教室・オンライン自由講座 見逃し配信あり 講座番号:4584576
歴史を理解することは、人間を理解すること。ヒストリー(歴史)とストーリー(物語)は、もとは同じ言葉でした。中国の伝統的な「紀伝体」の歴史書も、個々人の伝記を中心とした文学作品でした。
本講座では、日本にも大きな影響を残した中国史上の人物をとりあげ、運や縁といった個人の一回性の生きざまと、社会学的な法則や理論など普遍的な見地の両面から、人生を紹介します。豊富な図像を使い、予備知識のないかたにもわかりやすく解説します。(講師・記)
曜日・時間 第2・4木曜日 10:30〜12:00 全6回
2024/1/11, 1/25, 2/8, 2/22, 3/14, 3/28
「腹上死というと挿入中の死亡を想像しがちですが、発作が起きるのは行為後が大半で、特に心臓系疾患の場合は行為を終えてから数時間後のケースが多い。いわゆる“腹上死”のイメージに近いのは脳血管系の場合で、性交中や射精直後に突然意識を失うことがあります」(上野氏)文中の「上野氏」は、上野正彦氏。
趙飛燕 ちょうひえん Zhao Fei-yan; Chao Fea-yen
中国,前漢の成帝 (在位前 33〜7) の皇后。庶民の出身。歌舞に巧みで,成帝の目に止り,女官となり,のち皇后となった。妹昭儀も召され,姉妹で成帝の寵を争ったという。平帝のとき,王莽の上奏で庶人に落され,自殺した。この姉妹を描いた『趙飛燕外伝』は六朝時代の小説で,日本の平安時代の宮廷女流文学者に広く読まれた。
趙飛燕 ちょうひえん(?―前1)
中国、前漢末期の皇帝である成帝(在位前32〜前7)の皇后。卑賤(ひせん)の生まれから身をおこして陽阿主(ようあしゅ)に仕え、そこで歌舞を習得し、偶然陽阿主の家を訪れた成帝の目に留まって妹とともに後宮入りし、ついには皇后となった。しかし前漢王朝きっての放恣(ほうし)な皇帝が、ある夜突然死去したために、成帝とその夜をともにした妹に嫌疑がかかり妹は自殺に追い込まれてしまう。やがて宮廷内で王莽(おうもう)の勢力が伸張すると、飛燕もただの庶人に格下げされて、妹の後を追う。このように卑賤の身から一転して後宮の栄華をほしいままにし、最後には凋落(ちょうらく)の道をたどる趙飛燕姉妹の波瀾(はらん)の生涯は、やがて文学作品『趙飛燕外伝』となった。この作品は、彼女の血縁者から直接聞き取りの形で書き上げられたと伝えられるが、実際には後世の偽作とされる。[桐本東太]
はんしょうよ【班婕、】世阿弥の能『班女』(はんじょ)は班婕、の故事をふまえた謡曲。
〔「漢書外戚伝」より。「婕、」は女官の名〕 中国、漢の女官。成帝の寵愛を得たが、のちに帝が趙飛燕姉妹を寵愛するようになったため、身をひいて太后に仕えた。その時自ら悲しんで「怨歌行」を作った。後世、寵愛を失った女性を歌った詩に登場することが多い。班女。生没年未詳。
(大意)漢の成帝の皇后となった趙飛燕の出自は、いやしかった。彼女は宮中の雑役の夫婦の子だった。生まれたとき、両親は育てるつもりがなく、放置した。三日間放置しても生きていたので、育てられた。その後、皇族の陽阿主の家で、歌手兼ダンサーとして仕込まれ、「飛ぶツバメ」という芸名を名乗った。(原文 孝成趙皇后、本長安宮人。初生時、父母不舉、三日不死、乃收養之。及壯、屬陽阿主家、學歌舞、號曰飛燕。)
(要約) 漢の成帝は、おしのびで出かけて遊ぶことを好んだ。成帝は、趙飛燕を気に入り、後宮に入れた。のちに飛燕の妹(後世の伝承では「趙合徳」と呼ばれる)も後に後宮に入れた。この美人姉妹は、成帝の寵愛を独占した。
成帝にはもともと許皇后がいたが、彼女を廃すると、成帝は周囲の反対意見をおしきり、出自がいやしい趙飛燕を皇后とし、その妹を昭儀とした。やがて妹は、姉よりも皇帝に愛されるようになった。ただ、姉妹は十年余りも成帝の寵愛を得たものの、結局、成帝の子を産めなかった。(原文 成帝嘗微行出。過陽阿主、作樂、上見飛燕而説之、召入宮、大幸。有女弟復召入、倶為婕、、貴傾後宮。
許后之廢也、上欲立趙婕、。皇太后嫌其所出微甚、難之。太后姉子淳于長為侍中、數往來傳語、得太后指、上立封趙婕、父臨為成陽侯。後月餘、乃立婕、為皇后。追以長前白罷昌陵功、封為定陵侯。
皇后既立、後ェ少衰、而弟絶幸、為昭儀。居昭陽舎、其中庭彤硃、而殿上髹漆、切皆銅沓黄金塗、白玉階、壁帶往往為黄金ス、函藍田璧、明珠、翠羽飾之、自後宮未嘗有焉。姉弟顓寵十餘年、卒皆無子。)
