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人物で知る中国〜 楊貴妃

最新の更新 2021年11月7日  最初の公開 2021年11月7日

(以下、朝日カルチャーセンター・千葉のサイトより自己引用。引用開始)
 2021/11/9火曜 15:30−17:00 朝日カルチャーセンター 千葉教室
 唐の玄宗皇帝の寵愛を受けた楊貴妃(719−756)。彼女は政治的野心をもたなかった。だが、実家が外戚として政治に関与し、玄宗が彼女に夢中になって国政をおろそかにしたことで、政治が乱れた。美貌と色香で皇帝を惑わし、様々な挿話が伝えられる。果たしてどこまでが真実なのか。(講師・記)

https://www.youtube.com/playlist?list=PL6QLFvIY3e-l-vHyp7UPwU_sPZ6z23SVn


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○ポイント
★「傾国の美女」の代名詞的存在で、彼女に取材した文芸作品は多い。
★彼女自身は政治的野心をもたなかった。が、実家が外戚として富貴をきわめ政治に関与し、玄宗が彼女に夢中になって国政をおろそかにしたことで、政治が乱れた。
★彼女には同情と批判の双方がある。
★後世のイメージでは「薄倖の美女、悪女、痴女」など最もふくらみのあるキャラクターとされる。 google画像検索結果 [楊貴妃][杨贵妃

京劇の楊貴妃と玄宗皇帝(2017年3月14日撮影 説明はこちら)

○中国の四大美人「西施・王昭君・貂蝉・楊貴妃」における楊貴妃
独断的採点表
知性婦徳意志力技能
西施
王昭君★★★★★★★★★★ 琵琶
貂蝉★★★★★
楊貴妃★★★ 霓裳羽衣の曲
虞美人★★★★★★★★ 剣舞
卓文君★★★★★★★★★ 漢詩

 より詳しく書くと、以下のようにななる。
氏名王朝年代出生地組み合わせ相手印象最期作品
西施春秋前5世紀浙江省沈魚呉王夫差(・范蠡)傾国不明(殺害、逐電)荘子、呉越春秋
王昭君前漢前1世紀湖北省落雁元帝婦徳再婚→自殺漢宮秋(雑劇)
貂蝉後漢2世紀末(架空の人物)閉月呂布・董卓傾国不明(斬殺)三国演義
楊貴妃8世紀四川省羞花玄宗皇帝妖艶縊死長恨歌
虞美人秦末前3世紀末江蘇省?(次点→貂蝉)覇王項羽唱和不明(自決)史記
卓文君前漢前2世紀四川省(次点→王昭君)司馬相如文才平穏史記、白頭吟
四大美女の顔ぶれについては諸説があり、王昭君の代わりに卓文君を、貂蝉の代わりに虞美人を加えることがある。西施と楊貴妃の2人は不動である。
漢語には、女性の美貌を言う「沈魚落雁、閉月羞花」という成語がある。「ひそみにならう」の故事で有名な西施の美貌に見とれて、川の魚も泳ぐのを忘れて水底に沈んだ。北の異民族の国に嫁がされた王昭君が琵琶をかなでると、空を飛ぶ雁も感動のあまり地上に落ちてきた。三国志演義の貂蝉が月を拝むと、月は彼女の可憐さに圧倒されて雲に隠れた。唐の玄宗皇帝に寵愛された楊貴妃が花園を散歩すると、花たちは彼女のあでやかさに遠く及ばぬことを恥じ、みな花びらを閉じた。日本語の「花も恥じらう乙女」という言い方もこれが語源である。

○楊貴妃についての辞書・事典類での説明
○楊貴妃の周辺
玄宗皇帝
 685年-762年。在位712-756。氏名は李隆基。則天武后(624-705)と高宗(628-683)の孫。治世の前半は名君ぶりを発揮して「開元の治」と呼ばれる繁栄をもたらしたが、後半は政治に倦み楊貴妃を寵愛するなど善政が持続せず、安史の乱が起きた。

梨園(りえん)
 歌舞音曲を愛した玄宗は、治世の初年(712年)に、芸人たちを梨の庭園に集め、音楽教習の施設を作り、玄宗皇帝が直々に教えた。以来「梨園」は東洋の芸能界の代名詞となり、玄宗皇帝は芸能の守護神となった。

