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中国権力者列伝 第3シーズン

最新の更新2021-3-11  最初の公開 2021-1-13

(以下、朝日カルチャーセンター・新宿「中国権力者列伝」より自己引用。引用開始)
 古来、世界の権力者は、軍隊や治安組織などの「暴力装置」、宗教や学問を利用した「権威装置」、臣下や民衆の不満の暴発を防ぐ「安全装置」を力のよりどころにしてきました。日本や西洋と違い、中国では21世紀の今も安全装置が未熟なままです。前3世紀の秦の始皇帝から現代の国家主席まで、中国の歴代の権力者は「騎虎(きこ)の勢い」状態です。いったん虎(権力の比喩)にまたがって走り出したら、途中で止まれない。もし虎の背中から降りれば、たちまち自分が虎に食い殺される。中国はなぜ、このような国となったのでしょう。その理由と歴史的経緯を、豊富な図像を交えて、予備知識のないかたにもわかりやすく説き明かします。(講師・記)
参考 [「中国権力者列伝」第1シーズン] 2020年6月-9月
   [「中国権力者列伝」第2シーズン] 2020年10月-12月

第2週・第4週 木曜 10:30〜12:00 朝日カルチャーセンター・新宿教室にて

第1回 1/14 パワーゲーマーの栄光と転落 唐の玄宗

参考動画
YouTubeリストの動画の解説
★1955年の日本・香港合作映画『楊貴妃』(溝口健二監督)のキャストは、京マチ子:楊貴妃、森雅之:玄宗皇帝、山村聡:安禄山、小沢栄(小沢栄太郎):楊国忠、進藤英太郎:高力士、石黒達也:李林甫、他。
★2017年制作の日中合作映画『空海-KU-KAI- 美しき王妃の謎』には、阿倍仲麻呂(演・阿部寛 あべひろし)と玄宗、楊貴妃が登場。
★2017年に香港電視広播有限公司と企鵝影業が共同製作した宮廷時代劇『宮心計2深宮計』(上記のYouTube参照)は、若き日の李隆基(後の玄宗)が大活躍する。

○キーワード

○ポイント
 日本史の例。16世紀までは、公家権門、宗教権門、武家権門のパワーゲーム。17世紀は武家権門を中心とする相互牽制システム。
 唐の時代の歴史。建国初期は「武川鎮軍閥」(ぶせんちんぐんばつ)もしくは「関隴集団」(かんろうしゅうだん)による門閥貴族が中心。
 武則天は、新興の知識階層・科挙官僚を重用し、門閥貴族勢力に対抗した。
 武則天の孫である玄宗皇帝は、治世の前半はダイバーシティと相互牽制でうまくいったが(開元の治)、後半は「分断」によって破綻した(安史の乱)。
 近年の米国やEUが、21世紀初頭までダイバーシティで躍進したのに、近年はそれが一因となって国内の「分断」に苦しんでいるのと同様の構図。

〇カリスマのいろいろ
 政治的カリスマ・・・軍事カリスマ、雄弁カリスマ、血縁カリスマ、等。
 経済的カリスマ・・・起業カリスマ、慈善カリスマ、等。
 文化的カリスマ・・・文芸カリスマ、人徳カリスマ、宗教カリスマ、等。

 玄宗皇帝は第一級の趣味人だった。「梨園」(りえん)すなわち芝居や歌舞音曲のパトロンとして文芸カリスマではあったが、他のカリスマ性は意外と低く、権力者としては見かけより脆弱だった。

○玄宗朝のパワーゲームのプレイヤーたち
 頂点に君臨する玄宗も、唐の皇室には血縁カリスマが無かったため、プレイヤーの1人にすぎなかった。


○玄宗についての解説
★デジタル大辞泉の解説より引用。引用開始。
 玄宗 げんそう [685〜762]中国、唐の第6代皇帝。在位712〜756。姓は李、名は隆基。諡号(しごう)は明皇帝。「開元の治」とよばれる太平の世を築いたが、晩年は楊貴妃(ようきひ)に溺れて安史の乱を招いた。
 引用終了。
https://kotobank.jp/word/玄宗-492564 2021年1月13日閲覧

