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中国歴史人物列伝 5
最新の更新2024年4月8日 最初の公開2024年4月8日
- 第1回 伍子胥――祖国を滅ぼし死屍に鞭打った復讐者
- 第2回 冒頓単于――東ユーラシアのもう一人の始皇帝
- 第3回 鳩摩羅什――日本人が読むお経を作った訳経僧
- 第4回 郭子儀――中国を滅亡から救った遅咲きの名将
- 第5回 蘇軾――書道と豚の角煮でも有名な文豪政治家
- 第6回 李徳全――平塚らいてうとも対談した女性大臣
- 参考 今までとりあげた人物 実施順 時代順
以下、https://www.asahiculture.com/asahiculture/asp-webapp/web/WWebKozaShosaiNyuryoku.do?kozaId=7093961より引用。
第2・4木曜日 10:30〜12:00 2024/4/11, 4/25, 5/9, 5/23, 6/13, 6/27
歴史を理解することは、人間を理解すること。ヒストリー(歴史)とストーリー(物語)は、もとは同じ言葉でした。中国の伝統的な「紀伝体」の歴史書も、個々人の伝記を中心とした文学作品でした。
本講座では、日本にも大きな影響を残した中国史上の人物をとりあげ、運や縁といった個人の一回性の生きざまと、社会学的な法則や理論など普遍的な見地の両面から、人生を紹介します。豊富な図像を使い、予備知識のないかたにもわかりやすく解説します。(講師・記)
第1回 伍子胥――祖国を滅ぼし死屍に鞭打った復讐者
YouTube https://www.youtube.com/playlist?list=PL6QLFvIY3e-mRMyUbMS7zA0CdltYLLQyY
○ポイント、キーワード
- 春秋時代
紀元前770年から前453年まで、ないし前403年まで。
春秋時代の特徴は「覇者」と「士大夫」である。
- 南蛮
日本語では、戦国時代のスペイン・ボルトガルを指すこともあるが、本来の「南蛮」は、中原から見て南にあった長江の中・下流域の国々、楚・呉・越を指した。
- 死屍に鞭打つ
伍子胥にちなむ故事成語。
- 日暮れて道遠し
伍子胥にちなむ故事成語。
○辞書的な説明
- 『精選版 日本国語大辞典』より引用
ご‐ししょ【伍子胥】
中国、春秋時代の呉の臣。名は員(うん)。父の奢と兄の尚が楚の平王に殺されたため、呉に奔(はし)り、呉を助けて楚を破り、平王の墓をあばいて復讐(ふくしゅう)した。のちに呉が越を破った時、呉王夫差が越王勾践を殺さなかったことを諫めていれられず、のち讒言(ざんげん)にあって自殺した。前四八五年没。
- 『改訂新版 世界大百科事典』より引用
伍子胥 (ごししょ) Wǔ Zǐ xū
中国,春秋時代末の人。生没年不明。本名は呉員(ごうん)。楚国のお家騒動で父と兄とを楚の平王に殺されると,楚より出奔し,諸国をさまよったあと,呉に身を寄せた。呉王の闔閭(こうりよ)が父王を殺して即位するのに力をかして信任を受け,兵法家の孫武とともに呉の国力の充実につとめた。国力をのばした呉は,楚に侵攻し,楚都の郢(えい)を陥(おと)した。伍子胥は,すでに死んで葬られていた平王の墓をあばき,その尸(しかばね)を鞭(むち)打って父と兄の仇をうったとされる。そののち闔閭は中原に進出することに心を用いしばしば北方へ軍を動かしたが,伍子胥は背後の越をこそ警戒すべきだと主張して闔閭と意見が合わず,剣を賜って自殺した。まもなく呉は伍子胥の言葉どおり越に滅ぼされた。その激烈で悲劇的な生涯から,伍子胥は神格化され,江南の各地に彼の廟が建てられた。《国語》呉語や《史記》巻六十六に彼の伝があるほか,《呉越春秋》《越絶書》ではすでに彼に関する小説的な記述が多くなっており,さらに敦煌の変文や元曲などの俗文学の中にも登場する,民衆に身近な英雄であった。
執筆者:小南 一郎
○略年表
- 生年不詳。
伍子胥は楚の人で、名を員(うん)といった。伍子胥の父は伍奢(ごしゃ)、兄は伍尚(ごしょう)、先祖は伍挙(ごきょ)といった。伍挙は楚の荘王に仕え率直な諫言によって有名になった。
