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日本漢字音の謎

最初の公開2018-5-27 最新の更新2022年5月6日

朝日カルチャーセンター・新宿教室 2018/5/28月曜日 13:30-15:00 講師 加藤徹

はじめに
以下、https://www.asahiculture.jp/shinjuku/course/a9a50a08-245e-6505-1361-5a65d3fd6a43より自己引用。
 日本語は難しい。中国語では漢字は一字一音で、「月」は「ユエ」としか読みません。日本語の漢字は一字多音で、「月見」「三か月」「三月」「月輪観」は「つきみ」「さんかげつ」「さんがつ」「がちりんかん」と読みます。なぜ日本漢字音は複雑なのか。その謎を解くカギは、遣唐使の時代にあります。
 本講座では、唐の時代の漢詩「楓橋夜泊」(月落ち烏啼きて霜、天に満つ)を例に、日本の遣唐使が聞いた唐代の中国語による音読 (推定)と、日本漢字音による音読、現代中国語による音読を比較します。日本漢字音は、李白や杜甫の時代の発音とどれほど近いのか。私たちの祖先は、なぜ漢字の発音を統一しなかったのか。日本語の漢字の読み方をもとに、歴史と文化の闇を解き明かします。中国語を全く知らない人にもわかるよう、やさしく解説します。(講師記)

配布用プリントの原稿[WORD(縦書き・A4で2頁)]

参考 YouTube ビデオ

「月」という漢字の日本語での読み方
音読み
 呉音 ガチ(グヮチ)・ゴチ(推定音)・ガツ(グヮツ:慣用音とも)
 漢音 ゲツ(グヱツ)
 慣用音 ガツ(グヮツ:呉音とも)
訓読み つき


「音読み」と「訓読み」の二本立ては、日本語だけはない。
 外国語にも「訓読み」的な現象はあるが、部分的な例外にとどまるか、近代以降はすたれた。現代の日本語のように、全面的な体系化された「音訓併存制」を残している言語は少ない。
参考 論文 春田晴郎 「世界の訓読み表記」東海大学紀要、文学部 86, 19-43, 2006
例 英語の「etc.」は、ラテン語「et cetera」の略だが、英米人は音読みでは「エトセトラ」、訓読みでは「and so on」と読む。
例 中国語にも断片的な「訓読み」的な現象はある。例えば台湾語や閩南語(ミンナンご、びんなんご)の「文白異読」では、「中原」的な漢字音は「音読み」、土着の方言の口語的な発音を「訓読み」的に使う。「大人」は、日本語では音読みの「タイジン」と訓読みの「おとな」では意味が変わるが、閩南語でも同様で、「大人」をタイジンの意味の時は音読み的な文語音でタイジンと読み、おとなの意味のときは訓読み的な口語音でトアランのように発音する。

日本語の字音と字訓
音読み 中国語の発音に由来する読み方。 「字音」「音」とも。
訓読み 漢字の意味に相当する和語を固定的にあてる読み方。「字訓」「訓」とも。
 「訓」の中国での意味は「教え諭す」とか「文や字の意味をわかるようにする」という意味(「訓詁学」の「訓」)である。
呉音・・・遣唐使より前の古い時代に伝わった、中国・南朝時代の漢字音に由来するものが多い。古くは、和音(やまとごえ・わおん)、対馬音(つしまごえ・つしまおん)、百済音(くだらごえ・くだらおん)などとも呼ばれた。仏教系の用語や、古代からの日本人の生活にまつわる漢語は、呉音読みするものが多い。

漢音・・・遣唐使の時代に、中国語の発音をもとに日本人向けに作られた読み方。古くは「からごえ」とも読まれた。唐の首都・長安の中国語の発音に由来する読み方。中国から諸般の事情で日本に渡来した続守言(しょく・しゅげん)と薩弘格(さつ・こうかく)が、691年、持統天皇の時代に「音博士」(おんはかせ、こえのはかせ)に任じられ、日本人に教授したのが始まり。ただし現代日本語の漢音は、江戸時代から近代にかけて学者が「反切」等をもとに整理したものも混じっている。近代西洋の概念を日本語に訳した新漢語などは、漢音読みが多い。

唐音・・・中国の宋から清にかけて、それぞれの時代の中国語の発音に由来する字音。中国に留学した日本人禅僧や、日本に渡来した中国系商人、日本側の通事が作った字音。呉音や漢音と違い、日本の「国語」の一部として体系化されることはなかった。

