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早稲田大学エクステンションセンター 中野校
学び直しの中国古典
第2シーズン (第1シーズンはこちら )
ジャンル 世界を知る 【対面+オンラインのハイブリッド】
最新の更新2022年12月4日 最初の公開2022年11月12日
火曜日 13:00〜14:30 全4回 ・11月15日 〜 12月06日
(日程詳細) 11/15, 11/22, 11/29, 12/06
https://www.wuext.waseda.jp/course/detail/56216/
はじめに
第1回11/15 『荘子』――宇宙的規模の世界に遊ぶ
第2回11/22 『韓非子』――心理の機微をつく悪の人間関係学
第3回11/29 『戦国策』――乱世で生き残るためのパワーワードの数々
第4回12/06 禅語 ――雷撃のようなさとりの言葉
はじめに
以下、 https://www.wuext.waseda.jp/course/detail/56216/ より自己引用。
目標
・私たちが生きている今の時代がこのようになった理由を考える。
・日本史と中国史という枠組みを取り払い、世界的な視野から東アジアを見直す。
・歴史の予備知識がない人にも、身近なことから考える楽しさを体験してもらう。
講義概要
この講座では、日本人の教養となってきた中国古典のうち、故事成語の宝庫である漢文古典「荘子」「韓非子」「戦国策」と、日本の茶道の掛け軸でもよく見かける仏教の「禅語」を取り上げ、わかりやすく説明します。これらの古典が生まれた社会的・歴史的背景や、日本人がそれらを受容して生かしてきた歴史についても解説し、豊富な図版や映像資料を使い、初心者にもわかりやすく具体的に説明します。「中国の歴史にも漢文にも、予備知識がまったくない」「よく名前は聞くけど、どんな内容の本かは知らない」「ちょっと読んでみたけど、どこが面白いのか、わからない」というかたも、安心してこ受講いただけます。
第1回 『荘子』――宇宙的規模の世界に遊ぶ
漢文古典『荘子』は、現実を離れ、もっと大きな世界から今の自分を見つめ直すのに役立つ故事成語の宝庫です。日本の国語の教科書にも、よく採られています。胡蝶の夢、邯鄲の歩み、顰みに倣う、蝸牛角上の争い、蟷螂の斧、古人の糟粕、井の中の蛙大海を知らず、木鶏、など現代の日本語でも『荘子』が出典であることわざや熟語はよく使います。『荘子』は、道家思想のもう一つの古典である『老子』とあわせて、「老荘」とか「老荘思想」とも呼ばれます。『荘子』とはどんな本なのか、なぜ古代中国の戦国時代にこのような思想が生まれたのかを、『荘子』由来の故事成語を紹介しながら、わかりやすく説明します。
YouTube https://www.youtube.com/playlist?list=PL6QLFvIY3e-k5AextaevZbtfD9lDWJuYQ
VIDEO
○ポイント、キーワード
戦国時代 Warring States period
中国史の戦国時代は、紀元前403年から前221年まで(開始年には諸説あり)。日本の戦国時代は、15世紀末から16世紀末まで。
戦う国どうしは、生き残りをかけた競争を行い、政治・経済・文化の面で「パワーの強制的向上」が見られた。
宋 そう Song
古代中国の地名ないし国名。春秋戦国時代の宋は「侯国」だった。殷(いん。自称は「商」)が周によって滅ぼされたあと、周王により殷の王族が宋に封ぜられ、殷の祭祀(さいし)を継いだ。
「宋襄の仁」(そうじょうのじん)の宋であり、古代中国では差別を受けていた。
荘子(人名。「荘先生」の意。本名は荘周)の寓言は、"jewish joke"(ユダヤ人ジョーク)と同様、辛辣だが深い洞察と含蓄に富む。
道 Tao
みち、タオ、Tao。あるがままの天然自然のみち。儒教的な「有能」「有為」に対するアンチテーゼである「無為自然」や「無用の用」を説く。
虚無主義 Nihilism
ニヒリズムは19世紀以降の西洋起源の思潮をさすが、荘子(荘周)はいわば「人間らしく生きるためのニヒリズム」を追及したニヒリストだった。
疎外 alienation
近現代の哲学用語。人間が作り出したモノやコト、文明の利器や文物制度などが、まるで独立した生き物のように立ち現れ、かえって人間を支配してしまうようになること。
荘子が説いた「道」は、儒教的な道徳ではなく、人間が疎外から自由になるための道であった。
○この本に由来する成語や熟語の例
【あ行】井の中の蛙(かわず)、大海を知らず 命長ければ辱多し 魚を得て筌(せん)を忘る 偃鼠(えんそ)河に飲むも満腹に過ぎず 尾を泥中に曳(ひ)く
【か行】蝸牛(かぎゅう)角上の争い 風を吸い露を飲む 甘井、先ず竭(かわ)く 邯鄲(かんたん)の歩み 空谷の跫音(きょういん) 管を用いて天を窺う 君子の交わりは淡きこと水の如し 影を畏れ迹(あと)を悪(にく)む
古人の糟粕(そうはく) 胡蝶の夢 孔子、行年(こうねん)六十にして六十化す 心合わざれば肝胆も楚越(そえつ)の如し 心を虚しくする 鯤鵬(こんぽう)
【さ行】三釜(さんぷ)の養 櫛風沐雨(しっぷうもくう) 鷦鷯(しょうりょう)、深林に巣くうも一枝に過ぎず
【た行】卵を見て時夜を求む 樗材(ちょざい) 朝菌は晦朔(かいさく)を知らず 筌蹄(せんてい) 轍鮒(てっぷ)の急 屠龍(とりゅう)の技 蟷螂(とうろう)の斧 呑舟の魚
【な行】汝の身すら汝の有に非ざるなり
【は行】顰(ひそ)みに倣(なら)う
【ま行】無用の用 木鶏(もっけい/ぼくけい)
○辞書的な説明
精選版 日本国語大辞典から引用
そう‐し サウ‥【荘子】
(「曾子(そうし)」との混同をさけるため「そうじ」ということが多い)
[1]
[一] 中国、戦国時代の思想家。道家思想の中心人物 。名は周。字(あざな)は子休。南華真人と称される。宋の蒙(河南省商邱 )の人。
孟子と同じ紀元前四世紀後半の人で、儒教の人為的礼教を否定し、自然に帰ることを主張した。世に老子と合わせて老荘という。著に「荘子」がある。生没年未詳。
[二] 中国の道家書。戦国時代の荘子の著。「老子」と並んで道教の根本経典。現行本三三編は西晉の郭象が整理編集したもの。
多く寓言により大自然の理法である道とこの道に従って人間のさかしらである仁義を捨て安心自由な生活を得よう とする方法を説く。南華真経。
[2] 【名】名 (荘子が夢で胡蝶になったという「荘子‐斉物論」の故事から) 蝶をいう。※雑俳・若紫(1741‐44)「灯を荘子が消て口舌やむ」
旺文社世界史事典 三訂版より引用
荘子 そうし
生没年不詳 / 戦国時代の思想家で道家の代表者
名は周。宋の人。老子の思想を発展させた。無為自然の思想の上にたち,個人主義的または虚無主義的傾向 が強い。
その著『荘子』33編は,内編7・外編15・雑編11からなり,内編だけが彼の手になるといわれる。
○選読
胡蝶の夢 こちょうのゆめ 斉物論篇第二
むかし荘周は夢に胡蝶となった。楽しく飛び回る胡蝶であった。心が楽しくて思い通りだったせいか、自分が荘周であることを自覚しなかった。ふと覚醒すると、まぎれもなく荘周である。いったい荘周が夢で胡蝶となっていたのか、胡蝶が夢で荘周となっているのか。荘周と胡蝶には必ず区分があるのだろう。これを「物化」という。
【関連事項】 クオリア、唯脳論、思考実験「水槽の脳」(brain in a vat)、独我論(solipsism)
渾沌、七竅に死す こんとん、しちきょうにしす 応帝王篇第七
南海の帝を倏(しゅく)といい、北海の帝を忽(こつ)といい、中央の帝を渾沌(こんとん)といった。
倏と忽はときどき渾沌の地で会った。渾沌のもてなしはとても行き届いていた。倏と忽は渾沌にお礼をしようと思い、相談して言った。
「人間の顔には目耳鼻口に七つの穴があり、それで視聴飲食しているが、彼にだけは無い。ためしに穴をあけてあげよう」
一日にひとつずつ穴をあけていったところ、七日目に渾沌は死んだ。
【関連項目】 「魅」の字源、キティちゃんの口
機心 きしん 天地篇第十二
子貢が旅をしていたときのこと。老人がひとり、畑仕事をしていた。手仕事で、見るからに能率が悪そうだった。子貢は言った。
「ハネツルベをお使いにならないのですか。ハネツルベを使えば、流れるように水を汲めて、一日に百畝(うね)も水をかけられますよ」
「わしは師匠から習った。『機械』を使う者は必ず『機事』がある。『機事』がある者は必ず『機心』がある。『機心』が胸のなかに存在すると、純白な心がなくなる。純白な心がなくなると、精神の本性が定まらない。精神の本性が定まらなければ、道に載せてもらえない。わしはハネツルベを知らない訳ではないが、恥ずかしいから使わないのだよ」
【関連項目】 疎外、チャップリンの映画『モダン・タイムス』(Modern Times、1936)、「スマホ奴隷」
古人の糟魄 こじんのそうはく 天道篇第十三
「知る者は言わず、言う者は知らず」という真理を、世間の人はわかっていない。
こんな話がある。斉の桓公が、やしきで、本を読んでいた。やしきの庭では、輪扁(りんぺん)という車輪づくりの職人が作業をしていた。
「殿は、何をお読みですか?」「聖人の本じゃ」「聖人は、まだ生きておいでですか?」「とっくに亡くなっておる」「では、殿がお読みになっているのは、古人のカス、ということですね」
