HOME > 授業教材集 > このページ
中国の古代都市 長安
朝日カルチャーセンター・新宿教室 2021年5月15日13:30-15:00 講師 加藤徹
最新の更新2021-5-15 最初の公開 2021-5-15
唐(618年−907年)の首都・長安は、人口100万の国際都市であり、日本の平城京や平安京をはじめ東アジアの都市設計に大きな影響を与えました。唐の長安があった場所は、もとは盆地の田舎でしたが、300年間にわたり世界帝国の首都となり、11世紀以降は地方都市に戻り2度と首都になることはありませんでした。楊貴妃や李白、杜甫、空海らも暮らした世界都市・長安の栄枯盛衰の歴史と魅力を、豊富な映像資料を使い、わかりやすく解説します。(講師・記)
https://www.youtube.com/playlist?list=PL6QLFvIY3e-lQJSEMNPTgl-gpZ3lKRlvr
Google画像検索 [長安] [长安](中国語の簡体字)
ポイント
- 「古代的な世界首都」の完成態
「秦中自古帝王州」秦中はいにしえより帝王の州――唐の杜甫の漢詩「秋興八首」より。
- 広義の「長安都市圏」の歴史は2千年以上、前漢から唐まで千百年にわた王朝の首都。
狭義の「長安」は前漢の劉邦から唐末まで約1100年間。その間、長安が首都でなかった王朝、長安という名前ではなかった時代も含む。
「長安都市圏」に首都を置いた王朝は、
西周、秦(しん)、前漢、新、前趙(ぜんちょう)、前秦、後(こう)秦、西魏(せいぎ)、北周、隋(ずい)、唐の11にものぼる。
特に、前漢と唐の時代の長安は「世界首都」のおもむきがあった。
ただし、首都の場所はそれぞれ微妙にずれていた。秦の都・咸陽は、長安の郊外にあった。
また後漢や三国志の魏のように、洛陽を首都とした王朝も少なくなかった。
- 軍事都市的な性格→長安と洛陽を結ぶ街道の要衝「函谷関」(かんこくかん)より西側を「関中」と呼ぶ。
陝西省の関中盆地(同・渭河平原)に築かれた城郭都市(じょうかくとし)。
北には渭水(川の名前。渭河。黄河の支流)、南には秦嶺山脈(真ん中に有名な「終南山」=「南山」)。
南北は防衛に有利。東西は交易に有利。
義和団事件の時の八カ国連合軍も、日中戦争の時の日本軍も、函谷関を超えてまでは侵攻しなかった。
- 政治都市的な性格→碁盤の目のような「条坊制」、人工的な都市計画。整然とした都市計画。日本の平城京や平安京のモデルにもなった。
- ユーラシア内陸文明の全盛期→「大西北」「シルクロード」が輝いていた時代。
「大西北」は陝西、甘粛、寧夏、青海、新疆と内蒙古(南モンゴル)の一部で、
中国の領土の3分の1にも及ぶ。
- 日本文化にも多大の影響
日本語の漢字の「音読み」のうち、「漢音」は「唐代長安音」がもとになっている。
玄奘三蔵、李白、杜甫、楊貴妃、空海など。
- 世界史上屈指の規模の城郭都市。高い城壁で囲まれていた。
唐の最盛期には人口100万以上、東西9.7km、南北8.6km、総面積84平方キロメートル。面積は古代ローマの6倍、中世のパリの20倍。
参考 WikiPediaの「歴史上の推定都市人口」
以下、ターシャス・チャンドラーの推計より抜粋。
- 紀元前1000年 鎬京(西周の鎬京。西安市の近郊) 世界第2位 五万人
- 紀元前200年 世界第一位 四十万人 ・・・前漢王朝の首都
- 100年 世界第13位 九万人
- 361年 世界第10位 八万人
- 500年 世界第10位 十万人
- 622年 世界第2位 四十万人 ・・・唐王朝の首都
- 800年 世界第2位 六十万人 ・・・唐王朝の首都
- 900年 世界第2位 五十万人 ・・・唐王朝の首都
なお、次項で述べる荻生徂徠(おぎゅうそらい)の時代の世界ランキングは、チャンドラー推計では、
西暦1700年 一位は七十万人のイスタンブール、二位は六十八万八千人の江戸、三位は六十五万人の北京、四位は五十五万人のロンドン、五位は五十三万人のパリ、・・・
で、西安は十六万七千人で世界十七位で、十六位のカイロ(エジプト)と十八位のソウル(李氏朝鮮)の間だった。
- 真の意味での「世界首都」になりそこねた理由。
安禄山の乱→見せかけの国際性と「ガラスの天井」
盆地型城郭都市の構造的限界→平野の中央部や臨海都市との違い
水・薪・食糧の運搬→運河も鉄道もなかった時代は人口100万が限界
