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人物で知る中国〜呂后
最新の更新2024年4月8日 最初の公開2024年4月8日
以下、https://www.asahiculture.com/asahiculture/asp-webapp/web/WWebKozaShosaiNyuryoku.do?kozaId=7123669より引用。
人物で知る中国〜呂后 加藤 徹/明治大学教授
朝日カルチャーセンター千葉教室 2024年4月9日 教室+オンライン
中国史で初の皇帝は秦の始皇帝ですが、史上初の皇后は、前漢の初代皇帝・高祖劉邦の正妻であった呂后です。夫の死後、皇太后にくりあがった呂后は、女性が最高権力を手中にした史上初の例となりました。彼女はわが子・恵帝の地位を守るため、高祖劉邦が生前に寵愛した戚(せき)夫人のが生んだ皇子を毒殺し、さらに戚夫人の手足を切断して目をえぐり厠(かわや)に投げ込みヒトブタと呼ばせました。唐の武則天、清の西太后とともに「中国の三大悪女」と呼ばれる呂后は、なぜそこまで冷酷にならねばならなかったのか。彼女は本当に悪女だったのか。豊富な図版を使いながら、予備知識がないかたにもわかりやすく解説します。(講師・記)
引用終了
https://www.youtube.com/playlist?list=PL6QLFvIY3e-mq8E15oOlwLpNIpEelthJl
○ポイント・キーワード
- 前例がない時代
秦から前漢は「はじめてづくし」。歴史の前例がないため、みな試行錯誤した。 呂后は史上初の「皇后」「皇太后」で、女性の絶対権力者。 司馬遷は『史記』に「呂后本紀」(呂太后本紀)を立てた。 呂后の時代の漢の人口は推定二千万未満。人民にとっては暮らしやすい時代だった。
- 宗族 そうぞく
中国史で、父系親族集団をさす語。
- 外戚 がいせき
- 劉邦 りゅうほう
呂后の夫で、前漢の初代皇帝。以下、asahi20200625.html#03より引用。引用開始
秦の始皇帝の死後、農民出身の劉邦(りゅう・ほう)は、項羽との戦いに勝ち、前漢の初代皇帝・高祖となりました。
無名の庶民が天子になった最初の例は、陳勝・呉広の乱のリーダーだった陳勝(?-前208年)でした。彼は「張清楚」の「王」を名乗ったものの、すぐに失敗し殺されました。
項羽と劉邦の戦い、つまり「漢楚の戦い」で最初は有力だった項羽こと「西楚の覇王」(在位紀元前206年 - 紀元前202年)も、結局、滅びました。
親分肌で無学な劉邦は、なぜ「漢王」から「皇帝」を名乗ったのか? 出自から言えば陳勝と大差のない低い彼が「権威装置」を利用して、恒久的な王朝の初代皇帝となれた理由を解説します。
引用終了
- 陳平 ちんぺい
劉邦の部下。呂后の死後、周勃(しゅうぼつ)とともに「風呂氏の乱」を平定。詳しくは asahi20230112.html#02
- 左袒 さたん
呂后に由来する故事成語。前漢の功臣であった周勃(しゅうぼつ)が「呂氏に味方する者は右袒せよ、劉氏(りゅうし)に味方する者は左袒せよ」と軍中に申し渡した故事に基づく。
- 呂太后本紀
呂后は、夫が皇帝となったあと皇后となり、夫の死後に息子が皇帝に即位したあとは皇太后にくりあがった。彼女の姓は呂だったので、後世、呂太后、とも呼ばれる。
「本紀」(ほんぎ)は、漢文の「紀伝体」の歴史の分類のひとつ。天子(帝王)の事績を記した本紀、世襲の大名クラスの事績は世家(せいか)、個人的な有名人や外国・異民族は列伝、に分類される。皇帝の后妃の伝記は通常「列伝」だが、『史記』を書いた歴史家の司馬遷は呂后の権力と存在感を認め「呂太后本紀」を立てた。
○辞書的な説明
- 『精選版 日本国語大辞典』より引用。
りょ‐こう【呂后】
