新宿教室 歴史 教室・オンライン自由講座 見逃し配信あり引用終了
中国史と花 ―菊・牡丹・蓮・梅 シリーズ「花鳥風月」
古来、中国人は多くの花を愛してきました。なかでも、雪が残るうちにいち早く咲く梅、あでやかに咲きほこり花の王と呼ばれた牡丹、仏教の悟りや儒教の徳の象徴とされた蓮、他の花々が散ったあとも最後まで凛として咲く菊、は、中国史の節目節目に、時代や社会の象徴としても登場します。隠者の陶淵明は菊を愛し、グラマーな楊貴妃とスリムな梅妃はそれぞれ牡丹と梅の美女とされ、学者の周敦頤は高度成長の唐王朝は牡丹だったが低成長のわが宋王朝は蓮のごとくあれと規定し、科挙に挫折し社会への復讐を誓った黄巣は自分を遅咲きの菊になぞらえ反乱を起こし……等々。中国の花と人間の歴史を、豊富な図版を使いつつ、予備知識のないかたにもわかりやすく解説します。(講師・記)
【拡散希望】講座「中国史と花 ―菊・牡丹・蓮・梅」??
— 加藤徹(KATO Toru) (@katotoru1963) December 28, 2024
対面+オンライン(見逃し配信つき)
on 2025年1月11日(土)
at 朝日カルチャーセンター新宿 @asakaruko
by 加藤徹??
キクの時代、ボタンの時代、ハスの時代・・・中国史と日本史の機微を、わかりやすく解説します。https://t.co/hi4VJmKxpx pic.twitter.com/gJmoLhXDzY
苦しんだり、怒ったり、騒いだり、泣いたりは人の世につきものだ。余も三十年の間それを引用終了仕通 して、飽々 した。飽 き飽きした上に芝居や小説で同じ刺激を繰り返しては大変だ。余が欲する詩はそんな世間的の人情を鼓舞 するようなものではない。俗念を放棄して、しばらくでも塵界 を離れた心持ちになれる詩である。いくら傑作でも人情を離れた芝居はない、理非を絶した小説は少かろう。どこまでも世間を出る事が出来ぬのが彼らの特色である。ことに西洋の詩になると、人事が根本になるからいわゆる詩歌 の純粋なるものもこの境 を解脱 する事を知らぬ。どこまでも同情だとか、愛だとか、正義だとか、自由だとか、浮世 の勧工場 にあるものだけで用を弁 じている。いくら詩的になっても地面の上を馳 けてあるいて、銭 の勘定を忘れるひまがない。シェレーが雲雀 を聞いて嘆息したのも無理はない。
うれしい事に東洋の詩歌 はそこを解脱 したのがある。採菊 東籬下 、悠然 見南山 。ただそれぎりの裏 に暑苦しい世の中をまるで忘れた光景が出てくる。垣の向うに隣りの娘が覗 いてる訳でもなければ、南山 に親友が奉職している次第でもない。超然と出世間的 に利害損得の汗を流し去った心持ちになれる。独 坐幽篁裏 、弾琴 復長嘯 、深林 人不知 、明月来 相照 。ただ二十字のうちに優 に別乾坤 を建立 している。この乾坤の功徳 は「不如帰 」や「金色夜叉 」の功徳ではない。汽船、汽車、権利、義務、道徳、礼義で疲れ果てた後 に、すべてを忘却してぐっすり寝込むような功徳である。
詠菊 黄巣黄巣の大意:俺は科挙に落ちた。やつらは合格した。俺が悪いんじゃない。世の中が腐ってるんだ。俺の姓は黄だ。俺は遅咲きの、黄金色の菊なのだ。今に見てろ。科挙に合格して喜んでいる早咲きの花ども。覚悟しておけ。いずれ俺の時代がくる。菊の節句、九月九日の前日が決起の日だ。俺が大輪の花を咲かせるとき、早咲きの花どもは皆殺しだ。長安の都が、俺の花の猛烈な香りで満たされる。町中が、黄金色に輝く甲冑の兵で埋め尽くされる。俺は、黄金色の菊なのだ。