「職人のぶんざいで、余の読書について、あれこれ言うとは。なにか言いぶんがあるなら聞こう。なければ殺すぞ」
「わたくしめは、自分の仕事からそう思ったのでございます。
車輪の木を削るとき、ユルユルとキチキチと、この微妙なさじ加減のコツは、手や心ではわかりますが、言葉では表せません。
私は、このコツをせがれに口で説明できません。せがれも、私から教わることはできないのです。
だから、わたくしめは七十という年齢になっても、まだ引退できず、車輪の木を削っておるのでございます。
いにしえの人は、言葉で人に伝えることができないものとともに、亡くなってしまったのです。
というわけで、殿がお読みになられているのは、古人のカスであると申し上げたのでございます」
【関連項目】 暗黙知(tacit knowledge)と形式知(explicit knowledge)
顰みにならう ひそみにならう 天運篇第十四
昔と今は時代も人間も違う。昔の道徳が良かったといっても、今の時代にはあてはまらない。
歴史的な美女である西施が、胸を病んだ。彼女が胸に手をあてて苦しそうに眉をしかめると、ますますセクシーになった。
それを見た同じ村のブスが「美しいなあ」と思い、自分もマネをして胸に手をあてて、眉をしかめた。
ブスな顔はますます醜くなった。金持ちは門を固くとざしてひきこもり、貧乏人は妻子を連れて村から逃げ出した。
ブスは、西施を見て「美しいなあ」ということはわかったが、なぜ西施が美しいのか本質的な理由を知らぬまま形だけマネたのだ。
孔子先生もおんなじだ。きっと難儀なことになってしまうだろうよ。
【関連項目】 醜形恐怖症、整形依存症
太倉稊米 たいそうていまい 秋水篇第十七
海の神・北海若(ほっかいじゃく)は言った。
「四海が天地のあいだに存在するのは、小穴が大沢の中にあるようなものだ。中国が海内(かいだい)に存在する様子は、せいぜい、大倉のなかのヒエの粒ひとつ程度ではなかろうか。
物の数を『万』といい、ヒトを『万物の霊長』と言ったりするが、ヒトもまた万物の中の一つにすぎない。ヒトが万物において占める位置は、例えて言えば、ウマの体毛のなかの細い一本の毛先ほどにすぎないのではないか」
【関連項目】 宇宙論
邯鄲の歩み かんたんのあゆみ 秋水篇第十七
戦国時代、燕の首都である寿陵は辺境の田舎町だったが、趙の首都である邯鄲は大都会だった。
寿陵の若者が、邯鄲に行き、おしゃれな歩きかたを学びたいと思った。趙の歩きかたをマスターする前に、ふるさとの歩きかたを忘れてしまった。
若者は四つん這いで、故郷に帰った。
君も、この若者と同じだ。荘子のところに長居していると、もとの自分の学問も忘れてしまい、身の破滅だよ。さっさと帰りなさい。
【関連項目】 子どもの早期英語教育のデメリット
知魚楽 ちぎょらく 秋水篇第十七
荘子が恵子(けいし)と一緒にゴウという川のほとりに遊んだ。荘子は言った。
「ハヤが自由自在に泳いぎまわっている。これが魚の楽しみなのだ」
恵子は反論した。
「君は魚ではない。魚の楽しみがわかるはずがない」
「君はぼくではない。ぼくが魚の楽しみがわからないと、君にわかるはずがない」
「ぼくは君ではないから、もちろん君のことはわからない。君ももちろん魚ではないから、君に魚の楽しみはわからないことは確実である」
「根本に返ってみよう。君はいましがた『おまえに魚の楽しみがわかるはずがない』と反論したが、それは実は、君がぼくの知識の程度を知っているからこそ、そう推論できたわけだ。
ぼくだって、ゴウの川のほとりに立って魚の楽しみを知ったわけさ」
【関連項目】 思考実験「哲学的ゾンビ」(Philosophical zombie)
善く游ぐ者は数やかに能くす よくおよぐものはすみやかによくす 達生篇第十九
顔淵(がんえん)が、孔子にたずねた。
「わたくしは以前、川の難所と言われる場所を舟でわたりました。そのときの渡し守りの舟のあやつりかたは、まさに神わざでした。渡し守りが言うには『泳げる人ならば、すぐ舟があやつれるようになるよ。もし潜水夫だったら、なおさらだよ』ということでした。どういう意味でしょうか」
孔子は答えた。
「泳げる人が舟を簡単にマスターできるのは、水を恐れないから、水の存在を忘れるからだ。
潜水夫ならばなおさら水を恐れないから、たとえ舟の難所と言われる場所でも陸地のように気軽に思えて、もっと簡単に舟をマスターできるわけだ。
潜水夫なら、たとえアクシデントが連続して起きようと、余裕しゃくしゃくで対処できるからだ。ゲームで賭けるものが価値の低い瓦なら、リラックスしてうまく勝てるが、賭けるものが値うちのあるバックルだと心が緊張してしまう。まして賭けるものが黄金となると、もう目が見えなくなってしまう。技量が同一でも、負けを恐れる気持ちがあると『外』を重んずるようになる。一般に、『外』を重んずる者は『内』がお粗末になってしまうのだ」
【関連項目】 努力逆比例の経験則、ビギナーズ・ラック、『淮南子』(えなんじ)のことわざ「善游者溺」(ぜんゆうしゃでき)
悪き者は自ら悪きとす みにくきものはみずからみにくきとす 山木篇第二十
学者の楊子が、弟子たちとともに宋に行き、旅館に泊まった。旅館の主人には二人の「妾」がいた。一人は美人で、一人はブスだったが、ブスのほうが大切にされていた。楊子が旅館の小僧に理由をきくと、小僧は
「美女のほうは自分の美しさを鼻にかけてるので、美しいと感じられません。醜女のほうは自分の醜さを自覚しているので、醜いと感じられません」
楊子は弟子たちに言った。
「おぼえておけ。賢い行いをして賢さを鼻にかけなければ、どこへ行っても愛されるよ」
【関連項目】 ソクラテスの「不知の自覚」「無知の知」"I know that I know nothing"
筌蹄 せんてい 外物篇第二十六
ふせご(筌。伏せ籠)は魚をとらえる道具だ。魚を得たら忘れてよい。わな(罠。蹄)はウサギをとらえる道具だ。ウサギを得たら忘れてよい。
ことばは意味をとらえる道具だ。意味がわかれば忘れてよい。私は、なんとかして「忘言の人」を得て、ともに語りあいたいものだ。
【関連項目】 自己目的化、禅の「指月の譬(たとえ)」
行年六十にして六十たび化す こうねんろくじゅうにしてろくじゅったびかす 寓言篇二十七
荘子はライバルの惠子に言った。「孔子は六十歳になるまで六十回も変わった。はじめは正しいと思ってたことを、あとで間違いだと否定する。
今、正しいと言ってることも、五十九回の否定と同じ結果になるかもしれない。(中略)私なんぞ、孔子にはとても及びもつかないよ」
【関連項目】 鈴木敏夫『禅とジブリ』の宮崎駿評
天地を以て棺槨と為す てんちをもってかんかくとなす 列禦寇(れつぎょこう)三十二
荘子はご臨終になった。弟子は手厚い葬儀を申し出た。荘子は断り、言った。
「私は、この天地を棺桶にする。葬儀の飾り付けは、太陽と月と星でじゅうぶん。副葬品は、この世の万物がそれだと思えばいい。私の葬儀の品は、もうこれでじゅうぶんだ。追加しなくていい」
弟子は言った。
「カラスやトンビに先生が食べられてしまうのではないかと、心配です」
「私の遺体を地上に置けば、たしかにカラスやトンビのエサになるだろう。でも、土葬すれば、おケラやアリのエサになるだけだ。鳥からエサを奪って虫に与えるなんて、無意味なえこひいきはするな」
【関連項目】自然葬、溶葬
惠子の詭弁 天下篇三十三
論理学派の学者・恵子(けいし)は、多芸多才で、蔵書は五台の車いっぱいほどもあったが、その学問は雑駁で、その言葉は的はずれだった。彼は物の意味を吟味して、以下のような詭弁的命題を立てて、仲間の学者たちと論争を楽しんでいた。
至大は「外」を持たない。これを「大一」と呼ぶ。至小は「内」を持たない。これを「小一」と呼ぶ。
厚みの無いものは積みあげることはできないが、千里四方の面積を持つことはできる。
天と地はいっしょにならび、山と沢は同様に平である。
日はちょうど南中のときに傾く。万物はちょうど生成するときに死滅する。
大きなレベルでは同じだが、小さなレベルでは違う。これを小同異と言う。万物はみな同じであると同時にみな異なる。これを大同異と言う。
「南方」は無限であると同時に有限である。
今日、越(えつ)の国に行き、昨日、帰ってきた。
連環は解ける。
天下の中央はどこか、私は知っている。北国・燕よりさらに北、南国・越よりさらに南の地である。
ひろく万物を愛するならば、天地は一体である。
卵には毛がある。
鶏の足は三本ある。
楚の国の都・エイに天下がある。
イヌはヒツジと見なすことができる。
馬はタマゴを生む。
カエルには尾がある。
火は熱くない。
山も口の働きをする。
車輪は地面に接触しない。
目はものを見ない。
指は到達しない、いったん到達したらば絶縁できない。
亀は蛇よりも長い。
さしがねは直角ではない、コンパスでは円を描けない。
ノミであけた穴はホゾを囲まない。
飛ぶ鳥の影は静止している。
飛ぶ矢は速いが、動いておらず止まってもいないときがある。
イヌは犬ではない。
黄色の馬と黒い牛をあわせて三となる。
白い犬は黒い。
孤児の駒はもともと母親がいない。
わずか一尺のムチでも、毎日その半分ずつをとり除くとすると、永遠に無くなることはない。
