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古代中国史 宋・元・明
最新の更新2024年6月24日 最初の公開2024-04-20
※日本語の「古代」は千年以上前の大昔を指しますが、中国語の「古代」はアヘン戦争(1840年勃発)以前、つまり「近現代以前」を漠然と指します。(;^_^A
以下、https://www.asahiculture.com/asahiculture/asp-webapp/web/WWebKozaShosaiNyuryoku.do?kozaId=7127450 より引用。
数千年におよぶ中国史を豊富な図版を使いながら予備知識のない人にもわかりやすく解説します。
4/23 宋王朝――近代を先取りした国家
5/28 元王朝――中国を越えた世界帝国
6/25 明王朝――最後の漢民族的な王朝
第4火曜日 15:30〜17:00 Zoomウェビナーを使用した、教室でもオンラインでも受講できる自由選択講座です(講師は教室)。見逃し配信(1週間限定)はマイページにアップします。各自ご確認ください。お問合せはcb9info@asahiculture.comで承ります。
引用終了
宋王朝――近代を先取りした国家
YouTube https://www.youtube.com/playlist?list=PL6QLFvIY3e-npW1DC_HLhyC7dm6IrUVNl
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○ポイント、キーワード
激動の10世紀
日本と中国の歴史の分岐点となったのは10世紀。遣唐使は894年に廃止。
中国は唐が滅亡(907年)。東北アジアでは契丹(遼。916年-1125年)の台頭と渤海国の滅亡(926年)。朝鮮半島では高麗の建国(918年)と新羅の滅亡(935年)。日本は承平天慶の乱(935年から941年)。
中国史は「文」と「武」のトレンドが振り子のように揺れ動いた。後漢末の「三国志」の英雄たちの時代から、唐末・五代十国時代まで、つまり、184年の黄巾の乱から960年の北宋の建国まで、およそ8百年は「武」の時代だった。
中国は北宋(960年-1127年)の建国により儒教的な「文」に戻り、科挙官僚による文治国家のもとで文化が栄えたが、文弱な国となり「北族」(万里の長城の外側に居住する騎馬民族。モンゴル系や満洲系など)の圧迫を受けるようになった。
唐宋変革 とうそうへんかく
中国史は、唐までと、宋以降で大きく変化する、という歴史観。
科挙 かきょ
587年、隋の文帝(楊堅)は学科試験による官吏登用制度を始めたが、この制度は唐の時代から「科目による『選挙』」(現代日本語の選挙とは意味用法が違う)という意味で「科挙」と呼ばれるようになった。唐の時代の則天武后は科挙官僚を重用したが、彼女の孫である玄宗皇帝はパワーバランスによる政治を行い、外戚(楊貴妃の実家)や門閥貴族や宗族、節度使、宦官、外国出身者(阿倍仲麻呂もその一人)゛などに権力を分散したため、唐の時代の科挙官僚はまだひ弱だった。
宋は、皇帝独裁を進めるため、皇帝は科挙官僚中心の政権を作った。科挙の最終試験「殿試」は、皇帝みずからが試験官となることで科挙官僚と疑似的な師弟関係を結んだ。結果として、宋は、唐までの中国とは別の国になった。
士大夫 したいふ
天子と庶民のあいだの中間支配層。
今から3千年前の古代中国の社会は「天子、諸侯、大夫、士、庶民」の5階層だった(奴婢や「卿」などを分ける場合もある)。大夫と士をあわせて「士大夫」と呼んだ。2500年前の孔子の儒教は、士大夫の、士大夫による、士大夫のための学問教養大系だった。
唐の時代までは、名門の家柄の世襲制の士大夫と、科挙の試験によって合格した一代限りの新士大夫(多くは地主階層の家柄)の両方がいた。
