講座番号:1647578 教室・オンライン自由講座 見逃し配信あり
歴史を理解することは、人間を理解すること。ヒストリー(歴史)とストーリー(物語)は、もとは同じ言葉でした。中国の伝統的な「紀伝体」の歴史書も、個々人の伝記を中心とした文学作品でした。
本講座では、日本にも大きな影響を残した中国史上の人物をとりあげ、運や縁といった個人の一回性の生きざまと、社会学的な法則や理論など普遍的な見地の両面から、人生を紹介します。豊富な図像を使い、予備知識のないかたにもわかりやすく解説します。(講師・記)
卿・大夫・士(けい・たいふ・し)
周王や諸侯の臣下を卿・大夫・士といい,その下の庶人と区別された。『礼記』(らいき)によれば,天子(周王)には三公,九卿,二七大夫,八一元士が並び,諸侯には上大夫卿,下大夫,上士,中士,下士の5等があった。諸侯には公,侯,伯,子,男の5等があったが,戦国時代以降は庶民にも爵が与えられて20等爵にふえた。公士,大夫などの名称が残り,士大夫も有職者のことをいう。
かきしゅんじゅう〔カキシユンジウ〕【夏姫春秋】
宮城谷昌光の歴史小説。中国の春秋時代の美女、夏姫をモデルとした作品。平成3年(1991)刊行。同年、第105回直木賞受賞。
春秋五覇のひとりである楚の荘王(在位前614年 - 前591年)が、鄭にスッポンを贈ってきた。 霊公は、スッポン料理を家臣たちにふるまうことにした。 公子である子家と子公も宴に招かれた。宴会場にむかう道々、子公の指のうち一本がビクビクとふるえた。彼は「この指が動くのは、珍味にありつけるきざしだ」と言った。はたして、宴会場では、スッポンのごちそうがあったので、二人は顔を見合わせて笑った。 霊公は、二人が笑った理由を問いただすと、意地悪をして、子公にのみスッポン料理を出さなかった。子公は怒り、スッポンの鍋に指を突っ込んでペロリとなめて、退出した。(霊公は親楚路線、子公は親晋路線で、外交政策の対立もあり二人の仲はもともと悪かったともいう) 霊公は、子公の無礼に怒り、彼を討伐しようとした。子公は子家を誘って挙兵し、霊公を殺した。 |
『春秋左氏伝』(左伝)成公二年の条 楚之討陳夏氏也、莊王欲納夏姫。申公巫臣曰 「不可。君召諸侯、以討罪也。今納夏姫,貪其色也。貪色為淫、淫為大罰。周書曰『明コ慎罰』。文王所以造周也。明コ、務崇之之謂也。慎罰、務去之之謂也。若興諸侯以取大罰、非慎之也。君其図之」。王乃止。 子反欲取之。巫臣曰「是不祥人也。是夭子蛮、殺御叔、弑靈侯、戮夏南、出孔・儀、陳國,何不祥如是? 人生實難、其有不獲死乎? 天下多美婦人、何必是?」子反乃止。 王以予連尹襄老。襄老死于邲,不獲其尸。 其子K要烝焉。 |
春秋時代 前770-前403 | 戦国時代 前403-前221 | |
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人物の例 | 孫武 | 孫臏 |
総人口 | 約5百万 | 約2千万 |
武器 | 青銅器 | 鉄器 |
軍 | 戦車 | 歩兵 |
国家 | 諸侯国 | 戦国の七雄 |
兵法 へいほう
軍学,兵学のこと。〈用兵の法〉の略語で,兵はもと武器の意から転じて軍隊の意。戦争技術としての戦術論,戦略論を含む戦争論である。
[中国]
中国の兵法は,戦争を国家の存亡にかかわる大事ととらえ,政治経済とも不可分の関係で説かれるほか,将帥の人格的役割を重んじ,人心の和合を具体的・技術的方法とともに用兵上の眼目とするところに,特色がある。したがって,その兵法は具体的な戦術論も重要ではあるが,それを裏打ちする思想性があり,戦争一般から人生問題にも通ずる広がりをもっている。
そん‐し【孫子】
(一)孫武または孫臏(そんぴん)の敬称。
(二)中国、戦国時代の兵法書。1巻13編。呉の孫武の著といわれる。成立年代未詳。始計・作戦・軍形・兵勢などに分け兵法を論じる。「呉子」とともに孫呉と並称される。1972年に発見された竹簡により、現在の「孫子」は孫武の「孫子兵法」の一部であり、別に孫臏の「孫臏兵法」が存在したことが解明された。
