し‐こうてい ‥クヮウテイ【始皇帝】
[1] 中国、秦の皇帝(在位前二四七‐前二一〇)。荘襄王の子。姓は嬴(えい)。名は政。韓・趙・魏・楚・燕・斉の六国を滅ぼし天下を統合し始皇帝と自称。郡県制による中央集権の政治をとり、焚書坑儒(ふんしょこうじゅ)による思想統制や、車両の幅、度量衡、貨幣の統一、文字の簡略化、万里長城の増築、阿房宮など荘厳な宮殿の築造などを行ない、また一方で全国に遊んで自賛の刻石を建て、不老長寿の薬を求めたりしたが、性急苛酷な専制政治のため、その死後数年で秦が滅びる原因を作ることとなった。(前二五九‐前二一〇)
[2] <名> ((一)が松の下で雨を避け、その松に大夫の位を授けた故事から) 「松」をしゃれていった語。
どうぶん‐どうき【同文同軌】
《「礼記」中庸から》同じ文字を使用し、車輪の幅が同じ車を用いること。天下に秩序が保たれているたとえ。
焚書坑儒(ふんしょこうじゅ)
秦の始皇帝が丞相(じょうしょう)李斯(りし)の建言により,前213年医薬,卜筮(ぼくぜい),農事などの実用書を除くすべての書物を焼き,ついで翌年,儒生を捕え,その460余人を咸陽(かんよう)で穴埋めにした事件。法家主義に徹し,思想統制を目的としたこの事件は,後世の儒教の立場で粉飾誇張されているらしいが,これによって先秦の古書の多くが亡失したとされる。
りゅう‐ほう リウハウ【劉邦】
中国漢の創始者で初代皇帝(在位前二〇二‐前一九五)。廟号は高祖。沛の出身。秦末に挙兵して項羽とともに秦を滅ぼし、さらに項羽を打倒して天下の統一に成功、即位して国を漢と号し、長安を都とした。秦の政治制度の多くを継承しつつ、それらを独自に発展させて、漢の基礎を築いた。(前二四七または前二五六‐前一九五)
ぜん‐かん【前漢】
中国古代の王朝。秦(しん)の滅亡後、前202年、楚の項羽を破った漢王劉邦(りゅうほう)(高祖)が建国。都は長安。中央集権体制が確立された武帝のときに全盛期を迎えた。8年、王莽(おうもう)によって倒された。西漢。
『蒙求』103・104 丁公遽戮、雍歯先侯(ていこうきょりく・ようしせんこう) 劉邦の論功行賞についての故事成語。 丁公は、楚の項羽の部下であった。楚漢戦争のとき、丁公は劉邦を追いつめた。劉邦が命乞いを懇願すると、丁公は劉邦を見逃した。のちに劉邦が天下を取ると、丁公を「主君を裏切った不忠の臣である」と非難して処刑し、天下の見せしめとした。 劉邦は、参謀であった張良の献策をいれ、殺したいほど憎んでいた雍歯という人物を取り立てて領地を与えた。天下の人々は「あの雍歯さえ殺されなかったのだから、自分もきっと安泰だ」と安心した。 |
※関隴集団・・・函谷関(かんこくかん)の西側の地域「関中」すなわち現在の陝西省と、現在の甘粛省の東南部の「隴西」(ろうせい)を地盤とする集団。 ※武川鎮・・・北魏の北方の辺境地帯に置かれた六つの「鎮」の一つ。 |
そくてん‐ぶこう【則天武后】
[624〜705]中国、唐の高宗の皇后。中国史上唯一の女帝。在位690〜705。姓は武。名は曌(しょう 曌は「明」の下に「空」と書く一文字)。高宗の没後、子の中宗、弟の睿宗(えいそう)を廃立。唐の皇族・功臣らを滅ぼし、同族を重用、自ら帝位に就き、国号を周とした。クーデターで中宗が復位し、唐が再興したのち、病死。
武周 ぶしゅう
690-705
則天武后 (そくてんぶこう) が建てた王朝
国号を周と改め,科挙合格者(進士)を登用する政治の改革,仏教の保護などを行った。武后の晩年,中宗が復位して一代で終わった。これを武周革命ともいう。
以下、NHK「妻の私が支えねば〜天平のスーパーウーマン・光明皇后〜」https://www.nhk.or.jp/historia/backnumber/69.html より引用。引用開始。★聖武天皇と光明皇后の娘である孝謙天皇(在位749-758。重祚して称徳天皇:764-770)も、武則天を手本としたとされる。