【関連項目】 白馬は馬ではない、ソフィスト、アキレスは亀に追い付けない、完全均質の鎖は切れない、イデア論、クジラはケモノ(生物学・解剖学)であると同時に魚(経済学では捕鯨業は漁業に分類)である、太陽は黒い(物理学における「黒体」の概念)、不確定性原理、特殊相対性理論、インドの「刹那滅」の時間論
参考図書
金谷治訳注『荘子』岩波文庫、全4冊
加藤徹『漢文力』(中公文庫、2007)755円
加藤徹『漢文で知る中国 名言が教える人生の知恵』(NHK出版、2021)1870円
第2回 『韓非子』――心理の機微をつく悪の人間関係学
『韓非子』は、人間の心理の落とし穴を鋭くつく、ゾクゾクする故事成語の宝庫です。矛盾、株を守りて兎を待つ、三人虎を成す、逆鱗に触れる、余桃の罪、吮疽の仁、巧詐拙誠などの成語は、今もよく使います。紀元前3世紀、戦国時代の末に生まれた政治思想家である韓非は、下剋上の乱世で国家が生き残るためには、君主独裁しかない、と考えました。人間はしょせん、欲望に生きる動物。道徳心なぞには期待できない。そう考えた彼は、君主が面従腹背の部下を支配し、強力な国家を作るための権謀術数と悪の管理学を、自分の著作『韓非子』にまとめたのです。中国を統一した秦の始皇帝も感服したという『韓非子』の世界を、わかりやすく解説します。
YouTube https://www.youtube.com/playlist?list=PL6QLFvIY3e-mOj-6C86QCPJ_-VQA5OE5j
VIDEO
○ポイント、キーワード
単著(Book with a single author)
個人著作であり、自己完結型書籍である。対となる概念は、「世代累積型集団創作」による書物や、共著、職務著作(work made for hire)など。
現行の『韓非子』は、著者・韓非の個人著作部分と、後世のエディターシップによる職務著作的部分からなる。
マキャヴェリズム Machiavellianism
国益のためには非常の手段や権謀術数も辞さない、という考えかた。
○この本に由来する成語や熟語の例
【あ行】蟻の穴から堤も崩れる 郢書燕説(えいしょえんせつ) 遠水は近火を救わず
【か行】画鬼最易 和氏の璧 株を守る(守株待兎) 魏民習射 逆鱗に触れる 毛を吹いて疵を求む 巧詐は拙誠に如かず 口中の虱
【さ行】三人虎を成す 崇門の巷人 吮疽の仁
【た行】玉の杯底無きが如し 長夜の飲 虎に翼 駑馬(どば)をみるを教う
【は行】百束の布を祷る(祷百束布) 茅茨剪らず采椽削らず
【ま行】矛盾
【や行】余桃の罪
【ら・わ行】濫竽充数 老馬の智
参考 四字熟語集
○辞書的な説明
『ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典』より引用
韓非子 かんぴし Han Fei-zi [生]? [没]始皇帝14(前233)
中国,戦国時代末期の韓の思想家。法家 。子は敬称,またはその著書をさすのに用いる語。
韓の弱体に発奮して法家思想をきわめた 。荀子に学び,申不害,慎到,商鞅らの法家思想を大成。
荀子の性悪説を人性利己説に徹底させ,また老子の無為自然説を君主の絶対権力の理論と臣下操縦術 に実用化し,儒学の礼楽による徳治を退け,法律,刑罰を絶対化し,信賞必罰を説き,富国強兵と中央集権強化をはかった 。
秦に使して,李斯に毒殺された。
その説は秦始皇帝の帝国統一の理論として役立った。その著作とされる『韓非子』には後世付加の部分が多い。この書は唐代までは韓子と称したが韓愈との混同をさけるため,宗代以後は韓非子と称せられた。
『世界大百科事典 第2版』より引用
かんびし【韓非子 Hán Fēi zǐ】
中国,戦国末の思想家韓非(?‐前234?)の言説を集めた書。20巻55編。
すべてが韓非の自著ではなく,後学のものも含まれているが,孤憤・説難(ぜいなん)・和氏(かし)・姦劫弑臣(かんきようししん)・五蠹(ごと)・顕学の諸篇はもっとも真に近い 。
秦の始皇帝は孤憤・五蠹の篇を読んで,いたく感激し,この人に会って交際を結ぶことができたら,死んでも思い残すことはない,と漏らしたという。
《韓非子》では,人民は支配と搾取の対象であり,君主に奉仕すべきものとされる。
『デジタル大辞泉』より引用
ほう‐か〔ハフ‐〕【法家】
1 法律学者。法律家。
2 中国、戦国時代の諸子百家の一。法による厳格な政治を行い、君主の権力を強化し、富国強兵をはかろうとする政治思想。また、その説を説く学者。申不害・商鞅(しょうおう)から韓非(かんぴ)によって大成された。
○選読
漢間の地を請う かんかんのちをこう 喩老第二十一
楚の荘王は、敵国との戦いに勝利した褒美として、楚の公族で宰相だった孫叔敖に土地を与えることにした。孫叔敖はわざと、砂や石が多い荒れ地をもらった。
楚の法では土地は二代で国に返納するきまりだったが、孫叔敖がもらった土地は荒れ地だったのでお目こぼしとなり、九代のちの子孫まで孫叔敖の祭祀は絶えることがなかった。
【関連項目】 足るを知る
象牙の箸 ぞうげのはし 喩老第二十一
殷の紂王が、象牙の箸を作らせた。賢臣である箕子(きし)は心配した。「象牙の箸に素焼きの土器は似合わない。きっと犀の角や玉で作った豪華な食器が欲しくなる。食器が豪華になれば、質素な食事をやめて、豪華な山海の珍味が欲しくなる。
そんな生活になれば、建物や衣服もぜいたくになる」。箕子の予見どおり、紂王はその後、酒池肉林のぜいたくを行い、殷は滅亡した。
【関連項目】 酒池肉林
子罕、玉を辞す しかん、ぎょくをじす 喩老第二十一
宋の田舎の男が、宝玉の原石を見つけて、子罕(しかん)という人物に献上しようとした。
子罕は断った。男が「これはすばらしい宝物です。
あなたのような人物がもつべきです」と言うと、「きみにとっては、それが宝物なのだろう。でも私にとっては、他人からむやみに宝物をもらわないことが、宝物なのだ」。
【関連項目】 清廉潔白
蚤蝨 そうしつ 説林上第二十二
孔子が仕官を求めて諸国をめぐっていたころの話。
宋の国で、子圉(しぎょ)という人物が、孔子を宋の宰相とひきあわせた。
孔子が退出すると、宰相は子圉に「孔子はすばらしい。孔子に会ったあとでそなたを見ると、まるでノミかシラミみたいに見える。さっそくわが君に孔子を引見していただこう」と言った。
子圉は「わが君が孔子をごらんになられたら、きっと、あなたさまがノミかシラミみたいに見えることでしょうねえ」と言った。
結局、孔子は宋でも就職に失敗した。
【関連項目】 採用人事
涸沢の蛇 こたくのへび 説林上第二十二
越王句践(こうせん)の臣下であった范蠡(はんれい)は、鴟夷子皮(しいしひ)と改名して斉の国で富豪となった。
斉の貴族であった田成子が、燕に亡命した。鴟夷子皮は田成子につき従った。彼は言った。
「ここは、涸沢の蛇の知恵で乗り切りましょう。昔々、ある沢の水がかれはてました。住んでいた蛇たちは引越しをしました。
小さな蛇が、大きな蛇にむかって言いました。『ふつうに道を進んで人間どもに見つかったら、みんな殺されちまうぞ。ここはひとつ、芝居をしよう』。
蛇たちは互いの尻尾を加えあい、小さな蛇はその上にチョコンと乗り、堂々と進みました。
それを見た人間は、てっきり『これは神さまの使いに違いない』と思い、道をゆずりました。――さて、あなたさまは貴族です。私は富豪ですが、身分は庶民です」
鴟夷子皮は主人を、田成子は下男を演じながら、亡命の旅を続けた。
宿泊先の旅館はどこも「この主人はきっと、ただものではない。もしや、どこぞの王様がおしのびで旅行しているのか」とかんぐり、酒や肉でていちょうにもてなした。
【関連項目】 無中に有を生ず
老馬の智 ろうばのち 説林上第二十二
斉の桓公が、孤竹国に遠征した。行きと帰りで季節が違い、道に迷った。臣下の管仲は、年老いた馬を放した。馬のあとを遠征軍がついてゆくと、正しい道が見つかった。
山中を行軍していると、水がなくなった。臣下の隰朋(しっぽう)は、蟻塚の下には地下水があるはず、という故知を使い、地面を掘って水を得た。
管仲や隰朋のような賢い人さえ、ウマやアリを先生とすることをはばからなかった。今の人々が、聖人の知恵を尊重しないのは、おかしい。
【関連項目】 暗黙知
巧詐は拙誠に如かず こうさはせっせいにしかず 説林上第二十二
魏の将軍・楽羊(がくよう)が、中山国を攻めた。楽羊の息子は、たまたま中山国にいた。中山国の君主は、楽羊の息子を殺して肉汁にしたうえ、それを楽羊に贈った。
楽羊は陣地でそれをすすって食べてみせた。
魏の文侯が感心して臣下に「楽羊はわしのために、自分の子の肉を食べよった」と言った。
臣下は「自分の子の肉すら食べるのですが、いざとなったら、誰の肉でも食べるでしょうね」と言った。
楽羊が凱旋すると、文侯は賞を与えたが、楽羊の心の底を疑った。
これと対照的な話。魯の大夫・孟孫は、狩猟で子鹿をつかまえた。家臣の秦西巴に、先に車で持ち帰らせた。
母鹿が追って、悲しげに鳴いた。秦西巴は同情して、独断で子鹿を逃がしてやった。あとでそれを知った孟孫は激怒し、秦西巴を追い出した。
それから3ヶ月後、孟孫は秦西巴を呼び戻し、自分の息子の守り役にした。「あいつは、子鹿にさえやさしいやつだ。俺の子にも、やさしくしてくれるはずだ」。
巧みな詐術は、結局のところ、不器用な真心には及ばない。親の自然の情を押し殺してわが子の肉汁をすすって見せた楽羊は、功績をあげたのに、主君に疑われた。人間の自然の情にしたがった秦西巴は、いったんは主君に嫌われたが、結局は信用をかちとった。
