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中国権力者列伝

最新の更新2020-9-9  最初の公開 2020-6-25
以下、https://www.asahiculture.jp/course/shinjuku/a9bf0171-fa19-0320-1ab4-5e04170a4aa0より自己引用。引用開始。
中国権力者列伝 講師・加藤徹 朝日カルチャーセンター・新宿教室
 古来、世界の権力者は、軍隊や治安組織などの「暴力装置」、宗教や学問を利用した「権威装置」、臣下や民衆の不満の暴発を防ぐ「安全装置」を力のよりどころにしてきました。日本や西洋と違い、中国では21世紀の今も安全装置が未熟なままです。前3世紀の秦の始皇帝から現代の国家主席まで、中国の歴代の権力者は「騎虎(きこ)の勢い」状態です。いったん虎(権力の比喩)にまたがって走り出したら、途中で止まれない。もし虎の背中から降りれば、たちまち自分が虎に食い殺される。中国はなぜ、このような国となったのでしょう。その理由と歴史的経緯を、豊富な図像を交えて、予備知識のないかたにもわかりやすく説き明かします。(講師・記)
引用終了。


第1回 中国型権力とは何か?

英語 kowtow < 中国語「叩頭」こうとう cf.三跪九叩頭 さんききゅうこうとう

世界の「権力」と「支配」について
 マックス・ウェーバー(Max Weber 1864-1920)の「支配の三類型」 支配の正統性についての説
  カリスマ的正統性・伝統的正統性・合法的正統性

権力の「資源」としての「基底価値」
 米国の政治学者ラスウェル(Harold Dwight Lasswell 1902―1978)が挙げた8つの「価値」:権力、健康、富、知識、技能、社会的地位、愛情、徳
 これらの価値により生ずる支配現象を「勢力」と呼んだ。

この講座で今後、取り上げるキーワード

 孔子(前552/前551−前479)の儒教は、中国のメインストリームとなった。
 以下、下村湖人(1884−1955)「現代訳論語」 
https://www.aozora.gr.jp/cards/001097/files/43785_58836.htmlより引用
 引用開始。

 「論語」を読むにあたってわれわれの忘れてならないことは、それが「精神の書」であり、「道徳の書」であると共に「政治の書」であるということである。この点で、政治とはかかわりなく、或はむしろ政治否定の立場に立って、人間の幸福乃至社会秩序の維持を、純粋に個々の人間の魂に求めようとしたキリスト教や仏教の諸経典とは、いちじるしく趣を異にしているのである。
 「論語」の中で、理想的人物、或は理想に近い人物を表現するために、「聖人」「仁者」「知者」「君子」等の言葉がしばしば用いられているが、それらが、精神的・道徳的にすぐれた人物を意味することはいうまでもない。しかし、精神的・道徳的にすぐれた人物は、「論語」においては、常に為政家としてすぐれた人物であることをも同時に意味しているのである。むろん、だからといって、修徳の目的が政治的権勢の獲得にあるというのではない。権勢の位置につくかどうかは天命によって決する。しかし、天命は必ず有徳の人に下るべきであり、そして修徳の理想は天命をうけてそれに恥じないだけの資格を身につけることにあるというのが「論語」を一貫して流れている思想なのである。その意味で「論語」はまぎれもなく「政治の書」であり、そのことを忘れては「論語」を正しく解することは不可能なのである。

 先師がいわれた。――
「徳によつて政治を行えば、民は自然に帰服する。それは恰も北極星がその不動の座に居て、もろもろの星がそれを中心に一絲みだれず運行するようなものである。」

 哀公あいこうが宰我さいがに社の神木についてたずねられた。宰我がこたえた。――
「夏かの時代には松しょうを植えました。殷いんの時代には柏はくを植えました。周の時代になってからは、栗りつを植えることになりましたが、それは人民を戦慄せんりつさせるという意味でございます。」
 先師はこのことをきかれて、いわれた。――
「出来てしまったことは、いっても仕方がない。やってしまったことは、諌めても仕方がない。過ぎてしまったことは、とがめても仕方がない。」

  先師がいわれた。――
「民衆というものは、範を示してそれに由らせることは出来るが、道理を示してそれを理解させることはむずかしいものだ。」

 子貢が政治の要諦についてたずねた。先師はこたえられた。――
「食糧をゆたかにして国庫の充実をはかること、軍備を完成すること、国民をして政治を信頼せしめること、この三つであろう。」
 子貢が更にたずねた。――
「その三つのうち、やむなくいずれか一つを断念しなければならないとしますと、先ずどれをやめたらよろしうございましょうか。」
 先師――
「むろん軍備だ。」
 子貢がさらにたずねた。
「あとの二つのうち、やむなくその一つを断念しなければならないとしますと?」
 先師――
「食糧だ。国庫が窮乏しては為政者が困るだろうが、昔から人間は早晩死ぬものときまっている。国民に信を失うぐらいなら、饑えて死ぬ方がいいのだ。信がなくては、政治の根本が立たないのだから。」

 斉せいの景公けいこうが先師に政治について問われた。先師はこたえていわれた。――
「君は君として、臣は臣として、父は父として、子は子として、それぞれの道をつくす、それだけのことでございます。」
 景公いわれた。――
「善い言葉だ。なるほど君が君らしくなく、臣が臣らしくなく、父が父らしくなく、子が子らしくないとすれば、財政がどんなにゆたかであっても、自分は安んじて食うことは出来ないだろう。」

 季康子が、政治について先師にたずねた。先師はこたえられた。――
「政治の政せいは正せいであります。あなたが真先に立って正を行われるならば、誰が正しくないものがありましょう。」

 先師が衛に行かれた時、冉有がお供をして馬車を御していた。先師はいわれた。――
「この国の人口は大したものだ。」
 すると冉有がたずねた。――
「これだけ人が集れば結構でございますが、この上は、どういうことに力を注ぐべきでございましょう。」
 先師――
「経済生活をゆたかにしてやりたいね。」
 冉有――
「もし経済生活がゆたかになりましたら、その次には?」
 先師――
「文教を盛んにすることだ。」


 先師がいわれた。――
「天下に道が行われている時には、文武の政令がすべて天子から出る。天下に道が行われていない時には、文武の政令が諸侯から出る。政令が諸侯から出るようになれば、おそらくその政権が十代とつづくことはまれであろう。政令が大夫から出るようになれば、五代とつづくことはまれであろう。更に陪臣が国政の実権を握るようになれば、三代とつづくことはまれであろう。天下に道が行われておれば、政権が大夫の手にうつるようなことはない。天下に道が行われておれば、庶民が政治を論議することもない。」

 堯帝が天子の位を舜帝に譲られたとき、いわれた。――
「ああ、汝、舜よ。天命今や汝の身に下って、ここに汝に帝位をゆずる。よく中道をふんで政を行え。もし天下万民を困窮せしめることがあれば、天の恵みは永久に汝の身を去るであろう。」
 舜帝が夏かの禹う王に位を譲られるときにも、同じ言葉をもってせられた。
 夏かは桀けつ王にいたって無道であったため、殷いんの湯とう王がこれを伐ち、天命をうけて天子となったが、その時、湯王は天帝に告げていわれた。(以下、省略)