(要約) 妹に成帝の寵愛を奪われた姉の皇后は、悲しみにくれ、馮無方(ふう・むほう)という臣下と不倫関係に走った。ある日、太液池(たいえきち)で、宴会が開かれた。広大な庭園の中の人工の池に、千人乗りの巨船を浮かべた豪華な遊びだった。皇后は、昔取ったきねづかで、船の上で踊った。成帝が壷を叩き、馮無方は笙を吹いて伴奏した。皇后は「いっそ仙人になって飛んでゆきたい」という旨の歌を歌いつつ袖をひるがえして軽やかに舞い、風に乗って飛んでゆきそうに見えた。成帝はあわてて「無方よ、皇后が飛んでゆかないようにおさえてくれ」と命じた。風がおさまると、皇后は「私は仙女になって飛び去りたいのに、陛下はお許しくださらないのですね」と泣いた。成帝は皇后をいっそういとおしく思い、無方に千金を与え、皇后の寝室に出入りさせた。後日、成帝のお手つきになった宮女たちの中には、スカートのひだをたたんでひも状にしたファッションを作るものがあり、それを「仙女になるのを引きとどめられたスカート」と名付けた。『趙飛燕外伝』の全訳は、明治書院の『中国古典小説選1』(2007)で読めます。
(原文 歌酣、風大起、后順風揚音、無方長吸細嫋与、相属后裙髀曰「顧我、顧我」。后揚袖曰「仙乎、仙乎、去故而就新、寧忘懐乎」。帝曰「無方為我持后」。無方舎吹持后履。久之、風霽、后泣曰「帝恩我、使我仙去不待」。悵然曼嘯、泣数行下。帝益愧愛后、賜無方千万、入後房闥。他日、宮姝幸者、或襞裙為縐、号曰「留仙裙」。)
(要約) 成帝は健康だったが、綏和2年3月18日(西暦に換算すると前7年4月17日)の朝、起床後、服を着ることも、ものを言うこともできなくなってしまった。その日の昼間に亡くなった。民間では、趙昭儀のせいだ、という噂が広まった。成帝の生母である孝元皇太后(王政君)は、一族の王莽(後に皇帝の位を簒奪する)らに命じて真相を調査させようとした。趙昭儀は真相を語らぬまま自殺した。以下『趙飛燕外伝』より
(原文 末年、定陶王來朝、王祖母傅太后私賂遺趙皇后、昭儀、定陶王竟為太子。
明年春、成帝崩。帝素強、無疾病。是時、楚思王衍、梁王立來朝、明旦當辭去、上宿供張白虎殿。又欲拜左將軍孔光為丞相、已刻侯印書贊。昏夜平善、郷晨、傅褲襪欲起、因失衣、不能言、晝漏上十刻而崩。民間歸罪趙昭儀、皇太后詔大司馬莽、丞相大司空曰:「皇帝暴崩、群衆言雚嘩怪之。掖庭令輔等在後庭左右、侍燕迫近、雜與御史、丞相、廷尉治問皇帝起居發病状。」趙昭儀自殺。)
趙昭儀(皇后・趙飛燕の妹)がある夜、酔って、ふだんの7倍の量の媚薬を成帝に飲ませた。その夜は大いに盛り上がったが、翌朝、成帝は死んだ。官憲は調査しようとした。趙昭儀は「ベッドの中のことを官憲にさらけだすことなぞ、どうしてできましょう」と言い、胸をたたいて「陛下はどうして逝かれたのですか」と叫び、血を吐いて死んだ。
(原文) 昭儀輒進帝、一丸一幸。一夕、昭儀酔進七丸、帝昏夜擁昭儀居九成帳、笑吃吃不絶。抵明、帝起御衣、陰精流輸不禁、有頃、絶倒。挹衣視帝、余精出湧、沾汚被内。須臾帝崩。宮人以白太后。太后使理昭儀、昭儀曰「吾持人主如嬰児、寵傾天下、安能斂手掖庭令争帷帳之事乎」。乃拊膺呼曰「帝何往乎」。遂欧血而死。
一枝濃艷露凝香。 雲雨巫山枉断腸。 借問漢宮誰得似? 可憐飛燕倚新粧! |
イッシのノウエン、つゆ、かおりをこらす。 ウンウフザン、むなしくダンチョウ。 シャモンすカンキュウ、たれかにるをえたる? カレンのヒエン、シンショウによる。 |
げん‐せき【阮籍】
[210〜263]中国、三国時代の魏の思想家・文人。陳留(河南省)の人。字あざなは嗣宗。竹林の七賢の一人。酒を好み、礼法を無視し、白眼・青眼の故事で有名。老荘の学を好み、「達荘論」「大人先生伝」を著した。
阮籍 (げんせき) Ruǎn Jí 生没年:210-263
中国,魏の詩人。老荘哲学者としても特異な存在であった。字は嗣宗。陳留(河南省)の人。嵆康(けいこう)とともに〈竹林(ちくりん)の七賢〉の中心的な存在で,常識の意表をつく奇矯な発言と奔放な態度で世人を驚かせたが,その裏には社会の偽善や退廃に対する逆説的な批判精神がこめられていた。司馬氏の簒奪(さんだつ)が進められる魏末の恐怖政治下にあって,目覚めた意識を持つ者としての苦悩をつぶさになめながら,韜晦(とうかい)した生きかたを貫き通した。五言詩の連作〈詠懐〉82首は,屈折した哲学的思弁をまじえつつ,折々の胸中の思いを吐露した作品で,詩型としてなお歴史の浅い五言詩に深い思想性をもたらした功績は大きい。のちの陶潜(淵明)や李白らの文学にも影響を及ぼしている。その難解さは古来定評がある。哲学者としては,〈弁荘論〉〈大人先生伝〉などの論文が伝えられている。清談の大家としても著名である。
執筆者:興膳 宏
竹林の七賢 ちくりんのしちけん
3世紀,魏・晋の7人の老荘思想家
