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朝日カルチャーセンター・新宿 中国の古代都市 洛陽
2020/11/14土曜 13:30〜15:00

最新の更新2020-11-13   最初の公開2020-11-13

 以下{朝日カルチャーセンター・新宿}から自己引用。引用開始。
 洛陽は、紀元前11世紀の周初から10世紀の唐末まで、2千年間にわたりたびたび中国の首都となった古都です。西の長安が栄華を誇る政治都市だったのに対して、東の洛陽は落ち着いた感じの文化都市でした。芥川龍之介の『杜子春』や司馬遼太郎の「洛陽の穴」など日本人の洛陽観にも触れつつ、映像資料も使って、洛陽の歴史的特徴と魅力をわかりやすく解説します。(講師・記)

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★日本人が見た洛陽

司馬遼太郎『長安から北京へ』(中央公論社、昭和51年=1976年)127頁-137頁より引用。引用開始。
 洛陽というのは、宋において衰微するまでは、大した町であった。唐代では首都が長安であったとはいえ、なお副首都の位置を保っていたとされる。
 唐の長安は世界都市として当時、遠く西方にまで光芒を放っていたが、その背後地である「関中」は秦漢時代ほどの農業生産力をもたなくなり(長安の消費人口が大きすぎたために)、食糧その他の物資は洛陽にあおがざるをえなかった。このため洛陽が副首都とされ、長安なみとまではゆかなくても相当な規模の宮殿や官衙が備えられていた。
 日本史でできた先入主では信じがたいことだが、皇帝でさえ長安で食糧不足になると、めしを食うために(ごく具体的な意味で)洛陽まで出てきて長期滞在した。百官を連れてきた。当然後宮の女どももきた。みな洛陽で、数万人の支配階級とその寄生者たちが、箸をうごかしてめしを食った。
 星斌夫(ほしあやお)氏の『大運河』(近藤出版社)によれば、玄宗皇帝などは洛陽にやってきてめしを食うことがしばしばで、それより前、盛唐のころの高宗などは、在位三十三年のうち十一年もこの洛陽で暮らしたという。江南の穀倉地帯から大運河などの水路をへて食糧が洛陽まではこばれてくる。洛陽から長安への輸送は険阻な陸路が多く、難渋をきわめた。その輸送を待つより、いっそ口を洛陽に持って行って食物を食うほうが手っとりばやく、そういう発想で洛陽への行幸が営まれた。その移動は百官や後宮の女たち、宦官たちをふくめると、一万数千人になったであろう。かれらが洛陽に移って最初の食卓で箸をとりあげることを想像するとき、一万数千人のはげしい咀嚼音がきこえそうである。江南から洛陽への食糧輸送は、経費も労働も、すべて農民たちの負担によった。その輸送は、挙げて政治都市長安の政治組織にめしを食わせるためだったことを思うと、支配と被支配の関係がひどく簡単なような気がする。
(中略)中国においては日本の奈良朝以前から洛陽(あるいは塩の揚州もふくめて)という大きな商業機能が存在し、これによって中国人が洛陽の機能を通じ、物価、交通、輸送、需給の相関といういきいきした商業的思考法を身につけたということである。この刺激は経済を知るだけでなく、モラルの点でも多くのものを中国思想に加えたかと思える。
(中略)
「この含嘉倉の穴の中に、二十五万キログラムから三十万キログラムまでの穀物を入れることができます。保存の能力は、粟なら九年、米なら五年です」  と、説明者がいった。
 ともかくも、洛陽には現在発見されているだけで二百六十一個というおびただしい穀物収蔵用の窖(あなぐら)の跡があるということから想像すると、隋唐時代におけるこの副首都がどんな機能をもっていたかが、具体的にわかってくるような気がする。


瀬戸内寂聴『美と愛の旅2――敦煌・西蔵・洛陽』(講談社、1983年)138頁-143頁
 洛陽は、東周、後漢、曹魏、晋、北魏、隋、唐、後梁、後唐の九つの王朝の首都であったので、「九朝王都」と呼ばれている。
 最も栄えたのは、隋、唐の時代であったが、それぞれの王都の時代は、華々しく栄えていた。
 後漢時代、明帝がある明け方夢を見た。金色に光り輝く人が項(うなじ)から白光を出し、空から宮廷に飛び降りてきた。
(中略)
 中国に仏教が伝来した最初の伝説である。
 明帝は、洛陽の郊外に寺を建て、二人のインド僧はそこで終生暮した。寺は、経典を運んだ馬にちなんで白馬寺と名づけられた。
 仏教が最初に根を下したのが洛陽であるということは見のがすことが出来ない。
(中略)
 洛陽の街はどこへ行っても静かだった。
(中略)
 殷賑を極めた古都の大建築も、胡人の朝貢の列の鳴らす異域の音楽の旋律も、凱旋を告げる軍鼓のひびきも、夢のまた夢の中に幻の影をたゆたわせているだけで、現実の洛陽の木もれ陽は、絹糸のようにやさしく、靴の下の土には、匂いとやわらかさを千古のままに伝えて、生きていた。