下村湖人『現代語訳論語』からの引用終了


孟子と「分業」
 英国の神父・ジョン・ボール(John Ball 1338?-1381)は「アダムが耕しイブが紡いだとき、一体だれが領主だったか」When Adam delved and Eve span, who was then the gentleman? と説いたが、古代中国にも同様の主張をなす思想集団が存在した。
 諸子百家のひとつ「農家」の思想家・許行は、権力を否定し、王侯や賢者も万民と同様に肉体労働をすべきであると説いた。
 儒教の思想家・孟子は、許行の弟子に向かって「許行は自分の服や自分の家を自分で作っているのか?」とたずね、弟子が「いいえ。農作業が忙しいので、先生はご自分では作られません」と答えると、「服や家すらで農作業の片手間にできぬなら、ましてや政治は農作業の片手間に出来るわけがないではないか」と言い、許行の弟子をやりこめた。
『孟子』滕文公章句上
 原漢文:有爲神農之言者許行,自楚之滕,踵門而告文公,曰:「遠方之人,聞君行仁政,愿受一廛而爲氓。」文公與之處。其徒數十人,皆衣褐,捆屨、織席以爲食。陳良之徒陳相與其弟辛,負耒耜而自宋之滕。曰:「聞君行聖人之政,是亦聖人也,愿爲聖人氓。」陳相見許行而大悅,盡棄其學而學焉。陳相見孟子,道許行之言曰:「滕君則誠賢君也;雖然,未聞道也。賢者與民并耕而食,饔飧而治。今也滕有倉廩府庫,則是厲民而以自養也,惡得賢?」孟子曰:「許子必種粟而後食乎?」曰:「然。」「許子必織布而後衣乎?」曰:「否,許子衣褐。」「許子冠乎?」曰:「冠。」曰:「奚冠?」曰:「冠素。」曰:「自織之與?」曰:「否,以粟易之。」曰:「許子奚爲不自織?」曰:「害於耕。」曰:「許子以釜甑爨、以鐵耕乎?」曰:「然。」「自爲之與?」曰:「否,以粟易之。」「以粟易械器者,不爲厲陶冶;陶冶亦以其械器易粟者,豈爲厲農夫哉?且許子何不爲陶冶,舍皆取諸其宮中而用之?何爲紛紛然與百工交易?何許子之不憚煩?」曰:「百工之事,固不可耕且爲也。」「然則治天下獨可耕且爲與?有大人之事,有小人之事。且一人之身,而百工之所爲備。如必自爲而後用之,是率天下而路也。故曰:或勞心,或勞力。勞心者治人,勞力者治於人。治於人者食人,治人者食於人──天下之通義也。「當堯之時,天下猶未平,洪水橫流,氾濫於天下;草木暢茂,禽獸繁殖;五穀不登,禽獸偪人;獸蹄鳥跡之道,交於中國。堯獨憂之,舉舜而敷治焉。舜使益掌火;益烈山澤而焚之,禽獸逃匿。禹疏九河,瀹濟、漯而注諸海;決汝、漢,排淮、泗,而注之江,然後中國可得而食也。當是時也,禹八年於外,三過其門而不入,雖欲耕,得乎?后稷敎民稼穡,樹藝五穀,五穀熟而民人育。

参考 内部リンク 中国の皇帝と天皇・上皇 2019年 朝日カルチャーセンター・新宿教室

 
第2回 暴走する暴力装置 秦の始皇帝

今回のキーワード
暴力装置 合法支配(マックス・ウェーバーの支配の三類型) 消費財・生産財・威信財
同文同軌(どうぶんどうき) 焚書坑儒 万里の長城 始皇帝陵
法家思想 創業と守成

別名:秦始皇帝、嬴政、趙政、秦王政、祖龍
(姓は「嬴(エイ)」、氏は「趙」、諱は「政」)
生没年:前259年-前210年
主な事蹟:第六代秦王として「六国」を統一。同文同軌。皇帝制を創始
評価:暴君か英雄か評価は分かれる

中国式暴力装置の起源は「法家思想」の採用:商鞅(しょうおう 前390−前338)の変法、韓非子(かんぴし 前280−前233)のマキャベリズム

★「暴力装置」organizations for violenceについて
 暴力装置は社会学の用語で、広義には「官」の公権力の全般を指し、狭義には軍隊や警察などの「実力組織」を指す。
 社会学用語の暴力は毀誉褒貶から中立の術語だが、法学用語や日常語としての「暴力」はマイナスの悪いイメージしかないため(英語のviolenceも同様)、2010年から「実力組織」と言い換えることが増えた。

★「力」を意味する2つの英単語 force と power の違い
 権力はpowerの一種、軍隊や警察はforceの一種。例 自衛隊の英語呼称はJSDF=Japan Self-Defense Forces
 force と powerの違いの覚え方:「電池の power を、モーターを使って force に換える」
 powerは内側から湧き上がる潜在的な力。forceは外側に表す強制的・物理的な力。
 「暴力装置」の「暴力」は、実はviolenceではなく、force。forceは、音楽用語のフォルテや、要塞を意味するフォートレスと同系の言葉。
 ドイツの社会学者のマックス・ウェーバーは、国家の本質を論じたとき、Gewaltmonopol des Staates (国家によるゲヴァルト/ゲバルトの独占)とかStaatsgewalt(国家権力)という表現を使った。
 日本語では「ゲバルト」「ゲバ」は、野蛮な暴力というマイナスの否定的イメージしかないが、元々のドイツ語では正統性を有する権力というニュアンスも含まれている点に注意。

 参考 
暴力という訳語 gewalt=(force,power,violence)と 国家権力機関という用語2018年10月16日
    force, power「力」意味の違い、使い分け
    小学生でも分かるフォース(Force)とパワー(Power)の違い

★秦の始皇帝は、自分の権力powerを守るため、「官」と「法」という暴力装置的 force を使って、「民」衆のpowerを封じ込めようとした。
 しかし始皇帝の死の直後、民衆の反乱というforceによって、秦は滅亡した。
 秦は「兵農分離」ではなく、また force を制御する「安全装置」も不備であった。
 forceによって興った秦というpowerは、forceによって滅んだ。
「族秦者、秦也。非天下也」秦を族せるものは秦なり。天下にあらざるなり――杜牧「阿房宮賦」

YouTube 始皇帝

〇大辞林 第三版の解説
しこうてい【始皇帝】(前259〜前210) 中国、秦の第一世皇帝(在位 前221〜前210)。第三一代秦王。名は政。紀元前221年戦国の六国を滅ぼし、初めて中国全土を統一、自ら皇帝と称した。郡県制を施行して中央集権化を図り、焚書坑儒(ふんしよこうじゆ)による思想統制、度量衡・文字・貨幣の統一、万里の長城の増築などを行なった。

〇ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説
始皇帝 しこうてい Shi-huang-di; Shih-huang-ti
[生]前259
[没]始皇帝37(前210).7. 沙丘,平台(河北省平郷県)
 中国最初の古代統一帝国秦の創設者。名は政。父荘襄王の死により 13歳で即位。丞相呂不韋の失脚した始皇帝 10 (前 237) 年頃から独裁を始め,王翦 (おうせん) ,蒙武 (もうぶ) らの将軍を派遣し6国を次々に滅ぼし,同 26年天下を統一。法家の李斯らの建策により中央官制の整備,郡県制の実施,度量衡・文字の統一,焚書坑儒による思想統一など大きな成果をあげる一方,匈奴を攻撃して万里の長城を築き,南方に領土を拡大し,秦の名を外国にまで広めた。しかし,阿房宮,驪山 (りざん) の始皇帝陵などの大土木事業や外征のため国民に大きな負担を与えた。

〇ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説
始皇帝 しこうてい Shi-huang-di; Shih-huang-ti
[生]前259
[没]始皇帝37(前210).7. 沙丘,平台(河北省平郷県)
 中国最初の古代統一帝国秦の創設者。名は政。父荘襄王の死により 13歳で即位。丞相呂不韋の失脚した始皇帝 10 (前 237) 年頃から独裁を始め,王翦 (おうせん) ,蒙武 (もうぶ) らの将軍を派遣し6国を次々に滅ぼし,同 26年天下を統一。法家の李斯らの建策により中央官制の整備,郡県制の実施,度量衡・文字の統一,焚書坑儒による思想統一など大きな成果をあげる一方,匈奴を攻撃して万里の長城を築き,南方に領土を拡大し,秦の名を外国にまで広めた。しかし,阿房宮,驪山 (りざん) の始皇帝陵などの大土木事業や外征のため国民に大きな負担を与えた。

