中国では、今からおよそ五千年前に原始的な都市が発生して以来、都市を中心に政治、経済、文化が発達してきました。中国四大古都(西安・北京・南京・洛陽)のうち、北京は紀元前11世紀以来の歴史をもち、漢民族と北方民族の生活圏のはざまに位置する東ユーラシアの主都でした。南京は3世紀初めの「三国志」の呉の孫権以来の歴史をもち、5世紀の「倭の五王」以来、日本とも縁が深い古都です。中国の奥地にある成都は、5千年前の古蜀(しょく)文明や、三国志の劉備や諸葛孔明の「蜀漢」など、ユニークな歴史をもちます。この三つの古都の歴史と魅力を、豊富な図版を使い、予備知識のないかたにもわかりやすく解説します。(講師・記)
北京 ペキン Běijīng
中国河北省の中部にある同国の首都
古来,華北の要地で,春秋戦国時代には燕の都として薊 (けい) と呼ばれ,金によって中都が置かれた。のち,元のフビライも都に定めて大都と称し,モンゴル語でカンバリク(ハンの都)と呼ばれた。明代に北京と改称され,現在の城壁も築かれた。清朝もここを都とし,中華民国になって,1928年北伐の完成により,都が南京に移ると北平 (ペーピン) と呼ばれた。1949年中華人民共和国の成立とともに首都となる。
ペキン【北京】
中華人民共和国の首都。華北平原の北部にある。遼の副都南京、金の中都燕京、元の首都大都を経て、明・清時代に北京と呼ばれた。一九二八年中華民国の南京遷都により北平(ペーピン)と称し、四九年再び北京に改称。明・清の皇城の紫禁城を中心に内城、その南側に外城があり、碁盤目の街路で区切られている。ペイチン。
本棚の整理がなかなか進まない。昔、学生時代に愛読した本を、ついつい読んでしまう。鐘ケ江信光(1912年- 2012年)著『中国語のすすめ』講談社現代新書もその一つ。ことばの勉強は「暗記、根気、年期」の3つの「き」が大事、というくだりには、いまも納得。 pic.twitter.com/mW9WL0toko
— 加藤徹(KATO Toru) (@katotoru1963) March 23, 2021
朝日カルチャーセンター 新宿 @asakaruko 「北京 東ユーラシアの主都の歴史と魅力」3月20日(土)13時30分から。ネット配信(有料)併用。民族と権力が興亡を繰り返す「世界史上最強の事故物件都市」(芥川龍之介や横光利一の北京観を超訳)の蠱惑的吸引力をやさしく解説。https://t.co/TZTxWdWOcD
— 加藤徹(KATO Toru) (@katotoru1963) March 19, 2021
北京と東京、同一縮尺による比較![]() |
世界の大都市圏人口ランキング、2020。世界第1位は日本の首都圏の約3800万。・・・こんなに集中して、大丈夫かな??? ちなみに中国の首都圏は世界第12位。韓国の首都圏は世界第8位。欧米のいわゆる先進国の首都圏の人口はどこも意外と少ないのは、示唆的。https://t.co/6Re4UyvYfg pic.twitter.com/ep6JRtSNtY
— 加藤徹(KATO Toru) (@katotoru1963) March 19, 2021
芥川龍之介(1892−1927)「北京日記抄」より。「青空文庫」より引用。 今日も亦中野江漢君につれられ、午頃より雍和宮(ようわきゅう) 一見に出かける。喇嘛寺(らまでら)などに興味も何もなけれど、否、寧ろ喇嘛寺などは大嫌いなれど、 北京名物の一つと言えば、紀行を書かされる必要上、義理にも一見せざる可らず。(このあと、詐欺めいた挿話がある。中略) 天壇。地壇。先農壇。皆大いなる大理石の壇に雑草の萋々(せいせい)と茂れるのみ。 天壇の外の広場に出ずるに、忽(たちま)ち一発の銃声あり。何ぞと問えば、死刑なりと言う。 紫禁城。こは夢魔のみ。夜天よりも厖大なる夢魔のみ。 |