★日本大百科全書(ニッポニカ)の解説より引用。引用開始。

 中国、唐朝第6代皇帝(在位712〜756)。本名は李(り)隆基。明皇(めいこう)とも称せられる。第2代太宗の死後、皇后、外戚(がいせき)、皇親、寵臣(ちょうしん)など皇帝側近の権勢と政争のため、政情不安定の時代が続いた。 則天武后の周朝から唐朝が復活したのちも、中宗の皇后韋(い)氏一派が政権を握り、ついに帝を毒殺した。帝の甥(おい)にあたる臨淄(りんし)王隆基は音楽や書の妙手で、風采(ふうさい)の優れた貴公子であったが、 710年クーデターを敢行して韋氏一派を倒し、父の旦(たん)を即位させた(睿宗(えいそう))。同時に彼も皇太子となり、やがて父帝の譲りを受けて帝位についた。 翌年おばの太平公主の勢力を武力で一掃して、 ここに皇帝を唯一最高の権力と仰ぐ統一政治を回復した。713年に始まる開元(かいげん)時代(〜742)は、太宗の貞観の治(じょうがんのち)を手本とし、後世 開元の治と称せられる。 玄宗は、貞観時代の房玄齢(ぼうげんれい)・杜如晦(とじょかい)に比せられる名宰相姚崇(ようすう)・宋m(そうえい)を信任して政治に励み、奢侈(しゃし)を禁じ、 儒学を重んじ、密奏制度をやめ、 冗官(じょうかん)や偽濫僧(ぎらんそう)(国家非公認の僧)を整理するなど、前代の悪弊を除き、公正な政治の再建に努めた。玄宗が自ら『孝経』に注を施したことは有名である。 対外的にも、突厥(とっけつ)を圧服し、契丹(きったん)・奚(けい)両民族を帰順させるなど北辺の平和維持に成功、 経済・文化の発展と相まって輝かしい平和と繁栄の時代が現出した。
 しかしその頂点は、時代の転換への道でもあった。開元後半期から次の天宝期(742〜756)にかけて、律令政治は法的に整備される一方、 官制・財政・兵制などあらゆる面で空洞化した。 玄宗自身の政治姿勢も崩れ、李林甫(りりんぽ)などの寵臣を宰相としてこれに政治をゆだね、高力士らの宦官(かんがん)を重用した。精神面でも、儒教的理念から離れて道教の放逸な世界に傾倒し、 公私の莫大(ばくだい)な費用の捻出(ねんしゅつ)のために民衆の収奪を事とする財務官僚を信任した。皇后王氏から武恵妃に心を移し、武氏の死後は息子の寿王から妃楊太真(ようたいしん)を奪って貴妃とした。 白楽天の「長恨歌(ちょうごんか)」が歌うように、楊貴妃との愛欲の世界の陰には帝国の危機が進行していた。 玄宗は貴妃の一族と称する楊国忠と、東北辺に胡漢(こかん)の傭兵(ようへい)の大軍団を擁する安禄山(あんろくざん)とを、いずれも信任した。 内外二つの権勢はついに激突して安史の大乱となり、 756年玄宗は長安を脱出、四川(しせん)に落ち延びた。その途中で楊貴妃を失い、皇太子(粛宗)に譲位して上皇となった。翌年、長安が奪回されて帰還したが、 粛宗の腹心李輔国(ほこく)のため高力士ら側近を引き離され、太極宮に閉じ込められ失意のうちに没した。 [谷川道雄]
『礪波護著「唐中期の政治と社会」(『岩波講座 世界歴史5 古代5』所収・1970・岩波書店)』
 引用終了。https://kotobank.jp/word/玄宗-492564 2021年1月13日閲覧

★加藤徹のコメント・・・織田信長と玄宗の共通点
 織田信長も、家臣団のダイバーシティと相互牽制によって前半は成功した。父の代から織田家に仕えている譜代の家臣と、明智光秀や羽柴秀吉のような新参の実力派の家臣を競わせ、それぞれに「方面軍」的な 権限を与えて勢力拡大に成功した。しかし、玄宗が新参の安禄山を節度使に取り立てて裏切られた(安史の乱9のと同様、信長も自分が取り立てて「方面軍」を委ねた光秀に殺された(本能寺の変)。


第2回 1/28 織田信長もあこがれた古代の聖王 周の文王

参考動画
○周は最初の中国的王朝
 「天」や「天子」という概念の確立、封建制や儒教的価値観の成立などを理由に、周王朝を最初の中国的王朝と見る説もある。
 ちなみに、2021年現在、「中国」という言葉が確認できる最古の文字記録は、1963年に陝西省宝鶏市賈村で出土した青銅器「何尊」に鋳込まれた122字の銘文である。何尊は、文王の孫にあたる周の成王(在位は前1042年?- 前1021年?)の時代に、「何」という貴族が製作させた酒器である。

○紀元前11世紀
 文明国においても、伝説の時代から史実の時代への過渡期だった。
周の文王は紀元前11世紀の人物とされる。『旧約聖書』の預言者サムエル(前1070年?-前1012年?)の、年上の同時代人だった可能性がある。当時、日本はまだ弥生時代(前10世紀−3世紀)の前で、古代ギリシアも「暗黒時代」(前1200年−前700年ごろ)だった。
『旧約聖書』に登場する、古代イスラエル王国の第2代のダビデ王(在位は紀元前1000年 ?- 紀元前961年?)と、第3代のソロモン王(前971年 -前931年頃)は、文王よりあとの時代である。

○殷周革命
 「放伐」「易姓革命」の最初。史書が伝える夏殷革命の説話は、前1600年ごろの話とされ時代的には殷周革命よりも前だが、殷周革命をなぞった創作である可能性がある。

○夏商周年表プロジェクト(夏商周断代工程)
1996年−2000年の中華人民共和国の国家的プロジェクト。
司馬遷の歴史書『史記』十二諸侯年表は、紀元前841年の「共和元年」から始まる。それ以前の年代は、司馬遷は年次不明として記さなかった。「夏商周年表プロジェクト」で推定された以下の年次の信憑性について、中国以外の学者は批判的な見方が少なくない。

  紀元前2070年頃、夏王朝が成立(日本の学界では夏の実在を公認していない)
  紀元前1600年頃、商王朝(日本語では殷王朝)が成立
  紀元前1300年頃、商は盤庚の時代に殷墟(河南省安陽市)に遷都
  紀元前1046年、殷周革命