聖武天皇は病状が悪化し譲位。阿倍内親王が孝謙天皇として即位しますが、貴族の反発が強く経験も少ない彼女では国政がさらに混乱することは明らかでした。この事態に光明皇后は自ら政治の前面に立ち、中国の女帝・則天武后にならった改革を始めますが・・・。
武器それ自身は恐れるに足りない。恐れるのは武人の技倆である。正義それ自身も恐れるに足りない。恐れるのは煽動家の雄弁である。武后は人天を顧みず、冷然と正義を蹂躙した。しかし李敬業の乱に当り、駱賓王(らくひんのう)の檄を読んだ時には色を失うことを免れなかった。「一抔土未乾 六尺孤安在」の双句は天成のデマゴオクを待たない限り、発し得ない名言だったからである。 |
玄宗 げんそう [685〜762]中国、唐の第6代皇帝。在位712〜756。姓は李、名は隆基。諡号(しごう)は明皇帝。「開元の治」とよばれる太平の世を築いたが、晩年は楊貴妃(ようきひ)に溺れて安史の乱を招いた。
玄宗 げんそう (685―762)
中国、唐朝第6代皇帝(在位712〜756)。本名は李(り)隆基。明皇(めいこう)とも称せられる。第2代太宗の死後、皇后、外戚(がいせき)、皇親、寵臣(ちょうしん)など皇帝側近の権勢と政争のため、政情不安定の時代が続いた。 則天武后の周朝から唐朝が復活したのちも、中宗の皇后韋(い)氏一派が政権を握り、ついに帝を毒殺した。帝の甥(おい)にあたる臨淄(りんし)王隆基は音楽や書の妙手で、風采(ふうさい)の優れた貴公子であったが、 710年クーデターを敢行して韋氏一派を倒し、父の旦(たん)を即位させた(睿宗(えいそう))。同時に彼も皇太子となり、やがて父帝の譲りを受けて帝位についた。 翌年おばの太平公主の勢力を武力で一掃して、 ここに皇帝を唯一最高の権力と仰ぐ統一政治を回復した。713年に始まる開元(かいげん)時代(〜742)は、太宗の貞観の治(じょうがんのち)を手本とし、後世 開元の治と称せられる。 玄宗は、貞観時代の房玄齢(ぼうげんれい)・杜如晦(とじょかい)に比せられる名宰相姚崇(ようすう)・宋m(そうえい)を信任して政治に励み、奢侈(しゃし)を禁じ、 儒学を重んじ、密奏制度をやめ、 冗官(じょうかん)や偽濫僧(ぎらんそう)(国家非公認の僧)を整理するなど、前代の悪弊を除き、公正な政治の再建に努めた。玄宗が自ら『孝経』に注を施したことは有名である。 対外的にも、突厥(とっけつ)を圧服し、契丹(きったん)・奚(けい)両民族を帰順させるなど北辺の平和維持に成功、 経済・文化の発展と相まって輝かしい平和と繁栄の時代が現出した。
しかしその頂点は、時代の転換への道でもあった。開元後半期から次の天宝期(742〜756)にかけて、律令政治は法的に整備される一方、 官制・財政・兵制などあらゆる面で空洞化した。 玄宗自身の政治姿勢も崩れ、李林甫(りりんぽ)などの寵臣を宰相としてこれに政治をゆだね、高力士らの宦官(かんがん)を重用した。精神面でも、儒教的理念から離れて道教の放逸な世界に傾倒し、 公私の莫大(ばくだい)な費用の捻出(ねんしゅつ)のために民衆の収奪を事とする財務官僚を信任した。皇后王氏から武恵妃に心を移し、武氏の死後は息子の寿王から妃楊太真(ようたいしん)を奪って貴妃とした。 白楽天の「長恨歌(ちょうごんか)」が歌うように、楊貴妃との愛欲の世界の陰には帝国の危機が進行していた。 玄宗は貴妃の一族と称する楊国忠と、東北辺に胡漢(こかん)の傭兵(ようへい)の大軍団を擁する安禄山(あんろくざん)とを、いずれも信任した。 内外二つの権勢はついに激突して安史の大乱となり、 756年玄宗は長安を脱出、四川(しせん)に落ち延びた。その途中で楊貴妃を失い、皇太子(粛宗)に譲位して上皇となった。翌年、長安が奪回されて帰還したが、 粛宗の腹心李輔国(ほこく)のため高力士ら側近を引き離され、太極宮に閉じ込められ失意のうちに没した。 [谷川道雄]
『礪波護著「唐中期の政治と社会」(『岩波講座 世界歴史5 古代5』所収・1970・岩波書店)』