横光利一(1898-1947)「北京と巴里(覚書)」より。「青空文庫」引用 (前略)北京は消費の街だという。なるほどこの街では生産というものをかつてしたことのない人物が、 代々かかってどれほど人間が消費を出来るものかと、あらゆる智慧を絞って工夫に工夫をこらせた有様が歴然と現れている。 (中略)北京へ行くものは悪徳と戦うつもりで行かない限り、身につけた現世の健康なものはすべて無くなってしまうかもしれぬ。 ここには精神のある美よりも詐術の美を美とする精神がある。 もし疲労と孤独のために難なくこれに襲われたら、恐らく北京ほど美しく見える都会はないだろう。 死体に色づけ客間に置き放したまま嫣然と笑わせたようなこの都会の女性的な壮麗さは、 たしかにどこの国にも類例はあるまい。 (中略)数世代も続いた都を他民族に征服され、またそれが崩れると次の民族が交代するという肉体の死滅して来た累積層 の中には、残るものはこのように頓狂なものばかりかと思って私は茫然とした。かつて有ったに相違ない良いものは、 殆ど演劇だけを残して死んでしまっていて、尨大な駄作ばかりが本尊となりすまし、樹の海がひとり祭壇をめぐっている。 ここで一番人心に感動を与えているものは、今は小唄のような哀れな歌調をもった節廻しだけである。しかし、大衆というものは駄作ほど喜ぶ。駄作が傑作となって永久に残るというこの地の特種な機構は、何かこの北京に限り他国とは比較にならぬ犯罪の深さを物語ってやまぬものがある。 北京に遊ぶ知識人はよく前から、ここは全くパリに似ているというのを私は聞いた。あるフランス人は北京はパリ以上だとも言ったという。(以下略) |
殷 周・秦漢 −3世紀 | 六朝・隋唐 3世紀−10世紀 | 宋元・明清 10世紀−20世紀初頭 | 20世紀 | |
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A説 | 古代(上古) | 中世(中古) | 近世 | (最近世) |
B説 | 古代 | 中世 | 近代 |
中華人民共和国江蘇省の省都で、長江下流の南部に位置します。都市の歴史は約2400年前の戦国時代中期に始まり、呉や明など10の王朝の都が置かれた古都です。明の永楽帝が北京に都を移したため、「南の都」として南京と呼ばれるようになりました。長い歴史を持つ南京市は古代から現代までの様々な歴史遺産があり、中国国内では観光地として有名です。代表的なものには革命の父・孫文の陵墓である中山陵、明の建国者・朱元璋(洪武帝)の陵墓である明孝陵などがあります。
提携年月日 昭和53年12月21日
なんきん【南京】(「きん」は「京」の唐宋音) [1][一] 中国、江蘇省の省都。揚子江下流の曲流点の江浙デルタの頂点に位置する。水陸交通の中心地で、名産の南京繻子などのほか重化学工業も発達している。 戦国時代の楚の金陵にあたり、三国の呉および南朝諸王朝では都の建康の地にあたる。明の永楽帝の時北京に対して称した。近世、このあたりの地一帯、ひいては中国のことをもいった。引用終了。中国の都市名のうち、長安や洛陽はふつうの音読みなのに、北京・上海・南京・香港・青島など一部の都市名は唐宋音で読むことに注意。
※浮世草子・日本永代蔵(1688)五「こまかに心を付てみしに、是も南京(ナンキン)より渡せし菓子」
唐の時代の凋落した南京を詠んだ漢詩
烏衣巷 劉禹錫(772―842) 朱雀橋辺野草花。烏衣巷口夕陽斜。旧時王謝堂前燕、飛入尋常百姓家。 朱雀橋辺、野草の花。烏衣巷口、夕陽斜めなり。旧時の王謝、堂前の燕、飛びて入る、尋常百姓の家に。 朱雀橋のあたりの野草の花。 南京の烏衣巷の出入口に、傾く夕日がさしている。 その昔、六朝時代の名門貴族である王氏や謝氏の豪邸の前に巣をかけていたツバメが、 今は、ふつうの庶民の家の軒先に飛びこんでゆく。 金陵図 韋荘(836−910) 江雨霏霏江草斉。六朝如夢鳥空啼。無情最是台城柳、依旧煙籠十里堤。 江雨(こうう)霏霏(ひひ)として江草(こうそう)斉(ひと)し。六朝(りくちょう)夢の如く、鳥空しく啼(な)く。無情は最も是れ台城(だいじょう)の柳、 旧に依りて煙は籠(こ)む、十里の堤(つつみ)。 南京のあたり、長江では細かい雨がしずかに降り 川岸の草がびっしりと続く。 六朝時代の栄耀栄華は夢のように去った。今は鳥がむなしくさえずるばかり。 最も無情を感じさせるのは、いにしえの建康宮の跡地のヤナギだ。昔のまま、十里にわたる堤防が煙雨のなかにかすんでいる。 |