唐末から五代十国にかけての社会動乱の結果、中国の貴族制や世襲制は壊滅した。
10世紀後半から20世紀初頭までは、科挙官僚を輩出する社会階層「士大夫」が、国家の屋台骨を支えた。
宋からは、科挙による官僚階級が「士大夫」「読書人」などと称せられた。その多くは地方の地主の家の出身者だった。士大夫は政治だけでなく、漢詩や音楽(琴学)、絵画など文化芸術でも中国の雅の文化を支えた。士大夫が描く「文人画」は、職業画家である「画工」の絵より芸術的に高く評価された。宋に始まる新士大夫時代は、20世紀初頭の清末まで続いた。
○辞書的な説明
『精選版 日本国語大辞典 』より引用。引用開始。
そう【宋】中国の国名。(中略)
[三] 中国の統一王朝(九六〇‐一二七九)。趙匡胤(太祖)が五代のあとをうけて建国。汴(べん)(開封)に都して、中央集権を徹底し文治主義の君主独裁制を樹立。対外的には、遼・西夏・金に対して守勢にたち、文運の隆盛、新文化の誕生にもかかわらず、軍事・財政危機に苦しみ、一一二七年金に圧迫され九代で江南に移転。それ以前を北宋、以後臨安(杭州)に都して蒙古に滅ぼされるまでを南宋と称する。趙宋。
○略年表
960年、宋(北宋)の建国。職業軍人から身を起こした趙匡胤は、北宋の初代皇帝・太祖(在位 960年-976年)として即位(cf.エリート主義の功罪 宋の太祖・趙匡胤 )。首都は開封(cf.中国の古都 )。
976年、太祖の弟が第二代皇帝・太宗として即位。即位の経緯については兄を密室殺人で暗殺した疑惑「千載不決の議」がある。日本から来た高僧と会見し、日本の天皇が万世一系で庶民も世襲制を満喫していることを知り、日本のほうが古代中国の理想のいにしえの道が残っている、と嘆息した。cf.「然(ちょうねん)の凡人だからこそ出来ること
997年、第3代皇帝・真宗が即位。科挙の制度は真宗の時代に完成した。
1004年、澶淵の盟(せんえんのめい)。北宋は、北族の帝国である遼(りょう。契丹、きったん)との間に和平の盟約を結び、国境の現状維持と、宋が兄で遼が弟という関係、宋から遼に対して年間絹20万匹・銀10万両を歳幣として送ることなどを決めた。cf.北方謙三(作家) 加藤 徹(広島大学助教授) 対談 楊家将 「三国志」にはない民族興亡の物語
西のタングート族の国(後の西夏)も宋と戦っていたが、こちらも1005年に宋から財貨を送ることで和睦した。
1022年、第4代の仁宗が即位。「慶暦の治」と呼ばれる経済や文化が栄えた時代だったが、対外的には遼と西夏に悩まされた。
井上康の小説『敦煌』(cf.中国の古代都市・敦煌 )の冒頭は、1026年、宋の首都・開封に主人公が科挙の最終試験を受けにやってくるところから始まる。
慶暦の治の時代には、士大夫である文人政治家が続々と登場した。范仲淹・司馬光・欧陽脩・蘇洵・曾鞏・周敦頤・梅堯臣らの漢詩や漢文の作品は、日本へも影響を与えた。
cf.昭和の作家、柴田錬三郎は、慶應義塾大学文学部中国文学科卒で、勤務のあと第二次世界大戦中に出征し、輸送船でバシー海峡を航行中に米軍の潜水艦に沈められ7時間も生死の狭間を漂った。柴田は体力が尽きそうになった時、空を仰いで宋の曾鞏(曽子固)の漢詩「虞美人草」を口ずさんで耐え、生還した。参考記事 https://news.yahoo.co.jp/articles/c1664d066c0caffde9557f792372969a32c74b12
1067年、第6代皇帝・神宗が即位。士大夫の王安石を重用し、彼の「変法」政策を採用したため、王安石ら新法党と司馬光・蘇軾ら旧法党の「党争」が始まる。
新法党官僚は主に江南地方出身の士大夫で、新法に反対する旧法党官僚は主に華北出身の士大夫だった。新法党は、科挙官僚の出身母体である「士商階層」の既得権益にも踏み込んだ改革を提唱した。
