざまと、社会学的な法則や理論など普遍的な見地の両面から、人生を紹介します。豊富な図像を使い、予備知識のないかたにもわかりやすく解説します。(講師・記)
  1. 10/12 夏姫 ― 衰えぬ美貌で多くの君臣と関係した美魔女
  2. 10/26 孫子 ― 戦争哲学を説いた春秋と戦国の二人の孫子
  3. 11/02 張騫 ― 武帝の命令で西域を探検した前漢の冒険家
  4. 11/23 慧能 ― 日本・中国・韓国・ベトナムの禅僧の源流
  5. 12/14 洪秀全 ― 清末の太平天国の乱を起したカルト教祖
  6. 12/28 梅蘭芳 ― 毛沢東が「私より有名だ」と言った名優
  7. 参考 今までとりあげた人物 実施順 時代順

10/12 夏姫 ― 衰えぬ美貌で多くの君臣と関係した美魔女
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○ポイント、キーワード
○辞書的な説明
○略年表 ○その他


10/26 孫子 ― 戦争哲学を説いた春秋と戦国の二人の孫子
YouTube https://www.youtube.com/playlist?list=PL6QLFvIY3e-mx8ddTpfye4XhD98DwnX0v

○ポイント、キーワード
○辞書的な説明
○略年表
○司馬遷『史記』孫子呉起列伝第五より
2人の孫子については、『史記』に伝記を載せるが、説話的な色彩が濃く、どこまでが史実かはよくわからない。
原漢文:ウィキソース https://ja.wikisource.org/wiki/史記/卷065
漢文訓読・書き下し文:青空文庫 箭内亙訳註「國譯史記列傳 孫子呉起列傳第五」 https://www.aozora.gr.jp/cards/001524/files/51920_75904.html

孫子武者,齊人也。以兵法見於吳王闔廬。闔廬曰:「子之十三篇,吾盡觀之矣,可以小試勒兵乎?」對曰:「可。」闔廬曰:「可試以婦人乎?」曰:「可。」於是許之,出宮中美女,得百八十人。孫子分為二隊,以王之寵姬二人各為隊長,皆令持戟。令之曰:「汝知而心與左右手背乎?」婦人曰:「知之。」孫子曰:「前,則視心;左,視左手;右,視右手;後,即視背。」婦人曰:「諾。」約束既布,乃設鈇鉞,即三令五申之。
 孫子こと孫武は斉の人である。彼の兵法は評判となり、呉王・闔廬(こうりょ)は彼を引見した。闔廬は言った。
「あなたの兵法書十三篇をみな読んだ。で、兵士の訓練ができるかどうか、ちょっと試してみたい。よいかな」
孫子が「わかりました」と答えると、闔廬は
「女性をつかって練兵をしようと思うが、それでよいか」
「わかりました」
 闔廬は宮中の美女、百八十人を呼び出した。孫子は、女性を二隊に分け、王の寵愛する女性二人をそれぞれの隊長として、皆に戟(げき)を持たせた。
 孫子は女性らに命じた。
「お前たちは、自分の胸と左右の手と背中がどこか、わかっているな」
「わかります」
「前、と指示されたらす胸の前を見よ。左なら左の手を見よ。右なら右の手を見よ。後ろならすぐ背中の方向を見よ」
「わかりました」
 練兵の開始前、合図の打合せが皆に伝えられた。命令に従わない者を斬る督戦用の鈇鉞(ふえつ)も用意し、隊列の動きの指事を「三令五申」(何度も繰り返し命じること)した。