[一] 中国前漢の高祖(劉邦)の皇后。二代恵帝の生母。高祖を補佐して秦末漢初の国難を処理したが、高祖の死後、実権を掌握して劉氏一族を圧迫したために、その死後呂氏の乱を招いた。紀元前一八〇年没。
[二] 謡曲。呂后に、韓信・彭越(ほうえつ)や戚夫人の怨霊がとりつき、病気が重くなる。文帝は剣を抜き、これらの怨霊と戦い退散させる。廃曲。
- 『改訂新版 世界大百科事典 』より引用。
呂后 (りょこう) Lǚ hòu 生没年:?-前180
中国,前漢の高祖劉邦の皇后呂雉(りよち)。もと山陽単父(ぜんほ)(現,山東省単県)の出身。恵帝と魯元公主の生母。人となりは剛毅で,劉邦の覇業をよく助け,とくに韓信,彭越,黥布など異姓の諸侯王の謀殺に辣腕を振るった。のち高祖は戚(せき)姫を寵愛し,戚姫の生んだ趙王如意を太子に立てようとしたが,呂后の画策により実現しなかった。高祖の死後,生子の恵帝が即位し,みずからは皇太后となり,恵帝の姉魯元公主の女を皇后とした。これ以後,16年にわたって漢朝の実権を掌握した。趙王を毒殺し,戚姫に対しては残忍な仕打ちをおこなった。手足を切断し,眼をえぐり取り,聾唖にして,厠中に捨てた。便所にはブタを飼うのにちなんで人彘(じんてい)と号した。これを見た恵帝は発病し,淫楽にふけって朝政を顧みなくなった。前188年即位後7年で恵帝が崩ずると,皇后に子がなかったので後宮の美人(女官)の子を取って3代皇帝(少帝恭)となし,幼少の少帝に代わって臨朝して万事を裁決した。兄の子の呂台と呂産に南軍と北軍とを率いさせ,呂台,呂産など四人を諸侯王に封建した。少帝恭が成長して皇后の実子でないことを知ると,これを宮中の永巷に幽閉し,代わって恒山王を4代皇帝(少帝弘)とした。呂太后の死後,高祖の遺臣周勃,陳平と劉章など劉氏一族が結束して呂氏を族誅し,代王を迎えて文帝とした。
執筆者:上田 早苗
○略年表
- 前256年ないし前247年、夫となる劉邦が農民の子として誕生。
- 年代不明。沛県の亭長だった劉邦に、父親の命令で嫁ぐ。一男一女を産む。後の恵帝=劉盈と魯元公主である。
恵帝の生年は、前213年説と前210年説のふたつがある。
- 前206年、楚漢戦争が勃発。
西楚覇王の項羽と漢王の劉邦の天下取りの争いのなかで、呂后は劉邦の実父とともに一時的に項羽側の捕虜となるなど辛酸をなめた。
- 前202年、楚漢戦争で劉邦が勝利。
劉邦は皇帝に即位して、前漢の初代皇帝となる(高祖)。
正妻である呂后は、皇后となった。
- 前196年、功臣である韓信が謀反をたくらんだが、呂后は夫・劉邦の留守中に蕭何と協力して韓信を逮捕し、処刑した。
参考 司馬遷『史記』より。漢文訓読と現代語訳の中間の、直訳。意訳は、市販の現代語訳の本をご覧ください。
http://gongsunlong.web.fc2.com/ryoko-h.pdf
呂太后は、高祖の微なりし時の妃である。孝惠帝と女魯元太后を生んだ。高祖が漢王と為るに及びて、定陶の戚姫を得て愛幸し、趙隱王如意を生む。孝惠は人と為りが仁弱だった。高祖は、我に類せず、と思った。常に太子を廢して、戚姫の子如意を立てようと欲した。如意は我に類す、と思った。戚姫は幸せられ、常に上に從いて關東にゆき、日夜啼泣して、その子を立てて太子に代わらしめようと欲した。呂后は年長じ、常に留守し、上に見ゆること希に、益々疏んぜられた。如意が立ちて趙王と為りし後、ほとんど太子に代わらしめようとすること、しばしばであった。大臣がこれをいさめたのと、留侯の策とに頼り、太子は廢せらるることがないことを得た。呂后の人と為りは剛毅にして、高祖を佐けて天下を定めた。大臣を誅する所は呂后の力が多い。呂后の兄二人も皆將と為った。長兄の周呂侯は事に死す。その子呂臺を封じて酈侯と為し、子を交侯と為した。次兄呂釋之を建成侯と為した。
- 前195年、劉邦が死去。呂后が生んだ息子が第二代皇帝・恵帝となる。