  芥川龍之介『上海游記・江南游記』雑信一束
十 洛陽
 モハメット教の客桟の窓は古い卍字の窓格子の向うにレモン色の空を覗かせている。夥しい麦ほこりに暮れかかった空を。

麦ほこりかかる童子の眠りかな

芥川龍之介『杜子春』
 詳しくは加藤徹のサイト「日本と中国、二つの「杜子春」」を参照。
 或春の日暮です。
 唐の都洛陽の西の門の下に、ぼんやり空を仰いでゐる、一人の若者がありました。  若者は名は杜子春とししゆんといつて、元は金持の息子でしたが、今は財産を費ひ尽くして、その日の暮しにも困る位、憐れな身分になつてゐるのです。
 何しろその頃洛陽といへば、天下に並ぶもののない、繁昌を極めた都ですから、往来にはまだしつきりなく、人や車が通つてゐました。門一ぱいに当つてゐる、油のやうな夕日の光の中に、老人のかぶつた紗の帽子や、土耳古の女の金の耳環や、白馬に飾つた色糸の手綱が、絶えず流れて行く容子は、まるで画のやうな美しさです。
 しかし杜子春は相変らず、門の壁に身を凭(もた)せて、ぼんやり空ばかり眺めてゐました。空には、もう細い月が、うらうらと靡いた霞の中に、まるで爪の痕かと思ふ程、かすかに白く浮んでゐるのです。
「日は暮れるし、腹は減るし、その上もうどこへ行つても、泊めてくれる所はなささうだし――こんな思ひをして生きてゐる位なら、一そ川へでも身を投げて、死んでしまつた方がましかも知れない。」
 杜子春はひとりさつきから、こんな取りとめもないことを思ひめぐらしてゐたのです。

※原作である唐代伝奇『杜子春伝』の冒頭は、
「杜子春は、蓋(けだ)し周・隋の間の人なり。少(わか)くして落拓にして、家産を事とせず。然して志気間曠(かんくわう)にして酒を縱(ほしいまま)にして間遊するを以て、資産蕩尽す。親故に投ずるも、皆事に事(つか)へざるを以て棄てらる。
 冬に方(あた)り、衣破れ腹空しくして、長安の中を徒行す。日晩(く)れて未だ食せず、彷徨して往く所を知らず。東市の西門に於いて、饑寒の色掬すべく、天を仰ぎて長吁(ちやうく)す。」
香川県・井原九八「私の青春記 戦車第一師団防空隊」、平和祈念展示資料館『労苦体験手記 軍人軍属短期在職者が語り継ぐ労苦(兵士編) 第19巻』48頁より引用
https://www.heiwakinen.go.jp/wp-content/uploads/archive/library/roukunote/onketsu/19/O_19_047_1.pdf
 洛陽攻略戦は機動砲兵隊が部隊の掩護をしつつ、敵軍に包囲された洛陽を見下ろす三山村の台上に陣地を構築しました。昼間、洛陽より撃ち出す砲弾が陣地周辺に落下し気味が悪かったものですが、夕方、軍砲兵隊が敵の発射光を目標にして三発目で制圧したのには、その精度の良さに感服しました。
 洛陽の十キロほど手前の竜門峡の隘路の戦闘や白沙鎮の戦闘では戦死者が出ました。この竜門峡は山全体に何万と知れない多くの石仏の彫刻があり、それを見ることが出来ましたが、戦争中であり平和になったらぜひ今一度と思っておりました。戦後に二度ほど行きましたがここは中国の観光地として有名です。
 河南作戦である中国の古都洛陽に対する総攻撃は、四月二十日、火蓋が切って降ろされ、五月二十五日に陥落しました。