そん‐ぶ【孫武】
中国、春秋時代の兵法家。斉の人。呉王闔閭(こうりょ)に仕え、楚・晉を威圧し、呉を覇者とした。軍隊に節制規律を徹底させたといわれる。兵書「孫子」の著者とされている。孫子。生没年不詳。
そん‐ぴん【孫臏】
中国、戦国時代斉の武将。孫武の子孫。魏将の龐涓(ほうけん)にその才をねたまれ、臏刑(両足を断つ刑)に処せられたが、威王の軍師となり、前三五三年に龐涓の率いる魏軍を破り、恥をそそいだ。生没年不詳。
孫子武者,齊人也。以兵法見於吳王闔廬。闔廬曰:「子之十三篇,吾盡觀之矣,可以小試勒兵乎?」對曰:「可。」闔廬曰:「可試以婦人乎?」曰:「可。」於是許之,出宮中美女,得百八十人。孫子分為二隊,以王之寵姬二人各為隊長,皆令持戟。令之曰:「汝知而心與左右手背乎?」婦人曰:「知之。」孫子曰:「前,則視心;左,視左手;右,視右手;後,即視背。」婦人曰:「諾。」約束既布,乃設鈇鉞,即三令五申之。 |
於是鼓之右,婦人大笑。孫子曰:「約束不明,申令不熟,將之罪也。」復三令五申而鼓之左,婦人復大笑。孫子曰:「約束不明,申令不熟,將之罪也;既已明而不如法者,吏士之罪也。」乃欲斬左右隊長。吳王從臺上觀,見且斬愛姬,大駭。趣使使下令曰:「寡人已知將軍能用兵矣。寡人非此二姬,食不甘味,願勿斬也。」孫子曰:「臣既已受命為將,將在軍,君命有所不受。」遂斬隊長二人以徇。用其次為隊長,於是復鼓之。婦人左右前後跪起皆中規矩繩墨,無敢出聲。於是孫子使使報王曰:「兵既整齊,王可試下觀之,唯王所欲用之,雖赴水火猶可也。」吳王曰:「將軍罷休就舍,寡人不願下觀。」孫子曰:「王徒好其言,不能用其實。」於是闔廬知孫子能用兵,卒以為將。西破彊楚,入郢,北威齊晉,顯名諸侯,孫子與有力焉。 |
孫武既死,後百餘歲有孫臏。臏生阿鄄之閒,臏亦孫武之後世子孫也。孫臏嘗與龐涓俱學兵法。龐涓既事魏,得為惠王將軍,而自以為能不及孫臏,乃陰使召孫臏。臏至,龐涓恐其賢於己,疾之,則以法刑斷其兩足而黥之,欲隱勿見。 |
齊使者如梁,孫臏以刑徒陰見,說齊使。齊使以為奇,竊載與之齊。齊將田忌善而客待之。忌數與齊諸公子馳逐重射。孫子見其馬足不甚相遠,馬有上、中、下、輩。於是孫子謂田忌曰:「君弟重射,臣能令君勝。」田忌信然之,與王及諸公子逐射千金。及臨質,孫子曰:「今以君之下駟與彼上駟,取君上駟與彼中駟,取君中駟與彼下駟。」既馳三輩畢,而田忌一不勝而再勝,卒得王千金。於是忌進孫子於威王。威王問兵法,遂以為師。 |
其後魏伐趙,趙急,請救於齊。齊威王欲將孫臏,臏辭謝曰:「刑餘之人不可。」於是乃以田忌為將,而孫子為師,居輜車中,坐為計謀。田忌欲引兵之趙,孫子曰:「夫解雜亂紛糾者不控棬,救鬬者不搏撠,批亢擣虛,形格勢禁,則自為解耳。今梁趙相攻,輕兵銳卒必竭於外,老弱罷於內。君不若引兵疾走大梁,據其街路,衝其方虛,彼必釋趙而自救。是我一舉解趙之圍而收獘於魏也。」田忌從之,魏果去邯鄲,與齊戰於桂陵,大破梁軍。 |
後十三歲,魏與趙攻韓,韓告急於齊。齊使田忌將而往,直走大梁。魏將龐涓聞之,去韓而歸,齊軍既已過而西矣。孫子謂田忌曰:「彼三晉之兵素悍勇而輕齊,齊號為怯,善戰者因其勢而利導之。兵法,百里而趣利者蹶上將,五十里而趣利者軍半至。使齊軍入魏地為十萬灶,明日為五萬灶,又明日為三萬灶。」龐涓行三日,大喜,曰:「我固知齊軍怯,入吾地三日,士卒亡者過半矣。」乃棄其步軍,與其輕銳倍日并行逐之。孫子度其行,暮當至馬陵。馬陵道陜,而旁多阻隘,可伏兵,乃斫大樹白而書之曰「龐涓死于此樹之下」。於是令齊軍善射者萬弩,夾道而伏,期曰「暮見火舉而俱發」。龐涓果夜至斫木下,見白書,乃鉆火燭之。讀其書未畢,齊軍萬弩俱發,魏軍大亂相失。龐涓自知智窮兵敗,乃自剄,曰:「遂成豎子之名!」齊因乘勝盡破其軍,虜魏太子申以歸。孫臏以此名顯天下,世傳其兵法。 |