【関連項目】 陸軍中野学校の教え「謀略は誠なり」
衛人嫁女 えいひと、むすめをかす 説林上第二十二
衛の国の父親が、これから嫁ぐ娘に言った。
「ヘソクリは絶対に必要だぞ。離婚は世の常だから、そなえておけ。」
娘は、嫁ぎ先で、せっせとヘソクリをした。しゅうとめに嫌われ、離縁された。実家に戻ってきた娘は、たくさんお金を持っていた。父親は「さすがはわが娘。よくやった」と喜んだ。
いまどきの役人は、みなこの類いである。
【関連項目】 健康のためなら死んでもいい
鱣は蛇に似たり、蚕は蠋に似たり せんはへびににたり、かいこはしょくににたり 説林下第二十三
「鱣」つまりウナギ(ウミヘビ説もある)はヘビに似てる。カイコは毛虫に似てる。人は、ヘビもカイコも「気持ち悪い」と思う。なのに、漁師はウナギを手でつかみ、農婦はカイコを指でつまむ。
利益があれば、人はみな勇士になるのだ。
【関連項目】 モチベーション
駑馬は日〻に售れ其の利は急なり どばはひびにうれそのりはきゅうなり 説林下第二十三
馬の鑑定人である伯楽は、気に入らない弟子には千里の馬の鑑別法を教えた。気に入った弟子には駑馬つまりふつうの平凡な馬の鑑別法を教えた。
一日に千里をかける名馬はめったにいないから、利益は一時的だ。ふつうの平凡な馬は毎日、確実に売れるから、薄利多売でもうかる。
【関連項目】 薄利多売
能く鹿をさえぎる よくしかをさえぎる 説林下第二十三
春秋戦国時代、馬車を馭する技術は重要だった。
馬車を馭するのがうまい男が、楚王に目通りを願った。王に仕える馬飼たちは、男の技術に嫉妬し、取り次がなかった。
そこで男は「自分は鹿を待ち伏せできます」と自分を売り込み、楚王にお目通りした。王が馭者になると鹿には追いつけない。
男が馭者になると鹿に追いつけた。王は男の技を気に入った。
男は、自分は本職は馭者であること、王のまわりの馬飼たちの嫉妬のせいで最初はお目通りができなかったことを打ち明けた。
【関連項目】 からめ手から攻める
中立 説林下第二十三
戦国時代の韓と魏と趙の三国は、春秋時代の晋が分裂してできた国である。
韓と趙の関係が険悪になった。韓の君主は、魏の文侯に「援軍を貸してください。趙を討ちたいのです」と申し込んだ。
魏の文侯は「わが国と趙は兄弟の国です。それはできません」と断った。使者は怒って帰国した。
趙も魏に援軍を要請した。文侯は「わが国と韓は兄弟の国です。それはできません」と断った。使者は怒って帰国した。
その後、韓と趙は、魏の文侯がどちらの国との戦争にも反対していたことを知った。韓と趙は、魏の文侯に使いを送って感謝した。
【関連項目】 厳正中立、好意的中立
濫竽充数 らんうじゅうすう 内儲説上第三十
斉の宣王は、竽(う)という楽器の合奏を好んだ。いつも三百人の楽隊が合奏した。宣王が亡くなると、子の湣王が即位した。湣王は独奏を好んだ。多くの奏者が逃げ出した。
【関連項目】 嚢中(のうちゅう)の錐
鄭袖の讒言 ていしゅうのざんげん 内儲説下第三十一
楚王に鄭袖という名の側室がいた。楚王は新しい美女を手にいれた。鄭袖は美女に「王さまは、女性が口もとを手でおおう姿がお好みです」と教えた。美女は、王の近くによると、手で口をおおった。
楚王は、鄭袖にわけを聞いた。鄭袖は「あの子は、王さまは臭い、と申してましたよ」と答えた。楚王は怒って、美女の鼻を刀で切り落とさせた。
【関連項目】 中傷
犬馬最も難し けんばもっともかたし 外儲説左上第三十二
斉王が、絵の得意な食客にきいた。「いちばん描くのが難しいのは、何か」「犬と馬でございます」「いちばん描くのがやさしいのは、何か」
「お化けでございます。犬や馬は毎日、誰もが見慣れておるものなので、リアルに描くの難しいのです。お化けは、見たことがある人は少ないので、描きやすいのです」
【関連項目】 紙幣の顔
吮疽の仁 せんしょのじん 外儲説左上第三十二
呉起は、かの孫子とならび称される兵法家だ。呉起が将軍となって敵国を攻めたとき、部下の兵士の背中に、はれものができた。呉起は、その兵士のはれものの膿を吸ってやった。その兵士の母親は、それを聞いて泣いた。まわりの者が「息子さんは、呉起将軍に大事にしてもらって、幸せ者なのに、なぜ悲しむのか」と聞いた。
母親は「あの子の父親も、呉起将軍に背中の膿を吸ってもらって感激し、そのあと戦死しました。きっとあの子も、名誉の戦死をとげてしまうでしょう」
【関連項目】 過労死
郢書燕説 えいしょえんせつ 外儲説左上第三十二
郢は、南の楚の都である。燕は、北のさいはての国である。
郢の人が夜、燕の宰相あての手紙を書いた。暗かったので、近侍の者に「あかりを挙げよ(挙燭)」と言ったが、うっかりその言葉を手紙に書いてしまった。手紙を受け取った燕の宰相は「これは、賢い人材を登用せよ、という意味なのだろう」と解釈し、燕王に人材登用を進言した。その結果、燕は栄えた。いまどきの学者の説は、このたぐいが多い。
【関連項目】 瓢箪から駒が出る
買履取度 リをかうにドをとる 外儲説左上第三十二
鄭に愚かな男がいた。市場の店に行き、靴を買おうとした。男は、あらかじめ自宅で自分の足のサイズを測って書いておいたのに、そのメモをうっかり自宅に忘れた。自宅に戻ってメモを持って、ふたたび店にきたが、もう閉店していた。
男からその話をきいた人が「自分の足を靴にあわせてみればよかったじゃないか」と言うと、男は「自分の足よりメモのほうが信用できる」と答えた。
【関連項目】 マニュアル至上主義
車を釈てて走る くるまをすててはしる 外儲説左上第三十二
斉の景公が海辺に旅行して、遊んだ。都から急使がきて「宰相の晏嬰(あんえい)さまが危篤です」と伝えた。
景公は驚き「急いで名馬と名馭;者で、最速の馬車をしたてよ」と命じた。数百歩の距離を馬車で走ると、馭者の手綱さばきが遅い、と馭者の手から手綱をもぎとって自分で馬車を駆った。
さらに数百歩すすむと、今度は、馬の足が遅い、と言って、馬車を降りて自分の足で駈けだした。
【関連項目】 がんの「標準治療」
子皐の徳 しこうのとく 外儲説左下第三十三
孔子の弟子である子皐は、正しい人だった。彼は衛の国で裁判官となった。衛の君主は暗君だった。「孔子と弟子たちは反乱をたくらんでいます」という讒言を信じ、一斉逮捕を命じた。孔子の一門は逃げた。
子皐は逃げ遅れた。都の門はすでに閉まっていた。門番は、かつて子皐が足切りの刑を宣告した男だった。その門番は、子皐を隠し部屋にかくまった。
「私に復讐する絶好のチャンスなのに、なぜ命をかけて私を助けてくれるのか」と子皐がきくと、門番は答えた。
「私はたしかに罪を犯しました。刑罰は当然です。私は覚えています。あなたは裁判で、法律を吟味し、少しでも私の刑を軽くできないか、努力してくださいました。
刑が確定したとき、あなたの顔には、おつらい気持ちがにじみでていました。あなたは、やさしい、徳のあるかたです」
【関連項目】 「星空の上で神は裁く、我等がどう裁いたかを」フリードリヒ・フォン・シラーの詩『歓喜に寄せて』
守株待兎 しゅしゅたいと 五蠹第四十九
宋の国の農夫が、畑を耕していた。ウサギが走ってきて、切り株にぶつかり、首の骨を折って死んだ。農夫は鋤を置いて農作業をやめ、次にまたウサギが切り株にぶつかるのを待った。だが、そんな幸運が続くはずもなかった。農夫は国中の笑いものとなった。
いにしえの先王のまつりごとを手本として、現代の人民を治めよ、という考えは、これと同じくらい愚かである。
【関連項目】 ビギナーズラック
○参考図書
金谷治訳注『韓非子』岩波文庫、全4冊
加藤徹『漢文力』(中公文庫、2007)755円
加藤徹『漢文で知る中国 名言が教える人生の知恵』(NHK出版、2021)1870円
第3回 『戦国策』――乱世で生き残るためのパワーワードの数々
自分が生きるなら平和な時代がいいですが、本で読むなら戦乱の時代が面白い。古代中国の戦国時代は、国家も個人も、勝ち残るためにありったけの知恵をしぼった時代でした。蛇足、虎の威を借る狐、漁父の利、隗より始めよ、死馬の骨を買う、百里を行く者は九十里を半ばとす、騏も老いぬれば駑馬に劣る、などは、単なるたとえばなしではなく、それぞれ緊迫した状況の中で相手を説得するために使われた「パワーワード」だったのです。例えば「蛇足」は、侵攻した敵軍の司令官の心を動かし、敵軍を引き返させるのに使われたパワーワードでした。生きるか死ぬか、存亡をかけた『戦国策』の成語の魅力と歴史的背景を、予備知識のないかたにもわかりやすく説き明かします。
YouTube https://www.youtube.com/playlist?list=PL6QLFvIY3e-lNgqyTedzrIqq5SSwK673k
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○ポイント、キーワード
春秋戦国時代
春秋時代と戦国時代の名称は書物に由来し、それぞれ、孔子が編纂した史書『春秋』 と、漢の学者・劉向が編纂した史書『戦国策』の書名による。
日本での受容
日本では9世紀後半の藤原佐世『日本国見在書目録』に見える。江戸時代に入ると軍学ブームが起こり、林羅山はじめ多くの漢学者による訓点本が和刻本として出版された。