宋の「党争」は、近現代のように血なまぐさいものではなく、党争で敗北しても左遷で済み、生命財産や名誉は保証され、言論の自由も奪われない、という近代的なものだった。
旧法党の蘇軾は、詩人・書家・美食家として日本でも人気がある。cf.higashiajia-distance.html
1100年、第8代皇帝・徽宗が即位。古典小説『水滸伝』(すいこでん)の時代。cf.宋の徽宗 道楽をきわめた道君皇帝
1126年、靖康の変(せいこうのへん)により、北宋が滅亡。宋は、女真族(後の満洲族)の国「金」に敗れ国土の北半分を失い、首都の皇族らは根こそぎ北に連行された。
このとき北送された政治家の秦檜(cf.asahi20230112.html#03 )は、金からゆるされて帰国し、金との和議派に転向した。
1127年、徽宗の9男で強制連行をまぬかれた高宗が即位。宋の残存政権である南宋を建国。首都は臨安。
1141年、南宋の武将で抗戦派の岳飛が処刑された。cf.岳飛 中華愛国主義のシンボルとなった名将
1142年、南宋は金の間に「紹興の和議」を結び、政局が安定化する。
1161年、金では、暴君であった第4代皇帝「海陵王」が殺され、いとこで名君とされる世宗が即位した。南宋の金の両国で名君が並び立ち、平和が続いた。
1162年ごろ、南宋から遠く離れたモンゴル高原で、チンギス・カン(cf.asahi20221013.html#05 )が誕生。
1200年、儒教の「朱子学」の開祖である朱熹(朱子。1130年生)が死去。朱子学の後世への影響は絶大である。
1227年、チンギス・カンが死去。彼のモンゴル帝国は拡大を続けた。
1234年、金が、モンゴル軍と南宋軍の侵攻を受けて滅亡。
1235年、モンゴル・南宋戦争が勃発。
1260年、クビライ(チンギス・カンの四男トルイの子)がモンゴル帝国の皇帝として即位。cf.早すぎた世界帝国 元のクビライ
1271年、クビライは国号を「元」(大元ウルス)と改称。
1274年、日本史の文永の役。蒙古襲来。
1276年、モンゴル軍が、南宋の首都・臨安を占領。南宋は事実上、滅亡。
1279年、崖山の戦い(がいさんのたたかい)。中国版「壇ノ浦の戦い」。南宋は名実ともに滅亡。
○その他
「宋」はもともと地名で、中国史上、宋を名乗った政権名・王朝名は複数ある。
春秋時代の宋。周代・春秋戦国時代の諸侯国の一つ
六朝時代=南北朝時代の南朝の宋。劉裕がたてた王朝(420年 - 479年)。劉宋。
趙匡胤が立てた王朝(960年 - 1279年)。趙宋。
この他にも宋を名乗った複数の地方政権が存在する。
日本は、遣唐使の時代は中国の中央政府と国交を結んだが、宋以降は民間の私貿易が盛んになった。
「日宋貿易」の時代には、日本から中国へは木材、砂金、硫黄、刀、扇、螺鈿・蒔絵など細工物を輸出した。宋から日本へは、医薬品、書籍(特に仏典)、陶磁器、絹織物、香料、銅銭(宋銭)を輸入した。
宋の士大夫であった欧陽脩(1007-1072)は、輸入品の日本刀を見て「日本刀歌」という漢詩を詠んだ(豊富な資源は土と人間 青龍刀の中国と日本刀の日本 )。
995年(日本の長徳元年)9月上旬、宋人70余名が若狭に来航した。翌年、紫式部の父・藤原為時が、漢詩や漢文を書く才能を見込まれて越前守に任命され、娘である紫式部とともに越前に赴任し、宋人たちと漢詩の応酬を行った。紫式部じしんも宋人と会ったかどうかは、わかっていない。
cf.https://www.library-archives.pref.fukui.lg.jp/fukui/07/kenshi/T1/6a7-01-05-02-04.htm
元王朝――中国を越えた世界帝国
YouTube https://www.youtube.com/playlist?list=PL6QLFvIY3e-my8xi0Ij_r1MsgjAh9QOGP