『Sun Tzu's The Art of War』(一九六三年) =英訳『孫子』に、リデル・ハート(B.H. Liddell Hart)が寄せた序文より。
Sun Tzu's essays on The Art of War form the earliest of known treatises on the subject, but have never been surpassed in comprehensiveness and depth of understanding. They might well be termed the concentrated essence of wisdom on the conduct of war. Among all the military thinkers of the past, only Clausewitz is comparable, and even he is more `dated' than Sun Tzu, and in part antiquated, although he was writing more than two thousand years later. Sun Tzu has clearer vision, more profound insight, and eternal freshness. (兵法に関する孫子の論考は、兵法に関する論考の中で最も古くから知られているものであるが、その包括性と理解の深さにおいて、これを超えるものはない。戦争遂行に関する叡智のエッセンスが凝縮されたものと言ってよかろう。過去のあらゆる軍事思想家の中でこれに匹敵するのは、クラウゼヴィッツだけであるが、そのクラウゼヴィッツさえ孫子にくらべれば「時代遅れ」であり、2千年以上も後に書かれたにもかかわらず部分的には古臭いのだ。孫子には、より明確なビジョンとより深い洞察力、そして永遠の新鮮さがある。) [注] 〇The Art of War=「(孫子の)兵法」の英訳名 〇Sun Tzu=孫子 〇Clausewitz=『戦争論』の著者、クラウゼヴィッツ。 |
Q 中国の西方の地域「西域」が歴史・紀行番組などでよく登場しますが、その読みは[サイイキ][セイイキ]のどちらでしょうか。
A 歴史的な用語としては、[サイイキ]と読んでいます。
解説
「西域」は、中国人が自分たちの西方の地域や諸国を総称したことばです。狭義には現在の中国西部の新彊<きょう>・ウイグル自治区方面をさします。読み方には(1)[サイイキ](2)[セイイキ]の両方あり、辞書類の扱いをみても(1)を採るもの(2)を採るもの、両方を採るものとマチマチです。しかし、歴史・文化部門の用語としては、古くから[サイイキ]と読まれ、東洋史などの専門家の慣用的な読みは[サイイキ]です。また、同音語の「聖域」[セイイキ]との混同が避けられるということからも、「西域」を歴史的な用語として放送で使う場合には、[サイイキ]と読んでいます。ただし、現在の新彊<きょう>・ウイグル自治区方面を主にさして言う場合は、[セイイキ]と読んでもよいことにしています。
同じ「西〜」ということばで、読み方をよく迷う用語に「西方」と「西国」があります。このうち、「西方」は、「西の方角」を意味する一般的な用語の場合は[セイホー]、「西方浄土」など仏教用語の場合は[サイホー]と読みます。(以下、略)
オアシスの道 オアシスのみち oasis-route
中央アジアのオアシスを連ねる交易路。別名絹の道(シルク-ロード)
中国からトルキスタン・イラン高原・メソポタミアを通る,東西の文明圏を最短距離で結ぶ道。この交易路の利益をねらう遊牧民の介入も多くみられるが,8世紀以降イスラーム勢力が進出し,その支配下にはいった。イスラーム勢力の拡大に伴い,アフリカも含めた,三大陸にまたがる交易路が成立した。
慧能 えのう(638―713)