ただし、「純儒」(じゅんじゅ)は、権謀術数に満ちた『戦国策』を嫌った。例えば、学者の吉川幸次郎は『漢文の話』 (ちくま文庫)の中で、 『戦国策』は江戸時代によく読まれたらしいが自分は読んだことがないので紹介をさしひかえる、と明言した。
○この本に由来する成語や熟語の例
【あ行】 市に虎あり 倚門の望
【か行】 隗より始めよ 漁父の利 騏も老いぬれば駑馬(どば)に劣る 群羊を駆って猛虎を攻む
【さ行】 死馬の骨を買う 傷弓の鳥
【た行】 蛇足 朝名市利 虎の威を借る狐
【は行】 百里を行く者は九十(くじゅう)を半ばとす
【ま行】 門前市を成す
○辞書的な説明
『日本大百科全書(ニッポニカ)』より引用
戦国策 せんごくさく
中国、前漢末に劉向(りゅうきょう)が編纂(へんさん)した書。
劉向が天子の書庫の蔵書を整理したとき、「国策」「国事」「短長」「修書」などと題する竹簡の残余があり、みな戦国のときの遊説(ゆうぜい)の士が、国々の政治への参与を企てその国のためにたてた策謀であったので、
劉向は国別にしたものに基づいて、ほぼ年代順に整え、重複を削り、一書33篇(へん)とし『戦国策』と名づけた。
後漢(ごかん)の高誘(こうゆう)が注したが、北宋(ほくそう)の初めには多く散逸していたのを曽鞏(そうきょう)がほぼ復原し、南宋(なんそう)の姚宏(ようこう)が刻した(1146)。
別に鮑彪(ほうひゅう)は個々の物語の年次を考えて篇章を移し替え、かつ自ら注した本を刻した(1147)。
姚本は全33巻、鮑本は全10巻。鮑本には元の呉(ご)師道の校注がある(1365刊)。
多く蘇秦(そしん)・張儀(ちょうぎ)らに託して記される権謀術策 は、奇知縦横の言論の習錬を意図するようで、史実には関心薄く、小説的でさえある。
その文章は『史記』とともに古文家の範 とされる。1973〜74年長沙馬王堆(ちょうさまおうたい)3号墓から出土した帛書(はくしょ)(うす絹に書かれた文字)のなかに劉向編定以前の「戦国策原本」がみられる。
[近藤光男]
『ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典』より引用
戦国策 せんごくさく Zhan-guo-ce
中国,周の安王 (前 402即位) から秦の始皇帝にいたるまでの約 250年間の縦横家の権謀術策 を 12ヵ国に分けて書いた書。
中国古代の「戦国時代」という呼称は,この本に由来する 。
著者は未詳であるが,漢の劉向が,当時の史料により編集し,『戦国策』と名づけた。
『史記』の記述と合致するものが少くない。貴重な史料であるばかりでなく,人間の闘争の表裏を達意の文章で示している 。
後漢の高誘が注を加えた 33巻本があったが,そののち半分近くが散逸。
現在は宋の曾鞏 (そうきょう) や姚宏 (ようこう) が校定した 10巻本によっている。
「野村證券・証券用語解説集」のサイトより引用。閲覧日2022年11月24日
https://www.nomura.co.jp/terms/japan/ka/A03114.html
合従連衡(がっしょうれんこう) 分類:相場・格言・由来
その時の状況や利害に従って、国や組織、企業などが結びついたり離れたりすること。または、そうした駆け引きや外交戦略のこと。
もとは中国・戦国時代に策士が唱えた外交政策。
合従は「南北を連合させる」の意で、南北に連なる6国が同盟を組み、強国・秦に対抗した政策。
連衡は「横に連ねる」の意で、秦はこれら6国のそれぞれと個別に同盟を結ぶことで協力関係を分断し、合従策を封じたとされる。
『日本大百科全書(ニッポニカ)』より引用
合従連衡 がっしょうれんこう
中国、戦国時代の外交政策。
合従とは「南北を連合させる」の意であり、紀元前4世紀末、燕(えん)に仕えた蘇秦(そしん)(?―前317)が、趙(ちょう)、韓(かん)、魏(ぎ)、斉(せい)、楚(そ)の諸国にそれぞれ説いて、
6国で南北に連なる同盟を実現させ、西方の強国秦(しん)に対抗した政策をいう。
蘇秦はまもなく6国の宰相を兼ね、連合軍を組織して秦を攻めたが敗れた。しかし、この連合のため秦は十数年間、東方進出を阻まれた。
連衡とは「横に連ねる」の意であり、蘇秦と同門の張儀(ちょうぎ)(?―前309)が組織した同盟である。
張儀は秦の宰相となり、合従を破って東方の6国をばらばらにし、いずれかの国と秦と個別に同盟を結ぶことによって、孤立した他の国々を別々に威圧、攻撃する方針をとった。
秦と他の6国がそれぞれ東西に結ぶことからこうよばれる。しかし、まもなくこの策も破れて張儀は失脚した。
蘇秦、張儀はこのような外交策を弄(ろう)した弁説家であるため、「縦横家(じゅうおうか)」とよばれている。
[太田幸男]
○選読
参考サイト https://ja.wikibooks.org/wiki/高等学校古文/散文・説話/戦国策#現代語訳_3
蛇足 だそく 斉策 明治書院・新釈漢文大系『戦国策』(以下「新釈」)上p.402-
楚の将軍・昭陽は、魏に進攻して大勝利をおさめると、余勢をかって斉にも攻め込もうとした。斉はパニック状態になった。
論客の陳軫(ちんしん)は、斉王の依頼を受け、昭陽と会見して言った。
「大勝利、おめでとうございます。あなたさまは楚に凱旋されたら、軍人として最高の位に出世なされることでしょう。それより上の位は、ありますか?」
「宰相の職がある」
「たしかに。ただ、宰相は貴国にすでにいらっしゃるので、楚王もあなたを宰相に昇進させることはできますまい。というわけで、あなたさまはすでに、この上ない出世が約束されたわけです。
さて、こんな話がございます。
楚の人が先祖を祭る行事をしました。下男たちは、祭りのおさがりの酒をもらいました。男たちは言いました。
『数人で飲むにゃあ足りねえが、一人で飲むならじゅうぶんだ。で、どうだい、地面にヘビの絵をかいて、いちばん先にかけた者が酒を飲む、ってのは』
男たちは地面にヘビを書きました。さいしょにかき終えた男は、酒の器を左手でぐいっと持ちながら、
『おまえら、とろいな。俺は、ヘビの足を余裕でかきたせるぞ』
と言って、右手でヘビに足を書き添えました。すると、二番目にヘビをかきおえた男が、酒の器を奪い取って言いました。
『ヘビに足があってたまるか。てめえがかいたのは、ヘビじゃねえ』
蛇足をかいた男は、こうして、余計なことをしたばかりに、酒を飲めなかったのです。
いま、あなたさまは、魏の攻略に成功して、大勝利をおさめられました。このまま凱旋なされば、最高の栄誉が得られましょう。
もし、ひきつづき斉を攻めても、これ以上の出世はできません。また、斉と戦争になれば、あなたさまの軍隊にも損害が出るでしょう。ヘビの足をかくのと、おなじになってしまいかねません」
昭陽は「なるほど」と思い、斉を攻めるのをやめて、引き返した。
【関連項目】 勝ち逃げ
七珥を献ず しちじをけんず 斉策 新釈上p.440
斉の宣王の正室が亡くなった。七人の側室がいた。宣王がどの女性を最も寵愛しているのか、王はポーカーフェイスをきめこんでいた。
斉の王族で有力者政治家の孟嘗君は、七対の耳飾りを宣王に献上した。一対だけ特に美しかった。
翌日、孟嘗君は、最も美しい耳飾りをつけた側室を見つけ、彼女を正室に立てるよう、宣王にすすめた。
【関連項目】 天意、測るべからず
禍を転じて功と為す わざわいをてんじてこうとなす 斉策 新釈上p.449
孟嘗君は、多数の食客をかかえていた。そのうちの一人が、孟嘗君の夫人と不倫関係になった。それを、ある人が孟嘗君に密告した。
「とんでもないやつです。殺しちゃいましょう」
「・・・まあ、美男美女がたがいにひかれあうのは、人間の自然の情というものだ。ほうっておけ。もう言うな」
一年後、孟嘗君は、間男を呼び出した。
「斉にいても、君はなかなか高官になれない。そこでどうかね、衛で仕官するというのは。衛の君主は私の親友だ。旅行用の車馬と手土産は、私が用意するから」
間男は衛に移籍し、出世した。
その後、斉と衛の関係は悪化した。衛の君主は、他国の連合軍を集めて斉を攻めようとした。元・間男は、必死で説得した。
「斉衛両国のご先祖は、不戦の誓いを立てられました。ご先祖の誓いを、破らないでください。
もし、私の言葉をお聞きとどけくださらぬなら、私はこの場で自分の首を切って、血をあなたさまに注ぎますぞ」
両国の戦争は回避された。斉の人々は、
「孟嘗君は、ことの処理が上手なかただなあ。わざわいを転じて大きな功を立てられた」
と語り合った。
【関連項目】 一度の裏切りは許した織田信長
虎の威を借る狐 とらのいをかるきつね 楚策 新釈中p.552
楚の宣王が、群臣にたずねた。
「北方の国々は、わが国の宰相である昭奚恤(しょうけいじゅつ)をおそれている、という噂は、ほんとうか」
群臣は黙っていた。魏から来た江乙(こういつ)という者が答えた。
「虎は、百獣をもとめて、これを食べます。あるとき、狐をつかえました。狐は言いました。
『わたしを食べてはなりません。天帝は私を百獣の長となさったのです。もし、わたしを食べたなら、天帝のご命令にそむくことになりますよ。
もし、ウソだとお思いなら、よろしい、わたしのあとについてきてください。
百獣はわたしの姿を見たら、みんな、おそれおおいと思って逃げますから』
虎は「なるほど」と思い、狐のうしろについて歩きました。獣たちはそれを見て、みな逃げました。