於是鼓之右,婦人大笑。孫子曰:「約束不明,申令不熟,將之罪也。」復三令五申而鼓之左,婦人復大笑。孫子曰:「約束不明,申令不熟,將之罪也;既已明而不如法者,吏士之罪也。」乃欲斬左右隊長。吳王從臺上觀,見且斬愛姬,大駭。趣使使下令曰:「寡人已知將軍能用兵矣。寡人非此二姬,食不甘味,願勿斬也。」孫子曰:「臣既已受命為將,將在軍,君命有所不受。」遂斬隊長二人以徇。用其次為隊長,於是復鼓之。婦人左右前後跪起皆中規矩繩墨,無敢出聲。於是孫子使使報王曰:「兵既整齊,王可試下觀之,唯王所欲用之,雖赴水火猶可也。」吳王曰:「將軍罷休就舍,寡人不願下觀。」孫子曰:「王徒好其言,不能用其實。」於是闔廬知孫子能用兵,卒以為將。西破彊楚,入郢,北威齊晉,顯名諸侯,孫子與有力焉。
 そのうえで、戦鼓を鳴らし、女性らに右を向くように命令した。女性たちはゲラゲラ笑った。大いに笑った。孫子は、
「約束、明らかならず、申令、熟せざるは、将の罪なり」
と言った。合図の打合せが明確でなく、命令が十分に行き届かなかっいのは、将軍たる自分の罪である、という意味である。
 ふたたび、三度も五度も命令を確認したうえで、女性らに左を向くよう戦鼓で命令した。女性らはまた、大いに笑った。孫子は言った。
「約束明らかならず、申令熟せざるは、将の罪なり。既に已(すで)に明らかにして而(しか)も法の如くにせざるは、吏士(りし)の罪なり」
 将である自分(孫子)が明確に命令を下達したのに、そのとおりにしないのは、士官や兵士の罪である、という意味である。
 孫子は、左右の隊長を斬ろうとした。台の上から見物していた呉王は、寵愛する女性が斬られそうになったのを見て、婦人を斬ろうとしているのを見てビックリして、使いを送って孫子に告げた。
「あなたが用兵の達人であることは、よくわかった。余は、この二人の女がいなくなったら、食事の味もわからなくなる。斬るのはやめてくれ」
 孫子は言った。
「臣はすでに命(めい)を受けて将(しょう)たり。将は軍に在りては君命をも受けざるところ有り」
 孫子はとうとう、女性の隊長を二人とも斬ってこれを全員に知らせ、その次の女性を隊長にくりあげた。
 そのあと女性たちに戦鼓で命令した。女性たちは、前後左右を向くのも、その他の動作も、どれも規則にのっとっておこなった。余計な声を出す者もいなかった。
 孫子は、使いを王のもとに送って報告して言った。
「兵は既にととのいたり。王は試みにおりてこれをみるべし。ただ、王のこれを用いんと欲するところは、水火に赴くといえどもなお可なり」
 呉王が「もうよい。練兵をやめて休むがよい。余は、わさわざおりて見に行く気にならない」と言うと、孫子は、
「王は、いたずらにその言を好んで、その実を用いることあたわず」
 と言った。闔廬は、孫子の用兵能力をみとめ、彼を呉の将軍とした。
 その後、呉は、西に強国の楚を破って郢(えい)の都まで侵入し、北は斉・秦の両国を脅かし、名を諸侯の間で上げた。これらは孫子の力のおかげである。

孫武既死,後百餘歲有孫臏。臏生阿鄄之閒,臏亦孫武之後世子孫也。孫臏嘗與龐涓俱學兵法。龐涓既事魏,得為惠王將軍,而自以為能不及孫臏,乃陰使召孫臏。臏至,龐涓恐其賢於己,疾之,則以法刑斷其兩足而黥之,欲隱勿見。
 孫武の死後、百年あまり。孫臏があらわれた。
 阿と鄄(けん)の間の土地に生まれた孫臏は、孫子こと孫武の子孫である。孫臏はかつて、龐涓(ほうけん)という男といっしょに兵法を学んだことがあった。
 龐涓は魏国に仕え、恵王の将軍になった。彼は、自分は孫臏には及ばないと思っていたので、ひそかに孫臏を呼び寄せた。
 孫臏が来た。龐涓は、孫臏が自分より賢いことを恐れ、憎み、孫臏を無実の罪に陥れて刑罰を科し、両足を切断し、刺青を入れさせた。孫臏はもう世の中から隠れるだろう、と龐涓は期待した。

