HOME > 授業教材集 > このページ
平遥古城――ユネスコの世界遺産
世界の城・日本の城シリーズ
最新の更新2024年4月2日 最初の公開2024年4月2日
以下、朝日カルチャーセンター・新宿教室の[こちらのサイト(お申し込み先もこちらに) ]より自己引用。
2024/4/6土曜 土曜 10:30〜12:00 教室・オンライン自由講座 見逃し配信あり
14世紀の明の時代に造営された中国山西省の平遥古城は、古代都市の面影を現代も保っている「生きた化石」のような城郭都市です。ユネスコの世界遺産に「Ancient City of Ping Yao(古都平遥)」として1997年に登録されました。平遥古城の魅力と歴史を、豊富な図版を使い、わかりやすく解説します。(講師・記)
※日本では「遥(新字)」と「遙(旧字)」は両方とも人名用漢字(常用漢字外)です。そのため、「平遥」と「平遙」のどちらも正しい漢字表記であり、書籍やネットでは両方とも使っています。今回の講座でも、両者を混用しています。
YouTube https://www.youtube.com/playlist?list=PL6QLFvIY3e-lMzri085vZK0xCY76suYzL
VIDEO
● ポイント、キーワード
近世
日本の近世は江戸時代(1603-1867)。中国の近世は明清時代(明王朝1368-1644、清王朝1936-1912)。
城郭都市
戦争や治安のため周囲を城壁で囲んだ都市。現代まで残っているのはまれ。
漢語「城」は、日本語の「しろ」ではなく、「まち」の意味である。
例 杜甫の漢詩の名句「国破れて山河在り。城春にして草木深し」。この「城」は「長安城」つまり現在の陝西省西安市の市街地を指している。
cf.中国語の城は英語に訳すと city ないし walled city (壁で囲まれた都市)。例えば、北京の紫禁城(故宮)の英訳は Forbidden City (禁断の都市)
英語で「城」を表す単語、castle(キャッスル)、palace(パレス)、fort(フォート)、stronghold(ストロングホールド)のどれも、中国語(漢語)の「城」にしっくりとは該当しない。英語で「城郭都市」は walled city と言う。
日本語の「城」の多くは、英語の castle にあたる。
山西省
中国の地方行政区画である「省」の一つ。旧国名は「晋」。太行山脈の西に位置するので「山西」と呼ぶ。
黄土高原の東部にあり、北は万里の長城、西と南は黄河である。省都である太原のほか、大同、長治、陽泉などの大都市がある。
以下、山西省と「姉妹県」である埼玉県の公式サイト https://www.pref.saitama.lg.jp/a0306/shanxi.html より引用。引用開始。
北京の西南方、黄河の中流に位置する内陸省。良質の石炭など鉱物資源に恵まれているほか、世界文化遺産に登録されている中国三大石窟の一つである雲崗(うんこう)石窟や中国四大仏教名山の一つ、五台山など、豊富な歴史・文化遺産でも有名です
山西省出身の有名人は、三国志の英雄である関羽(現在の山西省運城市の出身)や、羅貫中(古典小説『三国志演義』の著者、太原出身)、劉慈欣(現代のSF作家。1963年の北京生まれだが、3歳から山西省陽泉市で育つ)ほか多数。
山西省出身の関羽が「義の人」であり「武財神」として全国区の神となっていることからもわかるとおり、山西省は古来、政治(軍事も含む)、経済(山西商人など)、文化(芸能や宗教も含む)の中心地域の一つだった。
平遥県
「平遥古城」は、太原から80キロメートルほど南南西に離れた山西省晋中市平遥県にある。20世紀初めまでは「中国のウォール街」と呼ばれるほど、全国区の「票号」がこの町に集中した。
票号