○周
 中国古代の王朝。紀元前1046年?−前256年。鎬京(現在の西安の西)に都を置いていた前期を西周、洛邑(現在の洛陽の西郊)に遷都してからの後期を東周(紀元前770年 - 前256年)と呼ぶ。東周は、春秋時代および戦国時代とも重なる。
 周は「姫」姓の王朝で、伝説上の祖は農業の神でもある后稷 (こうしょく)である。民族の起源は不明だが、現在の陝西省ないし山西省の奥地にいた部族が起源という説がある。司馬遷の『史記』周本紀などが伝える伝承によると、古公亶父 (ここうたんぽ) のとき、遊牧系の異民族である犬戎 (けんじゅう) の圧迫を受けて、陝西の渭水盆地にのぞむ岐山のふもとに民族の拠点を遷し、東方の殷(中国では「商」と呼ぶ)に服属した。古公亶父の子の季歴から、西伯昌 (姫昌。死後、周の文王に追尊) 、その子の武王にかけて国力を高めた。紀元前 11世紀(夏商周年表プロジェクトでは前1046年とする)の「武王克殷」により殷を滅ぼした。
 周は、前256年(秦の始皇帝の幼年時代)に秦の昭王によって滅ぼされるまで8百年も続き、末期は弱体化したが、伝統的な権威は絶大だった。また、儒教の開祖である孔子が、古代の周王朝の文物制度を理想化したこともあり、本当の意味での中国史は周から始まる、とする意見もある。儒教の経典を始め周王朝に関する伝世の文献記録は多いが、後世の粉飾や理想化も多く、しばしば考古学的な出土資料と矛盾する。文献研究中心の歴史学者と、発掘調査中心の考古学者は、古代の周王朝の実像をめぐってしばしば対立することでも有名である。
 周の初代王は武王だが、武王は殷に服属していた父を追尊して「文王」とした。

○周の文王

★史実よりも伝説
 生年不明。没年は紀元前1051年か。姓は姫、諱は昌。生きていたときは周国の君主として殷に服属し、「西伯」「西伯侯」「西伯昌」とも呼ばれた。文王こと姫昌は、史実というよりも、伝説的な説話の中の人物である。

★最高の諡号「文王」
 中国歴代の帝王の諡号(しごう)のなかで「文」は最高の諡号である。単に文王と言えば、周の文王こと姫昌を指す。
 儒教の「聖人」は少ない。堯と舜、夏王朝の初代王・禹、殷王朝の初代王・湯王、周の文王、その子の武王と周公旦(魯国の開祖)、孔子などである。孟子は「亜聖」とされる。

★孔子も文王を中華文明を確立した人物として絶賛
『論語』子罕第九に載せる孔子の言葉。

 子畏於匡。曰「文王既没。文不在茲乎? 天之將喪斯文也、後死者、不得與於斯文也、天之未喪斯文也、匡人其如予何?」
 子、匡(きょう)に畏(おそ)る。曰わく、文王(ぶんおう)既に没したれども、文茲(ここ)に在らずや。天の将(まさ)に斯(こ)の文を喪(ほろ)ぼさんとするや、後死(こうし) の者、斯の文に与(あず)かることを得ざるなり。天の未(いま)だ斯の文を喪ぼさざるや、匡人(きょうひと)其れ予(わ)れを如何(いかん)。
 以下は、作家の下村湖人(1884年−1955年)の訳による孔子の言葉である。(引用開始)
 先師が匡(きょう)で遭難された時いわれた。――
「文王がなくなられた後、文という言葉の内容をなす古聖の道は、天意によってこの私に継承されているではないか。 もしその文をほろぼそうとするのが天意であるならば、なんで、後の世に生れたこの私に、文に親しむ機会が与えられよう。文をほろぼすまいというのが天意であるかぎり、匡の人たちが、いったい私に対して何ができるというのだ」(下村湖人『現代訳論語』より)

★文王の事績
 文王の父は季歴、祖父は古公亶父である。伯父は太伯と虞仲。
 なお、太伯は中国東南部の沿海にある呉国の先祖である。
 中国および日本の昔の文献では、日本人を太伯の子孫(つまり日本人は文王の伯父の子孫)とする説が普通に見られた。
 季歴の死後、姫昌は周国の君主となった。首都を岐山(現在の陝西省宝鶏市岐山県)のふもとから、より開けた豊邑(現在の陝西省西安市のあたり)に移し、国力の充実につとめた。  後世の史書では、理想的な仁政を行ったとされる。

★織田信長への影響
 なお、日本の地名「岐阜」は周の岐山にちなむ。織田信長は、自分の教育係でもあった僧侶・沢彦宗恩に新しい地名を考えさせた、結局、姫昌が興起した岐山と、孔子の故郷で儒教の聖地である曲阜から「岐阜」と命名したという(異説もある)。ちなみに信長のスローガン「天下布武」も沢彦宗恩の考案で、姫昌の時代の周をイメージしたとする説がある。

★紂王との対立
 姫昌の時代、殷は悪逆非道の紂王と妲己が支配していた。
 姫昌の人望を警戒した紂王は、羑里(ゆうり。現在の河南省安陽市の羑里城遺址?)に姫昌を幽閉した。姫昌は幽閉中、儒教の経典である『周易』を作った。また、紂王は、姫昌の長男であった伯邑考を殺し、その肉のスープを姫昌に飲ませて反応を見た、という話もある(後世の小説『封神演義』でも有名)。後に釈放され、殷の西をおさえる諸侯の1人として西伯の爵位を与えられた。

★虞芮(ぐぜい)の訴え
 西伯となった姫昌は、周で仁政をしいた。あるとき、小国の虞と芮の君主のあいだで争いが生じた。 いわゆる「虞芮の訴え」の故事である。両国の君主は、姫昌に調停してもらうため、周を訪問れた。周の領域に足をふみいれると、農民は互いに畦道を譲り合い、 若者は老人に道を譲り、礼と仁が社会の末端までゆきとどいていた。虞と芮の君主は恥ずかしくなり、姫昌に面会せず、そのまま自国に帰った。