阮籍 (げんせき) ・嵆康 (けいこう) ・山濤 (さんとう) ・向秀 (しようしゆう) ・劉伶 (りゆうれい) ・阮咸 (げんかん) ・王戎 (おうじゆう) の7人が竹林に会して清談にふけったという伝説にもとづく。彼らは年齢・住地が異なり,一か所に会合することは不可能であるが,ともに老荘思想の実践者,また当時の世相や形式道徳の批判者として名声をあげた。
大隠朝市(たいいんちょうし)――乱世の生き方引用終了。
「小隠(しょういん)は林藪(りんそう)に隠れ、大隠は朝市にまじわる」ということわざがある。四字熟語で「大隠朝市」とも言う。
小粒で未熟な隠者は、人里離れた森林やヤブのなかに住む。大物でほんとうに悟った隠者は、朝廷や市場など人がたくさん住む都会のなかで隠れ住む、という意味だ。
古来、中国では、隠者はあこがれの生き方だった。
中国史ではおおむね二百年おきに、乱世と太平が繰り返す。乱世は、権謀術数と下剋上の汚い時代だ。乱世になると、良心的な教養人は世を避けて隠者となった。
古代中国の隠者は牧歌的だった。許由(きょゆう)や伯夷(はくい)・叔斉(しゅくせい)など古代の隠者は、無人の山中に隠れればよかった。昔は人口も少なく、国家権力は都市の周辺にしか及ばなかった。
だが、二千年前くらいから、中国の国家権力は領土内のすみずみにまで及ぶようになった。そこで生まれたのが、身を都会に置きながら精神的な隠者となる「大隠」だった。
日本や中国の屏風絵でもよく描かれる三世紀の「竹林の七賢」は、三国志の乱世の時代を生きた七人の大隠である。その顔ぶれは、
阮籍(げんせき) 二一〇年―二六三年
嵆康(けいこう) 二二三?年―二六二年?
山濤(さんとう) 二〇五年―二八三年
劉伶(りゅうれい) 二二一?年―三〇〇年?
阮咸(げんかん) 生没年不詳
向秀(しょうしゅう) 生没年不詳
王戎(おうじゅう) 二三四年―三〇五年
リーダー格の阮籍は名門の豪族で、「白眼視」の故事で有名な大酒み。
他の六人も、それぞれ才能や奇行で有名だったが、いずれも魏(ぎ)王朝の名士つまりエリートだった。
三国志の戦乱の時代。魏は、外では蜀(しょく)や呉(ご)と戦った。魏の内部では、権謀術数の権力闘争が渦巻いていた。竹林の七賢が生きた三国志の乱世の事件を年表風に並べると、次のとおり。
二二〇年、魏の曹操が死去。
息子の曹丕(そうひ)は後漢を滅ぼして皇帝となり、魏王朝を始める。 二二一年、劉備が蜀で皇帝に即位。魏・呉・蜀の三国がそろう。
二三四年、蜀の宰相・諸葛孔明が、魏の司馬仲達と対戦中に陣没。
二三九年、邪馬台国の女王・卑弥呼が魏に遣使。
二四九年、司馬仲達がクーデターで魏の実権を握る。
二六〇年、司馬昭(仲達の子)が魏帝を殺す。
二六五年、司馬炎(仲達の孫)が魏を滅ぼし、西晋王朝を創始。
二八〇年、西晋が天下を統一。
竹林の七賢が生きた時代、名士は踏み絵をふまされた。
「あなたは魏に忠誠を誓うか。それとも、心のなかでは蜀をひそかに応援しているのか」
「あなたは魏の皇帝 (曹操の子孫)を支持する勤皇派か。それとも、魏の実権を握る司馬昭(司馬仲達の子)を支持する現実派か」
魏の第四代皇帝(曹操のひ孫)は、司馬昭が帝位を狙っていることを知っていた。数え二十歳の若き皇帝は「司馬昭の心は、道路の通行人すらみな知っている」と言い、宮中の数百人の召使いとともに決起した。が、司馬派によって刺殺された。司馬昭は平然と嘘をついた。
「皇帝は乱心して太后を殺害しようとした。しかたなかった。とはいえ、人臣でありながら皇帝を刺殺する者は逆賊である」
司馬昭は、皇帝殺害を実行した部下を一族皆殺しにした。トカゲの尻尾切りだ。道路の通行人も真相は知っている。だが誰も口を開けない。
やっかいなことに、司馬昭じしん先祖代々の名士だった。魏の名士が面従腹背しても、お見通しだ。司馬昭は、疑わしい人間は適当な罪名を着せて処刑した。地方に逃げてもムダだった。同僚の密告や秘密警察の捜査ですぐに捕まった。
竹林の七賢は、そんな恐怖政治の独裁国家の「大隠」だった。
名士である彼らは、司馬昭とつかず離れずの距離を保った。司馬昭から、役職を与えるから国家のために働け、と言われればそれなりに働く。だが、司馬派の徒党となって他人をおとしいれることは絶対にしない。連日泥酔したり、そこそこの働きをしたあと辞職願いを出したり、絶妙なバランス感覚で司馬昭に近づきすぎないようにした。
七人の名士は「パートタイムの隠者」だった。余暇の時間、彼らは竹の林のなかで集まり、酒をくみかわし、浮世離れした老荘思想(老子や荘子の思想)を語りあう「清談」を楽しんだ。
なぜ「竹林」か? 竹は、中国では君子の徳を象徴するめでたい植物だ。自然にまっすぐに伸び、中身はからりとしている。しかも竹林は、都会のすぐ近くにもある。