齊使者如梁,孫臏以刑徒陰見,說齊使。齊使以為奇,竊載與之齊。齊將田忌善而客待之。忌數與齊諸公子馳逐重射。孫子見其馬足不甚相遠,馬有上、中、下、輩。於是孫子謂田忌曰:「君弟重射,臣能令君勝。」田忌信然之,與王及諸公子逐射千金。及臨質,孫子曰:「今以君之下駟與彼上駟,取君上駟與彼中駟,取君中駟與彼下駟。」既馳三輩畢,而田忌一不勝而再勝,卒得王千金。於是忌進孫子於威王。威王問兵法,遂以為師。
 斉国の使者が、魏の都である大梁を訪れた。孫臏は、自分が刑余の身であるた、こっそり斉の使者と会った。斉の使者は、孫臏がめったにいない逸材である見抜き、ひそかに自分の馬車に乗せ、斉に帰った。
 斉では、将軍の田忌(でんき)が孫臏を食客として迎えいれ、手厚く待遇した。
 田忌はよく、斉の王族の子弟たちと、大金をかけて騎射の競馬をした。孫子は、馬の速さを調べた。それぞれの馬の足の速度は、大差はなかったものの、上中下の3ランクに分かれれていることがわかった。そこで孫臏は田忌に言った。
「今日は、思いっきり、大金をかけてください。私が、あなたさまを勝たせて差し上げます」
 田忌は孫臏の言葉を信じ、斉王とその王族たちを相手とするその日の競馬の勝負に、千金をかけた。試合の直前、孫子はアドバイスした。
「三回戦のうち、第一試合では、あなたの下ランクの馬を、相手の上ランクの馬にぶつけて下さい。第二試合では、あなたの上ランクの馬を、相手の中ランクの馬にあててください。第三試合では、あなたの中ランクの馬を、相手の下ランクの馬にあててください」
 三回の競技が終わると、結果は、田忌の二勝一敗だった。彼は千金を手に入れた。
 その後、田忌は孫臏を、斉の威王に推薦した。威王は兵法について孫臏にアドバイスを求め、孫臏を師と仰ぐようになった。

其後魏伐趙,趙急,請救於齊。齊威王欲將孫臏,臏辭謝曰:「刑餘之人不可。」於是乃以田忌為將,而孫子為師,居輜車中,坐為計謀。田忌欲引兵之趙,孫子曰:「夫解雜亂紛糾者不控棬,救鬬者不搏撠,批亢擣虛,形格勢禁,則自為解耳。今梁趙相攻,輕兵銳卒必竭於外,老弱罷於內。君不若引兵疾走大梁,據其街路,衝其方虛,彼必釋趙而自救。是我一舉解趙之圍而收獘於魏也。」田忌從之,魏果去邯鄲,與齊戰於桂陵,大破梁軍。
 時は戦国時代である。魏国が、隣国の趙国を攻めた。趙は、斉国に援軍を求めてきた。
 斉の威王は、孫臏を将軍として援軍を編成しようとした。孫臏は、
「私は刑余の身です。将軍になるべき資格はありません」
と辞退した。そこで威王は、田忌を将軍、孫臏を軍師にした。孫臏は、荷車の中にかくれ、すわったまま作戦を立てることにした。
 田忌は兵を率いて趙に赴こうとした。孫臏は「囲魏救趙」の策をアドバイスした。
「そもそも、もつれた糸をほどくのに、むやみに引っ張ったりはしません。形勢を変化させて、両国の喧嘩をやめさせましょう。今、魏と趙の二国は、死力を尽くして戦っています。魏の精鋭部隊はすべて国外に出払っており、魏の国内に残留しているのは第二線クラスの老兵や廃兵ばかりです。あなたは趙ではなく、魏の首都である大梁を急襲してください。街道を猛スピードで進み、魏が油断しているところを衝いてください。魏の本国がピンチになれば、趙との戦線に送っている精鋭を自国に呼び戻すはずです。こうすれば、わが斉軍は、趙を包囲から救うだけでなく、魏に一撃を加えることもできます」
 田忌は、孫臏の策をいれた。果たして魏は、趙の首都・邯鄲を包囲していた魏軍を転進させ、自国の首都の防衛に向かわせた。斉軍は、桂陵(けいりょう)の地で魏軍と戦い、大勝利をおさめた。