〇「中国」の代名詞的に使われる王朝名はごく一部
秦・・・訓読みは「はた」。日本の「秦氏」(はたうじ)は、秦の始皇帝の末裔で、秦韓(辰韓)経由で日本に渡来したとされる。秦はChinaの語源とも言われる。
漢・・・訓読みは「あや」。日本の「漢氏」(あやうじ)は後漢の霊帝の子孫と称する阿知使主を開祖とする。
唐・・・訓読みは「から」(語源は古代朝鮮半島南部の小国群の総称「伽羅」から)。
契丹・・・北宋時代のモンゴル系の征服王朝「遼」を建国した民族の名前。英語Cathayの語源。
cf.漢民族の歴史と現在
〇始皇帝の容貌
 生前の肖像画は残っていない。司馬遷の『史記』秦始皇本紀には「秦王為人,蜂準,長目,摯鳥膺,豺聲」云々とある。鼻はハチの腰のように長くとがり、眼は切れ長で、胸はタカのように突き出し、声はヤマイヌのようであった、とある。

〇天子の呼称  殷の時代には「王」。神格化の称号は「帝」
 春秋時代までは「王」。
 戦国時代に各地に「王」が乱立。斉が「東帝」、秦が「西帝」と名乗った時期も。
 始皇帝が天下を統一し、「皇帝」号を始めた。
 以下、「中国の皇帝と天皇・上皇」も参照のこと。

殷王朝(商王朝)…中国国外の学界も実在を認める王朝としては最古。
 殷王朝の自称は「商」。
 殷の最後の君主は、史書では「紂王」、甲骨文字など考古学的物証では「帝辛」(前1100年ごろ)。
 考古学的知見によれば、殷の最高神は「帝」であった。「天」は殷の時代にはまだ神聖な意味をもたなかった。「帝」は「締」「蹄」と同系で「一か所に集中する」というイメージがあった。
 殷の時代の君主号は「王」や「帝」である。「王」も「帝」も天下で一人であった。
 「王」は「旺」と同様「旺盛である」「大きく広がる」というイメージがある。

西周…前11世紀-前771年
 殷王朝末期の西伯(のちに追尊して文王)の息子・武王は、弟の周公旦や、文王が見出した軍師の「太公望」こと呂尚とともに、殷の紂王を打ち、周王朝をたてた。
 周は最高神として「天」を尊んだ。「天子」たる「王」は、天下に一人だけの存在とされた。
Cf.「一天万乗」(いってんばんじょう) 天子のこと。
 「明治維新」の語源は『『詩経』大雅・文王篇の「周雖旧邦、其命維新」周は旧邦なりといえども、その命これ新たなり。
 岐阜という地名の由来は、織田信長が、周の文王の本拠地であった「岐山」と、孔子の故郷である「曲阜」を合成したもの(他にも別の説がある)。

春秋時代…諸子百家の時代の幕開け。
 春秋時代も、中原諸国では「王」は周の君主一人だけだが、「南蛮」諸国では呉王や越王、楚王など勝手に王号を名乗っていた。
 狭義の春秋時代は、魯(ろ)国の史官の編年体の史書『春秋』が記載する前722年から前481年まで。孔子(前552-前479)は春秋時代の最後の人物ということになる。
 広義の春秋時代は、周の東遷から、晋が三国に分裂した前453年まで、ないし、その三国が正式に独立した前403年まで。
Cf.「尊王攘夷」もともとは中国古典の言葉。春秋時代の諸侯の「覇者」が中心となって天下の勢力を糾合し、周王朝の天子を尊び、「中国」すなわち中原に侵入する夷狄(いてき)を打ち払う、という意味。幕末の日本でも用いられたが、天皇号にあわせて「尊皇攘夷」と書き換えることもあった。

戦国時代…王号のインフレ化と帝号の部分的復活
 戦国時代には、中原諸国も勝手に王号を名乗り、周王の権威は落ちた。
 前288年、斉(せい)の湣王(びんおう)が東帝と称し、秦の昭襄王が西帝と称した。が、一時的に終わった。

秦の始皇帝…「皇帝」号の成立
 秦王政が天下を統一して、戦国時代は終わった。彼は、旧来の王号よりも格上の君主号を作ろうとして、臣下たちと審議した。
 臣下は「三皇五帝の三皇のうち、泰皇がいちばん偉いので、新しい君主号は『泰皇』にしましょう」と建議した。
 秦王政は「泰皇の泰を取り去って皇とし、上古の帝号を採用して、あわせて『皇帝』にしよう」と言った。
 こうして前221年、秦王政は「秦始皇帝」となった。
司馬遷『史記』秦始皇本紀によると、始皇帝の臣下たちは、
「古有天皇、有地皇、有泰皇、泰皇最貴。臣等昧死上尊号、王為『泰皇』。命為『制』、令為『詔』、天子自稱曰『朕』。」
と建議した。秦王政は、
「去『泰』、著『皇』、采上古『帝』位号、号曰『皇帝』。他如議。」
と応じた。こうして「皇帝」号と、「朕」「詔」などの用語が確立した。
始皇帝の死後、二世皇帝(胡亥)はクーデターで自殺させられ、三代目の秦王子嬰は帝号を名乗らぬまま処刑された。皇帝号は、劉邦の漢帝国に受け継がれた。


〇「皇帝」の本義
 以下、塚本史『始皇帝』(講談社文庫),pp.526-532「解説」,2009年8月12日刊,の拙文より引用。引用開始。
 過去、二千年以上にわたって膨張と統一を維持してきた「中 国」という世界の秘密を知るキーワードを一つ選ぶとするなら 、それは「皇帝」である。
 古代中国において、「皇」は膨張の神を、「帝」は集中の神 を指した。
 「皇」の字形の上半分の「白」は、字源的には「自」すなわ ち「はじめ」の意味である。「皇」の原義は「神のような人類 の始祖」だ。「皇(コウ)」という字音は、果てしなく広がる大 いなる空間を意味する「広(コウ)」、広々として何もない「荒( コウ)」、大地の色で膨張色でもある「黄(コウ)」、四方に広 がるかがやき「光(コウ)」「煌(コウ)」などと同系で、末広が りという語感をもつ。
 「帝」の字源は、複数の糸をたばねてひきしめる形である。 糸できつくしめあげるのは「締」。ウマやシカのひきしまった ひづめは「蹄」。のどもとをキュッとひきしめて鳴くのは「啼 」。ものごとの肝心かなめの大切なところは「要諦」。太古の 殷の時代、「帝」は、万物をたばねて支配する最高の神、とい う意味だった。
 膨張と永続の神「皇」と、一極集中の神「帝」。
この二つを組み合わせた君主号を考案したのは、始皇帝自身で ある。
「泰皇から皇を残し、上古の帝位の帝と組み合わせて『皇帝』 と呼ぶことにいたせ。また、朕を始めとして、以後は二世、三 世と千万世に至るまで、これを無窮に伝えよ」(本書391頁)  始皇帝が「帝」号にこだわったのには、わけがある。
彼の曾祖父にあたる秦の昭襄王が「帝」号を名乗った先例があ るのだ。
中略
 皇帝は、日本の天皇とも、西洋のエンペラーとも、中東のス ルタンやカリフとも違う。
 例えば、古代ローマ帝国のエンペラーは、「皇帝」ではなか った。行政・軍事上の重要な官職や権限がある一人の人物に集 中している状態が存在するだけだった。そのような人物は「イ ンペラトル(最高司令官)」「アウグストゥス(尊厳者)」「カエ サル(ユリウス・カエサルを継ぐ者)」「プリンケプス(筆頭市 民)」など、さまざまな称号を一身に兼ね備えていた。日本語 では便宜的に「皇帝」と呼ぶが、実は確信犯的な誤訳である。  日本史でも、徳川家康とその後の歴代の後継者たちは「征夷 大将軍」「源氏長者」「日本国大君」など、行政・軍事上の権 限を集中的に兼任した。江戸時代、日本を訪れた西洋人は、徳 川将軍をエンペラーと呼んだ。逆にいえば、古代ローマ帝国の エンペラーは、元老院から大権を授けられた「征夷大将軍」だ った。
 皇帝は王より格上だが、エンペラーは必ずしもキングより格 上ではない。キング(およびクイーン)は貴族の血筋の最高位で あり、エンペラーは統治者の最高位なので、そもそも比較の土 俵が違う。コルシカ島出身のナポレオンは、血筋からいってフ ランスのキングにはなれなかったが、エンペラーにはなれた。 近代イギリスの国王は、植民地たるインドのエンペラーと、宗 主国たるイギリス本国のキングを兼任したが、むろん、本国の キングのほうが植民地のエンペラーより格下だった訳ではない 。
 中東のカリフやスルタン、シャーも「皇帝」と訳されること があるが、やはり中国の皇帝とは異質である。
 始皇帝の死後、わずか四年で秦帝国は滅んだ。しかし「一つ の中国」「皇帝」という理念は生き残った。二十世紀の初め、 「末代皇帝」こと溥儀(ふぎ)が退位するまで、皇帝制は二千年 以上も続いた。皇帝という制度が消滅したあとも、「一つの中 国」や絶対的権力の一極集中という中華帝国の理念は、中国社 会を呪縛しつづけている。
「千万世に至るまで、これを無窮に伝えよ」という始皇帝の意 志は、ある意味では達成されたといえるかもしれない。
引用修了。