司馬昭は、竹林の七賢の腹の内を知っていた。そのうえで彼らを「探鉱のカナリア」とした。七賢のうち、司馬氏の野心に対する嫌悪を隠さなかった嵆康は、別件逮捕で処刑された。他の六人は生かされた。司馬昭は無言のうちに、世間の人々に微妙な一線を知らしめた。
今も昔も、中国の有名人は気が抜けない。権力者に疑われ、にらまれただけで、社会的生命は終わる。権力者と絶妙な距離感を保った竹林の七賢は、歴代の中国人のあこがれの的となった。漢詩に詠まれ、「竹林七賢図」の絵に描かれた。
今の日本は乱世ではない。独裁者もいない。が「大隠は朝市にまじわる」という高雅な紳士の社交場は、日本の都会にもある。そこでは今日も、今夜も、社会の第一線で活躍する名士がつどい、酒と食事と、心をリフレッシュする清らかな談話を楽しんでいるという。
白眼青眼――相手によって変わるまなざし引用終了。
相手に冷淡な態度をとることを「白眼視」と言う。反対の言葉は「青眼」で、好きな人を迎える好意にあふれたまなざしを言う。相手によって対応をかえることを「白眼青眼」と言う。
白眼も青眼も、語源の由来は阮籍(げんせき、二一〇年―二六三年)だ。彼は、三国志の魏の詩人で、前回とりあげた竹林の七賢のひとりである。世間体や利益にこだわる俗物が来ると白い目で迎え、気に入った人が来ると黒い目で迎えた。
漢文では、西洋の白人の青い目は「碧眼」と言う。漢文の「青眼」の「青」は、私たちアジア人のひとみの、青みがかった黒色をさす。
青には「純粋ですみきっている」イメージがある。清はすみきった水。晴はすみきった日の光。情は純粋な心。請はすみきった請願のことば。故事成語「画竜点睛」(がりょうてんせい)の「睛」はひとみの意で、常用漢字にはないため右半分のつくりが旧字体になっているが、これもすみきったイメージだ。
阮籍は、魏の名門の家に生まれた文人で、変人だった。三国志の乱世、人々は自分をいつわり、保身にあけくれるた。が、彼は自分に正直に生きた。
子が母親を殺す事件が起きた。阮籍は「父親を殺すのならまだしも、母親とは」と感想を述べた。魏の権力者で帝位をねらう野心家の司馬昭(のちの文帝。昭の父親は、諸葛孔明のライバルだった司馬懿)が「父親を殺すのは天下の大罪だぞ」とたしなめると、阮籍は「父親殺しはケダモノの所業です。が、ケダモノすら自分の母親はわかります。母親殺しはケダモノ以下です」と答えた。
阮籍の母親が亡くなった。悲報が届いたとき、阮籍は人と囲碁をさしていた。阮籍はそのまま対局を続けたあと、酒を二斗飲んで絶叫し、数升の血を吐いた。葬儀のとき、阮籍は肉料理を食べ二斗の酒を飲んだ。告別でただ一言「窮矣」(きわまれり。もうおしまいだ)と叫ぶと慟哭し、またも口から血を数升ほど吐いた。その後、阮籍はげっそり痩せ衰え、死にかけた。
名士の裴楷が弔問に訪れた。阮籍は泥酔したまま、じーっと裴楷を直視した。裴楷は、儒教の礼にかなった弔問を行った。彼は周囲に「阮籍は方外の士(世間の枠組みにはまらぬ傑物)だから形だけの礼典をたっとばない。でも私は俗中の士(俗世間で生きる人物)なので型通りの礼儀作法をとる」と語った。当時の人々は、阮籍も裴楷もそれぞれ礼の本質をわきまえている、と感心した。
名士の嵆喜が弔問にきた。嵆喜は俗物だった。阮籍は白眼で迎えた。嵆喜は不愉快になって帰った。
嵆喜の弟の嵆康は、竹林の七賢のひとりで、阮籍の親友だった。嵆康は酒と琴をたずさえ弔問に訪れた。阮籍は喜び、青眼で迎えた。
阮籍は常識破りだったが、常識知らずではなかった。彼は俗物を白眼視で迎えた。しかし、他人への批判や悪口はいっさい口にしなかった。野心家の司馬昭におもねらなかった。が、反抗もしなかった。司馬昭から文書の起草を命じられれば、泥酔状態で筆をとったが、できあがった文書は毎回、名文だった。
阮籍はただの変人ではない。その本質を見抜いたのは、皮肉にも、野心家の権力者である司馬昭だった。
「阮籍の非礼は目に余ります。喪中も礼に違反し、酒や肉をくらっております。彼を左遷してくださいますよう」
司馬昭の臣下がそう進言しても、司馬昭は、
「阮籍はやせ衰えている。肉や酒をとらねば死ぬ。死ねば、亡くなった親も悲しむだろう」
と阮籍を擁護した。
司馬昭は、阮籍と姻戚関係を結ぼうと考えた。息子の司馬炎(のちの晋の武帝)の嫁に阮籍の娘をもらおうとした。司馬昭の使者が阮籍のもとに行くと、阮籍は泥酔していた。使者は話を切り出せずに帰った。その後も連日、使者は訪れたが、阮籍は泥酔していた。泥酔は六十日も続いた。司馬昭は縁組みをあきらめた。
阮籍の息子は、父の型破りの生き方にあこがれた。阮籍は息子に「わが一族では、すでに阮咸(竹林の七賢のひとり。阮籍の甥っ子)が私と同じ流儀を楽しんでる。お前はやめておけ」と、常識人として生きるよう促した。
二六二年、司馬昭は、阮籍の親友であった嵆康を処刑した。嵆康の妻は曹操の子孫。つまり嵆康は魏の皇帝の身内だった。嵆康は命をまっとうできなかった。