明は、中国史上、最後の漢民族系王朝です。明は、鄭和の遠征など強大な国力を誇示する一方、内政面では恐怖政治や腐敗などもありました。14世紀、貧農から身を起こした朱元璋は、明王朝の初代皇帝・洪武帝となったあと、晩年の毛沢東と同様、粛清を繰り返しました。洪武帝の波乱に満ちた生涯を現代中国と比較しながら、わかりやすく解説します。
しゅ‐げんしょう ‥ゲンシャウ【朱元璋】
中国、明朝初代皇帝(在位一三六八‐九八)。字(あざな)は国瑞。廟号は太祖。諡(おくりな)は高皇帝。在位年号により洪武帝(こうぶてい)ともいう。濠州(安徽省鳳陽県)の貧農出身。紅巾軍の部将となり、群雄を降して長江一帯を平定、一三六八年応天(南京)で即位。里甲制を施行し六諭(りくゆ)を定め、中国史上最強の独裁体制を確立した。(一三二八‐九八)
明 みん
漢民族が建てた中国統一王朝(1368〜1644)。紅巾(こうきん)軍の一部将だった貧農出身の朱元璋(しゅげんしょう)が元を倒して建国,太祖洪武帝となる。皇帝権の強化をはかり,中書省を廃止して宰相をやめ,六部を皇帝直属とした。靖難の変により建文帝にかわって帝位についた成祖永楽帝は,南京から北京に遷都し,モンゴル高原の旧元勢力への親征,ベトナム遠征,鄭和(ていわ)の大艦隊による南海経略などを行った。中期以降,北辺ではオイラート部・タタール部など外敵が侵入し,江南では倭寇(わこう)の活動が激しくなるなど北虜南倭(ほくりょなんわ)の対策に苦しんだ。また中央では宦官(かんがん)が権力をふるい党争が続き,東北地方では女真族との交戦で財政が破綻した。各地で反乱もおこり,1644年李自成(りじせい)に北京を攻略されて滅亡した。
六諭 りくゆ
明の洪武帝が民衆教化のためにつくった教訓
父母への孝順,長上への尊敬,郷里との和睦,子孫への教訓,おのおのその分に安んずること,不正をしないことの6か条からなる。里ごとに木鐸 (ぼくたく) 1個を備えさせ,里老人に毎月6回これを唱えさせながら巡回させた。清でも康熙 (こうき) 帝はこれにならって聖諭をつくった。
以下、『日本大百科全書(ニッポニカ)』の「朱元璋」の項目より引用。
・・・中国史上で最強の独裁体制を確立した。 貧苦のなかで成長した洪武帝は民衆の統治によく配慮し、 六諭(りくゆ)を定め、 教民榜文(きょうみんぼうぶん)を頒布して、人民の守るべき分(ぶん)を教え、 皇帝に忠実に服従すべきことを説いた。 御製大誥(たいこう)によって、分に背いた場合、どのような悲惨な処分を受けるかについても説いた。 それにもかかわらず、先の胡惟庸の獄についで、93年には藍玉(らんぎょく)の獄が起こり、 多くの功臣、宿将を一掃しなければならなかった。 洪武帝は晩年、猜疑心(さいぎしん)が強くなり、皇太子標(ひょう)を失い、精神的に不安のうちに病没した。 |
朱元璋 小さな組織が大きな挑戦を可能にする
1368年 明王朝の中国統一
朱元璋はなぜ、24人の幹部だけで南方地域を目指したのか?(中略)
朱元璋に関する翻訳著作のある堺屋太一氏は、彼を「信長・秀吉・家康を併せ持つ人物」と評価しています。貧農から波乱万丈の生涯によって天下を統一したからです。
「明の太宗は、一人で聖賢と豪傑と盗賊の性格を兼ね備えていた」(堺屋太一『超巨人・明の太祖朱元璋』より)
NHK『テレビで中国語』テキスト 連載「標語でたどる なるほど! “中国の歴史”」2019年1月号用の原稿より自己引用
高筑墙,广积粮,缓称王 Gāo zhù qiáng, guǎng jī liáng, huǎn chēng wáng 【訳】高く壁を築き、広く食料を集め、ゆっくり王だと名乗る。 【意味】漢文訓読で読み下すと「高く牆(しょう)を築き、広く糧(りょう)を積み、緩(ゆる)ゆる王を称(しょう)せよ」。14世紀、元の時代の末、天下は乱れ、群雄割拠の状態になった。群雄の一人・朱元璋(しゅげんしょう)(後の明(みん)の初代皇帝)は、民間の有識者・朱(しゅ)升(しょう)に、天下を取るための戦略方針をたずねた。朱升はこの「九字の計」を献策した。 【解説】正月である。