★太公望
 姫昌は人材の登用にも力を入れた。ある日、狩猟の前に獲物を占うと、動物ではない大物を得る、という結果が出た。 姫昌が猟に出ると、渭水の川べりで釣りをしている老人にあった。老人は名を呂尚(もしくは姜尚)と言い、悪妻に愛想をつかされ逃げられる(「覆水盆に返らず」の故事で有名)ほど困窮していた。姫昌は呂尚と語りあううちに、彼が有能な人物であることを見抜き「彼こそ、わが太公(祖父である古公亶父)が待ち望んでいた人物だ」と喜び、いっしょに馬車に乗せて連れ帰った。
 天下の諸侯は、殷の紂王に見切りをつけ、姫昌によしみを通じた。天下の3分の2が事実上、姫昌の勢力下に入った。それでも姫昌は、殷に服属を続けた。
 姫昌が年老いて病没すると、あとを継いだ息子の姫発(後の武王)は、弟の姫旦(周公旦)や軍師の呂尚らとともに、亡き姫昌の位牌を掲げて挙兵し、悪逆非道の紂王を牧野の戦いで破った。周の初代王となった姫発は、父を追尊して文王とした。

★「天下を三分して其の二を有す」
 『論語』泰伯第八の次のくだりは有名である。

 舜有臣五人、而天下治。武王曰「予有亂臣十人」。孔子曰「才難。不其然乎。唐虞之際、於斯爲盛、有婦人焉、九人而已。 三分天下有其二、以服事殷、周之徳、可謂至徳也已矣」
 舜、臣五人有り。而して天下治まる。武王曰く 「予に乱臣十人有り」と。孔子曰く「才難しと。其れ然らずや。唐虞の際。斯に於て盛んなりとす。 婦人有り。九人のみ。天下を三分して其二を有ち、以て殷に服事す。周の徳は其れ至徳を謂ふぺきのみ」と。

 以下、下村湖人の『現代訳論語』の訳を引用する。引用開始。
 舜帝には五人の重臣があって天下が治まった。周の武王は、自分には乱を治める重臣が十人あるといった。それに関連して先師がいわれた。――
「人材は得がたいという言葉があるが、それは真実だ。唐・虞の時代をのぞいて、それ以後では、周が最も人材に富んだ時代であるが、それでも十人に過ぎず、しかもその十人のうち一人は婦人で、男子の賢臣はわずかに九人にすぎなかった」
 またいわれた。――
「しかし、わずかの人材でも、その有る無しでは大変なちがいである。周の文王は天下を三分してその二を支配下におさめていられたが、それでも殷に臣事して秩序をやぶられなかった。文王時代の周の徳は至徳というべきであろう」(以上、下村湖人『現代訳論語』より)

 江戸時代の日本の儒者の一部は、京都の朝廷に対して徳川幕府が天下の政治を行っている状態を文王の「天下を三分して其の二を有す」になぞらえ、幕府を賞賛した。
 
以下は余談。

○周人西来説
 周人の祖先は、西の遊牧系民族の影響が強かった、とする説がある。

○周王朝の国姓である「姫」の字源
 顔の「おとがい」が発達した西方風の美女、という説がある。「姫」という漢字の右半分は、本来は「臣」ではなく、「頤」(北京の頤和園の頤)である。

○周の文王こと姫昌と、太公望呂尚(姜尚)のコンビに象徴される部族同盟「姫姜連合」に注目する説もある。
 「姜」という漢字は「羊」を含み、中国西北部に住む羌族と近縁だった可能性がある。
○「麦」と「来」の字源
 來 (新字体は来)は、穂が左右に出たムギを描いた象形文字で、麥(新字体は麦)はそれに夊(足)をそえたもの。遠くから歩いてもたらされたムギの意。太古の時代は來がムギ、麥が「来る」の意だったが、後に両者の意味が逆転して今日に至る。太古の発音は来も麦もmlagだったが、来はmが脱落してlag→lai(日本漢字音はライ)に、麦はlが脱落してmag(日本漢字音はバク)となった。
 西の周が東方の殷王朝を打倒できた一因として、かつては麦の生産性の高さを挙げる説もあった。

○ハプログループQ (Y染色体)
 周人は、遺伝的には漢民族の先祖ではなかった可能性がある。
 約3千年前の周の時代の遺跡から出土する古人骨には、現在の東アジアではまれなハプログループQ (Y染色体)が約59%という高い頻度で観察される。現代の漢民族では高頻度のハプログループO2 (Y染色体)はわずか27%しか見られない。ハプログループQ (Y染色体)が多く見られるのは、現在では南北アメリカ大陸の先住民や、シベリア中央北部の先住民などである。

○貝と羊
 東方系の殷すなわち商王朝が、財・貨・買・賤など「貝」の価値観をもっていたのに対して、西方系の周は、義・祥・美・養など「羊」の価値観をもち、両者が融合して漢民族の基礎ができたとする見方もある(加藤徹『貝と羊の中国人』新潮新書)。


第3回 2/11 「19浪」の苦節をのりこえた覇者 晋の文公

参考動画
○ポイント

○晋の文公(晋文)  文公(ぶんこう、紀元前696年 - 前628年、在位紀元前636年 - 前628年)。
 姓は姫、諱は重耳(ちょうじ)、諡(し。おくりな)は文。春秋時代の晋の君主で、死後「文公」と呼ばれる。
 晋の公子の一人であったたが、お家騒動により19年間にわたり天下の諸国を放浪したのち、老年 になって帰国を果たし、晋の君主となり、「覇業」をなしとげて「覇者」となった。