〇小説、映画、漫画、他
他、多数

第3回 献上された権威装置 前漢の高祖・劉邦
〇秦の始皇帝の死後、農民出身の劉邦(りゅう・ほう)は、項羽との戦いに勝ち、前漢の初代皇帝・高祖となりました。
 無名の庶民が天子になった最初の例は、陳勝・呉広の乱のリーダーだった陳勝(?-前208年)でした。彼は「張清楚」の「王」を名乗ったものの、すぐに失敗し殺されました。
 項羽と劉邦の戦い、つまり「漢楚の戦い」で最初は有力だった項羽こと「西楚の覇王」(在位紀元前206年 - 紀元前202年)も、結局、滅びました。
 親分肌で無学な劉邦は、なぜ「漢王」から「皇帝」を名乗ったのか? 出自から言えば陳勝と大差のない低い彼が「権威装置」を利用して、恒久的な王朝の初代皇帝となれた理由を解説します。

Google画像「劉邦」検索結果


○キーワード
有職故実(ゆうそくこじつ) 小笠原流  権威装置  エリック・ホブズボウム、テレンス・レンジャーThe Invention of Tradition『創られた伝統』1983年
武断政治  文治主義  御用学者  繁文縟礼

〇劉邦
 前256/247年―前195年。漢王としての在位は前206年以降。皇帝としての在位は前202年−前195年。
 前漢の初代皇帝で廟号(びょうごう)は高祖。字(あざな)は季(き)。江蘇省沛(はい)県の農民の出身。
 劉邦の伝記は司馬遷の『史記』に詳しい。
 それによると、高祖劉邦は沛県豊邑中陽里の人である。姓は劉氏、字(あざな)は季。 父は太公、母は劉媼といった。出生について、こんな伝説が伝わっている。劉媼が水辺で休息していたとき、急に雷が鳴り、あたりは真っ暗になった。太公が行って見ると、蛟竜が劉媼の上にいた。ほどなく劉媼は妊娠し、劉邦を生んだ。
 成長した劉邦の容貌は、鼻筋が高く龍のようで、ひげは美しく、左の股に七十二個のほくろがあった。思いやり深く、人を愛し、施しを喜び、からりとした性格で、大きな度量を持っていた。が、生家の農業を嫌い、三十歳で秦帝国の下級役人として用いられ、泗水の亭長となった。
 劉邦が、秦の都・咸陽で労働に駆り出されたとき、始皇帝の姿を見る機会があった。劉邦は始皇帝の姿を眺めて
「嗟乎(ああ)、大丈夫、当に此くの如くなるべし」
 と嘆息した――と『史記』は伝える。
 富豪の娘である呂雉(りょち)をめとる。後の呂后(りょこう)である。
 劉邦が、始皇帝陵の造営のため囚徒を護送する任務についた時、逃亡者が多く出た。劉邦は残りの囚徒を解放し、自分も逃げ出して盗賊兼反乱者のリーダーとなり、地元の仲間も彼に合流した。
 秦の末、陳勝・呉広の乱が起き、天下は乱れた。劉邦も前209年、周囲から推されて反乱軍として挙兵した。沛の子弟三千人が加わった。劉邦は「沛公」と称した。
 前208年、劉邦は、楚の名族である項梁(こうりょう)と項羽(こうう)の軍に合流した。
 軍事力も才能も、項羽のほうが劉邦より優れていた。しかし、劉邦のほうが強運に恵まれていた。また、後に「漢の三傑」と呼ばれる蕭何・張良・韓信をはじめ、優れた人材も集まった。
 項羽が秦軍の主力と戦っているあいだに、劉邦軍は項羽よりも先に秦の首都・咸陽(かんよう)に入り、秦の三世皇帝こと秦王嬰(えい)を降伏させた。秦の厳しすぎる法律を廃止し、人を殺した者、傷つけた者、盗みをした者を処罰するという「法は三章のみ」を約束して人心を収めた。
 その後、項羽は遅れて咸陽に到着した。劉邦とのあいだに緊迫関係が生じたが、両者は「鴻門(こうもん)の会」で和解した。
 項羽は秦を滅ぼしたあと、西楚覇王(せいそはおう)と称した。劉邦は、前206年に漢中の地に封ぜられ、漢王と称した。これが「漢」の名称の始まりである。
 項羽は、反秦連合軍の名目上の共同の君主として立てていた義帝が用済みとなったので、これを殺害した。劉邦はこれを名目に項羽に反旗を翻し、以後、4年間にわたる楚漢戦争が始まる。
 前202年、劉邦は項羽を追い詰め、「垓下(がいか)の戦い」で勝利する。項羽が「四面楚歌」の包囲なかで「力山を抜き、気、世を蓋う」云々の漢詩を吟詠し、虞美人が唱和する場面は、『史記』の中でも名場面の一つである。
 項羽は敗死し、劉邦は天下を統一する。同前202年、劉邦は推戴されて漢王から漢の皇帝の位につき、首都を長安に定め、前漢王朝を創始した。
 秦は「法家思想」に基づく極端に中央集権的な郡県制を採用し、地方の反感を招き、反乱によって滅亡した。
 劉邦の漢帝国は、秦の郡県制を踏襲するとともに、「儒家思想」的な封建制も復活させ、功臣や劉氏の一族を各地に封建した。漢の郡国の制である。
 天下を取ったあとの劉邦は、功臣の粛清を行った。
 韓信は謀反の疑いをかけられ、兵権を奪われ謹慎生活を送った。ある日、劉邦は韓信と将器について会話し、たずねた。「俺は何人くらいの兵を率いることができるか」。韓信は「陛下はせいぜい十万の兵の将軍です」と答えた。劉邦が「そなたは?」と問うと、韓信は「多々益々便ず、でございます」と答えた。「ではなぜ、そなたは今、私の下にいるのだ」ときくと、「陛下は兵に将たることは不得手ですが、将に将たる器でいらっしゃいます」と答えた。

