孔子 | イエス | |
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本名 | 氏は孔、名は丘、字は仲尼 | ヨシュア(יְהוֹשֻׁעַ, Yehoshuʿa) |
後世の称号 | 文宣王、至聖先師、他 | 神の子、メシア、キリスト、INBI(ユダヤ人の王、ナザレのイエス)、他 |
伝記資料 | 『史記』孔子世家、他 | 『新約聖書』福音書、他 |
身長 | 九尺六寸(2m16cm) | 身長152センチ説(当時の人骨から推定) 178センチ説(トリノ聖骸布) |
生没年 | 前552年(前551年説も)−前479年 | 前7年?…前4年?−30年頃 |
両親 | 叔梁紇(下級武士)と顔徴在(巫女) | ヨセフとマリア |
先祖 | 宋人(殷王朝の末裔) | ダヴィデ王 |
母語 | 中国語(古代漢語) | アラム語? ヘブライ語? |
師 | 「常師」無し | 洗礼者ヨハネ |
職業 | 公務員、政治家、教育者、校長、他 | 修行者、宗教家、呪術医、革命家、他 |
弟子 | 弟子三千人、高弟七十二人(「七十子」)、孔門十哲 | 十二使徒 |
配偶者 | 幵官(けんかん)氏(亓官or并官氏とも)。19歳で結婚 | 生涯独身 |
子孫 | 息子は孔鯉(字は伯魚)。 歴代の衍聖公。『孔子世家譜』2009年版では二百万人以上 | 無し |
死因 | 自然死。享年七十四 | 刑死 |
墓所 | 孔林 | 聖墳墓教会、世界各地の「キリストの墓」 |
後継者による宗教 | 儒教(Confucianism) | キリスト教 |
太史書曰「崔杼弑其君」、崔子殺之。其弟嗣書、而死者二人。其弟又書、乃舎之。
南史氏聞太史尽死、執簡以往、聞既書矣、乃還。
太史、書して曰く「崔杼、其の君を弑す」と。崔子、之を殺す。 其の弟、嗣(つ)ぎて書す。而(しこ)うして死する者二人なり。 其の弟、又書す。乃(すなわ)ち之を舍(お)く。 南史氏、太史は尽く死すと聞き、簡を執(と)りて以て往(ゆ)く。 既に書すと聞き、乃ち還(かえ)る。 春秋時代の斉の国の話。紀元前548年、政治家の崔杼は、自分の妻と不倫関係になった主君の荘公を殺した。 政変のあと、斉の史官が「崔杼は、自分の主君を弑逆した」と書いた。崔杼は史官を殺した。 史官の弟があとをつぎ、「崔杼は、自分の主君を弑逆した」と書いた。崔杼はこの弟も殺した。死者は二人になった。 次の弟があとをつぎ、「崔杼は、自分の主君を弑逆した」と書いた。崔杼は、あきらめた。 南の歴史家は、中央の史官がみな死んだと聞いて、史実を記録するための簡冊を持ってやってきたが、すでに歴史書に事実として書きとどめられたと聞いて、引き返した。 |
子曰く「我、之を空言に載せんと欲するも、之を行事に見(しめ)すの深切著明なるに如かざるなり」と。
(大学者の董仲舒先生によると)孔子はこのように言われたという。「私は、抽象的な議論よりも、人々の行為や事績の具体的な生きざまで示すほうが、はるかに深くはっきりと真理を述べることができる」と。 |