呂后は、わが子の地位の安泰のために手段を選ばなかった。
劉邦が亡くなる直前の会話(『史記』高祖本紀)「あなたが亡くなったあと、蕭何さんもいなくなったら、誰に頼ったらいいの?」「曹参がいるよ」「その次は?」「王陵がいるよ。あいつはちょっとにぶいが、陳平に手助けさせてやれ。陳平は頭は切れるが、ひとりじゃ無理だ。周勃はしっかりしていて飾り気もない。劉家を守ってくれるのは、周勃だ」「その次は?」「そのあとは、知ったこっちゃねえよ」
高祖は十二年四月甲辰、長樂宮に崩じた。太子が號を襲ぎて帝と為った。是の時、高祖の八子、長男肥は、孝惠の兄であった、母を異にし、肥は齊王であった。餘は皆孝惠の弟にして、戚姫の子如意は趙王であり、薄夫人の子恒は代王であり、諸姫の子子恢は梁王であり、子友は淮陽王であり、子長は淮南王であり、子建は燕王であり。高祖の弟交は楚王であり、兄の子濞は呉王であった。劉氏に非ずして、功臣番君呉芮の子臣は長沙王であった。
呂后は最も戚夫人及び其の子趙王を怨んだ。廼ち永巷をして戚夫人を囚えさせ、而して趙王を召させた。使者は三たび反った。趙の相建平侯周昌は使者に謂って曰く「高帝は臣に趙王を屬せられた。趙王は年少し。竊かに聞く、太后は戚夫人を怨み、趙王を召して并せてこれを誅せんと欲す、と。臣は敢て王を遣らない。王は且つ亦た病んでいる。詔を奉ずることはできない。」
呂后は大いに怒り、廼ち人をして趙の相を召させた。趙の相は徴されて長安に至った。廼ち人をして復た趙王を召させた。王は來ることになったが、未だ到らず。孝惠帝は慈仁にして、太后が怒っているのを知り、自ら趙王を霸上に迎え、ともに宮に入り、自ら挾けて趙王と與に起居飲食した。太后はこれを殺さんと欲したが、閧得なかった。
- 前194年、恵帝の統治の元年。実権は母親の呂太后が握った。
孝惠元年十二月、帝は晨に出でて射た。趙王は少く、蚤起することができなかった。太后はその獨り居るを聞き、人をして酖を持ちて之に飲ませた。黎明に、孝惠が還ると、趙王は已に死せり。是に於て廼ち淮陽王友を徙して趙王とした。
夏、詔して酈侯の父に追謚を賜い令武侯とした。
太后は遂に戚夫人の手足を斷ち、眼を去り、耳をW(いぶ)し、瘖藥(いんやく)を飲ませ、廁中に居らしめ、命づけて人彘(じんてい)というようにした。居ること數日にして、廼ち孝惠帝を召して人彘を觀せた。孝惠は見て、問い、廼ちそれが戚夫人であることを知った。廼ち大いに哭し、因りて病み、歳餘も起つことができなかった。人をして太后に請わしめて曰く「此れは人の為す所に非ず。臣は太后の子と為り、終に天下を治むることはできない。」孝惠は此を以て日に飲し淫樂を為して、政を聽かず。故に病が有るようになった。
- 前193年、呂后は、劉邦の庶子のうちの長男・劉肥(斉王。諡号は悼恵王)を毒殺しようとするが、恵帝によって阻止された。
二年、楚の元王・齊の悼惠王らが皆來朝す。十月、孝惠は、齊王と與に太后の前に燕飲した。孝惠が思うに、齊王は兄である、と。上坐に置き、家人の禮の如くした。太后は怒り、廼ち兩卮(りょうし)に酖を酌ませて、前に置き、齊王をして起ちて壽を為させた。齊王は起ち、孝惠も亦た起ち、卮を取りてともに壽を為そうとした。太后は廼ち恐れ、自ら起ちて孝惠の卮をくつがえした。齊王は之を怪しみ、因りて敢て飲まずに、詳りて醉いて去った。問いて其の酖であることを知った。
齊王は恐れ、自らおもうに、長安を脱するを得じ、と、憂う。齊の内史士が王に説いて言うことには「太后は獨り孝惠と魯元公主とのみ有り。今、王は七十餘城を有している。而して公主は廼ち數城を食んでいる。王は誠に一郡を以て太后に上り、公主の湯沐の邑と為さば、太后は必ず喜び、王は必ず憂いが無いであろう。」 是に於て齊王は廼ち城陽の郡を上り、公主を尊びて王太后とした。呂后は喜び、之を許した。廼ち齊の邸に置酒し、樂飲し、罷めて齊王を歸した。