前近代の民間の為替銀行的な金融機関で、平遥の山西商人が創始。別名「票荘」。手形や預金、貸出し、政府の役人の給料の支払いの代行などを行った。活躍開始時期については学説が分かれ、明代半ばから清の道光(1821-1850)初年までさまざまな説がある。いずれにせよ、清の19世紀初頭から20世紀初頭にかけて中国北部の貨幣経済の動脈となった。北の票号に対して、中国南部の同様の機関は「銭荘」と呼ばれた。最盛期の票号は、清朝の領土全体で400以上の支店をもち、日本や朝鮮、インド、ロシア、シンガポールなど海外にも支店を展開した。平遥を中心とする山西商人が牛耳ったため、「山西票号」「晋号」と呼ばれることもあった。
山西商人
安徽省の新安商人と並び称される、近世中国の経済界で活躍した山西省出身者の商人のエスニックグループ。
同郷的結束の強さを背景に、明の時代には政商として万里の長城の常駐軍相手の補給を請け負い、成長。塩や穀物、絹、木綿などの物資のほか、清代以降は票号経営で巨利をあげた。中国全土の各地に山西会館を建てて活動の根拠地として、会館演劇など芸能にも多大の影響を与えた。清末には、平遥の山西商人が、中国全土の為替業務の大半を独占したが、西洋式の新式銀行の設立により20世紀初めから衰退した。
山西商人は同郷の先輩である関羽を「財神」として信仰し、芸能文化のパトロンにもなったため、古典小説『三国志演義』や京劇などの伝統劇では関羽は別格の特別扱いをされているほか、日本の横浜中華街をはじめ中国人の生活圏の各地では関羽の神社「関帝廟」が建てられている。
cf.中国映画『紅夢』(1991、張芸謀(チャン・イーモウ)監督、鞏俐(コン・リー)主演)のロケ地となった「喬家大院」は山西商人の豪邸で、平遥古城から北東におよそ30キロメートル離れた山西省晋中市祁県喬家堡村にある。2006年に中国で放送された、山西商人の喬致庸(1818−1907)を主人公とするテレビドラマ『喬家大院』の撮影地もここである。
● 平遥古城について
「世界遺産オンラインガイド」 https://worldheritagesite.xyz/ping-yao/ より引用。
平遥古城は中国山西省晋中市平遥県の古い城塞都市です。省都・太原から南へ100キロの地点にあります。1997年、世界遺産に登録されました。
都市の周りは6162.68メートル、総面積2.25平方キロメートルあり、277年ばかりの悠久の歴史を持っています。中国国内において、保存の状態が最もよい明清時期の古代県城です。
平遥古城は、商業施設や役所、市場の位置などが当時そのままに保存されており、現代においても都市としての機能を十分果たしている珍しい都市となっています。
城内の大通り、「南大街」は古くから続く商店街です。明時代から続く造り酒屋「長昇源」では、西太后が味わったといわれる薬用酒「黄酒」を購入することが出来ます。通りから少し外れると、「四合院」という中国北部の伝統的建築様式である民家が並びます。
現在は44の民家が観光客向けに開放されており、内部を見学することが出来ます。
以下、ACCU(ユネスコ・アジア文化センター)のサイト https://www.nara.accu.or.jp/news/heritage/pinyao.html より引用。
平遥古城のある山西省は(中略)内陸に位置してはいるが、歴史・文化遺産が豊富で、「中国古代建築の博物館」と称されているように、唐・宋時代より以前の時代の現存する建築物の約70%が山西省にある 。そして、省都・太原から約90km南、山西省の中部に平遥市がある。汾河が南北に流れ、のどかな田園風景が広がり、城壁に囲まれた静かな街であるが、市の南部には同蒲鉄道が走り、高速道路が市の西北を通る交通の要衝でもある。
(中略)
かつて、中国の都市は城壁で囲まれていたが、現在では西安、興城等のいくつかの都市を除いて現存する都市は少ない。平遥古城は、その内の一つであり、昔、山西商人が活躍した地方経済都市 である。
