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中国権力者列伝 第11シーズン
最新の更新2023年3月22日 最初の公開2023年1月9日
以下、https://www.asahiculture.jp/course/shinjuku/823f4550-28b9-e612-811d-63083d7a1912より自己引用。引用開始。
歴史を理解することは、人間を理解すること。ヒストリー(歴史)とストーリー(物語)は、もとは同じ言葉でした。中国の伝統的な「紀伝体」の歴史書も、個々人の伝記を中心とした文学作品でした。
本講座では、後世に大きな影響を残した中国史上の人物をとりあげ、運や縁といった個人の一回性の生きざまと、社会学的な法則や理論など普遍的な見地と、その両面から、歴史を再解釈します。豊富な図像を交えて、予備知識のないかたにもわかりやすく説き明かします。(講師・記)
2023年1月-3月 第2週・第4週 木曜 10:30〜12:00
- 1/12 平原君―食客とともに乱世を戦う
- 1/26 陳平―漢帝国を作った汚い政治家
- 2/09 秦檜―最も憎まれた和平主義者
- 2/23 曽国藩―末世を支えた栄光なき英雄
- 3/09 汪兆銘―愛国者か売国奴か
- 3/23 江青―女優から毛沢東夫人へ
- 参考 今まで取り上げた人物 [講座の日時順] [時代順]
第1回 平原君―食客とともに乱世を戦う
YouTube https://www.youtube.com/playlist?list=PL6QLFvIY3e-mkX5jD40616SH3um2NX6Ve
○ポイント、キーワード
- 戦国四君
斉の孟嘗君こと田文(? - 前279年)
★趙の平原君こと趙勝(? - 前251年)
魏の信陵君こと魏無忌(? - 前244年)
楚の春申君こと黄歇(? - 前238年)
- 嚢中の錐 のうちゅうのきり
平原君の「毛遂自薦」(もうすいじせん)の故事成語。司馬遷『史記』平原君虞卿(ぐけい)列伝。
- 舌先三寸 したさきさんずい
司馬遷『史記』平原君虞卿列伝。中国史上、戦国時代と三国志の時代は、外交交渉の能力が最も問われた時代でもあった。
○辞書的な説明
- 日本大百科全書(ニッポニカ)より引用
戦国四君 せんごくしくん
中国、戦国時代の斉(せい)の孟嘗君(もうしょうくん)(?〜前279)、趙(ちょう)の平原(へいげん)君(?〜前251)、楚(そ)の春申(しゅんしん)君(?〜前238)、魏(ぎ)の信陵(しんりょう)君(?〜前244)をいう。四公子(こうし)、四賢(けん)、四豪(ごう)ともいう。いずれも、それぞれの国の公子であり、国王から厚い信頼を受けて国政を助けた。また、いずれも巨大な富を有し、その富力によって各国から学者、芸術家などの名士を招き、さらに郷里から逃れてきた無頼者を中心にそれぞれが数千人の食客を抱えて、自らの勢力を天下に誇示した。これらの食客は、主人である四君から衣食などの生活のめんどうをみてもらうかわりに、各自の特技を生かして主人のために命がけで尽くした。いずれも行政のうえでは国王に仕えながら、文化の保護者として、また侠客(きょうかく)に似た社会的勢力保持者として名をとどろかせた。[太田幸男]
-
平原君 へいげんくん(?―前251)
中国、戦国時代の政治家。趙(ちょう)の武霊(ぶれい)王の子、恵文(けいぶん)王の弟。本名は趙勝(ちょうしょう)。東武(とうぶ)城(現山東省徳州市の南東)に封ぜられて平原君と号し、食客数千人を養う勢力家であった。また賢人として名をはせ、趙の恵文王、孝成(こうせい)王に仕え、三度相(しょう)を務めた。紀元前257年、趙が秦(しん)に攻められたとき、その食客の1人毛遂(もうすい)が長剣を撫(ぶ)して楚王に援軍派遣を求め、それが実現した故事は有名。戦国四君の1人に数えられる。[太田幸男]
-
○略年表
司馬遷『史記』平原君・虞卿列伝第十六、その他に載せる事跡は年次不明のものが多いので、年次はわかるものだけを示す。
- 生年不詳。平原君こと趙勝(へいげんくんちょうしょう)は趙の恵文王の弟として生まれた。
趙の公子の中では彼が最も賢く、かかえた賓客は数千人にのぼった。封地から平原君とも呼ばれる。
平原君は、趙の恵文王(けいぶんおう)と孝成王(こうせいおう)の時代に宰相となった。
生涯で三度、宰相の地位を去ったが、三度とも復帰をとげた。
- 平原君の邸宅の楼塔から民家が見えた。
民家には身体障がい者が住んでいた。彼は、よたよたと歩いて水を汲んだ。平原君に仕える女性が楼塔から彼を見下ろして笑った。
翌日、障がい者は、平原君の邸宅にきて抗議した。
「あなた様は士を好まれるおかただそうですね。士が千里の道を遠しとせずあなた様の元へ来る理由は、あなた様がよく士を尊び愛妾をいやしく思うという良識をもっているからです。私は不幸にして背中の病にかかっていますが、あなた様の侍女で私をあざ笑った者がいます。その女の首をください」
平原君は笑って「そうする」 と言った。障がい者の男が去ると、平原君は笑って言った。
「あいつ、一回笑ったというだけで、わしの女を殺してほしい、だと。ひどいやつだ」
平原君はほうっておいた。それから一年余りの間に、賓客・門下・舎人の半分以上が、平原君のもとから立ち去った。過半に及んだ。
「わしは諸君を礼儀をもって厚遇しているのに、なぜ、どんどん立ち去ってゆくのか」
ときくと、門下の一人が答えた。
「あなた様は、障がい者を笑った女を殺さず、そのままになさってます。あなた様は、美女を愛して士を賤しく扱う人物だ、とみんなは思うようになり、それで、士が立ち去っていったのです」
平原君は美女の首を斬り、自ら門まで行ってその首を男に渡して謝罪した。
その後ふたたび、門下に食客たちがしだいに集まってきた。その当時、斉に孟嘗君、魏に信陵君、楚に春申君、がいて、それぞれ競争して士を招いて厚遇していた。
- 【趙奢(ちょうしゃ)を推薦】
趙奢は趙の名将だが、もともとは身分が低い「田部の吏」という徴税官だった。
平原君の家の者9人が、田畑の税金をごまかしていた。趙奢は法のどおりに9人を死罪に処した。平原君は怒って趙奢を殺そうとした。趙奢は「私は法にのっとり、私腹をこやした者を断罪しただけです。法が守られねば国は栄えず、法を軽んじれば国は衰えます。王族であるあなたが法を守らずに、一体誰が法を守るのですか」
平原君は、なるほど、と思い、趙奢を恵文王に推挙した。国政の政治家となった趙奢は、税制でも軍事でも公平な政治を行ったので、趙は強国となった。
- 【魏斉の首】
前266年、魏の宰相の魏斉が、趙に亡命し、平原君に保護を求めてきた。
魏斉は、秦の宰相の范雎(はんしょ。故事成語「睚眥之怨(がいさいのうらみ)」で有名)から、仇として命を狙われた。魏は秦をおそれていた。そのため、魏斉は平原君を頼った。
秦の昭襄王は、范雎を気に入っていた。彼に仇を取らせてやりたいと思った。
昭襄王は、平原君を秦に招いたうえで、頼んだ。
「魏斉を殺してくれ。さもなくば、あなたを秦に抑留しますぞ」
平原君は断り「私が友を殺す男に見えますか」と言った。平原君を軟禁した昭襄王は、趙へ使者を派遣し、趙の孝成王を脅した。孝成王は秦を恐れ、魏斉を捕らえる兵を差し向けた。魏斉は、趙の宰相の虞卿(ぐけい。遊説の士)とともに夜逃げした。
魏斉は魏へ戻り、戦国の四君のひとりである信陵君を頼ろうとした。しかし信陵君は面会をためらった。
魏斉は進退窮まり、自刎(じふん)した。信陵君はこの首を趙へ送った。趙はこの首を秦に送った。
平原君は、趙に帰国することができた。
- 【長平の戦い】
前263年、韓は、秦に攻められて領土を奪われた。韓の北の領土だった上党郡は、飛び地化し、孤立した。
上党の人々は、秦に併呑されることを望まず、趙への帰属を願い出た。
趙の孝成王は臣下と相談した。弟の平陽君は「上党の帰属を認めれば、秦と戦争になるだけです」と反対した。
孝成王の叔父である平原君は「ただで領地が手にはいる。こんなおいしい話はありませんよ」と編入に大いに賛成した。
孝成王は平原君の意見どおり、上党を趙の領土に編入した。秦は激怒した。
秦の名将・白起は趙を攻めた。当初は、趙の老将である廉頗や藺相如のおかげで善戦した。
秦の昭襄王と范雎はスパイ戦を行い、廉頗を第一線からはずすことに成功した。
前260年、「長平の戦い」で、趙は秦に敗れ、いっきょに20万とも45万ともいわれる大軍を喪失し、弱国に転落した。
- 【毛遂自薦】【嚢中の錐】
前259年。秦の大軍が、趙の首都・邯鄲(かんたん)に迫ってきた。
趙は平原君を南の楚に派遣し、救援を求めさせようとした。
平原君は、食客門下の中で文武にすぐれた精鋭二十人と同行することとし、趙王に約束した。
「私は、楚の宮殿の下で血をすすり合う儀式を行って同盟を結んできます。同行の士は私の食客門下の中から選べばたります」
平原君は19人までリストに選んだが、20人目が決まらなかった。門下の毛遂という男が、
「どうか、この毛遂を人員に加えてください」と自薦した。平原君は言った。