後十三歲,魏與趙攻韓,韓告急於齊。齊使田忌將而往,直走大梁。魏將龐涓聞之,去韓而歸,齊軍既已過而西矣。孫子謂田忌曰:「彼三晉之兵素悍勇而輕齊,齊號為怯,善戰者因其勢而利導之。兵法,百里而趣利者蹶上將,五十里而趣利者軍半至。使齊軍入魏地為十萬灶,明日為五萬灶,又明日為三萬灶。」龐涓行三日,大喜,曰:「我固知齊軍怯,入吾地三日,士卒亡者過半矣。」乃棄其步軍,與其輕銳倍日并行逐之。孫子度其行,暮當至馬陵。馬陵道陜,而旁多阻隘,可伏兵,乃斫大樹白而書之曰「龐涓死于此樹之下」。於是令齊軍善射者萬弩,夾道而伏,期曰「暮見火舉而俱發」。龐涓果夜至斫木下,見白書,乃鉆火燭之。讀其書未畢,齊軍萬弩俱發,魏軍大亂相失。龐涓自知智窮兵敗,乃自剄,曰:「遂成豎子之名!」齊因乘勝盡破其軍,虜魏太子申以歸。孫臏以此名顯天下,世傳其兵法。
 それから十三年後。戦国時代の常として、昨日の敵は今日の友。魏と趙は、共同で出兵し、韓を攻めた。ピンチにおちいった韓は、斉に救援を求めた。
 斉は、田忌と孫臏をそれぞれ将軍と軍師に任命して出撃させ、魏の首都・大梁へと急行させることにした。
 自国の首都の危機を察知した魏軍は、韓から撤退した。魏の将軍は、かつて孫臏をおとしいれた龐涓(ほうけん)だった。
 龐涓は名将だった。今から魏に向かえば、田忌の斉軍を後ろから襲うことができる。斉軍は、魏の本国に残っている魏軍と、龐涓が率いる遠征軍によって前後からはさみうちとなり、全滅するであろう。
 斉軍が、国境を越えたところで、孫臏は田忌に「減竈の計(ゲンソウのケイ。かまどの数をだんだん減らすという欺瞞工作)」を献策した。孫臏は言った。
「魏・趙・韓の三晋地方の将兵は、自分たちは精悍勇猛だとおごっております。彼らは、東の斉の将兵は臆病者だと、みくだしてます。そこにつけこむのです。兵法では『百里の遠くから戦利を得ようとして急行すれば、その上将が戦死する。五十里の距離から戦利を得ようとする者は、軍勢を整えられずに半数しか目的地に到達できない』と、遠征の困難さが常識となっています。その常識を逆手にとって、敵の裏をかきましょう。わが斉軍が、敵国である魏の領土に入ったときには、十万個の竈(かまど)を作るのです。翌日には五万個の竈を作ります。その次の日には三万個の竈を作ります」
 龐涓は魏軍を率い、斉軍を追いかけた。斉軍陣地のあとを調べると、日に日にカマドの跡の数が減っていた。龐涓は大いに喜んで言った。
「斉軍が臆病だとは知っていたが、ここまでひどいとは。我が魏の領土に入ってまだ三日目なのに、もう兵士が逃げて半分以下に減っている」
 龐涓は、鈍重な歩兵部隊を置いて、軽快な精鋭部隊だけを率いて、二日の行程を一日に短縮して追撃した。
 孫臏は、龐涓なら通常の2倍のスピードで急追してくると予想し、龐涓の部隊は夕暮れに馬陵に到着する予定であると計算した。馬陵は道が狭く、両側は険しい山で、伏兵を置くのに適していた。孫臏は、路傍の大木の皮をはぐと、木の地肌に、
「龐涓死于此樹之下」(龍涓はこの樹の下に死す)
と書きつけた。そのうえで、斉軍の狙撃のうまい兵士たちに、無数の弩(いしゆみ)を道の両側に設置させ、命令した。
「夜闇のなかに、あかりがポッとあがったら、そこを一斉に射撃せよ」
 龐涓の部隊が、その木の場所に到着したのは夜だった。龐涓は、路傍の白い木肌に、何か字が書いてあるのを見た。たいまつの火をつけて、その文字を読んだ。白く塗った木肌に書かれた文字を見て、火をつけてその文字を読もうとした。「龍涓はこの樹の下に死す」という文字を読み終わらないうちに、闇の中から無数の矢が飛んできた。
 魏軍は大混乱となり、戦意を喪失した。龍涓は、自分が孫臏との知恵比べで大敗したことをさとり
「遂成豎子之名(ツイにジュシのナをナさしむ。とうとう、きさまに手柄を立てさせちまったな)」
 という名言を残し、自分の首を切って自決した。
 斉軍は勝ちに乗じ、残余の魏軍を蹴散らすと、魏の首都に侵攻して、魏の太子・申(しん)を捕虜として、斉に凱旋した。孫臏の名声は天下に轟いた。孫臏の兵法もまた、世代を越えて伝えられた。