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○ポイント、キーワード
漢民族目線とモンゴル目線
漢民族目線での「元王朝」は、1368年に滅亡した。その後の残存政権は「北元」は残存政権にすぎず、その北元も1388年に滅亡し、以降のモンゴルを「韃靼」「タタール」と呼ぶ。
モンゴル目線での「元王朝」は、1368年の「元の北走」以降も1634年まで続いた、と見なす。
征服王朝conquest dynasty
モンゴル系の遼(契丹)、女真系の金、モンゴル系の元、女真=満洲系の清の4王朝を指す。対概念は「浸透王朝」で、五胡十六国や北魏と北周、五代十国時代の後唐と後晋、後漢など。
世界帝国global empire / international empire
複数の文明圏にまたがる統一的支配領域を有する国家のこと。複数の民族を包含する「帝国」が、複数の文明圏にまたがるとは限らない。
アッシリア帝国、アケメネス朝ペルシア、アレクサンドロスの帝国、ローマ帝国、オスマン帝国、大英帝国など。中国史では秦、漢、隋、唐、元、清など。人によっては、世界帝国という語を紀元前千年紀までの帝国に限定して使用することもある。
ウルス
モンゴル語で国の意。漢民族の「国」(國)が、四角い城壁で囲まれた領域を指すのに対して、ウルスは「人間のかたまり」を意味した。
ハン khan
モンゴルの君主号。「カン」とも。チンギス・ハン(成吉思汗)ことテムジンは「ハン」と呼ばれたが、彼の息子であるオゴタイ以降は君主号として「ハーン」(カーン)を名乗った。モンゴル全体の「ハーン」「大ハーン」に対して、従来の「ハン」も諸王や首長の称号として使われた。
世界史の誕生
岡田英弘『世界史の誕生─モンゴルの発展と伝統』 (ちくま文庫、1999年)
駅伝制
モンゴル帝国での呼び方は「ジャムチ」。元の大都を中心として、ユーラシア大陸の東西南北を結んだ。約10里ごとに「駅」が設置され、付近の住民は、牌符をもつ通行者のために飲食や馬などを提供する義務を負った。
モンゴル帝国 1206年-1635年
テムジンがチンギス・カンを名乗った1206年に始まる大帝国。名目的には、1636年に後金/清の第2代皇帝・太宗ことホンタイジが大元皇帝の末裔から大ハーンを継承し、女真の民族名を満洲manjuに改めるまで存続した。
元 1271年-1368年
王朝名。中国史の枠をはみだす、東ユーラシアの王朝だった。自称は「大元」。「大元ウルス」とも。
それまでの歴代王朝の名前は、秦も漢も唐も建国者の封地の地名であったが、元からあとの統一王朝は立国理念を示す抽象名称を採用した。元という国号は儒教の経典『易経』「大哉乾元、万物資始」大なるかな乾元、万物、資りて始む(ダイなるかなケンゲン、バンブツ、トりてハジむ)から採った。
上都
元の夏の首都。クビライが、現在の中華人民共和国内モンゴル自治区に設けた。北京から北へ275km離れたところにある。として使われた。
大都
元の冬の都。現在の北京の前身で、クビライが1267年から26年の歳月をかけて築いた。
チンギス統原理 Chingisid principle
モンゴル系・テュルク系の遊牧民の社会に広まった血縁カリスマ思想。カアン(ハーン)の地位を継承できるのは、ボルジギン氏であるチンギス・カンの男系子孫であるアルタン・ウルク(黄金氏族)のみである、とする考え方。
日本の武家社会で、征夷大将軍は清和源氏に限るという思想があったとされる(これは俗説で史実ではない)のと似ている。
○辞書的な説明
『デジタル大辞泉』より引用
げん【元】
中国の王朝の一。モンゴル帝国第5代の皇帝フビライが1271年に建国。首都は大都(北京)。のち南宋を滅ぼして中国を統一。高麗(こうらい)・安南・タイ・ビルマなどをも従えて、大帝国を築いたが、1368年、明の太祖朱元璋(しゅげんしょう)に滅ぼされた。