「先生は私のところに来てから、何年になるのかな」「三年です」「うむ。そもそも賢い士が世にいる状態は、例えば錐(きり)が袋の中にあるようなもの。錐の先は袋を突き破って現れるはず。精鋭も同じこと。すぐにその才覚が突き出るように見えるはず。しかし、先生はもう三年もいらっしゃるのに、切れ者であるという評判はさっぱり聞かない。失礼ながら、実力不足とお見受けする。留まってほしい」
すると毛遂は「それは私が今まで、袋の中に入れてください、とお願いしたことがないからです。私を袋の中に入れて下さっていれば、錐の先っぽどころか、柄(え)のところまでズブリと袋から突き抜けて見せますよ」
平原君は20人目として毛遂を同行させた。他の19人は互いに目くばせして、毛遂を軽蔑した。
- 【舌先三寸】
毛遂は楚への旅の途中、19人と議論した。19人はすっかり敬服した。
一行は楚の宮殿に到着した。平原君は楚王を相手に、合従(がっしょう)すなわち対秦軍事同盟の利を説いた。国の運命がかかった議論だった。夜明けから議論を始めて正午になっても決まらない。19人は毛遂に、
「先生も上にあがって、議論に参加してください」
と頼んだ。
毛遂は手を剣の柄にかけて、階段を駆けのぼると、平原君にむかって言った。
「合従の利害は、ただメリットとデメリットの二言で決まります。夜明けから議論して、正午の今もまだ決まらないのはなぜですか」
楚王が平原君に「そいつは何者か」と聞くと、平原君は「これは私の舎人です」と答えた。
楚王は毛遂にむかって「さっさと下におりよ。私はお前の主君と話をしているのだ。お前ごときが出る幕ではない」と叱責した。
すると毛遂は手を剣の柄に手をかけたまま進み、すごんでみせた。
「王さまよ。あなたが私をお叱りになるのは、楚の大軍があればこそでしょう。しかし今、この十歩の距離では、王は楚の大軍を頼れませぬ。王のお命は、私の手にかかっております。わが主人が王さまの前におられるのに、王さまはわが主人を無視して私をお叱りになるとは、何事ですか」
「・・・・・・」
「私は聞いております。その昔、殷の湯王はわずか七十里の地をもって天下の王者となり、周の文王は百里の小国をもって諸侯を臣下にした、と。国力は将兵の数で決まるものではありません」
「・・・・・・」
「今、楚の領土は五千里四と広大であり、戟(ほこ)を持つ兵力は百万という大軍で、これは天下の覇王となるのにじゅうぶんです。楚の強大さをもってすれば、天下に敵対できるものはありません」
「・・・・・・」
「お忘れですか、秦の将軍の白起のことを。彼はまだ若輩だったころ、わずか数万の兵で楚と戦い、たちまち楚の要衝である焉と郢(えい)を攻略し、再戦して夷陵を焼き、三戦して王さまのご先祖の陵廟(りょうびょう)を辱めたのですよ。これは楚にとって百世の怨みのはず。わが趙でさえ、楚のために恥じるところです。なのに、王さまは秦を憎まれぬのですか。合従は、楚のためになります」
楚王は「分かった、分かった。先生のお言葉の通りだ」と述べた。毛遂が「合従は定まったのですか」ときくと、楚王は「決めた」と答えた。
毛遂は、盟約の儀式(「牛耳をとる」「牛耳る」)を行うため、楚王の左右の者に「鶏・狗・馬の血をこれへ」と言った。毛遂は、犠牲の動物の血を入れた銅盤を捧げもつと、跪いて、それを楚王に差し出した。
「まず王さまからこの血を啜って合従をお誓いください。次はわが君、次は私です」
三人は殿上で血をすすりあい、趙と楚の軍事同盟が成立した。その後、毛遂は左手に銅盤を持ち、右手で19人を招き、堂下で血をすすらせた。
この軍事同盟によって、趙は亡国の危機から救われた。
平原君は趙にもどったあと、慨嘆した。
「私はもう二度と、士の人物鑑定はすまい。私は今まで、多く見積もって千人、少なくても百人以上の士を見てきた。自分では、人物の才覚を見る目はたしかだと自負していた。だが、毛先生の才覚は見落としていた。毛先生はひとたび、敵国である楚にいたるや、わが趙の国威を重いものとした。毛先生がふるった三寸の舌の力は、百万の軍より強大だった」。そして、毛遂を上客とした。
- 【李同の助言】
平原君が趙に戻ったあと、関係国は、趙の支援に動き出した。
楚は春申君に命じ、兵を率いて趙の救援に赴かせた。
魏の信陵君の姉は、平原君の妻となっていた。魏は、秦の大軍を恐れ、援軍を出さない。平原君は、信陵君に手紙を書き「姉を見捨てるのか」とうながした。信陵君は独断専行を行い、君命と偽って魏の将軍である晋鄙を殺してその軍を奪い、趙の救援のために赴いた。
だが、楚や魏の援軍が到着する直前、秦は攻略のペースを速めて、趙の首都・邯鄲を大軍で包囲してしまった。
邯鄲は陥落寸前になった。邯鄲の宿場役人の子の李同という者が、平原君に言った。
「あなたは趙が亡びることを心配なさらないのですか」
「趙が亡びれば私も捕虜となる。もちろん心配だ」
「では、行動してください。邯鄲の民は、薪もないので屍の骨を燃やし、食料もないので互いの子を交換して食べているありさまです。なのに、あなたの後宮には美女が何百人とおり、召使いさえシルクの衣裳を着て、米や肉を食べのこしています」
「・・・・・・」
「民は粗末な衣服さえ着られず、カスやヌカさえ食べられず、武器もないので立木を削って矛や矢にするありさまです。しかし、あなたさまのところには、鐘・磬(しょう・けい)などの楽器までそろっています。趙が敗戦国となったら、あなた様も財産を失います。趙が健在なら、あなた様の財産も万全です。今、あなた様は行動すべきです。あなた様の夫人以下の女性たちを士卒の中に編入して、仕事を手分けして働かせてください。お屋敷に所蔵している品物をすべて散じて士に分け与えてください。ごく簡単なことです」
平原君は李同の助言どおりにした。決死の士三千人を得ることができた。
李同はその三千人と共に秦軍に突撃した。秦軍は30里ほど退いた。
ちょうど折良く、楚と魏の救援軍が到着した。秦軍は邯鄲の包囲を解いて撤退した。
邯鄲の危機は去った。李同は戦死していたので、その父が李侯に封じられた。
- 【公孫龍の助言】
有名な遊説の士である虞卿(ぐけい)は、平原君のおかげで魏から信陵君がかけつけて趙が救われた、と喧伝し、平原君への加増を趙王に申請しようとした。
有名な学者である公孫龍(こうそん・りゅう)は、夜、馬車を駆ってかけつけて、平原君を説得した。
「やめさせてください。趙王があなたを趙の宰相に任じた理由も、東武城を割いてあなたを封じた理由も、あなたが趙王の親族だからです。あなたに特別な才智や勲功があったからではありません。あなただって、自分が王の身内だからこそ、謙遜することもなく、宰相職や領地をもらったのでしょう。なのに今、『信陵君が邯鄲を救ったのは、わたしのおかげだ』とご自分から加増を王にねだるのは、欲張りすぎです。すでに王族の特権を満喫しながら、国人としての論功行賞までねだることです。とても悪いことです。おまけに、虞卿はずるい人間です。もし加増の申請が成功すれば、あなたに報酬を求めるでしょう。成功しなくても、あなたに請願してやったと恩を売るでしょう。虞卿の言葉は聞かないでください」
平原君は、虞卿の言葉を聞き入れなかった。
- 【信陵君】
信陵君は、魏へ帰れないので、そのまま趙に留まった。信陵君はある時、二人の「処士」と会談した。二人はそれぞれ、博徒と漿家(味噌屋)にかくまわれていた。平原君は妻(信陵君の姉)にむかって、
「信陵君ともあろう人が、博徒や味噌屋のような連中を相手にするのか」
とあざ笑った。信陵君は怒って
「私は、彼らが賢明であると前から聞いていた。このような交わりを恥とするあなたは、うわべだけの人物のようだ」
と言って趙の国から出て行こうとした。平原君は、あわてて謝罪した。
以後、平原君のところから信陵君のもとにうつる食客が増えた。
- 前251年、平原君は死去した。子孫が平原君のあとをついだが、前228年に趙が秦に滅ぼされたことで、平原君の家も滅んだ。
○その他
- 『史記』を読むと、戦国の四君のなかで、平原君が最も凡庸であるように見える。
平原君は若き日に孟嘗君に領地を破壊された。信陵君に食客をとられた。食客への待遇は春申君に劣っていた。
彼はよく失敗した。ただし人の話はよく聞いた。そのため立ち直りは早かった。
戦国の四君の死に方を比較すると、孟嘗君は死後の後継者争いで領国が滅んだ。信陵君は異母兄の王に疑われて憂悶のうちにアル中で死んだ。春申君は野心家の部下に暗殺された。
平原君が死んだあと、短いあいだではあったが、彼の家は普通に存続した。その意味で、彼は死にざまも凡庸であった。
- 平原君は、中国の戦国時代の末期の人物だった。日本の戦国時代でも末期の「元亀・天正の争乱」がいちばん面白い。中国の戦国時代も平原君の時代がもっとも「スター」がそろっていた。
- 平原君が亡くなった前251年、秦の昭襄王も在位55年で死去した。昭襄王のひまごであった秦の始皇帝(前259−前210)は、当時まだ数え9歳の子どもであり、父とともに趙の首都・邯鄲で人質生活を送っていた。
第2回 陳平―漢帝国を作った汚い政治家