 天下の覇権を握り、斉の桓公と並んで斉桓晋文と称され、春秋五覇の代表格とされる。
 司馬遷の『史記』など後世の歴史書に載せる文公こと重耳の経歴は、半ば説話化しており、どこまで史実かはよくわからない。

 晋の公子・重耳は、紀元前696年、父・献公と、白狄(「夷狄」の一種。テュルク系か)の血を引く狐姫のあいだに生まれた。異母兄に太子の申生、異母弟に夷吾(後の恵公)がいた。父・子とも有能だった。

 驪戎の女性・驪姫(りき。生年不明−紀元前651年)は、妹とともに献公の後宮に入り、寵愛を受けた。驪姫は懐妊し、奚斉を生んだ。彼女はわが子を世継ぎにしたいと思い、献公に彼の3人の息子を讒言し、仲を裂いた。重耳は国境の守備へ飛ばされた。申生は父・献公を毒殺しようとしたという濡れ衣を着せられ自殺させられた。晋のお家騒動の結果、重耳は43歳にして側近らとともに母の故郷である白狄へ亡命し、異母弟の夷吾も国外へ亡命した。
【ポイント 異民族の血に対する蔑視が薄いことに注意】

 以後、重耳の目標は、外国の力を借りて祖国に戻り、自分が晋の君主「晋公」になることになった。

 重耳は白狄に滞在中、赤狄の女性・季隗をめとり、子供をもうけた。亡命生活5年目の前651年、祖国の晋で父・献公が死去。驪姫はわが子を晋公に立てた。晋の忠臣・里克は決起して驪姫らを殺した。里克は、亡命していた重耳に帰国してもらい晋公に据えようとした。重耳が逡巡しているうちに、夷吾が帰国し、晋の君主となった(恵公)。
 恵公は、人望が高い異母兄の重耳を脅威に感じた。彼は、里克ら重耳派を粛清し、さらに暗殺者を重耳のもとに送った。
 白狄は小国であるうえ、晋に近すぎた。重耳は、東の大国である斉に身を寄せることにした。彼は妻・季隗に
「二十五年まで待ってくれ。それで帰ってこなかったら、再婚してくれ」
 と言った。妻は笑って「待ちます」と答えた。

 重耳と側近は、亡命の旅に出た。中原の小国・衛に到着した。衛の文公は一行を冷遇した。地元の農民も重耳らを馬鹿にした。重耳の主従が食糧を農民に乞うと、農民は器に土を盛って差し出した。屈辱だったが、側近の趙衰は「これは将来、あなたがこの領土にする予兆です」と慰めた。

 一行は苦労の末、斉に着いた。斉の桓公(在位、前685年−前643年)は、中国史上初の「覇者」だったが、重耳を破格の厚遇で受け入れ、自分の娘・斉姜をめあわせた。
 桓公が死ぬと、斉の国内で後継者争いが起きた。重耳の側近である狐偃・趙衰らは国外逃亡を画策したが、重耳は斉での生活に満足し、反対した。斉姜の侍女は、重耳主従の密談を盗み聞きして、主人の斉姜に告げた。夫思いの斉姜は、秘密を漏らさぬため侍女を殺し、重耳に「早く斉から逃げて」と促した。重耳は出国を拒否した。斉姜は重耳を泥酔させた。狐偃たちは、眠る重耳を馬車に乗せて、斉から出奔した。重耳は目を覚ますと激怒し、武器を手に取り「殺す」と追い回した。狐偃は「私を殺して事が成るのなら本望です」と答えた。重耳は「事が成らねば、おまえを殺してその肉を食う」と言い、許した。

 重耳主従は、小国の曹の領地に入った。曹の共公は無礼だった。彼は「重耳のあばら骨は一枚の板状になっている」という噂を聞き、重耳の入浴する裸を覗いた。大変な屈辱だった。 一行はすぐに曹を離れ、宋に入った。当時の宋の君主は「宋襄の仁」の故事で有名な襄公で、彼は重耳を国君の礼をもって礼遇した。が、「宋襄の仁」の戦いで楚に敗れたばかりの宋は、国力に余裕がなかった。重耳は宋に見切りをつけ、南の新興国である楚を頼るため、旅に出た。

 途中、鄭に寄った。鄭の君主・文公(後の晋の文公こと重耳とは別人)は、重耳を冷遇した。文公の弟・叔・は「重耳は非凡な人物です。厚遇しましょう」と言うと、文公は「諸侯の公子の亡命者は多い。いちいち厚遇できるか」と拒否した。叔・は「ならばいっそ、重耳を殺して後の禍根を断つべきです」と言った。文公はそれもきかなかった。

 重耳の一行は楚に着いた。楚は「南蛮」の国であり、君主である成王は、周の天子と同等の王号を名乗っていた。が、一目で重耳の非凡さを見抜き、自分と対等の諸侯の礼をもって重耳を饗応した。饗宴の席上、成王は重耳にたずねた。
「もし、あなたが祖国に戻って晋の君主になれたら、御礼に何をしてくれますか」
 重耳は、
「もし晋に返り咲けたら、将来、わが国と貴国が戦争するとき、わが軍をいったん、三舎ほど退かせましょう」(故事成語「三舎を避ける」)
と答えた。楚の将軍・子玉は激高し、成王に、
「重耳は無礼です。殺しましょう」
と進言した。
 成王「やつを見ろ。天は、晋を興そうとしている。天意は止められぬ」
 子玉「ならば、側近の狐偃を人質として取りましょう」
 成王は「それは礼に背く」と言い、相変わらず重耳を厚遇した。