『山川 日本史小辞典 改訂新版』より引用
フビライ Hubilie 1215.8.28〜94.1.22
クビライとも。中国の元の初代皇帝(在位1260〜94)。モンゴル帝国5代ハン(汗)にあたる。漢字表記は忽必烈。廟号は世祖。チンギス・ハンの末子トゥルイの三男。4代ハンのモンケ(憲宗)の弟。モンケを助け中国の征服に従い,大理国(雲南)・チベットなどを征服。1259年モンケが没すると,翌年帝位につく。67年大都(現,北京)に遷都し,71年国号を大元とする。79年南宋を滅ぼし,中国の統一を完成。高麗を属国とし,日本や東南アジアを攻めて服属を要求。日本に対しては1268年(文永5)以降,再三使節を送り服属を要求するが拒絶され,74年の文永の役,81年(弘安4)の弘安の役で東征軍を派遣したが失敗。
○略年表
1259年、モンゴル帝国の第4代皇帝モンケ(チンギス・ハンの孫)が南宋遠征中に病死。
1260年、チンギス・ハンの孫であるクビライ(フビライ)が、モンゴル帝国の第5代皇帝に即位。
クビライは、チベット僧のパクパ(パスパ)をモンゴル帝国の国師とする。
「パスパ文字」等で有名。
1267年、クビライ・カアンが、大都(現在の北京市)の造営を開始。完成は26年後。
以前からの「都」であった開平府(現在の内モンゴル自治区シリンゴル盟正藍旗南部)は「上都」に格上げされ、夏の都(夏営地)となった。クビライは夏と冬にそれぞれ上都と大都に3カ月ずつ滞在し、毎年両都の間の約350キロメートルの距離を季節移動し、遊牧民族の風習を固持した。
クビライは中国統治にあたり、姚枢(ようすう)や劉秉忠(りゅう へいちゅう)ら漢人官僚を重用した。
1268年、クビライは本格的な南宋攻撃を開始。襄陽(じょうよう)の攻囲戦が始まる。
1271年、クビライは、モンゴル帝国の国号「イェケ・モンゴル・ウルス」を、「ダイオン・イェケ・モンゴル・ウルス」(大元)と改称。元王朝が成立。
クビライは中国皇帝としては「元の世祖」となる。
同年、ヴェネツィアのマルコ・ポーロ(『東方見聞録』)が中国への旅に出発(1296年にヴェネツィアに帰還)。
1274年、文永の役。
1276年、南宋の臨時首都・臨安(杭州)が無血開城。
1279年、南宋は崖山の戦いで滅亡。
北宋の滅亡以来、およそ百五十年ぶりに中国全土を統一。
1281年、弘安の役。
日本に敗れたあと、ベトナムに遠征したが失敗。
1293年、フビライの命名による「通恵河」の掘削が完成したことで、北京と杭州を結ぶ「京杭大運河」の新ルートが完成。北京城内の「積水潭」は内陸港として栄えた。
1294年、テムルが即位し、元の第二代皇帝「成宗」ことモンゴル帝国の第6代カアンとなる。
テムルは、クビライ即位時の内乱以来分裂状態にあったモンゴル帝国に45年ぶりの平和統合をもたらし、「モンゴルの平和」を実現した。
1299年、テムルは禅僧の一山一寧を日本に派遣したが、鎌倉幕府は黙殺。元朝による最後の日本派遣使節団となった。
1306年、元曲(元の雑劇)の作家である白仁甫(はく じんほ、1226-1306)が死去。
関漢卿・馬致遠・鄭光祖とともに元曲四大家とされるが、元曲の作家の多くは生没年不明。
1342年、日本からの「天竜寺船」が元に到着。鎌倉時代から室町時代にかけて元に渡った「寺社造営料唐船」の中で最も有名なもののひとつ。
1347年、ヨーロッパで「黒死病」の流行が始まり、ヨーロッパの人口の3分の1が死亡。この時のペスト菌は元末の中国から広まったとする説がある。
1348年、浙江の方国珍の反乱。
元王朝の財政を支えていた江南地方で、反乱が頻発するようになる。
1350年、『高麗史』によると「倭寇」の始まり(実際はこれより前から「前期倭寇」が存在した)。
1368年、南京で朱元璋が皇帝に即位。明王朝を創始。
