しゅう シウ【周】
(前略) 中国古代の王朝(前一一〇〇頃‐前二五六)。姓は姫。陝西に起こり、渭水盆地に定住、殷(いん)の支配を受けたが、のちにこれと対立、武王のとき殷王紂を滅ぼして建国、鎬京(西安)に都を定めた。礼的秩序による封建的政治体制をしき、黄河流域から揚子江岸まで支配したが、第一三代平王のとき(前七七一)犬戎の侵入を受けて東遷、都を洛邑(河南)に移した(遷都以前を西周、以後を東周という)。以後周室の権威は失われ、諸侯の割拠する春秋・戦国時代にはいり、三七代で秦に滅ぼされた。 (後略)
漢 かん
中国の統一王朝
前漢(前202〜後8)と後漢(25〜220)とに分かれる。秦が滅びたのち,高祖(劉邦 (りゆうほう) )が建国。前漢と後漢の間に王莽 (おうもう) が国を奪い新と号した。ついで光武帝が漢王朝を再興。この時代は中国社会の基礎が確立し,中国文明が著しく発展した。1世紀ころ日本の奴国王が朝貢し,「漢委奴国王」の印綬を賜与された。古代日本に与えた影響は大きい。
かん【漢】[漢字項目]
[音]カン(呉)(漢)
[学習漢字]3年
1 中国の川の名。「漢水」
2 古代中国の王朝名。「後漢(ごかん)・後漢(こうかん)」
3 中国・中国語・中国人の称。「漢語・漢詩・漢字・漢籍・漢文・漢方/和漢・和魂漢才」
4 おとこ。「悪漢・巨漢・好漢・痴漢・暴漢・熱血漢・無頼漢・門外漢」
5 天の川。「河漢・銀漢・天漢」
[名のり]かみ・くに・なら
[難読]漢氏(あやうじ)・没分暁漢(わからずや)
とう タウ【唐】
[一] 中国の国名、王朝名。
@ 隋のあとを受けて中国を統一した王朝(六一八‐九〇七)。高祖(李淵)から哀帝まで二〇世。都は長安。科挙制度をとり、三省六部を整え、律令体制を完成。均田法・租庸調制を施行。太宗・高宗から玄宗の初期の時代までが最盛期で、突厥・高句麗を破り、西域・ペルシア・南海・インドとも交通し、国際色豊かな文化を生んだ。安史の乱以後は財政の窮乏と異民族の侵入に苦しみ、租庸調制にかえて両税法を採用、財政難を救おうとしたが、黄巣の乱によって衰亡、後梁の太祖(朱全忠)に滅ぼされた。
A 五代の一つ(九二三‐九三六)。通称、後唐。突厥の李存勗(りそんきょく)が後梁を滅ぼして建国。都は洛陽。後晉の高祖(石敬?)に滅ぼされた。
B 五代十国の一つ(九三七‐九七五)。通称、南唐。呉の李昪(りべん)の建てた国。都は金陵(南京)。揚子江下流域を領有。宋に併合された。
[二] 転じて、一般に中国または中国本土のこと。後には、広く外国をさしてもいった。から。
※成尋母集(1073頃)「たうにこたい山といふところに、文珠のおはしましけるあとの」
1923年5月14日夕方から、中華民国の北京大学で、音楽学者の田辺尚雄が講演会を行った。中国の国恥記念日であった5月9日(中華民国政府が1915年の日本の対華二十一箇条要求を承認した日)のすぐあとだったこともあり、北京には「二十一か条撤廃」「旅順大連回収」を叫ぶ声とともに反日感情が立ちこめていた。田辺は講演の冒頭で次のように述べた。こう前置きした田辺は、中国の知識人や学生など六千人の聴衆の前で、唐楽の『蘭陵王入陣曲』『越殿楽』『五常楽』『胡飲酒』などをレコードで聴かせながら、夜の十時半まで講演を行った。この講演は聴衆を感動させ、翌日から旅順、大連を返せというプラカードや旗は北京ではほとんど消えた、と田辺は回想している。
諸君は今日わが日本に向って旅順、大連を返せと叫んでおられる。その要求は貴国民としてまことにもっともである。かならずや遠からず旅順、大連は諸君の手に還る時機の来ることを信じている。しかし私は政治家でも外交官でも軍人でもないから、それがいつ実現されるかは知らない。しかし今日私は貴国に向って旅順、大連よりもモット重大なあるものを返還すべく、日本からわざわざ来たのである。これは諸君から要求されて余儀なく来たのではなく、私が自費をもって自発的に来たのである。(田辺1970:317)
参考 鈴木聖子『〈雅楽〉の誕生』(副題:田辺尚雄が見た大東亜の響き) 春秋社 (2019/1/28)ISBN-13: 978-4393930359 pp.226-230