〇孫武(一人目の孫子)の著とされる『孫子』選読
兵とは詭道(きどう)なり 『孫子』計篇第一
 兵者詭道也。故能而示之不能、用而示之不用、近而示之遠、遠而示之近、利而誘之、乱而取之、実而備之、強而避之、怒而撓之、卑而驕之、佚而労之、親而離之。攻其無備、出其不意。此兵家之勢、不可先伝也。
 兵とは詭道(きどう)なり。ゆえに能(のう)なるもこれに不能を示し、用(よう)なるもこれに不用を示し、近くともこれに遠きを示し、遠くともこれに近きを示し、利(り)にしてこれを誘い、乱(らん)にしてこれを取り、実(じつ)にしてこれに備え、強(きょう)にしてこれを避け、怒(ど)にしてこれを撓(みだ)し、卑(ひ)にしてこれを驕(おご)らせ、佚(いつ)にしてこれを労し、親(しん)にしてこれを離す。その無備(むび)を攻め、その不意に出(い)ず。これ兵家の勢(せい)、先(さき)には伝うべからざるなり。
 戦争とはペテンの道である。ゆえに、本当はできる時はできぬように見せかけ、必要な時は必要としないように見せかけ、実は近づく時は遠ざかるように見せかけ、遠ざかる時は近づくかのように見せかける。敵が利益を欲する時は利益を餌におびきだし、敵が乱れていればそのすきをつき、敵が充実している時は防禦を固める。敵が強い時は戦いを避け、敵が感情的な時はわざと挑発して乱し、敵が謙虚ならこちらはもっと下手(したで)に出て相手を驕らせ、敵が休んでいたら疲労させ、 敵どうしの仲が良いなら仲違いさせる。敵の無防備なところをつき、敵の意表をつくのだ。兵家の作戦は臨機応変で千変万化なので、あらかじめ伝授することはできない。

敵を知り己(おのれ)を知らば・・・ 『孫子』謀攻篇第三
 知彼知己者、百戦不殆。不知彼而知己、一勝一負。不知彼不知己、毎戦必殆。
 彼(かれ)を知り己(おのれ)を知る者(もの)は、百戦、殆(あや)ふからず。彼を知らず己(おのれ)を知れば、一勝一負す。彼を知らず己(おのれ)を知らずんば、戦ふ毎(ごと)に必ず殆ふし。
 戦争するとき、相手のことも自分のこともよく知っている者は、百回戦っても危なくない。相手のことはよく知らぬが、自分のことは知っている場合は、勝敗の率は半々だ。相手を知らず、自分のことも知らぬなら、戦うごとに危険である。

算(さん)少(すくな)きは敗(やぶ)る 『孫子』計篇第一
 夫未戦而廟算勝者、得算多也。未戦而廟算不勝者、得算少也。多算勝、少算敗。況無算乎。吾以此観之、勝負見矣。
 夫(そ)れ未(いま)だ戦はずして廟算(びょうさん)して勝つ者(もの)は、算を得(う)ること多ければなり。未(いま)だ戦はずして廟算して勝たざる者(もの)は、算を得ること少ければなり。算多きは勝ち、算少きは勝たず。況(いはん)んや算無きをや。吾(われ)此(こ)れを以(もっ)て之(これ)を観るに、勝負見(あら)はる。
 実戦の前に彼我の能力を冷徹に計算するシミュレーション能力がすぐれている者は、実戦でも勝利する。シミュレーション能力が弱い者は、実戦の前にすでに敗北している。シミュレーション能力が優れている者は勝ち、劣っている者は勝てない。まして、シミュレーション能力がゼロの者の運命にいたっては、言うまでもない。私はシミュレーションにより、戦争の勝敗を予測することができる。

其(そ)の下(げ)は城(しろ)を攻(せ)む 『孫子』謀攻第三
 故上兵伐謀、其次伐交、其次伐兵、其下攻城。
 故(ゆゑ)に上兵は謀を伐(う)ち、其(そ)の次は交を伐ち、其(そ)の次は兵を伐ち、其(そ)の下は城を攻む。
 最高の戦略とは、敵にそもそも戦争する気を起こさせぬことである。次善の上策は、敵を外交的に抑えることである。その次の策は、敵の軍事力を叩くことである。最低の下策は、敵の本拠地を攻撃することである。

百戦百勝よりも不戦必勝を 『孫子』謀攻第三
 孫子曰、凡用兵之法、全国為上、破国次之。全軍為上、破軍次之。全旅為上、破旅次之。全卒為上、破卒次之。全伍為上、破伍次之。是故百戦百勝、非善之善者也。不戦而屈人之兵、善之善者也。
 孫子曰(いは)く、凡(おほよ)そ用兵の法は、国(くに)を全(まった)うするを上(じょう)と為(な)し、国を破るは之(これ)に次(つ)ぐ。軍を全うするを上と無し、軍を破るは之(これ)に次ぐ。旅(りょ)を全うするを上と無し、旅を破るは之(これ)に次ぐ。卒(そつ)を全うするを上と為(な)し、卒を破るは之(これ)に次ぐ。伍(ご)を全うするを上と無し、伍を破るは之(これ)に次ぐ。是(こ)の故(ゆゑ)に、百戦百勝は、善の善なる者(もの)に非(あら)ざるなり。戦はずして人の兵を屈す、善の善なるものなり。
 戦争の原則。国の保全が最高で、国を破るのは二番目である。軍(軍隊の編成単位。周の制度では兵力一万二千五百人)の保全が最高で、軍を破るのは二番目である。旅(五百人)の保全が最高で、旅を破るのは二番目である。卒(百人)の保全が最高で、卒を破るのは二番目である。伍(五人)の保全が最高で、伍を破るのは二番目である。それゆえ、百戦百勝は最高の勝利とはいえない。戦わずに敵の戦意をねじふせることこそ、最高の勝利である。