YouTube https://www.youtube.com/playlist?list=PL6QLFvIY3e-maO2pNwTWpmPngdKuBC_1G
○ポイント、キーワード
- アンチヒーロー(antihero、反英雄)
- 徳があり名望もある「名士」と、好んで事をたくらむ「策士」
○辞書的な説明
- 『精選版 日本国語大辞典』より引用
ちん‐ぺい【陳平】 中国、前漢初期の功臣。項羽の臣から高祖劉邦(りゅうほう)に投じ、奇策を用いて功をたてた。恵帝の時左丞相に、のち右丞相になる。呂氏の乱には周勃(しゅうぼつ)と力を合わせ平定した。前一七八年没。
○略年表
陳平の伝記は、司馬遷『史記』陳丞相世家第二十六が基本資料である。
- 生年不詳。現在の河南省開封市蘭考県の庶民として生まれる。
- 少年時代から長身の美男子で、兄のもとで勉学に励んだ。兄は裕福ではなかったが弟の陳平を支援し、仕事をさせず勉学に専念させた。兄の妻が文句を言うと、兄は妻を離縁した。
- 成人後は葬儀などの仕事をした。
地元の有力者の寡婦である張氏は、陳平に注目した。張氏の孫娘は夫と五回も死別し、男性から不吉だと気味悪がられた。
陳平は気にせず、豊かな家の孫娘と結婚するため、奇策を考えた。
彼の家は貧しかったが、門外の道に、馬車のわだちを多く偽装した。知らない人が見ると、偉い人たちが次々と陳平の家を豪華な馬車に乗って訪ねてきているかのように見えた。
張氏は息子の張仲を説得し、孫娘を陳平と結婚させた。
- 陳平は裕福になった。社(地域の共同体)の祭りでは、肉を切り分けるという重要な役目を任された。彼が祭りの肉を切るやりかたは公平で迅速で見事だった。陳平は、
「あ〜あ。こんな肉じゃなくて、天下を切り盛りしたいものだ。俺ならぜったい、見事にさばいてみせるのだが」
と嘆息した。
- 前210年、秦の始皇帝が死去。
翌前209年、中国史上初の農民反乱である「陳勝・呉広の乱」が勃発した。
- 陳平は、若い衆をひきつれて、魏王・魏咎のもとに馳せ参じた。魏咎は、陳平の進言に耳を傾けず、魏咎の側近も陳平を讒言したので、陳平は逃げた。
- 陳平は、楚の項羽に仕えた。殷王が項羽に対して反乱を起こした。陳平は殷王を降伏させた。項羽は、陳平を都尉(現代の佐官クラスにあたる武官)とした。
その後、楚の項羽は、漢の劉邦と対立した。劉邦が東進してくると、殷王は抵抗もせずに劉邦に降伏した。
項羽は怒り、殷王を平定した将校たちを死刑にしようとした。
陳平はいちはやく身の危険を察知し、項羽のもとから逐電した。
- 陳平は逃げる途中、渡し船で川をわたった。船頭は「立派な外見だ。金持ちに違いない」と思い、陳平を狙った。
陳平は服を脱いで裸になり「無一文です」ということを示すため、自分で船をこぎ始めた。
- 陳平は、劉邦の陣営にたどりついた。旧知の魏無知の推挙を得て、劉邦に面会した。
劉邦は人を見る目が肥えていた。ちょっと陳平と会話しただけで気に入り、彼を都尉に任じただけではなく、劉邦の馬車に同乗させ、軍を監督させた。
古株の将士はこの「積薪」(せきしん)の人事に不満を持った。
- 前205年、彭城の戦い。漢の劉邦らの56万の連合軍は、楚の項羽の3万の軍に急襲され、瓦解した。
劉邦の部下の不満は高まった。
古参の周勃や灌嬰も、劉邦に不満を述べた。
「陳平は、魏に仕えて用いられず、魏を去り楚に仕えても用いられず、楚を去り漢に流れ着いたやつで、節度も信義もありません。
陳平は、故郷で兄嫁と不義密通し、今は人事をえさに賄賂を取るなど、悪いやつです」
さすがの劉邦も陳平を疑い、魏無知に「なんであんなやつを推薦したのだ」と言った。魏無知は、
「私が推薦したのは陳平の才です。彼の徳ではありません。今、漢は楚と生きるか死ぬかの戦いの最中です。
いにしえの有徳の士みたいな善人を得ても、役に立ちません。
今すぐ必要なのは奇謀にたけた策士です」
と答えた。陳平じしんも劉邦に言った。
「私が魏の魏咎のもとを去ったのは、彼が私の策を用いなかったので、失望したからです。
私は楚の項羽のもとに行ってみましたが、彼は自分の一族など身内の意見しか聞きません。あまつさえ、私は彼から逆恨みされ、殺されそうになりました。
私が漢にきたのは、漢王さま(劉邦のこと)はよく人を用いるおかただ、と聞いたからです。
私は、裸一貫でこちらに来ました。無一文なので、賄賂でもなんでも金品を受け取らなければ、職務遂行のためのポケットマネーも捻出できません。
どうです? あなたは私の計略を採用なさいますか? 私の献策が無価値と判断されたなら、私は今すぐ給料と官位をお返しして、おひまをいただきます」
劉邦は「あなたの言うとおりだ。すまなかった」とあやまり、陳平を護軍中尉に昇進させ、全軍を監督させ、軍の立て直しを図った。
古参の将士も、不平を言わなくなった。
- 前204年、滎陽(けいよう)の戦い。陳平の奇策が劉邦を救った。
漢の劉邦の軍は、楚の項羽に追われ、滎陽城に籠城した。陳平は、
「項羽は、疑り深い性格です。離間策がききます」
と進言した。劉邦は陳平に四万金もの大金を与えた。陳平はその金を使って、偽情報を噂として流した。
「范増(前277-前204)をはじめとする項羽の重臣たちは、いくら功績をたてても、楚の項羽がケチで恩賞を出し渋っているため、漢の劉邦に寝返る腹をかためている」
項羽はこの噂を聞き、部下たちを疑った。
楚の使者が、漢の陣営へ派遣された。漢は使者を手厚くもてなし、宴会を開き、上席にすわらせた。宴会の途中で、漢の側は、
「え? あなたは項羽さまの家来なのですか? 私たちはてっきり、范増さまの家来だと思ってました。・・・では、こちらの席へ移動してください」
と言い、使者の席を下座に移し、料理も粗末なものに変えた。使者からその報告を受けた項羽は「やはり范増は漢に内通しているのか」と疑った。
疑われた范増はあきれて、項羽に「天下はすでにさだまりました。あとは、あなたさまの好きなようになさいませ。私は、骸骨を乞う、というとおり、故郷に帰らせていただきます」と皮肉を言って辞職した。その旅路の途中で、范増は背中にデキモノができて死んでしまった。項羽は、唯一の参謀を失ってしまった。
- 陳平の離間策は奏功したが、項羽軍による滎陽の包囲は解かれず、劉邦ら漢軍は窮地におちいった。
陳平は「金蝉脱殻の計」を献策した。
ある日、滎陽から漢王の劉邦が出てきた。楚の将兵は、劉邦はいよいよ降伏する、と喜んだ。近づいて見ると、よく似ていたが、武将の紀信だった。
劉邦らはそのすきに、城の裏側からこっそり脱出していた。
劉邦が脱出したあとも、漢軍はよく戦って最後は玉砕し、劉邦が根拠地である関中にもどるための時間をかせいだ。
- 劉邦が苦戦しているあいだ、劉邦の部下である韓信は、大国である東の斉を平定した。
韓信は劉邦に対し、「占領を強固にするため、わたしは、斉の仮の王、と名乗ってよいですか」と申し出た。劉邦は、
「韓信を将軍にひきあげたのは俺の力だ。なのに、やつは、俺が苦しいときに、足もとを見やがって」
と怒ったが、陳平と張良からいさめらると、劉邦は一転して、
「仮の王、なんてけちくさいことを言わず、真の王になれ」
と韓信に通じた。こうして、楚の項羽、漢の劉邦、斉王韓信の三人が並び立つ情況が生まれた。
斉王として認められた韓信は、劉邦への恩義の気持ちをあらためて感じた。
- 楚漢戦争の終盤、広武山で項羽は劉邦と和議を結び、天下を東西で二分することにした。
項羽は和議を信じて、東に進んだ。陳平と張良は、
「今がチャンスです。油断している項羽を、後ろから攻めましょう」
と進言した。
漢軍は、後ろから項羽を不意打ちにしたが、項羽は強く逆に敗れた。しかしその後、最終的に項羽を追い込み、烏江の地で敗死させた。
- 前202年、劉邦は皇帝に即位し、前漢を建国した。
陳平は戸牖侯に封じられた。陳平を劉邦に紹介した魏無知にも恩賞を与えるよう劉邦に進言し、認められた。
- 前200年、白登山の戦い。漢の初代皇帝となった高祖劉邦は、匈奴を討伐するために親征を行った。
匈奴の君主である冒頓単于(ぼくとつぜんう)は戦上手だった。劉邦軍は、現在の山西省大同市付近の白登山で、匈奴の騎馬軍団に包囲されてしまい、食糧も尽きた。
陳平は奇策を出して、劉邦を救った。こっそりと、冒頓単于の閼氏(あっし。匈奴の皇后を指す)に手紙を送り、もし漢が敗けたら戦利品として大量の美女がそちらに行きますよ、と吹き込み、閼氏によって匈奴軍の囲みの一部をとかせる、という奇策だった。劉邦は命からがら逃げ戻ることができた。
- 前195年、劉邦が死去。中国史上初の皇后(始皇帝が「始皇后」を立てたかどうかは不明)であり劉邦の未亡人となった呂后(中国の三大悪女のひとり)が、息子である恵帝の後見人として政治の実権を握った。
漢帝国の実権を握るのは、劉氏か、呂氏か。人臣も両派のあいだで分裂した。
呂后の専横が続いていたあいだ、陳平は呂氏に対して面従腹背ののあいだでバランスをとり、政治生命をまっとうした。
- 前190年、劉邦の最古参の家来であり、宰相の曹参が死んだ。
陳平は左丞相に任じられた。彼はわざと酒びたりの生活を送り、周囲を油断させた。