雑言古詩「蜀道難」 噫吁戲危乎高哉 噫吁戲(ああ)危ふきかな高きかな 蜀道之難難于上青天 蜀道の難きは青天に上るよりも難し 蚕叢及魚鳧 蚕叢(さんそう)及び魚鳧(ぎょふ) 開国何茫然 開国 何ぞ茫然たる 爾来四万八千歳 爾来四万八千歳 不与秦塞通人煙 秦塞と人煙を通ぜず (以下、略) |
成都市 友好都市 成都市(中華人民共和国四川省)
1984年(昭和59年)9月27日提携
成都市は、四川料理とパンダの生息地で有名な中国四川省の省都で、成都平原にあり、北京の南西約1,800キロメートルの位置にある。
気候は温暖で雨量も多く年間降水量は約1,000ミリ。土地は肥沃で産物も豊富にあるので昔から「天府の国」と称した。夏も酷暑という暑さではなく、冬は降雪凍結ともに少なく、年間平均気温は20℃前後。
成都市の歴史は悠久で、約1,800年前、蜀の王開明第9世がこの地を領した【加藤徹の注――「開明第9世」は開明尚を指すと思われるが、2千数百年前の人物である。】。漢代には生糸で作った錦織(蜀錦)が発達し、「錦城」と呼ばれていた。三国時代には、劉備玄徳がここに蜀漢を建国、諸葛孔明が活躍した。近年、中心部では急速に都市化が進んでおり、四川省の経済の中心となっている。
せいと【成都】
中国、四川省の省都。四川盆地西部に位置し、中国南西部の交通の要衝を占める。三国時代の蜀漢の都以来、しばしば独立政権の根拠地となった。蜀錦(しょくきん)と呼ばれる絹織物でも知られる。
参考記事 「三星堆遺跡で過去最大の神獣が出土 中国・四川省」2022年8/28(日) 11:12配信 https://news.yahoo.co.jp/articles/f8f99a730fb0f73251d7b5252c64522504cbda99 【8月28日 CGTN Japanese】中国南西部の四川省にある三星堆(さんせいたい)遺跡(紀元前1600〜紀元前1046年)の8号坑で、新たな青銅器「大型立人神獣」が出土しました。 この神獣は長さと高さがいずれも1メートルほどで、これまで三星堆から出土した動物型青銅器のうち最も大きいということです。犬をほうふつとさせる奇妙な姿をしていて、長い耳と大きな口を持っています。背中には一人の人間が真っすぐに立っていて、典型的な「三星堆の仮面」をつけているような姿となっています。 紹介によりますと、三星堆で1986年の1回目の発掘から現在までに出土した神獣は高さ20〜30センチの小柄のものがほとんどで、1メートルのサイズの神獣が出土するのは非常に珍しいということです。 |
蜀王には名前がついている。初代が蚕叢で、次は柏灌、その次は魚鳧だ。三代で約1500年ほどがたつ。このうち柏灌の名は、この風土に扶桑信仰に続いて柏樹信仰があったこと、それらが「建木神話」を担っていたことを物語る。 魚鳧という名は、この時代になって蜀や巴で鵜飼がさかんになっていただろうことを想定させる。だいたい中国で鵜飼が有名なのが四川なのである。宋の沈括の『夢渓筆談』にも、四川の水辺にいる者たちの多くが鵜飼をしていた、鵜は川辺の樹上に群棲するのでその糞尿で樹木が霜雪のように枯れる、それを蜀水華と言うのだと書いてある。 三星堆からも鵜を象った青銅製の鳥がかなり多く出土した。この金属技能はもともと巴人がもっていたもので、それを甘粛の斉家文化→寺窪文化というプロセスをへて戈人の漁労集団が獲得したものだったろう。 (中略) つまりは、こういうことらしい。古代巴蜀の建国伝説は太古においてすでに養蚕・柏樹信仰・鵜飼・太陽伝説・霊亀観念・聖石崇拝をもっていて、そこに稲作が入ってきた。これが黄河文明には見られない独特の長江文明の母型をつくりあげた。こういうことだが、そうだとすると、四川の長江はナイル・インダス以上の古代文明の母型だったということだ。 これらをさらに特色づけたのは三国時代以降の五斗米道が四川に流入したことだ。そこにはおそらく濃密なタオイズムが脈動した。初期道教だ。そもそも諸葛孔明が天下三分の計をなす前に四川の蜀に目をつけたのは劉焉だった。そこに張陵や張魯の五斗米道が広がりつつあった。曹操が漢中を破ったので、張魯は巴中に逃れていたのだ。 この初期道教を伴う思潮と習慣が長江を下って、呉巫や越巫のほうへ降りていったのだろう。蜀から来た李寛は呉に来ても蜀人の方言を使い、水に呪いをかけて病気を治した。古代巴蜀文化はこうして長江を下っていったのである。センセイ曰く、「蓋し巴蜀は百川を入れる大湖にして、百川を出だす大湖である」。 |
吉川英治の小説『三国志』赤壁の巻より引用。西暦208年の赤壁の戦いの直前、若き日の諸葛孔明が、劉備にむかって「天下三分の計」を披瀝する場面。
https://www.aozora.gr.jp/cards/001562/files/52415_51066.html
「――こうみてまいると、いまや天下は、曹操と孫権とに二分されて、南北いずれへも驥足(きそく)を伸ばすことができないように考えられますが……しかしです……唯ここにまだ両者の勢力のいずれにも属していない所があります。それがこの荊州(けいしゅう)です。また、益州(えきしゅう)です」 「おお」 「荊州の地たるや、まことに、武を養い、文を興すに足ります。(中略)――益州(四川省)はどうかといえば、要害堅固で、長江の深流、万山のふところには、沃野(よくや)広く、ここも将来を約されている地方ですが、国主劉璋(りゅうしょう)は、至って時代にくらく、性質もよくありません。妖教跋扈(ばっこ)し、人民は悪政にうめき、みな明君の出現を渇望しております。――さあ、ここです。この荊州に起り、益州を討ち、両州を跨有(こゆう)して、天下に臨まんか、初めて、曹操とも対立することができましょう。呉とも和戦両様の構えで外交することが可能です。――さらに、竿頭(かんとう)一歩、漢室の復興という希望も、はや、痴人(ちじん)の夢ではありません。その実現を期することができる……と、私は信じまする」 孔明は、細論して余すところなかった。かくその抱負を人に語ったのは、おそらく今日が初めてであろう。 |
七言絶句「上皇西巡南京歌」其四 李白 誰道君王行路難 誰か道ふ 君王 行路 難しと 六龍西幸万人歓 六龍(りくりょう)西幸して 万人 歓ぶ 地転錦江成渭水 地は転じ 錦江 渭水と成り 天迴玉塁作長安 天は廻り 玉塁 長安と作る shuí dào jūn wáng xíng lù nán liù(k) lóng xī xìng wàn rén huān dì zhuǎn jǐn jiāng chéng wèi shuǐ tiān huí yù(k) lěi zuò cháng ān |
五言絶句「絶句」其二 杜甫 江碧鳥逾白 江 碧にして 鳥 逾〻白く 山青花欲然 山 青くして 花 然えんと欲す 今春看又過 今春 看〻又過ぐ 何日是帰年 何れの日か 是れ帰年ならん jiāng bì(k) niǎo yú bó(k) shān qīng huā yù(k) rán jīn chūn kàn yòu guò hé rì(t) shì guī nián |