https://www.aozora.gr.jp/cards/000119/files/1737_14534.html 下大夫の一人として朝につらなっていたために彼もまた下問を受けた。そのとき、この男はハッキリと李陵を褒め上げた。(中略) 並いる群臣は驚いた。こんなことのいえる男が世にいようとは考えなかったからである。彼らはこめかみを顫ふるわせた武帝の顔を恐る恐る見上げた。それから、自分らをあえて全躯保妻子(くをまっとうしさいしをたもつ)の臣と呼んだこの男を待つものが何であるかを考えて、ニヤリとするのである。 向こう見ずなその男――太史令・司馬遷が君前を退くと、すぐに、「全躯保妻子の臣」の一人が、遷と李陵との親しい関係について武帝の耳に入れた。太史令は故あって弐師将軍と隙(げき)あり、遷が陵を褒めるのは、それによって、今度、陵に先立って出塞して功のなかった弐師将軍を陥しいれんがためであると言う者も出てきた。ともかくも、たかが星暦卜祀を司るにすぎぬ太史令の身として、あまりにも不遜な態度だというのが、一同の一致した意見である。おかしなことに、李陵の家族よりも司馬遷のほうが先に罪せられることになった。翌日、彼は廷尉に下された。刑は宮と決まった。 |
不東(ふとう) 「インドに行くまでは東の中国に戻らない」という意味の、玄奘の決意の言葉。 『大唐大慈恩寺三藏法師伝』によると、玄奘は長安をたち、瓜州(甘粛省安西県)をへて草原に入った。ひとりの老齢の胡人から「中国に戻ったほうがよいですよ」と言われた玄奘は、「私は大いなる法を求めるため西に出発したのです。もしバラモンの国に至るまでは、決して東に帰りません(終不東帰)。途中で死んでも後悔しません」と言った。 その後、玄奘が玉門関の軍事施設で身柄を官憲に一時的に拘束されたとき、また砂漠で水の入った皮袋を落として水を失ったときも、「不東」の決意を述べた。 日本国総理大臣をつとめた細川護熙氏の「不東庵」は、玄奘のこの言葉にちなむ。 |
おくのほそ道 月日は百代の過客にして、行きかふ年もまた旅人なり。舟の上に生涯を浮かべ、馬の口とらへて老いを迎ふる者は、日々旅にして、旅を栖とす。古人も多く旅に死せるあり。予も、いづれの年よりか、片雲の風に誘はれて、漂泊の思ひやまず、(以下略) |
静夜思(せいやし) 牀前看月光 牀前(しょうぜん) 月光(げっこう)を看(み)る 疑是地上霜 疑うらくは 是(こ)れ 地上(ちじょう)の霜(しも)かと 挙頭望山月 頭(こうべ)を挙げて(あげて) 山月(さんげつ)を望み(のぞみ) 低頭思故郷 頭(こうべ)を低れて(たれて) 故郷(こきょう)を思う(おもう) |
以下、https://ja.wikibooks.org/wiki/中学校国語_漢文/黄鶴楼にて孟浩然の_広陵に之くを送る より
【七言絶句】 黄鶴楼(こうかくろう)にて孟浩然(もうこうねん)の 広陵(こうりょう)に之く(ゆく)を送る 故人(こじん)西のかた、黄鶴楼(こうかくろう)を辞(じ)し 煙花(えんか)三月(さんがつ)揚州(ようしゅう)に下(くだ)る 孤帆(こはん)の遠影(えんえい)、碧空(へきくう)に尽(つ)き 唯だ(ただ)見る 長江(ちょうこう)の天際(てんさい)に流るる(ながるる)を |
【五言古詩】 内(つま)に贈る 三百六十日(さんびゃくろくじゅうにち) 日日(にちにち) 醉(よ)うて泥(でい)の如(ごと)し 李白の婦(ふ)と爲(な)ると雖(いえど)も 何ぞ太常(たいじょう)の妻(つま)に異(ことな)らん |
春夜(しゅんや)桃李園(とうりえん)に宴(えん)するの序(じょ) 夫(そ)れ天地(てんち)は萬物(ばんぶつ)の逆旅(げきりょ)にして、光陰(こういん)は百代(はくたい)の過客(かかく)なり。而(しか)して浮生(ふせい)は夢の若(ごと)し。歓(かん)を為(な)すこと幾何(いくばく)ぞ? 古人(こじん)の燭を秉(と)りて夜遊ぶは、良(まこと)に以(ゆえ)有るなり。 |