中国、唐代の僧。中国禅宗の第六祖。俗姓は盧(ろ)氏。諡号(しごう)は大鑑真空普覚円明(だいかんしんくうふかくえんみょう)禅師。六祖(ろくそ)大師ともいわれる。新州(広東(カントン)省)に生まれ、3歳で父を失い、市に薪(まき)を売って母を養っていたが、ある日、客の『金剛経』を誦(じゅ)するのを聞いて出家の志を抱き、蘄州(きしゅう)(湖北省)黄梅(おうばい)の東山に禅宗第五祖、弘忍(こうにん)を尋ね、仏性(ぶっしょう)問答によって入門を許された。8か月の碓房(たいぼう)(米ひき小屋)生活ののち、弘忍より大法を相伝し、南方に帰って猟家に隠れていたが、676年(儀鳳1)南海法性寺(ほうしょうじ)にて印宗(いんしゅう)(627―713)法師の『涅槃経(ねはんぎょう)』を講ずる席にあい、風幡(ふうばん)問答によって認められ、印宗によって剃髪(ていはつ)、受具した。翌677年、韶州(しょうしゅう)(広東省)曹渓(そうけい)の宝林寺に住し、禅法を発揚し、多くの信奉者を得た。705年(神龍1)中宗(ちゅうそう)の招きにも病と称して行かず、先天2年8月3日新州にて寂した。説法集『六祖壇経』があり、その禅法は南頓(なんとん)(南宗の頓悟(とんご)禅)とよばれ、神秀(じんしゅう)の北漸(ほくぜん)(北宗の漸悟(ぜんご)禅)と並び称された。門人に南岳懐譲(なんがくえじょう)、青原行思(せいげんぎょうし)、南陽慧忠(なんようえちゅう)(?―775)、司空本浄(しくうほんじょう)(667―761)、荷沢神会(かたくじんね)などを輩出し、後の五家(ごけ)七宗はすべてこの門より発展した。
[田中良昭 2017年1月19日]
『駒沢大学禅宗史研究会編『慧能研究』(1978・大修館書店)』
六祖壇経 ろくそだんぎょう
中国、唐代の禅宗語録。禅宗第6祖慧能(えのう)が韶州剌史(しょうしゅうしし)韋拠(いきょ)の要請にこたえ、大梵寺(だいぼんじ)の戒壇(かいだん)で行った授戒説法を、弟子の法海(ほうかい)が記録したものとされているが、後人の付加部分も混入している。禅宗語録に仏陀(ぶっだ)の説法の呼称である「経」の字が用いられている例はほかになく、南宗禅の祖としての慧能に、仏陀と同等の地位と権威を与えようとした撰者(せんじゃ)の意図がうかがわれる。内容は慧能一代の行実とその説法を集録したもので、南宗禅の基本的立場とその特質を示す根本資料としてきわめて重視されている。テキストには現存最古で一巻本の敦煌(とんこう)本をはじめ、二巻本の恵マ(えきん)本系統や一巻本の徳異本や宗宝本の系統などがあり、異本間相互の異同も著しい。
[田中良昭]
こう‐しゅうぜん〔‐シウゼン〕【洪秀全】
[1814〜1864]中国清末、太平天国の最高指導者。花県(広東(カントン)省)の人。自らをエホバの子であるとして、上帝会を組織。1851年、挙兵して自ら天王と称し、国名を太平天国とした。南京を攻略して都としたが、内紛を起こして清軍に敗れ、南京陥落直前に病死。
洪秀全 こうしゅうぜん(1814―1864)
中国、太平天国の創始者。広州から50キロメートルほど離れた花県の客家(ハッカ)の農民の子。23歳のとき、科挙に三たび失敗し、熱病を病んだ際、天使に迎えられて昇天し、金髪の老人から、天下の人々を惑わし堕落させている妖魔(ようま)を退治せよとの使命を与えられ、天上で彼らと戦うという幻夢をみた。彼はかつて、偶然広州の試験場前で入手した新教系のキリスト教入門書『勧世良言』を読んで、かの老人こそは唯一の真の神天父上帝であり、妖魔とは中国にはびこる儒・仏・道教などのさまざまな偽りの神仏、偶像で、彼は上帝からこれらを一掃する聖なる使命を与えられたのだと確信し、1843年拝上帝教を創始した。彼はこの神をエホバ(ヤーウェ)と等置したが、実際は中国古来の人格神すなわち上帝を唯一神としたもので、キリスト教とは異質のものであった。彼は、すべての男は上帝から生命を与えられた兄弟であり、女は姉妹であって、一大家族として差別・対立のない世界に生きるべきだとして、その理想を孔子が『礼記(らいき)』「礼運篇(れいうんへん)」に記した大同に仮託して描いた。初期にはすべての人がこの正しい信仰にたち、上帝が教えた禁欲的戒律を守れば、この理想は実現されるとして、かならずしも地上の革命を考えてはいなかった。