五言律詩「春夜喜雨」 好雨知時節 好雨 時節を知り 当春乃発生 春に当って 乃ち発生す 随風潜入夜 風に随って 潜かに夜に入り 潤物細無声 物を潤して 細やかにして 声 無し 野径雲倶黒 野径 雲と倶に黒く 江船火独明 江船 火 独り明らかなり 暁看紅湿処 暁に紅の湿れる処を看れば 花重錦官城 花は錦官城に重からん hǎo yǔ zhī shí jié(t) / dāng chūn nǎi fā(t) shēng suí fēng qián rù(p) yè / rùn wù(t) xì wú shēng yě jìng yún jū hēi(k) / jiāng chuán huǒ dú(k) míng xiǎo kān hóng shī(t) chù / huā zhòng jǐn guān chéng |
成都市は、三国志で有名な蜀の文化を現代に伝え、物産の豊かさから「天府の国」と呼ばれています。面積約14.3㎢(九州の約1/3)、人口は約1,600万人です。中国内陸部最大の都市で、大型ビルや商業施設が建ち並び、中央政府もハイテク産業基地、商業・貿易物流センターならびに総合交通拠点など、重要な都市に位置づけています。新しい市街地「天府新区」の建設など、古い三国志文化と新しい中国がほどよく溶け合った、日本人にとっても馴染みやすい近代都市です。 2019年の経済はGDP約1兆7,000億元と全国で第7位でした。また、近年は一帯一路発展戦略の重要拠点の一つ、物流・交通の要衝として中国とヨーロッパを繋ぐ窓口に変貌しようとしています。また2019年には安倍総理も成都を訪問するなど、日本の注目度も年々高まっています。 観光やグルメも沢山の魅力があります。パンダと麻婆豆腐は日本でも知らない人はいないでしょう。この他にも、三国志の諸葛孔明を奉った武侯祠、唐代の有名詩人が住んだ杜甫草堂など日本人にも馴染みのある観光スポットに加え、多くの世界遺産(九寨溝、峨眉山、楽山大仏、都江堰、青城山)があります。 激辛グルメが好きな方には、火鍋(ひなべ)や回鍋肉(ホイコーロー)、担々麺なども手軽に楽しんでいただけます。(もちろん辛くない四川料理もたくさんありますし、本格的な日本料理店だってあります。) |
6.中国の古代青銅器への適用
1991年から2000年にかけて東京国立文化財研究所で共同研究を行った中国社会科学院の金正耀(2006年より中国科学技術大学へ移る)は,中国古代の青銅資料を系統的に分析し,以下の諸点を見出した。
まず,夏王朝(B.C.2090年〜B、C.1600年)には,遼寧省や山東省から中原地域にかけての幅広い範囲から集められた青銅原料が使用されていたとみられる。
中国四川省の三星堆遺跡(B.C.2000年頃もしくは以前)や,商代(B.C.1600年〜B.C.1046年)遺跡の値氏商城・鄭州商城(商代早期),鄭州二里岡害蔵・湖北省盤龍城(商代中期),安陽股嘘・江西省新干大型墓(商代後期)から出土する青銅資料は,特異な鉛同位体比(金正耀はこれを「高放射性起源鉛」とよぶ)を示す(金:2001a)。ただしそれはほんの数百年間で検出されなくなり,周代の遺跡ではほとんど姿を消してしまう。
この結果について,金(2001b,2001c,2001d)は,四川省・貴州省・雲南省の境にある鉱床が原料の産地ではないかと推定している。
これに対し齋藤(2003)は,(以下、省略)
黄河流域を中心とした殷代青銅器とこの長江上流の四川三星堆青銅器とは、ほぼ同じ銅鉱石を使用していたことが判明している」「、現在では三星堆文化の範囲を龍山文化の初期に当るBC2500年前後から殷王朝末期のBC1000年前後の、略1500年間に措定している。その中で特に青銅器は、一般的に殷代中期頃と言われている。しかし、どうも殷代末期から西周時代まで下るように思われるし、形態が人面中心と言う特殊性は有っても、デザイン的青銅鋳造技術は何か河北(殷)よりも劣っている(特にキャストの複雑性に於いて、但し薄く作る技術はすばらしい)ように思われるのは、小生の偏見であろうか。