「今年の我が家の目標」などで盛り上がるご家庭や、仕事始めに「我が社の今年の経営方針」を発表する会社も多かろう。今回は方針策定に関する標語を取り上げる。 朱元璋は1328年、安徽省鳳陽県の貧農の末っ子として生まれた。数え17歳のとき、両親や兄たちは凶作のため衰弱死して全滅。身寄りを失った朱元璋は托鉢僧となり、ホームレス同然の漂泊生活を送った。彼はもともと美男子とは言えなかったが、栄養不足と苦労のせいで、ますますひどい顔になった。 元王朝は悪政により統治能力が低下し、「紅巾の乱」が起きた。24歳の朱元璋は、自分で運命を占い、反乱軍の一派に身を投じることにした。頭目は、郭子(かくし)興(こう)という任侠(にんきょう)肌の親分だった。郭子興は朱元璋の顔を見て「てめえみたいな面構えは見たことがねえ」と興味をもち、身近に置いて重用し、自分の養女(後の馬皇后)をめあわせた。人間、何が幸いするかわからぬものである。 平和と乱世では価値観が逆転する。貧農出身の朱元璋は、貧農出身者が多い反乱軍のあいだで人気を得て、めきめき頭角を現した。朱元璋は「呉国公」を名乗り、郭子興が死去した後はその勢力を受け継ぎ、江南地方を拠点に天下をねらう群雄の一人となった。 元末、混乱を避けて引退した役人も多かった。学識者の朱升もそんな一人だった。朱元璋は朱升を呼び出し、時局についての見解と今後について意見を聞いた。 「元王朝は滅亡寸前だ。天下は乱れ、群雄が割拠している。私は江南の要衝を押さえている。今後はどのような方針で戦えばよいか」 朱升は、韻を踏んだ九文字の言葉で答えた。 「高く牆を築き、広く糧を積み、緩ゆる王を称せよ。――江南は農工商業が発達した豊かな土地です。今は下手に動かず、拠点に高い城壁を築き、防備を固めてください。広い地域から糧秣を集めて高く積み上げ、きたるべき戦いに備えてください。当面はいままでどおり、呉国公と名乗り続けてください。あせりは禁物です。天下の情況の推移を見守りつつ、時がきたら、力による覇道ではなく、徳による王道を行う王者だと名乗ってください」 朱元璋は喜んだ。九字の計を実践して力を蓄えた朱元璋は、1364年からは「呉王」を名乗り、ライバルたちと戦って勝った。 1368年の正月、朱元璋は応天府(現在の南京)で皇帝に即位し、元号を洪武、国号を大明と定めた。明王朝の初代皇帝・太祖の誕生である。中国史上、南方から興って天下を統一した王朝は、明が初めてである。朱元璋は、皇帝の在位中は元号を変えないという「一世一元制」を開始したので、元号から「洪武帝」とも呼ばれる。 九字の計を献策した朱升は重用され、明王朝の礼制を定めるなど有識者として国政に参与した。洪武帝はその後、陰惨な粛清を始めるが、それはまた別の物語である。 簡にして要領を得た“高筑墙,广积粮,缓称王”は、施政方針の標語のお手本となった。 時は流れ、1973年1月1日の元旦。「文化大革命」に揺れていた中国の新聞や雑誌は、一斉に毛沢東の “深挖洞,广积粮,不称霸” Shēn wā dòng,guǎng jī liáng, bù chēng bà という指示を掲載した。「深く穴を掘り、広く食糧を積み上げ、覇をとなえず」。当時は東西冷戦と中ソ対立の時代で、核戦争の危機もあった。毛沢東は、国防のために、防空壕や地下空間をたくさん作り、食糧を自給して蓄積する一方、中国のほうから他国に攻撃や圧迫を加えない、という方針を述べた。朱升の「九字の計」をまねたものだが、韻は踏んでいない。 |
絶海中津が詠んだ七言絶句 熊野峰前徐福祠 満山薬草雨余肥 只今海上波涛穏 萬里好風須早帰 熊野峰前 徐福の祠 満山の薬草 雨余に肥ゆ 只今 海上 波濤 穏やかなり 万里の好風 須らく早く帰るべし ※和歌山県新宮市に伝わる徐福伝説をふまえる。 洪武帝が次韻した七言絶句 熊野峰高血食祠 松根琥珀也応肥 当年徐福求仙薬 直到如今更不帰 熊野 峰は高し 血食の祠 松根の琥珀も 也た応に肥ゆべし 当年の徐福 仙薬を求め 直ちに如今に到って更に帰らず |
清 しん