- 前192年、匈奴の君主から呂后に「夫婦になりましょう」という屈辱的な手紙が届く(『漢書』)。呂后は激怒したが、匈奴の軍事力は強大で臣下は開戦に反対したため、「私は年をとり、髪も歯も抜けて足腰もおぼつかないありさまなので」と再婚を断ったという。
- 前188年、恵帝が病死。享年23ないし26。
呂后は、恵帝が側室に生ませた子を第三代皇帝として即位させた(前少帝)。
恵帝の正妻であった張皇后(魯元公主の娘)は子がいなかった。呂后は、前少帝の生母である女性を暗殺して、彼を張皇后の子といつわって即位させた。その秘密は後に露見して問題となる。
前少帝は恵帝の実子ですらなく、呂后がどこからか連れ込んだ子どもという説もある。
七年秋八月戊寅、孝惠帝は崩じた。喪を發じた。太后は哭すれども、泣は下らなかった。留侯の子張辟彊は侍中であって、年は十五。丞相に謂っていうことには「太后は獨り孝惠有るのみ。今崩じたるに、哭すれども悲しまないのは、君はその解を知るか」と。丞相がいうことには「何の解ぞ。」と。辟彊がいうことには「帝には壯子がない。太后は君等を畏る。君今、呂臺・呂産・呂祿を拝して將と為し、兵を將いて南北軍に居らさせて、及び諸呂を皆宮に入らせて、中に居りて事を用いさせよう、と請え。此の如くすれば、則ち太后の心は安んじ、君等も幸にして禍を脱することを得るだろう」と。丞相は廼ち辟彊の計の如くした。太后はよろこび、其の哭することは廼ち哀しげになった。呂氏の權は此れ由り起こった。廼ち天下に大赦した。九月辛丑、葬った。太子が位に即きて帝と為り、高廟に謁した。
- 前187年、呂太后の称制元年、または「高后元年」。
名目的な皇帝は前少帝(生年不詳。幼帝)だったが、権力は祖母である呂太后が握った。
呂太后は、自分の身内を次々と王侯に立てる一方、劉邦の庶子たちを次々に打倒した。劉氏の前漢は、風呂氏に乗っ取られそうになった。
元年、號令は一に太后より出た。太后は制と稱した。議して諸呂を立てて王と為さんと欲した。右丞相の王陵に問うた。王陵がいうには「高帝は白馬を刑し盟いて曰く『劉氏に非ずして王たらば、天下共に之を撃て。』と。今、呂氏を王とするのは、約に非ざるなり」と。太后はよろこばず。左丞相陳平と絳侯周勃に問う。勃らはこたえて言うことには「高帝は天下を定めて、子弟を王とした。今、太后は制と稱す。昆弟諸呂を王とするのは、不可である所は無い」と。太后は喜び、朝を罷めた。王陵は、陳平と絳侯をせめていうことには「始め高帝と血をすすりて盟ったとき、諸君はいなかったのか。いや、いた。今、高帝は崩じ、太后は女主にして呂氏を王としようと欲している。諸君は從い意に阿り約に背こうと欲している。何の面目があって高帝に地下に見えるだろうか。いや、面目はない」と。陳平と絳侯がいうことには「今に於て面折廷爭するは臣らは君におよばない。夫れ社稷をまっとうして、劉氏の後を定むるは、君は亦た臣らには及ばない」と。王陵は以て之に應えることがなかった。
前少帝は物心がついて、自分の生母が呂后に殺されたことを知ると、呂后を恨んだ。呂后は前少帝を後宮の奥に幽閉して、重病であるとして廃位した。前少帝は殺害された。
- 前184年、少帝弘(後少帝)が退位。前少帝の弟で恵帝と側室の子とされるが、呂后がどこからか連れ込んだ正体不明の子どもという説もある。
- 前181年、長安で皆既日食が起きた。呂后は「私のせいだ」と言った。
呂后は、劉邦の庶子であった趙王・劉友を幽閉し、餓死させた。
- 前180年、高后8年の旧暦三月、郊外でのお祓いの儀式から宮中に途中、突然、1匹の「蒼犬」のようなモノノケがあらわれ、呂太后の腋に噛みついて姿を消す、という怪異が起きた。占うと、趙王如意のたたりである、という結果がでた。呂太后は脇の下の傷を病んだ(乳癌?)