囲師(いし)には必ず闕(か)く 『孫子』軍争篇第七
故用衆之法、高陵勿向、倍丘勿迎、佯北勿従、囲師遺闕、帰師勿遏。此用衆之法也。
 故(ゆゑ)に衆(しゅう)を用(もち)うるの法(ほう)は、高陵(こうりょう)には向(むか)ふ勿(なか)れ、倍丘(ばいきゅう)には迎(むか)ふる勿(なか)れ、佯(いつは)り北(に)ぐるには従(したが)ふ勿(なか)れ、囲師(いし)には闕(か)くるを遺(のこ)し、帰師(きし)には遏(とど)むる勿(なか)れ。此(こ)れ衆を用うるの法なり。
 軍隊を動かすときの原則。高地に陣取る敵は攻撃するな。高地を背に陣取る敵は迎撃するな。敗走するふりをする敵を追撃するな。敵を包囲するときは、わざと敵に逃げ道を残しておけ。帰国途上の敵を阻止しようとするな。これらが、軍隊を動かす原則である。

〇おまけ 『三国志・蜀書』馬謖伝より
 用兵之道、攻心為上、攻城為下。心戦為上、兵戦為下。
 用兵の道は、心を攻むるを上となし、城を攻むるを下となす。心戦を上となし、兵戦を下となす。
 用兵の道は、相手の心を攻めるのが上策で、城を攻めるのは下策。心を動かす戦いは上策で、軍を動かす戦いは下策である。
 諸葛孔明が南征したとき、馬謖が述べた意見。


○その他


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○ポイント、キーワード
○辞書的な説明
○略年表
○その他


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○ポイント、キーワード
○辞書的な説明 参考

○略年表 ○その他


12/14 洪秀全 ― 清末の太平天国の乱を起したカルト教祖
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○ポイント、キーワード
○辞書的な説明
○略年表 ○その他


12/28 梅蘭芳 ― 毛沢東が「私より有名だ」と言った名優
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○ポイント、キーワード
○辞書的な説明
○略年表 ○その他