トゴン・テムルは、大都を放棄して北のモンゴル高原へ逃亡。
1388年、トゴン・テムルの子孫が絶え、クビライ家の世襲政権としての大元は断絶した。が、名目的にはその後も17世紀まで存続した。
○その他
元王朝は短命だった。また歴代皇帝の在位期間も短かった。
初代のクビライは23年間、最後のテムルは35年間在位したが、この2人だけで元王朝の存続期間(1271-1368)である97年間の半分以上を占める。他の9代は短命だった。以下、 https://www.weblio.jp/wkpja/content/元+%28王朝%29_歴代皇帝 より引用
世祖クビライ(1271年 - 1294年)
成宗テムル(1294年 - 1307年) クビライの次男のチンキム(裕宗)の三男。
武宗カイシャン(1307年 - 1311年) チンキムの次男のダルマバラ(順宗)の子。テムルの甥。
仁宗アユルバルワダ(1311年 - 1320年) ダルマバラの次男。武宗カイシャンの弟。
英宗シデバラ(1320年 - 1323年) アユルバルワダの長男。
泰定帝イェスン・テムル(1323年 - 1328年) チンキムの子のカマラ(顕宗)の長男。
天順帝アリギバ(1328年) イェスン・テムルの長男。
文<-宗トク・テムル(1328年 - 1329年) カイシャンの次男。
明宗コシラ(1329年) カイシャンの長男。トク・テムルの兄。
文宗トク・テムル(復位、1329年 - 1332年)
寧宗リンチンバル(1332年) コシラの次男。
恵宗トゴン・テムル(1333年 - 1368年) コシラの長男。リンチンバルの兄。
元王朝は西域出身の「色目人」を重用した。また、イスラム圏の科学技術も採用した。
中国の焼酎「白酒」などの蒸留酒は、西方の蒸留酒の技術が導入された元の時代から始まるとされる。
クビライが高麗を服属させたあと、元王朝には高麗から「高麗貢女」が献上された。元の最後の皇帝であるトゴン・テムルの「奇皇后」は高麗貢女の出身で、北元の皇帝アユルシリダラ(モンゴル帝国第16代皇帝)を生んだ。
元王朝の皇帝の子孫は、沖縄県にいる可能性がある。
1388年、北元のウスハル・ハーン(天元帝トグス・テムル。世祖クビライ以来続いてきた元の皇統から出た最後のハーン)の息子である「地保奴」(ティポヌ?)が、明軍の捕虜となった。地保奴らは明の太祖(洪武帝。朱元璋)に大元ウルスの金印・金牌を献上した。洪武帝は、地保奴を、琉球に島流しにした。
「現在、沖縄に住む人のなかに、史上最大の帝国をつくったチンギス・カンの血をひく人がいるかもしれません。今となっては確かめようもありませんが…」(http://okinawa-rekishi.cocolog-nifty.com/tora/2005/05/post_4191.html)
明王朝――最後の漢民族的な王朝
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○ポイント、キーワード
中国史の近世
日本の近世は江戸時代(戦国時代も含める説がある)。皇居は江戸城。
中国の近世は明清時代(宋元時代も含める説がある)。北京の紫禁城(故宮)は明の永楽帝が改築。
明(1368年-1644年)は、初代皇帝の影響を後々まで引きずる。
皇帝独裁
明の初代皇帝・洪武帝は、皇帝独裁を完成させた。
中国の歴代王朝は「三省六部」制を採用し、臣下のトップである宰相(しばしば複数宰相制)が皇帝の政治を輔佐した。
明の初代皇帝・洪武帝は、宰相を廃止して六部を皇帝に直属させ、独裁政治を完成させた。
また一世一元制や、皇帝みずからが直接に人民を教え諭す詔勅「六諭」(りくゆ)も発した。
が、歴代の皇帝が全て光武帝のような超人的な独裁政治を行う能力をもっていたわけではなかったため、事実上、内閣大学士が事実上の宰相職のようになった。