〇暴力装置と権威装置
 軍人は暴力装置。知識人・御用学者は権威装置。

○陸賈(りくか。生没年不詳)
 弁舌と外交折衝で劉邦に仕えた論客。楚漢戦争に勝利したあと、陸賈は『詩経』や『書経』などの儒教の経典の美辞麗句を引用して、劉邦の徳を褒めたたえた。劉邦は、 「乃公居馬上而得之,安事詩書」
 乃公は馬上に居りて之を得。いづくんぞ『詩』『書』を事とせん。
と言うと陸賈は、
、 「居馬上得之、寧可以馬上治之乎」
 馬上に居りて之を得るも、なんぞ馬上をもって之を治むべけんや
と答え、戦後は、古典や歴史などの「文」も謙虚に学ばねば、始皇帝その他の失敗の二の舞になる、と劉邦にアドバイスした。
 出典は、司馬遷の『史記』巻97、酈生陸賈列伝。

〇叔孫通(しゅくそんとう/しゅくそんつう)
 劉邦に仕えた儒者。農民出身の劉邦を真の意味での皇帝に変えた人物。
 漢の朝廷は、農民出身の皇帝・劉邦をはじめ、大臣たちの多くは田舎出身の荒くれ者だった。朝廷での宴会の際、大臣たちはそれぞれ自分の戦功を自慢し、酔って寄声をあげたり、刀で宮殿の柱に切りつけるなど、乱れるのが常だった。
 叔孫通は、いにしえの「礼」と秦の「礼」をもとに、田舎者出身の皇帝や大臣でも守れる漢王朝の礼儀作法をアレンジした。高祖7年(紀元前200年)、長楽宮が完成。祝賀会は、叔孫通ら儒者グループが作った儀礼にのっとって、厳かに行われた。高祖は感激し、
「吾乃今日知為皇帝之貴也」
 われ、すなわち今日、皇帝の貴たるを知るなり。
「俺は今日初めて、皇帝の尊さがわかったぞ」
 と喜び、叔孫通ら儒者グループに莫大な褒美を与えた。
 出典は、司馬遷の『史記』劉敬叔孫通列伝。
漢七年,長樂宮成,諸侯群臣皆朝十月。儀:先平明,謁者治禮,引以次入殿門,廷中陳車騎步卒衛宮,設兵張旗志。傳言「趨」。殿下郎中俠陛,陛數百人。功臣列侯諸將軍軍吏以次陳西方,東鄉;文官丞相以下陳東方,西鄉。大行設九賓,臚傳。於是皇帝輦出房,百官執職傳警,引諸侯王以下至吏六百石以次奉賀。自諸侯王以下莫不振恐肅敬。至禮畢,復置法酒。諸侍坐殿上皆伏抑首,以尊卑次起上壽。觴九行,謁者言「罷酒」。御史執法舉不如儀者輒引去。竟朝置酒,無敢讙譁失禮者。於是高帝曰:「吾乃今日知為皇帝之貴也。」乃拜叔孫通為太常,賜金五百斤。

〇商山四皓(しょうざんしこう)
 東洋の画題の一つ。四人の白髪の隠者で、乱世を避け商山に隠れた高潔な知識人を指す。
 高祖12年(紀元前195年)、劉邦は皇太子(呂后が生んだ息子。後の恵帝)を、趙王劉如意に換えようとした。叔孫通は歴史の教訓を挙げて反対した。皇太子は、張良の策により四皓を連れて来た。高祖は、自分が招聘に失敗した四人の高名な学者が皇太子に仕えているのを見て驚き、廃嫡を止めた。


第4回 エリート主義の功罪 宋の太祖・趙匡胤
〇酔っ払って寝込み、目がさめたら皇帝になっていた、というのは、世界史でも趙匡胤(ちょう・きょういん)くらいでしょう。職業軍人から身を起こした趙匡胤は、乱世を統一し、北宋の初代皇帝・太祖(在位 960年-976年)となりました。中国史では、王朝の開祖は天下を取ったあと残酷な粛清を行うのが常ですが、彼は例外でした。中国人が今もなつかしく思う趙匡胤と北宋の時代を、わかりやすく解説します。

〇ポイント
・10世紀はアジア史の節目。「文」と「武」、「中華世界」と「周辺世界」のパワーバランスが激変した。
・日本と中国の歴史の分岐点となったのは10世紀。遣唐使は894年に廃止。
・日本は平安時代までは律令国家、鎌倉時代から武家政権。
・中国も唐代後半から五代十国時代まで武人政権が台頭。
・10世紀はアジアの激動の時代。中国は唐が滅亡(907年)。東北アジアでは契丹(遼。916年-1125年)の台頭と渤海国の滅亡(926年)。朝鮮半島では高麗の建国(918年)と新羅の滅亡(935年)。日本は承平天慶の乱(935年から941年)。
・中国は北宋(960年-1127年)の建国により「文」に戻り、文化が栄えたが、文弱な国となり「北族」の圧迫を受けるようになった。
・趙匡胤は「功」と「徳」を兼ね備えた数少ない皇帝だった。また、暴力装置、権威装置の暴走を防ぐ安全装置の充実にも成功した。皮肉にも、そのことが宋王朝を対外的には弱い王朝にしてしまった。

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○唐までの権力地図
  皇帝、宗族、外戚、門閥貴族、節度使、科挙官僚、宦官、外国人、・・・
 宋以降の権力地図
  皇帝、科挙官僚、宦官、・・・
  北宋には、則天武后(外戚)も安禄山(節度使)も阿倍仲麻呂(外国人)も高力士(宦官)も楊貴妃(外戚)もいなかった。
趙匡胤(ちょう・きょういん。927年―976年)
 宋(そう)の初代皇帝(在位960年−976年)。廟号は太祖なので「宋の太祖」とも呼ばれる。中国史上「宋」という名の政権や王朝は複数ある。趙匡胤が建国した宋は「趙宋」とか「北宋」と呼ばれる。

 五代の一つ、後唐(こうとう。923年-936年)の禁軍の武将であった趙弘殷(こういん)の次男として洛陽(らくよう)で生まれた。後漢(こうかん。947年-950年。光武帝・劉秀が建国した後漢=「ごかん」とは別の王朝)の時代に、有力武将の郭威(かくい。904年-954年)の軍に身を投じ、武人として頭角を現した。
 後漢の第二代皇帝・隠帝(劉承祐=りゅう・しょうゆう。在位948年-951年)は、郭威を脅威に思って排除しようとし、郭威は劉承祐に反逆した。隠帝は、郭威の息子と一族を皆殺しにしたが、自分も乱の中で殺された。
 郭威は、後周(951年-960年)の初代皇帝・太祖となった(951年-954年)。息子が殺されていたため、亡妻の甥の柴栄(さい・えい。921年-959年)を養子にした。郭威の死後、柴栄は第二代皇帝となった(世宗。せいそう。在位954年-959年)。世宗は、五代十国時代で随一の名君と評価されている。

 趙匡胤は、後周の禁軍の将校として武功をたて、総司令官である殿前都点検になった。世宗は天下統一を順調に進めたが、幽州(現在の北京一帯の地)に入って病気になり、都の開封に引き返し、数え39歳で病没した。
 世宗の死後、息子の柴宗訓(さい・そうくん)がわずか7歳で即位した(恭帝=きょうてい。在位959年-960年)。960年の正月、遼と北漢の連合軍が後周に攻め寄せた。幼帝の母親である皇太后は趙匡胤に迎撃を命じた。
 趙匡胤は軍隊を率いて出撃した。首都開封の東北にあった陳橋駅で、趙匡胤はいつものように深酒をして眠った。幼帝を奉戴することに不安を抱いた軍人たちは、趙匡胤の弟・趙匡義(ちょう・きょうぎ。北宋の第二代皇帝・太宗)とぐるになって、趙匡胤に皇帝の衣装である黄袍(こうほう)を着せ、彼を皇帝とした(陳橋の変)。趙匡胤は軍とともに開封に引き返し、恭帝から禅譲(ぜんじょう)を受けて、宋王朝を建てた。
 宋の太祖こと趙匡胤は、世宗の天下統一事業を推し進め、唐末五代の分裂状態をほぼ収束した。