【参考】 今まで取り上げた人物
★講座の実施日順
  1. 秦の始皇帝
  2. 前漢の高祖・劉邦
  3. 宋の太祖・趙匡胤
  4. 清末の西太后
  5. 中華人民共和国の毛沢東
  6. 共通祖先の作り方 黄帝
  7. 東アジアに残した影響 漢の武帝
  8. インフラ化した姓 後漢の光武帝
  9. 汚れた英雄のクリーニング 唐の太宗
  10. 史上最強の引き締めの結末 明の洪武帝
  11. 打ち破れなかった2つのジンクス 蒋介石
  12. パワーゲーマーの栄光と転落 唐の玄宗
  13. 織田信長もあこがれた古代の聖王 周の文王
  14. 「19浪」の苦節をのりこえた覇者 晋の文公
  15. 早すぎた世界帝国 元のクビライ
  16. 中国統治の要道を示した大帝 康煕帝
  17. 21世紀の中国をデザイン ケ小平
  18. 魏の曹操 漢・侠・士の男の人間関係
  19. 殷の紂王 酒池肉林の伝説の虚と実
  20. 斉の桓公 中国史上最初の覇者
  21. 唐の武則天 中国的「藩閥」政治の秘密
  22. 清の乾隆帝 世界の富の三割を握った帝王
  23. 周恩来 失脚知らずの不倒翁
  24. 古代の禹王 中華文明の原体験
  25. 蜀漢の諸葛孔明 士大夫の典範
  26. 宋の徽宗 道楽をきわめた道君皇帝
  27. 明の永楽帝 世界制覇の見果てぬ夢
  28. 清の李鴻章 老大国をささえた大男
  29. 臥薪嘗胆の復讐王・勾践
  30. 始皇帝をつくった男・呂不韋
  31. 劉邦をささえた宰相・蕭何
  32. チンギス・カンの側近・耶律楚材
  33. 大元帥になった国際人・孫文
  34. 清と満洲国の末代皇帝・溥儀
  35. 太古の堯と舜 「昭和」の出典になった伝説の聖天子
  36. 蜀漢の劉備 「負け太り」で勝ち抜いた三国志の英雄
  37. 明の万暦帝 最後の漢民族系王朝の最後の繁栄
  38. 袁世凱 83日間で消えた「中華帝国」の「洪憲皇帝」
  39. 劉少奇 21世紀も終わらない毛沢東と劉少奇の闘争
  40. 楚の荘王――初めは飛ばず鳴かずだった覇者
  41. 斉の孟嘗君――鶏鳴狗盗の食客を活用した戦国の四君
  42. 呉の孫権――六朝時代を創始した三国志の皇帝
  43. 梁の武帝――ダルマにやりこめられた皇帝菩薩
  44. 南唐の李U――李白と並び称せられる詩人皇帝
  45. 台湾の鄭成功――大陸反攻をめざした日中混血の英雄
  46. 趙の藺相如――国を守った刎頸の交わり
  47. 前秦の苻堅――民族融和を信じた帝王の悲劇
  48. 北魏の馮太后――欲深き事実上の女帝
  49. 隋の煬帝――日没する処の天子の真実
  50. 明の劉瑾――帝位をねらった宦官
  51. 林彪――世界の中国観を変えた最期
  52. 項羽――四面楚歌の覇王
  53. 司馬仲達――三国志で最後に笑う者
  54. 太武帝――天下を半分統一した豪腕君主
  55. 憑道――五朝八姓十一君に仕えた不屈の政治家
  56. チンギス・カン――子孫は今も1600万人
  57. 宋美齢――英語とキリスト教と蒋介石
  58. 平原君―食客とともに乱世を戦う
  59. 陳平―漢帝国を作った汚い政治家
  60. 秦檜―最も憎まれた和平主義者
  61. 曽国藩―末世を支えた栄光なき英雄
  62. 汪兆銘―愛国者か売国奴か
  63. 江青―女優から毛沢東夫人へ
  64. 孔子 東洋の文明をデザインした万世の師表
  65. 司馬遷 司馬遼太郎が心の師とした歴史の父
  66. 玄奘 孫悟空の三蔵法師のモデルはタフガイ
  67. 李白 酒と旅を愛した詩人の謎に満ちた横顔
  68. 岳飛 中華愛国主義のシンボルとなった名将
  69. 魯迅 心の近代化をはかった中国の夏目漱石
  70. 扁鵲 超人的な医術を駆使した伝説の名医
  71. 孟子 仁義と王道政治を説いた戦国の亜聖
  72. 達磨 中国禅宗の祖師はインド人の仏教僧
  73. 白居易 清少納言と紫式部の推しの大詩人
  74. 鄭和 大航海時代を開いたムスリムの宦官
  75. 李小龍 哲学と映画に心血を注いだ武術家
  76. 夏姫 衰えぬ美貌で多くの君臣と関係した美魔女
  77. 孫子 戦争哲学を説いた春秋と戦国の二人の孫子
  78. 張騫 武帝の命令で西域を探検した前漢の冒険家
  79. 慧能 日本・中国・韓国・ベトナムの禅僧の源流
  80. 洪秀全 清末の太平天国の乱を起したカルト教祖
  81. 梅蘭芳 毛沢東が「私より有名だ」と言った名優