二六三年、蜀漢は魏に攻められて滅亡した。司馬昭は朝廷を動かし、自分を晋公へ封爵させた。魏の滅亡と三国志の時代の終わりは、秒読みに入った。この年の冬、阮籍は病死した。享年五十四。
平均寿命が短かった昔、しかも乱世であった当時、天寿をまっとうした、と言えよう。
阮籍は大酒飲みだった。が、不思議なことに、彼が詠んだ漢詩には飲酒を楽しむことばは見えない。陶淵明や李白、杜甫などが好んで酒を詠んだのとは、大違いだ。阮籍は混濁の世を生きた孤高の知識人だった。泥酔していても、心の一点は覚醒していた。
さて、今の日本語では「白眼視」のほうが有名だが、昔は「青眼」もよく使った。吉田兼好は随筆『徒然草』第百七十段で「阮籍が青き眼(まなこ)、誰にもあるべきことなり」云々と書いた。阮籍が気のあった友を青眼で迎えたという話は、私たちの誰でもよくあることで、特に用事がない人が来て何となく話して帰るのは、喜ばしいことだ、と兼好は述べた。
たいした用事がなくても、青眼の友と紳士の社交場にくりだし、杯を交わすことは、今も昔も好ましいことである。
阮籍はもとは世を正そうという志があったが、魏晋の交替期にあり、天下に政変が多く、寿命を全うできる名士は少なかった。阮籍はこれを踏まえて政事に関与せず、いつも酔い潰れていた。文帝(司馬昭)がはじめ武帝(司馬炎)のために阮籍と婚姻を結びたいと考えたが、阮籍は六十日間も酔ったままで、(司馬昭は)言い出せずに中止した。鍾会がしばしば時事について質問し、揚げ足を取って罪を与えようとしたが、いつも酔っていたので回避できた。文帝が輔政すると、阮籍はくつろいで、「私はかつて東平に旅行し、その地の風土を楽しみました」と言った。文帝はとても喜び、すぐに東平相を拝命させた。阮籍は驢馬に乗って東平に到着すると、政庁の垣根を壊し、内外から見えるようにして、法令の運用は公平で簡潔で、十日ほどで帰った。文帝は(阮籍を)配下の大将軍従事中郎とした。(あるとき)担当官が母を殺した人物がいると言った。阮籍は、「ああ。父を殺してもよいが、母を殺すなんて」と言った。同席者は不適切ではないかと怪しんだ。文帝は、「父を殺すのは、天下で極めて悪いことだ、なぜ良しとするのか」と言った。阮籍は、「禽獣は母を知っていますが父を知りません。父を殺すのは、禽獣の所業です。母を殺すのは、禽獣にも劣るからです」と言った。人々は感服した。引用終了。
阮籍は歩兵校尉の営舎の料理係が酒の醸造が上手く、三百斛の酒を蓄えていると聞き、希望して歩兵校尉となった。時事に背を向け、輔佐の職を去ったが、つねに役所のなかにおり、朝の宴があれば必ず出席した。このとき文帝は九錫を辞退したが、公卿が勧進したので、阮籍に辞退の文を作らせた。阮籍は酔い潰れて作るのを忘れていた。執務室にゆき、文の回収にいくと、阮籍は机につっぷして酔って寝ていた。使者が用件を告げると、阮籍はすぐに草稿を作り、これを書き写させたが、修正すべき箇所がなかった。文は清らかで勇壮で、当時において重んじられた。
阮籍は礼教にこだわらなかったが、発言は深遠で、人物の良し悪しを口にしなかった。きわめて孝であり、母が亡くなると、人と囲碁を指していたが、相手が中止しようと言っても、阮籍は勝敗を決着させた。対局を終えると酒二斗を飲み、いちど叫び声をあげ、数升の血を吐いた。母を埋葬するとき、獣のすね肉を食べ、二斗の酒を飲んだが、その後に告別のとき、もうだめだと言って、泣き声を発し、数升を吐血した。痩せ衰えて、ほとんど死にそうだった。裴楷が訪れて弔問すると、阮籍は髪の毛を結ばず足を投げ出し、酔って直視した。裴楷は弔いを終えて去った。あるひとが裴楷に、「一般的に弔いとは、主(遺族)が哭し、客は礼を為します。阮籍は哭さず、しかしあなた(客の裴楷)がなぜ哭するのですか」と言った。裴楷は、「阮籍は礼の枠組みを外れた人士で、礼典を尊ばない。私は世俗の人士だから、規範をこちらが守ったのだ」と言った。当時の人は感歎して二人とも礼を心得ているとした。阮籍は白眼と青眼を使い分けた。世俗的で礼を守る人には、白眼で向き合った。嵇喜がきて弔問すると、阮籍は白眼になり、嵇喜は不愉快になって帰った。嵇喜の弟の嵇康がこれを聞き、酒をたずさえ琴を持って訪問すると、阮籍はとても喜び、青眼で会った。このことから礼法の士はまるで仇敵のように阮籍を憎んだが、文帝はいつも阮籍を見逃した。
世宗(後周)
せいそう 921〜959
五代の後周 (こうしゆう) 第2代皇帝(在位954−959)。五代第一の名君といわれる