女真族が建てた中国最後の王朝(1616〜1912)。清太祖ヌルハチが東北地方の女真族を統一,1616年ハン位について後金国を建て,遼東に進出し瀋陽を都とした。第2代太宗ホンタイジは内モンゴル(内蒙古(ないもうこ))を征服して,36年皇帝位につき国号を清と改めた。44年第3代世祖順治帝が北京に攻め入り,首都と定め中国支配を宣言。康熙(こうき)・雍正(ようせい)・乾隆(けんりゅう)の3代130余年間は最盛期で,乾隆帝の時代には中国東北地方・中国本土・台湾を直轄地,モンゴル・新疆(しんきょう)・青海(せいかい)・チベットを藩部,朝鮮・ベトナム・ビルマ・タイなどを朝貢国とした。1840年のアヘン戦争を機に諸外国の圧力により門戸を開いた。1911年辛亥(しんがい)革命がおこり,翌年宣統帝溥儀(ふぎ)は退位し滅亡。(引用終了)
愛新覚羅 アイシンギョロ
清朝帝室の姓
満州語でアイシン(Aisin)は金を,ギョロ(Gioro)は由緒ある旧家の意味。16世紀末,ヌルハチが当時の国号金と合わせて,その出自の古さを誇示するため創始したといわれる。国号を清と改称した後も帝室姓として使用された。(引用終了)
せんとう‐てい【宣統帝】
[1906−1967]中国、清朝最後(第12代)の皇帝。在位1908−1912。名は溥儀(ふぎ)。 辛亥(しんがい)革命で退位。満州事変後の1934年、日本に擁立されて満州国皇帝となり、康徳帝と称した。 第二次大戦後ソビエトに抑留され、東京裁判に証人として出廷。のち、中華人民共和国に保護された。(引用終了)
せんとう‐てい【宣統帝】
中国、清朝最後(第一二代)の皇帝(在位一九〇八‐一二)。姓は愛新覚羅。名は溥儀(ふぎ)。光緒帝の弟載澧の子。三歳で即位、辛亥革命により退位。一九三二年日本軍部に擁立されて満州国執政となり、康徳帝(在位一九三四‐四五)となる。第二次世界大戦後、戦犯として収監されたが、のち釈放。(一九〇六‐六七)。(引用終了)
溥儀に対して日本の皇室は「日本皇室としては何の安全保障も約束できないが、それでもよければ御来朝を待つ」と連絡した。 溥儀がいた通化(満洲国通化省通化市。1946年2月3日の「通化事件」でも有名)の空港は小さすぎて、日本まで直接に飛べる大型飛行機は着陸できなかった。そこで溥儀ら一行は、まず小型で航続力が短い「フォッカー・スーパーユニバーサル」2機に分乗し、朝鮮半島の平壌か、満洲国の奉天に出て、そこで大型機に乗り換え、日本の羽田まで飛ぶことにした。乗り換えの場所について、溥儀の側近たちは、奉天は危険なので平壌まで飛びたいと主張した。しかし、8月7日に関東軍の政策主任参謀・第4課長になったばかりの宮本悦雄大佐(陸士38期)は、奉天での乗り換えを強硬に主張した。宮本が自説を押し通した結果、タッチの差で、溥儀は奉天の空港でソ連軍に捕まってしまった。 参考文献 池田純久・著『陸軍葬儀委員長』昭和28年刊 |
初稿では、溥儀は極東国際軍事裁判で保身のため偽証したことを謝罪し、日本軍と満洲国との連絡役を務めた関東軍将校の吉岡安直に罪を擦り付けたと反省したが、出版にあたっては削除された。これらの部分は2007年版では復活している。 |
愛新覚羅浩『流転の王妃の昭和史』新潮文庫より引用。引用開始。
私【愛新覚羅浩。溥傑の妻。日本人】にとって、その頃できうる唯一のことは、お見舞いに行って差さしあげることだけでした。 「何か召し上がりたいものはございませんか?」 とお尋ねすると、 「日本のチキン・ラーメンが食べたい」 という意外なご返事でした。常々、中国料理が世界一だと胸を張られ、幼い頃より最高級の宮廷料理を口にして育ってこられた大兄【溥儀のこと】ではありましたが、病気のせいであっさりとしたものしか受け付けられなくなってしまったのでしょうか。 私が北京に住むようになってからも、日本から船で日本の食品を送ってもらっていました。そのなかにあった即席麺を、大兄が珍しそうに召し上がったことがあったのです。(引用終了) 日清のチキンラーメンは1958年から発売。 |