慣用音・・・通用音とも。中国語の漢字の読み方を帰順に考えると「誤読」だが、日本で広く普及して定着している発音。

華音・・・現代中国語の発音を「華音」と呼ぶことがある。


謎その一 なぜ日本語だけ「漢字の音訓二面体系」が完備されたのか?
〇古代における言霊思想
〇古代における学閥。僧侶は音読、儒家は訓読
〇中国人との接触の少なさ


謎その二 なぜ日本漢字音は「漢音」に統一されなかったのか?
〇政治的な理由
 鉄道の路線名における「京」は、東京の意味なのに、キョウという呉音ではなく、ケイという漢音で読まれる。京浜東北線、京王線、京葉線など、みなそうである。
 実は明治二十年ごろまでは、東京には「トウキョウ」と「トウケイ」の二つの読み方があった。旧幕府をなつかしみ、西日本勢力中心の新政府に批判的な人は、わざと「トウケイ」と読む傾向があった。
「明治二十年頃までは、頑強にトウケイという老輩が多かった。さすがに幕府が瓦解して、江戸が吹き飛んだあとへ、遠国他国から来た人間ばかりが幅をする東京が出来たのは、感慨に堪えなかったろう。京の字をケイと読んで、京都の京の音を逃げる、ケフと読んでもキョウと読んでも上方臭い、そこを嫌ってトウケイ、無理にもそう読んで、鬱憤を霽らすのだったろう。」三田村鳶魚『人物談義江戸の流行っ子』昭和十八年
〇学閥的な理由。
 近代日本における「イギリス英語派」と「アメリカ英語派」に似た学閥的競争は、古代の日本にも存在した。「懺悔」「礼拝」は、仏教では「さんげ(せんげ、とも)」「らいはい」と読むが、キリスト教では「ざんげ」「れいはい」と読む。なお「懺」の字音は、呉音セン、漢音サン、慣用音ザンであり、単純に「仏教は呉音読み」という事例でないことに注意。
〇日本人の国民性
 日本人は昔から、ガラパゴス化は得意だが、体系化や統一化は苦手である。「改軌の轍は踏まぬよう」という常套句もある。日本の電源の周波数は東日本では50ヘルツ(ドイツ由来)、西日本では60ヘルツ(アメリカ由来)と不統一である。
 日本人は、漢字の筆画にはこだわるが、字音には意外にずぼらである。
 練馬区側にある江古田駅は「えこだ」だが、中野区側にある新江古田駅は「えごた」である。
 国の名前も、ニホンとニッポンの二つの字音がある。
 日本大学と日本体育大学と日本女子大学の「日本」を正確に読み分けられない日本人も多いが、気にしない。スポーツ系では、半濁音のはじける語感と、ジャージのファスナーを境目に左右に書けるなどの理由でNIPPONのほうが好まれる。
 日本銀行は「ニホンギンコウ」なのに、日本銀行券(紙幣)には「NIPPON GINKO」と印刷してある。
〇字音をあえて統一しないことによるメリット
 古典漢語の「三月」は、「やよい」という意味と「三ヶ月」という意味があり、中国語では両者は同じ発音だが、日本語では弥生の意味では「さんがつ」(ガツは呉音)、三ヶ月の意味では「さんげつ」(ゲツは漢音)と読み区別した。
 人間も、近世以降の日本語では「にんげん」(呉音)と「じんかん」(漢音)では意味を区別するようになった。

以下はこちらの頁も参照

唐の文人・張継(生没年不明。一説に715年?−779年?)の七言絶句「楓橋夜泊」を音読する。これを選ぶ理由は、日本で最も人気のある漢詩の一つだから。

日本と韓国の「漢文訓読」の比較。例文は、唐の張継の漢詩「楓橋夜泊」(七言絶句)。日本では、返り点と送りガナなどの「訓点」を使いますが、韓国は「口訣」(こうけつ、??、クギョル)です。 pic.twitter.com/V6FtbcWRf9

— 加藤徹(KATO Toru) (@katotoru1963) May 6, 2022
(1)漢文訓読
つきおち からすなきて しも テンにみつ
コウフウのギョカ シュウミンにタイす
コソ ジョウガイ カンザンジ
ヤハンのショウセイ カクセンにイタる
(2)字音直読で読む。
a.(狭義の)字音直読・・・呉音・漢音・慣用音など日本漢字音で音読する。
b.華音直読・・・中国語の発音で音読する。中国語はいわゆる北京語や現代中国語に限らない。
c.唐音直読・・・日本語化した中国語の発音で読む。長崎唐人系の近世唐音で読む。

 以下の呉音・漢音・慣用音は、学研の漢和辞典『漢字源』改訂第五版(学研教育出版、2011)に拠り、旧仮名遣いで示す(拗音の大文字・小文字表記のゆれは同辞典の表記のまま)。
 以下の唐音は、中井新六『
月琴楽譜』(明治10年=1877年刊)に載せる長崎唐通事系の近世唐音に拠る。一般の漢和辞典に載せる中世唐音とは系統が違うことに注意されたい。