楚の平王(前529年 - 前516年)には、建という名前の太子がいた。平王は伍奢を建のお守り役の長官、費無忌(ひむき)をお守り役の次官とした。費無忌は太子に忠誠を尽くさなかった。
- 前523年、平王6年。楚の平王は太子の妻として秦の君主(秦公)の姫と縁談を進めた。費無忌が派遣された。秦の公女は美人だった。帰還した費無忌は平王に伝えた。
「秦の公女は美人です。王ごじしんの后になされませ。太子にはまた改めて縁談を進めればよいでしょう」
平王は秦の公女と結婚し、軫(しん)という名の子供が生まれた。太子は別の女性と結婚させた。
費無忌は秦の公女の一件以来、太子の元を去り、平王に仕えた。費無忌は太子の恨みを買っていたことを自覚していた。将来、平王が死んで太子が即位すれば、自分は殺されるだろう。そこで費無忌は、太子の建を讒言(ざんげん)した。建の母は蔡の公女で、平王から寵愛されていなかった。平王は建をうとんじ、辺境の地の守備に当たらせた。費無忌は、今度は、太子は辺境の町で反乱の準備をしている、と讒言した。
平王は太子の守り役である伍奢を呼び出し、費無忌も同席させ、会談した。伍奢は、
「王さまはなぜ、太子を讒言するようなつまらぬ臣下を信じなさるのですか。太子は骨肉の親族であられますぞ」
費無忌は、
「王さまが今すぐ太子を討たねば、王さまが捕虜にされますぞ」
王は伍奢を逮捕し、軍事の長官だった奮揚(ふんよう)に太子の暗殺を命じた。奮揚は太子に同情し、自分より先にこっそり使者を派遣して、太子に急いで亡命するよう勧告した。
さて、費無忌は平王に言った。
「伍奢の二人の息子は優秀です。今のうちに親子ともども抹殺せねば、後々、わが国の憂いとなるでしょう」
平王は伍奢に、
「お前の二人の子を呼び出せ。三人そろえば、命を保証する。さもなくば、おまえたちは死ぬ」
と言うと、伍奢は言った。
「尚はやさしい子なので、呼べば来ます。員(伍子胥)は強くて根性がある子なので、大事を成し遂げるでしょう。員は呼んでも来ませんよ。ここにくれば、父や兄ともども捕まる、とわかっていますから」
平王は、伍尚と伍子胥に呼び出しをかけ「来ればお前達の父を生かす。来なければ殺すことになる」と伝えさせた。
伍尚は行こうとした。伍子胥は断った。
「兄さん。ぼくら二人が行けば、父と一緒に殺されるだけだ。やつらはそもそも、うちを皆殺しにするつもりだ。呼び出しに応じてのこのこ出かけたら、殺され、仇討ちもできない。外国に亡命しよう」
伍尚は言った。
「おまえの言うとおりだ。だが、父のために呼び出されてゆかず、あとで仇討ちもできねば、それこそ天下の笑いものになってしまう。おまえは逃げて生きろ。私は死ぬ覚悟を決めた」
伍尚はみずから、逮捕された。使者は伍子胥も捕まえようとした。伍子胥は弓矢を引き絞って使者に抵抗し、逃げおおせた。太子建が宋に亡命していたので、そこへ行き、合流した。
父の伍奢は、伍子胥が逃げ切ったことを聞くと「わが国の君主と臣下は、戦争に苦しむことになる」と予言した。伍奢と伍尚の親子は、楚の都でまとめて処刑された。
- 前522年、太子建が死去。
亡命者である太子建は、苦難の道を歩んだ。伍子胥が宋に行くと、宋では華氏の乱が起きた。伍子胥は太子建と鄭に逃げた。鄭の人は彼らを優遇したが、しょせんは小国だった。太子建と伍子胥は、大国の晋へ赴いた。
晋の頃公(けいこう)は太子に、陰謀をけしかけた。
「太子。あなたは、鄭で信用されている。そこで、だ。あなたが鄭に帰り、我らが外から攻め込み、あなたが内応すれば、鄭を滅ぼせる。そのあかつきには、あなたを鄭の地の大名にしてさしあげよう」
太子は鄭へ戻ったが、従者と喧嘩になった。従者は、晋の謀略を、鄭の定公と宰相の子産に告げ口した。太子建は殺された。
太子建には勝という名の子がいた。伍子胥は勝を連れ、呉に出奔した。
昭関まで逃げたとき、捕まりそうになったので、伍子胥は勝と別れひとりで逃げた。揚子江で漁夫の舟に乗せてもらい、向こう岸に渡った。伍子胥はお礼として「この剣は百金にあたいする。さしあげよう」と漁夫に言うと、漁夫は「あなたはおたずねものです。あなたを楚に差し出せば、懸賞金として、五万石の米と執珪(しっけい)の爵位がもらえます。お礼が欲しければ、そもそもあなたを助けませんよ」と言って辞退した。