 太祖は、地方の勢力をそいで中央の皇帝に集中する「強幹弱枝策」と、「文」をもって「武」をコントロールする文治主義を採用した。
 五代十国時代に短命な王朝が頻繁に交代した一因は、よく禁軍がクーデターを起こしたことであった。その教訓にかんがみ、太祖は、みずからつとめたことがある殿前都点検の職を廃止し、三軍を皇帝直属とした。また、唐の安禄山の反乱いらい、藩鎮(はんちん)すなわち地方軍閥が強大となり中央の皇帝の権力を弱めていたことを反省し、藩鎮が握っていた権限を中央に回収し、中央から派遣する文官に地方の行政を監視させた。
 財政では、税収を中央に集中した。また地方の廂軍(しょうぐん)を骨抜きにして、中央の禁軍を優先的に充実させた。また、宰相の権限を分散し、特定の臣下に権力が集中するのを防いだ。
 太祖は、文官の登用試験である科挙も改革し、最終試験は出題も面接も皇帝みずからが行うことにした(殿試。でんし)。宋の殿試は、井上靖の小説『敦煌(とんこう)』でも描かれている。宋では、科挙の合格者である高級官僚は、皇帝と擬似的な「師弟関係」となった。唐までの貴族出身官僚は姿を消し、宋では科挙官僚が政治の実務を担うようになった。

 太祖は、自分の死後、歴代皇帝が守るべき三箇条の秘密の遺訓を「太祖碑誓」(たいそひせい)として残した(石刻遺訓とも呼ぶ)。宮中の奥深くにある秘密の碑文は、歴代の皇帝だけが読むことができた。後に、北宋が金によって滅ぼされたとき、初めてその秘密の碑文の内容が明らかになった。その内容は、
「一、保全柴氏子孫。二、不殺士大夫。三、不加農田之賦」
 だったとも、
「一為柴氏子孫有罪不得加刑、縦犯謀逆、止于獄中賜尽、不得市曹行戮、亦不得連坐支属。一為不得殺士大夫、及上書言事人。一為子孫有渝此誓者、天必殛之」
 だったとも言われる。趣旨は「前王朝の皇帝だった柴氏の子孫を大切にしなさい。知識人や言論人を殺してはならない」、三番目の趣旨は「この二つを守りなさい」あるいは「農民の税金は安くしなさい」である。

 中国の歴代王朝の最初の皇帝は、前王朝の皇帝の一族を殺したり、建国の功臣を殺したりした。宋の太祖は例外で、前王朝の元皇帝を優遇し、また功臣の粛清も一切行わず、彼らを平和的に引退させた(中国では「杯酒釈兵権」杯酒もて兵権をとく、と言う)。
 太祖は、天下統一の完成を目前にした976年、50歳で急死した。深酒のための脳溢血説や、弟(太宗)により殺害されたという「千載不決の議」の噂もあるが、死因は今も不明である。

○北宋の滅亡 金軍に蹂躙された。秦檜(文官)が岳飛(武将)を殺した。
    古典小説『水滸伝』 腐敗した文官たち
     【宣伝】京劇「林冲(Lin Chong) 〜豹子頭の悲運〜」上演
          2020年8月29日土曜 下北沢にて 午後3時半開演 https://www.shincyo.com/
 南宋の滅亡 元軍に蹂躙された。文天祥(文官)の軍事的抵抗でも亡国を避けられなかった。


第5回 支配の3類型の極北 清末の西太后
google画像検索「西太后」の検索結果


○今回のキーワード
過剰適応 小規模実験工場 想定外
参考 加藤徹著『西太后』副題「大清帝国最後の光芒」(中公新書、2005年9月25日刊)

略系図
 中国の歴代の王朝の中でも、最後の清朝は中華帝国の完成態であった。徹底した文書主義、能力主義を加味した合理的な皇位継承制度、悪魔のように狡猾な統治システム、等等。 清の時代には、唐の則天武后や楊貴妃のような外戚の専横も、後漢や明のような宦官の跋扈も、一度もなかった。
 が、最も完成された制度は、システムの硬直化と表裏一体であった。清の末、想定外の事態に瀕した時、西太后という「想定外」の皇太后が出現した。

★亡国の予感と「東条効果」
 東条英機の東条内閣 1941年10月18日 - 1944年7月22日。
 拙著『西太后』p.165より。亡国の予感をもつ政治家や高級官僚たちの黙契が、かえって政権の長期安定化をもたらすことがある。
 近衛文麿は反東条英機だったが、戦争末期、東久邇宮に対してこう語った。
「自分としてはこのまま東条にやらせる方がよいと思うと申し上げた。それは、もし替えてうまくゆくようなら当然替えるがよいが、もし万一、替えても悪いということならば、せっかく東条がヒットラーとともに世界の憎まれ者になっているのだから、彼に全責任を負わしめるほうがよいと思う」
 (出典は、細川護貞の『細川日記』昭和19年4月12日)

★「小規模実験工場」的時代
 満洲国から戦後日本へ 洋務運動から中華人民共和国へ

★マックス・ヴェーバーによる「支配の三類型」
 権力と支配の正統性のパターンは、カリスマ的正統性・伝統的正統性・合法的正統性。
 西太后個人の権威はカリスマ的正統性、清朝の「祖制」は伝統的正統性、清末の改革は合法的正統性。

★洋務運動・中体西用
 体制は中国のまま、技術などは西洋の先進技術を導入、という改革スタイル。
 「体」「用」は中国の哲学用語。日本語の文法の「体言」「用言」の体・用も同じ。

★抗日愛国の起源
 大衆運動としての「扶清滅洋」と「義和団事件」。中国における「統制派」と「排外派」

★西太后は「勝ったから凱旋したのではない。凱旋したから勝ったのである。」(拙著『西太后』p.254)
 「六四天安門事件」の処理、中国映画『カイロ宣言』の主役が蒋介石でなく毛沢東である意味、「抗日記念館」の意味・・・・・・
★中国のブランドイメージ
 「悠久の歴史」「激動の近現代」というステレオタイプのイメージ。
 現代中国の世界的ブランドは「パンダ」と「孔子」。
 中国の国家ブランド力をアピールするためには、いまだ明清時代の遺物(紫禁城、万里の長城、頤和園、満漢全席、京劇、等)に頼らざるを得ない現代中国。
 中国の高級ブランド的な伝統文化は、西太后ら「悪女」の贅沢の遺産である。
 習近平がトランプに紫禁城で京劇を見せた、本当の意味。

★西太后とゆかりがあるとされるグッズ等
 窩窩頭(小さなトウモロコシ饅頭)
 真珠餃子(西安の名物餃子)
 美顔マッサージローラー(水晶玉柄五珠太平車、太平車) 等々

〇嫁についての日本のことわざ…「嫁を見るより親を見よ」
「嫁が姑になる」
「嫁は下から婿は上から」(嫁は自分より低い家柄が、婿は自分より高い家柄からとるの がよい。「嫁は流しの下から貰え」も同様の意)
〇母は子をもって貴し…出典は『春秋公羊伝』隠公元年の「子以母貴、母以子貴」。
〇治世、乱世、衰世…龔自珍(1792-1841)の「三世」説。
〇物極必反…物、極まれば必ず反す。中国のことわざ。
 『鶡冠子(かつかんし)』環流「美悪相飾、命曰復周。物極則反、命曰環流」。
 司馬遷の『史記』田叔列伝「夫月滿則虧、物盛則衰、天地之常也」。
 『菜根譚』「欹器以満覆。」欹器(いき)は満つるを以て覆(くつがえ)る。
〇過剰適応…過度に現在の環境に適応すると、環境の激変についてゆけなくなり、かえっ て不利になること。
〇王朝の「平均寿命」…中国の歴代王朝の寿命は十世代、約3百年が限界
〇祖制…帝王の祖宗がさだめた決まりやしきたり。明清以降にやかましく言われる。
 cf.鎌倉時代の執権・北条泰時は「道理」と「先例」をたっとび、御成敗式目を定めた。
〇垂簾聴政(すいれんちょうせい)…「すだれを垂らして政治を聴く」。皇帝が幼少の場 合、皇帝の妻や母親、祖母が皇帝の後見人となり、摂政政治を行うこと。「すだれ」は言 葉のあやで、実際は屏風なども使った。
〇曾国藩(1811-1872)の名言
「盛世創業垂統之英雄、以襟懐豁達為第一義。末世扶危救難之英雄、以心力労苦為第一義。」
 盛世創業垂統の英雄は襟懐豁達を以て第一義となし、
 末世扶危救難の英雄は心力労苦を以て第一義となす。