虎はてってきり『狐をおそれているのだな』と思い込みました。獣たちが、ほんとうは自分をおそれていることに、気づきませんでした。
さて、楚の王さまは、五千里四方の広大な領土と、百万の大軍をおもちですが、これを昭奚恤にまかせております。
北方の国々が奚恤を恐れている、というのは、ほんとうは彼ではなく、王さまの軍隊をおそれているのです。
森の獣たちが、狐ではなく、虎をおそれたのと同じことなのです」
【関連項目】 菊池寛の短編小説「形」 https://www.aozora.gr.jp/cards/000083/files/4306_19830.html
漁夫の利 ぎょふのり 燕策 新釈下p.1315
趙が燕に戦争をしかけようとした。有名な縦横家の蘇秦の弟である蘇代は、燕のために、趙の恵王に説いた。
「今日、わたくしがここに来るまでに、易水の川を通りました。ちょうど、ドブ貝が口をあけて、ひなたぼっこをしていました。
シギがきて、クチバシでドブ貝の肉をつつきました。ドブ貝は貝がらをピタリと閉じて、シギのクチバシをはさみました。
シギは『今日、雨が降らず、明日も雨が降らねば、死んだドブ貝ができるぞ』と言いました。
ドブ貝も『今日、クチバシが抜けず、明日も抜けねば、おだぶつのシギができあがるぞ』と言いました。
両者とも意地をはってゆずりません。漁師がきて、両者をとらえました。
さて、趙は対燕戦争の口火を切る直前ですが、燕と趙の争いが長引けば、民は疲弊してしまうでしょう。
強大な秦が漁夫の利を得ることになるのでは、と、わたくしめは恐れます。
王さまにおかれましては、よくお考えください」
趙の恵王は「なるほど」と言い、戦争をやめた。
【関連項目】 鷸蚌之争(いつぼうのあらそい)
先ず隗より始めよ まずかいよりはじめよ 燕策 新釈下p.1264
「戦国の七雄」のなかでも、現在の北京一帯にあった燕は、辺境の弱国だった。
燕の昭王は、即位後、学者の郭隗にたずねた。
「先生。わたくしの悲願は、賢い人材を得て強い国をつくり、敵国を見返してやることです。どうしたらよいでしょうか」
「王さまが、へりくだってうやうやしい態度をとれば、天下の賢者があつまります。王さまが横柄な態度をとれば、くだらない人間しか来ないでしょう。
いにしえの聖王の道にまなびなさいませ。王さまみずから、賢者のもとを訪ね、出馬を乞うのです。
さすれば、天下の評判となり、すぐれた人材はむこうから燕にやってくるでしょう」
「では、わたしは誰を訪ねればよいのでしょう」
「それについては、こんな話がございます。
昔、ある王さまが、千金を払ってもいいから、一日に千里をかける名馬を手にいれたい、と思いました。
三年さがしても、手にはいりませんでした。宮中の小間使いが、
『買ってきます』
と言ったので、王さまは金を与えました。3ヶ月後、小間使いは千里の馬を見つけましたが、馬はすでに死んでました。
彼は五百金を払って、死んだ馬の頭部を買い、戻ってきました。
王さまは怒りました。
『生きた馬がほしいんだ。死んだ馬なんぞに、五百金も払うとは、アホか』
『いえいえ。これは広告費なのです。宣伝です。死んだ馬にさえ、五百金も払う。まして生きた馬なら――という噂が、きっと天下に広まります。
「あの王さまは、ほんとうに馬の価値がわかる人だ」
と天下の人々の評判になるはずです。
千里の馬は、むこうからやってきますよ』
はたして、一年もたたないうちに、千里の馬の売り込みが三件もあったそうです。
さて、王さま。もし、ほんきで人材をお求めでしたら、まず、この隗からおはじめください。
『郭隗ていどの人間でも、燕では重用されている。まして、もっとすぐれた人材なら――』
という評判が立ち、天下の賢士たちは千里を遠しとせずに、わが国をめざしてやってくるでしょう」
昭王は、郭隗のために宮殿をきずき、師と仰いでつかえた。
はたして、魏の国から伝説の名将である楽毅(がっき)が、斉の国から陰陽家の学者である鄒衍(すうえん)が、
趙の国からは将軍の劇辛が、その他、すぐれた人材が続々と燕の国にやってきた。
昭王は人民と甘苦を共にすること二十八年、燕は強国に生まれ変わった。
【関連項目】 ロールモデル
鎌倉初期の説話集『古事談』によると、あるとき殿上人が、引退後の清少納言の家の前を通りかかり、
「ひどいねえ。清少納言も落ちぶれたもんだねえ」と口にしたところ、
すだれがパッとあいて、鬼のような尼が顔を出し「駿馬の骨をば買はずやありし(駿馬の骨を買った人もいるよ)」と言い返したという。
秦は大国なり しんはたいこくなり 韓策 新釈下p.1202
秦は大国だった。韓は小国だった。韓は、内心では嫌秦だった。秦は、露骨な親韓だった。
韓は、秦への対応を考えたすえに、秦にお金を贈ることにした。そのお金を工面するために、韓は自国の美女を外国に売ることにした。
美女の値段は高くて、諸侯には手が出なかった。結局、大国である秦が三千金で美女を買い取った。
韓は、その三千金を秦に贈った。
韓から秦に売られた美女たちは、韓を恨み、韓は実は秦をひどく嫌っている、という内実を明かした。
韓は、お金と美女を秦にささげたあげく、自国に不利な内情までつつぬけになってしまったのである。
ある論客は韓にアドバイスした。「節約して浮いたお金を、秦に贈るべきでしたね。そうすれば、
お金をもらった秦は喜び、韓が実は嫌秦だとは気づかなかったでしょう。
美女は国の秘密を知っているものです。計略に巧みな者は、自国の秘密を相手に知られぬようにするものです」
【関連項目】 美人の計(兵法三十六計のひとつ)
一杯の羊羹を以て国を亡す いっぱいのようこうをもってくにをほろぼす 中山策 新釈下p.1391
中山国は、中原にあったものの白狄の国であり、いわば漢民族の海の中に浮かぶ遊牧民族の孤島のような小国だった。
中山君(中山国の君主)が、宴会を開いた。羊の羹(あつもの)が足りなくなり、一部の臣下は食べられなかった。食べはぐれた司馬子期は怒って、南の楚に亡命し、
楚王に説いて中山国を討伐させた。中山国は敗れ、中山君は逃げた。
すると、二人の勇士が矛をもって中山君のあとを追ってきた。二人は言った。
「私たちの父は、かつて飢え死にしそうだったとき、あなたさまから一壺の食べ物をいただいたおかげで、生き延びました。
父はもう亡くなりましたが、臨終のとき、中山国にいくさがあれば必ず命をささげよ、と私たちに言い残しました。
わが君に命をささげます」
中山君は、天をあおいで嘆息した。
「人に与えるのに多いか少ないかは関係ないのだ。困っているときに与えるかどうかだ。人の恨みをかうのも実害が深いか浅いかは関係なのだ。相手の心を傷つけてしまうかどうかなのだ。
私は、たった一杯の羊のスープのせいで一国をほろぼし、たった一壺の食べ物で二人の士を得た」
【関連項目】 食い物の恨み、魯酒薄くして邯鄲囲まる(ろしゅうすくしてかんたんかこまる)
cf.「井伊直弼が暗殺された原因は食べ物の恨みだった!?」 https://www.touken-world.jp/tips/17898/
○参考図書
明治書院・新釈漢文大系47・48・49『戦国策』上中下
加藤徹『漢文力』(中公文庫、2007)755円
加藤徹『漢文で知る中国 名言が教える人生の知恵』(NHK出版、2021)1870円
第4回 禅語 ――雷撃のようなさとりの言葉
仏教の起源はインドですが、仏教の一派である禅宗は中国で確立し、日本に伝わりました。禅宗の祖師は、6世紀にインドから中国にわたってきた達磨(だるま)です。達磨と梁の武帝がかわした史上初の禅問答「無功徳」からはじまって、中国や日本の禅僧は、数々の禅問答や禅味に満ちた言葉に、さとりの境地をこめました。数ある禅語のうち、拈華微笑、無功徳、廓然無聖、不識、慧可断臂、達磨安心、本来無一物、非風非幡、曹源一滴水、日日是好日、庭前柏樹子、喫茶去などは、日本の茶道の茶室の掛け軸でもよく見かけます。日本の上杉謙信は達磨の「不識」という禅語を坐右の銘として、みずから「不識庵」と名乗りました。瞬発力に満ちた禅語の魅力と、その背景にある中国的な思考の特徴について、わかりやすく解説します。
YouTube https://www.youtube.com/playlist?list=PL6QLFvIY3e-lqYdhw9EJpyyFm0fK9qi8n
VIDEO
参考 国会図書館 無門関 https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2537644/36
○ポイント、キーワード
居士 こじ
現代日本では戒名の敬称の一つだが、本来は「在家の仏道修行者」で、漢訳仏典『維摩経』の主人公である古代インドの維摩居士(ゆいまこじ ヴィマラ・キールティ)が有名。
中国では、唐の時代に科挙の制度が定着し、「士大夫階級」が成立した。
その結果、唐の白居易(香山居士)や、北宋の蘇軾(そしょく。東坡居士=とうばこじ)のように、儒教的知識人でありながら仏教を学ぶ人々があらわれた。日本でも、千宗易(利休居士)などが有名。
禅師
現代中国語で僧侶のこと。中国仏教は「三武一宗の法難」など歴史的な試練を経て、宋代以降は禅宗だけが生き残り、その他の宗派は禅宗に吸収された。
念仏禅
中国仏教は宋代以降、「南無阿弥陀仏」ととなえる「念仏」と、「座禅」の二つを柱とする「念仏禅」になる。
僧侶やインテリな学問教養がある人には禅をすすめ、無学な庶民には念仏をすすめる、という傾向があった。