名は柴栄 (さいえい) 。北は遼 (りよう) ・北漢の連合軍を破り,西は後蜀 (こうしよく) ,南は南唐を討って領土を拡張し,燕雲十六州 (えんうんじゆうろくしゆう) の一部を遼より奪回して幽州に迫ったが,病死した。仏教を圧迫し,農政にも心をとめ,均税法を行って租税負担の公平を期するなど内政を整え,宋の統一の基礎をつくった。
五代十国(ごだいじっこく) Wudaishiguo
907年唐の滅亡より960年宋の建国,979年宋の全国統一まで,中国は多くの国家に分裂した。華北中原に後梁(こうりょう),後唐,後晋(石晋),後漢(こうかん),後周の5王朝が,他の地方に呉越(ごえつ),南唐(江南国),前蜀(ぜんしょく),後蜀(こうしょく),呉,閩(びん),荊南(けいなん)(南平),楚(そ),南漢,北漢など10前後の国々が興亡し,五代ないし五代十国と呼ばれる。この時代は唐宋変革期の過渡期にあたり,政治的には,旧貴族没落後に現れた藩鎮らの新興武人層の支配下に,土地産業開発を背景とした新興地主・士人層が台頭した。経済的には,唐末の荒廃のなかから諸産業の回復・開発が進み,文化的にも中原以外の平和の保たれた地方に特色ある新文化が興った。五代は,国内の政権不安定に加え,外民族特に契丹(きったん)の侵入圧迫を受けて動乱の世であったが,次期の宋朝の専制統一の諸前提は成熟しつつあったといえる。
日テレ『水滸伝』左より柴進(田村高廣)楊志(佐藤允)武松(ハナ肇)。柴進のこの格好はオープニングのみなので貴重なスチール。もっと見たい。 pic.twitter.com/hQ9RhucLuI
— TOKI (@TOKI_darna) February 27, 2020
魏忠賢 ぎちゅうけん (?―1627)
中国、明(みん)末の宦官(かんがん)。河北河間の人。年少から無頼漢で、賭博(とばく)に負けたので宦官となった。天啓帝の乳母客(うばきゃく)氏と私通し、天啓帝が即位するとその寵(ちょう)を得、まったくの無学にもかかわらず司礼秉筆太監(しれいへいひつたいかん)(宦官の最高職)となった。当時、東林党・非東林党の政争が激しく、非東林党は自衛のために魏忠賢と結び、卑劣な手段をもって東林党の弾圧を図った。忠賢はまず東厰(とうしょう)(秘密警察)を兼督して政治を専断し、口実を設けては東林派を投獄し政治から追放した。やがて粛寧(しゅくねい)侯に封ぜられると、スパイを放って暴威を振るい、宮廷の実権を握った。そのため在廷の官僚は、その下風にたっておもねる者が多く、ついには彼を生神として祀(まつ)る者も現れ、全国各所に彼の生祠(せいし)が建てられた。しかし、1627年、天啓帝が崩じ崇禎(すうてい)帝が即位すると、彼を弾劾する者が全土に満ち、ついに自ら縊死(いし)した。死後さらに磔刑(たっけい)に処せられ、愛人客氏は笞刑(ちけい)で殺された。[川越泰博]
天啓帝 てんけいてい (1605―1627)
中国、明(みん)の第16代皇帝(在位1620〜27)。姓名は朱由校。諡(おくりな)はセ(せつ)皇帝。廟号(びょうごう)は熹宗(きそう)。15代皇帝泰昌(たいしょう)帝の子。祖父は万暦(ばんれき)帝。母は選侍(せんじ)王氏(孝和皇太后)。即位前後に、挺撃(ていげき)(1615年、皇太子、後の泰昌帝暗殺未遂事件)、紅丸(泰昌帝が紅(あか)い丸薬を飲んで死亡)、移宮(天啓帝の養育にあたっていた李(り)選侍を貴妃に昇格させたが、反対する官僚が別宮に移す)という三つの事件(三案)をめぐって、東林・非東林の党争が激化し、国論が沸き上がった。帝は木工、漆工などの逸楽にふけり、政治を側近の宦官(かんがん)魏忠賢(ぎちゅうけん)にゆだねたので、悪名高い宦官専横を招き、東林派の大弾圧が行われた。遼東(りょうとう)の満洲族、山東の白蓮(びゃくれん)教徒徐鴻儒(じょこうじゅ)、四川(しせん)の少数民族奢(しゃ)氏らの反乱が続発した。[川勝 守]
たい‐しょく【対食】
[名]
@ さし向かいで食事をとること。相対して食事をすること。
A 食事に対すること。食事を前にすること。〔陸機‐為周夫人贈車騎詩〕
B 古く中国で、官に仕える者同士が勝手に夫婦となること。また、その夫婦。
※魚玄機(1915)〈森鴎外〉「女道士仲間では、かう云う風に親しくするのを対食(タイショク)と名づけて」 〔漢書‐外戚伝下・趙皇后〕
ダライ・ラマの意味について
ダライ・ラマとはモンゴルの称号で「大海」を意味し、歴代の転生者は、仏陀の持つ慈悲の心の象徴である観音菩薩の化身と信じられている。菩薩とは、悟りを開いた覚者でありながら、涅槃に入らず有情を救済するために転生することを誓願された存在とされている。
ポタラ宮cf.補陀落渡海(ふだらくとかい)
(ラサのポタラ宮の歴史的遺跡群)