辞書類からの引用
しん【清】大辞林第三版の解説
 中国最後の王朝(1616 〜 1912)。女真族出身のヌルハチが諸部族を統一して後金(こうきん)国を建て、その子ホンタイジ(太宗)が国号を清と改めた(1636 年)。順治帝の時、 明の滅亡に乗じて中国内地に進出、北京に遷都。康熙(こうき)・雍正(ようせい)・乾隆(けんりゆう)の頃最盛期を迎えたが、以後農民反乱の続発と欧米列強の外圧とに苦しみ、辛 亥(しんがい)革命によって滅んだ。

せい‐たいこう【西太后】デジタル大辞泉
[1835 〜 1908]中国、清の咸豊(かんぽう)帝(文宗)の妃で、同治帝(穆宗)の生母。 諡号(しごう)、孝欽(こうきん)。慈禧(じき)皇太后とよばれた。同治帝・光緒帝(徳宗) の摂政となって政治を独占。変法自強運動を弾圧して光緒帝を幽閉、義和団事件を利用し て列強に宣戦するなど守旧派の中心となった。シー=タイホウ。

西太后の名前
生前から死後にかけて、さまざまな呼び方があるが、個人名や幼名については真偽不明 なところもある(近現代の中国の要人における「個人情報」秘匿傾向)。 姓は葉赫那拉(これは確定) 個人名は不詳。蘭児?(幼名) 杏貞? 玉蘭?
慈禧太后
老仏爺
孝欽顕皇后(孝欽)
聖母皇太后
孝欽慈禧端佑康頤昭豫荘誠寿恭欽献崇煕配天興聖顕皇后
等々

用語
〇清の后妃の階層制…「内庭主位」皇后以下8 階級
 皇后1人 皇貴妃1人 貴妃2人 妃4人 嬪6人 貴人 常在 答応
〇選秀女…旗人の少女を対象に、三年毎に皇帝が執り行う后妃候補選抜試験。皇帝の母親 候補として優秀な女性を確保することで暴君や愚帝の出現を防ぐ効果と、歴代王朝が悩ま された「外戚の専横」を解消する効果があった。
〇太子密建…「太子密建法」とも。第5 代皇帝・雍正帝が始めた次期皇帝の指名方法。皇 帝はあえて皇太子を決めず、皇子たちのなかで最も実力のある者の名前を次期皇帝として 紙に書いて密封し、その封書を誰にも見せず隠しておく。皇帝が死去、ないし危篤になっ た段階で封書を開封し、次期皇帝を公開する、という制度。次期皇帝をぎりぎりまで秘密 にすることで、皇子たちが自己研鑽に励み、また、現役皇帝と次期皇帝のあいだの政治的 対立を防ぐ効果があった。理論的にはすぐれた制度だったが、太子密建で選ばれた皇帝は 乾隆帝、道光帝、咸豊帝の三代だけで、制度として成功したとは言えなかった。
〇奏摺(そうしゅう)…皇帝が官僚組織から受け取る文書は、中央官庁の精査を経る「題奏」 (題本)と、地方官などからダイレクトに届く「摺奏(奏摺)」の二つのルートがあったが、 雍正帝以後の皇帝は「奏摺」を重んじ、地方官から積極的に生の情報を収集し、皇帝自身 が上奏書に朱筆でコメント(?批)を書き加える、という徹底した文書主義の政治を行った。
〇起居注…東アジアの歴代王朝で、皇帝の起居や言動を24 時間体制で記録する官撰記録。 皇帝が死ぬと史官は起居注の一部を整理し、その皇帝の一代記「実録」として公開した。
〇故宮…故宮博物院。北京の中心部にある。清代には皇帝の居城「紫禁城」だった。
〇円明園…北京市にあった離宮の遺構。アロー戦争のとき英仏連合軍によって破壊された。 〇頤和園(いわえん)…北京市にある離宮で、西太后は長いあいだここに住んでいた。現
在は有料の公園。1998 年、ユネスコの世界遺産に登録。

西太后の年表
1835年 清の中堅官僚の家に生まれる。出生地は北京説が有力。
1840年 アヘン戦争
1851年 十七歳で「選秀女」。太平天国の乱
1852年 十八歳で「蘭貴人」に。皇后は、咸豊帝の「潜邸」時代の正妻(のちの東太后)
1853年 父・恵徴が免職されて無念の死
1856年 咸豊帝の長男(後の同治帝)を生む。アロー戦争(〜1860)
1861年 咸豊帝、熱河で死去。
1874年 同治帝、死去。西太后は自分の妹の子(光緒帝)を次期皇帝とする。
1881年 東太后、急死(享年45)
1894年 日清戦争
1898年 戊戌の変法
1900年 義和団事変(北清事変)
1904年 日露戦争
1908年 西太后死去。宣統帝(溥儀)即位
1911年 辛亥革命

 清朝や日本ではヌルハチを初代皇帝に追尊し、最後の宣統帝溥儀を第12 代としてカウ ントする。現代中国では、清朝の歴代皇帝について「入関後」第何代、というカウントも 併記する。溥儀は入関後第10 代の皇帝である。

西太后を演じた日本人女優
藤間紫…舞台「西太后」(平成7 年9 月/新橋演舞場)作孫徳民演出市川猿之助
出演藤間紫/風間杜夫/村井国夫/市川段四郎/小山明子/菅原謙次/中村歌六
田中裕子… NHK テレビドラマ「蒼穹の昴(吹き替え版)」2010 年原作浅田次郎

以上
第6回 中国式ポピュリズムの栄光と悲惨 毛沢東
キーワード

参考ビデオ
https://www.youtube.com/playlist?list=PL6QLFvIY3e-lMGamCULXmo2E-B9OoK-N4


○デジタル大辞泉の解説
[1893〜1976]中国の政治家・思想家。湖南省湘潭(しょうたん)県の人。
 1921年、中国共産党の創立に参加。農民運動を指導し、朱徳らと工農紅軍を組織、
 31年江西省瑞金に中華ソビエト共和国臨時政府を樹立して主席となったが、
 34年から長征を行い陝西(せんせい)省延安に移動。日中戦争には国共合作し、抗日戦を指導して勝利。
 戦後は蒋介石の国民党軍を破り、49年中華人民共和国を建国。国家主席・党中央委員会主席に就任して新中国の建設を指導した。
 66年、文化大革命を起こすが、死後その誤りを指摘された。
 著「新民主主義論」「連合政府論」「実践論」「矛盾論」など。マオ=ツォトン。

○毛沢東の生涯
清末の光緒19年(1893)に、湖南の湘潭の中農の子に生れる。
 若いころは日本の西郷隆盛も尊敬しており、17歳のとき、「改西郷隆盛詩贈父親」という七言絶句を書いて父親に見せた。
  孩児立志出郷関
  学不成名誓不還
  埋骨何須桑梓地
  人間無処不青山
 大意は、私は志を立てて故郷を出ます。学問で名前をあげられるまで、決して故郷に戻らぬと誓います。私の骨を埋葬するのは、桑梓の地、つまり先祖代々の故郷である必要はありません。人の世は、どこだって、骨を埋めるにふさわしい青山なのですから。
参考 http://www5a.biglobe.ne.jp/~shici/maoshi21.htm
 なお、毛沢東の「西郷隆盛の漢詩」という認識は誤りであった。