- 前180年に呂后が死去した。陳平は、劉邦の古参の家来である周勃(劉邦と同郷で、もとは機織業兼葬儀屋だった)と組み、呂氏一門打倒のクーデターを起こした。このとき将兵に出した布告、
「劉氏に加担するものは左袒(さたん)せよ。呂氏に加担するものは右袒せよ」
から故事成語「左袒する」が生まれた。漢の兵士は鎧のうえに着物を着る、という変わった軍装をしており、その着物の右肩を脱ぐか、左肩を脱ぐかで個々の兵士の意見を可視化したのである。
兵士はみな左袒した。呂氏の一族は皆殺しとなった。
陳平らは、劉邦の息子で、田舎に封じられていた代王劉恒を次の皇帝(文帝)に立てた。
- 文帝の即位後、陳平は病気を理由に丞相の辞職願いを出した。
「高祖さまの時代、私の功績は周勃どのより多く、私が丞相となりました。しかし呂氏打倒にあたっては、周勃どの功績は私より上です」
と陳平が述べると、文帝は慰留し、周勃を右丞相、陳平を左丞相(右のほうがうえ)とした。
- 周勃と陳平が、文帝の前に参内した。文帝は周勃にきいた。
「裁判は一年間に何回開かれているか?」「・・・さて、何回でしょう」「国庫の収支はどれほどか?」「・・・すみません、答えられません」。冷や汗たらたらだった。
次に文帝は、陳平にたずねた。陳平は、
「裁判は廷尉の担当です。国庫の収支は税務官がおります。この者らを召しだしてご下問ください」
「それぞれ担当者がいるなら、そなたの仕事は何か?」
「わたくしども宰相の仕事は、上は天子を補佐して陰陽と四季の循環を整え、下は万物をはぐくみ、外は外国や諸侯を鎮撫し、内は人民をてなづけ、群臣や官僚らに職務をまっとうさせる、という大局的なものでございます」
「みごとな答えである」
文帝のもとをさがったあと、周勃は陳平に言った。
「あらかじめ、あの模範解答を私に教えてくれてたらよかったのに」
陳平は苦笑し「おいおい、あんたは、もし陛下が『都にいる泥棒の数は何人か?』とおききあそばされたら、それにも答えるつもりかい?」と言った。
その後、周勃は病気を理由に丞相を辞職した。陳平ひとりが丞相となった。
- 前178年、陳平は死去した。献侯と諡された。
彼は生前こう言い残していた。
「俺は今まで陰謀をたくさん弄してきた。
これは道家が禁ずるところだ。
俺は世襲貴族になれたけど、子孫が何かの理由で爵位を失ったら、二度と復活はむりだろうな。
なにしろ俺は、人に知られぬ悪いことをいっぱいしたから」
(我多陰謀,是道家之所禁。吾世即廢,亦已矣,終不能復起,以吾多陰禍也。)
その予言通り、曾孫の代で事件を起こして爵位を失うと、二度と爵位を回復できなかった。
○その他
- 三国志の英雄・曹操は、人材登用に熱心だった。曹操は布告で「陳平のように兄嫁と不倫関係になったり収賄など汚れた過去がある者も、才能がある者なら、いっさい気にしない。わたしにつかえよ」と、陳平を引き合いに出した。
- タレントで文筆家、政治家の野末陳平氏(1932年1月2日生まれ)は、 早稲田大学第一文学部東洋哲学科の卒業生で、本名は「野末和彦」。漢の陳平にあやかり、芸名を陳平とした。
cf.YouTube 野末陳平チャンネル https://youtu.be/gSiv4DIc1v8
- 「マラヤの陳平」。マラヤ共産党書記長の王文華(1924-2013)も、漢の陳平にあやかって「陳平」を自称した。
第3回 秦檜―最も憎まれた和平主義者
YouTube https://www.youtube.com/playlist?list=PL6QLFvIY3e-mpfr3CMXHK7Eqpuyc56tl9
○ポイント、キーワード
- 売国奴 traitor quisling
中国の売国奴を特に「漢奸」(かんかん)と言う。
異民族の契丹に北京周辺を含む「燕雲十六州」を献上した後晋の初代皇帝・石敬瑭(漢民族ではなくソグド系)
南宋の初めの秦檜
南宋末期の武将で元に寝返った呂文煥
南宋末期の武将で元に投降したあと手先となった范文虎
明末の武将で清軍を万里の長城に導いた呉三桂
第二次大戦中に南京の中華民国政府の主席となった汪兆銘
などが代表的な「漢奸」とされる。
「漢奸」という中国語は17世紀、清の時代から使われ始めたが、現在のような意味になったのは20世紀になってからである。
- 姦臣(奸臣)
君主にとりいり、私利私欲のために悪だくみをする臣下。君側の奸(くんそくのかん)。
- 下流効果
歴史上、好感度の高い人物には、良いエピソードや風聞が後世、どんどん付け加わる。
例えば、江戸時代の幕臣・大岡忠相(おおおか ただすけ)は、好感度が高かったため、別の出所の別人についての話が次々と「大岡越前」の事跡として語られるようになり、「大岡裁き」や「大岡政談」が生まれた。
逆に、好感度の低い人物は、後世になればなるほど、悪い話が尾ひれをつけて加わり、極悪非道の人物として語られるようになる。
『論語』子張第十九-20:子貢曰「紂之不善也、不如是之甚也。是以君子悪居下流、天下之悪皆帰焉」。
子貢(しこう)曰く「紂(ちゅう)の不善や、是(か)くの如くこれ甚(はなは)だしからざるなり。是(ここ)を以て君子は下流に居ることを悪(にく)む。天下の悪皆な焉(こ)れに帰す」。
孔子の弟子である子貢は言った。
「殷の紂王(ちゅうおう)は極悪非道の暴君と伝えられるが、実際は伝説ほどひどくはなかった。
こういうわけで、りっぱな君子は、下流にいることを嫌うのだ。下流には、世界中の悪評が集まってくるから。」
○辞書的な説明
- 『デジタル大辞泉』から引用
しん‐かい〔‐クワイ〕【秦檜】
[1090〜1155]中国、南宋の政治家。字(あざな)は会之。江寧(江蘇省)の人。高宗に仕え、岳飛を獄死させて金と和議を結んだ。政権維持のため言論を弾圧し、後世、奸臣(かんしん)の典型とされる。
- 『世界大百科事典 第2版』より引用
しんかい【秦檜 Qín Huì】1090‐1155
中国,南宋初期の政治家。字は会之。江寧(南京)の人。1123年(宣和5)科挙の最難関,博学宏詞科に合格し,北宋神宗期の宰相王珪の孫娘と結婚し,出世コースを歩んだ。靖康の変の時,金の傀儡(かいらい)政権(楚)樹立計画に反対したため,宋の皇族らと共に金に強制連行された。30年(建炎4)金の将軍,撻懶(たつらん)の了解の下に,夫人を伴い帰国した。37年(紹興7)撻懶が金の権力を握り,傀儡政権,斉(劉予)を取り潰したことは秦檜の出番を意味した。
- 『旺文社世界史事典 三訂版』より引用
文治主義 ぶんちしゅぎ
中国の為政者が武を抑え,文を重んじて国を統治する方針
唐末期〜五代の武人の割拠主義の弊害を除き,中央集権体制を整備するため,武官が占めていた官職をしだいに文官に入れかえて学問・文化を奨励。武備の弱化によって,後年異民族の圧迫に悩まされるようになった。宋の太祖趙匡胤 (ちょうきょういん) の文治主義が有名。
○略年表
- 1091年、生まれる。本貫は江寧つまり現在の江蘇省南京市。
- 1115年、科挙に合格して進士となる。当時の皇帝は北宋の徽宗。文官として順調に出世を重ねる。
妻・王氏は、宰相の孫娘。妻の父方のいとこは、中国史上屈指の女流詩人である李清照。
- 【宋と金の戦争】
1125年、宋金戦争が勃発。女真族(後世の満洲民族の前身)の国家である金軍は、軍事的に、宋軍を圧倒した。
北宋の第8代皇帝・徽宗(きそう 1082-1135)は、遼(りょう。契丹)を滅ぼすため、金と同盟した。金軍は独力で遼を破り、北京を含む要衝を北宋にゆずったが、北宋は金と結んだ歳幣の増加などの約束を果たさなかったので、金は怒った。
- 1127年、靖康の変(せいこうのへん)。
南下した金軍は、宋都の開封(かいほう)を占領した。徽宗は退位して欽宗が即位していたが。金軍は、徽宗・欽宗の親子や皇族、後宮の女性たち、役人、金銀財宝を根こそぎ略奪し、北方に凱旋した。
拉致された女性たちは、金の「洗衣院」(せんいいん。「浣衣院」かんいいん、とも)に入れられた。
金は、北宋の領土を支配するための傀儡政権(かいらいせいけん)として、北宋末の政治家であった張邦昌を、金陵(南京)を首都とする傀儡国家「楚」の皇帝に立てた。
秦檜は「楚」の建国に反対したため、他の反対派の北宋の臣下たちとともに北に連行された。
金軍が北へ撤収すると、張邦昌はすぐに自発的に退位し、哲宗(北宋の第7代皇帝)の皇后で廃位されていた孟氏(元祐皇后)を迎えて垂簾聴政の形式を整え、彼女が指名する形で康王趙構(徽宗の九男)を宋の皇帝に立てた(高宗)。
張邦昌の「楚」はわずか32日間で終わった。南宋の初代皇帝となった高宗は、臣下の強硬意見におされ、南宋復興の恩人である張邦昌に自殺を命じた。
- 1130年、金は秦檜を解放。秦檜は南宋の高宗のもとへ行く。
- 【秦檜の専横】
1131年(南宋の紹興元年。この「紹興」は浙江省の地名ではなく、南宋の元号のひとつ)、秦檜は宰相となった。
政争によりいったん宰相をやめるが、その後また宰相に復帰して、長期政権をになった。
南宋の朝廷は、主戦派と講和派に分裂していた。
- 1140年、岳飛による北伐軍は金軍を相手に善戦し、金軍占領下の旧都・開封に迫ったが、秦檜は高宗を動かして撤退命令をくだした。