ポタラ宮は、中国チベット自治区の首府ラサのマルポリ(紅山)の上にあり、1959年に中国政府に接収されるまで、長らくチベットの政治と宗教の中心でした。「ラサのポタラ宮の歴史的遺跡群」として世界遺産に登録されています。
ポタラ宮は世界最大級の単体建築のひとつといわれ、宮殿内には、壁画や彫刻など、チベット芸術の粋が集合しています。ポタラとは、観音菩薩が住むといわれる「補陀落」のサンスクリット名「ポタラカ」に由来するそうです。
ダライ・ラマ5世(ガワン・ロブサン・ギャツォ)
ダライ・ラマ5世、ンガワン・ロブサン・ギャツォは、1617年、ラサ南郊のチョンギェーに、ドゥンドゥル・ラプテンとクンガ・ランジーの子として生まれた。ダライ・ラマ5世の侍従長であったソナム・チュンペーは、チョンギェーに住む男の子の非凡な能力の噂を聞いてその子を訪ね、ダライ・ラマ4世の所持品を見せた。男の子は即座に、それらは自分のものだと言った。政治的状況が不安定だったため、ソナム・チュンペーはダライ・ラマ5世の発見を当初、公にしなかった。政治的状況の安定を待って、ダライ・ラマ5世は、デプン僧院に迎えられ、パンチェン・ラマ4世ロプサン・チューギェルの下で沙弥戒を受け、ンガワン・ロブサン・ギャツォの僧名を授かった。
ダライ・ラマ5世が認定された頃、チベットの政治状況は不安定だった。しかし、モンゴル・ホショート部のグシ・ハーンが安定をもたらし、1642年にシガツェの宮殿でダライ・ラマは正式にチベットの聖俗両界の主権者となった。1645年、ダライ・ラマ5世はガンデン・ポタン(チベット政府)の高官たちと討議の末、チベットの第33代王ソンツェンガムポが赤い要塞を築いた丘にポタラ宮殿の建設を決めた。同年に着工し、43年の歳月を経て完成する。 1649年、清の順治帝がダライ・ラマ法王を北京に招聘した。ダライ・ラマ法王は清領内の寧夏で大臣と将軍、そして3千人の騎兵隊に迎えられ、彼らを随行して北京まで赴いた。順治帝もダライ・ラマ法王を迎えるために北京を離れ、コトルという場所まで赴いた。北京では、皇帝がダライ・ラマ法王のため特別に建立させた黄寺に滞在した。皇帝とダライ・ラマ法王は公式会見において、互いに称号を与え合った。1653年、ダライ・ラマ法王は、チベットに帰国した。
グシ・ハーンとデシ(摂政)ソナム・チュンペーは1655年に相次いで死去し、ダライ・ラマ法王は、グシ・ハーンの息子であるテンジン・ドルジェを新たなモンゴルの王として任命した。摂政の地位はドロン・メーパ・ティンレー・ギャツォが引き継いだ。清では、1662年に順治帝が死去し、息子である康熙帝が即位した。同年、パンチェン・ラマ4世が91歳で死去した。1665年、タシルンポ僧院の要請により、ダライ・ラマ法王はツァン地方の男児を故パンチェン・ラマ4世の転生として認め、その子をロブサン・イェシェーと命名した。
ダライ・ラマ5世は、非常に学識豊かで、サンスクリット語に良く通じていた。詩歌に関するものを含む多くの著作を残した。在家と僧侶それぞれの政府役人を養成するための教育機関を設立し、モンゴル語、サンスクリット語、暦学、詩歌および行政学が学べるようにした。彼は口数の少ない人物だったが、彼が発した数少ない言葉は確信に満ちており、チベットの国境を越えて周辺の政治的支配者たちに影響を与えた。1682年、ポタラ宮の完成を見ずに65歳で亡くなったが、残された宮殿の建設の責任は、新たな摂政であるサンギェー・ギャツォに委ね、彼に自らの死を当面、秘匿するよう命じた。
一方、伝統を変えることを好まない既得権層が「この伝統はダライ・ラマ五世が決めたものです」と反論すると、ダライ・ラマ十三世はこう答えたという。「ダライ・ラマ五世は今は誰ですか?」。
林則徐 りんそくじょ(1785―1850)
中国、清(しん)代の政治家。字(あざな)は少穆(しょうぼく)、諡(おくりな)は文忠。晩年、竣村(しゅんそん)老人と号す。福建省候官県(現福州市)の人。嘉慶16年(1811)進士。龔自珍(きょうじちん)、魏源(ぎげん)、黄爵滋(こうしゃくじ)(1793―1853)らと詩文の結社をつくり、経世致用の学を提唱し、東河河道総督、江蘇巡撫(こうそじゅんぶ)のときに、黄河の治水や江蘇の水利に尽力して名声を得た。また清廉潔白な清官で、清代最高の官僚と評されている。アヘンの害を痛感し、1837年湖広総督に任じてその厳禁に成果をあげ、翌年黄爵滋の厳禁論に賛同する上奏により、アヘン問題解決のための欽差(きんさ)大臣として広州に派遣された。外国商人にアヘン提出を厳命し、強硬手段でイギリス商人などから237万余斤のアヘンを提出させて虎門(こもん)海岸で焼却した。