 1911年、辛亥革命が起ると革命軍に参加した。
 中華民国成立直後の1913年、湖南省立第一師範学校に入学した。
 この学校で、彼は、進歩的青年団体「新民学会」を組織した。
 1917年、孫文を援助した宮崎滔天が毛沢東の故郷の湖南省で講演を行い、毛沢東も聴講した。この年、陳独秀が主宰する雑誌『新青年』に、湖南省立第一師範学校の学生だった毛沢東は処女論文「体育之研究」を発表。

 1918年夏、湖南省立第一師範学校を卒業。
 1919年の五・四運動期に、恩師の楊昌済とともに北京へ上京。楊昌済の推薦で、北京大学の図書館館長・李大サのもとで司書補として勤め、雑誌『新青年』に熱心に寄稿した。
 なお、後に毛沢東から感情的な叱責を受ける広西省桂林出身の梁漱冥(1893-1989)は、1917年から1924年まで北京大学でインド哲学を教える教員であり、毛沢東と知り合っていた。
 1919年、毛沢東は帰郷して長沙の初等中学校の歴史教師となった。
 1920年、長沙師範学校付属小学校長になる。同年、楊昌済の娘で学友の楊開慧と結婚し、岸英・岸青・岸龍の男子3人をもうけた。なお楊開慧は1930年10月に蒋介石の国民党軍によって銃殺された。
 1920年の夏ごろから、中国語の書物を通じてマルクス主義者となり、社会主義青年団の地方組織を作った。当時の中国語のマルクス主義の本の多くは、日本語訳からの重訳であったとも言われる。「共産主義」「社会主義」「党」などの用語の多くが日中共通語である理由は、ここにある。なお毛沢東は、近代アジアの政治指導者としては珍しく、外国語はできなかった。

 1921年7月23日、毛沢東は、上海における中国共産党創立大会に湖南代表として出席した。
 当時、世界各地の共産党は、モスクワのスターリンが支配するコミンテルンのもとにあった。
 後年、毛沢東が死去したとき、彼の遺骸は中国の国旗ではなく中国共産党の党旗にくるまれたが、党旗はソ連の国旗とそっくりである理由はここにある。

 1923年6月の三全大会で中央委員に選ばれた。
 1924年、蒋介石の国民党との国共合作が成立。毛沢東は国民党中央委員候補に選出された。
 26年の国民党二全大会でも再選。広州の農民運動講習所所長となって、農民運動の組織化に努めた。 都市労働者ではなく、農民の組織化に携わったことは、のちの毛沢東の「農村で都市を包囲する」戦略に影響を与えた。

 1927年4月12日、上海クーデターで国共分裂。国共合作は終わり、第一次国共内戦が始まる。毛沢東は党の会議で、
「鉄砲の中から政権が出る(槍杆子里面出政権)」
という武装闘争路線を主張し、秋収暴動を組織したが失敗し、江西省の井崗山にたてこもった。
 1928年4月、毛沢東は、朱徳の部隊と合流して中国工農紅軍を組織し、政治委員となった。なお井崗山で、毛沢東は当時まだ楊開慧という妻が故郷にいたにもかかわらず、江西省出身の女性・賀子珍(1910-1984)と事実婚状態となり、1929年には長女をもうけた。

 1931年 11月、江西省瑞金に中華ソビエト共和国臨時政府が樹立。毛沢東はその主席となった。
 1934年 10月、国民党軍の圧迫を受けて、長征を開始。
 1935年1月、移動途中の貴州省遵義で、党中央の指導権を掌握。
 1931年、満洲事変。
 1936年、紅軍は陝西省延安に到達。長征が終わる。毛沢東は朱徳にかわって軍権を掌握した。同年12月、西安事件が起きる。
 1937年7月7日、日中戦争が勃発。第二次国共合作が成立。毛沢東はこのころ『実践論』『矛盾論』を執筆、中国独自の革命理論を発表した。
 1938年には『持久戦論』を執筆。抗日戦争に勝利するための人民戦争論を主張した。 なおこの年、毛沢東は賀子珍と離婚し、上海の元女優・江青(1914-1991)と結婚した。

 1942年からの整風運動で、毛沢東は延安でのライバルや反対派を粛清。1943年にはソ連留学組だった総書記の張聞天を排除して自らがその地位(事実上の党主席)に就任した。
 1945年、第7回党大会で毛沢東思想を指導理念として党規約に加える。次いで、毛沢東は党の最高職である中央委員会主席に就任。その後、日中戦争終結。

 1946年、国共内戦が始まる。
 1949年 10月1日、中華人民共和国の建国。毛沢東は中央人民政府主席に選ばれた。
 1950年、朝鮮戦争勃発。同年、毛沢東と楊開慧のあいだの長男・毛岸英は、彭徳懐のロシア語通訳として従軍中に米軍の爆撃を受けて戦死。
   参考 スターリンの息子ヤーコフ・ジュガシヴィリ
      ヒトラーの甥レオ・ルドルフ・ラウバル
 1954年9月の第1回全国人民代表大会で憲法が制定され、毛沢東は共和国国家主席に選出された。
 1956年、中国で百花斉放百家争鳴が始まる。
 1957年、毛沢東は反右派闘争を発動。
 1958年、毛沢東は「大躍進」運動を発動。
 1959年4月27日、毛沢東は大躍進政策失敗の責任を取って国家主席の地位を劉少奇に譲ることにしたが、党中央委員会主席と中央軍事委員会主席の地位は手放さず、大躍進政策は続けられた。同年7月から8月にかけて、江西省廬山で開催された党中央政治局拡大会議(廬山会議)で、毛と同郷の彭徳懐元帥は大躍進政策の見直しを進言したが、毛沢東はヒストリックに拒絶して彭徳懐を失脚させた。結局、大躍進は餓死者数千万人という惨憺たる結果に終わった。
 毛沢東は、神棚に祭り上げられはしごをとられた形で、実権を失った。

 1962年10月、中印国境紛争が発生。同年、中ソ論争が発生。
 1964年10月、中国が初の原爆実験に成功。
   参考  同年公開の映画「007 ゴールドフィンガー」に中国製の「汚い原爆」が登場。
 1965年11月、「四人組」のひとり姚文元が書いた記事「新編歴史劇『海瑞罷官』を評す」が上海の新聞『文匯報(ぶんわいほう)』に掲載され、文化大革命が始まった。
 1966年、回族の高校生・張承志が「紅衛兵」という名称を発案。
  毛沢東は、同年8月18日から11月26日にかけて全国から上京してきた紅衛兵延べ1000万人と北京の天安門広場で会見。
 1968年から上山下郷運動が開始。
 1969年3月、中ソ国境紛争(珍宝島事件)。
   参考 テレビドラマ「お荷物小荷物・カムイ編」(主演 中山千夏)。
      戸浦六宏演じる近松千春はマオイストで『毛沢東語録』を常に携帯。
      口癖は「毛沢東いわく」
 1971年9月13日、林彪事件。
 1972年2月、米国のニクソン大統領が中国を訪問。同年9月、日中国交正常化。
 1976年、周恩来死去。天安門事件発生。
     毛沢東は文革の継続を望み、ケ小平の解任と華国鋒の総理就任を提案した。
 1976年9月、死去。83歳。

 毛新宇(もう しんう、1970年1月17日 - )毛沢東の、「毛」姓の唯一の孫。
 毛沢東の二男である毛岸青と女性カメラマン邵華の一人息子。
 2010年7月、40歳で人民解放軍の少将に昇格。


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