1847年広西(カンシー)の桂平県で開始した偶像(神廟(しんびょう)、神像)破壊運動をきっかけに、支配秩序と激しく対立し、やがて清(しん)朝を最大の妖魔として打倒して、地上に天国を樹立するための革命に進んだ。1850年末に清軍との大規模な戦闘に入り、1851年に天王を称し、国号も太平天国として、1853年南京(ナンキン)を首都に新政権を樹立するまで、彼はその権威を十分に活用して、運動の実際面でも大きな役割を果たした。しかし、南京建都後は、政治、軍事の指導をもっぱら東王楊秀清(ようしゅうせい)(1820ころ―1856)にゆだね、壮麗な天王府の奥深く、多数の后妃に囲まれて暮らし、その宗教もしだいに神秘性を加えた。1856年の大分裂以後は、一族以外の部下を信頼せず、内部分解に拍車をかけた。南京陥落の20日前に病死したが、その死の真相は、曽国藩(そうこくはん)が湘軍(しょうぐん)の功を強調するため、李秀成(りしゅうせい)の供述書における秀全の病死という記述を、服毒自殺と改竄(かいざん)したため、長く隠されてきた。
[小島晋治 2018年6月19日]『小島晋治著『洪秀全』(『人物中国の歴史9』所収・1981・集英社)』
太平天国 たいへいてんごく
1851年1月,反清革命軍が建てた政権
1851年洪秀全を指導者とした貧農・手工業者が広西の金田村で蜂起し,同年太平天国を宣言,湖南をへて長江流域に進出した。1853年に南京を占領して首都(天京)とし,洪は天王と自称した。上帝会のキリスト教思想にもとづき,土地均分を建て前とした天朝田畝 (てんちようでんぽ) 制度を発布し,纏足 (てんそく) ・賭博・アヘンを禁じ,清朝の強制した辮髪を拒否して長髪とした(清朝側からは長髪族とも呼ばれた)。その改革は社会・経済・宗教・思想にまで及んだが,最盛期は1856年までで,以後,幹部の対立から衰え,各地の幹部は洪の統制を離れて自立の傾向を示した。李秀成 (りしゆうせい) の軍団がもっぱら首都防衛に当たったが,曾国藩や李鴻章の郷勇 (きようゆう) やゴードンらの常勝軍などの攻撃を受けて江浙 (こうせつ) などの地盤を失い,1864年洪秀全は自殺(病死説もある),南京も陥落して滅亡した。
メイ‐ランファン【梅蘭芳】
[1894〜1961]中国の京劇俳優。北京の生まれ。女形として世界的名声を博し、京劇の改革にも努めた。中国京劇院院長などを歴任。
京劇
中国の伝統的な演劇。中国には、昆劇、越劇、川劇など100を超す多くの伝統的地方演劇があるが、北京を中心とする京劇はその頂点にあり、約200年の歴史を持つ。歌、せりふ、立ち回りなどを組み合わせ、ことばと音楽と舞踊を融合させた総合的な演劇で、欧米などでは北京オペラと呼ばれる。伝統的に女性の役は女形が演じたが、近年の中国では女形は廃され、女優が演じている。 (扇田昭彦 演劇評論家 / 2007年)
中国の約三百種にのぼる地方劇の頂点に立つ京劇‘京剧 ’jīngjùは、日本の歌舞伎にあたる伝統音楽劇である。「京劇」という名称が定着したのは1949年の新中国建国以降で、それ以前は二黄(にこう)(二簧)、皮黄(ひこう)(皮簧)、京戯(けいぎ)、平劇(へいげき)(北京が北平と改称されていた時代の呼称)、国劇(こくげき)など様々な呼称で呼ばれた。日本語では「京劇」をケイゲキと読んだが、今日は普通キョウゲキと読む。
