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古代中国史 宋・元・明
最新の更新2024-04-20 最初の公開2024-04-20
※日本語の「古代」は千年以上前の大昔を指しますが、中国語の「古代」はアヘン戦争(1840年勃発)以前、つまり「近現代以前」を漠然と指します。(;^_^A
以下、https://www.asahiculture.com/asahiculture/asp-webapp/web/WWebKozaShosaiNyuryoku.do?kozaId=7127450 より引用。
数千年におよぶ中国史を豊富な図版を使いながら予備知識のない人にもわかりやすく解説します。
- 4/23 宋王朝――近代を先取りした国家
- 5/28 元王朝――中国を越えた世界帝国
- 6/25 明王朝――最後の漢民族的な王朝
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引用終了
宋王朝――近代を先取りした国家
YouTube https://www.youtube.com/playlist?list=PL6QLFvIY3e-npW1DC_HLhyC7dm6IrUVNl
○ポイント、キーワード
- 激動の10世紀
日本と中国の歴史の分岐点となったのは10世紀。遣唐使は894年に廃止。
中国は唐が滅亡(907年)。東北アジアでは契丹(遼。916年-1125年)の台頭と渤海国の滅亡(926年)。朝鮮半島では高麗の建国(918年)と新羅の滅亡(935年)。日本は承平天慶の乱(935年から941年)。
中国史は「文」と「武」のトレンドが振り子のように揺れ動いた。後漢末の「三国志」の英雄たちの時代から、唐末・五代十国時代まで、つまり、184年の黄巾の乱から960年の北宋の建国まで、およそ8百年は「武」の時代だった。
中国は北宋(960年-1127年)の建国により儒教的な「文」に戻り、科挙官僚による文治国家のもとで文化が栄えたが、文弱な国となり「北族」(万里の長城の外側に居住する騎馬民族。モンゴル系や満洲系など)の圧迫を受けるようになった。
- 唐宋変革 とうそうへんかく
中国史は、唐までと、宋以降で大きく変化する、という歴史観。
- 科挙 かきょ
587年、隋の文帝(楊堅)は学科試験による官吏登用制度を始めたが、この制度は唐の時代から「科目による『選挙』」(現代日本語の選挙とは意味用法が違う)という意味で「科挙」と呼ばれるようになった。唐の時代の則天武后は科挙官僚を重用したが、彼女の孫である玄宗皇帝はパワーバランスによる政治を行い、外戚(楊貴妃の実家)や門閥貴族や宗族、節度使、宦官、外国出身者(阿倍仲麻呂もその一人)゛などに権力を分散したため、唐の時代の科挙官僚はまだひ弱だった。
宋は、皇帝独裁を進めるため、皇帝は科挙官僚中心の政権を作った。科挙の最終試験「殿試」は、皇帝みずからが試験官となることで科挙官僚と疑似的な師弟関係を結んだ。結果として、宋は、唐までの中国とは別の国になった。
- 士大夫 したいふ
天子と庶民のあいだの中間支配層。
今から3千年前の古代中国の社会は「天子、諸侯、大夫、士、庶民」の5階層だった(奴婢や「卿」などを分ける場合もある)。大夫と士をあわせて「士大夫」と呼んだ。2500年前の孔子の儒教は、士大夫の、士大夫による、士大夫のための学問教養大系だった。
唐の時代までは、名門の家柄の世襲制の士大夫と、科挙の試験によって合格した一代限りの新士大夫(多くは地主階層の家柄)の両方がいた。
唐末から五代十国にかけての社会動乱の結果、中国の貴族制や世襲制は壊滅した。
10世紀後半から20世紀初頭までは、科挙官僚を輩出する社会階層「士大夫」が、国家の屋台骨を支えた。