○禅の言葉のごく一部
【あ行】 以心伝心 慧可斷臂
【か行】 廓然無聖 喫茶去 好雪片片不落別処
【た行】 達磨安心
【な行】 日日是好日 拈華微笑
【は行】 非風非幡 不識 放下著
【ま行】 無功徳
【ら・わ行】 廬山煙雨 廬山真面目
○辞書的な説明
『日本大百科全書(ニッポニカ)』より引用
公案 こうあん
禅宗で、優れた禅者の言行を記して参禅学道の課題としたもの。「公府の案牘(あんどく)」の略で、公府は中国の役所の名、案牘は公文書の意。法書や公文書が万人の遵守すべき絶対的権威であったように、禅門では、仏祖の言句、動作、問答なども修行者のよるべき仏法の至理のたとえとして用いられた。古則(こそく)公案、因縁話頭(いんねんわとう)ともいう。元来は、祖師の言行を簡潔に記し、仏道修行上の指針手引としたものであったが、中国唐代にすでに語録として記録されている。宋(そう)代にはとくに臨済(りんざい)宗で、師家が学人を悟道(ごどう)に導くために、「趙州(じょうしゅう)無字」の公案などを学人に示して工夫参究させる禅風が盛行し、圜悟克勤(えんごこくごん)、大慧宗杲(だいえそうごう)らにより大成された。こうした公案を参究して段階的に修行者を大悟徹底させる禅風を公案禅、看話禅(かんなぜん)とよぶ。
公案集には『碧巌録(へきがんろく)』『従容録(しょうようろく)』『無門関』などがあり、また『景徳伝燈録(けいとくでんとうろく)』には1700余人の祖師の伝記があり、「千七百則の公案」と称されている。日本の禅宗も、初期の曹洞(そうとう)宗を除き大方は公案禅が採用され、その手引書も多くつくられた。その手引書を密参録(みっさんろく)あるいは門参(もんさん)という。
[石川力山]
『ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典』より引用
禅 ぜん zen
サンスクリット語dhyānaの音写で禅那とも書かれる。「禅」の原義は,(天子が) 神を祀る,(位を) 譲る,などで,これを仏教がかりたのである。
姿勢を正して坐して心を一つに集中する宗教的修行法の一つ。インドでは古くから行われていたが,仏教の基本的修行法に取入れられて中国に伝わり,禅宗として一宗派を形成した。
宗祖はインド僧菩提達磨とされるが,宗派として成立したのは6祖慧能から で,その跡を継ぎ中国禅宗五家が成立。
このうち宋代には臨済,雲門の2宗が栄え,臨済宗 は公案を手段とする看話禅を鼓舞し,雲門の系統をひく曹洞宗 は正身端坐の坐禅を重視する黙照禅を説いた。
日本には鎌倉時代に栄西により臨済宗,道元により曹洞宗が伝えられ ,江戸時代には中国僧隠元により明代の念仏禅 ,黄檗宗が伝えられた。
また江戸時代の白隠は公案を整理し,現在の臨済宗諸派の修行の基礎を築いた。
禅思想はインド仏教の般若,空の思想が老荘思想を精神的風土とする中国で変容され定着したもの で,坐禅の実践による人間の本性の直観的な把握を主張し,華道,茶道,書道,絵画,造園,武芸などの日本文化にも影響を与え,さらに最近は急速に海外からの関心を集めつつある。
『ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典』より引用
達磨 だるま [生]? [没]大通2 (528)
禅宗の初祖。6世紀初頭にインドから中国に渡り,『楞伽経(りょうがきょう)』を広めた菩提達摩 Bodhidharmaと同一人物とされているが,伝記中の事跡はかなり潤色,神秘化され,その実在すら疑われている 。
しかし現代では敦煌出土(→敦煌莫高窟)の資料から『二入四行論』ほかを説いたことなどが明らかにされている。
『続高僧伝』によれば,達磨は南インドのバラモンの家に生まれ,大乗仏教に志し,海路から中国に渡り,北方の魏に行った。梁の武帝 に召されて金陵に赴き,禅を教えたが,機縁がまだ熟していないのを知ってただちに去り,
洛陽東方の嵩山の少林寺 に入り,壁に向かって坐禅した(壁観)。
慧可が来て教えを求め,腕を切り取ってその誠を示したので,ついに一宗の心印を授けたという伝説がある。
壁観の面壁九年の伝説から,後世日本では手足のないだるま像がつくられ ,七転び八起きの諺となった。
『世界大百科事典 第2版』より引用
へきがんろく【碧巌録 Bì yán lù】
中国,宋代禅文学 の代表典籍。10巻。詳しくは,《仏果圜悟(えんご)禅師碧巌録》または《仏果碧巌破関撃節》という。
禅宗五家の一派,雲門宗4世の雪竇重顕(せつとうちようけん)が,仏祖の問答100則を選んで,頌をつけたものにもとづいて,
臨済宗楊岐4世の仏果禅師圜悟克勤が,それらの一句ごとに下語を加え,さらに全体について提唱したもの。
碧巌とは,仏果が原書を提唱した禅院の一つ,潭州夾山霊泉寺の開創にちなむ句より来ていて,
夾山の境地を問う僧に答えて,開山の善会が,〈猿は子を抱いて青嶂の後に帰り,鳥は花を銜(は)んで碧巌の前に落つ〉と歌ったのに基づく。
参考 中島久万吉 著『碧巌録講話』第1−4集(昭和18−19)
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1040797
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1040798
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1040801
http://www.shomonji.or.jp/soroku/hekiganroku/hekigan1.htm
http://www.shomonji.or.jp/soroku/hekiganroku/hekigan2.htm
『デジタル大辞泉』より引用
むもんかん ムモンクヮン【無門関】
中国、南宋 の禅書。一巻。無門慧開著。
一二二八年成立。すぐれた公案四八則を選び、これに頌と評唱を加えたもの。悟りへの道の手がかりとして、禅宗で、きわめて尊重される名著。
参考 http://yab.o.oo7.jp/mumon.html
『日本大百科全書(ニッポニカ)』より引用
慧能 えのう (638―713)
中国、唐代の僧。中国禅宗の第六祖 。俗姓は盧(ろ)氏。諡号(しごう)は大鑑真空普覚円明(だいかんしんくうふかくえんみょう)禅師。六祖(ろくそ)大師ともいわれる。
新州(広東(カントン)省)に生まれ、3歳で父を失い、市に薪(まき)を売って母を養っていたが、ある日、客の『金剛経』を誦(じゅ)するのを聞いて出家の志を抱き、
蘄州(きしゅう)(湖北省)黄梅(おうばい)の東山に禅宗第五祖、弘忍(こうにん)を尋ね、仏性(ぶっしょう)問答によって入門を許された。
8か月の碓房(たいぼう)(米ひき小屋)生活ののち、弘忍より大法を相伝し、南方に帰って猟家に隠れていたが、
676年(儀鳳1)南海法性寺(ほうしょうじ)にて印宗(いんしゅう)(627―713)法師の『涅槃経(ねはんぎょう)』を講ずる席にあい、風幡(ふうばん)問答 によって認められ、印宗によって剃髪(ていはつ)、受具した。
翌677年、韶州(しょうしゅう)(広東省)曹渓 (そうけい)の宝林寺に住し、禅法を発揚し、多くの信奉者を得た。
705年(神龍1)中宗(ちゅうそう)の招きにも病と称して行かず、先天2年8月3日新州にて寂した。
説法集『六祖壇経』 があり、その禅法は南頓 (なんとん)(南宗の頓悟(とんご)禅)とよばれ、神秀(じんしゅう)の北漸 (ほくぜん)(北宗の漸悟(ぜんご)禅)と並び称された。
門人に南岳懐譲(なんがくえじょう)、青原行思(せいげんぎょうし)、南陽慧忠(なんようえちゅう)(?―775)、司空本浄(しくうほんじょう)(667―761)、荷沢神会(かたくじんね)などを輩出し、後の五家(ごけ)七宗はすべてこの門より発展した 。
○選読
拈華微笑 ねんげみしょう 『大梵天王問仏決疑経』(偽経)
昔、釈尊が天竺の霊鷲山(りょうじゅせん)で、蓮華(れんげ)をかざし、人々に示した。
人々は意味がわからず黙っていた。ただひとり、釈尊の十大弟子の筆頭である迦葉(かしょう)だけが、釈尊の心を理解して微笑した。
釈尊は、言葉や文字では伝えることができない真理
「正法眼蔵涅槃妙心(しょうぼうげんぞうねはんみょうしん)、実相無相微妙法門(じっそうむそうみみょうほうもん)」を迦葉に伝えた。
【関連項目】 不立文字(ふりゅうもんじ)、以心伝心
廓然無聖 かくねんむしょう 碧巖録 第一則
達磨大師がインドから中国に来た。南北朝時代の梁の武帝(在位502−549)は、達磨にたずねた。
「聖諦の第一義とは何か」
「廓然無聖」
「朕とむかいあっているのは何者か」
「不識(しらず)」
達磨は、武帝のもとを去り、北魏にわたった。
(参考)(前略)梁の武帝、達磨大師に問う、如何なるか是れ聖諦第一義。磨云く、廓然無聖。
帝云く、朕に對する者は誰ぞ。磨云く、識らず。帝契わず。
達磨遂に江を渡って魏に至る。
(後略)
【関連項目】 無功徳(むくどく) 加藤徹の講座「梁の武帝――ダルマにやりこめられた皇帝菩薩 」
達磨安心 だるまあんじん 無門関 第四十一則
達磨は、岩の壁にむかって座禅した。二祖、すなわち中国禅の第二代目の高僧となる慧可(えか)が、雪の中に立ち、自分の腕を切断して言った。
「先生、わたしの心は不安でどうしようもないのです。どうか、私の心を安んじてくださいますよう」