伍子胥は、途中で病気になったりしながら、命からがら呉にたどりついた。
呉の君主は呉王僚(在位、前525-前516)で、いとこの公子光(のちの呉王闔閭(こうりょ))が将軍になっていた。辺境の新興国家である呉は、伍子胥を人材として迎え入れた。
- 前518年、楚と呉のあいだで「卑梁の桑」の戦争が勃発した。楚の辺境の村・鍾離と、呉の辺境の村・卑梁の女たちが、カイコの桑の葉をめぐって喧嘩となり、それがエスカレートして国どうしの戦争になった。
公子光は、国境で楚軍を打ち破った。伍子胥は、呉王僚に言った。
「楚に勝てます。もう一度、公子光を派遣して戦って下さい」
公子光は呉王僚に言った。
「伍子胥は、父と兄を楚に殺されました。彼は復讐心からそう言っているのです。まだ戦機は熟していません。楚に全面勝利はできません」
伍子胥は、公子光の野心を見抜いた。彼は、自分が王になりたい、と思っているのだった。伍子胥は、専諸という人物を公子光に推薦し、自分は太子建の遺児である勝と共に晴耕雨読の生活を送り、時を待つことにした。
- 前516年、楚の平王が死んだ。
平王が太子建から奪った秦の公女が生んだ軫(しん)が、世継ぎとして、昭王(しょうおう)になった。
呉王僚は、楚の服喪につけ込んで、呉軍を楚に派遣した。楚は善戦した。呉の国内の兵力は空になった。
- 前515年、公子光は、伍子胥の推挙で食客として召し抱えた専諸に命じて、呉王僚を刺殺させた。暗殺に成功した公子光は、みずから呉王となったいわゆる呉王闔廬(こうりょ)である。
闔廬は伍子胥を重用し、国政に参与させた。
その後、呉王闔廬は、孫子の兵法で有名な将軍の孫武と、伍子胥の働きによって、楚に対する戦争で大きな戦果をあげた。
- 前506年、柏挙の戦いで楚軍は呉軍に大敗。
呉軍は楚の首都・郢(えい)を陥落させ、昭王は出奔した。
伍子胥は昭王に逃げられた。仇の楚の平王はすでに死んでいた。そこで伍子胥は平王の墓を暴き、死体をひきずりだして、三百回も鞭打った。「死屍を鞭打つ」故事である。
楚の大夫・申包胥(しんぽうしょ)は、伍子胥の親友だった。かつて伍子胥が楚から逐電したとき、申包胥に「俺は必ず楚を滅ぼす」と言い残した。すると申包胥は「俺は必ず楚を存続させる」と言った。楚が呉に負けたとき、申包胥は山中に逃げていた。彼は、伍子胥が平王の遺体を破壊したことを聞くと、使者を送って言った。
「きみの復讐は度を過ぎている。いつか、天罰を受けることになるぞ」
伍子胥は、使者に言づてさせた。
「私は『日暮れて道遠し』という思いだったのだ。だから、われながら非道を犯したのだ」
申包胥は、西の強国である秦に逃げ、救援軍を求めた。秦の哀公(前536-前501)は無視した。申包胥は、秦の宮殿の前で、昼も夜も、七日七夜にわたり、男泣きし続けた。秦の哀公は感嘆した。
「楚は無道だが、これほどの忠臣がいるとは。存続させねばならない」
秦の哀公は戦車五百乗を楚の援軍として派遣し、呉軍を破った。呉の国内でも、呉王闔廬の遠征中に、闔廬の弟が勝手に王を名乗るなど内紛が起きた。そのため、呉は、楚を完全に滅ぼし去ることはできなかった。
- 前497年、魯の孔子が、弟子たちとともに諸国巡遊のたびに出る。事実上の亡命。
- 前496年、呉王闔廬が死去。
呉王闔廬は、隣国の越王句践(こうせん 在位、前496-前464)と戦った。越軍は強く、呉王闔廬は足の指を負傷し、傷が悪化して死亡した。呉王闔廬は死ぬ前に、息子の夫差に言い残した。
「お前は、父のかたきが越王句践であることを忘れるな」
いわゆる「臥薪嘗胆」「呉越同舟」の故事は、ここから始まる。
- 前494年、「会稽の恥」の故事。
これ以降の歴史は、asahi20211014.html#01も参照。
越王句践は呉王夫差に敗れ、「会稽の恥」で降参した。呉王夫差は、越王句践の命だけは助けようとした。伍子胥は反対した。
「今、越王を殺しておかねば、後で後悔することになります」
だが、呉王夫差は、伍子胥の意見をいれなかった。