貴妃
 後宮の女性の位。唐の後宮の制度では、皇后をトップとして、四夫人(貴妃、淑妃、徳妃、賢妃。正一品)、九嬪(昭儀、昭容、昭媛、修儀、修容、修媛、充儀、充容、充媛。正二品)、二十七世婦(婕妤、美人、才人。正三品から正五品)、八十一御妻(宝林、御女、采女。正六品から正八品)などがあった。
 楊貴妃は、楊姓の貴妃、という意味。

外戚(がいせき/げしゃく)
 母方の一族、親戚。楊貴妃と玄宗皇帝のあいだに子供はできなかったが、楊貴妃の実家である楊家の男女(又従兄の楊国忠、姉の虢国夫人、韓国夫人、?国夫人、秦国夫人、等)は外戚として富貴栄達を遂げ、権勢をふるった。
 中国史上、外戚の大きな弊害の最初の例は呂后であり、最後の例は楊貴妃の一族であった。
 楊貴妃のあとも外戚の弊はしばしば見られたが、後の王朝は漢や唐の歴史的教訓をふまえたこともあり、漢の呂一族や唐の楊一族にくらべると小粒だった。例えば、南宋の末に賈似道(かじどう 1213-1275)も姉(理宗皇帝の寵妃)のおかげで出世して宰相までのぼりつめたが、王朝滅亡寸前の最末期であったこと、南宋の官僚制は漢や唐より成熟していたこともあり、小粒感は否めない。

楊国忠
 楊貴妃の又従兄(またいとこ)。若いころは酒と博奕が好きな無頼漢で一族の鼻つまみ者だったが、楊貴妃が玄宗皇帝の寵愛を得たことをきっかけに栄達し、玄宗から「国忠」という立派な名前ももらって、宰相までのぼりつめた。最後は安禄山と対立し、安禄山が反乱を起こす一因を作った。楊貴妃や玄宗皇帝らと四川に逃げる途中、馬嵬の地で命を断たれた。


○楊貴妃が出てくる映画

映画『楊貴妃』1955年公開。監督:溝口健二 出演:京マチ子、森雅之、山村聡、小沢栄、山形勲、南田洋子ほか。楊貴妃は家族のため忍従するおしとやかで、純愛タイプの女性として描かれる。

映画『空海−KU-KAI−美しき王妃の謎』2017年。公式サイト http://ku-kai-movie.jp/ 監督:チェン・カイコー(陳凱歌) 出演:染谷将太、ホアン・シュアン、チャン・ロンロン、チャン・ルーイー、阿部寛、他

○江戸川柳と楊貴妃
 日本の古い説話。楊貴妃の正体は熱田神宮の熱田大神(あつたのおおかみ)の化身で、中国の日本侵略を防ぐため美女の姿になって玄宗皇帝を籠絡し、安禄山の乱で楊貴妃は殺され(たことにして)、熱田大神は熱田神宮にお戻りになった、という説話が伝わっている。
 この他、楊貴妃は死んでおらず、日本に逃げて生き延びた、という伝説もある(貴妃東渡)。

やまとことばはおくびにも貴妃出さず
日本にはかまいなさるなと貴妃はいひ
三千の一は日本のまわしもの
唐の人魂を日本でめつけ出し

楊貴妃を湯女に仕立るりさん宮
湯あがりは玄宗以来賞美する
やうきひはろくな一ッ家は持たぬ也
八日には楊国忠へ加増なり
おかあさんなどとろく山きひにいひ
美しい顔で楊貴妃豚を喰い
美しひ顔でれいしをやたらくい

○楊貴妃を詠んだ漢詩
李白は宮廷詩人だったころ、実際に楊貴妃に会って「写生」的に詠んだ。
李白の七言絶句「清平調」三首→ 「唐詩五七絶譜」清傅士然伝
雲想衣裳花想容。
春風拂檻露華濃。
若非群玉山頭見、
会向瑤台月下逢。
くもにはイショウをおもい、はなにはかたちをおもう。
シュンプウ、カンをはらってロカこまやかなり。
もしグンギョクサントウにみるにあらずんば、
かならずヨウダイゲッカにむかってあわん。
一枝濃艷露凝香。
雲雨巫山枉断腸。
借問漢宮誰得似?
可憐飛燕倚新粧!
イッシのノウエン、つゆ、かおりをこらす。
ウンウフザン、むなしくダンチョウ。
シャモンすカンキュウ、たれかにるをえたる?
カレンのヒエン、シンショウによる。
名花傾国両相歓。
常得君王帯笑看。
解釈春風無限恨、
沈香亭北倚闌干。
メイカ、ケイコク、ふたつながらあいよろこぶ。
つねにクンノウのわらいをおびてみるをえたり。
シュンプウムゲンのうらみをカイシャクして、
チンコウテイホク、ランカンによる。
cf.与謝野晶子(1878−1942)の和歌
 旅にして沈香亭の欄干にあらざるものへ寄れば寒かり(『太陽と薔薇』)
cf.https://youtu.be/psAxrNGEGSA?t=152

