安禄山の乱 朝日カルチャーセンター・新宿教室 2018/08/27 講師・加藤徹

http://www.geocities.jp/cato1963/20180723asahi-culture.html

唐の時代、755年に勃発。「外国」出身の安禄山と、彼の軍閥が引き起こした反乱は、「多民族国家」や「国際化」の光と影を浮き彫りにした。杜甫が漢詩で「国破れて山河在り」云々と詠んだほどの戦乱で、中国社会は荒廃した。

安禄山は「外国」の血を引く軍人だったが、6カ国語を自由にあやつる国際人で、玄宗皇帝から信頼されて出世を重ね、楊貴妃とも親しかった。そんな彼がなぜ反乱を起こしたのか。果たして、移民労働者の「ガラスの天井」と通じる原因があったのか。その理由を探る。(講師記)

 

ポイント

〇唐の最盛期に、政権中枢に近い「外国系」軍人が起こした反乱。王朝末期の農民反乱との本質的な違いに注意。

〇安禄山は「外国系」の節度使(藩鎮の司令官)。反乱後、皇帝を自称し(雄武皇帝)、国号を「燕(大燕)」、元号を「聖武元年(756)」と号したが、歴史上は公認されていない。安禄山の伝記は、正史『新唐書』巻225上「逆臣上」※に収録されるなど、歴史上、典型的な逆臣として扱われてきた。 

※『新唐書』巻225上の原漢文はネット上の「維基文庫」でも読める。

https://zh.wikisource.org/wiki/新唐書/225

〇日本人にも『平家物語』冒頭部や、初学者用の漢文教材『十八史略』などで逆臣のイメージが定着してきた。が、京マチ子主演の映画『楊貴妃』(大映、1955)では二枚目の俳優・山村聡が安禄山を演じ、塚本史の小説『安禄山』(角川書店、2012)では安禄山の視点から時代を描くなど、安禄山の「悪人度」は日本のほうがやや低い。

〇反乱側も鎮圧側も「外国系」の存在感が圧倒的であった。「安史の乱」は、「安禄山ら外国人vs漢民族の唐」という戦いではなかった。反乱側だけでなく、安史の乱を鎮定した唐の側にも「外国系」が多数、参加していた。現代日本社会がいわゆる「コンビニ外国人」ぬきでは回らなくなっているのとやや類似。

〇反乱の原因は、安禄山・史思明の個人的な野心と、玄宗皇帝の個人的な資質、唐代中国社会の構造的な問題。唐は異国情緒に富む国際色豊かな王朝ではあったが、真の意味での国際社会でも、多民族国家でもなかった。

〇古代の儒教的理念と法家的運用をミックスした「律令」制国家は、均田制・府兵制・租庸調制を特徴とするが、唐の玄宗皇帝の時代にはすでに時代の実情にそぐわなくなっていた。節度使(藩鎮)など令外官が増えていた。

〇唐の権力構造の頂点に立つ唐の皇室は、出自は鮮卑系であり、血縁カリスマという点で旧来の門閥貴族には及ばなかった。そこで唐の皇帝は、新興の科挙官僚や、楊国忠のような外戚、安禄山や阿倍仲麻呂のような外国系、高力士のような宦官も重用し、旧来の門閥貴族勢力に対するカウンターパワーとした。逆に言うと、唐の時代には、科挙官僚にも外国系にも「ガラスの天井」があった。

〇唐よりあとの王朝では「安史の乱」タイプの反乱は起きていない。「征服王朝」である遼・金・元・清でも、儒教官僚主義的な宋や明でも、第2の「安禄山」は現れなかった。

 

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〇大辞林 第三版の解説

あんろくざん【安禄山】(705757) 中国、唐代の武将。ソグド系の胡人[こじん]。安史の乱の首領。玄宗の時、平盧[へいろ]・范陽[はんよう]・河東の三節度使を兼ねて大兵力を擁し、宰相楊国忠らと対立して755年史思明とともに挙兵。翌年、皇帝を称し国号を大燕とする。洛陽・長安を占領したが、次男慶緒[けいしよ]に殺された。

 