明治政府の天皇制は、明の皇帝制をまねた部分も多い。
恐怖政治
明の政治は、血の粛清や、宦官による秘密警察「東廠・西廠」(とうしょうせいしょう)など、陰惨な印象をまぬかれない。
○辞書的な説明
『デジタル大辞泉』より引用
みん【明】
中国の王朝の一。1368年、朱元璋(しゅげんしょう)(太祖洪武帝 )が元を倒して建国。都は当初南京であったが、永楽帝 の1421年、北京に遷都。南海諸国を経略、その勢威は一時アフリカ東岸にまで及んだ。中期以降は宦官 (かんがん)の権力増大による内紛、北虜南倭 (ほくりょなんわ)に苦しみ、1644年、李自成に国都を占領され、滅亡。
『山川 世界史小辞典 改訂新版』より引用
明(みん) Ming 1368〜1644
モンゴル民族の元朝を漠北に退け,中国を統一した漢民族の王朝 。17代277年継続。始祖は朱元璋(しゅげんしょう)すなわち太祖洪武帝 。今の南京で即位。江南を拠地に中国統一に成功した最初の王朝 でもある。洪武帝は官制,律令,里甲制,衛所制,賦役制など,政治,軍事,財政を整えて皇帝独裁の支配体制を確立 し,王朝の基礎を築いた。ついで靖難(せいなん)の変後即位した3代永楽帝 は,漠北親征,鄭和(ていわ)の南海巡航など異例の壮挙をなし,都を北京に移し,北に長城を築くなど,勢威を外に示した。しかし明初の盛時も,その後は宦官(かんがん)の台頭などで内からゆらぎ,外はオイラト,タタル(韃靼(だったん))などの侵入,倭寇(わこう)の再燃など,いわゆる北虜南倭 (ほくりょなんわ)に苦しみ,農民反乱の続発もあって,特に16世紀以後衰えた。もとより万暦(ばんれき)帝 を助けた張居正 (ちょうきょせい)の善政なども一時的にはあったが,結局,宦官の専横 ,万暦三大征などによる財政困難,それに伴う反乱の続発を招き,1644年李自成 (りじせい)に首都を攻略されて滅びた。明代には農業生産力が回復し,江南を中心に綿業などの手工業も盛んとなり,商業も発達して都市には会館,公所なども設立された。またヨーロッパ人との交易が盛んになり,銀が一般に流通 するようになって,税制も一条鞭法(いちじょうべんぽう)に改められるなど,経済は大きく変化し始めた。経済の発展は社会的変化をも招来し,貧富の差など社会矛盾をはなはだしくし,階級闘争を激化させた。こうした事情から明末清初は転換期 として注目される。学問では朱子学が重視されたが,中期には社会の変化を反映した陽明学 が現れ対立した。また経世実用の学 が発達し,『農政全書』『天工開物』など多くの実用書がつくられた。庶民文化としては,小説 が盛んにつくられ,その他美術工芸も発達した。また『永楽大典』『四書大全』ほかの官撰の編纂事業も行われ,宣教師による西洋学術の紹介もみられた。
○略年表
1351年、元の時代の末期に、白蓮教徒が「紅巾の乱」を起こす。
1368年、紅巾軍の将領で貧農出身の朱元璋(太祖洪武帝 asahi20201008.html#05 )が南京で即位、明を建国。
1380年、胡惟庸の獄が発生し、洪武帝は中書省を廃止して六部を皇帝の直属として独裁体制をとる。
1402年、靖難の変。北京の燕王・朱棣(しゅてい)燕王(永楽帝 20210708.html#04 )は、首都南京を占領し、甥である建文帝の帝位を奪って即位した。
永楽帝は、南京攻略で宦官の内通を頼りにしたため、以後、宦官の政治介入の道を開いてしまった。
南京は副都とされ、北京が首都となることになった(北京の紫禁城の造営には長い時間がかかった)。
1404年、日本と明のあいだで「勘合貿易」が本格化。永楽帝は日本の足利義満を「日本国王」に冊封し、形式的には朝貢貿易であった。
1405年、宦官の鄭和(ていわ asahi20230713.html#05 )が第1次航海に出発。明の国威を海外で発揚。