「では、心をここに出しなさい。安んじてやろう」
「え? 心? ・・・心を探しましたが、取り出せません」
「ほれ、おまえさんの心を安んじてやったぞ」
(参考) 達磨、面壁す。二祖、雪に立つ。斷臂(だんぴ)して云く「弟子、心、未だ安んぜず、乞う、師、安心せしめよ。」と。磨云く「心を將(も)ち來れ、汝の爲に安(やす)んぜん。」と。祖云く「心を覓(もと)むるも了(つひ)に得べからず」と。磨云く「汝の爲に、安心、竟(をは)んぬ。」と。
【関連項目】 慧可斷臂図(えかだんぴず)
本来無一物 ほんらいむいちもつ 『六祖壇経』
禅の第五代目の高僧である五祖弘忍は、後継者である六祖を選ぶため、弟子たちに覚りの境地をかかせた。一番の秀才であった神秀(じんしゅう 606-706)は次の偈を寺の壁に書いた。
身是菩提樹 身はこれ菩提の樹
心如明鏡台 心は明鏡の台のごとし
時時勤払拭 時時に勤めて払拭せよ
勿使惹塵埃 塵埃を惹かしむなかれ
(この身はさとりの菩提樹そのもの。心は一点のない鏡のよう。いつもピカピカにみがいて、煩悩の塵でよごれないようにしよう)
この偈を見た人々は、神秀の境地の高さに驚嘆し、この偈を暗誦した。
寺の米ひき小屋で働いていた少年が、それを耳で聞いた。少年は僧侶ではなく、労働者だったが、自分の境地を偈に詠んでみた。字の読み書きができなかったので、僧侶に頼み、壁に書いてもらった。
菩提本無樹 菩提にもと樹なし
明鏡亦非台 明鏡もまた台に非ず
本来無一物 本来無一物
何処惹塵埃 何れの処にか塵埃をひかん
(さとりも、心も、実体はないのです。すべては空なのです。もともと何もないのです。だから煩悩の塵でよごれようもないのです)
この偈を読んだ弘忍は、夜中にこっそり少年(後の六祖慧能)を自分の部屋に入れて、少年を後継者として指名し、衣鉢(えはつ)を託したうえで寺から逃がした。
【関連項目】 修業時代の孫悟空と須菩提祖師
非風非幡 ひふうひはん 『無門関』『六祖壇経』ほか
中国のいちばん南、広州の寺で、説法会の旗をあげた。風で旗はパタパタゆらめいた。二人の僧が因果について議論を始めた。
「あれは旗が動いているのだ」
「いや、風が動いているのだ」
二人の僧の論議はどうどうめぐりだった。
そこにいた民間の男性が言った。
「風が動いているのでも、旗が動いているのでもありません。
おふたりの心が動いているのです」
二人の僧はゾッとして鳥肌が立った。この男性こそ、姿を隠していた六祖慧能だった。
(参考)六祖、因風颺刹幡。有二僧、対論。一云、幡動。一云、風動。往復曾未契理。祖云、不是風動、不是幡動、仁者心動。二僧悚然。
六祖。因みに風、刹幡(せつばん)を?(あ)ぐ。二僧有り、対論す。一(いつ)は云く「幡(はた)、動く。」と。一は云く「風、動く。」と。往復して曾て未だに理に契(かな)はず。祖云く「是れ、風、動くにあらず、是れ、幡、動くにあらず、仁者(じんしや)が心、動くなり。」と。二僧、悚然(しようぜん)たり。
【関連項目】
好雪片片、不落別処 こうせつへんぺん、べっしょにおちず 碧巖録 第四十二則
龐居士(?−815 ほうこじ)は在家の仏教信者だった。ある日、彼は禅の高僧・薬山惟儼(やくさん・いげん。745−828)を訪ねた。
彼が辞去するとき、薬山は十人の禅客(修行中の僧)に山門まで見送らせた。
雪がふっていた。龐居士は、空からふってくる雪を指して言った。
「いい雪だ。ひとひら、ひとひら、それぞれ行くべきところに落ちてゆく」
全という禅客が「どこに落ちますか?」ときいた。龐居士は禅客をビンタした。
「なにをするんですかッ!」
「おまえ、そんなんで禅客を自称するなんて、エンマ大王だって許さないぞ」
「あなたはどうなんですか」
龐居士はまたビンタして「眼は見るも盲の如く、口は説くも唖の如し」と言った。
【関連項目】 予定説
喫茶去 きっさこ 五灯会元(ごとうえげん)
趙州従諗(じょうしゅうじゅうしん 778−897)は、寺に来訪した修行僧にきいた。
「ここに来たことはあるかい?」
「いえ、はじめてです」
「では、茶を飲んでゆきなさい(喫茶去)」
別の修行僧がきた。
「ここに来たことはあるかい?」
「いえ、はじめてです」
「では、茶を飲んでゆきなさい(喫茶去)」
寺の院主(管理責任者)は趙州にきいた。
「来たことがある修行僧にお茶すすめて、来たことがない修行僧にもお茶をすすめる、とは、なぜですか?」
趙州は突然「院主!」と呼んだ。院主はハッとして「はい」と答えた。趙州は
「茶を飲んでゆきなさい」
と言った。
【関連項目】 「ここへ何度でも帰って来よう/ここで熱いお茶を飲もう」(谷川俊太郎の詩「地球へのピクニック 」)、日常茶飯事、キッサコ(薬師寺寛邦の僧侶ボーカルプロジェクト)
永沈苦海 ようちんくがい 『趙州禅師語録』壁観巻下436
ある老婆が趙州従諗にたずねた。
「このばばあは、女人五障の身でございます。どうすれば苦界に沈まずにすむでしょうか」
趙州は答えた。
「『すべての人が天国に生まれますよう。(そのために必要なら)このばばあは永遠に苦界に沈めてください』(と利他の祈りをすることじゃ)」
(参考)有婆子問「婆是五障之身、如何免得」。師云「『願一切人生天、願婆婆永沈苦海。』」
【関連項目】 『無量寿経』の重誓偈(三誓偈、四誓偈) ※この公案の解釈には諸説あります。[ひろさちや氏の解釈 (外部リンク)]
放下著(放下着) ほうげじゃく 『五家正宗賛』
趙州従諗に、修行僧がたずねた。
「長い修行のおかげで煩悩や妄想をすべて捨てられました。
これから先はどう修行したらいいのでしょう?」
「捨てなさい(放下著)」
「え? もう煩悩は何もないのに、何を捨てろとおっしゃるんですか?」
「それを捨てなさい。捨てられなければ、自我をかついで立ち去りなさい」
【関連項目】 空亦復空(くうやくぶくう)
日日是好日 にちにちこれこうにち/ひびこれこうじつ 碧巖録 第六則
雲門文偃(うんもん ぶんえん 864−949)は弟子たちに言った。
「月の半ば、十五日より前のことはもうきかない。十五日以後の心のもちかたについて、禅にかなった言葉を何か言ってみよ」
その後、自分で「日日是好日」と言った。
(参考)雲門、埀語して云く「十五日已前は汝に問はず、十五日已後、一句を道い將ち來れ」。自ら代って云く「日日是れ好日」。
【関連項目】 人間いつだって今がいちばん若いんだよ。
廬山の真面目 ろざんのしんめんもく 蘇軾(1037-1101)の漢詩「題西林壁」
横看成嶺側成峰 横より看れば嶺と成り 側よりは峰と成る
遠近高低無一同 遠近 高低 一として同じきは無し
不識廬山真面目 廬山の真面目を識らざるは
只縁身在此山中 只だ身の此の山中に在るに縁る
【題西林の大意】山の中にいると、どんどん新しい景色が見えてくる。なにがなんだかわからない。その理由は、自分がいままさに、ど真ん中で満喫しているからだ。
【読み方】ヨコよりミればレイとナり、ソバよりはホウとナる。/
エンキンコウテイ、イツとしてオナじきはナし。/
ロザンのシンメンモクをシらざるは、/
タだミのコのサンチュウにアるにヨる。
【注】西暦1084年、蘇軾が四十九歳の作。五年に及んだ流罪生活を終えた直後、立ち寄った先で詠んだ七言絶句。★題西林壁=廬山のふもとにあった西林寺の壁に書いた漢詩、という意味。★嶺・峰=訓読みはともに「みね」だが、この詩では、嶺は連嶺(連山。連峰。いくつも連なっている峰)、峰は独立峰の意。★真面目=シンメンモク、シンメンボク。ありのままの本当の姿。「まじめ」の意ではない。
【関連項目】 「青春時代が夢なんて/あとからほのぼの思うもの/青春時代のまんなかは/道に迷っているばかり」(阿久悠作詞「青春時代」)
廬山煙雨 ろざんはえんう 蘇軾の漢詩
廬山煙雨浙江潮 廬山は煙雨 浙江は潮
未到千般恨不消 未だ到らざれば 千般 恨み消えず
到得還来無別事 到り得て 還り来れば 別事無し
廬山烟雨浙江潮 廬山は煙雨 浙江は潮
【廬山煙雨の大意】 一度も体験できないと悔しい。いったん体験すると、たいしたことはない。そう、それが人生なのだ。
【読み方】ロザンエンウ。ホクソウ、ソショク。ロザンはエンウ、セッコウはウシオ。
イマだイタらざれぱセンパン、ウラみキえず。
イタりエてカエりキタればベツジナし。
ロザンはエンウ、セッコウはウシオ。
【注】蘇軾(蘇東坡)による禅詩。七言絶句。★廬山=江西省九江市南部にある名山。現在、ユネスコの世界遺産。霧雨にかすむ廬山と、浙江省の「銭塘江大潮」は、中国人なら誰もが一生に一度は行って見てみたいと思う天下の奇観であった。★到得還来無別事=実際に見に行き、帰ってきてみれば、何でもない。
【関連項目】 「ぢぢいと ばばあが / だまつて 湯にはいつている / 山の湯のくずの花 / 山の湯のくずの花」 (田中冬二の詩集『青い夜道』「くずの花」) この詩についての解説は「こちら(外部リンク) 」
○参考図書
蔡 志忠 (著), 和田 武司 (翻訳), 野末 陳平 (監修)『マンガ 禅の思想』講談社+α文庫、1998
西村恵信・訳注『無門関』岩波文庫、1994
加藤徹『漢文で知る中国 ─名言が教える人生の知恵 』(NHK出版、2021年1月25日、1,870円)
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