 前637年、重耳の異母弟である晋の恵公が死去した。
 当時、晋公の家は、西の辺境の新興国・秦公の家と代々、政略結婚の関係を結んだ (故事成語「秦晋之好」)。にもかかわらず、両国の関係は悪く、しばしば戦争になった。
 晋の恵公の息子(懐公)は、秦に人質として取られ、秦の穆公の娘と結婚していたが、晋の恵公の死を知ると秦を勝手に出奔して晋に戻り、晋公となった。秦の穆公は婿の出奔に怒り、楚に亡命中の重耳を援助して晋公にしようとした。
 楚の成王は、重耳の背を押して、秦に送った。
 重耳は、秦軍とともに晋に入った。晋の懐公は、伯父である重耳を迎え撃つよう晋軍に命じたが、軍も晋の群臣も、すでに人望が無い懐公を見限っていた。晋軍は、秦軍とともに重耳を奉戴して、懐公の近衛軍を打ち破った。懐公は殺され、重耳は晋公となった(文公)。すでに62歳だった。

 強国だった晋は、献公の死後のお家騒動もあり、国力が弱まっていた。
 文公は、約束どおり狄から先妻の季隗を呼び、晋の再建につとめた。
 前635年、周の襄王は、反乱にあって文公のもとに逃亡してきた。足利義昭を保護して上洛した織田信長と同様、文公も周王を保護して、周の都の反乱を鎮めた。
 前632年、楚が宋を攻めた。文公にとっては、両国とも恩のある国である。文公は宋を助けるため出陣し、楚の成王と対峙した。晋軍の優勢を見た成王は撤退したが、楚の猛将・子玉は退かなかった。文公は約束通り、晋軍をいったん、三舎退かせた。その後、城濮の戦いで子玉と対決し、楚軍に勝利した。
 この年、文公は諸侯を集めて「踐土之盟」を行い「晋文覇業」を成し遂げた。

 前628年、文公は死去した。在位はわずか9年だったが、「斉桓晋文」とか「晋文覇業」と言うとおり、覇者としてゆるぎない存在感を後世にまで示した。

第4回 2/25 早すぎた世界帝国 元のクビライ

参考動画
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○ポイント

○クビライ 1215年9月23日 - 1294年2月18日
 高校の世界史の教科書では今も「フビライ」だが、近年は「クビライ」が多い。ローマ字表記はKhubilai。中国語表記は「忽必烈」。英語ではKublai Khan。チンギス・カンの4男トルイの子で、モンゴル帝国の第5代皇帝であり、元王朝の初代皇帝(廟号は世祖)。

 モンゴル帝国の歴代君主は、初代のチンギス・カン、第2代オゴデイ、第3代グユク、第4代モンケ(クビライの兄)と受け継がれた。

 1251年、兄であるモンケの即位後、クビライは中国方面の攻略を命じられ、本拠地の陝西から南宋を避けてチベット東部を通り雲南を攻略、1253年に雲南の大理国を征服した。 クビライは雲南から帰還後、南モンゴル(現在の内モンゴル自治区)中部のドロン・ノール(後に上都となる場所)に本拠地を移し、姚枢ら漢人の幕僚も登用し、南宋や高麗の攻略を指揮した。

 その後、クビライは兄モンケと対立し、南宋攻略の責任者からはずされた。モンケみずから南宋攻略の指揮をとるため、1258年に陝西、河南を経て四川の南宋領に侵攻したが、1259年に疫病にかかって陣没した。

 モンケの急死により、彼の息子たちと弟たちのあいだでカアン(モンゴル帝国の君主号。以下、便宜的に皇帝と称す)の位をめぐる争いが生じた。
 クビライの弟アリクブケは、モンゴル帝国の首都・首都カラコルムにあって、モンケ派やモンゴル高原以西の勢力の支持を得た。クビライは、中国駐留軍やモンゴル高原東部のの勢力の支持を得て、1260年に皇帝に即位した。数年にわたる抗争の末、中国の豊富な物資をおさえたクビライ側が勝利し、1264年からはクビライが単独で皇帝を名乗るようになった。
 クビライは、中国式の制度を部分的に採り入れて、統治を固めた。中国風の元号「中統」を立て、漢人官僚を活用して中国式の政府機関を整備し、宋代から中国で流通するようになった紙幣を発行した。1267年から、旧・金国の中都の郊外に大都の造営を開始した。1271年、国号を「大元」と改めた。

 クビライは積極的に中国の制度を採用する一方で、冬と夏のそれぞれに大都と上都を移動する遊牧的生活を維持した。また、宋王朝のような官僚群に君臨する皇帝独裁はしかず、モンゴルの王族や貴族が高官や所領を占めることを認め、間接的な支配をしいた。これらは、日本の幕府の統治のコンセプトと少し似ている。

 クビライはチベット仏教を優遇した。チベット仏教の高僧パクパ(パスパ)を国師とし、モンゴル語を表記するパスパ文字を制定させた。パスパ文字のデザインは、朝鮮のハングルに影響を与えたという説がある。

 クビライは、過去の浸透王朝の皇帝とは違い、中国文化に心酔したり耽溺することなかった。彼は漢人官僚を活用したものの、戦乱で途絶していた科挙の試験を復活させることはなかった(これも日本の武家政権と似ている)。儒教的知識人が科挙の試験地獄から解放された副作用として「元曲」「元雑劇」など、口語体的な新しい文芸が興隆した。