- 1141年、秦檜は高宗を説得して、金に対して屈辱的な講和条約を結ばせようとした。
・南宋は、かつての首都・開封を含む淮河以北の領土権を放棄。
・南宋は金の臣下となり、南宋皇帝は金から冊封を受ける。
・南宋は毎年、銀25万両と絹25万疋を金に歳貢として献じる。
武将の岳飛と韓世忠らは、屈辱的な講和に反対した。
秦檜は、講和に反対する武官や文官たちの官職を次々と剥奪した。
- 1142年、紹興の和議が成立。
同年、1月27日、主戦派の岳飛とその息子に謀反の罪を着せて処刑。武将の韓世忠から抗議を受けた秦檜は「莫須有(有るをもちいることなし=疑わしきは罰す。彼らには謀反の心が「あったかもしれない」というだけで処刑の理由はじゅうぶんだ)とうそぶいた。
韓世忠は引退し、天寿を全うした。
- 1148年、朱熹(しゅき 1130年-1200年)が科挙の試験に合格し、進士となる。
朱熹は朱子学の開祖だが、秦檜には批判的だった。
- 1155年、秦檜は危篤になってなお、主戦派の政治家・張浚(ちょう しゅん 1097-1164)を追い落とす書類に署名しようとして、机につっぷして死亡。享年66。
高宗は、秦檜を申王に追封し、「忠献」という諡も追贈した。
- 【死後の評価】
1162年、高宗は譲位して上皇となり、高宗とは遠縁だが北宋の太祖の子孫である孝宗が南宋の第2代皇帝として即位。
岳飛の名誉回復と改葬が行われた。
- 1204年、南宋の朝廷は、岳飛を鄂王に追封。
- 1206年、南宋と金の関係悪化にともない、秦檜の王爵は追奪され諡号も「謬醜」(びゅうしゅう)に改められたが、その後の政変で、1208年には秦檜の王爵と諡号はもとにもどされた。
- 1221年、南宋の首都・臨安(現在の浙江省杭州市)に、岳飛を神としてまつる「岳廟」(現在の岳王廟)が建てられる。
- 1254年、朱子学を重んじた南宋の第5代皇帝・理宗のとき、秦檜は厳しく批判され、諡号を「謬狠」(びゅうこん。間違っており、心もねじまがっている)と改められた。
- 1513年、明の時代の中期に、杭州の岳王廟の前に罪人姿の秦檜夫妻の銅像が作られ、参拝者が唾を吐きかけるようになった。
岳飛の墓の門に書かれた、
青山有幸埋忠骨 セイザン、サイワイアりて、チュウコツをウヅめ
白鉄無辜鋳佞臣 ハクテツ、ツミ、ナくして、ネイシンをイる
という対聯(ついれん)は有名。
なお、河南省の「朱仙鎮岳飛廟」にも秦檜らの像があり、今も観光客から「暴行」を受けている。
○その他
- 中国の芝居では、昔から岳飛は救国の英雄として大人気である一方、秦檜は悪役として憎まれた。清の時代には、興奮した観客が舞台にのぼって秦檜を演じていた俳優に暴行を加える例が続出した。加藤徹『京劇 政治の国の俳優群像』参照。
- 岳飛の死については、秦檜が仕えた高宗こそが真の極悪非道の悪人である、という意見もある。
- 2011年、秦檜の故郷である南京市江寧区で、2ヶ月の期間限定で秦檜のミュージアムが公開された。
館内には、上海の現代アートの芸術家が作った秦檜夫婦の立像「492年間もひざまづいたので、ちょっと立って休みたい」(《跪了492年,我们想站起来歇歇了》)が置かれ、話題となった。
cf.参考記事(中国語) http://k.sina.com.cn/article_6427893854_17f21e05e001002b18.html#/
第4回 曽国藩―末世を支えた栄光なき英雄
YouTube https://www.youtube.com/playlist?list=PL6QLFvIY3e-mYks1Y-qZ6b31tkpuAt2Cg
○ポイント、キーワード
- 洋務運動 ようむうんどう
清末、1860年ごろから1890年代まで行われた、中国版の「富国強兵」政策。中心人物は、太平天国の乱の鎮圧で頭角をあらわした曽国藩、李鴻章、左宗棠(さそうとう)ら漢人官僚と、恭親王奕?(きょうしんのうえききん)らであった。
- 中体西用 ちゅうたいせいよう
「体」と「用」は中国哲学の用語。
近代西洋の技術を導入することで、中国の体制の強化と延命を図るという考え方。日本の「和魂洋才」と対比をなす。
- 「曾国藩」と「曽国藩」
漢字「曾」は正字、「曽」は異体字。日本では両方の表記が使われているが、歴史的に正式なのは「曾国藩」のほうである。
○辞書的な説明
- 以下『ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典』より引用。引用開始
曾国藩 そうこくはん Zeng Guo-fan; Tseng Kuo-fan
[生]嘉慶16(1811) [没]同治11(1872)
中国,清末の政治家。湖南省湘郷県の人。字は伯涵。号は滌生 (てきせい) 。諡は文正。
道光 18 (1838) 年の進士。翰林院の職を経て,同 27年礼部右侍郎となる。
咸豊2 (52) 年末,母の喪に服するため帰郷。その在郷中に捜匪のための団練組織の命を受け,さらに太平天国軍に対抗するための湘軍を編成して太平天国軍討滅に活躍。
その間,同 10年に両江総督となり,太平天国滅亡後は,功によって清朝では異例の侯爵に叙された。
のち捻軍征討に失敗し,次第に湘軍を解散した。
直隷総督,両江総督を歴任し,内閣大学士となる。洋務運動 (→洋務派 ) の指導者として著名。著作集として『曾文正公全集』 (174巻) がある。
- 以下『日本大百科全書(ニッポニカ)』より引用。引用開始
郷勇 きょうゆう
中国、清(しん)代の義勇兵。
清の正規軍は八旗(はっき)と緑営であったが、18世紀後半、台湾で起こった林爽文(りんそうぶん)の反乱鎮圧に際し、臨時に義勇兵が組織されたのを最初として18世紀末の嘉慶白蓮(かけいびゃくれん)教反乱、ついで太平天国運動に際し、無力を暴露した正規軍を補うために、各地方で義勇兵を組織することが承認され、奨励された。
これを郷勇といい、地方官が主体となって組織するものと、地方有力者=郷紳(きょうしん)が主体となって支配下の農民や遊民を組織するものとがあった。
いずれも民衆反乱に対抗して支配秩序を守ることを任務とした。
後者は郷土自衛のために費用を自弁して組織された団練(だんれん)を基礎としたが、しだいに官費で賄われる大規模な義勇兵となり、故郷以外にも進出して戦闘に従事するようになった。
江忠源(こうちゅうげん)、曽国藩(そうこくはん)、李鴻章(りこうしょう)らが、それぞれ太平天国鎮圧のため故郷で組織した楚勇(そゆう)、湘勇(しょうゆう)、淮勇(わいゆう)はとくに有名で、淮勇は淮軍として清朝軍事力の中核となった。
[小島晋治]
○略年表
- 1811年、湖南省湘郷県で、「地主階級」「読書人階級」の長男として誕生。
曾国藩の実家は、毛沢東の実家(湖南省湘潭県韶山沖)から約120キロメートルほど離れていた。
- 1838年、難関の科挙の最終試験に合格して進士となる。学者肌の文官として順調に出世。
cf.科挙の試験はいくつもの段階がある。それぞれの合格者は、生員、挙人、進士などと呼ばれる。
- 1840年、アヘン戦争が勃発。
- 1851年、咸豊元年に太平天国の乱が勃発。
- 1852年、礼部右侍郎(現在の日本の文部科学省事務次官にあたる)在職中に、母が死去し、儒教の礼にしたがい、喪に服すため帰郷する。
儒教では、親のための服喪期間は三年である。
帰郷中、清朝は太平天国の乱の鎮圧のため、各地の郷紳(科挙の生員以上の合格者。名士)たちに、臨時の軍事組織「郷勇」の結成を命じた。
曾国藩は、郷土の複数の団練(現代の日本の地方の「消防団」の軍事組織版)を統合し、地方レベルの義勇軍「郷勇」を組織した。
湖南省の「旧国名」は「湘」なので、曾国藩が湖南で組織した義勇軍は「湘勇」と呼ばれた。
湘勇は地元だけでなく、他の地方にも進撃し、太平天国軍と戦った。
曾国藩の友人の息子で、曾国藩の門下生であった李鴻章は、淮勇を組織した。
- 1854年、湘軍は、太平天国軍が占領していた湖北省の武昌を奪還した。
北京の清朝は、南の漢民族の郷勇の活躍を頼もしく思いつつも、警戒していた。
- 1855年、太平天国軍の巻き返しにより、湘軍は武昌を奪われた。
曾国藩は、湘軍の立て直しを進めた。
- 1857年、父が死去。太平天国の乱のさなかだったため「奪情起復」により、事実上、父親の喪に服さず、軍務を続けた。
- 1858年、湘軍は太平天国軍から江西省の九江を奪還。
- 1860年、湘軍は太平天国軍から安徽省の安慶を奪還。
曾国藩は、両江総督、欽差大臣となった。
両江総督とは、江蘇省・安徽省、江西省の軍政と民政の双方のトップである長官を指す。
欽差大臣は、皇帝の命令で差遣される特命臨時大臣。
- 1864年、天京攻防戦。
湘軍の攻撃により、太平天国の首都・天京(現在の南京市)が陥落し、太平天国の乱は終結した。
曾国藩は、漢人官僚としては異例の侯爵を授けられた。
乱後、曾国藩は湘軍を解散し、北京の朝廷の警戒心を解いた。
- 1865年、曾国藩は、捻軍(華北の反乱軍)の討伐を命じられる。
湘軍と淮軍の8万を率いてあたったが、捻軍の討伐で功績をあげられなかったため、曾国藩は李鴻章と交代させられた。