宋からは、科挙による官僚階級が「士大夫」「読書人」などと称せられた。その多くは地方の地主の家の出身者だった。士大夫は政治だけでなく、漢詩や音楽(琴学)、絵画など文化芸術でも中国の雅の文化を支えた。士大夫が描く「文人画」は、職業画家である「画工」の絵より芸術的に高く評価された。宋に始まる新士大夫時代は、20世紀初頭の清末まで続いた。
○辞書的な説明
- 『精選版 日本国語大辞典 』より引用。引用開始。
そう【宋】中国の国名。(中略)
[三] 中国の統一王朝(九六〇‐一二七九)。趙匡胤(太祖)が五代のあとをうけて建国。汴(べん)(開封)に都して、中央集権を徹底し文治主義の君主独裁制を樹立。対外的には、遼・西夏・金に対して守勢にたち、文運の隆盛、新文化の誕生にもかかわらず、軍事・財政危機に苦しみ、一一二七年金に圧迫され九代で江南に移転。それ以前を北宋、以後臨安(杭州)に都して蒙古に滅ぼされるまでを南宋と称する。趙宋。
○略年表
- 960年、宋(北宋)の建国。職業軍人から身を起こした趙匡胤は、北宋の初代皇帝・太祖(在位 960年-976年)として即位(cf.エリート主義の功罪 宋の太祖・趙匡胤)。首都は開封(cf.中国の古都)。
- 976年、太祖の弟が第二代皇帝・太宗として即位。即位の経緯については兄を密室殺人で暗殺した疑惑「千載不決の議」がある。日本から来た高僧と会見し、日本の天皇が万世一系で庶民も世襲制を満喫していることを知り、日本のほうが古代中国の理想のいにしえの道が残っている、と嘆息した。cf.「然(ちょうねん)の凡人だからこそ出来ること
- 997年、第3代皇帝・真宗が即位。科挙の制度は真宗の時代に完成した。
- 1004年、澶淵の盟(せんえんのめい)。北宋は、北族の帝国である遼(りょう。契丹、きったん)との間に和平の盟約を結び、国境の現状維持と、宋が兄で遼が弟という関係、宋から遼に対して年間絹20万匹・銀10万両を歳幣として送ることなどを決めた。cf.北方謙三(作家) 加藤 徹(広島大学助教授) 対談 楊家将 「三国志」にはない民族興亡の物語
西のタングート族の国(後の西夏)も宋と戦っていたが、こちらも1005年に宋から財貨を送ることで和睦した。
- 1022年、第4代の仁宗が即位。「慶暦の治」と呼ばれる経済や文化が栄えた時代だったが、対外的には遼と西夏に悩まされた。
井上康の小説『敦煌』(cf.中国の古代都市・敦煌)の冒頭は、1026年、宋の首都・開封に主人公が科挙の最終試験を受けにやってくるところから始まる。
慶暦の治の時代には、士大夫である文人政治家が続々と登場した。范仲淹・司馬光・欧陽脩・蘇洵・曾鞏・周敦頤・梅堯臣らの漢詩や漢文の作品は、日本へも影響を与えた。
cf.昭和の作家、柴田錬三郎は、慶應義塾大学文学部中国文学科卒で、勤務のあと第二次世界大戦中に出征し、輸送船でバシー海峡を航行中に米軍の潜水艦に沈められ7時間も生死の狭間を漂った。柴田は体力が尽きそうになった時、空を仰いで宋の曾鞏(曽子固)の漢詩「虞美人草」を口ずさんで耐え、生還した。参考記事 https://news.yahoo.co.jp/articles/c1664d066c0caffde9557f792372969a32c74b12
- 1067年、第6代皇帝・神宗が即位。士大夫の王安石を重用し、彼の「変法」政策を採用したため、王安石ら新法党と司馬光・蘇軾ら旧法党の「党争」が始まる。
新法党官僚は主に江南地方出身の士大夫で、新法に反対する旧法党官僚は主に華北出身の士大夫だった。新法党は、科挙官僚の出身母体である「士商階層」の既得権益にも踏み込んだ改革を提唱した。
宋の「党争」は、近現代のように血なまぐさいものではなく、党争で敗北しても左遷で済み、生命財産や名誉は保証され、言論の自由も奪われない、という近代的なものだった。
旧法党の蘇軾は、詩人・書家・美食家として日本でも人気がある。cf.higashiajia-distance.html
- 1100年、第8代皇帝・徽宗が即位。古典小説『水滸伝』(すいこでん)の時代。cf.宋の徽宗 道楽をきわめた道君皇帝