〇ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

安史の乱(読み)あんしのらん(英語表記)An-Shi zhi luan; An-Shih chih luan

中国,唐中期に安禄山,史思明によって指導された,天宝 14 (755) 〜広徳1 (763) 年の反乱。均田制,徴兵制の行きづまり,官僚制の動揺を背景に,安禄山と楊国忠の権勢争いが直接の原因で起った。旧体制の破綻から新興官僚層が官界に進出して貴族の政権を脅かしはじめ,貴族系の宰相李林甫は権勢維持のため,辺境の節度使に異民族や平民を登用した。新興官僚で節度使赴任者が中央に帰り宰相となることが多かったからである。禄山はこうして登用された蕃将の一人で,李林甫,玄宗,その寵妃楊貴妃に取入り,幽州,平盧,河東3節度使を兼任した。徴兵制と羈縻 (きび) 政策の破綻で,節度使は大量の傭兵をかかえる強力な存在であった。林甫の死後,楊貴妃の一族楊国忠が宰相となると禄山と反目し,禄山は地位の不安を感じ,20万の兵で反乱を起した。禄山軍は長安を占領,玄宗は四川に逃れ,途中兵士の要求で楊貴妃と国忠を殺さねばならなかった。ウイグルの援兵があり,唐朝側もようやく立直り,一方,禄山は失明と疽を病んで狂暴となり,至徳2 (757) 年次子安慶緒に殺された。しかし反乱部将は慶緒に必ずしも従わず,乾元2 (759) 年,史思明が慶緒を殺して指導者となったが,思明もその子史朝義に殺された。禄山の旧将は朝義に従わず,唐朝に寝返り,朝義が殺されて乱は治まった。この乱で内地に藩鎮 (はんちん) が列置されて唐朝の律令的集権体制はくずれ去り,また均田租・庸・調制から両税法に移行せざるをえなくなった。

 

〇「役者」たちの出自

★玄宗皇帝…李隆基。武則天の孫。「大野(だいや)氏」という「胡姓」を持っていた隴西李氏は、漢民族化した鮮卑族、もしくは鮮卑化した漢民族と思われる。

★安禄山…父はソグド人、母は突厥(とっけつ。トルコ系)人。安は養父の姓で、中央アジア系の胡人の「昭武九姓」(康国、安国、曹国、石国、米国、何国、火尋国、戊地国、史国)の一つ。  ★史思明…父は突厥人、母はソグド人。 ★哥舒翰…かじょかん。父はホータン人、母は突厥人。

★高仙芝…高句麗系。  ★李光弼…契丹族。  ★郭子儀…客家[ハッカ]

★顔真卿(進士)、★顔杲卿[がんこうけい]、★張巡(進士)…漢民族

 

〇律令[りつりょう] 律は恒常的な法律、令は時代ごとの政令が本来の意だが、実際の律令ではこの区別は錯綜している。中国最初の本格的な律令は西晋の泰始律令(267)、日本最初の本格的な律令は大宝律令(701)である。律令は、コンセプトは儒教思想の理想、運用は法家思想のノウハウにもとづく。

律令を制定できるのは「天子」だけであり、中国の属国や冊封国は自主的な律令を制定することは許されなかった。日本が東アジアで例外的に独自の律令を制定できた理由は、中国の皇帝から冊封を受けなかったからである。

 

〇令外官[りょうげのかん]  昔の東洋で、律令で規定されぬまま、現実的な課題に対応するために設けられた官職。官職名は、唐の節度使、日本の検非違使のように「〜使」で終わるものも多い。中国では唐の玄宗皇帝の時代から、日本では桓武天皇の時代から令外官が増えていった。

古来、東洋人は、先王の「レガシー」である律令そのものを改正することをなるべく避け、「弾力的運用」で事実上の律令の改正を行ってきた。現代でも、日本国憲法と自衛隊の関係は、古代の律令と令外官の関係にたとえられる。

 

〇藩鎮 はんちん Fan-zhen; Fan-chên

中国,唐,五代,宋初に存在した節度使を最高権力者とする地方支配機構。景雲1 (710) 年初めて河西節度使が出現し,安史の乱前には辺境に 10藩鎮がおかれ,乱を契機に内地にも列置されて 45前後となり,五代,宋初にはさらに数を増した。複数の州を領域とし,節度使の治所州を会府,管下の諸州を支郡と称し,会府には節度使の親衛軍的な牙軍があり,支郡には節度使と主従関係をもつ鎮将の率いる外鎮軍が鎮と呼ばれた要衝に駐屯し,文官の州刺史や県令を抑制して武人支配の体制をとった。中央の財政は,上供といって,節度使による藩鎮領内の税の中央送付によったが,節度使は兵力強化のため上供を渋る傾向が強かった。特に范陽,成徳,天雄のいわゆる河北三鎮は,終始自立の動きを示した9世紀初め,憲宗の抑圧策の成功で,中央から節度使を派遣し,外鎮軍を節度使から切り離して,一時唐の安定期を迎えたが,黄巣 (こうそう) の乱を契機に藩鎮は一斉に自立して唐は滅び,五代は藩鎮に依拠した武人が権力を握る武人政治の時代となった。しかし宋の太祖,太宗の解体策により,藩鎮体制は崩壊した。