- 1868年、曾国藩は直隷総督となった。直隷省は現在の河北省にあたる地域で、いわば「中国の近畿」であり、直隷総督になった漢人官僚は曾国藩が初めてであった。
- 1870年、天津教案(てんしんきようあん)。
天津で、西洋人のキリスト教徒と、キリスト教を邪教視する民衆が衝突する流血の惨事が発生した。
フランスを中心とする7ヶ国の連合艦隊が天津に到着し、北京の朝廷に圧力をかけた。
直隷総督だった曾国藩は、北京の主戦派や民衆の反発をおさえ、西洋列強に謝罪と賠償を行った。当時は普仏戦争の戦争は未然に防がれたが、曾国藩の評判は低下した。
同年、両江総督が暗殺されたため、曾国藩は直隷総督の職を李鴻章にゆずり、自身は両江総督に復帰した。
- 1872年、脳溢血により在職のまま死去。満60歳。享年62。
○その他
- 曾国藩は慎重居士だった。彼の子孫も、近現代の激動を目立たぬように巧みに生き抜いた。彼および彼の子孫の生き方は、中国の庶民から見て大成功である。
例えば、https://www.youtube.com/watch?v=iu9U0AXbbEw(中国語)
などで紹介されている現代中国の庶民目線で曾国藩の評価は――
曾国藩は寒門の出身で、その先祖は六百年にわたって農業に従事してきた。
曾国藩に至り、彼自身は天才ではなかったものの、奮闘努力によって清朝の最高の官職をきわめた。
特筆すべきは、彼の子孫である。
彼の子孫は21世紀現在、8代も続いているが、曾家からは1人も放蕩息子や不良息子が出ず、突出した社会的成功者は240人にも及ぶ。
- 曾国藩は名文家であった。また「反省日記マニア」で、房事の回数まで日記に書いてそれを友達に回し読みさせた。
- 曾国藩の名言のうち、
盛世創業垂統之英雄、以襟懷豁達為第一義。
末世扶危救難之英雄、以心力労苦為第一義。
という英雄論は特に有名。漢文訓読は、
盛世創業垂統の英雄は襟懐豁達(きんかいかったつ)を以(もっ)て第一義となし、
末世扶危救難の英雄は心力労苦を以て第一義となす。
意味は、建国期の創業型の英雄は豪快にイケイケで生きるのがベストだが、自分(曾国藩)のような末世の火消し型の英雄はこせこせドキドキ苦労するのがベストである。
cf.「中国権力者列伝・西太后」
- 曾国藩は、広東系漢民族+客家系漢民族を主体とする太平天国を滅ぼし、満洲系の清王朝の延命に貢献したため、清側から見れば功臣だが、漢民族系民族主義者から見れば「漢奸」である。
孫文は曾国藩を批判したが、蒋介石は曾国藩の能力や人柄を高く評価した。新中国での曾国藩に対する評価は微妙である。
- 近世中国の軍閥の起源は、曾国藩の湘軍と、彼の門人である李鴻章の淮軍で、いずれも私兵的性格が強いぶん、団結力がつよかった。
蒋介石も毛沢東も、天下を取る前はそれぞれの「軍閥」の領袖であった。
- 近代史の有名人には湖南省出身者が多い。曾国藩、黄興、宋教仁、毛沢東、劉少奇、胡耀邦、朱鎔基、黄興、宋教仁などは湖南出身である。
ちなみに、新宿の有名人である李小牧(り・こまき)氏も湖南省出身である。
第5回 汪兆銘―愛国者か売国奴か
YouTube https://www.youtube.com/playlist?list=PL6QLFvIY3e-n_o13kI9XOMaoSY4kmFZnX
○ポイント、キーワード
○辞書的な説明
- 『旺文社日本史事典 三訂版』より引用。引用開始。
汪兆銘 おうちょうめい 1885〜1944
中華民国の政治家
字 (あざな) は精衛。中国広東省の生まれ。日本に留学中,中国革命同盟会に参加。孫文のもとで革命運動に従事,のち国民党左派として右派の蒋介石と対立した。日中戦争中,近衛三原則に呼応し,1938年重慶を脱出,'40年日本と結び南京に傀儡 (かいらい) 政権をつくり「親日反共」を唱えたが,'44年日本で病死した。
○略年表
- 1883年(光緒9年)、広東省広州府三水県(現在の仏山市三水区)の、没落した読書人の家の末っ子として生まれる。
祖籍は浙江省紹興府山陰県。
幼少時は科挙の試験をめざし、漢文古典の教育をしこまれる。陽明学も学んだ。
- 1896年、生母が死去。翌年、父も死去。
生活のため私塾の教師となる。
- 1904年(光緒30年)、科挙に合格。清朝広東省政府の官費留学生として、日本留学が決まる。
なお、科挙は1905年に廃止された。
同年9月、東京の和仏法律学校法政速成科(法政大学の前身)に進学。下宿先は、神田神保町の春水館。
- 1905年8月20日、東京で、孫文らが中国同盟会(中国革命同盟会)を結成。汪兆銘は、孫文から信頼され、中国同盟会評議部長に抜擢された。
このころから「精衛」という号も名乗るようになった(汪精衛)。
- 1906年6月、法政速成科を卒業。成績は300余名中2番と優秀だった。そのまま私費学生として法政大学専門部へ進学。
革命運動も続けた。孫文と日本の国内外で、行動をともにした。
- 1909年ごろ、女性革命家の陳璧君(1891−1959)と事実上の結婚。
- 1910年、宣統帝溥儀の父であった摂政王の暗殺を計画したが、未遂で失敗。暗殺未遂犯として逮捕されたが、死刑ではなく終身刑となった。
- 1911年、辛亥革命。清は瓦解した。自由になった汪兆銘は、正式に陳璧君と結婚。また、実力者の袁世凱と密約を結んだ。
- 1912年、中華民国が成立。臨時大総統は孫文。
孫文が読みあげた臨時大総統就任宣言書は、汪兆銘が書いたものだった。
同年、汪兆銘は「修養の時代」に入り、国内政治から離れて、妻とともにフランスに留学。留学先で、息子や娘をもうけた。
- 1917年、帰国。孫文は広州に広東軍政府を樹立しみずから大元帥に就任し、愛弟子である汪兆銘を「最高顧問」として重用した。汪兆銘は官職への就任は固辞し、一民間人の資格で孫文を支えた。
- 1921年、広東省教育会会長に就任。「修養の時代」にピリオドを打ち、政治的役職に就いた。
- 1924年1月、広州で中国国民党第一回全国大会。汪兆銘は胡漢民とともに党の双璧として孫文を支えた。
同年5月、陳璧君の推薦により、蒋介石が黄埔軍官学校準備委員長に就任。
- 1925年3月、孫文が死去。孫文の遺言「革命尚未成功、同志仍須努力(革命なお未だ成功せず、同志よって須く努力すべし)」云々は、汪兆銘が筆記したもの。
同年7月、広東大元帥府の後継政権として、広州国民政府が成立。主席委員は汪兆銘。
- 1926年1月、国民党第2回全国代表大会で、汪兆銘が中央委員第一位に当選。国民政府主席兼軍事委員会主席として、国民党のナンバーワンとなった。
当時の蒋介石は黄埔軍官学校の校長で、一介の軍事委員会委員にすぎなかった。
同年3月20日、中山艦事件。蒋介石が反共を主張して、国民党右派として党内での地位を向上させ、汪兆銘と対立。
同年7月、蒋介石はみずから国民革命軍総司令となって、いわゆる「北伐」を開始。
同年12月、武漢国民政府が成立。汪兆銘らの国民党左派は、共産党系のメンバーと提携して、広州国民政府(広東政府)を武漢に遷都して成立させた。
- 1927年4月、蒋介石の上海クーデター。
同年4月18日、蒋介石は南京に南京国民政府を樹立。
同年9月、汪兆銘の武漢政府は瓦解し、蒋介石の南京国民政府に合流。
- 1928年、汪兆銘は政界から引退してフランスに渡る。
中国国内では、蒋介石に反対する勢力が、対立抗争を続けた。
- 1929年から翌年にかけて、4度にわたる反蒋戦争。
1929年10月、汪兆銘はひそかにフランスから香港に戻る。
- 1931年、満洲事変。
- 1932年1月1日、孫科(孫文の息子)を行政院長とする南京国民政府が成立。対日宣戦布告をしようとしたため、日本、米国、英国から忌避され、一カ月で孫科は失脚。
1月28日、南京国民政府で、蒋汪合作政権が成立。汪が行政院長兼鉄道部長、蒋介石は軍事責任者となった。
汪兆銘と蒋介石は「安内攘外」つまりまず国内の共産党勢力を一掃してから、日本など外国と対決する、という基本方針をとった。
- 1935年、米国の雑誌「タイム」の表紙を飾る(1935年3月18日号)
同年11月1日、汪兆銘狙撃事件。首都南京で、行政院長だった汪兆銘は、国民党左派広東系の犯人グループによって狙撃され重傷を負った。
- 1936年2月、療養のため渡欧。
同年12月12日、西安事件。蒋介石は連共抗日に鞍替えした。
- 1937年1月、帰国。
同年7月7日、盧溝橋事件。日中戦争が始まる。
中国側は、連共抗日派と、安内攘外派(反共親日派)に分裂。
同年12月、日本軍が南京を占領。
南京政府は武漢へ、さらに奥地の重慶へと落ち延びた。
- 1938年1月、日本の近衛首相は「帝國政府ハ爾後國民政府ヲ対手トセス(今後は蒋介石の国民政府を交渉の相手にしない)」云々の声明を発表。
汪兆銘は蒋介石の「焦土抗戦」に反対し、和平を主張した。日本側は「汪兆銘工作」を進め、ひそかに汪兆銘側と接触した。
同年12月18日、汪兆銘の一行は重慶から脱出し、昆明を経由して、ベトナムのハノイに渡った。
- 1939年5月6日、汪兆銘は、日本軍占領下の上海に到着。
5月31日、来日し、日本側と交渉。
