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平遥古城――ユネスコの世界遺産
世界の城・日本の城シリーズ


最新の更新2024年4月2日  最初の公開2024年4月2日

以下、朝日カルチャーセンター・新宿教室の[こちらのサイト(お申し込み先もこちらに)]より自己引用。
2024/4/6土曜 土曜 10:30〜12:00 教室・オンライン自由講座 見逃し配信あり
14世紀の明の時代に造営された中国山西省の平遥古城は、古代都市の面影を現代も保っている「生きた化石」のような城郭都市です。ユネスコの世界遺産に「Ancient City of Ping Yao(古都平遥)」として1997年に登録されました。平遥古城の魅力と歴史を、豊富な図版を使い、わかりやすく解説します。(講師・記)

※日本では「遥(新字)」と「遙(旧字)」は両方とも人名用漢字(常用漢字外)です。そのため、「平遥」と「平遙」のどちらも正しい漢字表記であり、書籍やネットでは両方とも使っています。今回の講座でも、両者を混用しています。
YouTube https://www.youtube.com/playlist?list=PL6QLFvIY3e-lMzri085vZK0xCY76suYzL


ポイント、キーワード

平遥古城について

「世界遺産オンラインガイド」 https://worldheritagesite.xyz/ping-yao/ より引用。
平遥古城は中国山西省晋中市平遥県の古い城塞都市です。省都・太原から南へ100キロの地点にあります。1997年、世界遺産に登録されました。
都市の周りは6162.68メートル、総面積2.25平方キロメートルあり、277年ばかりの悠久の歴史を持っています。中国国内において、保存の状態が最もよい明清時期の古代県城です。
平遥古城は、商業施設や役所、市場の位置などが当時そのままに保存されており、現代においても都市としての機能を十分果たしている珍しい都市となっています。
城内の大通り、「南大街」は古くから続く商店街です。明時代から続く造り酒屋「長昇源」では、西太后が味わったといわれる薬用酒「黄酒」を購入することが出来ます。通りから少し外れると、「四合院」という中国北部の伝統的建築様式である民家が並びます。
現在は44の民家が観光客向けに開放されており、内部を見学することが出来ます。

以下、ACCU(ユネスコ・アジア文化センター)のサイト https://www.nara.accu.or.jp/news/heritage/pinyao.html より引用。
平遥古城のある山西省は(中略)内陸に位置してはいるが、歴史・文化遺産が豊富で、「中国古代建築の博物館」と称されているように、唐・宋時代より以前の時代の現存する建築物の約70%が山西省にある。そして、省都・太原から約90km南、山西省の中部に平遥市がある。汾河が南北に流れ、のどかな田園風景が広がり、城壁に囲まれた静かな街であるが、市の南部には同蒲鉄道が走り、高速道路が市の西北を通る交通の要衝でもある。
(中略)
かつて、中国の都市は城壁で囲まれていたが、現在では西安、興城等のいくつかの都市を除いて現存する都市は少ない。平遥古城は、その内の一つであり、昔、山西商人が活躍した地方経済都市である。
街は横一線の城壁に囲まれ、全長6.4km、高さ8〜12m、壁上部の幅が3〜5mあり、外側に幅、深さともに4mの壕がめぐらされている。外側表面は全て磚(煉瓦)を築き、内側を「版築」という工法で築いており、城壁上部にも磚が敷かれている。城壁外側には頂部が凸凹の朶口(銃眼)があり、馬面と呼ばれる72ヶ所の張り出しが造られている。馬面の上には敵に襲われた際に身を隠しながら矢を放つ敵楼が建てられている。城壁の内側には、馬が駆け上がるためのスロープが設けられている。
東西南北に6つの門があり、西門の内側から城壁の上に登ることができる。城壁の保存状態は良く、西周時代から続くものとしては漢民族地域で最良とされている。
城壁以外でも街路、市場、商店など多くが明代の原型をとどめており、城内には300余りといわれる史跡が残されている。現在は中学校として利用されている文廟は金代(1163年)に再建されたもので、宋・金代の建築様式を伝えている。大街路北にある清虚観(道教寺院)の創建は唐代(660年)にまで溯り、元、明、清代に再建されている。また、四合院形式の住宅を見ることができ、山西から始まったとされる金融機関「山西票号」も保存されている。
この街の中心にある市楼は高さ20m余り、2層3楼の壮麗な造りになっており、昔はここで日に3度も市が開かれていた。他にも街の守り神を祀る城隍廟、沙巷街の関帝廟など数多くの歴史的建造物が残されており、全体として明清代時代の伝統的都市の雰囲気を感じることができる。
cf.埼玉県川越市の「小江戸」も、江戸時代以来の商都ではあるが、土蔵造が増えたのは明治時代、1893年の川越大火によって市街地が焼失してからである。参考 https://toyokeizai.net/articles/-/334391
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