春夜(しゅんや) 洛城(らくじょう)に笛を聞く 李白 誰(た)が家の玉笛(ぎょくてき)ぞ 暗(あん)に声(こえ)を飛ばす 散(さん)じて春風(しゅんぷう)に入(い)り 洛城(らくじょう)に満(み)つ 此(こ)の夜(よ) 曲中(きょくちゅう) 折柳(せつりゅう)を 聞く 何人(なんぴと)か起こさざらん 故園(こえん)の情(じょう) 参考 singaku-07.html#jion |
雲想衣裳花想容。 春風拂檻露華濃。 若非群玉山頭見、 会向瑤台月下逢。 |
くもにはイショウをおもい、はなにはかたちをおもう。 シュンプウ、カンをはらってロカこまやかなり。 もしグンギョクサントウにみるにあらずんば、 かならずヨウダイゲッカにむかってあわん。 |
一枝濃艷露凝香。 雲雨巫山枉断腸。 借問漢宮誰得似? 可憐飛燕倚新粧! |
イッシのノウエン、つゆ、かおりをこらす。 ウンウフザン、むなしくダンチョウ。 シャモンすカンキュウ、たれかにるをえたる? カレンのヒエン、シンショウによる。 |
名花傾国両相歓。 常得君王帯笑看。 解釈春風無限恨、 沈香亭北倚闌干。 |
メイカ、ケイコク、ふたつながらあいよろこぶ。 つねにクンノウのわらいをおびてみるをえたり。 シュンプウムゲンのうらみをカイシャクして、 チンコウテイホク、ランカンによる。 |
晁卿衡(ちょうけいこう)を哭(こく)す 日本の晁卿(ちょうけい) 帝都を辞し 征帆(せいはん) 一片(いっぺん) 蓬壷(ほうこ)を繞(めぐ)る 明月(めいげつ)帰らず 碧海(へきかい)に沈み 白雲(はくうん) 愁色(しゅうしょく) 蒼梧(そうご)に満つ |
山中幽人と対酌す 両人 対酌すれば 山花開く 一杯一杯 復一杯 我酔うて眠らんと欲す 卿 且く去れ 明朝 意有らば 琴を抱いて來たれ |
さんちゅう ゆうじん と たいしゃく す りょうにん たいしゃくすれば さんか ひらく いっぱい いっぱい また いっぱい われようて ねむらんと ほっす きみ しばらく され みょうちょう い あらば ことを いだいて きたれ |
早(つと)に白帝城(はくていじょう)を発す(はっす) 朝(あした)に辞す(じす) 白帝(はくてい)彩雲(さいうん)の間(かん) 千里(せんり)の江陵(こうりょう) 一日(いちじつ)にして還る(かえる) 両岸(りょうがん)の猿声(えんせい) 啼いて(ないて)住まざる(やまざる)に 軽舟(けいしゅう)已に(すでに)過ぐ(すぐ) 万重(ばんちょう)の山(やま) |
がく‐ひ【岳飛】
[1103〜1141]中国、南宋の武将。湯陰(河南省)の人。字(あざな)は鵬挙(ほうきょ)。北宋末に義勇軍に入り、軍功をあげ、湖北の地で軍閥の巨頭となった。金軍との戦争を主張し、和議派の宰相秦檜(しんかい)に罪を着せられて獄死。後世、民族的英雄として岳王廟にまつられた。書家としてもすぐれていた。
文治主義 ぶんちしゅぎ
中国の為政者が武を抑え,文を重んじて国を統治する方針
唐末期〜五代の武人の割拠主義の弊害を除き,中央集権体制を整備するため,武官が占めていた官職をしだいに文官に入れかえて学問・文化を奨励。武備の弱化によって,後年異民族の圧迫に悩まされるようになった。宋の太祖趙匡胤 (ちようきよういん) の文治主義が有名。
題新淦蕭寺壁 雄氣堂堂貫斗牛 誓將直節報君讐 斬除頑惡還車駕 不問登壇萬戸侯 新淦の蕭寺壁に題す 雄気堂堂、斗牛を貫く 誓って直節をもって君讐を報ぜん。 頑悪を斬除して車駕をかへさば 問はず、登壇、万戸侯。 |