字音直読
 呉音・漢音・唐音・華音(現代の中国語)による読み方を以下に示す。
明治10年刊『月琴楽譜』「紗窓」より(こちらも参照)。

原文
呉音ごちらくだいしやう
(しょう)
まんてん
漢音ぐゑつ
(げつ)
らく
(お)
ていさう
(そう)
ばんてん
唐音うヽていすやんまんてん
華音yue4luo4wu1ti2shuang1man3tian1

原文
呉音こうふうくわ
(か)
たいじゅめん
漢音かう
(こう)
ほうぎょくわ
(か)
たいすうべん
唐音きやんふをんいヽほうといすゑうみん
華音jiang1feng1yu2huo3dui4chou2mian2

原文
呉音じゃう
(じょう)
ぐゑ
(げ)
がんせん
漢音せいぐわい
(がい)
かんさん
唐音くうすうじんわいはんさんずう
華音gu1su1cheng2wai4han2shan1si4

原文
呉音はんしゅしやう
(しょう)
たう
(とう)
きゃくぜん
漢音はんしょうせいたう
(とう)
かくせん
唐音えヽぱんちよんしんたうちゑん
華音ye4ban4zhong1sheng1dao4ke4chuan2
付・慣用音 月=ぐわつ(がつ) 漁=れふ(りょう) 愁=しう(しゅう) 眠=みん
(罫線・華音省略版 こちらも参照)
原文 月  落  烏  啼  霜  満  天
呉音 ごち らく う だい しやう まん てん
漢音 ぐゑつ らく を てい さう ばん てん
唐音 ゑ ろ うヽ てい すやん まん てん

原文 江  楓  漁  火  対  愁  眠
呉音 こう ふう ご  くわ たい じゅ めん
漢音 かう ほう ぎょ くわ たい すう べん
唐音 きやん ふをん いヽ ほう とい すゑう みん

原文 姑  蘇  城  外  寒  山  寺
呉音 く す じゃう ぐゑ がん せん じ
漢音 こ そ せい ぐわい かん さん し
唐音 くう すう じん わい はん さん ずう

原文 夜  半  鐘  声  到  客  船
呉音 や はん しゅ しやう たう きゃく ぜん
漢音 や はん しょう せい たう かく せん
唐音 えヽ ぱん ちよん しん たう け ちゑん
備考 対を「つい」と読むのは唐音
 現代日本人にとって自然に感じられる字音直読の例。呉音・漢音・慣用音がごちゃ混ぜになっている点に注意。
月落烏啼霜満天 げつ らく う てい そう まん てん
江楓漁火対愁眠 こう ふう ぎょ か たい しゅう みん
姑蘇城外寒山寺 こ そ じょう がい かん ざん じ
夜半鐘声到客船 や はん しょう せい とう きゃく せん

参考 韓国語による字音直読
「풍교야박」장계 「楓橋夜泊」 張繼
월락오제상만천 月落烏啼霜滿天
강풍어화대수면 江楓漁火對愁眠
고소성외한산사 姑蘇城外寒山寺
야반종성도객선 夜半鐘聲到客船


唐の時代の中国語と日本漢字音の関係について
 李白や楊貴妃は漢詩をどう発音したか?
 学者が推定復元した「唐代長安音」は、学校の生徒には難解である。

参考 YouTubeビデオ「張継「楓橋夜泊」 唐代長安音(推定)」
https://youtu.be/RmMu2SZ-L-A

便宜的な方法として、日本の漢和辞典を使って、
・漢字の「漢音」の旧仮名遣いによる表記を調べる。
・漢字の「平上去入」を調べる。
という作業をすると、阿倍仲麻呂など遣唐使が聞いた唐の時代の中国語の発音を、あるていど(あくまでも、あるていど)しのぶことができる。

 以下『大辞林』第三版より引用。引用開始。
かんおん【漢音】 日本漢字音の一。奈良時代から平安初期にかけて、遣唐使・音博士や日本に渡来した中国人などによって伝えられた、隋・唐代の洛陽(今の河南)や長安(今の西安)など中国の黄河中流地方の発音に基づく音。「経」「京」を「ケイ」と読む類。平安時代には、それ以前に伝えられていた漢字音に対して、正式な漢字音の意味で正音とも呼ばれ、多く官府や学者に用いられた。 → 呉音 ・唐音 ・宋音