★洛陽のあらまし
 現在の河南省洛陽市。河南省西部で、黄河の支流・洛水の北側にあるので「洛陽」と呼ぶ。
 北京・南京・西安・洛陽は、中国の四大古都。
 この中でも洛陽は約4千年の歴史をもち、歴代王朝の累計105人の帝王がここに都を置き、東周から五代十国時代まで九つの王朝の首都となった(カウントのしかたには諸説あり)。
 中華人民共和国の都市のランク付けは、上から、直轄市(北京市、上海市、重慶市、天津市)、副省級市(省都など)、地級市(南京市、西安市、洛陽市はこれ)、副地級市・省直管市、県級市、鎮、・・・
  1. 紀元前1800年頃の「二里頭遺跡」は、河南省洛陽市にある。
  2. 前11世紀、西周の第二代・成王は、東へのおさえとして洛邑を置く。
    一説に、紀元前1050年頃、洛水を挟んで南側に成周、北側に王城が建てられ、東周の時代には両都市を合わせて洛邑と呼ばれるようになっという。
  3. 前771年、周の第十三代・平王は洛邑に遷都し、「東周」時代が始まる。
  4. 戦国時代の秦、自国の都・咸陽と、周の都・洛陽を結ぶ街道上に「函谷関」(かんこくかん)を建設。
  5. 渭水流域の軍事力と結びついた咸陽や長安に対して、洛陽は華北平原の経済力と結びついた物資の集積地として発展してゆく。
  6. 1世紀、後漢の光武帝(在位25-57年)が首都を洛陽に遷す。漢王朝は「火徳」とされたので洛陽のサンズイを嫌って雒陽と改名した。
  7. 後漢の末、「土徳」をモットーとする三国志の曹操が実権を握ると洛陽に戻した。
  8. 493年、北魏は第6代孝文帝の時代に洛陽に遷都。洛陽郊外に龍門石窟を造営。
  9. 唐の武則天の「武周」(690年−705年)は一時的に「神都」と改名され首都となった。
  10. 宋の時代、物資の集積地としての地位がより東の開封にうつった。また元以降は「北族」の軍事力を背景に北京が首都となることが増えた。
    宋以降、洛陽は副首都としての歴史的機能を他の大都市にゆずった。

★世界の古代都市との比較
 人口の変遷 https://ja.wikipedia.org/wiki/歴史上の推定都市人口

 ターシャス・チャンドラー (1987年)による世界の「人口上位十大都市」。
 紀元前1千年・・・成周(洛陽の前身)の推定人口は5万人で、テーベ、鎬京と並び世界のトップ3の大人口(当時として)。
 前650年・・・人口7万で世界第3位をキープ。
 前430年・・・人口10万人だが世界第5位まで落ちる。
 前200年・・・人口6万人で世界21位に転落。同年の1位は人口40万人の長安。
 100年・・・後漢の首都となり人口42万、僅差で世界2位。同年の1位は人口45万人のローマ。
 500年・・・北魏の首都。20万人で世界3位。
 622年・・・唐の副都。20万人で世界4位。1位は50万人のクテシフォン、2位は40万人の長安、3位は35万人のコンスタンティノポリス。
 800年・・・唐の副都。30万人で世界4位。1位はバクダード、2位は長安。
 900年・・・唐の副都。15万人で世界7位。20万人の平安京(世界第4位)にも負ける。
 司馬遼太郎が述べたとおり、960年、北宋の建国以降、洛陽が世界の都市ランキングの上位に顔を出すことはなくなった。

★複都制
単都制の対概念。首都を二つ置く場合は両都制ないし両京制と呼ぶ。
首都を複数置く場合の理由は、国防、歴史、経済などさまざまである。
○陪都・・・中国史で、行政上、国都に準ずる扱いをうけた特別な都市。明代の金陵(南京市)、清代の奉天(盛京とも称された。現在の瀋陽市)など。金陵と奉天は留都でもあった。
 日本史でも、孝徳天皇から桓武天皇までの難波京や、徳川家康が大御所として政治をとった駿府など、事実上の陪都がいくつか存在した。
○留都・・・首都が別の場所に遷都したあとの、元の首都があった都市。
○行都・・・行在に同じ。臨時の事実上の首都。南宋の時代は、臨安を行都、建康を留都とした。日中戦争下の重慶は中華民国中央政府(蒋介石政権)の行都でありかつ陪都とされた。
○別都・副都・次都・・・意味は副首都だが、ニュアンスは若干違う。

★紀元前11世紀、渭水流域の盆地である関中から興った周王朝は、後世の長安の前身となる関中の鎬京と、洛陽の前身である洛邑に二つの拠点を置いた。
以後、西都・長安と、東都・洛陽の両京体制を採用する王朝が多かった。
前漢は長安を首都として洛陽を副都としたため、西漢と呼ばれる。
後漢は洛陽を首都としたため、東漢と呼ばれる。
北周、隋、唐は、長安を首都とし、洛陽を副都とした。唐の時代でも、武則天や安禄山は洛陽を事実上の首都とした。司馬遼太郎『長安から北京へ』(中公文庫)の「洛陽の穴」で、司馬は、安禄山が洛陽を事実上の首都とした理由を推定している。
 10世紀以降は、長安も洛陽も地方の「主都」化した。中国の複都制の首都は、開封や北京、南京など別の都市に遷っていった。

参考 朝日カルチャーセンター・新宿教室 2019/11/14(木)「中国五千年の文明と歴史 中国とは何か 第三回 長安と洛陽―なぜ首都が二つも必要だったのか

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