10月1日発行の『中央公論』1939年秋季特大号に、汪兆銘は寄稿し、日本側の「東亜協同体」や「東亜新秩序」に対して、日本は中国を滅ぼす気ではないか、という疑念を表明した。
- 1940年2月2日、日本の国会で斎藤隆夫議員が「反軍演説」。斎藤は、蒋介石と汪兆銘が再び合流できる可能性はないことを指摘し、日本政府が基盤の弱い汪兆銘政権樹立を根回ししていることを批判した。
3月30日、南京国民政府の設立式。汪兆銘は、将来の重慶政権(蒋介石政権)との統合の可能性を残すため、主席代理として就任した。
11月30日、日華基本条約と日満華共同宣言に調印。日本は、汪兆銘の南京政府を正式に承認した。汪兆銘は主席に就任した。
- 1941年6月、来日。
7月1日、ドイツとイタリアが、汪兆銘政権を承認。
- 1941年12月8日、太平洋戦争が始まる。日本政府は汪兆銘に対して、事前に開戦を知らせていなかった。
- 1942年3月25日、広東のイギリス租界を、日本軍占領下から汪兆銘政権に移管。
同年12月、訪日。東京で東条英機首相と会談。
- 1943年1月9日、汪兆銘の南京国民政府は米英に対し宣戦布告。
日本は汪兆銘政権を相手に、租界の中国への返還や、治外法権撤廃の協定を結んだ。
2月2日、汪兆銘は、青天白日旗の上につけていた「和平 反共 建国」の三角標識を撤去するよう指示。
3月、延安の中国共産党が、汪兆銘政権に秘密裏に接触して合作を模索。
11月5日-6日、東京で大東亜会議。汪兆銘も来日。
12月19日、日本陸軍の南京第一病院で、8年前の狙撃事件の弾丸摘出手術を受ける。
- 1944年3月3日、南京から来日。名古屋帝国大学医学部附属病院に入院。病名は多発性骨髄腫。体内で腐食した弾丸が原因。
11月10日、名古屋において死去。61歳。
○その他
- 女性関係はまじめだった。妻は一人だけで、3男3女をもうけた。子女は、米国で夭折した次男を除き、戦後は中国の国外に移住した。
- 汪精衛の南京国民政府の成立後、日本では「支那」から「中国」へと呼称が変わり始めた。
大林重信著『新中国のお父さま汪精衛先生』(健文社、昭和16年)などの書名も、その一例である。
- 妻の陳璧君(ちん へきくん、1891-1959)は女傑だった。日本の敗戦後、中華民国(蒋介石政権)で漢奸裁判にかけられた。亡き夫の非を認めれば釈放されることになっていたが、彼女は夫は愛国者であると擁護し続け、無期懲役となった。中華人民共和国になったあとも釈放されず、獄死した。遺灰は香港の親族に渡された。
第6回 江青―女優から毛沢東夫人へ
YouTube https://www.youtube.com/playlist?list=PL6QLFvIY3e-nKvm0eyY9L98TKTLoq-Tyl
○ポイント、キーワード
- ファーストレディ first lady
既出。「2022年12月22日 宋美齢――英語とキリスト教と蒋介石」参照
- 倡優(しょうゆう)
昔の宴席などで芸を売った歌舞音曲の芸人。優伶、娼妓。昔は一種の賤業のように見なされた。
中国でも20世紀前半までは、特に女優業に対する差別や偏見が残っていた。
- 芸能人の経歴がある20世紀のファーストレディーたち
- 毛沢東夫人 江青(1914年3月5日?−1991年5月14日)
- アルゼンチン大統領夫人 「エビータ」ことマリア・エバ・ドゥアルテ・デ・ペロン(1919年5月7日−1952年7月26日)
- 米国大統領夫人 ナンシー・デイヴィス・レーガン(1921年7月6日−2016年3月6日) 夫も元・俳優
- フィリピン大統領夫人 イメルダ・マルコス(1929年7月2日− )
- モナコ公国公妃 グレース・パトリシア・ケリー(1929年11月12日−1982年9月14日)
- 毛沢東(1893年12月26日−1976年9月9日)の結婚歴
羅一秀(1889年10月20日−1910年2月11日)、楊開慧(1901年11月6日−1930年11月14日)、賀子珍(1910年9月20日−1984年4月19日)、江青。
○辞書的な説明
- 『精選版 日本国語大辞典』より引用
こう‐せい カウ‥【江青】
中華人民共和国の政治家。山東省出身。もと藍蘋の芸名で上海の演劇界に活躍した女優で、一九三九年毛沢東と結婚。江青と改名し、六六年からの文化大革命で権勢を振るったが、毛の死後、四人組の一人として逮捕され死刑判決を受けた。獄中で自殺。(一九一三‐九一)
- 『ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 』より引用
江青 こうせい Jiang Qing
[生]1914.3. 山東,諸城
[没]1991.5.14. 北京
中国の政治家。毛沢東夫人。本名李進,号は雲鶴,旧名李青雲。 1930年代に藍蘋の芸名で上海演劇,映画界に活躍し,革命的演劇を通じて政治に関心をもち,中国共産党に入党。 38年延安のマルクス・レーニン学院に入学。 39年毛沢東と結婚,江青と改名。 49年 10月中ソ友好協会理事。 50年文化省映画事業指導委員会委員。 62年スカルノ訪中の際,初めて毛夫人として公式の席に出席。 64年第3回全国人民代表大会山東省代表。この頃演劇,映画を中心とする文化芸術活動の調査を進め,張春橋,姚文元らと協力して京劇改革の指導をし,文化芸術戦線から文化大革命の指導的地位に進んだ。 66年2月林彪に委託され,解放軍部隊で文芸座談会を開き「綱要」を発表。同年8月中央文革小組第一副組長。同8月紅衛兵大集会を司会。陳伯達らとともに紅衛兵の指導にあたった。 67年4月解放軍文革小組顧問。 69年4月九全大会で中央政治局委員に選ばれた。極左路線を推進するうち,76年 10月,故毛沢東の方針,政策を改竄し歪曲したうえ党主席の地位をねらったとの理由で,張春橋,王洪文,姚文元とともに逮捕され,「四人組」反党集団の一人として 77年7月の十期三中全会で党籍を永久に剥奪され,党内外のすべての職務を解任された。「林彪・江青反革命集団」裁判で 81年1月死刑判決 (執行猶予2年) を受け,服役中に自ら命を絶った。
○略年表
- 1914年3月19日(?)、山東省諸城県の庶民の家に生まれる。
出生時の名は李淑蒙。のちにたびたび改名。李進、李雲鶴、藍蘋(らんぴん)、江青など。
生母は地主の家で働いたが、その地主の次男は後の「中国のベリヤ」こと康生(1898-1975)。
- 。1926年、父が死去。
天津市に移住し、ブリティッシュ・アメリカン・タバコで工員として働く。
- 1929年、山東省立実験劇院で演劇と古典音楽を学ぶ。当時はまだ女優業に対する社会的偏見が強かった。
- 1931年、山東省済南の富豪の息子・裴明倫と最初の結婚。2カ月で離婚。
以後、30年代は上海の芸能界と、共産党の地下活動で活躍。
- 1933年、中国共産党に入党。
江青は、女優の弟で共産党の政治家である兪啓威(ゆ けいい 1912-1958)と知り合って同棲していた。
兪啓威が逮捕され、江青は上海に逃亡。
上海では、田漢(1898年3月12日 - 1968年12月10日)が主宰する南国社に加入し、「藍蘋」の芸名で脇役や端役として出演。
※中国の国歌「義勇軍行進曲」の歌詞は、田漢が、1935年の中国映画『風雲児女』の主題歌のために作詞したもの。
- 1934年、著名な映画人であった唐納と結婚。挙式後わずか2ヶ月で、江青が他の男性と交際していることが発覚し、スキャンダルとなった。
- 1935年、アマチュア演劇人協会の舞台劇、イプセン作「人形の家」で主役のノラを演じて好評を博す。相手役は名優の趙丹(1915年6月27日−1980年10月10日 高峰秀子夫妻の親友)。
夫の映画「都市風光」に出演。
- 1937年、出演した映画「王老五」が大ヒットした。江青が演じたのは、貧苦にあえぐ労働者の妻で、劇中歌も歌った。
同年、日中戦争が勃発。
上海でも、8月には第二次上海事変が勃発。
江青は、かつて同棲していた兪啓威と上海から脱出し、歩いて、中国共産党の本拠地となっていた延安まで移動した。
延安では、魯迅芸術学院で演劇を教えた。
延安で、江青25歳、毛沢東45歳のとき、二人は交際を始めた。当時まだ毛沢東の妻は賀子珍だった。
毛沢東は藍蘋に「江青」という新しい名前を与えた。この命名は、唐の詩人・銭起の漢詩「湘霊鼓瑟」の名句
曲終人不見 曲終わりて人は見えず
江上数峰青 江上に 数峰 青し
にちなむ。「湘霊鼓瑟」は毛沢東の故郷と関連がある漢詩。
朱徳や周恩来ら古参幹部たちは、毛沢東の不倫婚に反対した。毛沢東は結婚の条件として江青を政治の表舞台に立たせないことを約束した。
- 1939年、毛沢東と正式に結婚。
- 1940年、毛沢東とのあいだに娘、李訥(1940年8月−)が生まれる。
- 1949年、中華人民共和国が建国。江青はファーストレディとなった。
ほどなく体調を崩して、ソ連で療養。
- 1950年、ソ連で子宮摘出手術を受ける。
- 1958年、中国の第2次五か年計画が始まる。「大躍進政策」を推進するが、大失敗し、毛沢東の権力がゆらいだ。