歴史 1790年、乾隆帝(けんりゅうてい)八十歳の祝賀のとき、安徽(あんき)省から四つの劇団「四大徽班(しだいきはん)」が相次いで北京に進出して成功した。のちに湖北(こほく)省から北京に進出した俳優たちも合流した。安徽と湖北の地方劇を核とし、崑劇(こんげき)‘昆剧 ’kūnjù や梆子(バンズ)‘梆子’bāngzǐ など他の地方劇の要素を吸収しつつ、京劇が形成された。京劇は異民族支配下の清朝に生まれたが、舞台衣装は明朝以前の漢民族の服飾文化を基礎とし、演目も漢民族の伝統的価値観を鼓吹する歴史ものが多く、清末から民国期にかけての民族意識覚醒の時流に乗り、社会の幅広い階層に支持され、全国に広まった。また北京の京劇が正統派の伝統を重んずるに対して、上海京劇(海派京劇)は娯楽性と革新性を追求するなど、地域による個性も生まれた。名優も輩出し、なかでも日本や欧米で京劇公演を行って国際的名声を得た女形(おんながた)の梅蘭芳(メイランファン)(1894-1961)‘梅兰芳 ’Méi Lánfāng は有名である(彼は中国語の原音で名前を日本人に記憶された最初の中国人と言われる)。
新中国建国後、中国共産党は文芸政策の要として京劇改革に力を入れた。文化大革命の導火線となった新編歴史京劇『海瑞(かいずい)の免官』《海瑞罢官 》Hǎi Ruì bàguānや、文革中に模範劇‘样板戏’yàngbǎnxìの一つに指定された現代京劇『紅灯記』《红灯记 》Hóng dēng jì は日本でもよく知られている。文革後、改革開放路線のもと様々な大衆文化が勃興すると、京劇は娯楽の王様の地位を追われたが、今日でも中華民族文化の象徴として中高年層のあいだで根強い人気を保つと同時に、海外の演劇との合作公演など国際文化交流の一翼を担うようになった。
特徴 文学性を評価される元曲(元雑劇)や、2001年に世界文化遺産に指定された崑劇(こんげき)に比べると、京劇はより通俗的で娯楽性に富む演劇である。
本来の伝統京劇は、日本の能楽と同じく緞帳(どんちょう)や幕は使わず、舞台装置も机と椅子くらいで、伴奏楽隊も旋律楽器・打楽器あわせて数名と小規模だった。民国期以降、京劇が西洋式の大型劇場でも上演されるようになると、緞帳や幕、大規模な舞台装置も使われるようになった。
京劇の数千に及ぶ伝統演目の大半は作者不明である。伝統演目は歌中心の文戯‘文戏 ’wénxìと立ち回り中心の武戯‘武戏’wŭxìに二分されるが、概して前者のほうが品格が高いとされる。新中国建国後は、旧来の伝統演目に社会主義の視点から多大の改編が加えられたほか、多数の新編歴史京劇(新作の歴史もの)や現代京劇(近現代もの)が作られた。
京劇俳優は「唱(うた)・念(せりふ)・做(しぐさ)・打(たちまわり)」‘唱、念、做、打’chàng niàn zuò dǎの四技能をマスターしていることが要求される。俳優が演ずる役柄は、男性役「生(せい)」‘生’shēng、女性役「旦(たん)」‘旦’dàn、顔に隈取りを描く男性役「浄(じょう)」‘净’jìng、道化役「丑(ちゅう)」‘丑’chŏuの四つに大別され、それぞれ更に細分化される。昔の京劇は男優のみで演じられ、「旦」も男優が演じたが、民国期から女優の舞台進出が始まり、新中国では一部の例外を除き旦は女優に一本化された。京劇のプロ俳優・伴奏者の育成は、昔は科班(かはん)‘科班’kēbēnと呼ばれる私塾的な俳優養成所兼児童劇団で行われた。新中国では科班は廃止され、近代的な戯曲学校‘戏曲学校’xìqŭ xuéxiàoが各地に設置された。
京劇の音楽は、二黄‘二黄’èrhuáng、西皮‘西皮’xīpíなど既存の伝統的旋律を使い回しにする。演目によっては他の地方劇の音楽を借用したり、新曲を自製することもある。
伝統京劇のセリフは、帝王宰相や才子佳人などが喋(しゃべ)る古雅な韻白‘韵白’yùnbáiと、庶民や道化役が喋る下町言葉の京白‘京白’jīngbái、田舎者の言葉をまねた方言白‘方言白’fāngyánbáiなどに分かれる。韻白は、中国人でも劇通以外は耳で聴いて理解できない。いっぽう、現代京劇のセリフは、新韻白‘新韵白’xīn yùnbáiないし京音韻白‘京音韵白’jīngyīn yùnbáiという現代中国語に近い言葉を使うので、耳で聴いて完全に理解できる。