怒髮衝冠、 凭闌処、 瀟瀟雨歇。 擡望眼、 仰天長嘯、壮懐激烈、三十功名塵与土、 八千里路雲和月。莫等閑、 白了少年頭、 空悲切。 康恥、 猶未雪。 臣子憾、 何時滅。 駕長車踏破、 賀蘭山缺。 壮志饑餐胡虜肉、 咲談渇飮匈奴血。 待従頭、 収拾旧山河、 朝天闕。 怒髮、冠をつき、欄によるところ、瀟瀟たる雨やむ。望眼をもちあげ、天を仰ぎて長嘯すれば、壮懐は激烈たり。三十の功名は、塵と土と。八千里の路は、雲と月と。等閑にするなかれ、白くなりたる少年の頭、空しく悲切たり。 靖康の恥は、なおいまだすすがず。臣子のうらみは、いずれの時か滅せん。長車に駕して、賀蘭山を踏破してこぼたん。壮志あるもの饑ゑてくらふは胡虜の肉なり、笑談して渇きて飮むは匈奴の血なり。はじめよりもとの山河を 收拾するを待ちて、天闕に朝せん。 参考 http://www5a.biglobe.ne.jp/~shici/p8yuefei.htm |
昨夜寒蛩不往鳴 昨夜 寒きこおろぎは鳴きてやまず 驚回千里夢 おどろきて千里の夢よりかへれば 已三更 すでに三更 起来独自遶階行 起ききたりて ひとり きざはしを めぐり行けば 人悄悄 人、悄悄たり 簾外月朧明 すだれのそとに月はおぼろにあきらかなり 白首為功名 白きあたまは功名のためなり 旧山松竹老 旧山の松竹は老いたり 阻帰程 帰るみちは阻まる 欲将心事付瑤琴 心事をもって瑤琴(ようきん)に付さんと欲すれど 知音少 知音は少なし 絃断有誰聴 絃も断てり 誰か聴く有らん 参考YouTube動画 https://youtu.be/FWDf6ghRu7Q?t=263 閲覧日2023年6月7日 |
習総書記は5、6歳の頃に、母に背負われて書店へ行き、宋の時代の英雄・岳飛の絵本を買ってもらいました。すると母は彼に「精忠報国(忠誠を尽くして国に報いる)」と「岳母刺字(岳飛の母が『精忠報国』の4文字の入れ墨を岳飛の背中に入れた)」という内容を読み聞かせました。
魯迅 ろじん
1881−1936 中国の文学者,思想家。
光緒7年8月3日生まれ。周作人の兄。明治35年(1902)日本に留学し仙台医専にはいるが中退し,文学に転向。42年(1909)帰国し,辛亥(しんがい)革命後は臨時政府の教育部員となる。1918年小説「狂人日記」を発表。ついで代表作「阿Q正伝」や社会,政治,文化を批判した小説・評論を多数執筆。1927年上海にうつり,左翼作家連盟の中心として論陣をはった。1936年10月19日死去。56歳。浙江省出身。本名は周樹人。字(あざな)は予才。中国語読みはル-シュン。
【格言など】青年時代には,不満はあっても悲観してはならない。つねに抗戦し,かつ自衛せよ
白話運動 はくわうんどう
1917年から中国で起こった,従来の文語文をやめ,日常の口語(白話)で文章を書くことを主張する文学革命運動
白話文学運動ともいい,アメリカ留学中の胡適 (こせき) が口火を切った。彼は北京大学教授陳独秀の主宰する雑誌「新青年」に「文学改良芻議 (すうぎ) 」を寄稿,続いて陳独秀が「文学革命論」を発表。魯迅 (ろじん) の創作活動(『狂人日記』『阿Q正伝』)がさらに運動を盛り上げた。1919年に起こった五・四運動の波にのって中国全土をゆりうごかし,文語はしだいに衰退し,これに代わって白話が文学のみならず,いっさいの言語表記を独占するに至った。