 クビライの時代は、領土拡張のための外征や、内乱鎮圧の戦争が相次いだ。
 1274年、元と高麗の連合軍は、日本の九州北部を侵攻した。
 1276年、バヤン将軍は南宋の臨時首都・臨安(現在の杭州)を占領した。その後も南宋の残存勢力の掃討戦は続くものの、事実上、元の中国征服は完成した。
 元の民族構成は大きく分けて (1)モンゴル人、(2)色目人、 (3)漢人(旧・金朝治下の北宋の遺民) 、(4)蛮子(南宋の遺民)などであった。漢人と蛮子は同じ漢民族であるが、違う民族として扱われた。支配者であるモンゴル人は人口が少なかったため、クビライは色目人を活用した。イスラム教徒の財務官僚アフマドや、ヴェネツィア出身のマルコ・ポーロもクビライに仕えた。
 1281年、元と高麗の連合軍は再び日本の九州北部に侵攻したが、撃退された。
 1287年、元はビルマに侵攻して傀儡政権を樹立し、東南アジアまで勢力を広げた。
 クビライを含む皇帝の権威は、チンギス・カンの血筋、という血縁カリスマに由来していた。そのため、クビライと同じくチンギスの血をひく諸王は、東北アジアから中央アジアの各地で、しぱしぱ公然とクビライに反抗し、反乱を起こした。特に深刻だったのは、上都や大都に地理的にも近く、クビライの支持母体であったモンゴル高原東方の諸王家の「ナヤンの乱」であった。すでに老齢になっていたクビライはみずから親征し、遼河で戦いでナヤンに勝利した。次いで、カチウン家の王族カダアン・トゥルゲンの反乱も鎮圧つれた(ナヤン・カダアンの乱)。

 クビライ政権内での権力抗争も激化した。クビライの皇太子チンキム派と、財務官僚のアフマド派は反目した。1282年、アフマドはチンキム派に暗殺された。チンキムは1285年に病死した。相次ぐ戦役と政争の結果、帝国の財政は傾いた。クビライは日本への3度目の遠征計画を立てていたが、あきらめざるをえなかった。
 1293年、クビライは、チンキムの遺児である皇太孫テムルに皇太子の印璽を授けた。
 1294年、クビライは大都で病没した。78歳。モンゴル高原に葬られた。同年、テムルが上都で即位した。

○映画・ドラマ
他多数

第5回 3/11 中国統治の要道を示した大帝 康煕帝

参考動画
https://www.youtube.com/playlist?list=PL6QLFvIY3e-kubXs9dMj7BWRV-CCO5HDf

○長與善郎(ながよ・よしろう)『大帝康熙 支那統治の要道』(岩波新書、1938年)
 康煕帝の評伝だが、副題は、日中戦争の時代の雰囲気を反映していて、エグい。

○征服王朝
 中国の歴代王朝は、
  1. 漢族王朝 秦、漢、隋、唐、宋、明など。
  2. 浸透王朝 五胡十六国時代の王朝や、南北朝時代の北魏など。
  3. 征服王朝 遼、金、元、清
の3つに分類される。
 遼と元はモンゴル系、金と清は女真/満洲系で、あとの征服王朝ほど完成度が高くなる。

○清(しん)
歴代皇帝は満洲族のアイシンギョロ氏(愛新覚羅氏)
 当初の国名は「後金(こうきん)」1616年 - 1636年。後に清(大清帝国。だいしんていこく)と改称。
 1616年に満洲の地域で建国。1644年から1912年まで中国主要部を含む地域を支配。
 首都は、初期は盛京(ムクデン。後に奉天と改称。中華民国時代に瀋陽と改称。満州国時代に奉天。現在は中華人民共和国遼寧省瀋陽市)。
 後に北京。現在の故宮は、清朝時代の紫禁城である。

○満州
 正式には「満洲」と書く。日本語では常用漢字に「洲」がないので「満州」とも書く。
 中国の金(1115年 - 1234年))  「満洲」は、日本がかって「満洲国」を支援した経緯もあり、現代中国人を相手には「取扱注意」の語なので、要注意。
 満洲は、本来は地名ではなくmanju(マンジュ)という民族名だった。が、日本語では、政治的な思惑もあって、 半ば意図的に「満洲人の本来の居住地域」という意味に転用され、「満洲」は地名となった。
 満洲が地名となったため、日本語では「満洲民族」「満洲族」「満洲人」「満人」と呼ぶ。
 現代中国語の法律では、満洲民族を「満族」と呼ぶ。
 中国人は、日本との過去の戦争の歴史的経緯もあって、地名や国名としての「満洲」を今も使わず、 地名としては「東三省」、国名としては「偽満洲国」という語を使う。
cf.「ぎょうざの満洲」と「満周餃子 東北」(閉店)の違い。

○清の君主号
 清の皇帝は、満州民族の王、モンゴルのハーン(皇帝)、大清帝国皇帝、の3つを兼ねていた。
 清は、満洲族の金の復興国家「後金」として建国し、当初は満洲族の王をいただく満洲八旗・蒙古八旗・漢軍八旗の連合だった。
 漢軍八旗以外の漢民族は、ニカンと呼ばれた。
 清は、モンゴル系の大元(1271年 - 1368年)と北元(1368年-1635年)と、漢民族系の明(1368年-1644年)の後継国家でもある。