待到秋来九月八 待ち到る 秋来 九月八
我花開後百花殺 我が花、開く後は百花、殺(おとろ)へん
衝天香陣透長安 天をツく香陣は長安を透(とお)り
満城尽帯黄金甲 満城はことごとく帯びん、黄金の甲を
泰州招聘聚群賢 泰州に招聘して群賢を聚む梅蘭芳(メイランファン asahi20231012.html#06)は京劇の名優。
会論梨園似競妍 梨園を会論するは妍を競ふに似たり
秋菊春蘭皆可賞 秋菊、春蘭、皆、賞すべきも
早梅穎異永為先 早梅は穎異にして永く先と為る
行軍は、五月から六月にかかった。六月、まさに大暑である。引用終了
わけて河南の伏牛山脈 をこえる山路の難行はひと通りでない。
大列のすぎる後、汗は地をぬらし、草はほこりをかぶり、山道の岩砂は焼け切って、一滴の水だに見あたらない。兵は多く仆 れた。
「水がのみたい」
「水はないか」
斃 れた兵も呻 く。なお、進む兵もいう。
すると、曹操が、突然、馬上から鞭 をさして叫んだ。
「もうすこしだ! この山を越えると、梅の林がある。――疾 く参って梅林の木陰に憩 い、思うさま梅の実 をとれ。――梅の実をたたき落して喰え」
聞くと、奄々 と渇 にくるしんでいた兵も、
「梅でもいい!」
「梅ばやしまで頑張れ」と、にわかに勇気づいた。
そして無意識のうちに、梅の酸 い味を想像し、口中に唾 をわかせて、渇を忘れてしまっていた。
――梅酸 渇 を医す。
曹操は、日頃の閑に、何かの書物で見ていたことを、臨機に用いたのであろうが、後世の兵学家は、それを曹操の兵法の一として、暑熱甲冑を焦 く日ともなれば、渇を消す秘訣のことばとして、思い出したものである。
参考 龔自珍「病梅館記」原漢文 江寧之龍蟠、蘇州之ケ尉、杭州之西渓、皆産梅。或曰「梅以曲為美、直則無姿。以欹為美、正則無景。以疏為美、密則無態。」固也。此文人画士、心知其意、未可明詔大号以縄天下之梅也。又不可以使天下之民斫直、刪密、鋤正、以夭梅病梅為業以求銭也。梅之欹之疏之曲、又非蠢蠢求銭之民能以其智力為也。有以文人画士孤癖之隠明告鬻梅者、斫其正、養其旁条、刪其密、夭其稚枝、鋤其直、遏其生気、以求重価、而江浙之梅皆病。文人画士之禍之烈至此哉! 予購三百盆、皆病者、無一完者。既泣之三日、乃誓療之。縦之順之、毀其盆、悉埋于地、解其棕縛。以五年為期、必復之全之。予本非文人画士、甘受詬氏A辟病梅之館以貯之。 嗚呼! 安得使予多暇日、又多閑田、以広貯江寧、杭州、蘇州之病梅、窮予生之光陰以療梅也哉! |
さる4月1日の昼、国民の目はテレビに釘付けだった。菅義偉官房長官は発表の会場で、新元号「令和」を毛筆で書いた台紙を見せたあと、こう述べた。引用終了
「新元号の典拠について申し上げます。令和は『万葉集』の『梅の花の歌三十二首』の序文にある『初春の令月(れいげつ)にして 気淑(きよ)く風和(やわら)ぎ 梅は鏡前(きょうぜん)の粉(こ)を披(ひら)き 蘭は珮後(はいご)の香を薫(かお)らす』から引用したものであります」
このときからSNSやメディアに、新元号に対する賛否両論がわきおこった。
意見を述べるのは万人の自由だが、誤解も散見される。
『万葉集』は奈良時代の日本の古典だが、典拠の序文は漢文である。以下、原文を示す。
梅花歌卅二首[并序]
天平二年正月十三日、萃于帥老之宅、申宴会也。
于時初春令月、気淑風和。
梅披鏡前之粉、蘭薫珮後之香。(以下略)
天平二年、西暦730年の旧暦1月13日。九州の大宰府(現在の福岡県太宰府市にあった役所) の長官であった大伴旅人(おおとものたびと)の邸で、梅の花を観賞しながら和歌を詠む優雅な宴会が開かれた。この序文は、宴会の趣旨と様子を、美文調の漢文で説明したものである。