一方、西方の事情を理解するため、外国の地理書、法律書、新聞などを翻訳させ、自ら『四州志』『各国律令』を編集して、正当な貿易は保護し、また外国の近代兵器を購入して防衛力を強化しようとした。さらに漁民や水上生活者を海上の義勇兵に組織して、総力をあげて事にあたろうとした。40年両江総督に任じてまもなくアヘン戦争が始まったが、北進したイギリス軍を目前にして朝廷内で和平論が高まり、戦争挑発者として罷免された。41年新疆(しんきょう)省イリに流され、3年後代理陝甘(せんかん)総督、ついで陝西巡撫、雲貴総督として再登用された。この間、新疆の水利建設に努め、また西南少数民族の反乱鎮圧にあたった。50年広西の反乱鎮圧の欽差大臣として赴任途上病死した。アヘン商人による毒殺説もある。『林文忠公政書』『雲左山房文鈔(しょう)』『雲左山房詩鈔』の著作がある。
[小島晋治]
アヘン戦争 アヘンせんそう
阿片戦争・鴉片戦争とも。1839〜42年のイギリスと清国の戦争。イギリスは中国から茶を輸入していたが,それにみあう輸出品がなく,禁制品のアヘンをインドから輸出した。その量は19世紀に急激に増大し,中国からは大量の銀が流出した。清朝のアヘン厳禁論の高まりにより登用された林則徐(りんそくじょ)は,39年広州で外国商人から在庫アヘンを没収,焼却。これに対しイギリスは武力に訴え,40〜42年に沿岸の要地を攻撃して清軍を破った。42年8月南京(ナンキン)条約締結で終結。この経緯は当時の日本でも注目され,幕府の海防政策や幕末期の有識者に大きな影響を与えた。
海国図志 かいこくずし
清末の学者魏源 (ぎげん) による地理書
1842年刊。林則徐の依頼により編纂に着手した。これは単なる地理書ではなく,各国の政治や兵器の構造なども図解している。彼の示した改革の方策は,洋務運動によって実現された。また当時の日本でも志士たちによって読まれた。
その起源においてこれほど正義に反し、この国を恒久的な不名誉の下に置き続けることになる戦争をわたくしは知らないし、これまで聞いたこともないと、明言できる。反対意見の議員は、昨夜広東で栄光のうちに翻るイギリス国旗とその国旗が地球上のどこにおいても侮辱されることはないと知ることで鼓舞されるわれらが兵士たちの精神について雄弁に話された。幾多の危機的状況のなかでイギリス国旗が戦場に掲げられているときイギリス臣民の精神が鼓舞されてきたことをわれわれは誰でも知っている。だが、そもそもイギリス国旗がイギリス人の精神をいつも高めることになるのはどうしてであろうか。それはイギリス国旗が常に正義の大義、圧制への反対、国民の諸権利の尊重、名誉ある通商の事業に結びついていたからこそであった。ところが今やその国旗は高貴な閣下の庇護の下で、悪名高い密貿易を保護するために掲げられているのである。しかし、対清派兵に関する予算案は賛成271票、反対262票、わずか9票の僅差で承認された。この議決を受け、イギリス海軍は、イギリス東洋艦隊を編成し、清に派遣した。
わたくしは、女王陛下の政府が本動議に関して本院にこの正義に反した、邪悪な戦争を教唆するよう説得することなど決してないと確信する。わたくしはアヘン貿易をどれだけ激しく弾劾しようと何の躊躇も感じない。同様な憤激をもってアヘン戦争を弾劾するのに何の躊躇も感じることはない。
参考 https://note.com/maiktsu/n/ndc28d819d563
■欧米の本を翻訳 情報集めた林則徐引用終了
それでも、何とかしようと考えた人はいた。とりわけ林則徐は、必死に欧米の情報を集めたようだ。世界地理や歴史の本を訳させ、失脚後は親友の魏源(ウェイ・ユワン)にあずけた。
それをもとに魏源は『海国図志』という本を書いた。初版はアヘン戦争が終わった直後にでき、1852年には100巻もの大著になった。各国の情勢のほか、西洋の船や大砲などを図つきで解説し、「西洋の長所を学んで、西洋の侵略を制する」という戦略を論じたものだ。
王教授は日本に研究に行ったとき、『海国図志』を訳した本の種類の多さに驚いたという。「黒船」でやってきたアメリカのペリーが日本に開国を求めたのは、1853年のこと。その翌年からの3年間だけでも21種類にのぼっていた。アメリカに関する部分に絞ったものが8種類もあった。
■オランダから清の苦戦知った日本
林則徐の遺産は本国では実らず、日本で花開いていたのだ。佐久間象山(さくま・しょうざん)、吉田松陰(よしだ・しょういん)、西郷隆盛(さいごう・たかもり)……。幕末から明治維新までの動きに影響を与えた人たちはほとんど、『海国図志』の熱心な読者だった。
「知の情報ルート」。北海道大の井上勝生(いのうえ・かつお)教授は、そう呼ぶ。「中国は実にりっぱな本をつくる。その翻訳のおかげで、日本はアヘン戦争後の世界を知り、のちの明治維新政府も『万国公法』(国際法)などを読んで外交に役立てた」というのだ。