○清の歴代皇帝
 名前と在位年。「祖」が3人もいる点に注意。
  1. 太祖天命帝1616-1626 ヌルハチ 満洲語でゲンギェン・ハン モンゴル語でクンドゥレン・ハーン
  2. 太宗崇徳帝1626-1643 ホンタイジ 満州語でスレ・ハン モンゴル語でセチェン・ハーン
  3. 世祖順治帝1643-1661 清の「入関」=1644年のときの皇帝。漢民族目線では順治帝を初代とカウントする。
  4. 聖祖康熙帝1661-1722 四代目にもかかわらず廟号は「祖」。廟号に「聖」をもつ皇帝は中国史上、2人だけ。
  5. 世宗雍正帝1722-1735 康熙帝の第4子。なお満州人を含む「北族」には、漢民族的な長子相続制度はない。
  6. 高宗乾隆帝1735-1795 子供のころ康熙帝にかわいがられた。雍正帝の15男。
  7. 仁宗嘉慶帝1796-1820 清の衰退の始まり。
  8. 宣宗道光帝1820-1850 アヘン戦争の時の皇帝。
  9. 文宗咸豊帝1850-1861 西太后の夫。
  10. 穆宗同治帝1861-1875 西太后の息子。
  11. 徳宗光緒帝1875-1908 西太后の甥。
  12. 宣統帝1908-1912 ラストエンペラー(末代皇帝)ゆえ廟号はない。1917年に復辟、退位。満州帝国の康徳帝1934−1945
  ○デジタル大辞泉「康熙帝」
[1654〜1722]中国、清朝の第4代皇帝。在位1661〜1722。廟号は聖祖。諱(いみな)は玄Y(げんよう)。三藩の乱を治め、台湾を領有し、ロシア・蒙古・チベットに兵を進め、国土を拡張。また、西洋学術を導入、学芸を振興して、清朝全盛期の基礎を固めた。

○旺文社世界史事典 三訂版「康熙帝」
 1654−1722。中国の清朝第4代皇帝,聖祖(在位1661−1722)。世祖順治帝の第3子。8歳で即位し,南方に勢力を張っていた平西王呉三桂らの三藩の乱を平定し(1681), ついで台湾の鄭 (てい) 氏を屈服させた(1683)。さらに当時,黒竜江沿いに南侵してきたロシアと戦い, ネルチンスク条約で国境を定め(1689),外モンゴル・青海・チベットを平定した。貿易を拡大し, 銀の流入で財政は豊かになり,盛世滋生人丁 (せいせいじせいじんてい) で人頭税を軽減し, 税制合理化に努力した。大いに文化事業をおこし,多数の欽定書 (『古今図書集成』『康熙字典』『淵鑑類函 (えんかんるいかん) 』『佩文韻府 (はいぶんいんぷ) 』など) を編集させた。また外国人宣教師を用いて全国を測量し,『皇輿全覧図 (こうよぜんらんず) 』を作成させたが, イエズス会以外の宣教師を追放した(典礼問題)。在位61年政務に精励し,清の中国支配を定着させ,名君とたたえられた。

○康熙帝について
名前
 清の第4代皇帝。廟号は聖祖。姓は満州姓「アイシンギュロ」(漢字では愛新覚羅=あいしんかくら、と表記)。諱は玄Y。 モンゴル語の君主号はアムフラン・ハーン。諡号(しごう)の略称は仁皇帝。
 その治世の元号(一世一元制)は康熙だったので、日本では「康熙帝」と呼ばれる。

生涯

第6回 3/25 21世紀の中国をデザイン ケ小平

参考動画
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ケ小平(とう・しょうへい、Deng Xiaoping、1904年8月22日 - 1997年2月19日)。
中華人民共和国の第2代最高指導者(1978年12月22日 - 1989年11月9日)
○ポイント
改革開放
一国両制
韜光養晦(とうこうようかい)・・・中国の国力を隠して実力を蓄える、という外交・国防のスローガン
実現四化、永不称霸・・・脚韻を踏んだスローガン。四つの近代化を推進し、永遠に覇権をとなえない。
不管K猫白猫、捉住老鼠就是好猫。・・・黒猫でも白猫でも、ネズミを捕るのが良い猫だ。もとは四川省のことわざ。

○政治家としてのタイプ
 「客家」(ハッカ)系である。ちなみに太平天国の洪秀全、中国革命の孫文、シンガポールのリー・クアンユー(李光耀)、台湾総統の李登輝と蔡英文も客家系。
 毛沢東は夢想家だったが、ケ小平は周恩来や劉少奇と同様のリアリストだった。
 失脚を繰り返しても、そのたびに地獄から這い上がった。
 最高指導者であったが、肩書きにこだわらず「院制」をしいた。
 毛沢東は周恩来なしではやってゆけなかったが、ケ小平は1人でできた。
 1989年の天安門事件のあと、手を汚していない江沢民にあとを譲った。
 個人崇拝を排除した。死去したあとも中国人はふだんの生活を続けることができた。

○デジタル大辞泉より引用
ケ小平(とうしょうへい)
[1904〜1997]中国の政治家。四川省嘉定の人。フランス留学中に中国共産党に入党。帰国後、長征・抗日戦に参加。1956年以来、党総書記・政治局常務委員などを歴任。文化大革命と1976年の天安門事件で二度失脚したが、江青ら四人組追放後に復活。1983年に国家中央軍事委員会主席に就任して最高実力者となった。1989年までにほとんどの公職から引退。トン=シアオピン。

略歴 その他
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