- 1126年、靖康の変(せいこうのへん)により、北宋が滅亡。宋は、女真族(後の満洲族)の国「金」に敗れ国土の北半分を失い、首都の皇族らは根こそぎ北に連行された。
このとき北送された政治家の秦檜(cf.asahi20230112.html#03)は、金からゆるされて帰国し、金との和議派に転向した。
- 1127年、徽宗の9男で強制連行をまぬかれた高宗が即位。宋の残存政権である南宋を建国。首都は臨安。
- 1141年、南宋の武将で抗戦派の岳飛が処刑された。cf.岳飛 中華愛国主義のシンボルとなった名将
- 1142年、南宋は金の間に「紹興の和議」を結び、政局が安定化する。
- 1161年、金では、暴君であった第4代皇帝「海陵王」が殺され、いとこで名君とされる世宗が即位した。南宋の金の両国で名君が並び立ち、平和が続いた。
- 1162年ごろ、南宋から遠く離れたモンゴル高原で、チンギス・カン(cf.asahi20221013.html#05)が誕生。
- 1200年、儒教の「朱子学」の開祖である朱熹(朱子。1130年生)が死去。朱子学の後世への影響は絶大である。
- 1227年、チンギス・カンが死去。彼のモンゴル帝国は拡大を続けた。
- 1234年、金が、モンゴル軍と南宋軍の侵攻を受けて滅亡。
- 1235年、モンゴル・南宋戦争が勃発。
- 1260年、クビライ(チンギス・カンの四男トルイの子)がモンゴル帝国の皇帝として即位。cf.早すぎた世界帝国 元のクビライ
- 1271年、クビライは国号を「元」(大元ウルス)と改称。
- 1274年、日本史の文永の役。蒙古襲来。
- 1276年、モンゴル軍が、南宋の首都・臨安を占領。南宋は事実上、滅亡。
- 1279年、崖山の戦い(がいさんのたたかい)。中国版「壇ノ浦の戦い」。南宋は名実ともに滅亡。
○その他
- 「宋」はもともと地名で、中国史上、宋を名乗った政権名・王朝名は複数ある。
- 春秋時代の宋。周代・春秋戦国時代の諸侯国の一つ
- 六朝時代=南北朝時代の南朝の宋。劉裕がたてた王朝(420年 - 479年)。劉宋。
- 趙匡胤が立てた王朝(960年 - 1279年)。趙宋。
この他にも宋を名乗った複数の地方政権が存在する。
- 日本は、遣唐使の時代は中国の中央政府と国交を結んだが、宋以降は民間の私貿易が盛んになった。
「日宋貿易」の時代には、日本から中国へは木材、砂金、硫黄、刀、扇、螺鈿・蒔絵など細工物を輸出した。宋から日本へは、医薬品、書籍(特に仏典)、陶磁器、絹織物、香料、銅銭(宋銭)を輸入した。
宋の士大夫であった欧陽脩(1007-1072)は、輸入品の日本刀を見て「日本刀歌」という漢詩を詠んだ(豊富な資源は土と人間 青龍刀の中国と日本刀の日本)。
- 995年(日本の長徳元年)9月上旬、宋人70余名が若狭に来航した。翌年、紫式部の父・藤原為時が、漢詩や漢文を書く才能を見込まれて越前守に任命され、娘である紫式部とともに越前に赴任し、宋人たちと漢詩の応酬を行った。紫式部じしんも宋人と会ったかどうかは、わかっていない。
cf.https://www.library-archives.pref.fukui.lg.jp/fukui/07/kenshi/T1/6a7-01-05-02-04.htm
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○ポイント、キーワード
○辞書的な説明
○略年表
○その他
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○ポイント、キーワード
○辞書的な説明
○略年表
○その他
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○略年表
○その他
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