 

※余論(加藤徹) 歴史用語「河朔三鎮(かさくさんちん)」。平安時代から近世にかけての日本の武家集団(いわば日本版の「藩鎮」)、辛亥革命時の各省独立宣言、近代中国の「軍閥」などとの性格の異同に注意。

 

〇『平家物語』冒頭

 祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響き有り。沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理を顕す。奢れる人も久しからず、只春の夜の夢の如し。猛き者も終には亡ぬ、偏に風の前の塵に同じ。

遠く異朝を訪[とぶら]へば、秦の趙高、漢の王莽[おうもう]、梁の周伊、唐の禄山、此れ等は皆、旧主先王の政にも随わず、楽を極め、諫[いさめ]をも思い入れず、天下の乱れむ事を悟らず、民間之愁る所を知ざりしかば、久しからず亡[ぼう]じにし者どもなり。

※梁の周伊=「梁の朱异」。异は「異」の異体字。日本では上半分を「己」と書くが、上半分を「巳」とするのが正しい。

 

〇『十八史略』で安禄山が登場するのは巻五。唐の玄宗皇帝の開元24(736)から粛宗の至徳2(757)まで。

 

〇安禄山の乱は王維・李白・杜甫(年齢順)など唐の詩人たちも巻き込んだ。また白楽天の「長恨歌」など後世の文芸にも詠み込まれた。

「春望」   杜甫

國破山河在 国破れて山河在り

城春草木深 城春にして草木深し

感時花濺淚 時に感じては花にも涙を濺ぎ

恨別鳥驚心 別れを恨んで鳥にも心を驚かす

烽火連三月 烽火 三月に連なり

家書抵萬金 家書 万金に抵る

白頭掻更短 白頭掻けば更に短く

渾欲不勝簪 渾て簪に勝えざらんと欲す

 

参考 安史の乱と三詩人 http://kanbuniinkai7.dousetsu.com/955anshi3shijin01.html

 

〇岡本綺堂『中国怪奇小説集』池北偶談より。(以下「青空文庫」より引用。引用開始)

https://www.aozora.gr.jp/cards/000082/files/2242_11907.html

 張巡の妾

 唐[とう]の安禄山[あんろくざん]が乱をおこした時、張巡[ちょうじゅん]は※(「目+隹」、第3水準1-88-87)[すいよう]を守って屈せず、城中の食尽きたので、彼はわが愛妾を殺して将士に食[]ましめ、城遂におちいって捕われたが、なお屈せずに敵を罵って死んだのは有名の史実で、彼は世に忠臣の亀鑑[きかん]として伝えられている。

 それから九百余年の後、清[しん]の康煕[こうき]年間のことである。会稽[かいけい]の徐藹[じょあい]という諸生が年二十五で※(「やまいだれ+「暇」のつくり」、第3水準1-88-51) []という病いにかかった。腹中に凝り固まった物があって、甚だ痛むのである。その物は腹中に在って人のごとくに語ることもあった。勿論、こういう奇病であるから、療治の効もなく、病いがいよいよ重くなったときに、一人の白衣を着た若い女がその枕元に立って、こんなことを言って聞かせた。

「あなたは張巡が妾を殺したことを御存じですか。あなたの前の世は張巡で、わたしはその妾であったのです。あなたが忠臣であるのは誰も知っていることですが、その忠臣となるがために、なんの罪もないわたしを殺して、その肉を士卒に食わせるような無残な事をなぜなされた。その恨みを報いるために、わたしは十三代もあなたを付け狙っていましたが、何分にもあなたは代々偉い人にばかり生まれ変っているので、遂にその機会を得ませんでした。しかも今のあなたはさのみ偉い人でもない、単に一個の白面[はくめん](若く未熟なこと)書生に過ぎませんから、今こそ初めて多年の恨みを報いることが出来たのです」

 言い終って、女のすがたは消えてしまった。病人もそれから間もなく世を去った。

(引用終了)

以上