同年、むかしの同棲相手である兪啓威が精神に異常をきたして死去。
- 1960年代前半、江青は夫をささえるため、政治活動に参加。
王光美(劉少奇国家主席夫人)や宋慶齢(孫文未亡人)、ケ穎超(とう えいちょう 周恩来夫人)ら女性政治家に敵愾心をいだいた。
- 1962年9月、インドネシアのスカルノ大統領夫人ハルティニが訪中。江青は、毛沢東とともに歓待の席に姿を見せ、「人民日報」で初めてファーストレディーとして公開された。
- 1966年、「文化大革命」が本格的に始まる。
江青は、「四人組」の1人として権力を握る。
革命現代京劇を推進し、かつて1930年代の女優時代にいっしょに仕事をした人々を個人的な恨みもあって迫害した。
- 1976年9月9日、毛沢東が死去。
同年10月6日、「四人組」の1人として逮捕された。
- 1980年11月20日から1981年1月25日まで、北京で「四人組裁判」。
江青は容疑を全面否認し、2年間の執行猶予付き死刑判を受けた。
後に無期懲役に減刑。
- 1991年5月14日、病気療養のため仮釈放中(事実上の軟禁)、縊死。
自殺のニュースは、中国国内では6月4日になって新華社から発表された。
○その他
- 2002年、北京の北京福田共同墓地に埋葬。江青は遺言状で生家の山東省諸城への埋葬を希望していたが、江沢民(上海派のボス)は許さなかった。
以下、産経新聞の記事「暴かれなかった江青夫人の墓 一族復権、富豪の子孫も」(矢板明夫)2013/12/26 08:51より引用。
北京市郊外、西山風景区に広がる福田霊園には、変わった墓碑がある。
「一九一四年−一九九一年 先母 李雲鶴之墓 女児 女婿 外孫敬立(亡き母 李雲鶴の墓 娘 娘婿 孫建立) 二零零二年三月」とだけ刻んである。
死者の出身地や経歴などの情報は一切ない。中国では墓を建てた人の名前を墓石に記すのが一般的だが、なぜか伏せられている。亡くなった11年後に墓を建てているのも不思議だ。
- 文革の初期、日本の朝日新聞に連載されていた漫画「サザエさん」では、江青を批判的に取り上げた。
参照 https://twitter.com/v_mx/status/1001181347686244355
1コマ目 マスオの上司「毒舌はふるう、亭主のはなづらは引きまわす」
2コマ目 マスオ、鍋料理を食べながら「そういうところはたしかにあります、けど課長、お子さんもあることだし」
3コマ目 上司、現れた夫人と共に「キミ、中共の江青女史の話をしとるんだ!!」
4コマ目 帰宅後ふとんをかぶってぶるぶるするマスオ。サザエ「あなたはたべものとなると、ウワの空なんだから」
長谷川町子『サザエさん 34』(朝日新聞社、1995)77頁ページでも読める。
- 江青とのあいだに生まれた娘である李訥を、毛沢東はとてもかわいがったが、特別扱いはせず庶民と同じ暮らしをさせた。李訥の学校の先生が、親を面談に呼び出したら毛沢東主席だったのでビックリした、という真偽不明の逸話もある。
参考 https://youtu.be/M1Mu89_bD0w
【参考】 今まで取り上げた人物
★講座の実施日順
- 秦の始皇帝
- 前漢の高祖・劉邦
- 宋の太祖・趙匡胤
- 清末の西太后
- 中華人民共和国の毛沢東
- 共通祖先の作り方 黄帝
- 東アジアに残した影響 漢の武帝
- インフラ化した姓 後漢の光武帝
- 汚れた英雄のクリーニング 唐の太宗
- 史上最強の引き締めの結末 明の洪武帝
- 打ち破れなかった2つのジンクス 蒋介石
- パワーゲーマーの栄光と転落 唐の玄宗
- 織田信長もあこがれた古代の聖王 周の文王
- 「19浪」の苦節をのりこえた覇者 晋の文公
- 早すぎた世界帝国 元のクビライ
- 中国統治の要道を示した大帝 康煕帝
- 21世紀の中国をデザイン ケ小平
- 魏の曹操 漢・侠・士の男の人間関係
- 殷の紂王 酒池肉林の伝説の虚と実
- 斉の桓公 中国史上最初の覇者
- 唐の武則天 中国的「藩閥」政治の秘密
- 清の乾隆帝 世界の富の三割を握った帝王
- 周恩来 失脚知らずの不倒翁
- 古代の禹王 中華文明の原体験
- 蜀漢の諸葛孔明 士大夫の典範
- 宋の徽宗 道楽をきわめた道君皇帝
- 明の永楽帝 世界制覇の見果てぬ夢
- 清の李鴻章 老大国をささえた大男
- 臥薪嘗胆の復讐王・勾践
- 始皇帝をつくった男・呂不韋
- 劉邦をささえた宰相・蕭何
- チンギス・カンの側近・耶律楚材
- 大元帥になった国際人・孫文
- 清と満洲国の末代皇帝・溥儀
- 太古の堯と舜 「昭和」の出典になった伝説の聖天子
- 蜀漢の劉備 「負け太り」で勝ち抜いた三国志の英雄
- 明の万暦帝 最後の漢民族系王朝の最後の繁栄
- 袁世凱 83日間で消えた「中華帝国」の「洪憲皇帝」
- 劉少奇 21世紀も終わらない毛沢東と劉少奇の闘争
- 楚の荘王――初めは飛ばず鳴かずだった覇者
- 斉の孟嘗君――鶏鳴狗盗の食客を活用した戦国の四君
- 呉の孫権――六朝時代を創始した三国志の皇帝
- 梁の武帝――ダルマにやりこめられた皇帝菩薩
- 南唐の李U――李白と並び称せられる詩人皇帝
- 台湾の鄭成功――大陸反攻をめざした日中混血の英雄
- 趙の藺相如――国を守った刎頸の交わり
- 前秦の苻堅――民族融和を信じた帝王の悲劇
- 北魏の馮太后――欲深き事実上の女帝
- 隋の煬帝――日没する処の天子の真実
- 明の劉瑾――帝位をねらった宦官
- 林彪――世界の中国観を変えた最期
- 項羽――四面楚歌の覇王
- 司馬仲達――三国志で最後に笑う者
- 太武帝――天下を半分統一した豪腕君主
- 憑道――五朝八姓十一君に仕えた不屈の政治家
- チンギス・カン――子孫は今も1600万人
- 宋美齢――英語とキリスト教と蒋介石
- 平原君―食客とともに乱世を戦う
- 陳平―漢帝国を作った汚い政治家
- 秦檜―最も憎まれた和平主義者
- 曽国藩―末世を支えた栄光なき英雄
- 汪兆銘―愛国者か売国奴か
- 江青―女優から毛沢東夫人へ
★時代順
先秦時代(三皇五帝、夏・殷・周、春秋・戦国)
- 共通祖先の作り方 黄帝
- 太古の堯と舜 「昭和」の出典になった伝説の聖天子
- 古代の禹王 中華文明の原体験
- 殷の紂王 酒池肉林の伝説の虚と実
- 織田信長もあこがれた古代の聖王 周の文王
- 斉の桓公 中国史上最初の覇者
- 「19浪」の苦節をのりこえた覇者 晋の文公
- 楚の荘王――初めは飛ばず鳴かずだった覇者
- 臥薪嘗胆の復讐王・勾践
- 斉の孟嘗君――鶏鳴狗盗の食客を活用した戦国の四君
- 平原君―食客とともに乱世を戦う
- 趙の藺相如――国を守った刎頸の交わり
秦・漢・三国(漢末)
- 秦の始皇帝
- 始皇帝をつくった男・呂不韋
- 項羽――四面楚歌の覇王
- 前漢の高祖・劉邦
- 劉邦をささえた宰相・蕭何
- 陳平―漢帝国を作った汚い政治家
- 東アジアに残した影響 漢の武帝
- インフラ化した姓 後漢の光武帝
- 魏の曹操 漢・侠・士の男の人間関係
- 蜀漢の劉備 「負け太り」で勝ち抜いた三国志の英雄
- 蜀漢の諸葛孔明 士大夫の典範
- 司馬仲達――三国志で最後に笑う者
- 呉の孫権――六朝時代を創始した三国志の皇帝
魏晋南北朝(五胡十六国時代、六朝時代)
- 前秦の苻堅――民族融和を信じた帝王の悲劇
- 北魏の太武帝――天下を半分統一した豪腕君主
- 北魏の馮太后――欲深き事実上の女帝
- 梁の武帝――ダルマにやりこめられた皇帝菩薩
隋・唐から宋・元
- 隋の煬帝――日没する処の天子の真実
- 汚れた英雄のクリーニング 唐の太宗
- 唐の武則天 中国的「藩閥」政治の秘密
- パワーゲーマーの栄光と転落 唐の玄宗
- 憑道――五朝八姓十一君に仕えた不屈の政治家
- 南唐の李U――李白と並び称せられる詩人皇帝
- 宋の太祖・趙匡胤
- 宋の徽宗 道楽をきわめた道君皇帝
- 秦檜―最も憎まれた和平主義者
- チンギス・カン――子孫は今も1600万人
- チンギス・カンの側近・耶律楚材
- 早すぎた世界帝国 元のクビライ
明・清
- 史上最強の引き締めの結末 明の洪武帝
- 明の永楽帝 世界制覇の見果てぬ夢
- 明の劉瑾――帝位をねらった宦官
- 明の万暦帝 最後の漢民族系王朝の最後の繁栄
- 台湾の鄭成功――大陸反攻をめざした日中混血の英雄
- 中国統治の要道を示した大帝 康煕帝
- 清の乾隆帝 世界の富の三割を握った帝王
- 曽国藩―末世を支えた栄光なき英雄
- 清の李鴻章 老大国をささえた大男
- 清末の西太后
- 清と満洲国の末代皇帝・溥儀
民国・中華人民共和国
- 大元帥になった国際人・孫文
- 袁世凱 83日間で消えた「中華帝国」の「洪憲皇帝」
- 汪兆銘―愛国者か売国奴か
- 打ち破れなかった2つのジンクス 蒋介石
- 中華人民共和国の毛沢東
- 周恩来 失脚知らずの不倒翁
- 宋美齢――英語とキリスト教と蒋介石
- 劉少奇 21世紀も終わらない毛沢東と劉少奇の闘争
- 21世紀の中国をデザイン ケ小平
- 林彪――世界の中国観を変えた最期
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