ひょうそく【平仄】 @ 平声(ひょうしょう)と仄声(そくせい)。また、平字と仄字。 A 漢詩や駢文(べんぶん)で、声調の調和のために規定される平字と仄字の配列法。 B つじつま。順序。 [句項目] 平仄が合わない
(引用終了)
 漢詩で重要な「古典中国語」による漢字音の四つのアクセント「平上去入」。現代中国の共通語(いわゆる北京語)のアクセント「四声」と全く違うことに注意。
 平上去入のうち、平を「平」、上去入を「仄」(かたむく、の意)にまとめる。絶句や律詩を作るときは、漢字の平仄の並べ方に守らねばならぬ規則がある。平仄を示すと、
  月落烏啼霜満天 仄仄平平平仄平
  江楓漁火対愁眠 平平平仄仄平平
  姑蘇城外寒山寺 平平平仄平平仄
  夜半鐘声到客船 仄仄平平仄仄平
「霜満天」は「平仄平」で「孤仄」の禁を破っているが、このていどは許容範囲である。平上去入の四声を示すと、
  月落烏啼霜満天 入入平平平上平
  江楓漁火対愁眠 平平平上去平平
  姑蘇城外寒山寺 平平平去平平去
  夜半鐘声到客船 去去平平去上平

 漢文訓読では平仄の妙味は味わえない。現代中国の共通語(いわゆる北京語)で音読しても、唐の時代の長安の発音とは大きく違っているため、平仄の妙味は味わえない。漢詩の平仄の音韻美を賞玩するためには、音読の方法を工夫する必要がある。

平声唐代は、低めで平らなアクセントだったと推定される。最初の子音が濁音だと、さらに低めになった。
上声唐代は、高くて短いアクセントだったと推定される。
去声唐代は、低いところから上にあがるアクセントだったと推定される。
入声日本語の「促音」「つまる音」にあたる短い音だったと推定される。当時の中国語でpやtやk、日本漢字音(旧仮名遣い)で「ふ」「つ」「く」「ち」「き」で終わる漢字。

※現代中国のいわゆる「北京語」の四声の調値と全く違うことに注意。より詳しくは[(PDF)「唐詩の韻律 ――漢文訓読の彼方」平山久雄](『東京大学中国語中国文学研究室紀要』第19号)を参照。平山説によれば、六朝から唐代中頃までの四声の調値を「平声:クセ無し。緩降調:*31(声母清音);低平調:*11(声母濁音)」「仄声:クセ有り」「上声:高昇調、緊喉、短め:*’35」「去声:低昇調、やや長い:*24」「入声:短促調:*4(声母清音):*2(声母濁音)」と推定する。同じ唐代でも、唐末の四声の調値は初唐や盛唐と変わるなど、変化があったようである。なお一般向けの本の中には、唐代の去声を現代中国語の第4声と同様「上から下にさがる」と推定するものもあるが、これは学界の主流の説ではない。

 専門の学者が「唐代長安音」の推定復元は、一般の生徒には難しいので、ここでは日本漢字音の中の「漢音」(旧仮名遣い)と、日本の漢和辞典でも調べることができる「平仄」をもとに、簡易的に、唐の時代の中国語っぽい字音直読を試みてみましょう。
張継「楓橋夜泊」漢音直読
ぐゑつ入 らく入 を平 てい平 さう平 ばん上 てん平
かう平 ほう平 ぎょ平 くわ上 たい去 すう平 べん平
こ平 そ平 せい平 ぐわい去 かん平 さん平 し去
や去 はん去 しょう平 せい平 たう去 かく入 せん平

 上記の「旧仮名遣いによる日本漢字音+平仄」を、ローマ字と記号で書くと、外国語っぽく見えます。(^^;; 「平声」は記号無し、「上声」はサーカムフレックス「^」、「去声」は下から上にあがる矢印「↗」(「文字参照」の10進法表記は「↗」)、「入声」は-p/-t/-k、で表示します。
日本語の「漢音」による唐代風の字音直読
月落烏啼霜満天 gwet rak wo tei sau ban^ ten
江楓漁火対愁眠 kau hou gyo kwa^ tai↗ suu ben
姑蘇城外寒山寺 ko so sei gwai↗ kan san shi↗
夜半鐘声到客船 ya↗ han↗ shou sei tau↗ kak sen
 「ぐゑつ(月)」はguwetuではなくgwet、「ぐわい(外)」はguwaiではなくgwai、等々、それぞれの漢字音を一音節のローマ字表記にすると、より中国語っぽくなります。
 日本語の漢音は、遣唐使が中国で学んだ当時の中国語の発音がベースですが、英語の発音をカタカナで表記するのと同様、平安時代の時点ですでにかなり発音が日本化しています。上記の「簡易的な推定復元」は、あくまで一種の遊びだと思ってくださいますよう。(^^;;


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