1424年、永楽帝の息子と孫による「仁宣の治」(1424年-1435年)。明は明君は在位年数が短く、暗君は在位年数が長い、というジンクスが生まれた。
1449年、土木の変。英宗は側近の宦官・王振にすすめられオイラトに親征を行ったが、明軍は大敗して皇帝じしんが捕虜となった。北京では弟が即位(景泰帝)。
1457年、奪門の変。上皇となっていた英宗がクーデターを起こし、弟から帝位を奪還し、重祚(天順帝)。
これ以降、積極的に親征する皇帝はいなくなった。
1467年、画僧の雪舟が遣明船(けんみんせん)で中国へ渡航。
1472年、陽明学の開祖である王陽明が誕生。
1487年、明君である孝宗弘治帝が即位。
1505年、弘治帝が医療事故で死去。
長男が即位(武宗正徳帝)。正徳帝は劉瑾(りゅうきん asahi20220714.html#05 )ら宦官を重用したため、政治は乱れた。
1510年、劉瑾が失脚して極刑に処される。
1552年、マテオ・リッチがイタリアで誕生。後にイエズス会の宣教師として訪中し、1610年に北京で死去。
1572年、明の第14代皇帝・神宗万暦帝(asahi20220113.html#03 )が即位。
内閣大学士・張居正が改革を行う。
1592年、文禄・慶長の役が始まる。
1604年、下野した正義派官僚で朱子学の儒学者でもあった顧憲成(こけんせい 1550-1612)が、郷里の江蘇省無錫で東林書院を再興し、学問を講じた。「東林党」の始まり。
1616年、ヌルハチが後金国(清王朝の前身)を建国。
1617年、チベット統一の英主であるダライ・ラマ5世(asahi20240111.html#05 )が誕生。
1620年、万暦48年、万暦帝が死去。
万暦帝の息子で、朱由校の父親である朱常洛が即位した(泰昌帝)。が、泰昌帝は在位わずか一カ月で急死(紅丸の案。暗殺説あり)。
泰昌帝の長男である朱由校が即位(天啓帝)。天啓帝は政務を、宦官の魏忠賢(asahi20240111.html#04 )と乳母の客氏に丸投げした。
1624年、日本の平戸で鄭成功(asahi20220414.html#06 )が誕生。
1627年、第17代皇帝・崇禎帝(すうていてい)が即位。
1636年、後金あらため清が成立。
1644年、李自成の反乱軍が北京を占領。崇禎帝は自殺し、明王朝は滅亡。
○その他
明は、最後の漢民族的な王朝だった。京劇の衣装などの「漢服」のデザインは、清ではなく、明の時代が標準となっている。
明の皇帝は後宮の女性を容色を基準にして選んだため、後宮の女性が産んだ皇帝の賢愚のあたりはずれが大きかった。また俗に「宦官10万人」と呼ばれるほど、大量の宦官を雇用した。
明は最後の漢民族的王朝で、経済的には豊かだったため、テレビドラマや漫画でもビジュアル的に人気が高い。
滝口琳々(たきぐち りんりん)氏の漫画『新☆再生縁』は明の時代を物語の舞台としている。『新☆再生縁』の原作は、中国の古典小説『再生縁』で、物語の舞台は元の時代である。滝口氏が漫画家にあたり、物語の時代をあえて明に変えた一因は、元の時代のファッションは辮髪(べんぱつ)など非漢民族的だからである。
明は庶民文化が栄え、『三国志演義(三国演義)』『水滸伝』『西遊記』『金瓶梅』など小説が刊行され人気を博した。また明の笑話集『笑府』が江戸時代の落語のネタ本になるなど、明の文化が日本に与えた影響は計り知れない。
明は実学や産業が発達した結果、対外貿易で大量の日本銀やメキシコ銀(墨銀)が明に流入し、銀本位経済となった。明の税制も、地税と丁税を一括で銀納する「一条鞭法」となった。
明末清初、多くの明国人が日本に渡来した。なかでも、
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は有名。
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