江戸時代の儒者・荻生徂徠の指摘。「都会とは、膨大な物材がそこに集まり、そこからまた散ってゆく場所であり、さまざまな職業の人民が住んでいる。わが国の海に面した大都会の物流は、海運によって支えられている。しかし中国の内陸の都市は、陸運しかないので、おのずと限界がある。そこから考えると、昔の本に書いてある中国の都会の繁栄ぶりはすごいものの、実際には、中国の長安も洛陽も、南京も北京も、わが江戸の 繁栄ぶりと日本の大名の豊かさには及ばなかっただろう」(こちらを参照)。
- 現在への影響
中国人の都市空間・集住コミュニティーの原郷は今も「長安」
現代中国の高層マンションも設計思想は「城郭都市・長安」のDNAを受け継ぐ「社区」(シャーチュイ)
コロナ後の中国が都市レベル、団地レベルで簡単に「封城」(ロックダウンの中国語)できた理由もここにある。
長安の歴史
- 西周の都・鎬京(こうけい)。今の西安市南西郊。
- 秦の咸陽(かんよう)。宮址は西安の北西方の渭河(いが)北岸で、阿房(あぼう)は西郊にあった。
- 前漢の長安城は、初代皇帝・劉邦が設置。
劉邦の出身地は東方で洛陽を首都にしたかったが、宰相の蕭何の意見で、咸陽の近くに巨大な新都を造営。秦のインフラを流用しやすかったことが一因。
名前を「長安」とし、蕭何の意見で面積は咸陽の4倍に拡大し、「威信財」的な建築をふんだんに
採用し、漢王朝の永続性を天下にアピールした。
前漢の長安城(中国では、城壁で囲まれた都市全体を「城」と呼ぶ)は、現在の西安市の北西郊、渭河の南に位置。
周囲に高い城壁を巡らし、城門の数は12、城内には長楽宮や未央宮(びおうきゅう)など
壮麗な宮殿を造営し、市民のために市場や居住区も作られた。
前漢長安城の総面積36平方キロメートル。武帝の時代に完成をみた。
前漢の諸帝の陵墓は、渭水の北の渭北丘陵と、西安市南東の白鹿原に造営された。
- 後漢は首都を、東野洛陽に置いた。「東漢」とも呼ぶ。
- 五胡十六国や、南北朝時代の北朝の諸王朝は、
漢代長安城の場所に宮都を構えた。
- 中国を再統一した隋の文帝は、582年、
土木建築の技術官僚・宇文ト(うぶん・かい)に命じて、
新都・大興城(だいこうじょう)を造営させた。
- 唐長安城は、隋の大興城を修築したもの。
東西9.7キロメートル、南北8.6キロメートル、と東西方向のほうが長い四角形だった。
都市設計は、北辺の中央に宮城と皇城を置いた。
城内の中心軸には南北に幅150メートルの幹線道路を作り、
大小の道路を東西・南北に碁盤の目状に作った。
長安城内は109の「坊」に分かれ、それぞれの坊には住宅、仏寺、道観、イスラム寺院などが点在していた。
その様子は陳舜臣の歴史小説『曼陀羅の人―空海求法伝』に描かれている。
太宗と高宗は長安城外北東に大明宮を造営。
則天武后こと武則天は、唐の国号を中断して「周」と改称し洛陽に遷都。その後、また長安に戻る。
- 長安の最盛期は、唐の玄宗皇帝と楊貴妃の時代。
玄宗は長安城内に興慶宮を造営。南東隅の曲江池は遊宴の地。
城内の「東市」「西市」は商店や人混みにあふれ活気に満ちていた。その様子は
映画『空海−KU-KAI−美しき王妃の謎』2017年で活写。
長安には、日本の遣唐使も含め、世界中から人材・物材が集まった。
755年、安禄山の乱が起き、長安は荒廃。杜甫の漢詩「春望」が有名。「国、破れて山河、在り。
城、春にして草木、深し」。
907年、唐が滅亡。その後、長安が再び中華帝国の首都となることはなく、地方都市に転落した。
- 明王朝の建国の翌年、1369年、明は元朝の奉元路を廃止して「西安府」を設置した。
「西安」という地名の初見。
- 清末の1900年、義和団事件で、西太后らが西安に逃げる。
- 1936年、西安事変。蒋介石が、張学良らによって、西安郊外の華清池温泉で監禁される。
名所旧跡
京都やローマなどと違い、唐の時代からの伝世の建築はあまり残っていない。
- 大雁塔・・・玄奘三蔵が652年に建立。当初は5層、現在は7層64mの仏塔。世界遺産。
- 小雁塔・・・唐の中宗が造営したときは15層88m。その後、何度も地震で崩壊。現在は13層43m。世界遺産。
- 秦始皇帝陵・・・世界遺産
- 兵馬俑博物館・・・世界遺産
- 半坡遺跡・・・郊外の新石器時代の遺跡
漢詩
子夜呉歌・李白 しやごか りはく
長安 一片の月 (ちょうあん いっぺんのつき)
萬戸 衣を擣つの声 (ばんこ ころもをうつのこえ)
秋風 吹いて尽きず (しゅうふう ふきてつきず)
総て是 玉関の情 (すべてこれ ぎょっかんのじょう)
何れの日か 胡虜を平らげて (いずれのひか こりょをたいらげて)
良人 遠征を罷めん (りょうじん えんせいをやめん)
原漢文 長安一片月、萬戸擣衣声。秋風吹不尽、総是玉関情。何日平胡虜、良人罷遠征。
故事成語
推敲(すいこう)
内部リンク
HOME > 授業教材集 > このページ