『史記』 三月中、呂后、祓して還り、軹道を過ぎ、物、蒼犬の如く、高后の掖をつかむを見る。忽ちにして復た見えず。之を卜す、云う、趙王如意、祟を為す、と。高后遂に掖傷を病む。
旧暦7月30日(新暦に直すと8月18日)、死去。
呂太后の死後、それまでおとなしくしていた陳平や周勃ら劉邦の部下たちは、各地の劉氏の勢力と協力してクーデターを起こし(「左袒」の故事)、呂氏の勢力を皆殺しにした。呂后の妹の呂嬃も鞭打ちの刑で殺された。後少帝こと劉弘も、その他の恵帝の子も(呂氏の血を引くため)殺された。その後、劉邦の遺児で恵帝の異母弟であった代王劉恒が、前漢の「文帝」となった。呂后の妹の呂?は鞭打ちの刑で処刑され、呂?の息子の樊伉も処刑された。
○その他
- 呂后は中国史上最初の皇后であり(秦の始皇帝の正妻については不明)、「呂氏の乱」は史上初の外戚の専横であった。
- 呂后は死後、夫と同じ長陵(陝西省咸陽市渭城区)に埋葬された。
- 文帝以降の歴代の漢の皇帝は、劉邦の子孫ではあるが、呂后の子孫ではない。
- 『後漢書』劉盆子列伝によると、赤眉の乱(18年-27年)の末、赤眉軍の賊兵らは盗掘を行い、呂后を含む后妃の遺体に対しておぞましい行為を行ったという。
cf.『後漢書』劉盆子列伝:発掘諸陵,取其宝貨,遂汚辱呂后屍。凡賊所発,有玉匣殮者率皆如生,故赤眉得多行婬穢。
- 司馬遷は『史記』呂后本紀の最後で、彼女の治世を、
太史公曰く、孝惠皇帝・高后の時、黎民、戰國の苦しみを離るることを得、君臣、倶に無為に休息せんと欲す。故に惠帝は垂拱し、高后は女主にして制を稱し、政、房戸を出でず、天下晏然たり。刑罰、用うること罕に、罪人是れ希に、民、稼穡に務め、衣食滋々殖す。
と好意的に書いている。劉邦の死後、呂后が実権を握っていた時代は、宮中では血なまぐさい権力闘争が繰り広げられていたものの、宮中の外の世界では民衆はのんびりと生活して数百年続いた戦乱から復興することができた。彼女は女性であったため、始皇帝のような天下巡行も、高祖のような親征も行わず、戦争などの国の出費は少なく、税金は安かった。陳平らは臣下たちは、粛清されることを恐れて、半ば隠居のような無為の政治を行ったため、刑罰も行われず、民衆は安心して自分たちの仕事に励み、貯金し、豊かな衣食住を満喫できるようになった。つまり、呂后の変則的な統治は、建国直後の民生の向上に役立った、と司馬遷は評価する。
- 呂后は、唐の則天武后(武則天)や清の西太后と並べて「中国の三大悪女」と呼ばれることもある。
しかし、歴史家の趙翼(1727-1812。西太后より前の時代の人物)は『廿二史箚記』(にじゅうにしさっき)巻三で「呂后は武后ほど悪女ではなかった」 と擁護する。
『廿二史箚記』は「歴代の正史を読んだ感想の記録」の意の書物で、江戸時代の日本にも輸入され、頼山陽が序を書いた和刻本が刊行された。 趙翼によると――世間では呂后と武后を並べて二大悪女と呼ぶが、公平ではない。呂后は皇帝となったわが子・恵帝を盛り立てるため高祖の遺臣を用いた。呂后は恵帝が生きているうちは、劉家を盛り立てようとした。呂后は嫉妬と恨みから戚夫人を殺したが、文帝の生母など他の元側室には寛大だった。 劉友や劉恢が非業の死を遂げた理由は、それぞれの配偶者である呂氏との不仲である。呂后は、呂氏と劉氏が代々の婚姻関係を通じて密接に結びつくことを願った。呂后よりもあとの、北魏の馮太后や胡太后、唐の則天武后は淫乱で、未亡人となったあと愛人を作った。それにくらべ、呂后は夫の死後も愛人を作らなかった。呂后を武后らと同列の悪女として論ずるのはおかしい(武后之禍、惟後魏之文明馮后及胡后約略似之、而世乃以呂、武並稱、豈公論哉)云々と、趙翼は呂后に好意的である。
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