- 前490年、斉の景公が死んだ。
呉王夫差は、斉を攻めようとした。伍子胥は反対した。
「句践は、質素な食事をして、民を弔問し病人を見舞い、大事を為そうとしています。句践が生きている限り、呉の脅威になるでしょう。呉の隣国に越があるのは、人の内臓に病気があるようなもの。越をあとまわしにして、斉を討つのは間違いです」
呉王夫差は、伍子胥の意見をいれなかった。呉軍は斉軍に大勝し、周辺国も脅かした。
- 前484年、孔子は13年間の亡命生活に終止符を打ち、魯に帰国した。
同年、呉王夫差は、ふたたび北の斉を伐とうとした。
越王句践は、孔子の弟子でフリーランスの外交官としても著名だった子貢の謀略を採用した。句践は兵を率いて呉を助け、呉の太宰・伯嚭に莫大な賄賂をおくって懐柔した。
伍子胥は、呉王夫差に警告した。
「越は呉にとって、内臓の病気のようなもの。王は、斉の攻略はあとまわしにして、まず、越をどうにかしてください。さもないと、後悔しますぞ」
呉王夫差は、伍子胥をうとましく思い、外交の使者として斉に派遣した。
伍子胥は斉に行くとき、自分の息子に言った。
「私は呉王を何度も諫めた。しかし呉王は、私の諫言を用いない。いずれ呉は滅びるだろう。おまえまで呉と心中する必要はない」
伍子胥は、わが子を連れて斉に行き、現地の有力者に預けた。自分は任務を果たして帰国し、斉の情況を呉王夫差に報告した。
呉の太宰・伯嚭は、かねてから伍子胥と仲が悪かった。彼は、呉王夫差に讒言した。
「伍子胥は人格に問題があります。彼は、何度も王さまに献策したのに用いられなかったので、恨んでおります。王さまが、彼の言葉をいれずに外国と戦争し、大勝利を続々とあげていらっしゃるのが、彼は気にいらないのです。すきがあれば、反乱も起こしかねない人物です。このあいだ伍子胥が斉に派遣されたとき、彼は、自分の子供を斉の鮑氏に預けました。やつの腹の内を、お察しのうえ、早急にご対処くださいますよう」
呉王夫差は、伍子胥に使者を送り、属鏤の剣(しょくるのけん)を与え、自決をうながした。
伍子胥は天を仰いで嘆息した。
「悪人の伯嚭が国を乱そうとしているのに、呉王夫差は、忠臣である私を殺すというのか。呉王夫差の父親(呉王闔閭)を覇者にしてやったのは、私だぞ。呉王夫差がまだ太子に決まっていなかった時、諸公子が争う中で、夫差さまを太子に、と命をかけて推挙してやったのは、私だぞ。呉王夫差は、自分を太子に推挙してくれたお礼に、私に領土を与えようとしたが、私は辞退した。それなのに呉王夫差は、へつらう悪い臣下を信用して、忠臣である私を殺すとは」
伍子胥は、遺言として呪いの言葉を吐いた。
「私の墓の上に梓(あずさ)の木を植えよ。呉王夫差の棺桶の材料にするのだ。私の目玉をえぐりだして、呉の都の東の城門の上に掛けよ。越軍が攻め込んできて呉を滅ぼすのを見届けてやる」
cf.司馬遷『史記』伍子胥列伝:必樹吾墓上以梓、令可以為器、而抉吾眼縣呉東門之上、以観越寇之入滅呉也。
伍子胥は剣で自分の首を切って死んだ。
呉王夫差は、伍子胥の呪詛を伝え聞くと、伍子胥の遺体を引きずりだして馬の革の袋に詰め、銭塘江に投げ込んだ。
- 前479年、孔子が魯で死去。
- 前473年、越王勾践は呉の首都・姑蘇を陥落させる。
敗戦後、呉王夫差は「あの世で伍子胥にあわせる顔がない」と言い、幎冒(べきぼう)をかぶって自殺した。
○その他
- 身長が高く、九尺とも一丈とも伝えられる。本当なら、身長2メートルを超す巨人だったことになる。
- 旧暦五月五日の端午の節句の起源は、ちまきも龍舟も、長江に入水自殺した楚の屈原への慰霊とされる。しかし古書には、屈原ではなく、伍子胥への慰霊が端午の節句の習俗の起源である、と説くものもある。
- 前漢の武帝のときの淮南八公のひとり伍被は、伍子胥の子孫と伝えられる。
- 呉王夫差が伍子胥の遺体を馬の革袋につめて投げ込んだ場所は、「胥口」(現在の中国江蘇省蘇州市呉中区胥口鎮)とされる。
第2回 冒頓単于――東ユーラシアのもう一人の始皇帝
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