たしかに『万葉集』は日本の古典である。しかし、この序文が当時の国際語である漢文で書いてあることからもわかるとおり、『源氏物語』や『徒然草』などとはかなり違う。(中略) 新元号の典拠である『万葉集』の漢文の序文は、たった百数十字しかない。図書館に行くか本を買うかして、訳注書を読んでほしい。
典拠となった序文の最後は、こうしめくくられる。
「詩紀落梅之篇、古今夫何異矣。宜賦園梅、聊成短詠」(詩に落梅の篇をしるす。古今、それ何ぞ異ならん。よろしく園梅を賦し、いささか短詠をなすべし)
昔の日本語で「詩歌」と言うと、漢詩と和歌を指した。明治以前は単に「詩」と言うと、漢詩を指した。意訳すると「中国の漢詩には、梅の花を詠んだ作品が多い。昔の中国人も今の日本人も、同じ人間だ。ぜひ、私たちの国の言葉で、この庭の梅を題材に、感動を詠んでみようじゃないか」
このような趣旨が、漢文で書いてある。漢文なので、当時の日本の知識階級のみならず、唐人も新羅人(しらぎじん)も渤海人(ぼっかいじん)も安南人も、読んで完全に理解できた。
奈良時代は国際化の時代だった。1300年前の太宰府市は、中国大陸や朝鮮半島と向き合う外交の町だった。現在は英語が国際語だが、当時の東アジアでは漢文(古典中国語)が国際語だった。奈良時代の日本人は漢文や漢詩を学び、唐や新羅、渤海国などとの交流に生かした。唐に渡って玄宗皇帝に仕えた阿倍仲麻呂は、まさにこの時代の人物だ。
8世紀当時、梅は中国から輸入したハイカラな植物だった。「うめ」の語源は、中国語の梅の発音「メイ」という説が有力である。
令和の出典の日本漢文の主旨は、偏狭なナショナリズムとも、軽薄な外国崇拝とも全然違う。もっと健康的で、おおらかな感じがする。
いにしえの万葉人(まんようびと)も、今の私たちも、同じ人間だ。せっかく「令和」という元号を使うなら、ご先祖様のおおらかな心も共有したい。
一人の男がいる。と読んだ。
歴史が彼を必要とした時、忽然として現れ、その使命が終ると、大急ぎで去った。
もし、維新というものが正義であるとすれば、彼の役目は、津々浦々の枯れ木にその花を咲かせてまわる事であった。
中国では花咲爺いのことを花神という。
彼は花神の仕事を背負ったのかもしれない。
彼ー村田蔵六、後の大村益次郎である。
灌園叟(かんえんそう)と号した秋翁(しゅうおう)は、幼い頃から花を愛し、その収集に情熱を注いでいた。優れた花を見つけると、衣を質に入れることも厭わず買い求め、長い年月をかけて自宅を大きな花園に育て上げた。 一方、放蕩無頼の官吏の子である張委(ちょうい)は、ある日、秋翁の家の花園の美しさを目にし、欲望のままに乱入して花を摘み始めた。秋翁がこれを止めようとすると、張委は手下たちとともに花園の花を全て荒らし、打ち砕いてしまった。 秋翁は踏みにじられた花々を見て嘆き悲しんだが、その悲しみは花神を感動させ、散った花びらは奇跡的に枝に戻った。 これを知った張委は怒り、役人に賄賂を渡して秋翁を「妖人」として訴えさせた。無実の秋翁は捕らえられ、牢に閉じ込められ、張委はその隙に秋翁の花園を横領した。 花神は怒った。突如として猛烈な風が吹き荒れ、張委とその手下たちは風に吹き飛ばされて糞壺に落ち、そのまま命を失った。張委の横暴により荒らされた花園も、ついに天罰によって取り戻されたのである。というもの。筆者(加藤徹)が子どものころ童話の児童書(書名は失念)に、たしか「花のおじいさん」とか何とか、そのようなタイトルで掲載されていた。