街は横一線の城壁に囲まれ、全長6.4km、高さ8〜12m、壁上部の幅が3〜5mあり、外側に幅、深さともに4mの壕がめぐらされている。外側表面は全て磚(煉瓦)を築き、内側を「版築」という工法で築いており、城壁上部にも磚が敷かれている。城壁外側には頂部が凸凹の朶口(銃眼)があり、馬面と呼ばれる72ヶ所の張り出しが造られている。馬面の上には敵に襲われた際に身を隠しながら矢を放つ敵楼が建てられている。城壁の内側には、馬が駆け上がるためのスロープが設けられている。
東西南北に6つの門があり、西門の内側から城壁の上に登ることができる。城壁の保存状態は良く、西周時代から続くものとしては漢民族地域で最良とされている。
城壁以外でも街路、市場、商店など多くが明代の原型をとどめており、城内には300余りといわれる史跡が残されている。現在は中学校として利用されている文廟は金代(1163年)に再建されたもので、宋・金代の建築様式を伝えている。大街路北にある清虚観(道教寺院)の創建は唐代(660年)にまで溯り、元、明、清代に再建されている。また、四合院形式の住宅を見ることができ、山西から始まったとされる金融機関「山西票号」も保存 されている。
この街の中心にある市楼は高さ20m余り、2層3楼の壮麗な造りになっており、昔はここで日に3度も市が開かれていた。他にも街の守り神を祀る城隍廟、沙巷街の関帝廟など数多くの歴史的建造物が残されており、全体として明清代時代の伝統的都市の雰囲気 を感じることができる。
cf.埼玉県川越市の「小江戸」も、江戸時代以来の商都ではあるが、土蔵造が増えたのは明治時代、1893年の川越大火によって市街地が焼失してからである。参考 https://toyokeizai.net/articles/-/334391
● 略年表
春秋時代の晋国(前11世紀-前376)の一部
戦国時代の趙国(前403-前228)の一部
秦(前221-前206)の平陶県
漢(前206-220)の中都県
南北朝時代の北魏の424年に「平遥」と改名。現在の平遥県の直接の起源。
10世紀、五代十国時代から、山西の商人の勢力が形成されはじめる。
1370年、明の洪武3年(初代皇帝の3年目)、平遙の城壁が建造される。
明の永楽帝(在位1402-1424)が、元の時代にすたれていた万里の長城を復活。
山西商人は軍需で潤い、平遥の町も活気づく。
平遥古城も万里の長城も、現存する古い部分は明の時代の建造である。
16世紀、明の時代の半ばから票号で栄える(開始時期については諸説がある)。
1823年、平遥県で、中国最大手の票号「日昇昌」(じっしょうしょう)が設立。
日昇昌の最盛期には「匯通天下」として中国金融経済の半分を支配し、中国各地や海外にも支店を展開した。江戸時代の商人の「大名貸」と同様、政府機関や軍隊にも資金を貸し出した。
cf.票号と銭壮は、現代中国における電子マネー、Alipay(アリペイ)とWeChat Pay(ウィーチャットペイ)と、ちょっと似ている。
1912年、清が滅亡し、中華民国が設立。
平遥の票号は、清相手の債権の貸し倒れ、近代的な西洋式銀行との競争、ポンドやドルや円など国際通貨戦争の波及、など、さまざまな要因によって消滅した。
イタリアの古代都市ポンペイは、ヴェスヴィオ山の噴火によって埋もれたため、そのままの形で残った。平遥は、清の瓦解によって一瞬にして経済的に埋没し、都市の再開発も行われなかったため、奇跡的に19世紀の町並みをそのまま21世紀の今日まで「生きた化石」として伝えている。
1937年9月、日本軍による山西作戦(太原作戦)が始まる。11月9日、日本軍が太原を陥落させる。
翌1938年2月、日本軍が平遥を占領。
写真 https://www.sohu.com/a/504063042_121269622 動画 https://www.douyin.com/video/7265892154457722127
1945年-49年、第二次国共内戦。人民解放軍が平遥を占領(「解放」)。
1997年、ユネスコの世界遺産に登録。
● ミニリンク
HOME > 授業教材集 > このページ