★時代順
先秦時代(三皇五帝、夏・殷・周、春秋・戦国)
  1. 共通祖先の作り方 黄帝
  2. 太古の堯と舜 「昭和」の出典になった伝説の聖天子
  3. 古代の禹王 中華文明の原体験
  4. 殷の紂王 酒池肉林の伝説の虚と実
  5. 織田信長もあこがれた古代の聖王 周の文王
  6. 斉の桓公 中国史上最初の覇者
  7. 「19浪」の苦節をのりこえた覇者 晋の文公
  8. 夏姫 衰えぬ美貌で多くの君臣と関係した美魔女
  9. 楚の荘王――初めは飛ばず鳴かずだった覇者
  10. 孫子 戦争哲学を説いた春秋と戦国の二人の孫子
  11. 孔子 東洋の文明をデザインした万世の師表
  12. 扁鵲 超人的な医術を駆使した伝説の名医
  13. 臥薪嘗胆の復讐王・勾践
  14. 孟子 仁義と王道政治を説いた戦国の亜聖
  15. 斉の孟嘗君――鶏鳴狗盗の食客を活用した戦国の四君
  16. 平原君―食客とともに乱世を戦う
  17. 趙の藺相如――国を守った刎頸の交わり
秦・漢・三国(漢末)
  1. 秦の始皇帝
  2. 始皇帝をつくった男・呂不韋
  3. 項羽――四面楚歌の覇王
  4. 前漢の高祖・劉邦
  5. 劉邦をささえた宰相・蕭何
  6. 陳平―漢帝国を作った汚い政治家
  7. 東アジアに残した影響 漢の武帝
  8. 張騫 武帝の命令で西域を探検した前漢の冒険家
  9. 司馬遷 司馬遼太郎が心の師とした歴史の父
  10. インフラ化した姓 後漢の光武帝
  11. 魏の曹操 漢・侠・士の男の人間関係
  12. 蜀漢の劉備 「負け太り」で勝ち抜いた三国志の英雄
  13. 蜀漢の諸葛孔明 士大夫の典範
  14. 司馬仲達――三国志で最後に笑う者
  15. 呉の孫権――六朝時代を創始した三国志の皇帝
魏晋南北朝(五胡十六国時代、六朝時代)
  1. 前秦の苻堅――民族融和を信じた帝王の悲劇
  2. 北魏の太武帝――天下を半分統一した豪腕君主
  3. 北魏の馮太后――欲深き事実上の女帝
  4. 梁の武帝――ダルマにやりこめられた皇帝菩薩
  5. 達磨 中国禅宗の祖師はインド人の仏教僧
隋・唐から宋・元
  1. 隋の煬帝――日没する処の天子の真実
  2. 汚れた英雄のクリーニング 唐の太宗
  3. 玄奘 孫悟空の三蔵法師のモデルはタフガイ
  4. 唐の武則天 中国的「藩閥」政治の秘密
  5. 慧能 日本・中国・韓国・ベトナムの禅僧の源流
  6. パワーゲーマーの栄光と転落 唐の玄宗
  7. 李白 酒と旅を愛した詩人の謎に満ちた横顔
  8. 白居易 清少納言と紫式部の推しの大詩人
  9. 憑道――五朝八姓十一君に仕えた不屈の政治家
  10. 南唐の李U――李白と並び称せられる詩人皇帝
  11. 宋の太祖・趙匡胤
  12. 宋の徽宗 道楽をきわめた道君皇帝
  13. 秦檜―最も憎まれた和平主義者
  14. 岳飛 中華愛国主義のシンボルとなった名将
  15. チンギス・カン――子孫は今も1600万人
  16. チンギス・カンの側近・耶律楚材
  17. 早すぎた世界帝国 元のクビライ
明・清
  1. 史上最強の引き締めの結末 明の洪武帝
  2. 明の永楽帝 世界制覇の見果てぬ夢
  3. 鄭和 大航海時代を開いたムスリムの宦官
  4. 明の劉瑾――帝位をねらった宦官
  5. 明の万暦帝 最後の漢民族系王朝の最後の繁栄
  6. 台湾の鄭成功――大陸反攻をめざした日中混血の英雄
  7. 中国統治の要道を示した大帝 康煕帝
  8. 清の乾隆帝 世界の富の三割を握った帝王
  9. 曽国藩―末世を支えた栄光なき英雄
  10. 洪秀全 清末の太平天国の乱を起したカルト教祖
  11. 清の李鴻章 老大国をささえた大男
  12. 清末の西太后
  13. 清と満洲国の末代皇帝・溥儀
民国・中華人民共和国
  1. 大元帥になった国際人・孫文
  2. 袁世凱 83日間で消えた「中華帝国」の「洪憲皇帝」
  3. 魯迅 心の近代化をはかった中国の夏目漱石
  4. 汪兆銘―愛国者か売国奴か
  5. 打ち破れなかった2つのジンクス 蒋介石
  6. 中華人民共和国の毛沢東
  7. 梅蘭芳 毛沢東が「私より有名だ」と言った名優
  8. 周恩来 失脚知らずの不倒翁
  9. 宋美齢――英語とキリスト教と蒋介石
  10. 劉少奇 21世紀も終わらない毛沢東と劉少奇の闘争
  11. 21世紀の中国をデザイン ケ小平
  12. 林彪――世界の中国観を変えた最期
  13. 江青―女優から毛沢東夫人へ
  14. 李小龍 哲学と映画に心血を注いだ武術家

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