白居易(白楽天)の漢詩「長恨歌」
 白居易(772-846)が806年に書いた長編の漢詩で、紫式部の『源氏物語』や、能の演目『楊貴妃』をはじめ、日本の文芸作品にも多大の影響を与えた。以下、「長恨歌」全文120句より節録
漢皇重色思傾國,
御宇多年求不得。
楊家有女初長成,
養在深閨人未識。
天生麗質難自棄,
一朝選在君王側。
回眸一笑百媚生,
六宮粉黛無顏色。
春寒賜浴華C池,
温泉水滑洗凝脂。
侍兒扶起嬌無力,
始是新承恩澤時。
雲鬢花顏金歩搖,
芙蓉帳暖度春宵。
春宵苦短日高起,
從此君王不早朝。
承歡侍宴無閑暇,
春從春遊夜專夜。
後宮佳麗三千人,
三千寵愛在一身。
(中略)
漢皇 色を重んじて傾国を思ふ
御宇(ぎょ・う)多年求むれども得ず
楊家に女(むすめ)有り 初めて長成す
養はれて深閨(しんけい)に在り、人 未だ識らず
天生の麗質は自(おのづか)ら棄て難く
一朝 選ばれて君王の側(かたはら)に在り
眸(ひとみ)を回(めぐ)らして一笑すれば百媚生じ
六宮(りくきゅう)の粉黛(ふんたい)顏色無し
春寒うして浴を賜ふ 華清の池
温泉 水 滑らかに凝脂(ぎょうし)を洗ふ
侍児 扶け起こすに嬌として力無し
始めて是れ新たに恩沢を承くるの時
雲鬢(うんぴん)花顔(かがん)金歩搖(きんほよう)
芙蓉の帳(とばり)暖かにして春宵(しゅんしょう)を度る
春宵 短きを苦しみて日 高くして起く
此れ従り君王 早朝せず
歓を承け宴に侍して間暇無く
春は春遊に従ひ 夜は夜を専らにす。
後宮の佳麗 三千人
三千の寵愛一身に在り
(中略)
翠華搖搖行復止,
西出都門百餘里。
六軍不發無奈何,
宛轉蛾眉馬前死。
花鈿委地無人收,
翠翹金雀玉掻頭。
君王掩面救不得,
回看血涙相和流。
(中略)
翠華(すいか)搖搖(ようよう)として行きて復(ま)た止まる
西のかた都門を出づること百余里
六軍(りくぐん)発明せず 奈何(いかん)ともする無し
宛転(えんてん)たる蛾眉(がび)馬前に死す
花鈿(かでん)地に委(ゆだ)ねられ人の収むる無く
翠翹(すいぎょう)金雀(きんじゃく)玉掻頭(ぎょくそうととう)
君王 面を掩(おお)ひて救ひ得ず
回(かえ)り看(み)れば血涙(けつるい)相ひ和して流る
(中略)
七月七日長生殿、
夜半無人私語時。
在天願作比翼鳥,
在地願爲連理枝。
天長地久有時盡,
此恨綿綿無絶期。
七月七日 長生殿
夜半 人無く 私語の時
「天に在りては 願はくは比翼の鳥と作(な)り,
地に在りては 願はくは連理の枝と 爲(な)らん
天 長く地久しく時有りて尽きんも
此の恨みは綿綿として尽くる期(とき)無からん。

cf.「凝脂の肌」「比翼連理(ひよくれんり)」などの熟語の出典
 夏目漱石の小説『草枕』:ただ這入る度に考え出すのは、白楽天の温泉水滑洗凝脂と云う句だけである。温泉と云う名を聞けば必ずこの句にあらわれたような愉快な気持になる。 またこの気持を出し得ぬ温泉は、温泉として全く価値がないと思ってる。この理想以外に温泉についての注文はまるでない。
 樋口一葉の小説『經つくゑ』:ありしは何時(いつ)の七夕(しちせき)の夜よ、なにと盟(ちか)ひて比翼(ひよく)の鳥の片羽(かたは)をうらみ、無常の風を連理(れんり)の枝に憤りつ(以下略)
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